2017/07/29

何故、不貞はいけないことなのか

浮気をしない男性は全体の2割程度に過ぎず、
結果、ほとんどの男性というものは、
機会さえあれば浮気をする生き物なのだと言う。
女性も男性ほどではないにしろ、
仕事を持つ既婚女性の3割は浮気の経験ありで、
専業主婦では2割程度、独身女性も3割程度とやはり、
同等数の割合で不倫の経験者はいるものであると…。

こうした統計値がどのようにして取られたものなのか、
その信憑性、真偽の程は分からないが、
上記の理論で言うなら、
男女の比では男性は女性の倍以上の数が浮気をし、
主婦人口の1/3、3人に一人は浮気の経験ありという事か。
そして、浮気をする女性の割合が少ないことを考えれば、
同じ相手と関係を続ける、ということは少なく、
(浮気する)女性は全体の中で偏っていて、
その偏りの中にいる女性たちは生涯を通じて、
複数の男性と関係を持つ割合が高い人たち・・・
・・・ということになる。

もしくは男性の場合、同じ既婚者を相手にするより、
パートナーのいない独身者を相手に選んだり、
風俗などで割り切った関係を結ぶケースが多いのかも。

いずれにしても、
男性のほうが浮気、不倫をする確率は広範囲にて高く、
女性の場合、不倫人口には偏よりがあるというわけだ。


何故、男性のほうが浮気する確率が高いのか・・・

男女のこうした関係性は、
しばしば、「花とみつばち」に例えられる。

男性は、子孫を高確率で残そうと、あちこちで種まきをし、
女性は、男性を引き付けるために甘い蜜で誘惑を仕掛ける。

また、そればかりでなく原始的な本能のなせるわざで、
男は自分の子孫にとって最適な「母」になるような女を求め、
女は優秀な子孫を産むための種の持ち主を厳選し、
さらに子育てに最適な環境と自らの食い扶持を確保してくれる、
いわゆる三高な男性を他のメスと奪い合い、獲得し、縛ろうとする。

はてさて、男性のほうが共有を気にせず、
女性のほうが他者のものを奪い取ろうとする意識が強いような?

男は女の最初の男になろうとし、
女は男の最後の女になろうとする…らしいが。

まあ、いずれにしても、
浮気をしない男性は少数派ということなので、
貴重かつ希少価値のある生き物かも知れん(なんだかー)。

統計なんて誤りで、
もっと少ないものだと信じたいですが。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

私個人としては、
他人のものにはまったく触手が伸びないというか、
興味が湧かない人なので(芸能人とか憧れの人は別)、
相手が既婚者だとかパートナーのいる人となると、
「人のもん」つかその人の付属品にしか見えないので、
そーゆー経験はないが。

彼氏がいると知ってて誘ってくるヤツなんか、
「なんだこいつ」としか思えなかったですしねー
(若い頃の話ですぜ)

ただ、確かに周囲にはそういう状況はあった。
友達の中にも不倫や浮気をしている人はいた。

割り切って既婚者と付き合ってるのとか、
相手がいるのに、行きずりで遊んだーとか、
その心情を理解してあげることは出来ないんだが、
わりとよくある話と言えばそう。

占いの仕事をしていたときでも、
不倫のお悩み相談はてんこもり、でしたし~。

今でいうところの「サレラリ」話。

昔、知り合い(三人の子持ち主婦)だった人で、
旦那さんとレスとかで、
あちこちで恋の花を咲かせてる人がいた。
ちょっとどうなの?と目を細めてはいたものの、
そこまで親しい関係ではなく、
子供たちにとっては良き母親であったから、
何かそれに対して注意をすることはなかったけど。
そのうち、不倫相手の子を妊娠してしまったことで、
さすがにいい加減、関係を終わりにして
中絶すべきでは?と口を挟ませてもらった。
けれど、彼女は「命は大切なものだと思うから産む」、
自分の生き方を応援して欲しいとのこと。

して、旦那さんに正直に話して謝罪し、
ケジメをつけて離婚し、子育てするならいざ知らず、
旦那さんの子として育ててもらうつもり(托卵か)・・・と。
私は「あなたの生き方を応援することは出来ない」
そう伝えて、ご縁を断たせてもらったかな。

他、旦那さんとの関係性が冷え切ってて、
離婚を申し入れたものの受け入れられず、
その後で好きになった人もいて不倫関係になって、
慰謝料を払うから別れてくれとお願いしたものの、
それでも離婚してくれず、
仕方なく子供のために再構築している人もいる。

それと、
不倫小説の教祖みたいな某作家さんのとこには、
その世界観に酔いまくった不倫願望の強い女性たちが、
たくさん押しかけて大変だった、と聞いたことがある。
(据え膳食ったかは謎)

そして、何故か不倫体質の人っているのよねー
他人のモノにしか興味を持たず、
次から次へと既婚者に手を出す人が。なんだかー

なんだろーな、まあ、そんな風に、
身近なところでもそれなりにそうした話はあるので、
困ったことに浮気、不倫、不貞、不義密通etc...
は結構ある話で相変わらず減らない話でもある。

2chなんかではホント、この手のネタ尽きないしね。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

ただ、人の心って当人にとっても予測不可能なことで、
結婚してしまってから、本気の恋に落ちることもある。
出会うべき時期を間違えた、みたいなの。

複数の人を同時に愛せる人もいたりするし、
複数の人から愛されないと満たされない人もいるし、
その逆で誰の事をも愛せない人もいる。

恋愛フェロモンは2年が限界と人の言う。

気持ちは冷めるものでもあるし、
結婚して一緒に暮らしてから、現実を前にして、
相手に抱いていたものが妄想であり、
誤解であったことに気づかされることも多々。

いつまでも最初の頃の、
出会った当時の気持ちのままでいられるなんて幻想。

歳を取ってくると、
男性はハゲるし、お腹も出てくるし、臭くもなる。
女性も身体の線が崩れ、容貌も衰えて、オバサン化する。
(相手にいつまでも綺麗で若くいて欲しいなら、
相応の努力と金銭、生活の余裕が必要だったりする。
それを与えずして芸能人と同じレベルを求めるなかれ)

恋は誤解、愛は理解ではあるが、
恋に落ちたその日には、誤解しかなく、
相手の良いところしか目に入らないもの。
すべてを良いように取ってしまうなど、
盲目化現象に際限はない。

結婚前には両目をしっかりあけて相手を見て、
結婚後には、片目をつぶって見ないようにする。
ともいうけれど。

育ってきた環境も価値観も異なる二人だもの。
受けた躾、教育だけでなく、趣味とか嗜好とか共通点とか、
合わないこと尽くしなのに、
「好きだから」というだけの理由で無理に合わせていれば、
気持ちが冷め、夢が終わった瞬間には、日常は悪夢となる。

で、その時、どうするか・・・なんだけど。

結局は、
結婚てそういうことも想定しておかないと、なんだよね。
気持ち・・・恋愛感情が、自分あるいはパートナーのほう、
双方に無くなってしまったときにどうするか…

どのように協力関係を維持できるのか。
共同生活者としての相手をどう位置付けて、
どのような関係系を築き上げることが出来るのか。

いつまでも相手に「恋」していられたらいいし、
相手も、自分に「恋」してくれてたらいいんだけども、
もしくは「恋」から本物の「愛」の関係を育てられてたら、
家族としての人と人との絆を、育めてたらいいのだけど。
(いわゆる「聖なる結婚」てやつね)

