2015/11/05

初心忘れるべからず

 愛子、まよって決めかねて・・・
 進む方向がわからなくなったら
 気持ちも踊りもバラバラになってしまったら
 バーへ戻って一番からだ

 いちばん最初の純粋なところに
 立ち返って決めれば良い

 もう回り道をしたり
 逃げたりしてはいけないよ
 舞台人の人生はとても短いのだから
 
 なんどもなんども

 きめて えらんで
 まよったら もどって・・・

 そうして進んでいきなさい

                    by「N★Yバード」槇村さとる

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バブルがはじけ始めた頃だった。
まだまだ余韻は残っていたが。

エステティシャンの仕事を退職した後、
運命のいたずらか、はたまた自身の気まぐれからか・・・
私は渋谷の某占い館に所属することになった。

そこは拠点で中心店ではあるものの、
その他に何箇所か店舗(飯田橋と浦安と千葉)があり、
私は地元が千葉だったことから、
主に千葉のブースに常駐していることが多かった。
(たまに浦安で渋谷は週に一回位)

ブースといっても一人だけの占いコーナー。
今はもう壊されてしまった、ファッションビルは、
そこが地元である私には子供の頃からなじみのある場所。
それだけに居心地がいいような、悪いような・・・
知り合い(とくに親の)にあったら、イヤだなあ、と、
そうちょっとだけビクビクしながら、毎日通っていたのを覚えている。

B1階はトイレの前に常設されている狭いコーナーは、
ヤング層向けのブティックがそれぞれ流している賑やかな音楽で、
音の壁ができているような、妙な空間。
たぶん、コーナーというか、店舗名としては、
ルナの部屋とかなんとかいう名前が付いていたかしら。

渋谷のお店と違って、
並ぶほどにたくさんお客さんが来るわけじゃなし、
とにかくじっとしているのが苦手で退屈で、
時々放浪してはウィンドウショッピングで気を紛らわせて、
何とかやり過ごしていた。

(その後に移った占い会社は、
同じ店舗での常駐なので日によっての移動なく、
毎日最低でも10人はお客さんを見るくらいの
行列をさばくような忙しい店だった。
浅草の花やしきの占いコーナーや今は無くなってしまった
後楽園の地下のゲーセン前の占いコーナーにいたこともある。
とにかく、遊園地の中はうるさくて集中できなくてしんどかった)


そんなヒマなところでも、
お客さんがまったく来ないということはなく、
それなりにポツポツと。

私が席にじっとしていなくて徘徊していることも多いので、
勇気を出して訪れたはいいが、誰もいない・・・てな具合で、
帰っちゃったり、出直してきた人もいたなら、面目ない限り。

それでも席にいる時、タイミングよく会えた人もいるわけで(笑)


さて、当時。
私は、成り行きで占いの仕事に就いてしまったものの、
「一番行きたくない、やりたくない仕事」に結局のところ流れ着き、
することになってしまった状況に納得してなくて、
不満やら抵抗やら、「なんでどーしてこーなった」みたいな・・・
消化不良をたくさん抱えていたのです。

覚悟がなかったんですよね。

もちろん前向きに取り組む気持ちも。
その仕事を愛していなかったといえばそう。

占いは面白いし得意だし、学問としての占星学も好きだけど、
自分自身の霊的な特性(霊媒体質)は大嫌い。
そうした資質を他人から求められ、期待されることも大嫌い。

なのに、自分自身が忌み嫌っていた才能的部分で、
お金を稼がなければならない状況に陥ってしまったことに、
物凄く腹を立てていたというか、抗っていたんです。


でもって、ある日。
物凄く頑固なお客さんがいらっしゃいました。
恋愛の相談でしたが、一言で言えば自己中。
「相手があーしてくれない、こーしてくれない、
 こーじゃないし、こーでもないし、なんでこーなのよ」と、
いわゆるブータレから始まり、
「ふつーこーするべき、あーするべき、
私のこと好きなら、こーすべきなのに、
こーしないなんてありえない、許せない、
うんちゃかかんちゃか・・・・」という具合。

あまりにも自分の都合ばかり相手に押し付けていて、
我が身を省みずの女王様気質の人だったので、
20代半ばの若輩者のクセに、私ったらば、
一回りも上の相手にむかって、ほとんどケンカ腰でのお説教。
ちなみにその方、教師をしてらっしゃいましたが。
(お金もらう立場だというのに)

幸いなことに、
周辺ブティックから大音量で流れるリミックスされた音楽のお陰で、
(それぞれの店舗が全部違う曲流してる)
双方のバトルの声はかき消され、その場にいない限りには、
周辺の人にも話し声が聞こえる環境ではなかったんですけども。

