2019/12/31

氣の凝り~怒りと体の強張り



聞いた話ですので真偽のほどは解りませんが
英語では痛みを表す言葉はあっても
肩凝りという言葉がなく
それを表す言葉がないということは
身体が凝るという概念が欧米人には
ないということになりましょうか…
どうも凝りという概念は
アジア人独特(主に東洋医学)の概念のようです

だから欧米人(英語圏)に肩こりの説明をして初めて
「自分が日々感じている
 この違和感の正体は
 肩こりというものだったのか!」
と感動した人がいたそうですよ

基本的には
筋肉の張り(緊張)として理解されていますけど
氣の滞りが出来てしまう箇所のことを
凝っていると言っているようなそのような




さて先日に書いたようなグダクダがあった日

先方の怒りの念が襲来してきました

したらばこのところ
肩こりには悩まされていなかったというのに
左肩に痛みを感じて 
ほんの少し寝違えたような違和感が

私もちょっとムッとしていましたので
同じ波動レベルにいたので受けとってしまったんですね

私が腹を立てていなければ
受け取ることはなかったんですが自業自得です

これは怒りのエネルギーによるもので
明らかに肩の痛みは氣の凝りです

そんな風に私たちは
心の状態から身体に氣の滞り(塊)を
あっという間に創り出してしまいます

他人から受け取ったり
場所から吸い取ってしまう
いわゆる邪氣が原因の場合も多いですが
たいていが自分の心の反応です

内臓的な疾患もそうですが
どんな感情を抱くかによって
貯まる場所が変わりますので


とはいうものの
職業病的なもの性格的な資質による
身体の使い方のクセも反映されますので
すべてが心の反応や邪氣が原因ってわけではないですが

ただ肩に関しては
人間って身体を動かすときに
必ず肩から動きますので

常に気がせいていつも忙しなく
周囲のことにすぐ反応しなくてはと構えていて
機敏に次の行動に移る準備をしている
そんないつも緊張状態にある人
も慢性肩こりだったりしますね

そういう人は
リラックスする時間がほとんどないから

いずれにしてもこのようなケースも
心の問題といえばそうですね

あと筋肉が鍛えられていず脆弱な人は
筋肉痛になりやすいですよね
これは凝りとはまた違う原因で

身体が固い人も氣の滞りはできやすいです
この場合は氣の巡り・通りが悪いということで


骨が芯まで冷え切っている人も
当然背中とか首とかの張りは酷いですが
溜っているのが邪氣ってことも少なくないです
(そういう人は背中を温めたあとに
周囲の筋肉をほぐすといいですね
骨に入った邪氣を抜いてから受ければなおよし)



身体のエラーは心のエラーです

その人が周囲や日々の出来事に対して
どのような感情的な反応を示しているかが
それらが身体に表れます

頭痛は自説への固執と拘り
首は人間関係
肩は重圧(プレッシャー)

腰痛に関しては
金銭的な不満と社会に対する憤り
(自分が認められないということ
十分な収入や仕事の評価を得られていない
ということに対する世間への憎悪)
なんかある人もなりやすいです

※腎臓病や肝臓疾患ある人も
 腰痛として出ますが

頭部から背面全体に至るまで強張っている人は
プライドが高くて様々なことが許せない人です
自分自身も他人も
色んなことに対する怒りを貯めていたりします

そして同時に攻撃性でもあります
(心がファイティングポーズをずっととっている状態)

誰かに向けたい怒りを
その向けたい相手に向けられないフラストレーション
憤怒極まりない抑圧された被害者意識とか憎悪とか
相手を責める気持ちですね

そういうものを背負って自分自身を固くしているんです

そのような状態の方はとても頑なで
謝った思想や思考回路に支配されていたりします
正当な怒りではないんですよ
自分は悪くない相手が全部悪いんだって
自分の非とかまったく認めない人に多いです
まったく前向きでなく
どうにもならない過去や現実に粘着します


ある意味で身体の凝りは心の凝り
そして精神の凝りです

そして凝りは滞り
心が滞って精神(思考)が滞っている

そういう状態を表しています

多くの原因は他人への理不尽な怒りと恨み
許すことが出来ないから緩まないのです

いずれにしても
それが身体の凝りにしても疾患にしても
身体のエラーが出ているということは
人生のエラーが出ているということで
自らの生き方や考え方に謝りがあるってことなんです

これまでの自分の行動のクセを見直して
人生を振り返って
自らを苦しめる身体の痛みの原因が
自分自身の心の在り方や考え方
生き方や信念の誤りにあるってこと
気付くきっかけにしましょう

私の肩に存在するこの「氣の塊(滞り)」は
私のどんな心の凝りを表しているのだろう?
どんな問題によってできてしまった
凝りなのだろうか??

…と

そうやってひとつひとつ
身体の痛みや強張り
自分を苦しめ身体を重く
行動を不自由にさせている「凝り」の原因と向き合って
心の凝りをほぐして貯めこんだ感情を解放して
過去や他人を赦すことをしたならば
血液循環がよくなったり
神経の圧迫による痛みから解放されるばかりでなく
滞った運命さえも流れ始めるかも知れませんよ



ああ ここに使用する画像探してたら
私も優しくほぐされたくなってしまいました
お正月あけたらマッサージに行こう!
温泉行きたいぞっっ

2019/12/28

死のトラウマとアレルギー




昨日たまたま友人たちと
その手の話をしましたので
思い出しがてら

私はアレルギー体質で不愉快なことに父譲り

アトピーではないけれど炎症体質なので
子供の頃から皮膚の爛れやおできに悩まされてきました
花粉症はここ数年で嘘のように軽くなりましたけど

食べ物に関しては
イチゴとパイナップルと生鰹がダメではありますが
幸いなことに
アナフィキラシーを発症するほどのことはなく
食べると気持ち悪くなったり
お腹を下してしまう程度の反応で済んでいます

けれども
父が小麦粉アレルギーを持っているので
体質を受け継いだ私も発症する危惧があり
小麦粉製品を過剰に取らないように気を配っています

カニやエビも少しくらいなら大丈夫ですが
成分を凝縮して濃厚に煮詰めたものとかは
吐き気が出るようになってしまったので
ほとんど食べなくなってしまいました


最近ですが鰹節や鰹出汁にも
拒絶反応が出るようになってしまいましてっっ
(気分が悪くなって吐き気がする程度)
もともと鰹のたたきでお腹を壊してから
生は避けていたのですけどもね
出汁はまあ普通に食べれていたのですが
缶詰の鰹フレークもダメになり
今度は出汁までもかーって感じです

