2015/11/05

スピリチュアル依存と中毒⑥

 「何事も、自分のせいにする人間だけが、
  運をつかみ、道を切り開いていくことができる。」


 「人生を変えたかったら、今すぐ はじめなさい。
  派手派手しく、大げさにやりなさい。
  例外はなしです。
  そして、イイワケはしないこと。」


 「あなたの不運の訳が判ったわ
  あなたが負け犬になりたがっているから
  敗北があなたを支配するのよ

  わたしには生まれたときから父親はいなかったけど
  それが不運だとは思わなかった
  自分にとって何か意味のあることだと思い続けてきたわ

  他人と違うというだけで負け犬になりたくなかったからよ

  何が起きたかの問題ではなくて、
  置かれた環境を自分がどう考えて生きるかの問題でしょう

  自分を価値のある人間だと信じるなら すべてが変わるわ」


                      本やコミックからの引用
                             メモノートより

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相手が見えない存在であることをいいことに、
何でも「霊」のせいにする人がいる。

"冤罪"を着せられた霊にとっては、とても迷惑な話だ。

確かに・・・憑依といって、
「霊」が生きている存在としての人間に、
あまり良くない影響、すなわち障りをもたらすことはままある。


"元"人間だった存在、人間が創った残留思念や生霊、
集合体無意識とも言われる、グループエレメンタル
(民族や国家といった、大多数の人間によって創られる想念体)
神と称されるエネルギー(思念)の塊の存在、
土地のエネルギー、モノに宿ったエネルギー、霊道や神の道
動物霊や、かつて使役として使われていた主を無くした存在たちetc…


目には見えないそれらが、
知らぬ間に、人に影響を及ぼしてしまうことが、あるにはあるけれども。

でも、大多数のケースにおいて、
影響を受けてしまう側すなわち「生きた人間」のほうに、
「外界や他人の影響を受けやすい」という問題が隠れているものである。

もちろん、
不可抗力でそうした影響下に置かれてしまう場合も決して少なくはないが、
影響を受けてしまう側が抱えている、
「意志力の弱さ(意志薄弱)」「流されやすさ(優柔不断)」
といった、人間としての力の弱さ、
自己をしっかりと確立させられていないという精神構造の問題が、
外部的要因としてのそれらを呼び寄せ、
自らの問題や人生の障害として、取り込んでいるケースが圧倒的なので。


例えば、先祖の因縁という問題がある。
「家」として象徴される「系譜」に蓄えられてしまった負のエネルギーのこと。
よくある判りやすい事例で言えば、
先祖の犯した罪や、それ故に他人から買った恨み、呪いなど。
(内輪もめや内紛など、身内から出たものも少なくはない)

確かにそのような問題は、子孫として生まれた人にとっては、
たまたまその家に生まれただけで、自分の犯した罪ではなく、
理不尽な言いがかりやとばっちりのように思えるだろう。

けれど、それすらも、その人にとっては
その家に生まれつく必要性があってのことだったりもする。
個人としてのカルマが、その「家」が背負ったカルマと類似であったり、
解消して向き合っていくためには(学びを得るためには)、
その環境がもっともふさわしく、
最適な課題を提供してくれてることはよくあることなので。

そういう意味では、「引き寄せられて」その家に生まれたのだから。


「運」や「生まれ」「霊たち(水子、地縛霊、浮遊霊)」、
「先祖や家系の因縁」や「土地の障り」などのせいにする前に・・・
(その中には過去生というカテゴリも含まれるだろう。
もちろん、生きている他の人、親や身内や環境、
国や行政など、自分以外の誰かや何かのせいにする以前に)

私たちは自分自身が抱えている問題について、
よくよく考えてみる必要性がある。


そうでなければ、
「見えない存在」をはじめとして、他人も含めた上での
自分に良くない影響を与えている外部的要因・・・そのような存在からの、
悪しき影響下から、脱出する方法は見つからないのだから。


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 「依存症や恐怖症を含め、人間のいろいろな習性は、
  たいてい100%、感情によって引き起こされている。
  依存症や恐怖症のように、強い習性となると、
  理知的な考え方は、感情的な考え方にまったく太刀打ちできない。」


