2015/11/03

サロン案内~メッセージ

苦悩し、
壁にぶつかったときこそが、
自分を変え、人生を変えるチャンス


占い師、ヒーラーを経てサイコセラピストとして、
そしてスピリチュアリズムを教える仕事に至るまで20数年、

人生も半世紀生きてきた私ですが、
ここ数年かの間でようやく気づけたことがあります。

それは、人はなかなか変われないものである・・・という事実と、
本人にとって、苦しいこと、辛い経験というのは、
実のところ、必要だから起こっていることであって、
すべては起きるべきして起こっているということです。
どんなことも、当人が引き寄せたことであって、
その人がその人であるからこそ、
結果として目の前に現実として現れているのだと。

これまで私は、クライアントの傷を癒し、
その人を辛い現実や心理状態、
過去の痛手から解放することにばかりフォーカスしてきました。
つまり、状況を改善したり、問題を解決したり、
理由を外部に求めて、何かのせいにすることで、
クライアントの苦悩を軽減する事ばかりに目を向けていたのです。

けれど、実のところ、
その辛い経験や障害として横たわる壁そのものが、

まさにクライアントさんにとって、必要かつ重要な学びのレッスンであり、
決して疎かにしてはいけないことでした。
つまり、起こるべきして起こっている出来事であって、
そこから「楽」になる道ばかりを考えてはいけなかったのです。

安易に心を慰めて、苦しみからの逃げ道を作って、
損なわれた自尊心を回復させ、今のままのあなたでいいと、
自己肯定をして生きる力を与えたりすることが、
当人のためにならないばかりか単に甘やかしてしまう結果となり、
用意された貴重な人生のレッスンを台無しにして、
人間的に成長できるせっかくのチャンスを奪ってしまうだけであることを、
私はこの数年の様々な出来事を通じて、
イヤというほど思い知らされることになりました


挫折や苦痛を伴った経験を味あわないと、人は容易には変われない

辛い現実や苦しい体験、悲しい出来事から、
人は早くそこから楽になりたいと考えるものです。
「痛み」を快楽と捉える人は、そうそういません。
でも、人が「痛み」を感じるのには・・・
その人が痛みをともなった経験をすることになってしまったのには、
ちゃんとした理由があります。

それは何故かと言うと、
人には「痛み」を通してしか、学べないことがあるからです。
「痛み」を味わう経験をしてしまうのは、
その人が間違った選択をしているからです。
それは考え方だったり、感じ方だったり、行動だったり・・・
生きる姿勢や自己表現そのものを間違えていたり。

病気もまたその表れのひとつには違いありませんが、
多くの人が、病気そのものを悪と捉えて自分の中から根絶しようとし、
「何故、そのような病気にかかることになったのか」
 病気を自分の中に招き入れてしまった(創り出してしまった)

生活習慣や食生活を見つめなおし、
改善しようという試みをほとんどしないように、
自分の考え方や感じ方、行動のパターンなど、
自分自身の性格や人生に対する姿勢が、
結果として現れている目の前の現実を創り出している事実に、
人はなかなか気づこうとはせず、うすうす気づいたとしても、
そこから目を背けてしまい、自分と向き合うことを避けてしまいがちです。

「痛み」を伴う経験というのは、このことを知らせるために、
当人に過ちを「気づかせる」ために、
信号として発信されている出来事でもあります。
ときに人は、このことを「カルマ」という、
人生のレッスンとして呼ぶことがあります。


すべての出来事には意味がある

辛い状況や苦悩させられる問題を、
その人にとっての不幸や「悪い出来事」として単純に捉えて、
そこから逃避する方法や安易に解放される道ばかりを模索しても、
それは何の解決にもなりません。

何のために起きているのか、何が原因でそうなってしまったのか、
この出来事は自分に何を教えようとしているのか、
そのことについて考え、自分自身の内部にある問題にフォーカスし、
根本的原因を探って、改めるべき点に気づき、
自分の間違いを正していかないことには。

例えば・・・前述のように「病気」を例にしていいますと、
ちょっとした微熱で寝込む人はそうそういません。
体からの救助信号が軽度なものである場合、
ほとんどの人が無視します。
体にとって良くないものを長年摂取していくことで、
少しずつ内臓はボロボロになっているのですが、
そのことに対し、体が持ち主に対して起こす反ストが、
前述のような微熱だと救助信号は無視されてしまいます。
そこで体は、この程度の疾患では持ち主が気づかないと知り、
もっと重篤な状態を作り出すことがあります。

人生における「問題」というのも、得てして似たようなものです。
ちょっとした「問題」、軽い痛みでは無視されてしまうので、
もっと大きな問題、より大きな痛みを感じる出来事として、
当人に知らせていることがほとんどだったりします。
どんな出来事にも「予兆」というのはあるものです。
小さな出来事を見過ごしているがゆえに、
大きな出来事になってしまうことが。どんなことも、
小さな出来事の積み重ねであり、
些細なことが原因になっていることは多いものです。

そして、後になって、物事が収集もつかないほどに大きくなり、
激しい痛みをもたらすようになってから、
いかに大切なことを見過ごしてきたか、
疎かにしてきたのか思い知らされたりするのです。

そんな風に物事には始まりがあり、
すべてが繋がっていて、無関係ではありません。
この世に起きていることで、意味のないことなど、何一つないのです。
なぜ、「結果」としての「現状」に出会っているのか・・・
そこにはあなただからこその、人生の真の意味があるのです。

