2015/11/04

巡礼・・・日々の内省とふりかえり

自宅が仕事場という私の場合、通勤する必要がなく、
移動時間に充当するカロリー消費がないので、結果、運動不足に。
なので、最低でも週二日はウォーキングをするよう努めている。
おばさんなので、日焼けは大敵だけれども、
日光に当たること(光合成?)も健康のためには欠かせないことだ。

神社やお寺に寄ったりすることもあるけれど、
散歩すがら目に映る風景を見るのが、とても楽しい。
お気に入りの喫茶店や場所を見つけることも含めて。


歩きながら、様々なことを考える。
最近のこと、少し前のこと、過去のこと、これからのこと。
もちろん、仕事のことも。

次回スクールにて、生徒さんに出す課題について考えたり、
セッションやリーディングなど相談の場で、
ああ言えば良かったのか、こう言えば良かったのか、
伝え足りなかったことや見逃してたことはないかの反省をしたり・・・

そればかりではなく、
自分という人間についても、あれこれ考えてみたりする。

傲慢に陥っていないか、目が曇っていないか、
謙虚さを失っていないか、感謝を忘れていないか・・・など。

過去を振り返り、行動を思い出し、
その度に「気づかされる」ことがあって、新たな発見があったりする。
当時の自分には、気づけなかったこと、
その時には理解できず、
見えていなかったことがいかに多かったか・・・を。


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”君は怒りの中で 子供の頃を生きてきたね
でも 時には誰かを 赦すことを覚えて欲しい”

                  by浜田省吾「悲しみは雪のように」


友人が、
アルバムをダビングしてくれたカセットテープに添えてくれたフレーズ。


そんな風に、傍目にも明らかなほど、
若い頃の私はいつも怒りを内部に貯めていた。
自分の生まれた環境と境遇、親や大人に対する怒り。
誰も助けてくれなかったことへの絶望。
触れると発火してしまうような、
そんな不安定さと毒の棘を持ち合わせて。


”愛も暴力も 人はその成長過程で学ぶ
 暴力しか学ばなかった子は、暴力でしか自己表現できない”

客観的に見ると、
そんな風に扱われた子が、そのように育ってしまうのはわかる。
自分がそうなってしまった理由が、何故心が蝕まれてしまったのか、
当事者として体験してみて、イヤというほど、思い知らされたわけで。

それは致し方ないことだけれども、かといって、
それを言い訳にするのは、自分の弱さ以外の何ものでもない。
10代の頃ならまだしも、成人してからは・・・
それは自分で克服しなければいけないことだった。

若い頃の私は・・・ずっと親や環境のせいにして、
その傷口をなすりつけて、自分の弱さで他人を傷つけていた。
そのために、いかに多くの時間を無駄にしたことか??

友として出会った人、仕事で出会った大勢の人々、
趣味の場やその他の出会いも含めて。

自分が未熟であるが故に、性格上の問題を抱えてるが故に、
本当に多くの人に迷惑をかけてきたし、
振り回したり、不用意な言葉のナイフで傷つけてもきてしまった。
この厄介な性格のせいで。
堪忍が足りず、忍耐も足りず、不寛容で短気で、
優しさや思いやりが足りず、言葉も足りなかったり、余計だったり、
上手く伝えることができなかったり、表現方法をたくさん間違えて。

霊媒体質ということもあり、
原因は憑依なんかされちゃったこともあるのだけれど、
そんなのは単なる言い訳。

今の自分だったら・・・
今だったら、もっとうまくやれたのに、
今の自分だったなら、あんな風に相手を傷つけることなく、
友好的な関係を築けたかも知れないのに、
もっと適切な方法で、それをこなすことができたかもしれないのに?

本当に、私ったら、いつまで経っても、ダメダメで、
気づけたと思っても、まだまだで、
そんな自分のダメっぷりに、がっかりさせられたり、
先は長いなあ、と、呆れてばかりの日常。

霊的な知識は豊富でも、
見えない世界のことに関しては通じていても、
現実社会に生きる人間としては欠陥商品というか、
いい年してまだまだ子供で、大人になりきれてないなあ、と
思うことしかり。
人間力はホント、弱いのです。
発展途上といいますかね。

そう反省しながらも、
それは必要なことだったのだと思ったりもする。
起こるべきして起きてしまったことだとも。

過去をやり直すことはできず、
時間はもちろん取り戻せないのだけれど。


そして、時おり

過去にあった出来事、
お互いにいろいろ会った人の顔を思い浮かべて、こう思う。

どうすればそれを避けることができたのだろうか?
とも、考えてみるけれど・・・。


「私に必要な経験を与えてくれて、ありがとう」
「私のために悪役を演じてくれてありがとう」
「教師として、私に痛みを教えてくれてありがとう」

そして、

「嫌な役をさせてしまってごめんなさい」
「私のせいで不快な想いをさせてしまって、ごめんなさい」
「私を憎む気持ちを持たせてしまって、
 ネガティブな感情を味合わせてしまって、ごめんなさい」

「出会ってくれて、ありがとう。
 あなたとの出会いに感謝します。
 あなたの存在にありがとう。
 もう二度と今生では会うことはないでしょうし、
 来世のことは判らないけれど、
 あなたの幸せを心から祈っています。
 あなたが、一日も早く、
 真実の自分を取り戻すことができますように・・・」