 「感情的なバランスを欠いた人は、
  長い目で見ると、必ず自滅していく。」


 「クワランドが違えば、論理も違い、
  考え方も、行動も、その結果も違う。
  だが根底にある感情は同じだ。
  感情があるからこそ、人間なのだ。
  感情を持っていることを認識する。
  これは人間だから、できることだ。
 
  私たちの行動は、
  人間だれもが持っている様々な感情に、
  どう反応するかによって決まる。」


 「どんな欠点も、厚い壁も、
  何とか克服したいという気さえあれば、

 おのずから道は開ける。
  だが・・・道は開けても、先へ進めるかどうかは本人の努力次第だ。」


 「自分の欠点を知ることと、それを直すことは別だ。
  また、その早道など、あろうはずがない。」


 「交流原則の大原則は、過去と他人は変えられない、
  変えられるのは今の自分だけ。
  だから、不安もあれば、恐怖もある。失望もする。
  ならば、それらと上手く付き合っていけばいい」


 「病が肉体に現れたとき、
  それは克服するものではなくて
  経験すべきものとして、つきあって下さいよ

  いろんなことを試して、この方法じゃないな、と思ったら
  また別のことをやってみればいいんです」



~Be yourself no matter what they say.~
  訳:誰がなんと言おうとも、自分を見失わないんだ

ENGLISHMAN IN NEW YORK より



 「自分が『誰か』を、真に理解した人は、心の平安を得ます。
  彼らは何をやっても、全力投球できるし、
  やることすべてを楽しめるようになっているのです。」


 「人は、自ら投資したものからしか、何かを得ることはできない
  ・・・私の尊敬している人の言葉よ

  大事なのは世間の目じゃない
  私が私をわかっているってことよ
  もう以前の自分じゃないってことを・・・」


 「夢を実現させたいなら、
  まず自分の思考のクセやパターンを知ることだ」


 「自分が生まれてきた目的をはっきりと理解した人は、
  そうでない人に比べて、はるかに豊かになっている。」


 「自分を信頼できないがために、嫌いな仕事にしがみつく人生と、
  自分の才能を自分で発掘して、磨きをかけることに挑戦していく人生と、
  あなたはどちらの人生がいいでしょうか?」


 「幸せと豊かさとは、それを目標にしても、手に入れることはできない。
  幸せと豊かさは、
  その人なりのやり方で、多くの人に奉仕をした結果として
  自分らしく生きたことへのごほうびとして、やってくるものなのです。」


 「激情や苦悩の中からしか、感動は生まれないね。
  何かの成果を得ようとしたら、
  それに見合う犠牲や努力を払わねばならない。
  どんなに辛くとも、苦しくとも、
  逃げられないところへ自分を追い込んで、
  人は始めて、得がたいものを手に入れるんだね。」


 「学校でよい成績を取った人が
  実社会で必ずしも金持ちになるとは限らない・・・
  ・・・・との理由は、
  学問的な知性よりも、感情面の知性の力のほうが強いからだ。
  だからこそ、
  危険を冒し、間違いを犯して、そこから立ち直った人のほうが
  危険を恐れるあまり、間違いをしないことだけを学んできた人よりも、
  成功する確率が大きい。」


本やコミックからの引用
                              メモノートより

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ある人がいた。

親がアダルトチルドレンで、
依頼心の強い母親とは心を通わせることができなかった。
確かに家庭には、問題がないといえないこともないが、
中流以上の家の一人娘で、お小遣いには不自由もなく、
首都圏にある自宅からは、何処に出かけるにも不便はなかった。

彼女は幼少の頃から、
「誰も自分のことをわかってくれない」
という悩みを持っていた。

これは実のところは、「誰も私を愛してくれない」
という心の叫びであり、「もっと愛されたい」「理解して欲しい」
という欲求でもあったのだが・・・。
(親が自分の期待するような愛情を与えてくれないという不満)


さて、彼女は、
勉強が得意だったので、人に自慢できるような大学に入った。


就職難の中、悪戦苦闘はしたものの、
それでも最終的には外資系企業に期待されて就職をした。

しかし、社会での仕事は、学生時代のアルバイトとは違う。

まして総合職ならなおさら。

彼女はそこで、大きな壁にぶつかることになる。

与えられた仕事を仕上げることができず、会社を休みがちになり、
出社しても、適応性の無さからコミュニケーションも上手く行かず、
会社から休養を申し渡され、最終的には解雇処分になった。

