2015/11/05

スピリチュアル依存と中毒④

1996年3月末、私はアメリカにいた。そこで驚くべき事件がおきた。
 それは「ヘブンズゲート」という宗教団体のメンバー、
 三十九人が集団自殺したという事件であった。
 彼らはカリフォルニア州サンディエゴ口外にある豪華な家で自殺した。
 ヘール・ホップ彗星と一緒にUFOが迎えにくる。
 それに乗って神の国へ行くための自殺である。
 なんと彼らは自殺する前にビデオで自分たちの映像を撮っていた。
 テレピのニュースではそのビデオが放映された。

 集団自殺した彼らは、「私たちは特別な人間」で
 「自分たちは天使として地球に送られてきた」と主張していたのである。
 そして自分たちは、この世の一般の人々よりも
 精神的なものを大切にする優れた人々であると主張した。
 
 自分たちが死ぬのは、
 この世ではそうした精神的なものが与えられないからだというのである。

 彼らはこの世の中は自分たちが求めてるものを与えてくれなかったという。
 比喩的な言葉で彼らの言い分を説明すれば、
 自分たちのいる部屋の花瓶が汚れている。
 この花瓶は汚いから別の部屋に行きます、ということである。

 この世の中は私を理解してくれなかった。
 だから私を理解してくれる世界に行きます、ということであろう。
 これはまさに集団ナルシズムである。

 「私たちは高貴な存在、あなたたちは俗物」と主張しているのである。
 あなたたちには私を理解できないというのである。
 
 もちろん口ではそう言いながらも、
 彼らは心の底では世の中に認めてもらいたいのである。
 集団自殺した彼らも、
 あるいは「世の中なんてくだらない」と虚勢を張る若者も、
 「私を認めて!」「オレを認めてくれ!」と叫んでいるだけである。

 実は彼らの本質は精神的なものを求めるということとは反対で、
 強迫的に名声を追求しているだけである。

 彼らにとって第一に大切なことは「他人に優越すること」である。
 しかし、彼らには脂ぎった精悍な事業家のように強さがない。
 心の底では世俗の中での成功を求めながら、
 現実から逃げてしまっているために、今の生活からは満足が得られない。

 この集団は心が満たされていない人々の集まりである。
 そこで満たされない人々が集まって
 「私たちはこの世の中の人よりも優れている」
 と主張することで満足感を得ようとしている。

 彼らが求めたのは現実の世の中で「他人に優越すること」であった。

 優越することで自分の安全を確保したかった。
 しかし彼らには俗物政治家のようなエネルギーがないから、
 現実の世の中で他人より優越することができなかった。
 そこで「解釈」によって他人より優越しようとしたのである。

 私たちは高貴な存在、あなたたちは俗物。
 このように世の中を「解釈」することで、
 自分たちが求める優越を確保したのである。

 そしてこの世の中で生きている人たちは無知である、
 だから私たちはあの世へ行くと主張する。
 彼らは自分たちが世間の基準で測られるのを嫌がっているだけである。

 しかしこの自殺した人たちは自分たちの集団の優越性に酔っている。
 明らかに自己陶酔である。
 自分たちはこの世の中が与えてくれるよりものより
 もっと素晴らしいものを求めていると主張する。
 この世の中で感じることのできない善や正義を求めているのだと主張する。

 つまり「私たちは精神的なものを求める高貴な人間である」と言い、
 自己讃美に酔っている。
 自分たちのほうが、
 世の中の人たちより優れていると感じることで満足しようとする。


 「異質の(私でない)世界は劣等で、危険で、不道徳である。
 それゆえ、
 ナルチスティックな人は最後には非常にゆがめられた人間になってしまう」

 集団自殺した人々は
 実は自分たちが人間的なものを感じる能力を
 失っているだけだということに気がついていない。
 もちろん気がついていてもそれを認めない。

 自分たちが人間的ではないから、
 人間的なものを感じることができないのである。

 この集団に属していたメンバーは彼らを精神的なものの追求者であり、
 豊かな感情の持ち主であると言っている。


 しかし彼らは精神的なものの追求者などではない。
 それどころか俗物である。彼らの感情が鈍化しているだけである。


                  「自分の弱さとどうつきあうか」
                          加藤諦三著 ダイヤモンド社


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現実逃避のために、スピリチュアルに依存する人は少なくない。
得てしてそういう人たちは、スピリチュアルな事柄が、
とても「おキレイ」で「素晴らしいもの」だと思い込んでいる。