でも、人の気持ちほど不確かなものはない。
人生に絶対はないという意味で。
人の心ほど、あてにならないものはないのだ。

先の事など、誰にも、自分にも分かりはしない。


パートナーがいるのに、
その人よりももっと好きな人が、
大切と思える人が出来てしまったのなら、
それはもう仕方がないように思う。

心を止めることは出来ないだろう。

どちらも大切とも思い、
今のパートナーに対する気持ちも嘘ではないが、
それよりも別の人への気持ちの方が大きいと、
明らかに恋だったり、愛だと確信できる場合など。

その気持ちを責めることは誰にも出来ないだろう。

互いが独身同士であれば、ことは簡単だ。
別れを選んで、より強く大切だと、
恋心を感じた相手の方を選べばいい。
(但しそれで上手くいくとは言えないし、
婚約していた場合は手順が必要だが)

だが、それが既婚者なら?
自分または相手がそうであったなら?
そして、子供がいる夫婦だったら?

ことは簡単ではない。

結婚は社会的な責任を共同で担う、契約そのものだからだ。
子供がいるのであれば、
子に対する養育義務を持つ親同士の関係でもある。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

不貞がいけないとされるのは、
それが契約違反であり、信頼を裏切る行為そのものだからだ。
恋愛にしても、結婚生活にしても、すべては人間関係なので。

相手の心も人格もおのが所有物ではなく、
自らの利己的な欲望や願望を叶えるための奴隷や便利屋としてでなく、
別人格として尊重し、畏敬の念を持って接せれるか否か。
男女の枠を超えた、精神的な愛があればなおよし、ではあるものの、
それは難しいことで、とりあえずは上記さえあれば十分であろう。


他の人を愛することが罪なのではない。

気持ちには、心には罪はない。

パートナーがいるのに、誰か他の人を好きになってしまった、
その心を裁くことなぞ、他の誰にも出来ることではない。

パートナーが、
配偶者がいる人を好きになることが罪なのではない。
そこには罪はない。

その人を素晴らしいと、素敵な人だと評価し、
心奪われてしまうのは、異性としての深い愛情を抱くことは、
自然なことで、ごく普通のこと。
現実を考えたときに、
その人は結婚している、という事実があるだけ。

それはハンデでしかなく、
相手が結婚しているという事実は、
相手が障害者であったり、異性ではなく同性であったり、
相手の家族に問題を抱えている人がいるとか、
その人が経済的に自立できていないとか、
そういうのと何ら変わりがない。

相手を愛(恋)することを止める理由にはならない。

ただ、現実を考えた時に、
そのハンデが乗り越えられるものなのか、
乗り越えられないハンデなのか、そのいずれか、なだけ。

そして結婚している人であるならば、
その人とは結婚できない理由があるってこと。
恋愛対象にしてはいけない人だって、それだけ。

その人のことが好きで、愛しているという気持ちは、
胸の中に大切に収めておくしかない。

互いが独身同士であれば問題ないが、
そうでないならば、
お互いの人生を、
人間関係を壊すような関係を築いてはならない。

肝心なのは、どう行動するか。

結婚した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまうことは、
それは不幸とも言える出来事なのかも知れない。

他に愛する人を見つけてしまったとき、
今のパートナーとの関係をどうすべきなのか・・・

大いに悩むことになると思う。

今の関係を解消して、心に素直になるべきなのか、
理性で抑えて、これまで築いてきた人間関係を、
家族との関係を選択すべきなのか…

問題はこの順番なんだろう。

誰かに心を奪われたことを「浮気」という人もいる。
肉体的な関係性がないのなら、プラトニックならば、
それは不倫とか不貞とは言わない…という人もいる。
けれど、肉体の浮気は赦せても、
本気になられるほうが赦せないという人もいる。
継続的な関係でなく、一度限りの過ちなら赦せるとか、
風俗ならば仕方ないという人もいる。
風俗もダメだし、女性とご飯を食べるだけでNGという人も。

(なかにはsexの相手をするのが嫌なので、
愛人を作って他所で性欲を満たして欲しいと・・・、
そのような正妻もいたりするし、
妻が他所で恋愛するのを楽しみとする夫もいるので、
夫婦がそれでよしならばそれはそれでいいのだろう。
が、こういうのは双方の価値観が一致していればの話)

そこは各自個別の価値観なので、
それをこう考えるべきと裁定したり、
間違っている正しいとも他人が言えることではないけど・・・

さりとて、

心霊科学の視点からは、
やはり人間関係を損ねるものであるか否か、がポイント。

属する社会の法や規範(この場合は日本)に従って考えるべきで、
相手に対して不実な態度を取るべきではないってスタンス。

つまり、どうしても他に好きな人が出来てしまい、
そのことで結婚生活を続けることが不可能であると、
心に正直になりたいのならば、
結婚生活を解消したいと、誠実に相手に申し入れるべきで、
その際に己が果たすべき社会的責任を道義的に果たし、
その後で、
好きになった相手に気持ちを伝えたり、関係は持つべきである。
いずれにしても、
法的配偶者がいるうちは、性的関係を持つのはNGということ。

配偶者以外の人を愛してしまう気持ちに罪はないけど、
不義理かつ不誠実な行動を取るのが罪ってことなのです。

人としての道に反しているか否か、なんですよね、すべては。

プリン脳やラリは、物事の筋道通していない人がほとんどで、
そもそも筋道通せる人だったのであれば、
プリン脳やラリにはならないのであろうが・・・

とあるコラムニストの人が、俳優の旦那が浮気したとき、
「私の作ったご飯を食べて、私が干した布団で寝て、
 私が選んだ服を着て、私が洗ったパンツを履いて、
 彼女に会いに行くのは止めてちょうだい」
荷物をつめたボストンバッグを放り投げて、そう云ったそうだ。

なるほど、本当にそうだ。
妻は家族ではあるが母親じゃない、他人だ。
自分の世話をしてもらうための一方的な存在ではない。
相手の想いを踏みにじっていい理由など何処にもない。

不倫は不義理以外のナニモノでもない。


あともうひとつ、
不特定多数の人と性的関係を持つのがよくないって理由がある。
性病の危険性があるからってことではなくて、
心霊科学的な視点から、ね。

Sexって、エネルギー的交流でもある。
お互いの第一チャクラを通じて、
クンダリーニのエネルギー的交換が行われるんだな。
(詳細を知りたい人はクロウリーの性魔術書とか
インドのタントラとかカーマスートラとかでも読んで。
ちなみに相手から性氣を奪ってダメ人間にしてしまうための
房中術という、それに特化した性的技能の暗殺術もある)

普通に、二人あるいは複数の人間が同じ空間にいると、
互いのオーラ的領域の空間を通じて、
エネルギー(エーテルバイタリティーすなわち氣)が
交じり合って、互いに吸い取られたり吸ってしまったりがある。
(3m四方もあれば十分で、時間にして約2時間。
10mでも共に過ごす時間が長ければ確実に影響を受ける。
都会の狭いアパートなら隣、上下の部屋からもお互いに)

