2015/11/01

2013 レポートNo.1 「M・Mさん」

スクールでの4年間
                              
●最初の2年間
養成講座が終わり、そのあとのおさらい会を過ぎて、
最初のクラスメートと過ごした2年間は、
楽しみだった反面、私にとって緊張感のある、
少し居心地の悪さを感じることも多かったときでした。
居心地の悪さを感じたのは誰かのせいではなく、
私はいつも、周りの目を気にして、
自分が注目されることを望んでいたからです。
少しの指摘にも傷つきやすく、大げさに感じるばかりでした。
また、人並みにあつかって欲しいとひたすら求め、
たぶんスクールのみなさまを緊張させる一因になっていました。
居心地の悪さは、自己愛の強さから来ていたようでした。

注目されることを求めるのではなく、
私が人に注目しよう、と思い始めたときがこの時期でした。
個人セッションの時に、
「友人は自分が何かを助けてもらうためにつくるのではなく、
自分が大切だと想えるひとのことをいうの」
と教えていただいたとき、何かが少しずつ変わっていったように思います。

この2年間の初めのほうで、
障害についての考え方を見直す機会がありました。
今度生まれてきたときに障害を持ちたいか、ということを聞かれたときです。
私はとっさに、自分の気持ちでなく、
「障がい者としてこの質問にどう答えるか」ということを考えていました。
私にとって、それまでの人間関係は、
自分が生きるための道具であり、戦略でしかなかったのかも知れません。
障がい者というかたちで生きることは今回限りにしたい…
そういうほんとうの気持ちに向きあうまで、
スクールの時間がとてもつらく感じました。
障がい者手帳を持たない方から、障害を持って生まれてくる本当の意味と、
私もその例外ではないことを知らされたことに抵抗があったのです。
思えばそれが私にとっての、スクールでの最初の大きな出来事でした。

その後も、多くのことをひとつひとつ指摘されるたび、
心の中がざわついて、何とも言えない罪悪感と焦りを体験しました。
それでもそのひとつひとつに私なりの答えが出せるかたちで
進むことができたことは、とても感謝しています。

私の過去生について、重要なことを想い出したのは、
障害のことを乗り越えたあと、
このメンバーで過ごした後半だったと思います。
多くのエネルギーのアチューメントを受けさせていただいて、
過去生を知る機会が増えていたことも確かでした。

過去に私がやってきたことがあまりにもひどく、残忍で、
私がやってきた行いによって多くの人の人生が狂ってしまい、
今も狂わせていると知ったとき、
どうそれを受けとめればいいのかわからなくなりました。

みなさまの前で2500年前の告白をしたとき、私は、
スクールメイトであるみなさまも、それぞれ自分の過去生を受けとめて、
こんなふうに大変な思いを抱えているんだと思いこんでいました。
私は自分がいちばんわかっていないと感じ、
他の方々はいろんなことがわかっているんだと思っていました。
いつも他の人の話を聞いていることが多かったと認識しています。
それはしゃべることが大変だったのではなく、
何をしゃべっていいのかわからなかったのでした。

最初の一年半が過ぎた辺りから、
毎日の瞑想を怠けずにやりはじめました。
それまでは毎日はやっていなかったと思います。
最初は精神的にもそんなに変化もなく、ただ義務感でやっていました。

クラスメートの一人がやめることとになった事と、
私の小指の骨折が関連していた一連のハプニングは、
多くのことを知るということへの責任と真摯さを問い直す出来事になりました。
知るということはそんなに甘いことではない、と身をもってわかりました。

私が今生かされているということはどういうことなのか、
生まれさせていただいたということはどういうことなのか、
このまま生きていくということはどういうことなのか、
この時期はとても悩み、答えは出ませんでした。

●3年目
2期生の方々との合同のクラスになった一年間は、
今までのスクールへの私の固定観念を崩すと同時に、
私の過去生からの行いを反省する年でもありました。
ひとつひとつのものすべてにおいて「こうあるもの」と
思い込んでしまう思い癖を修正する時間をいただいたように思います。
また、多くの過去を想い出す機会をいただいて、
スクールのみなさまの人生に過去生の私が
マイナスに関与していることを知ったのもこの一年でした。
1期生の方々に対してもその傾向がありましたが、
2期生の方々には私の過去生がマイナスに作用していることが多く、
申し訳なくていたたまれない思いにかられることもしばしばでした。
恥ずかしくても申し訳なくてもそこに居続けることができたことは、
今考えるととありがたい時間だったと思います。。。
つらい思いをしたのは私ではなく、
過去の私の言動や行動につきあってくださった方々なのだということを
忘れてはいけないと思いました。