どちらかというと飛魚出汁や昆布出汁の方が
好きなので自宅では鰹出汁使いませんけども
外食ではそうもいきません
和食を食べるに際して
鰹出汁を避けるのって厳しいです

まあ砂糖を使った煮物やおかずが嫌いなので
もともと食べれる和食も限られているわけです

とはいうものの摂取してしまったからといって
アナフィラキーショックを
起こすということでもないので
口に入れてしまったからといって
さほどの問題がないのが救いです

てなわけで
お陰様で私はごく軽度な症状で済んでいますけれど
空気中に漂うお蕎麦の粉とか
卵が混入しているものとか
皮膚を消毒する際のアルコールとか
そういう僅かな量にでも
アナフィラキーショックを起こしてしまう人は
本当に大変だろうししんどいだろうなって思います


そして話は変わりますが
ネットで色々な話を見ていると
アレルギーに対する理解も知識もなく
アレルギーは甘えだとか好き嫌いだとか
そう思っている人は未だに多いのですね

なんかビックリであんぐり

また同時に
食べ物や薬物や植物や埃とかいったものだけでなく
私たちがまだまだ知らないアレルギーというのも
実にたくさんあるのだと驚かされます


アレルギーっていうのは免疫機能の反応ですけど
面白いことに
過去生での死の原因に関わっているものに対して
アレルギー反応を示すようになっている
ということも間々あります
単なる好き嫌い拒否反応で済んでいる人もいますが

以前のどこかの記事でも書いたと思いますが
毒キノコを誤って食べて
死んでしまった過去生の持ち主で
キノコがどうしても食べられないって人がいました

その人生で大好きで毎日のように食べていたのに
その食べ物の食べ過ぎによって身体を悪くして
亡くなってしまった人の場合
生まれ変わった時には過去生での大好物だった
その食べ物が大嫌いでどうしても食べれないもの
として拒否反応を示していました

もしかしたら
「食べたら死んでしまう」
って記憶に
インプットされてしまったのかも知れません

手前ミソで私のことを言うと
薬であると偽って
あるものを飲まされていた過去があるので
煎じ薬がどうしても飲めません
(ハーブティーは問題ありません
ドロッとした感じの煮詰めたものがダメで)

二時間ドラマのワンシーンではないですが
崖から突き落とされて死んだことがあるので
高所恐怖症ですし

溺れ死んだ人は水に顔がつけられないとか
水をゴクゴク飲むことができなかったり
咽喉を鋭いナイフやカミソリで切りつけられて
絶命したことのある人は
床屋さんでの髭剃りが処刑場の恐怖に感じられて
行くことができなかったそうですし…
カッターナイフも使うことも出来なかったりとか

そういうケースもあります

あとどうでもいいことですが
私はネズミがものすごく嫌いなんですけど
(夢の国の有名キャラも嫌い齧歯類all嫌い)
それはやはり
ネズミが原因で発生した疫病により
自分も含めて家族や近隣住人など
大勢亡くなるためになった
過去のトラウマが起因しています


そんな風に
過去生の死の原因になっているものに対して
嫌いとか苦手意識とか
心理的な拒絶反応を示すことは珍しくありません

だから
もしかしてもしかすると

ひどいアレルギーを発症する人の中には
遺伝とか体質とかからではなく

過去生において
アレルゲンとなっている物質によって
辛い経験や痛みを伴う
「死」を経験している人もいるのかも知れません

「死」の際のトラウマ
PTSDによる心の拒絶反応が
「これは私に死をもたらすモノだ」として
それを自らの肉体にとっての「毒」として認識し
肉体的な拒絶反応を示しているのかも

あくまで推測ですが


そして発症する人が稀な奇病に罹る人とか
何万人に一人しかならないような珍しい病気とか
そういう人は単なるトラウマ超えて
カルマの問題なんか絡んでいたりしますので
前世での「死」の問題とは
別枠で考えなければいけません

そうですね
ベトナム戦争で使用された枯葉剤とか
炭素菌みたいなバイオテロ・生物兵器としての
人類にとって害悪あるものを開発した人とか
一度に大量の人間をいたずらに死に至らしめることを
画策した人とか科学を悪用した人なんかは
現代医学では解明の出来ない難病奇病の
モデルケースになるというか
大勢の人を救うための症例や新薬の臨床開発の
対象になるためにその身を捧げるために
生まれてくることが多いです

自らが撒いた種を刈り取ることとして
何代も先の子孫たちに
悪影響を及ぼすものを作ったりそれを行った人は
負の遺産引き継いで苦しむことになる
被害者たる子孫になることもまたよくあることです

プロとアマチュアの違い

結局のところ
他人が絡むことを書くことは
悪口に変わりなく
相手側の立場からの意見のないところでの
こちら側からの一方的な言い分で
自己弁護でしかありません

私の主観であり私の立場から
正当性を主張して相手を非難・批評している
他者批判に過ぎないのですから

客観性の欠けた偏った意見です
相手のいないところで
自分の意見をあーだこーだ書くのは
人として卑怯極まりもない
品性品格のない行動なのかも知れません

blogに限ったことでなく
文章というのは
読む人の心にどう響くか
その方がどのように受け取るかなのですが…

どんなに客観的に書いているつもりでも
先入観や思い込みが入り混じった
当人の意見の押し付けであることは否定できません
それはこのblogに書いてある
どの記事にも当てはまることですね


 


先月まで勤務させて頂いた場所で
ご一緒していた方とお話する機会があったのですが
意見の食い違いというか
ちょっとしたいざこざがありました

そのいざこざから改めて思ったりしたことです


話の前置きとして

私がプロの占い師として
仕事させて頂いてた時代からすると
今は占いのお店がものすごく増えました
電話占いの会社もたくさん増えて
乱立しているっていう位な数です

実は私は日本で初めて
ダイヤルQ2により占いのサービスを始めた
某電話占い会社で働かせて頂いていたことがあります
(知人の占い師さんの紹介)

なので当時は日本で一件しかなかったのに
あっという間に全国増えて(今はダイヤルQ2もなくなり)
お客様からして選び放題な時代になりました

そうするとどういうことが起きるかというと
労働者としてのプロ占い師の数が不足し
ちゃんとした占い師としての経験のない
素人がどんどん参入してきて
占い師全体の質が低下するということが起きました