まして、イチャイチャしてお互いの身体に触れ合い、
Sexという行為を通じて、エネルギー交換が行われると、
マイナスの意味でもプラスの意味でも、
色んな影響を相手から受けることになる。

これが単一の相手とならいいんだけど、
同時期で複数の相手とそういう関係性を持つと、
第一チャクラがぶっ壊れることも多々。
性的関係が乱れるというのはまさに
エネルギーが乱れるってことで非常によろしくない。

結果、色んな相手から、色んなものをもらっちゃうわけです。
この場合、現実的な肉体の病気もしかり、
目には見えない良くないものもたくさんもらうことになる。
相手の第一チャクラの中にあるものとかね。
(ちなみに第一チャクラは先祖のお荷物とかある場所だからさ)

生活のためとか、それしか出来る仕事がないとか、
色んな事情で風俗や性的産業で仕事をしている人もいるから、
それは否定しない(本人が覚悟決めて本気でやってることなら)。
けど、目に見えてる身体だけでなく、
目に見えない身体も壊すことになる仕事だから、
あんまり長期間従事しないほうがいいとは思う。
当人の心身の健康のためには。


そういう意味で、愛情や心の寄り添い、
互いに対する"情"や慈しみのない性的行為は、
オーラやチャクラ、エーテルダブルなどの
エネルギーとしての身体をダメにする行為でもあるから、
むやみやたらとするもんじゃない。

恋人にしてもセフレにしても、
その期間、そういう関係を結ぶ相手は一人ってのがベター。

あんまし、あちこち飛び回るものではないってのはアリ。
どんな相手とSexをするかってのも、大事だったりする。
(だからホントにサゲ○○とかアゲ○○とかあるよ)

気持ちの良いSexって言い方もヘンなんだけど、
自分のエネルギーを高めてくれる、
良い氣の持ち主を性愛のパートナーに選ぶことって大切。
だからこそ、愛し、愛されている相思相愛のパートナーと、
人間関係を大切にして、その間はその人だけってのが正解。
恋多き女でも男でも、パートナーが随時入れ替わる人であっても、
その時期は相手が一人だけってのであれば問題なし。

独身の人でも複数の人と同時進行ってのはあまりよろしくない。
(相手がそういう人と知らず、つき合っている人は、
エネルギー的にも相手から悪いものもらって大変だ)

そして、
浮気、不倫てのはどこかで背徳的な罪悪感があり、
そこには常に負の意識がつきまとう。
互いに割り切っていたとしても。
また、そうした行為に対する
「怒り」や「憎悪」のグループエレメタルも、
そこに反応して集まってくるしね。

つまりは負のエネルギーがいっぱい集まってくる。
純粋に「本気の恋愛」から始まった関係ならまだしも、
性的な行為に耽溺していたり、遊びとしてのそれは、
さらなる負のエネルギー、退廃的なエレメンタルも
呼び寄せて、どんどん悪いものが集まってくることになる。

どちらかのパートナーの信頼を裏切り、踏みにじり、
他人を傷つけている行為には違いないから、
そうしたカルマのレッスンも背負うことになるしね。

どこかで、それは戻ってくることになる。
背負ってしまった負債から逃れることは出来ない。

他人の心を傷つけた、踏みにじってしまった罪。
人間関係を壊して、信頼を裏切ってしまった罪。

いつかそれは自分に戻ってくることになる。
他人にさせた思い、味合わせた感情は、
必ず自分も味わうことになる経験だったりするから。
それがカルマの法則というもの。

あなたが他人にすることは、
すべて未来の自分に対して行っていることなのだから。



魔女の書の第一節に書かれた言葉。

"誰かを傷つけることなく、
 汝のしたいことをすべてしなさい"


この言葉に恥じ入ることなければ・・・
それは咎にはならないけれど。

果たして、あなたの恋は、
あなた以外の誰かを傷つける恋であろうか否か。
今一度自分の胸に問うてもらいたい。



"愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
 愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、
 自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
 すべてに耐える。愛は決して滅びない"
    コリントの信徒への手紙Ⅰ 13-4-8


本当の愛はあなたを決して傷つけることなく、
誰のことをも傷つけることはない。

2017/07/25

ふたなりとトランスジェンダー

"魂"のことを説明するのは難しいが、
とりあえず、理解しやすいように、この三次元(~五次元)、
物質世界(思考と想念の世界)に存在し、表現される
私たち(一パーソナリティ)の原型、元データとしておく。

この"魂"には性別はない。
男でもなければ女でもなく、そのどちらの性別であるともいえる。

性別とは、あくまで物質世界において与えられた肉体の特質であり、
現実社会を生きる上で、肉体的特質による役割分担が必要という理由で、
便宜上、二つの性に別れたに過ぎない。

それは、
子供を宿し体内にて成長させ、産み育み保護するに適した性と、
獲物を捕り住処を作り外界の敵と戦い、家族を守るに適した性。

哺乳類において、この二つの目的を両立させる肉体は難しい。
(魚や一部の鳥類、植物は雌雄同体の種も多く単為生殖も可能だが)

この二つの性がともに協力しあって、
互いの性特有の欠点を補完し合うため、
助け合って生きるという友好的かつ協力関係を維持するために、
物質的存在(個体)としての肉体から、
次の生命を生み出すための行為が快楽を伴って存在するとも言える。
(こういう固い言い方をすると身も蓋もないけれど)

胎児は「人間」の形骸を要するまでに様々な変態をするが、
その過程において、染色体の配列に従い、
メスのままでいるものと、メスからオス化するものとに分かれる。
つまり最初はすべて「メス」であって、
「オス」は変態によって「オス化」した性なのである。

そして稀にその変態の過程で「オス化」に失敗するものがある。
染色体の配列に異常(キメラ)があって、そうなるものもあるし、
宿り主である母親の精神的ストレスによって、
「オス化」が上手く行かないこともある。

この「オス化」の段階が何処で止まってしまったのか…
それによって「メス」であり「オス」でもあるものになったり、
性同一障害など心と身体の性の不一致に悩む者が生まれる。

男性のほうが女性に比べて精神が脆く、ストレスに弱いのは、
変態時に「オス化」によるダメージによるものらしく、
生物学的な理由によるものとのことだが真偽は定かではない。
(確かに心が女性なニューハーフのほうがゲイの人より、
精神的に逞しい←限りなく女性寄り、なのは納得がいく)

男性脳、女性脳といった、脳の使い方の特質も、肉体の違いも、
外界の危険や敵を見分けて、食べ物を確保し、
社会において有利に生き抜く方法を模索するのが男性の担当で、
その男性の子を産むことで自分の安全と食料を確保するなど、
優秀な子孫を残し、周囲からの庇護を得るために、
コミュニティを形成していくのが女性の担当という、
性別による役割分担があるが故のもの。


さてとりあえず、それは置いておいて、

ではなぜ、両方の性を持つ者や、
肉体の性と心の性が一致していない人が生まれるのか、という話。

不幸な事故的巡り合わせでそうなってしまうのか、
何かの功罪なのかカルマ的な罰なのか…


   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★

その前に、
人は女性にも男性にもどちらにも輪廻転生をする。
たまたま男性ばかりの人生を生きている人もいるし、
女性としての人生の方を数多く生きている人もいる。

女性になるか男性になるか、
それを決めるのは当人の意志やカルマの導きであり、
それはその人が学ぶべきレッスンだったり、
果たすべきその人生でのお役目が、
どちらの性であるほうが都合がいいかって、それだけだ。

