2015/11/05

病気とカルマと身体のこと(前半)

 私たちは、
 ある病気の原因をいつも外的な因子に捜し求めているが、
 それよりもむしろ、身体そのものに求めるべきではないだろうか?

 どうして、
 身体は自らをこんな状態に追い込んでしまったのだろうか?

 どのように身体はミスをしたのだろうか? 

 また同じことができるのだろうか?

 この困った事態から、
 身体を救出するために何かできることはあるのだろうか?

 健康な身体は、
 たくましくしっかりと安定しており、自分で自分を管理している。

 それは抜きん出た存在である。

 健康な状態はなにかを越えたものある

 思いやりを示すエネルギーが十分にあり、
 落ち着いた気質があり、事故や不運はなく、
 物事をやりとげる能力があり、
 強い欲望や不自然な刺激にとらわれることがない。

 つまり、健康な人は支えを必要としないのである。

 万物と霊的に完全に調和した完全な健康というものは、
 死ぬべき運命をもった普通の人間のうちの、
 当たりくじを引いた人というわけではなくて、

 たいていの人が望みさえすれば、上に述べたような
 バランスのとれた状態を勝ち取ることができるのである


 身体のゆがみは心のゆがみである


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病気や人生上の障害は、主に『カルマ』によって引き起こされる。

病気や身体の不具合は、その人に「何か」を知らせている。
病気が意味しているもの・・・体の声を無視してはならない。
身体の声に耳を傾けることを忘れてはならない。
それは魂の声でもあるからである。

カルマとしての病気が意味するものに、
私たちは学びの機会を得ることができる。
それは身内の病気にしても、身近な人のものであっても同じである。

病気は、その肉体の君主(所有者)に対する革命と言ってもいい。
王国である肉体そのものとその国民(細胞など)を尊重せず、
過酷な要求ばかりをして、国民の声を聞かないことから、
君主であるあなたに対して、「このようなことはやめてくれ」
とばかりに物申し、国民の要求を聞き入れるよう、
クーデターを起こした結果生じた王国の不具合と危機なのである。

さて、こうした時、あなたは
国民(身体)の声を聞き、良い政治をするように
それまでのやり方を改める良き君主なのだろうか?
それとも、国民とは対話の機会を持たず、
一方的に反乱を押さえ込み、首謀者を引きずり出して処刑する、
過ちを認めずに、自らのやり方を押し通す、
独裁者であるのだろうか。


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 わたしの恐れるものが私に臨み、
 わたしの恐れおののくものが、我が身に及ぶ

                  by ヨブ記


 恐怖は、それが自分の自信のなさから来ようと、
 自分が他人にどう思われているか、
 どう見られているかという不安から来ようと、
 人間の大多数の病気の根元である

                  by エドガー・ケイシー

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ようするに、病気というのは、
その人の身体(肉体・心・思考)の使い方の誤りに対する
「警告(シグナル)」の現れ方のひとつであるといえます。

それが、肉体を蝕むものであれ、メンタルのものであれ、
自分との付き合い方を間違えている、という以外の何物でもありません。

食べ物などの食生活が原因にある病気にあっては、
飲食物の選択や摂取の仕方を「間違えている」わけですし、
生活習慣(睡眠とか休息の取り方とか運動の有無とか)が
背景にある場合でも、
肉体の休ませ方や扱いを「間違えている」わけです。
オーバーワークが原因のワーカホリックも、
ストレスを過剰に溜め込んで上手く発散できないのも、同じです。
自分のことを「理解」してないがゆえに、
自分の肉体の使用方法、取り扱いを「間違えている」から起きるんです。

自己管理といえば身も蓋もありませんが。

取り扱いという言い方をいれば、身体だけではなくて、
心も精神に対してもそうです。

自分の心との付き合い方、精神の耐性や限界点、
自分自身のことを知らなさすぎる人があまりにも多すぎるのです。


病気は、突然にやってくる「悪」ではないんです。

何かしら原因と予兆があって、結果的にその症状に至るものです。
発熱や炎症にしても、「ふうじゃ」と呼ばれる風邪にしても。
※風邪とは、氣が邪を持った状態のことを示します
 すなわち邪気=風邪。

最初は小さな兆候(サイン)があって、
それでも根本的原因が改善されない(肉体への誤った態度)場合に、
段々と大きな症状へと移行して、
肉体の持ち主へと「訴え」を起こしているんです。


そして、面白いことに
病気の現れる箇所や病名そのものが、
その人がどのような「誤り」を抱えているのか、
間違った視野や考え方に毒されているのか、
「問題」そのものを指摘してくれていたりします。

このあたりは漢方を学んでいる人、
中医学とか東洋医学の人には周知の事実ですね。

特定の感情的問題は特定の箇所(五臓六腑)を毒しやすく、
その逆に、ある臓器に問題が生じると、
特徴的な心理的、精神的な傾向を抱え込みやすい、というもの。


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 私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである

                   by ヒポクラテス 

 あなたの感情が身体中の細胞に影響を与えます
 心と身体、精神と肉体はお互いに絡み合っています

                   by トーマス・タッコ

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そして、病気は、他にもたくさん病気があるのに、
なぜ、その病気(疾患)、部位なのか・・・

