2016/03/30

スピリチュアル・ハラスメント(上)

 釈迦の弟子、16羅漢の一人に
 ピンドーラ・バーラドヴァージャというものあり

 弟子たちの中で獅子吼第一と呼ばれ、
 神通力=超能力に秀でていた。

 ある時、人の甘言に乗り、神通力を用いて、
 座ったまま高いところにある栴檀の鉢を取るなど、
 人々を前にして自由自在に誇示して見せた

 それを知った釈迦は、

 「お前は究極の悟りを得ず、この世にとどまって仏法を守り、
 人間の病を癒し、多くの衆生を救いなさい」

 ・・・と、
 修行者らしからぬ行いをしたことを叱責、
 また、正法が尽きるまで涅槃に入らぬように命じ、
 彼を退けて閻浮提を去り、西牛貨洲に移り人々を教化した



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このテーマについては一か月くらい前から書こうと思いつつ、
二月に一気書きというか短期間に記事を書いて、それで、
一年分もの記事を大量に書いたつもりでいたものだから、
しばらく力尽きていました。


今日たまたま、あることを検索していたら、
「レイキ、詐欺」という言葉が出てきて何気に見る気になって、
クリックしてみたらば、知恵袋にて。

"偽者?詐欺?悪い方向へ流されている?ヒーラーたち・・・
 ヒーラーさんたちに感じた違和感等について"
という記事が出てきまして、少しペーストさせて頂きますと、


①ブログやセミナーで生徒のプライベートや未熟な言動を、
許可なく教訓話として語る。匿名でも誰の事かわかるし、
自分の事も言われていると思えて不愉快
②突然、感情的なメールを送ってくる。
意にそわない相手や言動に対し、
酷い言葉で容赦なく人格否定する等
③自分の前世は歴史上の有名人だと主張
④頼みもしないのに前世を軽々しく教える。
しかし後日そんな話はしていない、勘違いだと言う
⑤自分の非を認めないで責任転嫁



・・・あら、私のことかしら?

まあ・・・よしんば私でない他の方のことにしても、
上記のことに当てはまるところ、たくさんあると思われます。

①に関しては、このブログを読まれている方ならご存じの通り、
クライアントさんや生徒さんたちのことを書いていますし、
許可を取ってないで書いていることもあります。
公のブログでこのようなことを書く意図とか趣旨はあるものの、
詭弁だの欺瞞だの自己満足的なイイワケと言われればその通り。

③は無いにしても(有名人だったことはないから)

④はもしかしたらやっちゃってるかも知れないし、
②も⑤もあるかも。
ていうか、実際私はかなり感情的なのは周知の通りだし、
お客さんや生徒さんたちに怒ったりすることもあるし、
不快感を表したり、感情的な態度を取ったこともあるから。




レイキや氣によるヒーリングが詐欺がどうかってことに関しては、
気功の一種だから、詐欺ってことはないんだけども、
単なる気功のことを人生において奇跡を起こす何かのように、
買いかぶりすぎている人が多いのが根本原因のような気がする。

うん。過大評価されすぎ。

レイキで改善されたり治癒することはあっても、
それは問題を解決するためのアプローチが出来ただけだったり、
別にヒーリングの方法そのものやヒーラー自体が
優秀だったということもない。助けになったくらいのこと。

だって病気を治すのはいつだって、当人だもの。
他人か治すんじゃない。

ヘルスケアはヘルスケアでしかないんですよ。
確かに氣が充実することで心身ともに改善されることもあるけど。
続けないと意味がなかったり、効果がないのは運動も習慣も同じ。

レイキヒーリングは誰でも出来るし、身に着けられるし、
それは本当にそれだけなの。
それが出来るからって別に大したことではないし、
習い事みたいなもんで、練習すれば上達もする。
誰もが出来るようになること出来たからって、大したことじゃない。

レイキ出来るようになったからって、
それはサイキックな能力とも、
スピリチュアルな資質ともまったく関係ないし、影響もない。

だからレイキヒーリングを習得することで、
そういうのを期待しすぎてる人とか、勘違いしている人がいるのが、
レイキに対する誤解を生んだり、おかしくなっている源かと。

どんなものもようは使いようでしかなく、使い方次第と思いますが。

私自身、レイキのティーチャーであって、
スピリチュアリズムを教えている先生ではあるけど、
別にプロのヒーラーは育ててない。
レイキに関しては、家庭でできるヘルスケアの位置づけで教えてる。

Gレッスンでは応用的な使い方教えたりもするけど。
レイキはレイキであって、サイコノエティカルイメージを使う
やり方のほうがレッスンでは主流だから。


最近はないんだけど以前何度か
「レイキを受講すれれば、
先生みたいに過去生が分かる人になれますか」
と言われたこともあるけど、
(つまりリーディングが出来るようになるか否か)

そういう時は「・・・さあ?」としかいいようがないんですよね。
私はたまたま子供の頃は視える人だったとか、
占いの仕事に長く従事していた延長戦上のこの道だったから。

なわけで、
レイキを受講すれば私と同じような仕事が出来るようになる
みたいに誤解されてしまうのも困ってしまうわけです。

重ねていいますけど、
レイキヒーリングをするようになったから、
私は他人の過去生だのエレメンタル(想念)が
読めるようになったというわけでないのです。
(レッスンに参加して下さる生徒さんもそう)

セッションの場ではレイキヒーリングを使うし、
組み合わせてもいますけど、
レイキヒーリングだけで
すべてを解決しようとしているわけではないのです。


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そもそもヒーリングとかリーディングとかとか
優れた、立派な人格者だからそれが出来るのだ・・・って、

そういうのも思い込みでしかなく、美しき誤解だと思うのです。

ヒーリングやリーディングが出来るからって、
尊敬に値する素晴らしい人ってことではないのです。
サイキック能力は特技のひとつでしかなくて、
その人の人間性や霊性の高さを証明するものではないんです。

どんな職業の人だってそうです。
医師、看護師、政治家、役人、教師、弁護士、検事、警察官、
芸能人、スポーツマン、アナウンサーも、
その人の職業上の技術能力と人間性は別ものですから。

人格が卑しくても、人間性が欠けて劣っていたとしても、
スキルや腕は一流って人たくさんいます。


サイキカルな能力の断片を見せている人・・・
ヒーラーや霊能力者や占い師やチャネラーなんかが、

皆、聖人君子で誤ちを一度も犯したことのない、
人間的にも秀でた人だとは思わないで下さい。

ふつーの人間です。

特別な人間なんかじゃありません。

専門性のあるちょっと特殊な職業を生業としているってだけ。

これらの職業の人は専門的なアドバイスをする専門家って、
そういう風に考えるべきだと思います。
私を含めてこれらの専門的なアドバイスをするものたちの意見、
専門的なサービスの内容がいつも正しく間違いのないものだと、
信頼しすぎないで下さい。
また、サービスの内容は情報として捉えるべきで、
それを発信する「人」にも依存しない事、これ大事です。

自分にとって有益なサービスであるかどうか、
自分の抱えている問題を解決するのにその提案が
有意義で最適であるかどうか、それだけですよ。

スピリチュアルな職業に従事している人間だって、
間違いもたくさん犯すし、他人に迷惑をもかけることもある。
失敗もするし、迷いもあるし、悩みも葛藤もある。
誘惑にも簡単に負けてしまう弱さも腹黒さもたくさん持ってる。
世間知らずだったり、傲慢だったり、勘違いも抱えてるし、
社会性がなかったり、どっかズレてたりもする。

(どうしても関わったクライアントさんのカルマを
最低でも一割は引き受けることになるから、
"歪み"や"黒さ"が出てきちゃうのも致し方ないんですけどね)

他の人は分からないけれども、少なくとも私はそうです。

人間的にはまだまだ未熟だし、心に毒も闇も歪みもあるし、
性格も欠点だらけで、エゴイズムもてんこもりです。
やり方を間違えたり、物事を見誤ったりもたくさんする。
すべての人間関係をソツなくこなす器用さもない。
長所やイイトコなんてひとつもないかも知れません。
人に好かれるような性格ではないし、嫌われ者だと思います。
ぶっちゃけ人としてはダメ人間ですよ(笑)