そんなんで巷には
なんちゃって占い師というか
ちょっと占い出来ます出来ちゃいます
というそういうニワカ占い師が増えました

昔は…占い師の仕事場というと
辻占や占い館や占いコーナー
あとは自宅をオフィスとしての活動
そんな感じです

なるべくしてなったお店で働かずとも
自宅にて知る人ぞ知るの評判や口コミで人が集まり
それで生計が成り立つような人は例外として

いつか独立してフリーでオフィス構えるにしても
最初の登竜門としては占いコーナーや占い館など
そういったところで占い修行としての見習い期間も含めて
経験を積むものでした

辻占(街頭における路上での占い)は
場所決めというかその界隈を仕切っている人がいて
紹介でその場所をわけてもらうことになります
場所があくまではその場所でお商売は出来ません
※893とかではありません
 商店街だったり地元の口利きやみたいな人とか
 占いの元締めみたいなことをしている人

ここは人も通るしよさそうだからと勝手に
路上で占いをするのは業界の筋を通さないことで
色々とルール違反になります
(道路交通法もあるので警察への届け出も必要)
建物の中とか敷地内であれば
その建物の所有者から許可もらえばOKですが



占い師になるためには
そもそも占いを勉強する必要がありますが
昔は師匠たる占いの先生のところに
学びに行く人が多かったと思います
今は占いの学校やセミナーやワークショップ
カルチャーセンターでの受講もありますが
古い時代には個人でやっている塾のような処
私塾みたいなところに門下生的に
習いに行く人が主流でした
(この占いの先生や師匠から
プロになってもよしとの判定を頂いた人が
お墨付きとして店舗を紹介してもらったり
辻占の場所を分けてもらえるわけです)

ちなみに私はまったくの独学で
占い師になってから
一緒に働くことになった先輩や同僚から
あれこれと教えてもらったり
現場で様々なことを吸収させてもらった口です
(そうやって周囲との交流で実用的な知識とか
テクニックとかノウハウ学ぶのも大切です)
なので特に師匠と言える人はいません

ただ魔術の師匠はいまして
その方から
「あんた占いできる人でっしゃろ?
 うちの店で働きなはれ」
とスカウト?されたのが
占い師になるきっかけのひとつでしたが





そうですね

ネット社会になってから
そんな風に占い館で
対面占いという現場を経験していない人でも
趣味で占いやってますという人が
自らのHPで仕事だったり無料でだったり
占いの依頼を募ったりし始めて
電話占いの会社で働くようになったり

いつの間にか誰でも占い師になれちゃう
そんな時代になりました

(でもちゃんと勉強したことない方でも
優れた資質ある占い師さんがいるのは事実です
さほど多くはないですが
全員がダメってことはないのです)

そしてスピリチュアルブームが起きて
単なる解説書付きのオラクルカードを使って
リーディングと称してお金を取る人が出てきたり
スピリチュアルという軽い分野な商売畑が生まれたことで
占いとの境目も曖昧になり
そうした方面の方も占いジャンルで
占い師的な仕事をするようになりました


てなわけで
私が先月までいたお店にもそのような方がいたわけです

聞いた話ではその方は占い館での勤務経験はなく
ちゃんとした占いの勉強をしたこともなく
趣味でタロットが好きで
癒しフェアとかスピコンとか
そうしたところに数人で出店し
何回か出てお客さんを見た経験があるとのことでした
(でもタロットではなく霊視で観てるとのこと)

そうしたところはそれが目的のイベントですので
法外な金額でなければ
それなりに集客はあると思います

けれど辻占もそうですが
商業施設にある占いコーナーや館にしても
「待つ」のが仕事だったりします

行列の出来る占い館なんて一部です
今まで他店で勤務しててリピーターさんを
抱えてた人気占い師ならいざ知らず
新しくできた認知度の低い店で
まして自分も新人で
たくさんのお客さんが来るなんてことはありません

ゼロなんて当然です
1人来たら大歓迎ってなもんです
2人なんて来た日は感謝しないといけません

どんなお商売もそうですが
三か月半年そして一年単位で考えないといけません
半年でようやく結果が少し見えてきたら御の字です

そんなわけでその方は
二か月で「時間のロスが大きい」
と言って辞められました

それはそれ
辞めるのはその方の価値観で判断ですから
自由意志で決めてそれでいいと思います


先日たまたまお会いしたときに
なんていうのか
占いの仕事をしたいのかしたくないのか
ちょっとよくわからない感じのことを仰られていて
あーだこーだうだうだ???状態だったので
「貴女はプロとしてやっていくよりも
 趣味として占いをやっていかれた方が
 よい方なのかも知れませんね」
とお伝えしてしまったなら
まあ気分を害されてしまったわけです(当然か)


そうですねー

石の上にも三年といいますけれど
どんな仕事 職業でもそうですが
三年はやらないとプロとは言えないと思うんですよ
週五日フルタイム計算で換算しての労働日数が基本で

それは会社員でも職人でも同じで

それまでは見習いともおぼしき期間です

3年その仕事をしていないなら
その人はプロでなくて修業中の見習いです
プロの占い師としてお金を頂けるようになるまで
アマチュアの期間に100人は最低でもみないと
ってのが昔は暗黙の業界ルールありました

そして
今はタロットとかの卜占だけで占い師って
そう名乗っている人も多いけど
本来は命学・相学・兆学
全部あるいは二つの組み合わせで
二つの占術以上が出来ないと
プロとは言っちゃいけなかったです
お店でも働かせてもらえませんでした

また自分はその占術を専門として究めてなくても
占い全体のことくらいは
(他にどんな占いがあってどんな方法なのか)
基礎知識として知っておくべきなんですね

辻占として路上に立って
お店で働かせて頂くようになって
お客さんが来なくてもただ待って
自分を必要とする人が来るまで待って
その間はただ勉強する
路上だったら道行く人の人間観察をして
お店だったら本を読んで
著名人や時事ネタを占って
そんな勉強をみんな必死でして
半年一年経った頃
たまに訪れる人からの評判が当人に戻ってきて
リピーターが増えるという結果が出て
それで食べれるようになっていくんです

ええ 皆さん勉強してます
占いの勉強だけでなく心理学の勉強をしたり
カウンセラーの資格を取ったり
話し方のセミナーを受講したりとかね
様々な職業の人の悩みを聞くわけだから
色んな業界のこと病気のこと健康のこと
法律のこと福祉のこと
人の話を聞くことも含めて
ちゃんとした占い師さんはたくさんたくさん
勉強してますよ

なんちゃって占い師さんや電波な人のことは
知りませんが(私も十分電波ですが)