正しくは、その性に生まれる、というより、
器として、その性の肉体を選んでいるというだけ。

だから、その「家の子」になりたい、
というところでは選ぶことは出来ず、
その「家の子」として生きることになる人生が、
その人の今生の目的やカルマのレッスンに沿っているか。
性別のその要素のひとつ。
(とはいうものの、どの「家」「両親」というのはかなりランダム)

ジェンダーによる差別や優遇、社会的境遇の差がある限り、
人は男性としての人生も女性としての人生も、
どちらも等しく経験しなくてはいけない。

だから男性はずっと男性ということはないし、
女性もずっと女性の人生を生きるということはない。
ある一定の霊的成長を遂げたならば、
その者が「神聖なる計画」の一員として、
どちらの性であったほうが、人類同胞に対する奉仕をするのに、
都合がよいかどうか、判断して生まれてくるであろうが、
輪廻転生の輪の中にいるものは、自分では決められない。

では、男でも女でもない第三の性にあるものは?
肉体の性に心の性が順応できないものは?

そこにはカルマのレッスンが存在している。

男でもない女ではないもの、男であり女でもあるもの、
その第三の性を受け入れるということが。
どちらでもなく、どちらでもあるという事実を受け入れ、
その肉体の性に縛られずに、ただ一人の人間として、
性によって限定されず、しかしどちらの良さも持ち合わせる、
性のない、ただ肉体を持って存在する人格として、
それが本来の人間の究極に目指すべき目標であるという、
進化の先を行くアイコンとして生きるべきカルマが。

さて、
肉体が男であるのに心が女性であるもの、
肉体が女であるのに心が男性であるもの…の場合、

一言で言えば、
その不一致のあるままに生きる必要性があったりする。

何故ならば、その不一致によって経験することすべてが、
その人にとってカルマのレッスンを学ぶ道だから。

女の心を持ちながら肉体は男でないと出来ないこともある。
男の心を持ちながら肉体は女でないと出来ないこともある。

そのための性の不一致だから。

だから、
手術によって性別を変えてしまうことはよくないこと。
事故や病気によっての性器損傷は致し方ないが、
意図的に持って生まれた性別を変えてしまうのは×。

気持ちは分かるけど。それは自分に対しての罪になる。
カルマのレッスンからの逃避で、その性のままで生きるべき人生、
成すべきことを放棄していることだから。

整形手術も多少はやむなしだけど、根本は同じで、
必要のない整形や過度なものはNG。

性別にこだわることは、執着以外のナニモノでもないんです。
その性別で生きる人生にこだわっている限りは、
それは本能のまま、欲望のまま、
物質的価値に縛られて生きていることなので。

肉体は男でも心は女なら、
女の心を持った男として生きる必要があり、
女の心を持つ男にしか出来ないことをして生きるべきなの。
性別が男であることを利用して。

その逆もまたそう。
肉体は女でも心が男なら、男の心を持った女として、
男の心を持つ女にしか出来ないことをして、
自己表現をしていくべきなんですね。

その人たちがそのような状態に生まれたのには、
ちゃんとした理由があるので。

自分の肉体の性を、ちゃんと受け入れて、
身体を愛する必要があるんです。

その性である自分の肉体に違和感を覚えたとしても、
その性として生まれた自分を受け入れて、
その性を生きる必要性が・・・。

でもって、
パートナーが異性同士でなければいけないということはない。
同性を愛することは罪じゃない。誰に罰せられることではない。
愛し合うことに性別は関係ない。

だって、今の人生で女であったとしても、
過去の人生では男性で女性と結婚していたり、
今男性でも女性だった、ってのは当たり前なんだから。

過去生でのパートナーが今生で再会したならば、
同性に生まれてたとか、親兄弟姉妹や子だったとか、
その逆で同性の親友だった人に再会したらば、
異性として現れたとか、そういうのもよくあること。

子孫を残すという生物学的な種の保存の目的を考えたとき、
異性間の性愛、パートナーとの恋愛関係のほうが望ましいだけ。

でも心から深く愛せる人が同性だったならば、
それ以外の人で愛せる人がいなかったのなら、
また相手も同じ気持ちで自分のことを求めてくれるのであれば、

ええじゃないか。

と、私は個人的にそう思う。

だって星の数ほどもいる人間の中で、
愛し、愛される関係の人と巡り合えるのってなかなかないよ。

それがたまたま同じ性別だっただけ。

でも、まあ、自分と同じ性別しか愛せないというのは、
ちょっと違う問題でもあったりする。
その人の中身を愛しているのではなく、
その性たる「器」しか愛せないっていう問題だから。

ここにはその人が克服したり、
向き合わないといけない問題の胤が隠れてる。
ようするに、相手の心や精神を愛しているわけではなく、
なおかつ自分と同じ性を持った人以外、
違う性の人間に対する拒否感があるってことだから。
ナルキッソス的で排他的な自己愛が隠れていたりしてね。
受け入れられない一方の性に対する愛の欠如があるわけで。
健康的とは言えないんだな、これが。

女性の身体が嫌い。男性の身体が嫌い。
愛情を与える対象にどうしても思えない。

ここは多分、あと何回か輪廻転生を繰り返すうちに、
自分が受け入れることの出来ない性を持つ、
人間(存在)に対しての偏見と拒絶反応、愛の問題etc..
カルマのレッスンとして、必然的に向かわせられることになる。

そう。次の人生でゲイの人は女性の肉体を持ち、
レズビアンの人は、男性の肉体を持つなどしてね。

自分が否定し、嫌悪感を抱き、受け入れられない性を、
愛すべき肉体として、所有して生きる人生を与えられるかも。

うん。
性愛は否定されるべきものではないけど、
人の愛は性愛だけでなく・・・・・・だから。

とはいうものの、
SEXは欲望を満たすためだけものではなく、
具体的な愛情の表現のひとつでお互いの肉体を慈しむ行為。
動物の毛づくろいにみられるような、
相手への愛情を示し、伝えるボディランゲージでもある。
相手を悦ばせ、自らの悦びを分かち合うための。

異性同士でなくてはいけないということはなく、
同性同士だからと言って、してはいけないということはない。
霊的には何ら問題はない。そこに禁忌など何処にもない。

ただ、相手の同意のない、一方的で無理やりな行為は、
相手を踏みにじる行為であり罪以外のナニモノでもなく。
欲望を満たす対象としてのみ相手を見ることと、
快楽という名の肉欲に溺れることが問題なのだ。



   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★


冒頭のほうに書いたように、
魚や昆虫、鳥類などは雌雄同体だったり、
単為生殖をするものが多かったりする。
オスが少なくなったから、オスたくさん創るぞ、もあるし、
メスの割合が減ったから、私オスになります…みたいなのも。

そして人間の場合、
戦争や自然災害、特にジェノサイドや空襲下など、
死の恐怖と隣り合い、生存を脅かされる状況になると、
己が子孫を残そうという行動に出やすいのだそうだ。
腹立たしいことに戦場下における集団レイプもそうで、
地震など被災地の緊急時でもそのような被害は増える。

戦場では、単にそれだけでなく、
敵国の女性を集団レイプし、老人や子供を惨殺するのは、
ここは既に自分たちの縄張りで支配下にあるという、
マーキング的に力を誇示する行為らしいけど、
これは動物界にはよくあることで、
ライオンやサルなどが行っていることと同じだ。
つまりはこういう行為に及ぶ人間は、
理性も知性もない、本能に忠実な動物と同等なんだな。

また、妊娠している女性が、
戦争や災害による死と隣り合わせの恐怖を味わうと、
胎児はストレスを受け、ナーバスな精神状態となる。
そして、何故か生まれてくる子のほとんどは、
異性を愛することが出来ないという、
第三の性で生まれてくるケースが多くなる。
そして、戦後は女性の出生率のほうが高くなるそうだ。

何故なんだろうね?