軽く二時間くらいはあーでもないこーでもないと討論してたと思ふ。

結果、最終的にその方は、
机ひっくり返す勢いで、頭から湯気だしてお帰りに。

てなもんで、もうその人は二度と来ないんでないかなーと思ったり。


2週間くらいしてからでしょうか・・・
その方が、またいらしてくれたんです。

「私のこと、叱ってくれてありがとうございます。
 お陰で目が覚めました。
 あれからいろいろ指摘されたこと一つひとつ考えたんです」

って。

お礼にと、花束もって頭下げに来てくれた。

「失礼なこといってすみません」と。


その日、帰りのバスの中、
涙があふれてたまらなくなった。

頂いた花束を握り締めながら、

「あー私でも人様のお役に立てることがあったんだなあ」

・・・と。

あの時、妥協せず、一生懸命正面切ってぶつかっていって良かった。

あの人に何かを気付かせることができたんだなあ・・・
こんな私でも、他人の役に立つことができるんだなあ・・・

なんて、涙と鼻水でズルズルになるほど号泣してしまった。


今となっては恥ずかしクサイ話。

てかー 青かったなあ、ぢぶん。


そうだなあ、後ろ向きだった自分の気持ちが、
この仕事、頑張ろうって、思えた瞬間で、
この仕事好きだな、この仕事ができる自分が好きだなって、
そう思えた瞬間だった。

否定していた自分の能力を認めることができた、あの始めての瞬間。


・・・でも、いつしか人は、そうした最初の気持ちを、
あの瞬間の気持ちを見失ってしまうのです。




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先頃、電子ブックスで、
漫画家生活40周年を迎えた弘兼憲史氏の作品特集があり、
第一巻が無料で読めるというフェアをやっていた。
同氏の作品は、「島耕作シリーズ」「人間交差点」が好きで、
(けど、コウサクは部長までが限界。後のはつまらなくなっちゃった)
「黄昏流星群」とか他の作品も何作か読んだことあるけれど、
「ラストニュース」だけはまだ読んでいなかったので、
たまたま読んでみたりなんかした。

第一巻の中のひとつのお話は、たぶん
あの宗教事件をモデルにしたものなんだろうな、というおハナシ。

して、まんま、ではなく、
「レ・ミゼラブル」(やっぱパクリだけど)で描かれた、
信仰の目覚めと贖罪がテーマになっていた。
性善説っていうのかなあ、人間の善性への問いかけ、ね。

明らかに、Aをモデルとした教祖が出てくるんですが、
そこはそれ、もうひとつの別宗教の
出版社Kに対するデモ、抗議事件がモデルになっていて。


でもって、物語終盤、
たくさんの信者にあがめられるカリスマ教祖Aが、
某テレビ局の"ラストニュース"なる番組に出ようというとき、
彼が仏教に帰依し、出家する機会を与えた恩人たる和尚が、
彼の中の善性に問いかけをする。


 「倉品君、あなたはとても信仰心の厚い人間でした。
  私の見込みは間違っていなかったと思う。
  だがたったひとつだけ肝心なことを忘れていますね」

 「どんなことでしょうか。
  私は和尚さんの教えを忠実に実践しているつもりです」
 
 「ではどんなふうに実践なさったのかな」

 「はい。今の世の中はおカネが万能で、
  人の心は乾ききっています。
  みな自分だけがよければという
  利己主義ばかりになってしまいました。
  そこで私は利他の心すなわち人に奉仕する心を説きました」

 「それは結構。
  しかし、そのために組織をつくりましたね」

 「ええ、利他の心を説くためには
  たくさんのパンフレットが必要ですし、
  大規模な集会も開かなくてはなりません。
  大手の広告代理店に依頼して、
  テレビのCMや電車の車内広告も作りました」

 「おカネが必要になりますね」

 「ええ確かに。でもご住職・・・
  今の時代、そうしなければ布教活動はできません。
  現代はメディアの時代なんです」

 「おカネはどうやって集めましたか」

 「信者たちのお布施に頼りました」

 「おカネ万能の世の中を否定するあなたが、
  たくさんのおカネを頼りに布教活動をするのは、
  矛盾ではありませんか?」

 「あなたの顔は、慈悲の心を体現した仏様の顔と正反対だ。
  人を許す、これが信仰の基本です。
  今のあなたは、その逆の
  人を憎み、世を恨む醜い形相をしています」