で3年位やってようやく一人前になるんです
そこまでやっても食べれない人は
その事実が答えなんです

ここでようやくプロって名乗れる

占い師には資格試験や認定制度はないし
自分で占い師を名乗ってしまえば
自称で出来ちゃう仕事ではありますが
3年やってお客さんがついて
その道で食べれているっていう事実が
その人の占い師としての仕事の「証明」になります

3年やって芽が出ないなら
食べれるほど稼げないなら
占い師としては評価されてない
ニーズが求められてないってこと

お客さんを呼ぶ力も
初対面のお客さんの方から
「この人に観てもらいたい」
と思われる風貌や雰囲気も
その人の占い師としての実力のうちなんです

そしてプロなら
自分の占い師としての仕事の評価が
占い業界全体の評判に関わるってことも
自覚すべきなのです
その業界や仕事に対する責任の重さ
先人たちから受け継いだ知識や技術を
使ってお金を稼がせて頂いているという自覚
その恩恵を考えるからこそ
占いに対する偏見や誤解を解いて
正しく占いを用いて社会貢献して
占い師の地位向上を図っていくことも考えたり
占いという学問や文化 知識や技術を
後進に伝えていくこととか行ったり
使命感ってのも必要です(そこそこね)

例えばとあるスポーツ 
例えばフィギュアスケートを例にするなら
プロであるなら 
フィギュアというスポーツそのもの
そして業界全体のこと
そのスポーツの未来のこととかも考えるでしょう?
自分自身が不品行をしたら迷惑をかけてしまうとか
そうしたこととか後進の指導とか
お客様を楽しませることとか
色々とプロとしての自覚とかあって然りです

アマチュアの人ならそこまで考えなくてもいいけど
ただ当人が楽しんでいればいいと思うし
誰もそこまでアマチュアに求めないし

でもプロならば
その技術でご飯食べさせてもらっているならば…


まあそんな感じでして

なんていいましょうか
どんないきさつだったのかというような
細かいことを書いていないのでアレですが

たった二か月間 しかも週一回程度
お客さんが来ないとか売り上げがなくて
時間のロスが我慢できないとかいって
辞めちゃって
そのお店でお客さんを待っている間
占いの勉強もまったくしないで

「命式は?」と聞いても「ナニそれ?」と
命学・相学・兆学のこともその違いも知らずに
占い師とは名乗って欲しくないなーって思いました

「私ね 
 人のエネルギーの強い弱いがわかるの」
「タロット使わなくても霊視でわかるから」
「どの占い師さんもたいしたことなくてねー」

2.3回占いイベント出たくらいの経験で
そんなこといってほしくないです

すごい占い師さんも素晴らしい占い師さんも
世にはたくさんいますよ
その方が知らないだけで会ったことないだけで
その方の周囲にいるのが
なんちゃってスピリチュアルワーカーや
なんちゃって占い師さんなだけで



とりあえずまあ
まとめてしまうと

その道で食べていけてこそプロと名乗れる
そう思います


結局 愚痴です
他人の悪口を書いてますなー

2019/12/27

反省と課題

2019年もあと数日となりました

今年を振り返って最近の出来事から
改めて相変わらずな自分の弱点とか問題について
気付かされることになりました

そのひとつが人との距離の取り方ですね

改めて再度痛感して反省したことが
私の職業においてのお客さんというのは
問題を抱えた人であるのだから
決して近しい関係になってはいけない

…ということです

お客さんとは友達には成り得ない

常に相手とは一定の距離を取って
必要以上に近寄らせない
相手がそのように
誤解するような態度をとってもいけない
仕事とプライベートはきっちりわけないといけない

そんなことを骨身に染みて
感じさせられる出来事がありました

友人ではないのに
こちらからしたら友人と思っている人ではないのに
友人関係の輪の中に入っている人のように
距離無しに振舞われた…ということ

こちらからしたらお客さんや生徒さんに対する
親愛の情としての親切の範疇で
友好的な対応を示しているだけの人と思っていても
相手の認識は必ずしもそうではないわけで

とくにFacebookは要注意ですねw
そんなわけで知り合ったきっかけが
お客様である人に関しては皆さん
繋がりをはずさせて頂くことになりました
例外の方もいますけれど

どうでもいいことですが
私は結構フレンドリィに誰でも受け入れますが
知り合って数年という年月を重ねないことには
相手のことを信用しませんし
友人というカテゴリには入れません
だから友人は少ないです
友人でない人に
名字ではなく名前で呼ばれるのも嫌いです
自分が友人として心を開いていない人に
馴れ馴れしくされるのも嫌いですw

でも初対面からフレンドリィに対応して
オープンに誰でも受け入れてしまうのが
相手に誤解を与えるもとで問題の根源なのですね

八方美人なつもりではありませんが
誰とでも上手くやろうとして
距離の取り方を間違えているのだと思います

だからこそ
そのやり方を見直さないといけないなあと
きっちりと境界線を引いていかないとなあと…
反省することしかりです



あとは
占い師の仕事を再開させるにあたって
占い館にて勤務させて頂くことになったのですが
そのことからも色々考えさせられることがありました
これも他人との適切な距離の取り方についてでしたね

占い師の仕事に関しては
仕事を休んだり一度辞めたり
何度かストップさせて
今の仕事スタイルになってからは
占いという技術を用いて人を観るということは
まったくしていないブランク期間が長かったので
「出戻りの新人でーす」
なんて気持ちでいたのですけれど

よく考えたらいちおうは私
プロとしてもベテラン枠なんですよね

占いにしても他人の相談に乗るということも
私は小学生の頃からしていて
高校を卒業してから普通に就職もしていたけれど
そういう仕事をしている間も相談されることはあって
そのような意味ではアマチュアの期間も10年以上はあり
占い館で働くことになったのは20代半ばですが
そこからをプロと名乗るにしても
なんだかんだで続けていることを考えれば

自分はこの業界この仕事ではベテランなんだ
という意識を持つことは必要でした

だからまあ
新人さんとかアマチュアさん
後輩や見習いの人たちと接するときは
同じステージに立ってはいけないというか
(エバって上から目線になれって意味ではなく)
先輩としてちょっと引いたところで
距離を取って付き合う必要があると…

フレンドリィであるのもよろしくないなって
そう思いました

ふわふわきゃぴきゃぴ
相手と一緒になってはしゃいで
いつまでもそんなことしている場合ではないです
これはもうオバサン通り越してBBAだからとか
年相応な思慮分別を持つこととはまた別で