まるで、
天使や天女が舞い踊り、花爛漫に咲き誇る、
よく極楽や天国として描かれる、心地良い場所に憧れるように。

もしくは、漫画で描かれているような、
超常的な能力を有した人々が、ばっさばっさと悪霊や死霊を片付けていく、
刺激的でかっこよい世界のように、錯覚している人もいるかもしれない。

でも、現実はそうではない。

何か勘違いしている人が大勢いるとしか、いいようがない。

映画は映画、漫画は漫画、小説は小説・・・
それはそれで面白いし、娯楽として楽しむべきものだが、
フィクションはあくまでもフィクションなのだから。

光の戦士だの、ソウルメイトだの、アセンションだの、
魂のかたわれとか、守護天使がどうとかこうとか・・・
申し訳ないが、
私にはちんぷんかんぷんで、ついていけない世界。
(それが何をいわんや、はわかってはいるものの)

人を「助ける」とか「救う」とか、そんなことはおこがましいと思うし。

スピリチュアルとは、直訳そのままに、「霊性」でしかないし、
霊的な分野に与えられた俗称に過ぎない。



20年以上前、ニューエイジブームが沸き起こったとき、
(チャネリングや前世療法がもてはやされたブーム)
当時、私が働いていた占い館の近くに、
ニューエイジのイベントを積極的に展開していた、
その道では先駆者的に有名なショップがあり、
類似と言えば類似のジャンルで、店長同士も懇意にしていたことから、
その店のイベントのお誘いなどを頂くことがあって、
たまたま予定が合った日には、好奇心から参加することもあったりした。

ショップで働く人にせよ、参加者たちにせよ、
中には人間的で社交的な人もいたが、
多くの人たちは「かいつぶり」みたいに死んだ目をしていたように思う。

彼らに共通していた特徴的なこととしては、
ほとんどの人が、「あいさつ」をしないということ。

そして、人と話すときに目を合わさなかったり、
自分のことは話しても、人の話を聞かない(つまりは他人に興味がない)
・・・というのが、何とも印象的だった。

肥大した自我・・・選民意識は持っていても・・・
地球を救わなくては・・・なんてたいそうなことは口にしても・・・
目の前にいる人には関心がなく、
お互いを知ろうともせず、交流もしようとはせず、
共有する時間を楽しく過ごすために気を配ることや、
サービス精神のかけらひとつ、示すことができない。

・・・そんな人たちばっかりで。

いったい、何だろう? この人たちは?? と、

違和感と共に、大いに疑問を持ったものだった。
(嫌悪感に近かったかも知れない)
また、その占い館のお客として来てくれてた男性がいたのだが、
(常連さんで、何度も頻繁に通ってくれていた)

たまたま、来訪してくれた数ヶ月後に、
そのニューエイジショップの店長(雇われ)になっていたりして。

買い物があって、その店に行った際、
男性がレジにいたので、「あら、お元気」と話しかけたのだが、
占いのお客としてきたときの謙虚な低姿勢とは打って変わって、
お客に対する態度とは思えないくらいの、
尊大で、傲慢ともいえる失礼な対応をされてしまい、
いったい、こうしたショップの店長になれたことの、
何がそんなに偉いのか? それのどこが特別な人間の証だというのか?
・・・と、驚かされたというか、大いに気分を悪くさせられて、
二度とその店に足を運ぶことはなくなった。

すぐその後、ブームは去って、
その店は無くなってしまったのだが。



もちろん、当時も今も、
その方面に携わる人のすべてが、偏っているわけではない。

いつの時代でも、
勘違いしたり、意味を取り違えたり、解釈を間違って、
自分たちの都合の良いようにしてしまう人たちがいるというだけのことだ。

スピリチュアルや精神的なものが悪いわけではない。
それに携わるすべての人が常識知らずで、反社会的なわけでもない。

目には見えず、科学で解明されていない部分であるが故に、
確かな「かたち」として立証されたり、
定説が確立されてない世界のことなだけに、
どうとでもとれて、いかようにもされてしまう危険性をはらんでいて、
その結果の弊害というか、
妄想が入り込んでくる「隙」がたくさんあるのが実状なので。

現実を直視できない人たちが、
スピリチュアルに群がってくるのも致し方ない。

病んでいるのは己ではなく、
他者や社会のほうが誤った価値観を有していると、
つまりは、歪んだ自我意識を正当化するために・・・
スピリチュアルな事柄を隠れ蓑や盾にして、
武装したがる人が紛れ込みやすい領域だということなのだ。


