ここのところ、
スピな話題はとんとご無沙汰なので、
たまにはそっち系の雑談をば。
「視える人ですよね?」と聞かれた日には、
ひとこと、
「いや、視えません」
ええ、本当に。
たまに視えることもあるけど、たまたまのことです。
私にとって、視えている状態とは、
生きている人やそこにある物質的なものと同じように、
三次元のレベルで、見えること。
リーディングで感じ取ることとは別になります。
リーディングで過去生のビジョンやエレメンタル、
霊的な存在などを捉えるときは、
頭の中(前頭部のところ、額あたり)に画像として感じるだけなので。
この二つの視え方って、同じではないのです。
前者は生々しいけれど、
後者は「・・・のような気がする」といった感じで、
夢とか頭の中で想像したビジョンを見ている感覚なので、
受けるインパクトというか、
心理的かつ精神的ダメージがまったく異なります。
前者で視てしまう状況のほうが、
視ているものが普通ではないことに「気づかない」ことも多いけれど、
明らかに異質なものであると気がついてしまったときには、
受けるショックはたいそう大きいです。
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子供の頃から20代前半位までは、
たぶん、視えていました。好むと好まざるに関わらず。
いつでもどこでもってわけではなかったけれど、
視たくないものをたくさん視させられることは多くて。
このブログの初期の頃のどこかの記事に、
そのあたりは書いてあったかと思いますが。
いまはありがたいことに視えません。
町を歩いていて、普通の生きている人たちに混じって、
ふらふらしている霊だとか、温泉につかっている霊とか、
友達ンちに行ったときに挨拶してくださるご家族の霊とか、
わざわざ千葉まで来てくれた祖父母の霊とか、
夜行列車に乗ってたときに窓からこっちを睨んでた霊とか、
身た途端、失禁しそうになったり、
泡吹いて気絶したくなっちゃったものとか、
布団かぶってブルブル震えてしまったこととか、まあ色々と。
やはり、目ン玉飛び出るほどビックリするし、
子供にとっては恐ろしいというか、怖いものです。
慣れるとかいわれても、慣れません。
仏さまや観音さまや、そういうメルヘン?ちっくなのを視るのは、
子供には面白いというか、不思議でも楽しかったですけれど。
職場で、お茶飲もうと、給湯室の扉を開けたなら、
下半身モロ出しでイチモツをいじくってる、
オッサンの霊なんか視てしまった日には、
何が悲しゅうて、こんなもの視させられなくてはいけないのかと、
落ち込むと言うか、マジ泣けた(TT)。
ずっと仕事に熱中してて、ふと顔を上げたなら、
動画机の上に、落ち武者の生首が乗ってたときにも、
そのまま白目向いて、心臓止まってしまうくらいの衝撃で。
その時はあまり知識がなかったから、アレだけど、
後で思うに、その職場がとてもよくない場所にあって、
そういうヘンなものが集まってくる条件が揃っていたのでしょう。
ちなみにそのスタジオは東高円寺は青梅街道の近くだった。
なまじ絵を描くという、
右脳を最大限使う仕事をしていたせいなのか、
この頃は人生で一番いろんなものが視えちゃって、
死にたいくらいに辛い時期でした。
「もーやだー! 視たくない! みんな消えて!」
って、毎日のように叫んでいたかも。
体調も最悪で、仕事が不規則だったせいもあるけれど、
起きれなくて、毎日身体が重くて、だるくて、
遅刻も多く、当然ながら精神状態も不安定になり、
会社や同僚そして友達や彼氏にもたくさん迷惑をかけてしまった。
視えなくなりたい、頼むから視たくない、感じたくもない、
視えないようになりますように・・・・って、毎日祈ってた。
当時視えていたのは、いわゆる波動の低い、低級なもの。
浮遊霊とか、地縛霊とか、その手の類のものばかりで。
自分が死んだことに気づいていなかったり、
気づいていたとしても、生前の妄執や習慣に縛られて、
生きている人に悪さをしたり、脅かそうとしているヤツラだったり。
醜いもの、汚いもの、いっぱいてんこもり、でしたね。
ホント、ノイローゼというか、頭おかしくなりそうというか、
いやさ自分はマジメに頭がおかしいのではないかって、
勇気を出して精神病院にも受診行きましたよ。
でも、何の助けにも解決にもならなかった。
思えば、ネガティブなものの影響ばしばし受けまくり、
憑依されまくっていたんだなあ、と、痛感。
そうした経験は、後の私の仕事をするためにも、
とても必要な経験だったのだと思う。
知識を学んだとき、実体験を通して、
「ああ、そうだったのか」と気づかされ、
納得させられることも多かったから。
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「いやだ、いやだ、
視たくない、視たくない、
視えないようになりたい、何も視たくない、
とにかく、霊なんて絶対に視たくない、
お願いだから、視えなくなりますように!」
って、ずっーーーーーーーーーーと、願ってて、
おかげさまで今は視えない。
三次元に存在するモノのように、
それらを視覚的に捉えることはなくなって。
ピタッと止んだのは、
占いの仕事をするようになってからだけれども(笑)
視えないってのは実に平和だった。
頭がぱっくりと割れて、はみ出た脳と血をだらだらと流している人、
轢死でバラバラになった肉体の一部、
鬼のような形相で他人を睨みつけている人とか、
誰かの頭の上にたくさん乗っている、気色悪い顔たちとか、
気色の悪いもの、吐きそうになるもの、恐ろしいものを
視なくて済むのって、なんて素晴らしいんだと・・・・
まあ、今も、忘れた頃に視てしまうことが、
まったく無いわけではないのだけれど、
昔みたいに恐ろしい、気持ち悪いものではなく・・・
ほとんど心の眼のほうで視えているので、
ダメージもショックもなく、楽です。
時に視えない人は、視える人のことをうらやましがるけれど、
ちっとも、うらやましいことではなくて、
視て楽しいものばかりではないことを、まず知っておいて欲しいと思う。
視たいものだけ、選別して視れるわけではないのでね。
切り替えることができるようになるにしても、
それはそれなりに修行?というか、段階を踏んで、
それができるようにならないとなので。
最初から、恐ろしいものを排除して、
キレイなものばかり、波動の高いものだけ視ようとしても、
それは無理ですって、言っておきます。
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