下出に出ているつもりはなくても
結局は相手のご機嫌取りをしているような
そんな振舞をしていることに変わりはないのですから

親切に友好的に、というのと
相手に同レベルになるというのは別ですし


舐められやすかったり
甘く見られたりしやすいのも
結局はこういう点からなんですよね
威厳がないのももちろんあるけれど
見た目だけの問題ではないのです

他人との距離を適切に上手くとっていくこと
関係性における自分のスタンスをはっきりさせる

そんなこんなが今年得た反省
そして今後の課題でした

2019/12/25

同業同名は意外と多し

先日 同業と話をしていたときに
ある方がネットに疎い方だったので
別の方が話の流れで
説明するためのサンプルとして私に例に出し
「アルマ 占い」で検索をかけられたのですね
(※今年から占い師業を復活させていて
 そちらは昔からの名前で仕事していますので)

するとそれなりに検索結果が出てくるわけです

といっても
何もすべてが私の関連ページというのではなく
同業で同じ名前の方が複数名いるというだけなんですね

私も30年以上この名前使って仕事していましたが
だからといって
私しかこの名前の占い師がいないというわけではなく
それなりに同名の方はいるものです

同名の人がいるのは当たり前のことで
作曲家のマーラーやヒッチコックの奥さんとか
欧米人でも見かける古い女性名だし
ヘブライ語で霊魂という意味だから
それっぽい名前といえばそうです
西洋を舞台とした漫画にも使われてますし

(私もこの漫画と作者さんが好きで
↓この作品の主人公にちなんでつけさせて頂いた名前でして)





ただ
そのうちの一人に
「ちょっとな…ヲイヲイ」と
むかーしに思った方を見つけたのです

ここのリンク欄にも記載していますけど
「アラジンの魔法のランプ」さんというサイトに
とても簡単なプログラミング(CGI)仕様の
無料占いの原稿提供をさせて頂いたのです

それが
「魔女Almaのタロット占い」と
「魔女Almaのルーン占い」です

それは占いの素材として
リンクを無料配布していたので
個人でHPを作ることが流行っていた時代には
リンクを貼って下さる方も多かったのですね

そのための原稿ですからそれはそれでいいのです
ちなみにこの原稿の料金は頂いていません
恩人の紹介ということもあり無償提供です
(私は一円ももらってないし入るシステムもありません)

でも
ある方がご自分のサイトに
この無料占いリンクを貼ったうえで
サイト名を「魔女アルマの占いの館」としていたのです

常識ある方ならお解りですよね? 
私があんぐりしちゃった意味

リンクをご自由にお貼りください
としている無料占いプログラムですから
使って下さることは別に良いのです

名前にも特許はないです
魔女という名称を名乗られることも個人の自由です

その人がきちんと魔女としての教義を学び
トレーニングとイニシェーションを受けた
ホンモノの魔女であろうがなかろうが
当人が勝手に魔女と名乗りたいなら
そうすればいいのだと思います
ここも特許も商標登録もないし

けれども
原稿執筆者の名前をそのままに使用してのサイト名
そしてご自身が魔女アルマと名乗られること
その上で「魔女Almaの…占い」の
プログラムをそのサイトに掲載すること

それはようするに
その原稿(占いプログラム)は自分で書きました作りました
みたいに公言しているような意味にも捉えられます
ご当人にその意図がないにせよ

正直不愉快でしたが
それでその方がそのプログラムを利用して
お金儲けをしているわけではないので
異論を唱える理由もないということから
「なんかなー」で終わりにして
そのまま放っておきました
(ちょっとプリプリはしましたが)
私が魔女アルマの本家本元ですとか
オリジナルだとかそんなこという気もないですし

そのうちに私も占いを辞めて
今のスタイルのサービスを行うようになり
きれいさっぱり忘れていました

ところが先日の検索でその方がまた
トップの方に出てこられたのです

そしてまだ名乗っていらっしゃるw

またしてもなんかなーって思いました


何しろ今はスマホの時代です
20年前のCGIブログラムなんて時代の遺物だし
ネット上に残ってはいるけど使っている人は
ほとんどいないでしょう

個人がHPを作る時代でもないし
Blog通り越してTwitterやInstagramの時代
その方も「アラジンの魔法のランプ」さんへの
リンクはもう貼られてはないみたいですが

まああの占い原稿を書いたAlma(あっし)と
その魔女アルマと名乗っている人が
同一人物だと思う人がいたとしても
それはそれでどうでもいいかなーと

なんでしょうね

私だったらそんな紛らわしいこと
誤解を生じるようなこと
相手に対して失礼すぎるのでしませんけれど
だってパロディにもなりませんでしょ?

てなわけで
同業者の中には同名の人も結構います

そんな話でした


追伸
占い師としての活動ですが
吉祥寺のお店から銀座のお店に移りました
12月からで週一回毎週木曜日丸一日出演しています
数寄屋橋近くエルメスの並び(ソニー通り)の
ビル三階の占い館です
銀座占い館リディーアンジュ
商業施設の中ではないので入りづらいかもですが
閉鎖的なオフィスなので隠れ家って感じで
のんびりじっくりお話を聞くことが出来ます
ここでは霊的な話も前世とかの話も出来るかな
前のとこはNGたったからっっ

予約なしでOK
サロンに予約してセッション受けるほどのことではない
相談事などがあるときにどうぞ

2019/12/23

傲岸不遜2



私自身が過去生というものを信じていたとしても
その意見を他人に押し付けることはできないし
実際問題 過去生を立証する手立てを持っていない

過去生というものが真実であると
科学的に立証することがたとえ出来たとしても

私自身がリーディングとやらでキャッチする情報
すなわち私のリーディング能力が本物(真実)であると
これを証明する手立ても何もない

だから根拠のない眉唾だとか空想からの妄想話で
先入観や思い込みによる勝手な作り話だとか
こじつけだとか
そのような話で人を脅して不安にし洗脳を行い
金を絞り取るインチキな詐欺師だの嘘つきだの
非難されてもそれは仕方ないというか当然だろう

実際そのようなことをする人
この業界や類似の職業や同業者において
ペテン師とも言える霊感商法のようなことを
している団体も個人も昔から減らないのだから

如何に真摯に向き合っているつもりでも
相手(クライアント)がどう思い受け取るかが肝心で
それが真実の歴史(情報)であるかどうかなんて
なんら証明も出来ないのに
「私はホンモノですよ」
「私の伝えている情報は真実です」
なんてそんな自惚れた自画自賛は
臍で茶をわかすくらい可笑しいことだ

