2015/11/05

スケープゴート(前半)

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出典:Wikipedia:
スケープゴート(scapegoat)は、
「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意味合いを持つ聖書由来の用語。
「贖罪(しょくざい)の山羊」等と訳される。

原義としてはヘブライ聖書において、
贖罪の日に人々の苦難や行ってきた罪を負わせて
荒野に放した山羊を指した。


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昔の知り合いで、、
能力やスキルはとても素晴らしい方なのに、
何かにつけ、他人の批判ばかり口にする人がいた。

批判の対象になるのは自分の友人だったり、お客さんだったり、
あるいはあったこともない方のブログに書かれた内容だったり、
その道の指導者など、スピリチュアル系の人のことなぞ。

結局のところ、批判といっても悪口であることには変わりなく、
私は彼女のそうした一面も含めてついていけないと思い
必然的に縁が切れることに。


彼女の姿をして気づかされたのだが、
批判というのはある意味で、自らの正当性を主張する行為でもあると。

つまりは相手を「間違っている」「それはおかしい」と叩くことで、
自分のほうが正しい認識を持っていると・・・
自分こそが「正しい」と、自分は紛れもなく正しい側にいるのだと・・・
その正しさを誇示し、
自分の価値観や意見を相手に押し付けているのだ。

でも、そればかりではない。

他人を批判(批評)ばかりする人というのは、実のところ、
自分の意見・・・はっきりとした主義主張がないようにも思う。

どこぞの作家さんが言っていたが、
批評家というのは、自分では何も生み出さず、加工もせず、
ただ人の作ったものにケチをつけるだけの職業だと。
それはちと言いすぎな気もしないでもないが、言いえて妙である。

確かにそう。
批判や他人のバッシングを繰り返している人は、
自分からは何も成そうとはせず、何もしない人たちだ。

彼らは自ら行動を起こすことはしないし、
自分一人の力では、世の中に何も生み出せない。

他人の行動や創造物など、既存のものにクチを挟むだけで。

(他人のしたことや作ったものに口を出すことは・・・
 批評や批判するだけというのは実に楽で簡単なことだから)

つまりは他人のアラ捜しをする人は、
自分では何も創造できず、生産できないことに対して、
無意識のうちに劣等感と敗北感を抱いていて、
嫉妬心と羨望感から他人を叩いているのかも知れない。


世の中で、他人を批判し、
あれやこれや、他人の動向に対して、批評を加える人は多い。
他人というものがどうにも気になるみたいで・・・。
何か言いたくて仕方がない人というのは、どこにでもいたりする。

噂話というのがもっともたるものであって、
職場でも、近所でも、学校でも、親しい友人同士の間でも、
どんな付き合いの中にも存在する。


批判は相手に対する攻撃以外の何ものでもない。

批判とは、対象となる相手を強く否定し、
その意見などを認めることなく、誤りを非難する行為だ。

ただ「自分はそうは思わない」など、
相手の意見や方法に同意できないとか、
賛成出来ないという意思表示と批判は似て非なるもの。
「この人はこう思うみたいだけど、自分はこう思う」
など、その意見に対して自分が何を感じたか・・・
それを表現するだけなら、
相手を強く否定する行為とは別個の質の違う反応だと思うし。



さて正面から相手を否定することをしない、
単なる噂話に留めたものであったとしても、
相手の考えや人となりに口をはさむのは、
その内容によっては相手をさらしものにすることだし、
それによって、相手と自分を比べて、自らの優越を誇ったり、
自分の優位さを確認するための作業に他ならないように思う。


でも、じゃあ人を批判したり批評をする人を責められるかといえば、

私も他人の批判や批評をしたことはたくさんある。
無責任な噂話をしたり、それに加わってしまったことも・・・。

自分で見て、直接聞いて、確かめたわけではないのに、
噂や他人の言葉を安易に信じて、
そうした目で他人を見て、先入観で判断してしまったりとか、
人づてに聞いた確証も根拠のない噂話を、
流してしまうのに一役買ってしまったことがないとは、
残念ながら言い切れない。

それを罪と知らずして、
無邪気な、悪意のない気持ちとはいえ、
好奇心から、無責任な他人についての話を、
勝手な想像や尾ひれやはひれをつけて、
広めてしまったこともあるだろう。