男、だと戦争に行かなければならないから?

純粋な「オス」は攻撃的な本能が強く、
戦争を好むから、肉体は男で男性の仕事が出来ても、
心が女よりで、戦争という破壊行為を好まないタイプの性を、
母体としてのメスが強く望むからだろうか…。

男を作り、育てるのは女だと人の言う。

原初、男性は皆受精したその時、女性であった。

社会を構成する必要性に応じて、
メスが自分たちを守るためのナイト役として、
力仕事をさせるために特化した性としてのオスを作った、
自らの体内で「オス化」と言う変態を起して。

旧約聖書ではアダムの肋骨からイブは作られたというけれど。

しかし、オスとメスの比率を決めているのは、メスなのである。

オスがオスになれるかどうかは、オス化が成功するか否かは、
メスが妊娠時に受けるストレスにも左右されるのであるから。

女王蟻や女王蜂が、
自らに奉仕させ、使役させるために、奴隷として、
労働者としての働き蜂や蟻、兵隊蟻などを産みだすように。


ある意味で、
女性でもなく男性でもなく、そのどちらでもあるもの、
女性であり男性の心を持つもの、男性であり女性の心を持つもの、
性別を超えたところで愛し合うことの出来るものが増えていることは、
それだけ人々が争いのない社会、世の中を望んだ結果かも知れない。
女性であることで屈辱的な立場に甘んじることを強要されることや、
男性であるがゆえに死地に赴かされ、重責を負わされることなど、
それぞれに与えられた理不尽な状況を改善し、無くすための、
何か意図的な力、大きな意志の働きかけ故なのかも知れない。

極端に、男性的な力が優位になりすぎたことで、
社会が負うことになった、バランスの悪い側面を正すために、
必然的にそうなっているのかもなあ・・・と思ったりします。

この争いの多い、破壊的な、いつまでたっても、
愛の足りない時代と世の中を鑑みるに。



2017/07/20

虹の橋の向こう側・・・命の生まれるところ

畜生(ちくしょう)とは、
仏教において、神や人間以外に生まれた生物のことをいう。 

畜生は、苦しみ多くして楽少なく、
性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、
父母兄弟の区別なく互いに残害する。

畜生道に堕ちると言うは、
悪業を造り、愚痴不平多くして感謝報謝なき者、
動物のような生き方をする者、死後に畜生に生るという事。

畜生道(ちくしょうどう)とは六道また十界の1つ。

※六道(ろくどう、りくどう)とは、
仏教において迷いあるものが輪廻するという、
6種類の苦しみに満ちた世界のこと。
十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。

                Wikipedia参照

     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


子供の頃に読んでいた漫画「うしろの百太郎」の中に、
言葉を話す犬シロというキャラクターがいて、
その犬は人間の生まれ変わりという設定だったりするのだけども、
実際のところ、人が動物に転生することはありえない。
(それでも、私はこの口の悪いシロが好きだったし、
ペットが口が聞けて話せたなら便利だなあ、って思ったり)

心霊科学では、ダーウィンの進化論も「違います」って、
話になるんだけども、それはさておいて。
(遺伝子ゲノムが近かろうが何だろうが我々の祖先はサルではなく、
人間は最初から人間であり、このカタチだったということ)

どうして、人間が動物に、そして動物が人間に、
というように生まれ変わることは「無い」のかというと、
それは人間とは肉体の仕組みが違うということと、
動物には「霊」も無いし、「魂」も無いからって話になります。
(昆虫、鳥類、爬虫類も。そして哺乳類であっても)

肉体の仕組みの違いを言うなら、
人間は、目に視える肉体が一つと目に見えない肉体が二つ。
けれども動物は目に視える肉体のみ。

人間は原型としての魂があるから、転生をする。
でも、動物は転生はしないんです。

人間の魂を今風?に分かり易くいうと、
魂はそれまでの作業の経緯含めて、
すべての過去履歴、今後の計画、データが入ってる、
メインサーバでホストコンピュータみたいなもの。
一つの人生を一台のPCだとすると、そのPCが昇天する度、
そのPCで作業した全データがホストコンピュータに移行する。
エラーもバグも、何回ウィルスに感染したとか故障したとか、
インストしたアプリやアップデートの回数や使用履歴も一緒に。

そしてそれまでのデータを元に新しいPCの環境作りをする。
それが転生する際の肉体とキャラ作りみたいなもの。
そのPCを使用して作業するのが新しい人生みたいな。
(この場合、PC廃棄は死亡になるかと)

これは人間一人につき、メイン一台。
(転生の終わりはさておいて)

動物の場合は、その動物の種類別にメインサーバが一台。
共有で使っているって感じかな。
一匹の猫が死んだとき、
猫専用メインサーバにそのデータは回収されるって感じ。
犬は犬専用、馬は馬専用に。

あくまで比喩の言い方ですけどね。

動物は魂はないけど、宿っているもの、はあります。
(ぶっちゃけエレメンタルなんですけど)
まあ、生命エネルギーとして考えても問題ないかと。
この辺り説明するとめんどくさいので。

この動物の「命」は学習しますし、記憶もします。
その人生での体験や恐怖など。人間への警戒心や感情も。
人にされたこと、もちろんメモリーとしてインプットします。
だから動物は進化するし、個性も生まれる。

ペットだったり、人間との接点が多い動物は、
身近な人間が創り出すエレメンタルを吸収して、
それを己が特徴や性格として表現するようになります。
(憑依体質ってわけではなくっっ笑)

だから、飼い主に似てくるのは当然なんですね。
攻撃的な人といると攻撃的な性質を帯びてくるし、
穏やかでのんびりした人に育てられるとそうなるし。

どんな人間に育てられるか・・・
これによって感化される性質が決まるんですね。
つまりペットってのは、
一番身近にいる人間が創り出す想念を表現する媒体ともなる。


そして、その犬だったり馬たったり猫だったり・・・は、
やがて死ぬとひとつの命の源たる塊の中に戻ることになる。

原始の海に還るがごとく…。

その人生での体験、記憶したことすべてを携えて。

それは大きな水瓶の中に水が戻されるようなもの。
組みだされた水の量より、
生きた人生分増えた量が加算されて再び水瓶の中に。
そして新たな命が生まれる時、
水瓶から水が汲みだされることになる。
けれど、必ずしもそれは、
以前ひとつの形骸を持っていたものとは一致することはない。
水は混ざるものだから。