ということにも意味があったりする。

その人に対して、病気自身が訴えかけることとして。

別に足でもいいのに、何故手なのか・・・
癌になるなら、胃でも腸でもいいのにどうして肺なのか。


例えば、ある歌手の人がポリープになったとして、
どうして、ポリープなのか?ということ。
その人はポリープになる必要があった。
もちろん、喉を酷使した結果、
その部位を傷めたことによるポリープなんであるが、
もし、疾患として現れたのが、ポリープではなく関節炎だとしたら、
その人は「喉には問題がないから」として、
椅子に座った形でも、いやさ、足の痛みを我慢して、
無理をしてでもステージに立ちつづけることをしたかも知れない。

ポリープになる前に身体は警告としての予兆を出していたはずだが、
ポリープとか咽頭癌にでもなって声を出すのに支障が出ないことには、
その人はステージを休んだり、歌手としての仕事をストップしないから、
ポリープにかかったんである。

そんな風に、
なぜ、その場所、その症状、病気なのか・・・というのは、
十人十色で理由と意味があったりする。



でもって・・・ほんの数例だけを根拠に、
なんでもステレオタイプに分けて、
決め付けることはしてはならないことだが、
確かに、特定の心理的あるいは思考的な問題や傾向を持っている人は、
疾患が現れやすい、すなわち害することになってしまう部位や疾患名に
多くの共通点があったりする。
そしてそれは昔から言われていることや、
東洋医学などにも類似点がある。

あくまで、傾向で、という話。


頑固で、人の話や意見を聞かない人、
他人を理解しようとはしない人、
自分のやり方にこだわりを持ち、
己がポリシーを無理やりにでも押し通そうとする人らは、
小さいサインにあっては「頭痛」、
大きな問題としては脳内出血や脳梗塞など、
頭部に疾患が現れる傾向があったりする。


女性で、母性の欠如している人、母性を表現できない人、
あるいは自分が女性であることを受け入れられない人は、
子宮筋腫とか子宮頸がんとか、
子宮の疾患を抱えることが多かったりする。
内膜症なんかは、
女性性の使い方を間違えていたりする場合など。


腸の問題は、物や人への依存。
とくに便秘は執着激しく、物が捨てられない人とか、
手放すことができない人に多いようだ。

肝臓は他人へのネガティブな感情の蓄積。
嫉妬や怒り、邪念など。

肺は哀しみと孤独感、誰にも理解されないという取り残され感。

腎臓は空虚さと恐怖と怯え。あきらめといじけた気持ち。

胃は物事や感情の処理不全。消化できない思いの蓄積。

心臓は、何でも自分で抱え込み、自分でやりたがり、
次から次へと心配しては、不安材料を作り出す人。

皮膚に現れる問題は見栄の問題とか、
他人に「こう見られたい」とか、
ありのままの自分の姿を受け入れられず、
現実の自分以上の姿に見られたいという欲望など。

関節炎やリウマチは、
他人や社会への依存心と癒着、不幸自慢。
どうせ私なんてというような、いじけた考えやコンプレックス。
自分の足で歩きたくないという甘え、出来ないという責任回避。

癌は部位にもよるが、自分自身を受け入れられないこと、
今の人生に対する不満、社会での自分の立ち位置に対する不満、
自分の人生こんなはずではなかったみたいな後ろ向きな考え。
生きることに対する無気力感、
自責の念など自分をさいなめ、いじめる考え方や行動パターン。

喘息は、一人取り残される不安、孤独感、寂しさ、
身近な人や世の中から見捨てられる恐怖。

痔は自己中さとお金に対するだらしなさなど。

糖尿病は自分に対して甘すぎる人。


そして肉体的な疾患ではないけれど、

メンタルな症例で、「うつ病」だけ触れておきます。

ホルモンや神経的な問題が原因でのうつ病は別として、
それ以外のうつ病は、だいたい二つに分けることが出来て、

ひとつは単なる「氣」不足。
心のエネルギーが足りていない状況で起きるケースです。
これは、氣が満ちている場所で氣を補充したり、
気功とか、ハンドヒーリングなど、他人から氣を譲渡してもらうことで、
改善されることが多いです。

都会という、氣が明らかに不足している場所で暮らしていること、
氣を破壊してしまう電化製品とかPC機器に囲まれて暮らしているという、
現代生活が原因です。
もうひとつは、「カルマのレッスン」としての鬱病。
これは、
その人が他人の気持ちや立場を理解できない人だったり、
他人の気持ちを想像する思いやりに欠けていて、
他人が自分にしてくれたことを当然と思っていて、
感謝することをまったく知らず、
むしろ、自分はきちんと周囲の要求に応えることをしていて、
十分なものを他人に「与えられている」と根本的な勘違いをしていたり、
または、
すべてを自分の理解力や能力を基準として考えていて、
他人が自分と同じように理解したり、行動できないということが、
まったく理解できない人・・・

がなったりします。

つまりは、後者の場合だと、ある日突然「うつ病」になることで、
何もできない状態になり、
「やりたくても何もできない」状況を経験することで、
出来ない人の気持ちを理解する必要があるためです。