今の仕事を通してだって、
その時々でベストは尽くしてきたつもりだけど、
あくまで私のほうがそう思ってるだけで、
クライアントさんとしてはそうではないでしょうね。

私のところに来て、言われたことで気分を害したり、傷ついたり、
お金の無駄だったと腹を立てて帰った人もいるでしょう。

私のこと、怒っているクライアントさん、
酷いヒーラーに出会ってしまったと・・・
そう思っているクライアントさんもたくさんいるでしょう。


現実問題として、叩かれているのは知ってるし、
スクールを辞められた生徒さんたちが、
あれやこれや仰っているのは知っています。
わざわざ教えてくれる人もいるから。

そういう人たちからしたら、私は悪いヒーラーで先生で、
うちに来て、払ったお金は詐欺にあったようなものであり、
悪徳商法に掛かったような悪しき想い出なのでしょう。
何一つためになったことはなく、
お金も人生の貴重な時間も、無駄にしたようなもので、
自分たちを洗脳して、嘘八百を吹き込み、
お金を巻き上げたあげく、ヒステリックに自己否定をするキチガイで、
ブログで他人のプライバシーをネタにしてあげつらう誇大妄想BBA

・・・なんでしょうね。


事実その通りなんだと思いますよ。

非難されていたとしても反論することは私には出来ません。
すべては私の不徳の致すところだし、
相性が悪かったということだけで済む問題でないこともあり、
すべては私の未熟さゆえといえばそうなのですから。

それに残念ながら私は
すべてのクライアントさんのニーズを満たせるような、
優れたサイキック能力や高いスピリチュアル性は備えていず、
訪れてくれた100%の人を満足させられるだけの、
能力はまったく持ち合わせてないんですよね。


そもそもこの仕事をする上でのリスクというのかな・・・
相手にとって残酷なこと、侮辱とも取れるような酷いこと、
意地悪なこと、たくさん言わなくてはいけない仕事ですから、
恨みを買うのも承知の上であるというか・・・
それはもうこの仕事をする上では覚悟するしかないんです。

ぶっちゃけ、いいひとでいたかったら、この仕事は出来ない。
真面目に、真摯にこの仕事をしようと思ったら、
辛くしんどくとも、心を固く、冷たくしなきゃいけないことも
たっくさんあるから。
親が子に対して甘やかすばかりでないように。

鬼と言われようと、嫌われようと憎まれようと。
感謝されたいがためにこの仕事をしているわけではないし、
まして私自身を認め、理解してもらいたいがためでもない。
お客さんに慕われ、尊敬され、好かれたいと思うなら、
スピリチュアルな仕事はすべきでないし、
感謝とか理解とか求めては絶対にいけない。

何が相手のためになるのか・・・
クライアントさんや生徒さんたちに対して、
自分が演じるべき役に徹して、
お金を頂戴した分の役回りをするだけです。






だから、
相手に対して必要なことだとこちらが思って伝えたとしても、
目に見えない次元でのことをかさにきて、
相手を脅しているようにしか見えないと言われればそれまで。

過去生だのカルマのレッスンだの持ち出して、

「だから、貴方の人生そうなのよ」

とか

「あなたのその性格、思い癖、考え方が問題を引き起こしているの」

だとか、

相手の問題を指摘することは一歩間違えると、

スピリチュアル・ハラスメント以外の何物でもないから。

そういわれても仕方ない。

そうした意味では、私もお客さんや生徒さんに対して、
たくさんスピリチュアル・ハラスメントをしている側ということになる。


思うに、スピリチュアルな職業全般においては、
ハラスメントになる行為(言動)とそうでない行為(言動)の
境界線は極めて曖昧で区分けが難しいものだと思う。
何故なら、スピリチュアルな観点からのアドバイスをするとき、
相手の受け取り方によっては、
すべてがハラスメントに相当すると言ってもいいような、
微妙な問題を含んでいるから。

規範となるべき規定がない業界だからこそ、
サービスを提供する側として、その問題は自戒部分を含め、
一度きちんと向き合って考えていかなければいけない
問題でもあると思う。

だけど「スピリチュアル依存と中毒」で語ったような、
モンスターやスピリチュアルジプシーたちの存在を考えると、
ぶっちゃけスピリチュアル・ハラスメントな苦言や対応を
せざるを得ない状況もあるので、線引きは難しいと実感している。



2016/03/13

お金とスピリチュアル(おまけ)

10年くらい前だったろうか・・・

自分自身がお金の知識が乏しいというか、
その手のことに苦手意識を持っているなど、
克服しなければいけない点が多数あったので、
ちょっと思い立って、
キャッシュフローの勉強会に出てみたりした。
(当時「金持ち父さん貧乏父さん」が流行っていた)

お金について真面目に勉強しようと思っていたのだけど、
なんていうか参加者のほとんどの人たちは、
ビジネスライクかつ有益な情報ときっかけをもたらす、
美味しい出会いを求めているのが見え見えで、
それが悪いというわけではないけれど、
なんだかな~っていう感じでした。


お金について勉強しに来ているのか・・・
お金をもたらす出会いを求めて来ているのか・・・
後者だったら、
エンジェルを探しに行ったほうが早いと思うが。
(この場合、言うまでもなく天使のことではない)


さて、別の話。
とある成功法則によって成功した人物が、
クリスマスに養護施設にいる子供達を
レジャー施設に招待して、親代わりで一緒に遊ぼうと
ボランティア(子供達の分も出す)を募集していたので、
いい企画だなあと思って参加したりなんかしたのだが・・・

参加しているのはほとんどその人物に憧れを持つ若者たちで、
私みたいなおばさんは皆無で場違い。。それは良しとして、
なんていうのか、
結局彼らはボランティアの趣旨に賛同してというのではなくて、
成功した人物が掲げている「成功の条件」の中に、
ボランティアをすることが含まれているからっていうのと、
その成功哲学を論じている人が主催しているイベントだから、
参加すれば自分もあやかれる的な・・・
なんかそんな感じがありありだったのね。

実際、私が当時友人たちとやっていたチャリティ活動のこと
(家庭から出た不用品をフリマやオクで売った収益を寄付)
話しても、誰一人興味ねー知らねーの無関心そのものw

おまけに、
「こういうボランティアに参加するなんて、随分意識高いねー」

初対面の、自分の親世代の人間に対してタメ口とは笑止。
「これが若さというものか」と、ほくそえんでみたりする。

ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブズやウォーレン・バフェット、
そうした成功者に憧れ、手本とし、近づこうとするのは良いが、
彼らがしてきたことをカタチだけ、表面だけ真似て、
簡単に財を成せると思うなよ、小僧! 

数年前に訪れた、知覧特攻平和会館での
特攻隊員の遺書を思い浮かべて、
いろいろ比較してしまいました。日本オワタ…と。

すっかりぬるくなった環境の国では、
頭までゆであがってしまった、ぬるい若者しか育たないのかしらね。



で、
ふとそういう場所で出会ってしまった人を思い返すに、
やっぱ共通点があるなーと。

彼らは皆、
自分が「与えられること」ばかり考えていて、
誰一人「与える」ことは考えていなかった。

どうすれば、人より多く「得られるか」だけの損得勘定で、
自分が他者から「与えられる」ことばかり欲していて、
自分に何かを「与えてくれる」人や事物だけに嗅覚を発揮し、
それ以外のことには眼中がまったくなかった。
言葉は悪いがおこぼれを待つ犬みたい。

自分が他人あるいは世の中に対して、
何かを「与えよう」とはまったく考えてない人たちだったんだよね。

他者に対して何かを「与えられる」とこまで
精神的成熟度が達していないというのもあるでしょうけど。

そんな風に
自分が「与えられる」ことばかり考えている人は多いが、
自分から「与えよう」と考える人は少ない。

けども、ほとんどの成功者、お金持ちは、
その他者や世の中に対して「与える」ことばかり
考えてきた人たちなんだけどね。
社会に対して、自分が出来ることを精一杯提供してきた結果、
ニーズを満たし、結果的に財を成すことになったというべきか。