だから、動物に関しては悲しいけれど、
同じ「命」は転生してこない。

過去、人生を一緒に過ごした、
あの可愛い子の一部が混ざっている奇跡に出会えたとしても。
同じ子には出会えない。

とても残念で寂しいことだけど。

犬も、猫も、馬も、牛も、鳥も、うさぎも、
生まれながらにして個別の性格があるのはそういうこと。

転生と言えばそうだけど、転生とはかなり違う。

別の犬や猫が、どこかで生きていたときの記憶、
何処かの誰か(人間)から模倣してコピーしたデータがあるから。

それは虐待の記憶かも知れないし、
愛に満ちた幸せな記憶かも知れない。

捨てられた哀しみや人間に対する絶望や恨みかも知れないし、
可愛がられて、抱きしめられた、懐かしい甘い想い出かも知れない。


 "犬には犬の哀しみがあり、
    猫には猫の喜びがある…"


いずれにしても、
いつかこの子とまた会いたい、
生まれ変わって、またうちの子になりにおいでね、
と思っても、それは叶わない夢。
動物に関してだけは、
その子がその子として生きるのは一度きりの人生になるから。

また、その種類の一匹にすることは、
すべてのその種の動物にすることとなる。
その動物にとって、共通の記憶にもなるので…。

つまり、一人の人間が一匹の動物に対してしたことは、
その種のすべての動物の恨みをかうってことでもある。
その人が生まれ変わって姿形が変わったとしても。

それに関しては、その人がそのような行動をしたという
行為のデータ(エレメンタル)をその人自身が所持している、
というのもあるんだけれども。

動物側にも、
「この人はかつて同胞に酷いことをした」
というデータがインプットされているのです。

だから、やたらと動物から攻撃されたり、嫌われたり、
極端な目に遭ってしまう人というのは、
その人自身の身体から匂い立つ悪しき波動とか、
そうしたものだけに反応しているのではなくて、
過去の行いに対して復讐されているのかも知れませんね。



     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そんなわけで動物は人間と違うので、
いわゆる成仏がとても速いです。
死んだらサクッとサヨウナラという感じで。

しばらく飼い主の周囲をエレメンタルとして徘徊してるのもいますが。
人間みたいに自分が死んだ現場を離れられないとか、
自分の死を受け入れられないでいるとか、そんなことはありません。

何年も飼い主の傍にいるようなのは、
ほぼ100%といっていいんですけど、
その飼い主が創ったエレメンタル(生前に創ったコピー)ですね。

(あ゛ーただし、
あまりにも悲惨で非業の死とも言える状況下では、
キレイに上がれず、人霊の地縛霊と同じ状態に陥っている
そうした動物たちもいます。
飢餓状態で死んだとか人によって残虐に殺戮された場合とか。
こういう状況下で結果的に人間に祟ってしまうなど、
「悪さ」をしてしまう子たちは、
一般に言う「動物霊」というのとはまた別種ですケド)

飼い主が死ぬと一緒に回収(人間の方に)されるものだけど、
たまーに、はぐれちゃって迷子になって、
犬好きな人や犬を飼っている人に、
くっついていたりすることがあったりします。

あと前に街中で見たケースでは、電車の中ですけど、
盲導犬に心配そうに寄り添っている犬の霊
(霊ではないけどっっ)を見た事があります。

これもまた、誰かが創った、
ペットのコピーとしてのエレメンタルでしたけど。

犬ってやっぱ優しいんだなって思いました。
人間と違って「心の身体」も「思考の身体」もないけど、
だからこそ、人と違って混じりけが無いというか、
計算なくて、純粋でまっすぐなんだなって、ホント。

あ゛・・・そういえば昔、
実家が肉屋(解体とか含む)だって言う人の、
家に遊びに行った時、牛とか豚とかの霊(正確には違うが)が
たくさんいて、苦しくなって、「ごめーん、用事てきた」と
すぐに飛んで帰ってしまったことがあります。
彼らってボリューミー(体重が)なんで・・・。



さて、ならばどうして動物という存在がいるのかっていうと、
私たち人間がため、だったりするんですよね。
こういうと人類至上主義みたいな言い方になってしまうので、
ちょっとイヤなんですが、そういう意味ではなくて。

地球という天体、
私たち人類が生きていくための母なる大地、
その環境維持のためには、微生物や昆虫や各種の動物、
植物、魚類の存在(生態系)が不可欠で。
動物たちを滅びの道に追い込むことは、
自滅の道であり、環境破壊以外のナニモノでもありません。
我々人類が存続していくためには地球環境を守る必要があり、
そのためには、動物たちの世界もそのままに、
維持して守っていく必要があるのです。
彼らはこの地球を住みよい天体にしてくれている功労者で、
環境を生みだし作り出している自然システムそのものなので。

(だから彼らが生息している地域から彼らを引き離すのは悪です。
命を必要以上に奪うことや彼らの生息地を荒らすことも含めて。)

またそれだけでなく、動物の生きる姿から、
様々なことを学ぶためでもあります。
あと、私たちのために「命」を「糧」として
提供してくれているところもありますが…

でも、いつかは彼らから「命」を頂くことも、
卒業することが目標ではあります。

して、「動物」に対してどう接するか…ってのは、
その人が同胞たる「人間」に対して、
どう想い、どう考えているか、
人を人としてどう扱かっていうバロメーターなんだそうで。

まぁ、だから、
動物虐待は殺人の予兆だっていうのは真理なのか。

子供は虫やカエルなんかを殺すことで残虐性を発揮して、
やがて命の大切さを知って、しなくなるというけど。

動物しか愛せない人、昆虫としか向き合えない人、
植物しか関心がないってのもかなり問題があるとは思いますが。
やっぱ動物嫌いより好きな人のほうがキャパあるかもな。

動物に対してどう接する人なのか…
動物の命をどのように考えている人なのかって言うのは、
その人の「人間」に対する本当の想いを知ることの出来る、
ひとつの目安になるでしょうね。
動物や植物をどう扱っているか、って点がね。



とはいうものの、
私は植物は好きだけど枯らしまくりの炎の手の持ち主だし、
犬も猫も鳥も金魚も飼ってたことはあるけれど…
よその犬には4回噛まれてますのよ、ワハハハ。
(そして蛙とクマとネズミは嫌いだ~!)