つまり、彼女は、一般的にいう、使えない人。
勉強はできても、仕事のできない人なのであった。


彼女は周囲を見て、自分と比較するということをしない人だった。

周りの人が行っていることを観察して、それを取り入れたり、
真似したりするということができない・・・というか、

そのような発想、着眼点のない人だった。

人がやってることを見て、それを真似して、と言われても、
何のことか理解できないのか、その一瞬だけで終わってしまい、
他人の行っている作業から、何か学ぶということができない人だった。

これは一見、
AD/HD(注意欠陥/多動性障害)のような気がするが、
そうではないということだった。

そのあたりはそれはそれとしておいておくが・・・

(つまり、彼女は
「伝えたい」「判ってほしい」という、
人に気持ちを押し付けるような、
そんなコミュニケーションの取り方ばかりしてきたので、
他人の気持ちを「理解しよう」、人の話を「聞こう」という
視点がまったく育ってこなかった。
他人と意志を通い合わせるという能力、および
現実認識能力に障害的な欠陥があるのである。
しごく簡単に言えば、自己中なだけだが・・・

彼女は机上の方程式は理解できても、
他人の気持ちや考えは理解することができない。
人間の心を想像することができない人なのだ)



この人物は、その欠点すなわち問題ゆえ、
転職を繰り返しては、同じような状況に陥り、
仕事を解雇されるというパターンを繰り返すことになった。

仕事を覚えられず、作業をこなせず、周囲をいらつかせ、
それに耐え切れず、遅刻と早退、欠勤、長期休養・・・
最終的には解雇あるいは自主退職に追い込まれるという状況。


しかし、彼女はそれでも「問題」が自分にあるとは認めなかった。

いやさ、それを指摘されても、理解しようとはしなかった。
その部分には一切、耳を傾けず、
まるで聞こえていないかのように、スルーした。

自分の怠け癖、掃除だの洗濯だのができないことを、
会社にいけないこと、職場で上手く行かないことを、


「『霊』の影響を受けているせいだ」

・・・と、責任転嫁をした。


憑依体質だから・・・と。


それを言い訳にして、自らの「甘え」の問題、
人間としてのだらしなさや弱い部分と向き合おうとはしなかった。

そうしたことはいっさい無視して。
さも自分には無縁のことと、既に取り組んでいることと、
痛い指摘からスルーして。


「どうすれば、霊の影響を受けなくなりますか?
 いろいろやってるのに、まったく効果がないんです
 もっと強力なのってないんですか?」

彼女は言う。


過去生を解放するセラピーやヒーリングを受けたり、
占いやチャネリングに答えを見出すだけではあきたらず、
心霊的な勉強をし、ヒーリングを学び、
サイキックな能力を開発することに、熱心に取り組んだものの、

霊的な存在が、自分や家族の邪魔をし、
それらからの悪影響がすべての原因であって、

霊的なものを排除し、影響を受けなくなるようにガードを強くさえすれば、
スピリチュアルな能力を高め、ディフェンス(霊的防御)を固めさえすれば・・・
自分の人生上の望ましくないことは、すべて改善される・・・

そのように勘違いをし、

人間としての自分の問題をまったく見つめようとはしなかった。


そうやって、「何か」のせいにして、
自分がとるべき責任を正面から受け止めようとはせず、
「現実」をきちんと直視することをせず、

人間としての能力を高めること、磨くことを怠り、
決して本当の自分の姿を見ようとはしなかった。

自分は最高学部を出ているのだから、頭がいいのだから・・・
仕事ができないのではない、と・・・誤った認識を持ったまま。

自分は他の人とは違う、というプライドが、
解雇の理由さえも、
「上司や雇用者に何故かいつも嫌われて」
という別の理由に摩り替わらせることをし、
おのが社会的適応力の無さ、常識の無さは棚に上げたままで、
「自分は周囲に理解されない人間なのだ」と歪んだ評価を持ち続け、

