2015/11/05

スピリチュアル・ナルシズムとエゴイズム⑤

右手でした善いことは、決して左手に教えてはいけない

                      by あらえびす(野村胡堂)

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”上”の人たちのガイダンスやアドバイスは時おり、
あまりにも突飛で唐突すぎ、その目的や意図が掴めず、
首をひねるしかないときがままある。

それはとても簡潔であり、説明不足というか、
何でそうなのかという意味づけ的解説がまったくないので、
指示を頂く"部下"としては、飲み込めず、
浄化不良のままに渋々ということもよくあることで。
正直、いぶかしく思うこともあったりするんだけれども。

けれど、後に結果が出るときになって、
その真意を知り、それがいかに用意周到で、
物事の先を見据えた、奥深い意図のある、
無駄の無い指示であったりするか、
毎度のごとく思い知らされるのである。

なるほど! そういうからくりだったのか・・・と唸らされること然りで。

(といっても、基本わたしはチャネリングはしないし、
『操り人形には成りたくない!』と頑固にシカト
かつ拒絶して耳塞ぎがちな、かなりの聴かん坊だがw)


 とある人がいた。
 
 その人は元より他人に対して親切で、
 困っている人を助けたいという気持ちでの持ち主で、
 それが故に本職の職業に就いた人だったから、
 「わたし」がしていることに興味を持って、
 ハンドヒーリングを会得する道を選んだ。

 『病に苦しんでいる人の役に立ちたい』

 そういう気持ちが根本にある人だったから、 
 学ぶことにも惜しみなく投資をし、ヒーリングの習得も早かった。

 けれど彼女は困ったことに、
 自らのエゴイズムに気づいていない人だった。

 彼女の問題は、
 ”自分には何も問題(エゴイズム)がない”と思っていることで、
 自らの思想や行動を振り返って、点検する習慣のないことだった。

 『他人を助けてあげたい』

 という純粋な気持ちは、ときに"親切の押し売り"となり、
 ありがた迷惑なおせっかいでもあり、得てして過干渉の元となり、
 "すべては相手のためである"と、
 実のところは相手のためだけでなく自分のためにしていることへの
 盲目的偽善のイイワケによく用いられてしまう。

 ヒーリングの手法を習ったその人にとって、
 それが精神的疾患であろうと肉体的疾患であろうと、
 自分の周囲、身近な人に"病人"がいることは耐えられないことだった。

 スピリチュアリズムにおいてヒーラーというのは、

 『自らは万能ではなく、
 むしろ何も出来ない存在なのだということを、
 肝に銘じてよく知っておかなければならない』

 という鉄則があるのだが、
 彼女にとって、
 その言葉は自分の辞書に記載したい言葉ではなかったようだ。

 彼女はヒーリングで身近な人を『治し』たがった。

 頼まれない相手であっても。
 
 私が調子を崩したのを知ったとき、
 「遠隔ヒーリングしておいたから」とさもそれが当然のように言う。
 相手が望み、頼まれても居ないことをするべきではない、と伝えても、
 寝耳になんとやら。
  
 もともと一歩間違えると
 "やりすぎのお節介"になってしまう面のあるその人。
 以降、それと気がつかずして彼女のエゴイズムは暴走することになる。

 残念ながら、ヒーリングのスキルは彼女にとって、
 『他人の力になってあげたい』という
 エゴイズム(自己満足)を満たすための、
 "おもちゃ"になってしまった。


 さて、それ以前に"上"の人たちが、
 彼女に「あること」を勧めて御覧と伝えてきた。
 その時はただ『その道に向いている』
 人だからなのかと、深くは考えなかった。

 けれど、私がわからなかっただけで、
 実はちゃんと意味のあることだった。
 

 "上"の人たちは彼女のエゴイズムをよく知っていた。

 どういうお試しだったかはここには書けないが、
 彼女はある体験をして、気づきを試されることとなった。

 
 "上"の人たちは、

 彼女に自ら気づく機会を与えたかったのだ。
 彼女の学びの機会として。

 そんな風に、"カレラ"は、
 いつだって、『本人に必要な経験』をさせようとする。
 こうだからこうなのだ・・・と顛末をいってしまうのではなく、
 謎解きを解説するでなく、暗に導こうとする。
 自主的に「ああ、そうか・・・」と、本人が気づいたり、反省したり、
 何かをつかむまで・・・当人なりの答えを導きだすまで、
 それとなく、気づきに至るまでの状況を後押しする。
 肝心なのは、本人が内面からそう思うことであって、
 誰かから聴かされて、「へぇーそうなの?」と思うことでなく、
 経験して知ったことを自分のものにしていくことだから。


 果たして彼女は学べたのか?
 周囲の状況をコントロールしようとし、
 『自分にとっての心配ごと』を何が何でも解決したがるエゴイズムに、
 彼女は気づけたのだろうか?