ようするに「出来るはずだ」「なんで出来ないの?」
と、今まで自分が他人に、そんな態度を取り続けてきたことに対し、
そう言われる立場になることを経験する必要があってのこと。

そして、、「出来ない人や弱きもの」の立場や気持ちに
気づくと同時に、何も出来なくなった自分に対し、
(バリバリ働いていた人が使えない人になってしまった)
周囲がいろいろと優しくフォローしてくれたりすることを通して、
どれほど自分が他人に助けられているのか、
一人では生きていくことが出来ず、周囲の助けあっての人生だと、
「感謝」するなど、謙虚さのない自分の勘違いを改めなさいって、
そんなことを指摘し、導くための疾患だったりします。

てなわけで、

どんな病気も、その人に与えられたレッスンとしての意味があるんです。

病気は「悪」にあらず。
人生の導き、教師そのものです。

自分と上手く向き合っていけば、
人は病気や健康でない状態から多くのことを学ぶことができます。

病気を知ることは、人間を知ること。

その人の病気と背景にある問題は、
その人の人生そのものの問題で、性格や人格の偏りを顕すもの。



この他にもいろいろあるけれど、とりあえずここまで。


重ねていうけど、すべての人がそうではないということ。
そうではなくて、その部位にその疾患という人もいるので、
全部の人がそうなわけではないです。

十人十色なので、決め付ける材料にはしないでください。
自分のことを振り返って考えるときには、当てはめてもいいけど、
他人に対しては、この見方はしないように。

ヒーラーである人も、参考程度にして、鵜呑みはしないでください。
その人そのものを見ないといけないわけですから。



アルツハイマーとか精神的な疾患については、
カルマの法則が大きいので、ここでは述べません。


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病気とは、ある日突然にやってくる侵略者でも悪魔でもない。
身体や自然の法則に反した行いから起きる。

例えて言えば、
熱いものに触ったら火傷をしたというほどの因果関係にある。
同様に心の法則に反した思いによって
心は大火傷を負い、それが肉体にも現れてくる。

法則に反した行いや心の結果は、
ときには無意識の中に生きているが
活動はしていない種となってしまいこまれ、忘れ去られてしまう。
私たちの無意識の土の中には良い種ばかりではなく、
今日、あるいははるか昔に取り入れた恐ろしい種も宿っていて、
狂気の爪を出す時期を待っている。その時は今日かも知れない。

忙しさ、運動不足、睡眠不足、栄養のかたより、不注意、
飲食過剰、短気、怒り、あざけり、自分勝手、恐怖心、
恨み、憎しみ、他人を見下すこと、怠慢、悪意・・・
これらは私たちの創り主であり健康をもたらす力である
生命エネルギーの働きを弱めてしまう破壊的な力である。
私たちの心が破壊的な力に左右されていて、
支配下の神経系がこの影響を受けているとするならば、
どうして健康が保てようか。

これらのうちでも、病気の種として無意識の中にひそんでいる
私たちにとっての最大の敵は恐怖心である。

そして先に述べた破壊的な力の一つひとつを振り返ってみれば、
それぞれの底辺に恐怖が横たわっていることがわかる。

忙しさにかりたてられているのは何であろう?
将来への不安か?睡眠不足の原因は?
運動不足はエネルギーの出し惜しみか?
それとも時間がないというのだろうか?
栄養の偏りは嫌いなものを食べられないからか、
不注意は考えすぎか、考えがいたらないのか、
自意識の過剰ではなかろうか?不注意なことをしたことにより、
他人や自分に対する恐れが発生していないだろうか?
短気は自分や他人を信頼できないからか・・・・

という具合に問いかけてみれば、
その影に恐怖が隠されていることがわかる。

そして、そのどれにもいえることは、病気のときには
身体の組織や器官の中で起きている不調和やリラックスのなさが、
そのまま私たちの心の中にも起きているということである。

私たちの多くは気づいていないが、
私たちが他人をあざけったり、恨んだり、見下したり、憎んだり、
悪意を持ったとき、実は自分の生命に対してそのようにしたのである。

それらは調和と協力に反することであり、
間違いなく私たちの無意識という土の中に
恐怖という種をまいたのである。
同様に利己主義や自意識の過剰は、
生命エネルギーや他の人との協力、調和がないことから
恐怖の手が握っていることになる。

私たちに恐怖があるときには緊張がおこる。
その緊張は交感神経系、
脳脊髄神経系の神経節に不調和をもたらし、
その支配下の器官にも不調和、不協力、緊張を強いているのである。

このように心身にとって最大の敵である恐怖は、
私たちの上に大きく覆いかぶさって、実際に髪を白くしたり、
心臓を止めたり、膝を曲がらなくしたり、
食事もできなくしてしまう力である。

けれども、恐怖の闇をはらうのには、
いま私たちの内で活動している唯一の無限の
生命エネルギーを認める光があれば十分である。
恐怖はこの世界には存在せず、明らかに私たちの心が作り出した
実質のない幻影に過ぎないものだからである。

                  by エドガー・ケイシー

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