何かを「やりたくない」「できない」理由を、

霊が邪魔しているのだ・・・と、罪をかぶせ続ける。

住んでる場所が悪いのだ。

親が悪いのだ、と。

そりゃ、そんな怠惰で腐敗した甘えを抱えていたならば、
本来ならば「寄ってこない」はずの、悪しきエネルギーも寄ってくるだろう。
自ら、エサを撒いて、おびき寄せているわけだもの。

自分から進んで、彼らの温床たる居場所を提供しているようなものだ。


ウソから出たマコト・・・とはよく言ったもの。

そんな、自分本位で、何でも他人や周囲のせいにする考えが、
甘えや歪んだ自己認識によって、間違った方向性に行ってしまう想念が、
結果として、本当にそのような状況を作り出してしまう。


つまりは、霊の影響を受けるか受けないかは、
その人の心根次第ということだ。

イジメや迫害を受ける側の人の方に、
それを誘発してしまう責任があるように・・・
彼らが、
被害者と加害者といった関係に陥ってしまいやすいのには、
知らぬ間に自らが被害者的立場を選んでいるのと同じように。

霊に憑依されることや、
他人の想念(邪念や邪気)の影響や支配を受け入れることを、
自らそうしてしまっている事実に気づかなければならない。


心を強く持ち、意志の力を育て、
過小評価も過大評価もせず、自分のことをありのままに見て、
人として、正しいことをしようとし、好きなことをし、
一生懸命に働いて、人生を楽しむこと、今を生きることに熱中していれば、
そして、他人に対して愛情と思いやりをもって、視野を広くして、
人間らしく生きようとしていれば・・・自分を育てることを忘れなければ、

多少わき道にそれたとしても、
大きく間違うことはない。

目には見えない存在の影響を受けたとしても、
一時的なことあるいは初期段階で助けを得られて済むし、
大事に至ることはあまりない。

もちろん、先にも述べたように、
不可抗力的な現象、ケースがあるのは事実だけれど、
それはホントにまれなことで、

多くの場合、霊や見えない存在がもたらした災厄というよりは、
その人自身の内に内在する問題が、
そうしたものの力を借りて具現化したものにしか過ぎない。
(ある意味ではきっかけになったというか)

なぜなら、
霊よりも「人間」のほうが強いし、力を持っているのだから。

ホントは霊や想念なんて、恐れるに足りないものだ。

その人の魂の力が弱いから、負けてしまうだけのこと。

生きている人間のほうが、物質としてのこの世、この世界のほうが、
より多くの力を持っていて、パワフルだってこと、
たぶんみんな知らないのだろう。


引き寄せてるってことは、同調してるってこと。

自分の中に「悪」があるから、「穢れ」があるから、
同調するものを引き寄せてるだけのこと。

類が友を呼ぶように。


だから、それらの影響を受けたくないのなら、
手放したいのなら、
心を強くして、人間としての自分を育てていくことを怠らないことだ。

一生懸命生きること。

自分自身と正面から向き合い、自分の問題と取り組む覚悟を持つこと。

自分の弱さを知ること。

生きている人にしろ、既に死んでしまった存在にせよ、
良くない存在を「引き寄せて」しまっている、
自分の弱さやネガティブな感情と折り合いをつけて、
それらを克服したり、手放す勇気を持つことだ。

スピリチュアルな勉強をしたり、サイキックな能力を磨くことは、
確かに霊的な問題に対処するための、一つの方法ではあるけれど、
それだけがすべてではないし、
人間としての欠点や精神的未熟さを残したままで、
そうしたところに走ったり頼ったりすると、
人間として問題が、なお一層増長し、歪むだけの結果になりやすい。

だから、そのようなテクニックを学ぶときには、
自己鍛錬が課題となるし、それなくしては意味が無いというか、
精神的修養を除外することは片手落ちになる。


一にも二にも三四にも、
心を鍛えること、心の筋肉を強くすることだ。

心を鍛え、人間力を鍛えるには、
現実社会において、積極的に社会に出て他人と交わり、
有償無償に関係なく、プロ意識を持って、働くのが一番の早道だ。
どんな仕事だっていい。