だからこそ、正しく伝えていくことが必須ではあるし、
スピリチュアルな仕事に携わるものは、
現実と妄想を混同し、肥大した自我を投影してくる人物には、
要注意ということなのである。



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 もしあなたが今、属している集団に寄りかかって生きているならば、
 その集団の仲間のあり方を十分に調べてみる必要がある。
 彼らと同じように不幸にならないために調べてみる必要がある。
 つまり彼らのように不幸になることを避けるにはどうしたらよいかといえば、
 応えは簡単である。仲間を調べることである。友達を調べることである。
 あなたの今の人間関係を調べることである。

                     「自分の弱さとどうつきあうか」
                          加藤諦三著 ダイヤモンド社

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数年前、
とある二人の人物と、某県にある三箇所の神社を回ったことがある。 

あるラインを「お掃除」するためなのだが、
同行した二人には、それを手伝ってもらう反面、
その方法を教えると言う目的もあったし、
なおかつ、試して、ある経験をさせるという目的があったりした。


最初に訪ねた神社は素晴らしく、良い氣の満ちた場所で、
二番目は最初の神社に比べると平凡で、
決して悪い神社ではなかったが、力も弱く、
もともとの敷地(神域)が道路によって分断されたことの問題が起きていた。
ここは三点のラインの中点で中継地点。

極めつけが三番目、最後に行った神社で、
ここは最初の神社(基点)から引かれたラインの終点となる位置だったのだが、
一言でいうならば、汚染が酷く、毎日の浄化もされておらず、
人々の欲望のエネルギーとそれに引き寄せられた動物霊の吹きだまりと化し、
もうエライことになってたりした。

物質的なものでいうなら、下水・・・より酷いか。
(ンコとゲロまみれ。虫わき放題なイメージ)

「え゛ーーーーーーーーまじぃ? 
 ここ、掃除するの? ホント? 誰か嘘だと言って!!」


・・・・内心の叫びとしては、こんな感じ。


でも、やるしかない。

本音としてはやりたくないけれど・・・。


同行した二人にも練習で、やってもらったのだが、

「ある経験」をさせるためが第一の目的だったということもあり、
ひよっこな二人にはまず無理な場所。

完璧にはできず、されど、それでよし、で、
残りは改めての宿題に(それやるの私だし・・とほほ)。


しばらく日が経ってから、

二人のうちの一人が、

「あそこ行ってから、
 なんかスピリチュアルなんて、もうイヤだって思って、
 思い切り、嫌いになってました」

・・・と、
言葉は正確ではないけど、上記のような意味の内容を伝えてきたり。



そう、それが目的だったりする。
もちろん、そう仕向けたのは私ではなくて、
ガイドさんたちの意図、策略?だったりするんですが。


スピリチュアルって、決してキレイごとじゃないよ、と。

あなたが考えているようなものではないよ、
現実は、こういう「汚いもの」をたくさん見ていくことなんだよ、と・・・

皆、スピリチュアルに「魔法の杖」を求めて、
ヒーローや変身魔女っ子ものみたいな、
ゴミを花に変えちゃうような奇跡を期待するけれど、

現実は、汚部屋にある「汚物」や「ゴミ」を一つひとつ手で片付けて、
湧いた無数の気持ち悪い虫を一匹ずつ退治して、
額に脂汗かいて、ごしごし力を入れて汚れを落として、
・・・・というようなことを、
自分が汚物まみれになって、やっていくことなんだよ、と。