もち儲けようとだけ思ったにしても、
世の中のお金の動きやニーズが何処にあるかの
マーケの部分をしっかりやって、社会の求めを把握して、
時代の波にうまく乗れているからこそ、だと思うが。



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人は人の中でしか成長できない。
だから、一人で孤立していても、
人間として成長する機会というのは訪れない。
だから、他者と関わりあうことが、
霊的成長も含めて、人としての成長を促すのだが、

他人との関係性から学ぶことと同等くらいに、
お金に纏わること…お金によって派生する問題というのは、
その人に成長の機会を与えるものでもあったりする。

何故なら、お金に絡む問題は
人のエゴイズムがもっとも赤裸々に剥き出しになり、
色濃く反映される場所であるから。

お金を前にしたとき、
その人の性質がよく判るとは人の云う…。

お金がありすぎても、なさ過ぎても、
いずれにしても、その「お金」に左右され、
操られ、振り回される人であるのか否か。

お金の前で、人の「欲望」というのは正直に姿を表す。

「欲望」があることが悪いのではない。
エゴイズムもすべてが良くないというのでもない。

多少の「欲望」は人を行動へと駆り立てる情熱になるし、
エゴイズムも使い方次第では原動力になるから。

ようはお金にしても、欲望にしても、エゴイズムしかり
それに支配され、主導権を明け渡してしまうのが問題。

お金がすべてになってしまって、お金の奴隷になり、
欲望やエゴイズムと同化して、
それらに貢ぐための生き方になってしまうのが良くないこと。

お金は使うものであって、手段でしかないので。

そして、お金の有無に自分自身の価値や、
幸福であるか否かということを決めさせているのが誤りの元。

お金がないから不幸でお金があるから幸せ、なのではなく、

お金がたくさんなくても幸せ。
お金がたくさんあっても幸せ。

が理想なんですね。
本来はそうでないといけない。
(ラジニーシがいうところのゾルバブッダみたいな)


でも、そうではないから、大金を手にしたことで
人生を狂わせてしまう人たちなんかが出てくる。
お金に翻弄されて、肝心の、
自分にとって何が大切なのか・・・
自分が幸せと感じ、充足感を味わえる人生を見失ってしまう。


唯物的な世の中においては、なかなか難しいし、
昔と違って、今って自給自足で生きていける環境ではない。
その国の国民として生きているだけで、支払いの義務が生じる。
税金もだし、年金やら保険やら、公共料金もそう。
だから働かないで生きていくってことはほぼ不可能。



だから、お金のことって色々試される。
お金に絡んだことで人生のお試しがいっぱ~いやってくる。

お金の有る無しに生き方の選択や考え方が左右されるか否か。

お金と何を引き換えにするのか…

ポリシーやプライドだったり、
人としての在り方だったり、自分の心だったり、
守りたいものへの愛だったり、貞節だったり、
あれやこれや

人はパンのみに生きるにあらず、だけれども。

お金がないとパンは買えず、
パンを食べないと飢えてしまい、
生きることあたわず、だし…


お金の問題は「生きる」ことに直結するものでもあるし、
「生活」をどうやって成り立たせるのか、
自分の価値を仕事に換算して、稼ぐ手段(奉仕)へと
その人を向かい合わせ、導くことにもなる。

どうやってお金を稼ぐか、どんな仕事をするべきか、
より収入の多い仕事をするべきか、
収入は少なくともやりがいのある仕事を選ぶべきか。
どんな職場を自分に与えるのか、
自分が属する企業(会社)が道徳的な会社であるのか否か、
その仕事、職場が世の中のためになる業種であるのか否か、

たーくさん試されることになる。


お金の問題はとても世俗的な問題に見えて、
実のところ、スピリチュアルな問題を多く含んでいて
霊的な成長をもっとも促す場所のありか、でもあったりする。

その人のスピリチュアリティ、
霊的な成長の度合いを知りたいなら、
その人の心や精神の状態がお金の有無によって左右され、
振り回されているかどうかを見ると言い。

お金がなくても幸せ。
お金があっても幸せ。

をまさしく実践できている人かどうかでそのことが分かる。


お金の問題はその人のエゴイズムを表し、
あらゆるお試しを仕掛けてくる。

その誘惑にのることなく、お金があろうがなかろうが、
人生を楽しめるようになったときこそが、
お金や物質の欲望の奴隷状態から解放され、
真の意味で、物質やお金の価値を知り、
それらと相思相愛になって、上手く使いこなす術と知恵を
身に着けることが出来た状態だと言えるのかも知れない。


で、そんなアタクシは相変わらず、
お金に翻弄されまくり、振られまくりですケドwww




2016/03/10

贖罪と受容~赦すこと赦されること(下)

輪廻転生のある世界においては、「死」という終わりはない。
「死」はあくまで変成であって、一つの人生が終わるだけ。

加害者が「死罪」になったとしても、
その人生での名前ある姿が一時的に消滅するだけ。
死後数年もすれば、再びこの世に生まれ落ちることになる。

「死」をもって償った・・・にしても、その「性」
本質はそうそうに変わるものではない。
前世の記憶は所持されることなく、罪の記憶は忘れ去られ、
別人となり、人々から「罪人」として見られなくなっただけのこと。
自らが犯したことを「罪」として悔恨し、
過ちを二度と犯すまいと、当人が強く決意していなければ、
その志と贖罪の計画が今生のレッスンに織り込まれることはない。


(本人がそれを「罪」と思わない限りは、
それがカルマになることはないのだが、かといって、
いつまでも罪を罪として自覚しないことが見逃されるわけではない。
ひとつ人生が終わって、次の転生に至るまでの間、
当人のカルマに介入することが赦された存在たちが、
自戒のない存在を「独房」という場所に閉じ込めることがある)


ちなみに私自身は死刑反対派ではない。

あえて言うならば、
今のところ極刑は「死刑」しかないであろうとも思う。

「死刑」の問題点は、冤罪があった場合に取り返しがつかないこと。
独裁政権やクーデターなど、民意がそこに介入できない状況や
安定しない政権の混迷期において、
主権を持った者たちの独裁的な判断によって、
裁判も行われず、確固たる証拠や理由のないままに、
粛清やリンチのような状態で安易に死刑が行われてしまうこと。

そういう危険性を孕んでいるので、
慎重になるべきことだと思ってはいるが、
さりとて今の人類の在り様・・・霊的レベルを鑑みるに、
まだまだ三次元でのこの処罰方法は
撤廃されていい段階にはないと言わざるを得ない。


輪廻転生があると肯定している立場からしたら、
「死刑」という厳罰を下されたことによって、死刑囚たちが反省し、
改心するか・・・といったら、決してそうではないし、
「死刑」によって、反省する機会が失われるということもない。
ただ、罪の記憶を有していたほうが、
世間から非難の目を向けられ、迫害、疎外されるという状況下で
咎人としての枷を負うことになり、己が罪から目を逸らさず
嫌がおうでも向き合わねばならない機会を得ることには間違いない。


現代において、死刑という極刑が存在することが、
犯罪の抑止効果になっているかというと、
残念ながらそんなことはなく・・・
実際日本では一人殺したからといって「死刑」になることは、
ほぼないので。

ただ、遺族の気持ちの着地点としては、
加害者側が同等あるいはそれ以上の厳罰を与えられないことには、
どうにも耐えきれないものがあったりする。

命は尊いもの。

だからこそ、「死」をもって己が罪を引き受け、
犯したことの責任として、せめて遺族の恨みを、苦しみを、
命と引き換えに地獄に自ら持っていくことで、
それを僅かでも償いの証として欲しいものだとも思う。

命の代償を命をもって償うということは出来ないのだけども。
(犯人が死んだとて、死んだ相手が生き返るわけでも、
傷ついた遺族の心や失ったものが何一つ得るものはないので)