私もペテン師の一人かも知れない
私が伝える情報に
価値や意味があったのかなかったのかは
セッションを受けて下さった
クライアントさん自身が決めることだ



信じなくてもいい信じてもいい

けれど

私のところのようなサービスに訪れて
そうしたサービスを受けようという人は
そのような非科学的で非常識的な情報に
救いと答えたるヒントを求めてくるのであろうから
少なくても耳を傾ける気持ちがあってのことと思うし

ならば襟を正して人の話を聞く態度で
真摯にそのような情報と向き合って欲しいと
そう切に願う

それを真偽のあやふやな情報として聞き流したとしても
もしもの話として
仮説として受け止めたとしても

その話を「いま聞かされたこと」の意味を
自分が求めて得ることになった情報の表すところの意味を

必要だからこそ今聞くことになったのだと
望んだからこそ与えられたメッセージであると
きちんと伝えられた意味を考えて欲しい

それが真実であろうが嘘つきの作り話であろうが
そうした話が意味するところの
自分への性格や考え方や生き方の指摘や説教
得られる教訓や注意点を
その情報を聞かされたことこそに意味があり
必要であるからこそ与えられた情報であると

謙虚に受け止めることをして欲しい

って思ったりします





私も不完全な「人」ですから

人としてあまりにもどうなの?っていうようなことを
過去生においてされた方が
目の前でふんぞり返って偉そうにしていたりしたら

「ちょっ! おまっ!!
 過去にあれだけのことをしておきながら
 何アンタそんなにエラソーなの?何サマなの??」

みたいに眉間に皺寄せて
相手に対して不愉快さを思ってしまうことがあります

いくらお客さんであっても

いやさそれが
お客さんだからなおのことなのかも知れません



相談者とセラピストという
上下関係がない関係性であるわけですが
唐突に上から目線のタメ口だったり
何を言っても反抗的で突っかかってきて
人にモノを相談する態度ではないというか
年相応の分別あるふるまいが出来ないのって問題です

そうした態度を取られるとこちらとしては
不愉快になりますし
あなたの力になってあげたいよくしてあげたい
という気持ち
100%萎えてしまいますよ

と伝えると逆切れ

そんな人たちが過去に4人ほど


そうですね
前回の続きになりますが
過去生でも今の人生でもちょっとばかり
オカルトやスピを齧った人は
大体において前知識があったり
精神のオクターブが広かったり高かったりで
セッションがやりやすい人がほとんどなのですが

一部やっかいだなあ…という人もいます

それは
主に傲慢の罠にはまっている方になりますが
なまじ 過去において 
そうしたことを探究した経験があるものだから
ものすごく自分を大きく見せようとして
他人の言葉を横取りして
自分の言葉として語ろうとしたり
「私の方がなんでもわかっている」
というようにこちらを下に見て
尊大な態度をお取りになられる方とかは
セッション以前の問題というやつで

例えば
宗教的にそこそこの地位についていた人とか
牧師さんや司教さんや僧侶やマスターやグル
そうした精神的リーダーや指導者だった人は
自分が色んな人にその知識を教えたり
人の相談に乗ったり説教したり
その地位故に人々から崇められたり
かしずかれたりしてきた人たちなんで

霊的にも人間的にも成熟して
本当に精神性の高い人たちなら
誰よりも謙虚だったりするんですが
必ずしも職業と霊的レベルは一致しないのです



でもご自分の方が何でもわかってて
そうした力をお持ちというのなら
何も私のところを利用されなくても??とも
不思議に思います

解っていらっしゃるのなら
原因も解決法も理解してらっしゃるでしょうし
ご自分の問題はご自分で解決できるでしょう

だから 
自分より下だと思っている人のところに

「なんで来るん?」

と不思議に思います


ある人の場合
ふんぞり返った態度に吐き捨てるような物言いで
こちらが何を言っても
「はいはい、わかってるわかってる
 そんなのあなたに言われなくても
 とっくに知ってるし解ってるし」
とまるで人の話を聞く態度でなかったり

上記ケースのごとく
指摘すると逆切れパターンだったんですね

スピリチュアルな職業や占い師の知り合いは多く
自分はその人たちから逆に頼られ相談される人間であると
十分にスピリチュアルな知識がある人間だと
そのように仰られる位でしたから
過去生やカルマのことなど理解しているとの前提で


「今のあなたの人生に起きていることが
 あなたが前の職場でとても辛い想いをさせられ
 身体を痛めつけられるような経験をしたことが
 過去のあなたが誰かに対して行った報いだとして
 そのことをどう考えます?」

と尋ねたところ

「本当であるかどうかわからないんだから
 考えようがないこと」

と軽々しく嘲笑するかのようなトーンでお答えなさる


こういう不遜な態度は無意識のクセというか
過去生の人格が出てきているだけとも取れるんですけど
過去の人格に乗っとられていることも
自覚して頂かないことには始まらないので
それはそれで
「さっきからのその態度は何ですか?
 茶化しに来たんですか?」と
こちらもイヤな言い方をします

ふつうの人の一般的な常識的な反応としては
そんなこと言われたりしたら
何か自分が相手に対して
失礼な態度や言い方をしてしまったのでは?と
とりあえず考えたり自分の言動を振り返って
いちおうの形としての謝罪を口にしますが

自尊心が強い人は
大体モンスターさんな反応をしますですね
スピリチュアルナルシズムとエゴイズムに
支配されている人だから当然ですが
(サイコパスはまた違った反応)

でもその
不要な無駄に高いプライドと
スピリチュアルナルシズムとエゴイズムこそが
その人の人生をおかしな方向に暴走させ
今の身体の不調を生み出している要因そのもの

これに気が付いてもらわないことには
何も始まらないというのがあり

「あなたには謙虚さという言葉がない」

その一言で終わってしまうと言えばそう
けど今それを言っても響かないのも事実

でもこの方が
「痛い言葉」に耳を傾けられるようになるには
まだまだ時間がかかるんだろうな…

と思ったりします

敢えてご当人が読まれるかも知れないこのblogに
当人が「自分のことかも」と
特定できる情報を記載して書くのは
少しでも心に響いて自らを振り返って欲しいとの
願いが少しばかりあるからです

2019/12/19

傲岸不遜

現代においても
そして過去においても
どんな宗教や霊性の道においても
幾多の時代が過ぎ去り人々の生活が移り変わっても
おのが霊性を磨こうとする道に進もうとする人がいる

精神修養に至ろうとする行動力は尊く
厳しく険しい道を
究めようとする姿勢は尊敬に値するものだが
道を究めようとする動機は人それぞれであり
私欲を捨て去ろうとする道を選択してもなお
謝った信念を捨てきれず己が欲に惑わされるものもいる