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 「人助け」って何だろう?

 他の人たちを援助するとなると、
 私たちの多くは不思議なほど同じ落とし穴に落ちて、
 こんなはずではなかったのにと大混乱に陥ってしまうので、
 ここで幾重にも注意しておかなくてはいけないことがある。

 それは優位に立っている自分が他の人の上に君臨して、
 おせっかいを焼いて自分の考え通りに納得させて、
 または腕ずくでも引っ張っていくという意味では、
 決してないということである。
 言葉をかえていえば、自分より弱い立場の人を、
 かわいそう、かわいそう、といって
 その弱いままにさせておくことではなく、
 その人の個性を観て、育て、
 その人に自分でやる気になってもらい、
 自分自身の理想を明確にして
 自分の足で前進するように援助することである。


 リーディングも次のように表現している。

 「少し離れて見守っている態度」
 「その人の美徳を観ていく、
 自分の自由にしたり、手を下して干渉しないようにする」

 そうすることによって、
 その人が自分で自分の問題を解決する力を

発揮できるようにしむけることである。 
 なぜなら、
 私たちは自分ひとりではどうやっても進歩することはできない。
 ただ私たちが助けた人たちの腕にすがって、
 その人たちの道案内でしか
 高みへ達することはできないからである。
 
 援助とは、人を引っ張りあげることではなく、
 はじめおしりを持ち上げて、
 やがてその人によって引き上げられるように
 その人をすることなのである。


 繰り返すが、自分ばかりが苦労して強くなり、
 人にこうしろ、ああしろとまつわりつくよりも、
 その人にこそ強くなってもらうことを考えていかなければ、
 その人の苦しみは後になってさらに増えてふりかかってきてしまう。
 
 
 そして、
 私たちが他の人を助けるとは、
 その人が自分自身で生活することが
 できるようにしむけることであって、
 決してその人を物質的に援助して、
 それだけでよしとすることではないし、
 またその人が自分でしなくてはいけない機会を奪って、
 私たちがどんどんやってしまうことでもない。


      by 「エドガー・ケイシーの人生を変える健康法」福田高規
 
 
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相手のためにではなく、
自分のために"ヒーリング・スキル"を利用しようとする人は多い。

『本当に相手のためになることは何か?』

ということではなく、

『自分が相手にしてあげたいこと』
を一方的にしたがる人は、自らのエゴイズムになかなか気づかない。

得てして、それが善意だと、愛で、思いやりだと信じ込んでいるので。


その『してあげたいこと』というのも、

相手のことを思っているようで実はまったく違っていて、
それは勘違いとしか言いようがなく・・・
完全にそこんとこ、すり替えちゃってるのです。
自分のためなのに相手のためと。

本当のところは、

『自分の心配のタネ』を減らしたいだけだったりする。


つまり、自分の『不安』を消したいから、
周囲の身近な人を癒そうとし、何かしてあげたがるパターン。

だから、
相手がどう思っているか、どう考えてるか、
気持ちとかは二の次で、
自分が手を出すことで相手の自立をかえって妨げているとか、
そういうことに気づけない。

自分の子供たちに対しても、配偶者や兄弟姉妹などの家族、
友達、知り合いたちに対してもそう。

この彼女の場合は、他人に対して力を持ちたいとか、
英雄になりたいみたいなヒーロー願望はないものの、

『自分が心配になって、不安な思いにさせられる』

原因を取り去ることが最優先になってしまっている。

うん。
相手のことが心配なのではなくて、
自分の人生(生活)に、
『心配する状況』があるのがイヤなのね、この場合。

相手のことが心配っていう風に、
すり替えていることに気づけていないのが問題なんだけど。
まったくのナルシズムでね。

これもまた利己的な自己愛なんだ。

そして自分の周囲の人のことを自分の付属物として考えているというか、
相手を心配している自分に酔っているとこもある。

これはひとつの代償行為で。
やっぱ周囲の人を利用しちゃってるんですよ。
悪気が無いだけに始末が悪いんだ。

その人から"好意"や"親切"を受ける人も、
それと気づかないから。
とくに子供は純粋に、
親が自分を思っての愛情、心配だと、受け止めるし。
するとそういう子は親を裏切れなくなる。
親に心配させることは悪いことで、
親に心配をさせない「いい子」であろうと、いいなりになりやすいんだ。
つまりは共依存の関係を作りやすいということ。