そうやって、感謝して、
その人たちの心の平和と無事を祈ってみたりする。

今生では友好的な関係を築けず、
ともすればネガティブな感情をお互いに抱きあった者同士にしても、
その出会いはとても貴重で、
いろんなことを教えてくれた関係だから。

痛い経験でさえ、それは「与えて」もらったものだから。


中には、そんな想いを向けられること自体が、
はた迷惑だって、やめてくれって人もいるかもだけど。

でも、感謝しているのは本当。
現実的に再会したときには・・・今の人生では、
ハグなんかして、和解と和合をすることはないかもだけど。


もちろん、親切にしてくれた人、お世話になった人、
変わらない友情を示してくれる友人、
たくさんのものを与えてくれた人もいて、
現実的なお礼もできないままに、
感謝を十分に伝えることができずに消息が判らなくなった人もいて、
一人ひとり思い出しては、あのとき、あの日、
いえなかったお礼の言葉を、感謝の気持ちを、
伝えてみたりする。

元気かなあ、楽しくやってるかなあ、幸せかなあ・・・と。



歩きながら、歩きながら・・・

一歩ずつ、足を踏みしめて歩きながら、

そんなことをあれこれ考えていたりする。

過去に想いをはせ、目の前にいない人のことを感じ、思い出し、

反省したり、

取るべきだった・・・ベストな行動をシュミレートしてみたり、

どうしてあのようなことが起きたのか、
どうすれば避けられたのか、
まだ気づいていない事実はあるのか、
私が、気づけていないこと、見えてないことがあるのか、
なぜ・・・自分にはその経験が必要だったのか?


など


そして、今自分がとるべき行動やするべきこと、
誰かに対して、とるべきスタンス、いるべきポジション、
どうふるまうべきなのか、何を示すべきなのか、
自分ができることは何なのか・・・

そんなこともあれやこれや考えてみる。


歩きながら、街の風景を見て、そこにあるものを感じて、
時間の中に自分を泳がせながら・・・

今、周囲にいる人のこと、友人のこと、お客さんや生徒さんのこと、
リアルな知り合い、去っていった人、もう二度と会えない人、

いろんな人を思い出し、彼らについて考えてみる。


自分の人生の誤りを正すために。
間違いに気づき、するべきなのにしてこなかったことを見つけるために。

この世において・・・周囲の人に対して、
自分が果たすべき役割をちゃんとできるようになるために。

人々に、私が伝えるべき「愛」をきちんと伝えられるようになるために。


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つくづく思うに、自分という人間は、
この仕事に「育てて」もらっているのだと思う。

この仕事をすることによって、
ヒーラーやセラピストという仕事をすることによって、
私は自分という人間を磨かせていただいているのだと。

これまでの人生で出会ってきた人々はもちろんのこと、
私はお客さんとして出会った人たちからも、
たくさんの経験を与えてもらっている。

スクールは、そのもっともたるもので、
生徒さんたちを教えるという行為から、
私は実に多くのものをギフトとして頂き、
人間としての研鑽を積み、自分の問題に気づく機会を与えてもらっている。

講座のほうではやらないが、
スクールでは、個人が改善すべき問題について指摘したり、
皆で話し合ったりするレッスンがある。

生徒さんが示してくれる弱点とも言うべき問題は、
私自身の問題の投影であり、彼らの問題と向き合うことは、
私が私自身の問題と向き合うことであったりもする。


出会う人はすべて、自分の映し鏡だと思う。

私に、不快な想い、「困った問題」をもたらす人は、
誰あろう、かつての私自身の姿だ。

私がその人によって困らされ、消耗することは、
昔の私が、誰かを困らし、消耗させた証だ。

私が傷ついたとするなら、その傷は私が誰かに与えた傷だ。

先日、このブログの「自分が撒いた種・・・」の記事で書いた青年も、
あれも、ある意味で「昔の私の姿」だったりする。

有頂天になって、にぎやかししていた頃の私。
リーダーシップを発揮しているつもりで、そんな度量なんかないのに、
自分の思うとおりに他人も物事もコントロールしようと欲し、
思うようにいかないことにいらいらしたり、腹を立てて、
いい気になっていたバブルな自分。

あのとき、私が抱いた「悪意」は、私が誰かに抱かせた悪意。
そうやって私は、私の「成功」や「幸福」を望まないエネルギー、
自分で自分の人生を邪魔するエネルギーを集めていたんだと・・・

そんなふうに、出会う人すべてがいろんなことを教えてくれる。

毎日が発見の日々で、気づきの宝庫だ。



クライアントさんや生徒さんとして、出会う人々、
お金を頂いて、導かせていただいたり、教えたり、
力になることをさせて頂いている行為にさえも、
いつも私は「人間」としての自分を見つめさせ、
考えを矯正され、至らなさに気づかされ、
常に自分のエゴイズムと対峙させられる機会を与えてもらっている。
そればかりではなく、
人生の奥深さ、一人の人間の生の素晴らしさ、
魂の変遷としての奇跡のドラマを知る醍醐味を与えてもらいつつ・・・

この散文のまとめとして、

これまでに出会えた人にありがとう。

クライアントさん、生徒さんにありがとう。

私の友人として、私を見捨てないでいてくれる友にありがとう。

私を支えてくれる人々、助けてくれ、

人生の素晴らしいギフトを日々、教え、与えてくれる人々にありがとう。


また、このブログを読んでくれているあなたにもありがとう。

これから、出会う人にもありがとう。

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