自分自身の小我に打ち勝ち
大いなる悟りの境地へと
自らを誘うことが出来たものは
霊的な成長の過程において身に着けた
相応の力の正しい使い方を知っているので
傲慢に陥ることもなく
謙虚さを宿した済んだ瞳は黙して語らない

捨て身の覚悟で辿り着いた境地から
彼らが得たものは魂に刻み込まれ
輪廻転生を経て記憶が失われようとも
決してその霊性の光が失われることはない

けれど道の途中に置いて
我欲や現生への執着や傲慢さを捨てきれず
脱落したものの末路はどうなんであろうか





お客さんとして会った人ではない
修養的な場であったその人は普通の企業人だった

精神性や霊性を磨く修業的なこと…に熱心で
あれもやってみたいこれもやってみたいと
いささかミーハーな気もしないでもなかったが
仏教的な教義や奥義に対して知識はあるが
その精神を実践しているわけではないという感じ

自分はアレも知っているコレも知っていると
饒舌に語ってはいるが
他人が自分の知らないことを話したりすると
少し不機嫌になり無関心になってスルー対応

何処か他人を見下した態度と
損得勘定でランク付けして
相手によって態度を変えている小賢しく
分かりやすい小物ぶりを
なんだかなあ…と思って眺めていると

その人の過去生の姿が視えてきた

山岳信仰の行者姿で
滝に打たれたり山の中を走り回っている姿

だけどもこの人
そうやって得た何かしらの能力を
自分を誇示するために人と競ったり
(一般の人たちに威張り散らして)
師匠とおぼしき人に破門されて
山を追い出されていたりする

それだけではなく
もうひとつあとの別の人生
これも日本なんだけども
今度こそはと脱落してしまった
過去のリベンジなのか
生き仏になるのだととある道に進み
とても大変な行にチャレンジする資格を得て
命をかけてトライしたものの
それはそれはとても大変な修行であったからか
やっぱり挫折されていた

そして失敗してしまったなら
自決しなくてはならないというのに
その勇気なくいざという時に臆してしまって
死ぬことままならず下界へと逃亡してしまい
市井に紛れて生きることを選んだのだった
あとはもう道を踏み外した破戒僧のような人生

けれども今生において
類似の道に進むことはなく
過去にチャレンジしたことへの三度目の正直は
さすがに選ばなかったようだが
趣味の延長線上にこういうことを選ぶとは
道を究めて目的を果たせなかったことへの
未練がさすがにあるらしい…とも思ったり

根性がないとか忍耐力がないとか
そういうこと以前にそもそも
そのような修養にトライすることの動機自体が
ものすごく不純だった人だから
この根本的な姿勢や根幹的な考えが
進歩しない限りには
何度生まれ変わっても
この人はこうなんだろうな…と

もちろん
当人から聞かれたわけではないので
こちらからそんな話はしません

その人からして
自分から見てとるに足らない存在の
私からそんなこと言われたとしても
信じないでしょうし憤慨するだけでしょう

意味なく価値もない情報として
笑い飛ばされるだけです

とはいうものの
それが誰からの情報であったとしても
今のその人には過去の己がstoryから
何かの学びや教訓を得ることは難しいでしょう



でもって
上記の方の場合 
不純な動機で修行の道に進まれた故に
「何か」を得る前に早々と挫折したものですから
とくに特出したスキルが磨かれることはなかったのです

そしてその方のそういう資質を
師匠となって指導された方は当然見抜かれていたので
当人が学んだことを悪用しないように
阻むことや封じることもされていたのでしょう

だからまあ
人畜無害ではあるのです
それ以前の「人間」としての修業を
頑張って下さいねという感じで
上つ方々も放置プレイでOK(意味不明)


でも問題なのは
下手にある程度の力を身に着けられた段階で
なおかつ「七つの罪源」でいうところの傲慢さ
これに負けてエゴイズムに呑まれてしまった人たちです
こういう人たちは精神性が成長して
霊性がある程度高いところまで行った段階で
その高みに達した故の高慢さ
自分のことを何様と勘違いしての自惚れが
暴走しているので恐ろしいです

そこまでいかなくても
過去生でサイキカル能力を開発することや
何らかの霊的な道を探求したり
そういう職業に就いた人で
サイキカルな能力は鍛錬しても
そのサイキカル能力に
霊性(スピリチュアリティ)すなわち霊的な成長が
追いついていなかった人の場合
自分は特別な存在なんだ的な勘違いがあるので
スピリチュアルマウンティングも取ってくるし
謙虚さのない困った人が多いです

ちょっとこの手の人のことで
思うところがありましたので
別途書いてみることにします

今日は眠くなってしまったのでここまで



2019/12/15

欠乏は過剰を産む

先日とあるクライアントさんから頂いた
お礼のメールの中に
「現実を踏まえてアドバイスして頂けるので安心できる」
というお言葉を頂戴したのですが

そういえば
現実的な人とか現実的なアドバイスをするとか
地に足が付いているとか
ありがたいことによくそのように言って頂けます

ですがそれは
そのような顔を見せることが出来ているのは
あくまで仕事の顔でだけで
そういう風に私を評して下さるのは
クライアントさん限定ですねw

プライベートでは
まったく地に足が付いていない非現実的な人物ですし
40代に至るまでは
幼稚な精神が痛すぎる
ずっと厨ニ病全開なアダルトチルドレン
だったと思います

そうですね
占星学が分かる人にしか分からない話になりますが
太陽8ハウスさそり座で同室同サインの海王星と合
ASCは魚座だし
月1ハウス魚座で同室同サインのカイロンと合
そして1ハウスと8ハウスの天体はトライン
MCとオーバーロードサインは射手座だけど
風のサインはゼロで地のサインが2つだけ

配置そのままに
「見ているものがこの世にあるものではない」のです

実際問題
常に過去とか非現実的な空間とか
この世にあらざるものをいつも眺めていて
目の前の現実をちゃんと見て生きてこなかったですね

現実に対処していく術に長けていないというか
思考傾向として現実逃避ばかりしていたような気がします

だから
昔の同級生とか知り合いとかは私に対して
とても現実的な人間という印象はなく
空想癖のある感情過多な気分屋とか
ヒステリーなトラブルメーカーとか
そんな風に評されるんではないかと思いますし