現実社会に適応していく力を身に付けて、
何かしらの実務能力を伸ばしていくことが、
とにもかくにも、その人を大きく成長させる機会になる。

得意なことをするのが一番いいが、
得意なことばかりしていても、偏りが出てしまう。
苦手なことにも取り組んで、バランスの良い考え方を育てることだ。

泣いて、笑って、怒って、悲しんで、苦しんで、楽しんで、
いっぱい感じて、たくさん考えて、
迷って、悩んで、転んで、間違えて、恥もたくさんかいて、
たくさん傷ついて、痛い想いをしながら、
そこから這い上がって立ち直って、二度目は間違えないように、
少しずつ少しずつ、一歩ずつ一歩ずつ、
学びを重ねながら強くなっていく。

そんな風に、とにかくたくさんのことを経験して、
人としての経験値を積んで、
いろんなことができるようになり、そのことを心から楽しんで、
年輪を重ねて、酸いも甘いもかみ分けていくしかない。

心を育てるということはそういうことだ。
自分を育てるということはそういうことだ。

スピリチュアルとは、現実や社会を否定するものではない。
痛みや苦しみを否定するものでもない。

他人と関わらないと、魂は乾いて干上がってしまう。
人間として、とても大切なものを見失ってしまう。

人間ではないものばかりと付き合って、そちら側ばかり向いていると、
いつしか人間らしさを見失って、心を何処かに置き忘れることになってしまう。


現実的な社会の中にこそ、多くの学びがある。

他人との関わり以上に、成長できる機会はない。

この世以上に、霊的に成長できる世界はないし、

この現実社会ほど、完璧な人生の学校は存在しない。



何度も言うが、
「何でも自分以外のモノのせいにするのではない」

スピリチュアルは、そのように語られるものではない。

ヒーリングやエネルギー対処法は、「魔法の杖」ではない。

個人的欲望を、奇跡のようにかなえるための方法ではない。


ほとんどの問題、人生上の障害は、
霊や見えない世界が原因なのではなくて、
生きている我々、その人自身が作り出しているのがほとんどである。

問題や障害が生じるには、きちんと理由(原因)がある。

まず一人ひとりが、責任を自覚しないといけない。

自らの人生の責任を持つという、
基本的なスタンスを取ることを忘れてはならないのだ。



                      ・・・で、
                      今回で終わりにしようと思ってたけど
                      もちょっと、書き残しあるから、
                      つづく・・・かも?


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 『だがね、占いや予言はやろうと思えば、簡単にできるんだよ』

 『ええっ どうやって』 

 『相手に不幸を告げることだよ』

 『不幸を告げる?』 

 『そう こう言われたらどう思うかね。
  マリア、お前は三日後になんらかの不幸に見舞われるだろう』 

 『怖いお祖父ちゃん』 

 『ごめんよ、たとえばの話だよ。ね、よくお聞き。
  マリア、その不幸に会いたくなければ熊の皮を三枚持ってくるように』 

 『えっ、熊の?』 

 『マリアはわしの可愛い孫だからおおまけして、
  ほらそこの庭の花をお祖父ちゃんに摘んでおくれ』 

 『はい、お祖父ちゃん、これでいい?』 

 『おお、ありがとうよ、マリア』 

 『これで私、不幸にならない?』 

 『そうともこれで大丈夫じゃ。ね、こういわれたら安心するだろう。
  実際にはきもしない不幸がやってくると脅して、
  お金や品物を巻き上げる。これなら誰でもできるだろう』 

 『でも・・・でも、もしその不幸が本当にやってきたら?』 

 『いい子だね、マリア、よく気がついた。
  その時はね、不幸がやってくると告げた預言者の言葉が
  当たったことになるのだよ。
  気の毒にも不幸は避けられなかったが、予言は当たった・・・とね。
  つまり、預言者とは幸福を告げてはならないのだよ。
  幸福を告げられた者は努力もせず、あらぬ幸運を期待する。
  もしそれで何事も起こらなければ、
  ジッと家で待っていたが幸運なんかこなかったぞ!と言って
  怒鳴り込んでくるだろう。
  別に不幸が訪れたわけでもないのに・・・
  幸運が来なかったと言うだけで不幸になるのだ。
  だからよく当たる預言者とは、
  不幸ばかりを告げる者のことを言うのだよ』

 「マリア、不幸はすぐ当てられる。
  ・・・不幸は、
  不幸は願いさえすれば、すぐにでもやってくるものなんだよ」


                        by 山岸涼子~ブラックスワン

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