 「あの時あなたは確かに不幸せな少年だった。
  私はあなたの顔から  
  憎しみや恨みを掬いとってあげたかった
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ようく思い出してみて欲しい」

 「住職!!」


住職の言葉に、我に返るA。
そしてAはニュース本番で、次のような告白をするに至るのです。



 「私は少年時代に窃盗を働き
  逮捕された事実を、最初に皆さんの前で
  告白しなければなりません」


 「どうして僕はこんなに不幸なのですか?
  お釈迦さん、あんたは結局
  何もしてくれないじゃないか!」

 「信仰心の厚い少年でな、ひとつあげたんじゃよ」

 「どうして私を許すのだろう?
  どうしてそんなことを言える人間がいるのだろう?
  私はその時、雷に打たれたような衝撃感じました。
  そして、初めて"信仰の力"というものを知ったのです・・・」

 「私はその日から寺に住み込みました。
  寺男として働きながら、御仏の心に何とか近づこうとしたのです」

 「教えてください、和尚様。
  毎日毎日掃除ばかりしていても、
  少しも悟りの境地に達しません」

 「それはね。
  あなたの自尊心という奴に問題があるんですよ。
  いったんコップの水を棄てるように、
  わだかまりを全部棄ててしまいなさい。
  きっと芯が軽くなります」

 「しかし、人には
  憎しみや欲望や妬みを棄て去ることが出来るのでしょうか」

 「出来ません。
  だが、そういうちっぽけな存在であることに
  気付くことが大切なんです」

 「私はしあわせ教の組織を大きくしようとして、
  たくさんのおカネを集めました。
  組織を拡大すると意図的に
  カリスマ性を演出しなくてはならなくなりました。
  こんな椅子もそのひとつです。

  皆様方が企業の売上げを伸ばし、
  少しでもシェアを拡大しようと突っ走るように、
  私も信者の数を増やそうとしました。
  その結果、抱え込んだのは
  ただ単にたくさんの軋轢だけでした。

  ひたすら組織の拡大だけを求めているようになり、
  すっかり心の平安を失っていたのです。
  私は私の信仰を確かめるために、
  山に篭って修行をやりなおそうと思っています。

  私をお許し下さい」


                by「ラストニュース」弘兼憲史


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人はそんな風に、いつしか慢心により何かを見失ってしまうもの。

誰もがそんな過ちを犯してしまう危険性を持っている。

人は弱く、愚かで、誘惑の前にそれに溺れず、惑わされず、
「間違えない」という保証は絶対にできるものではない。

他人の中におのが業を見つけて、反面教師としながら、
常に未熟な自分とうまく付き合って行くことを知らされるだけだ。

いつまでも、最初の頃の、あの純粋さを忘れぬように・・・

時々振り返って、自分が歩いてきた道を見直し、
鏡に写った自分の顔をまじまじと見つめて、
自分の中のエゴイズムをチェックしながら、
いつだって自分は何も知らない「初心者」なのだと、
その気持ちで、いつもスタート地点から始めるつもりで、
そこに立ち戻って、原点から毎日を生きるだけだ。

そうすればブレることはないだろう。

先に進んだようで、上に昇り、頂上に到達したようで、
それでいて私たちは、まだ全然山の裾野にいて、
何もできない状態の初めの場所にずっとい続けてもいるんだって、
対して進めてないんだと・・・初めから
そしていつまで経っても同じ場所にずっといることに、
何度も気付かされるだけだから。


なんていうか、経験を重ねて、ベテランになっていく途中で、
失ってしまうもの、見えなくなってしまうものって、たくさんありますね。

傲慢だったり、怠惰だったり、そういうものが邪魔するわけで。

はじめの一歩の、純粋な気持ち。

仕事に喜びと意義を感じられた、あの何よりも計算のない、無垢な想い。


いったい、何処に置き忘れてしまったんだろう。

いつ何処で見失い、棄ててしまったんだろう。

この目は、いつから見えなくなってしまったんだろう。


あの頃の素直な気持ち。自分を・・・



そうして仕切りなおし。

いつの間にか、自分が辿ってきた道が少しずつズレて、
いつしか目的地からはるか離れて、
相当遠くまできてしまっていることに気付いたなら・・・

初心に戻って、軌道修正をすればいい。

何もかもはじめから、やり直せば良い。

とにかく最初に戻れば良い。


見失いかけた目標、
失って、燃え尽きてしまったパッション。

自分は本当は何をやりたかったのか、

この仕事を通して、何をしたかったのか、

何をしたくてのこの仕事なのか・・・


原点に返ればいい

スタート地点に帰るんだ

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