被害者的な意識から他者を悪者にしたてて攻撃したり、
悪意なき噂話で、相手の印象や評判を貶め、
知らず知らずのうちに、追い詰めてしまったことなども、
もしかしたらあったのかも知れない。

芸能人のゴシップだとか、見知らぬ人に対してはとくにそうだ。

子供の頃、そして口の軽い女子高生時代など。
社会に出てからも・・・若かった頃はとくにそうだったろう。
そして、今のような仕事をするようになってからも、
私は悪気ないつもりで、無責任に他人を批評し、
批判の言葉を数限りなく、口にしてきたように思う。

ある日突然、他人の姿をして、
それまで自分のしてきたことが、
どれほどに愚かで醜い行為だったのか、
羞恥心とともに思い知らされるのだけれども。

反面教師となってくれる、その人たちの姿に、
かつての自分の姿を重ねて、罪の重き、おのが穢れを知る。

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先日、映画を見てきた。

「偽りなき者」というデンマーク映画。

勤務していた学校が閉鎖され職を失い、
結婚生活も敗れて、一人息子にもあえず、
臨時の幼稚園教諭をしていた男性が、
子供の小さな嘘によって、幼児虐待の冤罪を着せられたことから、
属していたコミュニティから締め出され、親友や友を失い、
子供と暮らす未来もたたれ、人生を台無しにされるという物語だ。

永遠とも思えていた人と人の「絆」が、一瞬で崩壊していく怖さ。

冤罪が作られる過程というのも、腹ただしかったが、
けれども、同時に自分もその「決めつけ」をした人たちのように、
思い込みで物事を早計かつ浅はかに判断してしまったり、
感情的に過剰反応をして、
ヒステリックな対応をしてしまったことが、
これまでになかったと言えるだろうか・・・?
とも、我が身を振り返ってしまった。

知らず知らずのうちに、自分もそんな態度を他人にとり、
自分の先入観からの意見を、あたかもそれが真実であるように、
事実として伝わってしまうような、
そんな無作為な「大袈裟話」をしてしまったことはないだろうか?

・・・と。

クララみたいに、自分の好意を受け入れてくれなかった相手に対して、
悪意ある人物像だとか、イジワルからの八つ当たり的批評を、
無責任に広めてしまったことはないだろうか?
それが私側にとって事実であったとしても、
結果的に「作り話」になってしまうような、伝言ゲームで生じる
誤解の部分を生み出してしまったことはないだろうか・・・とも。


そして、この映画で何よりも恐ろしいと思ったのが、
それが本当かそうであるのか、事実確認をきちんと検証しないで、
被害者と思われる幼児の話を一方的に信じて、
妄想からの過剰な誇大解釈をして広めて決め付けたことよりも、
(それだって大人気ないし、十分ひどいんだけれども)

加害者とされた人物に対しての、集団ヒステリー。

これはまるで現代の「魔女狩り」だった。

しかも、見知らぬ他人-よく知らない「よそ者」ではなくて、
それまで小さなコミュニティの中で、親しくしていた相手であるのに。

それまでの付き合い、
親しさ、友情や信頼関係は一体なんであったのか。
まったく意味のないものであったかのような・・・
それは人の絆の脆さを思い知らせてくれる、とても悲しいもので。

相手が犯罪者だとして、その犯罪行為が許せないのであるなら、
軽蔑して、無視して、親しい付き合いを絶つだけでいいのに・・・
(まして映画の彼は疑わしき、なだけだったのに)

人はそれを排他的に非難し、差別して、
コミュニティから隔絶して排除しようとする。
いささか過剰に、そして憎悪の対象として攻撃まで加え、
相手の人生を破滅に追い込み、大切なものまで奪おうとする。

そう・・・そんな風に人は、いつだって、誰かを悪者にしたがる。
誰かを悪人に仕立て上げ、
憎悪の対象として、ハンギングツリーに吊るさずにはいられない。

誰かのせいにし、どこかの誰かを憎むことでしか、
人は自分の罪を逃れられないから。

そして自分以外の共通の敵を作ることでしか、
コミュニティの中での、自分の安全を確認することができないから。

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