プライベートでの友人や知り合う人も
浮世離れしたつかみどころのない変人なんて
そんな風に思っているんではないかな

なので
「現実的な人間」だと言われることが
すごく意外というか一番無縁だった評価なので
驚くというよりも面白いものだと思います

占星術の言葉(見方)に
過剰は欠乏を産み 欠乏は過剰を産む
というものがあるのですが

これは人間というのは
自分に足りないもの(不足していると感じるもの)を
何とか埋め合わせようとして過剰に追い求める
その逆に満ち足りていると
所有していることに無自覚になり
敢えてそれを利用しようという意識が働かない
という行動の反作用のことを指しています

私の場合
私という人間そのものが
モラルや現実感(現実的感覚)
社会性や組織適応力に大いに欠けている人間であり
知的能力や理性や倫理的思考や
コミュニケーション能力が劣っているという
自覚とコンプレックスがあったので
意識してそれを手に入れようと
それらを埋め合わせるがごとく
そうした知識や情報を手に入れることに
貪欲だった結果のような気がします

その方向性に意識のアンテナを向け続けたことで
目には見えない世界を視る目や
五感を超えた感知能力に焦点を合わせることを
意識的に遮断して拒絶してきた

結果的に長所で取り柄でもあった
非現実的な空間を感じ取る能力が衰えて退化し
鈍感になってしまった部分が多々あります

それは良い事だったのか悪い事だったのか
自分ではよくわかりませんが

でも現実世界を生きることが一番大切なのですから
現実的な社会生活に適応していく術や
年相応の分別や常識を身につけて
一人の大人として人間として成長する機会を
多く持てたことは必然で得難い経験だったと思うのです

子供の頃の無邪気な感性を持ち続けたままであれば
今よりももっと社会や人様のお役に立てることの出来る
私であったのかも知れませんが…
いつも焦点や意識のアンテナを
現実ではないものに合わせ続けていたならば
木々や自然と対話し
見えない世界や肉体を失った人々を見て会話し
神様や仏様やそうした存在たちともコンタクトを取れて
非現実的なレベルから多くのメッセージを
伝えられることが出来たのかも知れませんが…

残念ながら今の私と過去の私との間には
大きな隔たりがあります
今は本当に俗物で煩悩の塊ですww

でもまあ
浮世離れした視点からモノを言っても
人の心には届かないし響かないでしょう

だから非現実を知った上で
現実と社会を学ぶ必要があったのだと思います

今回の人生はそれが私のテーマでした
これも人生の通過点ですね

まあでも
同時に両方の世界を視る視点があれば
これにこしたことはありません

とにかく自分が人間として成長していく段階を楽しみ
同時に現実を楽しみながら霊性を磨いて
それを仕事に善い意味で反映させていくだけですね



2019/12/10

Pride ~in the name of love



 One man come in the name of love
 One man come and go
 One man come here to justify
 One man to overthrow
 In the name of love
 What more in the name of love
 In the name of love
 What more in the name of love

 ある男がやってくる 愛という名のもとに
 ある男がやってきて そして去る
 ある男が正しい行いを証明する
 ある男が困難に向かうためにやってくる
 愛という名のもとに…
 他に何の理由がある? 愛という名の行為のためにだけだ
 愛という名のもとに…
 愛の名のもと以外に 他に何の理由があるというんだい?

 Pride(in the name of love) by U2


先週行われた13年ぶりの来日公演で
予定になかったけれど歌われたそう
(チケットの抽選に外れていけなかった…号泣
私にとってはボノは憧れの人の一人で
来世はボノ(みたいな人)になりたい!のである)

もともとこの曲はキング牧師に捧げられた曲
今回は中村医師を追悼するために
歌詞を替えて歌ったとのこと


また一人
尊敬する素晴らしい人がこの世を去ってしまいました

中村医師の死を知ってから
ものすごい哀しみと喪失感でいっぱいです

ペシャワール会と中村医師の活動のことは
10数年前に「うぃっちぃずぷろじぇくと」という
家庭の不用品をフリマやネットで売って
売り上げをNGOやNPOに寄付するということを
仲間たちとしていたことがあるのですが
その時の募金先のひとつとして
募金させて頂いたことがあるのです
それでお名前や活動の実績・功績を知ったのです

なんかこう 「あ~」って感じです

ペシャワール会では数年前にも
伊藤さんがやはり命を奪われていて

今回も中村医師だけでなくて
現地人の運転手さんやボディガードたちも殺されていて
彼らにももちろん家族はいて
その方たちの命も貴重かつ大切な命で

残念なことにこのようなことは
いつだってあってたくさんあって
似たようなことは昔からどうにも無くならなくて

国連の人もだし赤十字の人も
日本人だけでなく世界中あちこちの国の
人道支援をしている人たちが…
名もない多くの人々が理不尽な理由で
命を落としている

自分たちの利益や歪んだ願望のために
愚かな思想に囚われて間違いを犯す人が
いつの時代にもいて
そういう身勝手な人たちが減らないことには
相変わらず辟易するし虚しくもあるけれど

でも命を落とした人たちが
そんな中で散っていった人たちが
命を懸けて教えてくれたことは真実で
彼らの人生や足跡が無駄になるとは思わない

彼らは確実に存在していて
この世に生きていた

それは肉体を失った今も何も変わらない

彼らは今も存在している

確実に

彼らの魂は永遠で 誰しもが死ぬことはないのだから
肉体は…停止してしまったけれど



とっくの昔に死んでしまった英雄たち
自分以外の他の人のために尽力して
社会貢献を遺した人たち
歴史に名を刻んだ人も
ほとんど誰にも知られてないような人も

キング牧師もガンジーもマルコムXも
ジョン・レノンもマイケル・ジャクソンも
オスカー・シンドラーも杉浦千畝も
エジソンもアインシュタインもニュートンも
エリザベス一世もビクトリア女王も
仏陀もキリストもムハンマドもルターも
レオナルド・ダビィンチもミケランジェロも
シェークスピアもマルクスも


既に輪廻転生の輪から脱出している人にしても
脱出していないにしても
今リアルに肉体を持っていず
転生前の一休みをしている途中にいるだけで
この地球上に確実に存在している

転生して再び人としての人生を歩んでいる人も
姿かたちが変わって
人種や国籍や名前や性別が違っているだけで
この地球上のどこかに存在していたりする

彼らが過去の自分の人生を知らず
私たちが今の彼らに気付かないだけで

それでも彼らは彼らなのだ

何度生まれ変わっても彼らは彼らとして生きるだろう

だから再びまたその姿をお見かけするその日まで

さようなら そしてお疲れさまでした

ありがとう中村医師
あなたの存在に感謝します

あなたは本当に誇り高き人でした