ホント困ったことにこういうのは子育ての現場ではよくある話。
親がよく『あなたのためだから』と言いながら、
自分が大変だから、自分が楽したいから、って、
その子が覚えたり考えたりする機会を奪って、
自分の都合でいいように操って、動かそうとする。
例えば、子供が
『朝起きれるようにならないと遅刻して恥をかく』と
その重要性に自発的に気づき、自らの意志を持ったり、
不慣れでモタモタしながらも、
洋服を着替えたり、靴を履くことを覚えたりすることを、

「遅刻するから」という理由で起こして、
自発的な意志が芽生える機会を奪っていることとか、
「早く服を着てくれないと、朝は忙しいから困る」
と理由で親がいつも着せてしまったり・・・とか。



相手のことを真に思っているのであれば、
自分の心がどんなに痛かったとしても、
本当に相手のためになることは何であるのか、
考えて、考え抜いて、
ジッと我慢の子で忍耐を持って、
手を出したくても、手を出さずに、影から見守って、
時に相手からして悪者になるような状況も辞さなかったりするよ。

大事なのは、その人にこそ成長してもらうことだもの。

ましてスピリチュアルなことを学ぶ人なら、
それを一番に考えられるようにならないといけない。

相手のために、自分がするべきことは何か・・・
自分が果たすべき役割が何であるのか・・・
手を出すべきか否か、どこまで関与すべきなのか・・・

その人が問題と捉えていることを解決することよりも、
病気や怪我が治って、
「ああ、めでたしめでたし」になるって、ことよりも、
いまその人が何を学ぶべきで、
どうしてこのような状況に置かれているのか、
この現実や問題から、この人が何を学び、
何に気づかないといけないのか、
どういう態度で乗り切るべきなのか、

それを考えた上で、自分が関与すべき範囲と、
手助けするべきことがあるならそれは何で、
逆に手を出してはいけないことは何かも考えて、

『何もしない勇気』も携えて、ただ、忍耐をもって見守るしかない。


あらゆる仕事の現場でも、
自分がやっちゃったほうが早いほうでも、
その人に覚えてもらったり、成長してもらうためには、
どれだけ不安材料があって、リスクが高いことでも、
相手に任せてしまって、自分で考えて創意工夫する中で、
経験をモノにしてもらうしかないように・・・・


スピリチュアルかつサイキックなヒーリングの現場でもそうです。

私たちがやってしまうことに何の意味もない。

お客さんが自分で力をつけてもらわないことには・・・
自分の問題に自分で気づいて、他人任せにせず、
それを解決しようと、自分の人生に積極的に参加して、
本気で取り組んでもらわないと、

いつまで経っても、問題の中心から抜け出せず、
一時的に解決したと思っても、
再び同じところ片足残してグルグル回ってしまうだけ。

それじゃ意味ないもの。
高いお金もらってる、意味がね(笑)

その人のためには、
『治さない』ほうがいい病気や怪我もある。

気づくまで、ほうっておいて、
相手から『助けてくれ』とSOSがくるまで、
何もしないで観ているべきときもある。

どれだけ大変な状況で同情すべき運命でも、
その人にとって意味のあることなのだから、
学びがなされるまでは、そのままにしておいたほうがいい人もいる。


自己満足のために、
自分を安心させるための道具として、
"ヒーリング"の手法があるわけではないんだよ。


うん。

ヒーリングは、その人の不安材料や問題と思っていることを、
無事解決するための"魔法"なんかじゃないんだから。
むしろ、”気づき”を促し、その状態に導き、
自分のほんとうの「こころ」や良心の声を聴いてもらうための
その道筋になるためのツールなんだから。



そして、
エゴイズムの虜になって、自らの行いを振り返ることをせず、
気づこうとせず、耳を傾けない人に、霊的真理の道は辿れないのです。

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