動物園も大嫌いで、反対の立場であります。
野生動物を保護する施設は必要だけど、
その土地に生息しない動物を人間の娯楽のために、
別の土地に連れてきて見世物にするのは良くない。
人間のエゴイズム以外のナニモノでもなく・・・。
一般の人が動物の生態を学ぶなら、書物や映像だけで十分です。
野生に戻れなくなった動物を保護飼育する施設が、
維持管理費稼ぎのために見物料を取るのはいいかなって、
そう思いますがね。


てなわけでして、人間が動物に転生することはありません。
動物に人間が、人間に動物が「憑依」することはあったとしても。

(あるんだな、これが)


2017/07/14

知る者は言わず言う者は知らず

"私たちの苦の原因は、私たちの執着にある"
                  by ゴータマ・シッタルダ(仏陀)

    ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

私が占いを用いて他者の相談に乗ることをしていたのは、
正確には高校時代からで、仕事にしたのは24歳の時からだけれども。
途中やらなかったりの時期もあるが、ダラダラと40近くまで続けていて。

何度同じことの説明をしても、
最悪を回避するためのアドバイスをしても、
こうしたいのならこうしたほうがいいと伝えても、

いつまで経ってもオウムのように同じ愚痴や不満を繰り返し言い続け、
「私には難しい」と自分が変わること努力することには消極的で。
そのくせ、こうなりたい、あれが欲しい、こうじゃなきゃだめなのと、
未来に対する期待とこだわりは半端なく、リクエストは常に最上級。
いつも誰かのせいにし、運命のせいにし、状況や環境のせいにし、
自分は変わらずとも何も努力をしなくても、
ある日突然に状況が変わって、すべてが自分の望む通りになり、
欲しいものが手に入っている幸福な人生が訪れるのはいつなのか?
(但しそのために自分は何のリスクも負わないのが前提)

そんな風にとどのつまりが、
自分の欲望の奴隷になっている人が多く、
執着から自分の本心も本来の自分の幸せが何であるかも
見失っている人ばかりの現実に辟易しつつ、

「占いでは人を救うことは出来ない」

なぞと、
占いを用いて他者の相談に乗ることに限界を感じ、
フラストレーションとジレンマに陥っていた。

ちょうどその頃、
たまたまレイキヒーリングを習うきっかけがあったり、
偶発的かつ強制的にヒプノセラピーをやるはめになり、

「この人に必要なのは占いによるアドバイスではなく、
エネルギー(エーテル体)の状態を改善することなのでは?」
という状態にあったクライアントさんに対して、
お試し的な施療をして結果(改善)を得られたことから、

「なるほど、これだ!」

と活路を見出したものの、
やっぱり数年で似たような壁にぶちあたることになった。

もちろん立ち直って自分の状況を理性的に判断できるようになり、
自分の力を取り戻し、問題を解決できるところまでに至るなど、
混乱と迷いの森から脱出して自立できた人もいるにはいるが、

どうしても往来の考え方の癖や執着を手放せない人は多く、
考え方の歪みや性格的な問題から引き寄せている憑依の問題や、
過去生や他人からの良くない影響、カルマのレッスンといった課題、
繰り返してしまう運命のパターンなど根深いものに関しては、
本人が自覚して意識してそのことに向き合わない事にはどうにも・・・
だったりするので、

これはもうきちんと霊的な知識を身に着けて、
己が運命を作り出している仕組みを理解してもらわなければ、と。
レイキの伝授やヒーリングを教える以外に、
瞑想やエクササイズを教えたり、私塾みたいなスタイルで、
霊的真理(心霊科学)を教えることを始めたのだけども。

それでも、
エゴイズムの罠にはまり、己がレッスンと向き合わず、
執着や私欲から逃れられない人は少なくないのです。

その度に色々とがっくりきてしまって、
自分が出来ることの限界を感じていたのだけど、
そもそも、「人を救う」ことなんて誰にも出来ないし、
自分が他者に良い影響や感化を与えることが出来るなんて、
思い上がりもはなはだしいこと。

他人を変えることなんて誰にも決して出来やしない。
その人を変えることができるのはその人だけ。
変わることを選ぶのも選ばないのもその人次第。
すべてはその人が選んでいるんだから。

交流原則の基本、
「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」
を口にしながら見失っていたのは私自身。

私が誰かを「変える力」を持っているなんて、
傲慢以外のナニモノでもなく・・・
その人の問題を解決出来るなんて勘違いもいいとこ。

自分だって問題てんこもりで道の途中にいる人なのにね。
結局、私はクライアントさんの問題を、
解決できる自分になりたかったんだろう。
「助けて」と言われて、「助けられる」人に成ろうと、
クライアントさんの期待に応えられる人になろうとしていただけで。

私が出来ることなんてたかが知れていて、
ホント大したことは出来ない。

それに私は「占いでは人を救うことが出来ない」なんて、
過去に思い込んでしまったけど(占いに意味無しって感じに)、
その「占い」の段階のアドバイスだけでも、
そこからヒントを見つけたり、希望や気づきを得て、
自分の可能性を見つけ出して、未来へと歩き出し、
道を切り開いていくことができる人はいるし、

マグネティックヒーリングとしての気功や、
レイキヒーリングの施療を受けただけで、
氣が充実して、エネルギーのダメージが回復し、
自分自身の力や生きる力を取り戻す事が出来る人も、
運気が上がって人生が変わっていく人もいるわけで、

それはホント、無駄ではないわけ。

どの段階でも、
良くなっていく人、良くならない人はいるし、
アドバイスを無にする人、無駄にしない人、
人の話を聞く人、聞かない人もいる。
状況が改善する人、しない人、
問題が解決する人、しない人、
努力する人しない人、変わろうとする人しない人…

過去生の情報が役に立つ人もいれば、意味のない情報な人もいるし、
過去生セラピーやヒプノで問題を手放せる人もいる。
憑依していた霊や生霊を取ったり、エレメンタルを書き換えたり、
そういうハードワークをしないことには改善されない人もいるし、
でも、それさえもすべては良くなっていく、成長の過程において、
その人にとっては意味のある事だったりする。

知識を学んだことでそれを活かして知恵に換えていく人もいるし、
たくさんお金をかけてヒーリングを習得し、
霊的知識を学んだって、教えの本質を全く理解しようともせず、
相変わらず他力本願で勘違いに磨きをかけている人もいる。

結局は当人の問題だ。

どれだけお金をかけたから、でもなく。

学ぼうと思えば、人はどんなことからでも学べるし、
人生すべてに無駄はなく、起きていることすべてから学べるわけで。

その人か人生や経験から吸収することに関して、
そこは私の責任ではないのね。
今までの私は「救おう、救わなきゃ」とばかりに、
私にはその人の人生の問題を「解決する責任があるのだー」
みたいな感じで気負って、ものすごく肩に力が入ってました。

だから、
気づいてもらわなくっちゃ、気づいてよ~! となって、
あなたの人生の課題、これもあるよ、これもだよ、と…
余計なこと言いすぎでした。
早くカルマのレッスンをクリアしてもらおうと、
焦って急かしてぎゃーぎゃーと。

物事には適切な時期があるというのに。
すべての出来事には意味があるというのに。

大事なのはその人自身が経験を通じて、学ぶこと。
自分の人生を生きて、経験して、知恵や生きる力を得ること。
その人自身が内側からの声と出会って、内面から気づきを得ること。
自分の人生の意味をその人自らが見つけること。

その人に起きていることは、
良くないことも良いこともすべて必然で、
その人にとって、何もかも絶妙なタイミングで起こってる。

だから、無理に外野がそれを変えようとしてはいけない。
必要で起こっていることを変えることはできない。
出来るのはそのタイミングが来るまで見守ることだけ。
それが起こるその日まで支えてあげることだけ。
準備を進める手伝いをすることだけ。

なんですよね。

この辺りは子育てと同じ。
自分が楽したいからって、子供の成長の機会を奪ってはいけない。
子供が「覚えようとしていること」を取り上げてはいけない。
その子が転ぶのを見たくないからって、
怪我をして泣いて欲しくないからって、手当が面倒だからって、
石ころをいちいち取り除くことをしてたら、
それはその子の「怪我」をする機会を奪ってしまうことになる。
石に躓いたら転んでしまうとか怪我がどういうものかというのを、
その子が知る機会を潰してしまうことになる。