けれども今の世の中は、
加害者の人権ばかりが保護される。
加害者とは別の人間であるというのに、
家族(親族)までをも、加害者と同罪とする風潮がある。
そして何よりも被害者側のプライバシーが侵害され、
遺族の意向が無視されて、傷つけられ、
被害者遺族に寄り添うことをしない世の中だ。



さて、一口に殺人や犯罪といっても、
すべての罪は同等に語られるべきではないとも思う。

確かに人の命を奪うことは相応に重い罪だけれども、
同じ「人の命を奪う行為」にしても、
正当防衛や過剰防衛での勢い誤っての殺人、
人為的な操作ミスによる事故や交通事故、医療事故等、
そうした不幸な事故というのもあるし、

介護疲れや生活苦に追い詰められての心中的殺人、
(自殺も殺人の一種である)
相手の常日頃からの非人道的な行為により、
恨みや憎しみを募らせざるを得ず、やんごとなき理由で
精神的に正常な判断が出来ず、相手に刃を向けた・・・
そのような事情もあるだろうから。

また、
戦争、戦といった状況で敵味方となってしまった時には、
それは人を殺めることを避けたくても避けられない状況で、
人の狂気を呼び覚まし、人が人でなくなる場でもあり、
殺らなければ殺られてしまう現実があるから
致し方ない状況も多々あること。


人として、確かに「殺人」はいけないことだけれども、
(そのような背景、事情から)、そんなことがあったのなら、
そうせざるを得なかったのも、情状酌量というか
同じ人として同情できるし、分からなくもないと、

そう思えるものならば・・・・
それはその人自身にとっても、確かに「過ち」でしかなく、
法的な裁きを受けることさえすれば、
他者が責めるべきことではないし、当事者であったとしても、
時間の経過とともに、「許す」ことも可能な案件なのかも知れない。

自分もいつ、相手と同じような立場に立たされ、
類似の罪を犯してしまうかもわからないし。


もちろん人の感情としては、
いつも物わかりよく、必ずしも割り切れるものではないけど。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


人は大なり小なり罪を犯す。

生まれてこの方、罪を一つも犯したことのないものなど存在せず、
当人が自覚していないだけで、知らず誰かを傷つけ、追い詰めたり、
ちよっとしたことと軽く考える些細の無いことと見過ごすことや、
悪意のない悪戯や無責任な行為やミスによって、
後に取り返しのつかなくなるような大事につながる「きっかけ」に
自分が関与したことなど無い・・・などと断言はできない。


自分は無責任な噂を流したことはないだろうか?
悪気はないと言い訳しながら、人を傷つけたことはないだろうか?
プレッシャーを感じている人に追い打ちをかけたことは?
好奇の目で眺めて、無意識にその相手を晒しものにしたことは?

自分が知らないだけで、気づいていないだけで、
他人に迷惑をかけていることはたくさんある。


そして言葉ひとつで人は人を殺すことも出来る。
言葉は凶器でもあり、ナイフのように人の心に深く突き刺さる。

凶器によってでなく、
無神経だったり、悪意のあるたった一つの言葉で
身近な誰かを「自死」へ至る階段に登らせたことがないと、
そんなことは自分に限って、絶対にないとどうして言い切れようか?

まして過去生まで遡ればなおのこと。


みんなモノを盗んだり、人を殺したり、
集団の和やルールを乱したり、違反行為をしたり、
姦淫したり、人を騙したり、差別したり、犯罪に加担したり、
人を人として扱わなかったり・・・その罪は種々様々だけれども、
人の道に外れるようなことを一度も犯したことがない、
清廉潔白な人なんて、一人もいなかったりする。

その時代独特の文化や民族特有の風習、
宗教により道徳観や規範は違っているし、
ジェンダーや置かれた立場、環境にもよるのだけども。

古今東西、何一つ罪を犯していないものなどいない。

みんな罪深く、血塗られた手を持って生きている。

いかに今の人生で聖人君子よろしく善人面していようと・・・
何かしらの罪を背負って、今この人生を生きている。

しかし肝心なのは、「過去」なのではない。
「過去」に犯した罪の重さなのでもない。

今現在、その人がどんな人であるのか・・・。

犯した過ちから何を学び、
その罪をどのように「昇華」させて生きているのか。



私たちは罪を犯し、過ちを通して、人生を学んでいく。
人を傷つけ、自分も傷つき、
苦しみや悲しみ、喜びや楽しみを覚えて、
人としての「こころ」を育てていく。

そして愛を知り、愛を欲し、愛することを覚えていく。

理想と現実の狭間で迷い、挫折し、絶望や希望を繰り返し、
そうして生きる意味を知り、人生の目的を見つけ、
自分が何者であるかに気づき、自分を表現し、生きようとする。



人が人としてこの世に降りてきたとき・・・
ワンネスから離れて久しい段階なので、
他人と自分との区別があまりつかない状態だという。
何も知らぬ、無垢な赤子のように。

けれど、この分離の物質社会において、
自分という肉体、自我を所有しはじめたときから、
私たちは固有の記憶、人格を経験から育て始める。

本能のままに、肉体の五感と欲求を満たすところから、
サバイバル意識が始まって、やがて
「個」としての自分と自分以外の「他者」との関係性
存在同士のぶつかり合いから、様々な問題が生まれる。

その「問題」という摩擦により、人は「思考」を使うことを覚え、
五感を通して「こころ」を磨き、育てていくことになる。

自分とは違う個性を持った、他者との関係。

自分がされてイヤなことは相手もされてイヤだと・・・
自分が抱いたことのある嘆き、苦しみ、怒りという感情を通じて、
他者の感情を想像し、相手の境遇や痛みに同情し共感する。
思いやりや優しさを表現することを、自らの経験を通して学ぶ。

何が「善」で何が「悪」なのか・・・
自分の行動そして他者の行動、
さらに属する社会の反応や判定を通して、
人は善を知り、悪を学んでいく。

何を赦せて、何を赦せないのか・・・
赦せないこと、赦してはいけないこととは何か・・・
赦せること、赦すべきことがなんであるかを知りつつ

人を傷つけたり、罪を犯してはいけないのは何故なのか・・・

人として、絶対にしてはいけないこととは何か?
過ちとは何なのか、それは償えることなのか否か。
過ちを犯すということはどういうことなのか
罪悪感とは? 謝罪とは? 償いとは?
罪を犯したとき、過ちを犯したとき、どうするべきなのか?
罪を犯したものは相手に対してどのようにふるまうべきなのか?

過ちを犯し、罪を知ることで、傷つき、傷つけられ、
痛みを知り、苦しみ、嘆き、怒りを知り・・・
犯した罪の重さに恐れおののき、

何が善くて悪いことなのか

ことの善悪を知り、
人として絶対に越えてはならない境界線を学び、
人を赦すことや赦されることを知っていく

命の尊さ、その重さをその身に深く刻みながら・・・


他者の罪を責めながら、その是非を問いながら、
自分もまた過ちを犯す存在であることを思い至ったとき、
相手の過ちを赦し、受け入れる寛容さを示すようになる。

「お互いさま」という言葉はどうも日本独自の文化のようで、
互いに、どっちもどっちで迷惑を掛け合う者同士なのだから、
おあいこで相殺しましょう的な、
許しと謝罪の意味が込められた言葉でもある。

だが、この言葉を使う時、
どちらかというと相手の方から迷惑をより多くかけられているものが
言うべき言葉であって、

相手からかけられる面倒や迷惑よりも、
より一層、たくさんの失礼なことをしてしまっているほうが、
「お互いさま」などと
自分からは決して言ってはいけないような気がする。


人によって、赦せることと赦せないことのは違う。
その範囲、キャパというのは人それぞれ。
それは経験からくる違いであり、
不寛容なことを責める権利は誰にもない。



さて、スピリチュアルな知識。
グノーシスの教義では、
「カルマは与えたり、与えられたりする」ものであり、
私たちは様々な経験をするために、互いに教師となり、
お互いに経験を「与えあっている」と教える。