全然キレイな仕事じゃない。

キレイごとで済む世界じゃない。

他人の過去(悲しみや罪)を見ていくことも・・・
その人に取り付いた霊を浄霊することも、
エレメンタル(生霊や欲望によって創られた想念)を処理することも、

力仕事といえばそうだし、汚れ仕事といえばそう。

人の醜さ、愚かさ、浅はかさ、弱さ、
気持ちが悪くなるような出来事も、全部見つめることができなければ、
できる仕事ではないよ・・・と。


それを思い知らせる意味での、汚れた場所でのお試し。


・・・・ええ、実際、厳しい仕事ですから。

浮かれた気持ちで・・・「いいこと」するつもりで、
勘違いしていると痛い目に合うし、罠が張り巡らされてる怖い世界でもある。


(エネルギーって一口に言うけれど、
それらの塊は・・・人間の醜い思念で創られたゴミたちは、
ホントに○ンコみたいなもの、いやそれ以上だし、
唾液まみれ、ゲロまみれ、人間の遺体が腐敗して放つ腐臭のごとく、です。
呪いしかり生霊、嫉妬や依存の気持ち、憎しみとか執着の念とかね・・・
物凄い汚い、恐ろしいものばかりなんですよ。
人間にこびりついた、汚物や油汚れや湯垢以上のソレを、
こそぎ落として、化石化してミイラになったものとかを引き剥がして処理して、
まあ、ゴミ処理業者を超えた特殊清掃業の仕事並みです。
海外ドラマ「ゴースト~天国からのささやき」なんかは、
死者の導きをとてもドラマティックに描いてて、とても感動できるけど、
あんなんは、所詮ドラマですから。
同じドラマでも「ミディアム」のほうが現実に近いかな。)



その人には、スピリチュアルというものが・・・言われているものが、
気分を高揚させ、自分を優しく癒してくれる、
甘い砂糖菓子のようなものに見えていたのだろう。
実際、そのようなものを「スピリチュアル」に期待している人だったし。
そんな風にスピリチュアルなことが、
自分を「変えてくれる」何か良いもの・・・
魔法や奇跡の薬のように思い込んでいる人は多い。
(それは麻薬のような「夢」を見させてくれるものとしての)

自分自身も、自分の周囲も、運命も現実も、
スピリチュアルなことはそれらを良いように変えてくれて、
勉強し、携わることで、
自分も誰かを変えたり、世の中を変える力が手に入ると勘違いしている人は。

それは、このコラムの以前のページに書いたように、

他人に対して、影響力を行使することができる自分に憧れていたり、
今の自分ではない別の自分になりたがっているだけのことだ。
(つまりは現状や自分自身に不満を持っているということ)


でも、そういう人たちは、周囲の人をまったく見ていない。
現実の社会、世界をほとんど見ようとしない。

「地球のために平和を祈ろう」とか、
「世の中のために尽くしたい」とか、
「人を癒したい」
「他人の力になりたい」

と、よく言葉ではそういうことを言うものの、
そういうことをやたらめったら口にする人に限って、

世界情勢だとか、リアルに起きているニュースには無関心で、
差別や人権問題で亡くなっている人がいるとか、
戦争や飢餓やエネルギー問題(原子力等)だとか、
そうした話題にも触れようともしない人が多いのは事実で。

実際、そのような人たちが今回の地震のボランティアに行くか、
というと、行動に移す人は圧倒的に少ないし、

今目の前にいる人たちに・・・
手を伸ばせば届くところにいる、助けるべき人たちに、
現実的にいま自分が何ができるか、なんてことを、
具体的には考えようとしなかったり、手を出そうともしなかったり、

自分が関われるリアクションが目の前に差し出されても、
見えていないかのようにスルーして、「ふうん」といわんばかりで、
いつだって目は見えないものを追っていたりする。

現実には冷淡で、非現実なことに対して親密で。

自分からは何一つ与えようとはしないで、与えられることばかり考えていて。

残念なことに、そういう人たちをたくさん知っていたりする。

飲み水を無駄にして、食べ物を粗末にして、
援助を求めている人たちの声を聞かないで、

今この瞬間に亡くなっている人たちのことには、心をはせることをせず。
隣人との関係から何も学ぼうとせず。
積極的に社会活動に参加していくことすらせず。


この世の中を良くする為の現実のリアクションは軽視して、
頭の中で語られる、スピリチュアルなことにだけ、価値を見出す。

何という矛盾。



一体、何のためのスピリチュアルなんだろうか?

その人たちにとって、スピリチュアルな生き方って何なのだろうか?

それで、神だの天使だの宇宙だのワンネスだの無条件の愛だの、
地球や人を救うだのって、どういうことなんだろう?


                        

                       まだまだつづく・・・みたいです。


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 ダスカロスに会う以前の私は、
 ニューエイジ思想に憧れ、本をたくさん読んでいました。
 ニューエイジの考えは、
 
 「私たちはみんな光の子」
 「一人ひとりに使命があり、使命を果たすことで地球が救われる」
 「1、2年で悟ってヒーラーになり、地球を救うことができる」

 というものですが、
 
 ダスカロスとの出会いは、
 そんな幼い考えを脱却していく、大きなステップとなりました。

              by ハラランボス・ランバート
             「ダスカロスの思い出~エソテリック・ティーチング」


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