クラスで過ごした時間は、
発見が多く、とても楽しく、充実した一年間でした。

1期生の方々が結果的に半数以上離れていったことは、
私はなかなか理解できなかったことでした。
私はやはり物事や人の心を表面的にしか見ていなかったのだと思いました。
自分にいいように解釈して、ただその世界を見ていただけ、
自分のことだけを理解しようとするだけで、
人が見ている世界や価値観を理解しようとしなかったというか、
興味を持とうとしなかったのだなあと思いました。
なにも察しがつかなかったのが、そのことを物語っていました。

この時の一年間は、自分の立ち位置を見極め、
自分以外の世界を理解することを心がけていたように思います。
本当に少しずつですが、我の強い部分が薄れはじめ、
寂しさや恐怖感を手放しはじめたように感じています。

一年間過ごしたあと、スクールをやめようかどうしようか悩みました。
長く在籍すること自体が私の依存心からになっていないか。
介助の人が入れ替わり立ち替わり
出入りしてもらう状況で参加し続けていいのか。
スクールが引き続き開催されることがわかったとき、
私が気になったことはこの2点でした。
アルマさん、みなさまに引き留めていただいて、
あと一年続けてみようと思い直してからも、
この2点のことで悩んでいました。

●4年目の一年間
スクールに残る決心をしては見たものの、
私はまだ緊張がとれないまま出席をしていました。
みなさまからのサポートを受けながら、
私がスクールでできることを探し続けていました。
数多くの自分の過去生が明らかになっていく中で、
あるとき、何かができることを
誰かにわかってもらいたかった自分がまだいたことに気がつきました。
なにもできないそのままの自分をまず自覚して、
みなさまの中で、周囲に興味を持つようにしたら、
自然に自分のやるべきことを
できるようになるのかも知れないと思うようになりました。
物理的になにもできないこと、空気を感じられないこと、
人の気持ちに鈍感なこと、
すべてが今の自分の現実なんだということをいったん受け入れて、
そこからはじめようと思えたのでした。
出来ないなりに出来ることはやろう、
感じられないなりに出来る限り興味を持とう、
鈍感なりに人の気持ちを感じる努力をしよう、と。

いつからか、心の緊張を感じているのは
私だけではないのかも知れないと思えるようになりました。
自分に集中しないということは
こういう感覚なのだと少しだけわかったような気がしました。
まだまだ把握できないことばかりで、
ご迷惑をかけるとは思いますが、あまり過度に緊張することなく、
いくぶんか自然にいつづけられるようになったように思います。
また、どなたかの心が癒える瞬間に立ち会えることが、
とても貴重な経験であり、うれしい時間でもあります。
少しでもそれがわかるようになったことが、
何とも言えない豊かな気持ちを味わえる機会を
持てるようになったことなのだと思います。

自分を特別視してしまい、人を上から見てしまうのは、
私自身が無知だったからだと思います。
多くの知識が身につけられるよう学びをつづけ、
長い年月がかかったとしても
いつかはそれを自分の血肉としていかせるように、
努力していきたいと思います。

一年前は、スクールを続けるかどうかで迷いましたが、
この場所は私にとって大切な経験が出来るところであり、
さまざまな立場にたつということを
試みられるところでもあると今は考えています。
誰のためでもなく、誰に言われたからではなく、
未来の自分へのプレゼントのために、出席し続けたいと思っています。
私自身に意識集中してしまうことを出来る限り控え、
みなさまといっしょに考え、時間を過ごさせていただく中で、
いつの日か多くのことが理解できる心を持てる日が来たら幸せです。

そして来世では、自分の体を自由に動かし、
そばにいる人たちにつくせることがある自分でありたいと思っています。
私が自然に出来ることをひとつでも多くするために
諦めないで生きたいと思っています。

アルマさん、みなさま、本当にいつもありがとうございます。
この場所に今月もいられたことに感謝いたします。
これからもよろしくお願い申し上げます。

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