とても端的な説明でまとめてしまっているが、
このあたりの真の意味を理解しもらうのは難しい。

この現代社会において、
私たちは非常に霊的レベルの低い段階にあり、
エゴイズムが邪魔をして、自分勝手に否めて、
自分自身に都合のよい解釈をしてしまいがちだからだ。


だから、古代の文明において、
このような知識は誰にでもというわけにはいかなかったので、
一般の人に門戸を広げず、
特定の人だけに秘儀として教えられた。
つまりは伝える人を選ぶ内容というわけで・・・

ある一定のレベルに達した人ならまだしても、
霊的成長が未だ平均値に至ってもいない人に限っては、
そのまま伝えることは出来ず、
教えられない箇所を削る必要もあるし、
言葉を違え、たとえ話を判りやすくし、
あれはだめこれはだめと、
禁止事項を加えたりしなければならなかったりする。

どうしても、下のレベルにいくほど、
意味の違ったことを伝えざるを得ず、
もしもすべての段階の教本があるならば、
それらを並べてみたとき、矛盾ばかりが目に付くことになる。


人の「罪」や「生死」「カルマ」に関することはとくにそうだ。


冒頭に書いたような、
「その人が罪と思わないことはカルマにはならない」
ということを、霊的成長が未だ伴っていない
原始的な本能だけで生きている「こころ」の育っていない
状態にある人が耳にしたならば、

「じゃあ、どんなことをしても、
罪悪感さえ抱かなければいいんだー」

と思って、やりたい放題の人生を送ってしまうだろう。

実際はそういう意味ではないのだけども。


こうした教義の解釈は、
その人の「こころ」の生育状態、
人としての成熟度に左右されるので、
聞く人によっていかようにでも利用されてしまう。


自分が犯した罪を振り返って反省せず、
それがいかな罪であるのか・・・
相手にどれほどの傷を負わせ、人生を狂わせ、
心を壊したものであるのか、
何故そのようなことをしてしまったのか、
どうしてそのようなことをしてはいけないのか・・・
それを十分に理解していないものが、

反省と悔恨をし、その咎の十字架を背負い、苦難を生き、
十二分に贖罪の人生を生きることをしてきていないものが、

その道を通ってもいないのに・・・

自分の犯した過ちによって、相手がどれほどの苦痛と
苦悩の年月を送ってきたのかも想像できないままに生き、
自分が他者に与えた痛みや立場がいかほどなものであるかと、
少しでも理解をしようと、
似たような人生、立場を選んで生きたことすらも一度もなく、

もちろん謝罪もなく、


「お互いさま」の言葉を使うかのように、

相手が自分のために喜んで命を捧げてくれたなぞと・・・

そんな言葉は腐っても言っていい言葉ではない。

(そんな飾られた言葉で、
自分が残虐に奪ってきた人の命を美化して、
勝手に美談して語ってくれるな!
あんたみたいな腐った考えの輩を生かすためだけに、
この世が存在しているんじゃない!!)


自分がしてきたことを重々理解していれば、
その罪をきちんと理解して、
してきたことから多くを学べていたならば・・・

そんな言葉は出ようはずはないのだ。


だからこそ、
まだその段階にある人にとっては、「カルマ」は「業」であり、
因果応報として、その身に起こる「目には目を」な、
他人にしたことは何十倍にもなって、すべてその身に戻る。
因果の法則として理解されたままでいいのだ。



グノーシスの教義たる真の叡智・・・
スピリチュアルの高等な知識のその先は、
「他者への思いやりや優しさ」を示すことの出来る、
「罪」というものを知り、善と悪の何たるか・・・を知り得た、
一定のレベル以上の人にしか、
やはり開示してはいけないのかも知れない。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



相手を赦せるのか赦せないのか・・・


今の人生で起きたことなら、まず無理だろう。

被害にあった側・・・自身や身内に過失があったとか、
故意にではなく、たまたま相手が加害者側に立つような、
偶発的な事故やトラブルでの悲劇的な死ならいざ知らず。

でなければ、怒りや悲しみを消化することは難しい。


そして、怒りは今生ばかりではない。

生まれ変わっても、憎しみは続くし、悲しみも続く。

痛みもずっとつきまとう。


この仕事を通し、
過去生において、被害者としての過去を持つ人を
はからずも何人か知ることとなった。
加害者であった人の人生も同時に見たし、
今の人生に良ろしくない影響を与えている、
トラウマ、PTSDのような問題にも実際に触れてきた。
理由なき感情の、その原因を作った事件などに。

またこのテーマ自体が、自分の過去との対峙であり、
被害者当事者として、また犯罪被害者遺族の立場として、
乗り越えること、向き合うことを示唆する内容だった。


新しい生を手に入れ、肉体を所有し、
相手から受けた肉体のダメージは消えても、
心のダメージは消えないままに、
次の人生へと引き継がれていく。
その心の傷が何故自分の中に存在するのかも分からずに、
時にその傷ゆえに生き辛く、生活や人生に支障もきたして。

同時に「忘却」という時の彼方に癒されもするが、
無意識に刷り込まれた「恐怖」はなかな消えず、
理由なき感情的反応、悪夢となって人生を邪魔する。
もちろん、いつかは癒えて、立ち直る日もくる。

が、「記憶」が薄れていくからといって、
相手のしたことが消えてなくなるわけではないのだ。


罪を憎んで、人を憎まずとは、人の云う・・・


その人そのものではなく、
その人の表したことを「よくないこと」として判断しなさいと。

何故なら、人は罪を犯すものだから。

自分の罪を思い返す時、罪自体は赦すまじと思えども、
その罪を犯した人々すべてを赦しなさいと・・・。






「無条件の愛」という言葉を私はあまり好きではないのだけども、
その反意語たる「条件付きの愛」という言葉を使わせてもらうならば、

被害者が加害者を赦せるかどうか、
もしくは赦すことは出来なかったとしても、
ある一定のボーダーまでは受け入れられるか否か、
ということに関しては、

加害者が何処まで過去を反省し、悔い改めて、
過去の自分と決別し、どれほど変わることが出来ているか・・・

に掛かっていると思う。

すべてはそこに尽きるだろう。

つまりは、そうなれば「条件つき」で赦せるというもの。


自分が犯した過ちがどういうものであったのかをきちんと理解し、
被害者側の痛み、苦しみ、嘆き、喪失感などを受け止めて、
自分が与えたそのような感情が少しでも想像できて、
我が身のこととして
置き換えて考えることができるようになっていれば、と・・・

願わくば、他人の気持ちに寄り添えるようになっていて・・・・・・
ひとつの命の重さ、尊さ・・・をしっかりと理解し、
自分以外の人間の価値を知り、
それを尊重することができる人になっていて、


他人に優しさや思いやりを示し、人に親切にでき、
世の中を良くしたり、社会に対して貢献できるような、
善人であれと・・・
自分を捨てて他者のために生きられる人になっていて欲しいと、
自分のことよりも、他人のために泣いて笑って怒って、
見ず知らずの他人の幸せを喜び、
決して前に出ず、奢り高ぶらず謙虚に、
陰徳を積むような人になっていて欲しいと・・・


そうであれば、僅かばかりでも救われる。

被害者も加害者を憎む
煉獄の炎から少しだけ楽になるのにと、思ったりする。


もちろん、されたことが無くなるわけではない。

それですべてが赦せるのか? と言われると、
絶対にとは言い切れない。


言えているのは、

相手が罪を犯した当時と変わらず、
ロクでもない人物で、
似たような性格で昔と変わらずに考えが甘くて、
同じようなこと繰り返していて、誰かに迷惑かけていて、
思いやりも心もなくて、自己中で怠惰で、
世の中なめて生きているようなヤツだったりしたら、

絶対に赦せないし、なんでこんなヤツのために
自分の人生は台無しにされなくてはならなかったのか?と
ミジンコにでもなったみたいに、惨めになるばかりだ。

何でこんな人のためにあの時、
自分は死ななくてはならなかったのか?