そんなのはその子のためにはならない。
その子を守ることではなく、
自分を守りたいがための自己満足でしかないから。

私もどっかで、仕事に対するスタンス、間違えてた。
情熱とエゴイズムを錯覚して、勘違いしていた。
随分と傲慢になっちゃってて、自己満足なセッションに陥っていた。
レッスンの参加者に対しても、成長をサポートするどころか、
自主性を妨げ、自立を邪魔して縛り付けてたかな。
責任感と誠実さを混同して、完全にはき違えてた。

脱落したり、反発して出てった人も、
満足できず他所に行った人も、「ほっとけ」なんですよね。
すべてその人には必要で起きていることだから。

去るもの追わず、来るもの拒まず、な姿勢でいいのに。

そう…相手を無理に変えようとしなくていい。
ほっといても変化のタイミングはいつか訪れるし、
成長したいかしたくないか、時期も当人が決めること。

理解できないことを教えようとしても、無理。
知りたくないことは知るべきことではないし、
知ったからといって、当人がそれを受け入れられるわけでなし。
なんでもかんでも、「知った立場」から言うべきではなく、
そういうのは愚の骨頂でしかないんだと。
所詮奢りで自惚れでしかなく、知識をひけらかし、
自分の力を誇示するためのパフォーマンスでしかないんだと。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

先日、数年ぶりのクライアントさんがいらしたのですが、
6年前の初見のときより状況が悪化しているとのこと。

初見で、やりたくない仕事(親の跡を継がれた)をしていて、
なおかつそのやりがいの無い、好きでない仕事を通して、
お金儲けと業務拡張に走っちゃってるのが良くないんですよって、
これ以上、営利を追求したり事業を拡大するのは止めて、
少しずつ業務を縮小し最低限の規模にして、その傍らで
本来やりたかったことに近いことを始められては?
というアドバイスをさせて頂いたんですが、そこはそれ、

いくら嫌々継いだ家業とは言え、
「我が城」となったものをなかなか手放すのは難しいもの。
まして養うべき家族がいるなら、なおさら。

思いきれないというよりは、
「うーん、現実的でないですね」と笑って流されてまして。

今回も結局は根本原因はソレだから、
6年前のアドバイスと対して変わらず…
だけど、今回はその方、聞く耳があったんですね。
うち以外のところでも同じこと言われたと。
「6年前にアドバイス頂いた時にその通りにすればよかった」

確かにそうかも知れません。
でも、実際はこの方が今の心境に至るまでに、
6年の月日とさらに悪化した状況が必要だったんです。

ほら私が言ったとおりになったでしょう!ではないんです。
その時にアドバイスを受け入れてくれれば
今の最悪な状況は回避できたとか、そんなんじゃないんです。
違います。予見してたとかはどうでもいい。

この方は痛い思いをする必要があったんです。
どうしようもないところまで叩きのめされるような、
奈落の底に突き落とされる挫折を経験しないことには、
至れない心境、掴めない「気づき」が。

人間ってそこまで追い詰められないと、
ブライドや執着を手放すことが出来なかったりするんです。

6年前に私が言ったアドバイスを受け入れてたとしても、
この方が変わらなければ、別の出来事が起きていたでしょう。

そして、その手の職業の人に言われたからという受け入れ方では、
当人心の底では納得してないから、くすぶるものもあって、
結果が気に入らない時、周囲や私のせいにしていたはず。

もちろん、本人の意識がシフトというのかな、
現在起きているような最悪な状況が起こる前に、
自分自身を見直すことや生き方の修正をしていれば、
ある程度早い段階で避けられていたとは思う。

でもそれって第三者の誰かが起こすことではなく、
当人が選ぶことなんですね。
自分自身の声に耳を傾けるか否か。
自らが気づかなければ、気づこうとしないことには、
こればかりはどうすることも出来ないこと。

この人を、このクライアントさんの意識を「変える」ために、
すべては必要なこととして起こっている出来事なのですから。

それに対して第三者や私みたいな職業のものが出来ることは、
本当に小さく限られています。
もちろん当人が求めたことに対して、
こちらが理解できた情報や知り得たことを伝えたり、
アドバイスはしますけれど、当人が知りたがらないこと、
求めて来ないことに関しては、伝えようがないのです。

そして、伝えたその情報やアドバイスをどう扱うか、
そのこととどう向き合うのかは、
相手の自由意志と選択に任せるしかありません。


改めて、当人に必要で起こっていることは、
どうにも避けられないのだと思った次第です。

これはどうにも変えられない。

人生のあらゆる出来事には原因があって、
その人が原因を造りだし、引き寄せていて、
当人にとって良いことも悪いこともすべて、
その人を成長させ、意識を変え、気づきをもたらすことで、
人生を修正させるべく働きかけている出来事であるのだから、
干渉無用、関与すべきではない…ってことがたくさん。

この場合、その出来事に関して無力と自分を嘆くこともなく、
起こることをじっと見守るしかないのだと、痛感しました。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そして先日の記事に書いた、
「私がこの仕事をする動機ってなんだっんたっけ?」
「何をしたくて、私はこの仕事をしているんだろう」の答え。
確かに私には
「情熱はイラネー、過剰になるだけだから」なんですけども・・・

結局のところ、
人の運命の変遷(魂の歴史)、不思議さを見るのが好き。
なんだというのに気が付きました。
人間を知ることが好きというのかしら、
そこに好奇心が働くのですよね。
一人の人がこれまで生きてきた物語を知るのが楽しいっていうか。
(もともと伝記や人物伝とか歴史とか事件史とか好きだし)
そこに尽きる。

あー それでいいんだなって思いました。
好きでないと面白くないし、つまらないから。

あと、クライアントさんが明るく元気になっていく姿、
その人らしさを取り戻してまるで憑き物が落ちたように、
その人自身もその人を取り巻く出来事も、
良い方に変わっていく現実やその過程を見られるのも好きですし、
生徒さんの目覚ましい成長を実感出来る距離にいるのも楽しい。

だからもうそれで、それだけでいいんですね。
この仕事をする理由はそれだけで十分。

それでもって第一に、それで自分の特技というか、
個性(霊媒で他人の過去生を見るのが得意)が生かせる道で、
他人に重宝してもらえる知識や能力があるわけで、
そこに自分が面白い楽しいってことがリンクするんだから、
もうそれでいいやですかね。

ヘタな大義名分とかお役目ガーとか、イラネ。
隣人愛はあっても、妙な使命感や博愛精神だの必要ないや。
ヘンに理想や天命だのを掲げるとエゴイズムの餌になる。
んなもんあると、反面教師だと他人をジャッジしていた、
なまじスピリチュアルナルシズムの罠にはまるばかりだから。


お金を頂く範囲で、自分の出来ること(能力)を提供する、
それ以上でも以下でもない。
感謝も尊敬も評価も名誉もなんも必要ないっす(お金で十分)。

そういうところで落ち着きました

はい。肩書きなんて何もなし。
私は聖人(聖者)でもグルでもマスターでもない。
私は大工の孫で、建具職人と縫製職人の娘でしかない。
自分の知っていることを教えて、
出来ることでお金を稼いでいるだけの単なる職人なんです。