挫折や障害は、
ある意味でその人を大きく成長させるためのプロセスとして起こっています。

「無明の前の光明」という言葉がありますけれども、
辛い現実が起きている最中だからこそ、
その中に、その人が変わるべきチャンスが隠されていて、
人生をやり直す多くのヒントが与えられていたりもするのです。

ですから、この「気づき」のチャンス、
起こるべくして起こっている出来事から、
何も学ぼうとしないのは、とてももったいないことです。
痛みを単に辛いだけの経験として片付けてしまうことは、
本当に気づくべきことから目を逸らさせ、
宿題を先延ばしにし、いたずらに苦しい状況を長引かせるだけです。
その人を成長しないまま、弱い部分や欠点を残したままで、
間違ったままにしておくことです。

それを正すチャンスが訪れているのに、れを逃すことは、
どれほどの人生の無駄と損失をその人にもたらすことでしょうか。



人生のレッスン(カルマ)とは、エゴイズムを失くすためのトレーニング

痛みとは恐怖から生まれ、恐怖はエゴイズムから生まれます。
エゴイズムがあるから、人は痛みを感じ、
心に傷を作ったり、苦しんだり、人を憎んだりします。
罪悪感を持ち、自己憐憫に浸りもします。空虚さを埋め、
自尊心を満足させるために物欲にも走ったりします。
エゴイズムが心を飢餓状態にし、孤独を作り出し、
自分に無いものを他者に求めたりもします。
そして、多くを期待し、求めすぎることで裏切られたと感じ、
期待したものが与えられないと失望したり、
逆恨みしたり、怒りを内にも外にも向けたりします。
私たちが不幸とか悲劇だと感じていることのほとんどの原因は、
エゴイズムに起因していたりします。

とはいうものの、人が人である以上、
恐怖やエゴイズムを完全に捨て去ることはできません。
人間ができることは、自分の恐怖の種(エゴイズム)を知り、
それに対処していく方法を学ぶだけです。
つまりは、エゴイズムに操られたり、乗っ取られたりせずに、
自分の意志で自分自身をうまく操縦していく術を身に着けていくことです。
これは「悟り」とは少し異なります。

まずは、繰り返すパターンや問題、
今痛みを感じている出来事や悩んでいる事実そのものが、
自分にとっての貴重な人生のレッスンであるのだと受け止め、
そこから何かに気づこうとすることです。そこから学びが始まります。
つまりは現実を直視して、そこから逃げようとするのをやめることです。
テストを放棄するのではなく、テストを受ける気持ちを持つこと。

すなわち、自分に与えられたレッスンの意味を知り、
そのレッスンを通し、自分自身を知ろうとすること。
そして、自分のエゴイズムに気づき、
自分のエゴイズムが創り出している現実をきちんと見ていくこと。
自分が何に気づくべきなのか、自分が表現している、
どの部分が自分にとっての問題を創り出しているのかを見極めて、
それを改善するべく努力すること。
それだけです。というか、そうした努力をすることが、
結果として生まれてくる現実を変え、
本当の自分が望んでいる未来を創造することの早道になります。



人生そのものが癒しの道程

結局のところ、カウンセリングやセラピー、ヒーリングの場において、
癒しのプロセスを起こすのは、ヒーラーではありません。
その人に見えない部分を示すための映し鏡としての役割をし、
ナビゲーターとしての道案内をしても、
その人の人生において、ヒーラーやセラピストは、
たくさん用意された駒のひとつでしかなく、
様々な要因や導きが重なって、
人生での「気づき」というのはパッシングされているのです。

セッションの時間は、
それを引き起こすために用意された空間ではあるけれど、
「気づきの経験」はセッションの場だけにあるのではないのです。
そこに至るまでの出来事、そして、その人の日常のすべて、
過去生も含めた人生そのものが、
その人がその人らしく生きるための本来の「正しい道」に進んでいくように、
常にそのための後押しをしています。
つまりは、スピリチュアルなセッションの場だけが、
「気づき」をもたらす場ではないのです。
セッションを受けなくても、人生の意味に気づき、
自らのレッスンを解いていくことはできます。セッションを受けて、
自らの問題を指摘され、レッスンの意味を教えられてもなお、
そこから何も得ようとせず、気づこうとせず、
変わることを選択しない人もたくさんいます。

セッションを受けたから、問題が解決するのではなく、
苦悩が終わるのでもないです。
それをひとつのきっかけとして、選択するかどうか、です。
つまりはスピリチュアルなセッションや提供された情報を用いて、
自らを変革していく手立てとするか否か、は、
その人自身にかかっています。なので、
セッションやスピリチュアルなコンタクトなど、
それだけを頼りにしても、
「気づき」や「答え」が自動的にもたらされるものではないのです。

とはいうものの、
セッションの場は、あなたの人生に自分以外の客観的な
第三者の視点を加えることになりますから、
自分の問題を自分が見ることができない視点から見直すには
良いきっかけにはなるでしょう。
問題に縛られて、視野が狭くなっているときには特にそうです。

私というサイコセラピストは、
クライアントがその人のために用意された人生のレッスンを、
自身でクリアできるように、ちゃんと学んでいくことができるように、
辛い状況から逃げることではなく、
気づくべきことに気づいて乗り越えられるように、
その人の人間的な成長をサポートすることこそ、
肝心なことなのだと気づき、襟を正している次第です。

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