その時の自分の存在意義や人生、命を
汚されたような気さえする。

一度ならず、
二度までも殺されてしまったような最悪な気分で。

そう、今生においても相手の性根は少しも変わらず、
最低最悪の心なき人物であったと知ったときの
ガッカリ感と憤怒と、
魂を踏みつぶされたような空虚さときたら、半端ない。
当時の傷を乗り越えるどころか、
塩を塗りたくられて辛子をペーストされたような気分だ。



だから、本当に・・・

ただ、まっとうな人間に
まさしく「生まれ」変わっていて欲しいと・・・

本当にそれだけ切に願う。

相手が生まれかわって、
その過去の忌まわしい記憶・・・自分自身を思い出さずとも、

まっとうな人間として、ちゃんとした人生を生きてくれれば、と。
他人に迷惑をかけず、二度と罪らしい罪を犯さず、
誰も泣かさず、人としての良心と真心を備えた、
社会に貢献できる人であってくれれば、
あとは二度とこちらを苦しめてくれるなと、それだけ。


今生の罪にせよ、
過去生での自分の罪を思い出して悔恨するにせよ、

自分が「生かされている」ことを罪の意識と共に心に刻み、
自分が他者の命を踏み台にして、存在していることの感謝を、
常日頃から絶対に忘れない人間であって欲しいと思う。

もし、過去の罪を悔い改める心あらば・・・
自分の命や人生は自分一人のものであって、
決して一人のものではなく、
もし彼らの命、人生を奪った罪を少しでも理解するのなら、
彼らが生きることのできなかった人生、
叶えること、成し遂げることのできなかったすべてを、
他の人に与えるべく、自分の命を捧げて欲しい。

二度と同じ罪は犯さないと誓うのはもちろん、
過去の自分と決別して、まっとうな人間として、成長して・・・
立派な人間になり、多くの人を幸せにし、
助けていくことのできる人になって欲しい。

かつての過ちをすべて拭い去るくらいに善行を施して、
その手が奪った命と同等、あるいはそれ以上の命を
身を挺して救って、助けているような・・・
そんな人になってくれていたならば、

あの涙も、苦しみも、慟哭の日々も、
憎しみと怒りの炎で身が焼かれるほどに憔悴して、
哀しみの連鎖を生きたいくつかの人生も、
気持ちの落ち着きどころを見つけて、成仏できようというもの。


願うのはそれだけだ。

赦すとか、赦さないとかは、その後の問題。

すべては、今生から来世にかけての、
その人の生き方次第だと思う。

どのようにその人が、「人」として成長し、
他者のためになる、世の中のためになる人に育っていくのか。

その過程をしっかりと見つめて、
その生き様に納得できたときが、
相手を「赦す」ことができるときなのだと思う。

ただ、赦されることを期待しないでほしい。
それだけは絶対にしてはいけないことだ。

罪を犯した側はその罪がいかほどのものであるかを
知ればこそ、その罪を赦してもらおうなどと考えてはいけない。

スピリチュアルな教えの中に逃げ道を求めてもいけない。

この世のルールに従って、
自らを裁き、その身に咎を架し・・・
罪と罰を受け止める覚悟がなければ、
そこを乗り越えて通らなければ、
スピリチュアルな教義の真の意味なぞ、
到底理解できようもないのだから。


自分からは決して
「赦してほしい」などとは言わないでも欲しい。
そのようなことを赦せずに苦しんでいる人に、
絶対に求めないで欲しい。

あなたが被害者にならない限りには、決して
その苦しみが判る日は来ないのだから。

加害者は、被害者に、そして被害者遺族に
決して言ってはいけない言葉というものがある。

本当に、まことに悔恨しているのであれば、
絶対に、絶対に、加害者が口に出してはいけない言葉、
してはならない態度というものもある。

それを知らずして、どうして「人」と言えようか?


私たちは、「神」に回帰するためではなく、
「人」になるために「人」として生まれてきた。

「人」としての"黄金のこころ"を所有し、それを磨き、
ワンネスではない分離の状態にあっても、
他人の痛み、悲しみを理解し、共有し、喜びや感動をシェアし、
思いやりや優しさ、慈しみやいたわりの心を表現し、
自分自身にも周囲にも、愛を伝えるために生きている。

私たちが学ぶべきは「こころ」で、人としての「在り方」だ。

全能の存在になって、他者の憧れを集め、
他人を思うがままに支配するために生まれてきたのではない。
利己的な欲望を満たすために「人」として生きているわけではない。

愛を創造するために、私たちは生まれてきた。

「こころ」を通じて、愛を表現するために、
愛を学ぶために私たちの人生がある。

「こころ」なくして、どうして人が人としてありえようか?

人が人としてあるのに、最も重要なもの。

それは愛であり、心だ。

思いやりや優しさを学べない人生なら、
何度生きても、それは人生とは言えないだろう。





∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


さて、このテーマでも触れているように
太平洋戦争(第二次世界大戦)の戦没者、
ナチスドイツ時代の加害者も被害者(ユダヤ人やレジスタンス)も、
今の時代にはたくさん転生しています。

被害者はともかく、加害者側に関しては
さすがに転生して違う人種、異なる人物になっているので、
モサドの捜索の範疇外なんだろうけど・・・

まあ、確かに生まれ変わる前のことは関係ないというか、
そこまで追求することができるのは、
当人とその過去にダイレクトに関わったもののみ、だし・・・
当然ながら今の関係でそこは考えるべきですが。

でも・・・もしも生き残りの人たちがいて、
当時残忍な行為に関わった加害者側である人々が、
生まれ変わって、何も自分たちは関係ない、
罪なんて何一つ犯したこともないって顔して、
安穏かつのほほんと暮らしていたと知ったら、

とても複雑でいたたまれない気持ちにもなると思うのです。

神に対して、
「どうして?」と疑問をぶつけて、問いかけたくなるほどに。

しかも、そうした前世の記憶を所有していたり、
何らかのアクシデント(忘れるのが恩寵だから)で蘇らせ、
その罪を知ってもなお、悪びれもせず、反省のかけらなく、
そんなの関係ねぇとばかりに、
自分が一番大切でこの私を敬えとばかりに尊大で・・・
人として少しも成長していないばかりか、
罪を犯した当時と変わらず歪んだ自己愛だけを肥大させて、
我儘で自己中心的で、周囲に迷惑をかけながら生きていて、

そんなのを知った日には、反吐が出てしまうことでしょう。
悔しくて悔しくて、正義は行われず、
悪ははびこる一方なのかと・・・

悲しくて虚しくて、やりきれないとしか言いようがなく、

失われた同胞たちの血と涙を思い、
色んな意味で裏切られたような気持ちになるかも知れません。



このテーマ、いったん終わりますが、
書ききれないこともあるし、
未だ悶々と色々と考えてしまうところがあります。

2016/03/05

ルシファーというイデア

 1912年5月30日
 メムノン・ブールボン(16)は
 ノックス刑務所において 処刑された
 メムノンは未成年なるも
 その残虐な殺人により
 史上まれなる 断頭の刑に処せられた


 「メ・・・・メムノン・ブールボン!」
 
 「ほう、メムノン・ブールボン事件をお調べで」

 「はい、この事件を・・・ごぞんじですか!」

 「この事件だけは・・・忘れられませんな」

 「処刑されたときはまだやっと16さいになった・・・とも」

 「断頭台にのぼってからも神をののしった・・・とか

  天使のような顔をしたメムノンは
  楽しむように・・・
  まるでゲームをするように
  人を殺したんですよ

  そして・・・・・・
  殺した人の指をかみきっては
  銀の宝石箱にためておいたんです
  彼女は史上まれな殺人鬼ですよ!」

 「な・・・なんと・・・・・・おそろしい・・・
  そういう・・・ことは・・・・・・
  子孫にも影響があるものなのでしょうか」

 「わたしは・・・医者ですが・・・・・・
  遺伝学上は絶対にありえないことです

  だが、
  このブールボン家の何代か後に・・・突然
  殺人鬼が生まれる
  そんなことがあるかも知れません
  まさに・・・生まれたときから
  悪魔に魅入られた人生といってもいいでしょう」

  
                 by「聖ロザリンド」わたなべまさこ


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北欧神話にロキというトリックスターが出てくる。
いちおう神なのだが、

二枚舌で嘘つきで、八方美人というよりは風見鶏のごとく、
あっちについたりこっちについたり、損得勘定抜け目なく・・・
悪戯好きであっちこっちをひっかきまわしてほくそ笑み、
とにかく気まぐれで小心者であるのに性根は邪悪。
悪知恵に長け、狡猾に世渡りを図ろうとし、
改心した演技はうまいが罪悪感など一片のかけらもない。

※「ニーベリングの指輪」のローゲはこのロキがモデルとのこと。


まるで「ゲゲゲの鬼太郎」の鼠男みたいだなぁ・・・とも思ったり。

でも、神話の世界ばかりでなく、
周囲を見渡すと、
人間界にもこういう人物はたくさん存在している。

自分の損得しか考えない自己中人間。



そう・・・例えば

自分がどれほどのことをしたのかも考えず、
一言も誤らず、反省の弁を述べるわけでもなく・・・
悲しかった、わからなかった、だの
切々と自己弁護と自分の気持ちばかり一生懸命伝えてきて、
まるで自分が欠席裁判にでもかけられたように
可哀想な自分を憐れんで下さいとばかり、同情を引くがごとく、
びーびー泣いてみたり、しくしく泣いてみたり・・・

普段一人前の人間として尊重されたがり、
対等に扱われないと尊厳を傷つけられたと怒るくせに、
こういう状況においては、
自分は力のない、よるすべもない、守られるべき側であると・・・
社会的弱者であることをアピールする。
上手く利用しているというのかな。

同席した人々が陪審員とでも映るのか、
一瞬しおらしい態度を見せるものの、
その輪の中で誰が一番力を持っているのか、
誰に擦り寄ればいいのか・・・瞬間的に判断して媚びを売る。
それがもう、したたかというよりは、
半ば本能とも無意識的な身についた性とでもいうべきか・・・
そういう計算をしていることが、
その場にいる誰の目にも透けて見えて・・・滑稽なくらいで。

無垢なふりしてきょとんとしみたり、
すがるような媚を売る目で甘え、子供のふりをしてみたり、
それがもはや演技のようなものであると、
傷ついたふりや反省をしているように見せかけて、
実のところまったく傷ついてもいないし
反省など微塵もないということくらい、
誰しもが・・・皆が気づいているというのに、
当人だけが、それがバレていないと思っていることがなんとも。


こうやって、この人は
何百年も何千年もずっとやってきたんだなぁ・・・と思った。

力を持っているときは横柄にふるまい、
弱き立場にあるときは権力者や実力者に媚び諂い、
ピンチのときには、泣いて命乞いをし、
顔をおおった手の指の間から相手の様子を伺い、
反省しました、申し訳ありません、など見せかけの嘘八百で、
その場を切り抜けた後には、ケロッとした表情で舌を出し、
自分に情けをかけた相手を平気で陥れたり、
おのが不正を指摘した人を逆恨みして、罠にはめたり、
欲しいままに奪い、自分の利益のためだけに行動し、

たくさんの人を踏みにじって、裏切って、
自分の家族・・・妻や両親や血を分けた子さえも殺して、
むしゃくしゃしたときに通り魔的に人を殺し・・・
人を殺すことにためらいもなく、目を付けた女性を手籠めにし、

罪悪感などなかったに違いない。

輪廻転生の間において、独房(反省部屋)に何度入れられて、
その都度、申し訳ありません、申しませんといいつつも、
それは本当にその場しのぎのもので、
心からの悔恨や改心など望むべくもなく・・・


そうやってこの人は何度も人生を繰り返してきたんだ。
それがこの人の生き方なんだ。

何百年も何千年も何万年も変わらずに、同じやり方で、
ずっとずっと生きてきたんだなあ・・・。

たぶん骨の奥の奥、芯の芯まで身についたものなんだろう。

心理学的には、パーソナリティ障害(自己愛人間)なのだが。



ある意味関心してしまう。


そして、哀れにも思う。

こういう人は愛のなんたるかを知らない。

この世の美しいもの・・・
「人のこころ」が創り出す美しい色や形や世界を知らない。
人の愛や想いが織りなす、色鮮やかな光の彩を知らない。

それが目に映ることはない。

他者のために尽くすことで得られる充足感や
本当の意味での幸福を決して味わうことは出来ない人なのだ。


創造主たる全能の存在は別として、
誰からも信頼されないし、
心から深く愛されることはないから。

上記のような生き方をしていても、
誰からも永遠に尊敬を得られることはないし、
何も、何一つ創造することは出来ない。
愛ある関係も偉業も、生きててよかったという充実感も、
何一つ成し遂げることも得られることもない。


自分以外を愛することが出来ないものは不幸だ。

愛される喜び、愛する喜びを
その身に享受することが出来ないというのは、
ものすごく寂しい、孤独でみじめな人生だと思う。

永遠に・・・満たされることないだろうし、
本当に欲しいものは絶対に手に入らないだろうから。



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さて、人間が人間として形作られるとき・・・


(赤ん坊としてこの世に生を受けるときのことではなく)
私たちの魂が創造の光から分離し、
人としての形骸を持つその前、
私たちは一時大天使として、その形骸を所有する。

セラフィムの大天使たる5人。
その5種類のイデア、を持った存在が、
さらに人としてのイデアを通り、魂を所有することになる

・・・というもの。

ちょっとわざとわかりにくく書いています(笑)


このセラフィムの5人の大天使たちは、
エレメントの大天使たちでもあり、
ミカエル(火)、ラファエル(気)、ウリエル(空=くう)、ガブリエル(水)、
という、おなじみの良く知られた大天使たちと
堕天使として知られるルシファー(土)。

人間は必ずこの5種類のイデアのうちの
いずれかに属しています(いずれかを通ってきてる)。
イデアはクッキーの抜型というか、
鋳型のようなものと考えてくれたほうがいい。

魂のアーキタイプ(原型)ともいうのかな・・・

その昔、ムー大陸伝説やアトランティス幻想で言われる
五色(赤・黄・緑・白・黒)の人間とは、
このイデアのタイプ別を指し示しているのね。




でもって、いちおうルシファーのイデアのことは
公にはされていません。隠された存在でもあったりします。

血液型や星座占いみたいに
安易に分類するようなことは避けたいんだけど、
さわりで少し書くと、

ミカエルとウリエルのイデアを持っている人は
理性的な人が多いかな。
(アストロジィー的にいうとフィクスドやカーディナルっぽい)
ラファエルとガブリエルは感情過多だったり気まぐれで、
精神的にもろくて流されやすい人が多いかも。
(アストロジィー的にいうとミュータプルかなぁ)
それ以上のデータはブログには書かないでおきます。
誤解を生んでしまってもアレなので。


とにもかくにもいずれにしても、
もともと私たち人間はセラフィムの「大天使」だったわけです。
5種類しかないけど。この5種類のどれか、なの。
誰もが。

セラフィムの大天使たちは「元素(エレメント)」なので、

まあ、みんな「元素」なわけです、人間は。
ていうか、そこから派生しているのが生命ともいうべきか。

(天使は大天使のコピーつーかクローンみたいなエレメンタル
大天使たちはセラフィムの階級だけではなく他にもたくさん。
階級ってのは役職や部署名みたいなものかなあ・・・)


基本的には、
ミカエル、ウリエル、ガブリエル、ラファエルの
イデアから生まれた人間たちは、
神-人としてこの世を創造していくのがお仕事。
もちろん、「Let,s Enjoy Life!」っていうのも大切なお役目。


だけど、ルシファーのイデア。

これはぶっちゃけ、地上に混沌と混乱を巻き起こす
「悪」をもたらし、「悪」を果たすことがお役目なんですね。

光あるところに影がある。
影がなければ人は光を認識できないから。
その理屈で、
「悪」がないと、人は「善」を理解することができないから。

認めたくないけれど、「悪」も神の一部なんですよ。

ロキが神の一人であるように・・・



代表的で典型的なルシファー人間は、
20世紀代表として、アドルフ・ヒットラーがあげられるかと。

あと、キリストを金貨10デナリで売ったユダも。
ブッダの弟子のダイバダッタも。

(日本だと、北九州監禁殺人事件の犯人とかがそうかな)

一見なんてことない普通の市民の顔してるのだけれども、
周囲を巻き込み、悪に引き込み、悪の根を広げ、
人の心の弱さを操り、巧みに先導し、悪心を引き出し、
巨大な悪の帝国をいとも自然に築き上げていく。

そうした吸引力があるんです。

気が付かない間に、悪の毒で周囲を麻痺させるというか、
そうした麻薬的なパワーがルシファーのイデアを持った人には
多く見られたりするのね。

そこに存在するだけ、いるだけで周りを毒で浸していくような・・・

周囲にいる人を魅惑し、指先ひとつ動かさず、言葉巧みに人を操り、
まさに悪へと「誘惑」して、堕落させていく・・・


多くのシリアルキラー、サイコパスとかも、
やはりルシファー人間だろうなあ・・・と。
(チャールズ・マンソンみたいなカルト教祖もおそらくは)

彼らの特徴としては異常なまでに自己愛が強く、
他人の気持ちがまず理解できないってとこ。
どこまでも利他的で自分のことしか考えられないのね。


人間としての経験が浅い人なんかでも、
そういう傾向の人がいるけど、
でも、転生を繰り返す過程の中で経験積んで、
「こころ」が育っていって、普通の人になっていくもの。

けれども、何百年何千年も生きて、
人の「こころ」「情」が育たないとしたならば・・・?

限りなくルシファー人間である可能性が高い。


もちろん、
すべてのルシファーのイデアを持った人間が、
最高級の悪を発揮するとは限らない。

一口に悪と行っても小さな悪から大きな悪まで色々。

稀代の大悪党、残虐で人の心をもたず
殺戮と狂気を好んで血を吸って咲き誇るような、
悪の権化、モンスターみたいな輩から・・・
理知的で計算高く、自らの手を汚さずに
人を操って世の中を支配しようとするような知能犯から・・・
ねずみ男やロキみたいな姑息で矮小な小悪党まで・・・

同じイデアを持ってはいてもピンキリです。


彼らも輪廻転生の中で色々経験して、
成長するし、学びもするし、考えたりもして、
なかには上手いこと「こころ」が育って、情愛豊かで、
他者の気持ちを汲み取れる人になっているかもしれない。
たぶん、そうなれないわけじゃないと思う。。。



でも、思うにルシファー人間は、難しい。
ちょっとしたことで、どう転ぶか分からない。



ミカエル、ウリエル、ガブリエル、ラファエルのイデアを
持っていても、「悪」に感化されて、やさぐれちゃって、
大量のネガティブエレメンタル、エゴイズムに支配されて、
人としての良心をなくし、「心」を見失ってる人は大勢いる。
もちろん、犯罪犯してしまったり、悪いことたくさんして、
人の道外れて、恥ずかしい人生を生きてしまっていることも。

(今の人生で過ちや犯罪を犯しているからといって、
殺人とか重犯罪をいくつかしてしまっているからといって、
ルシファー人間とは限らない。他のイデアの大天使人間も
罪を犯すし、悪を生きる人生もある。
またルシファー人間だからといって、
必ずしもいつの人生でも犯罪を犯すわけじゃない)


けれど、いつかは

「ああ~ 私間違ってましたぁあああぁぁ~!」

と土下座して、ウォーター(覚醒)し、
人としての理性、良心が目覚める瞬間がくる。

その時の良心の呵責ったら、もうハンパないわけだけども。

ルシファー人間はちょっと違う。

反省する点、後悔するところが、斜め上をいっているというか、
とにかく普通ではないというか、「そこかい!」っていうような
突っ込みを入れたくなるようなとこだったりする。
他人の心情が理解できず、想像できず(共感や同調がない)、
自分以外の人の立場にとにかく経つことが出来ないのだ。
これは本当に他の4種類のイデアの人間には理解できないとこで。

本質が悪なので、
エゴイズムとかネガティブエレメンタルとか、
そういうのともまたちょっと・・・違っていたりする。

なんていうか、自分が「悪」であるのを気づかないし、
なんかちょっとそのー自分本位さが特出している。


五種のイデアの内、
ミカエル、ウリエル、ガブリエル、ラファエルは性善説で、
ルシファーは性悪説なのだと思う。



そうとしかいいようがない。

今は上手くまとめられません(スマンです)。


何人かに遭遇して、見てきてはいるけれども・・・

まだまだこの辺り、データ収集中というか未だ観察中。




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 神よ ゆるしたまえ
 罪ある子のけがれた手を

 主よ 救いたまえ
 罪ある子のかなしき心を

 きびしい いかりの稲妻もて
 いましめたまえ
 
 なれど 主よ
 罪ある子が 涙のひとみをふせるとき
 しばしのやすらぎをあたえたまえ

 父と子と 聖霊の御名において
 罪ある子を ゆるしたまえ・・・・・・



2016/03/04

艱難汝を玉にす

占いや霊能者に頼ったり、
私のような職業に相談に来る人の中には、

自分にとって、何が「良く」て「悪い」ことなのか、
「どうすれば万事うまく解決するのか」

ということを聞いてくる人がいる。


ベストな結果が出る未来があるのはどっち・・・?

みたいな二者択一とか、

「どうすれば私、しあわせになれますかー」

といったような漠然としたものまで。

でも、大体みんな自分がどうしたいか決まっているんだけど。
そして、「こうするとよい」とアドバイスしても、
それが"したくない"ことなら、ふてくされちゃうわけで。

ほとんどの人が努力を嫌がる。

自動的に転がってくる「幸運」とやらを、
告げられたい人のほうが圧倒的なので。
欲しいものが手に入る、思い描いた未来と
少しでも違うと不服なんですわ。

なんていうか・・・
寝ている間に小人さんが靴を作ってくれるように、
自分の問題が自分が何もしなくても自動的に解決している
そういう未来を言われたくてしょうがなくて。
もしくはリスクの少ない方法で・・・
一番ラクで簡単なことをするだけで、
魔法のように万事解決して思い通りの未来が開ける!

・・・そんな期待する人も未だ減らず、かな。


だから、霊感商法に引っかかる人が減らないんだ、コレが。

パワースポット行って運気高めてご利益~とか・・・
そういう開運ツアーなら、まあさほど害もない。
むしろ良い氣もらえてチャージもできるし。


壺(あるいは水晶とか印鑑とか)を買えば~!とか・・・
某神様に拝めば~! とか・・・


これさえやれば、即!
問題解決~! 


みんなそういうの、求めてるのよね。
大好きっていうか、弱いっていうか、

結局はソコなのよ。。。みたいな。


甘い戯言に頼って依存しちゃって、
何百万もお金使っちゃったりとかね。

占いジプシーは中毒性高いメンヘラとしかいいようがないし、
スピリチュアルヲタとかが行き過ぎて、
私は選ばれしモノなのダー!と勘違いし、
セミナーやワークなんかに多額のお金を突っ込み、
DQNかはてまたキラキラみたいな名前つけて、
成金コスプレみたいな恰好して写真撮り始めたら危ないかも(謎)

(あ・・・私も日本人なのに外人名つけてるし、
ぼったくってはないけど、怪しいセミナー?スクール?
の主催者だから、似たようなもんかっっっ汗)


うん。
みんな苦労はしたくないし、変わりたくなんかないんだ。
自分の悪いとこ、見つめたくないし、認めたくもないし、
人生を改めたくはないんだよね。

何かのせいに・・・自分以外のものせいにして、
外の出来事のせいにしておきたいんだ。
自分の人生、自分で責任をとるのはイヤなんだ、皆。

だから、「コレをすれば、万事お悩み解決!」

みたいな救ってくれる魔法を求めちゃうの。

だって、よしんばそれが上手く行かなくても・・・
その方法が、モノが、自分を救ってくれなかったとしても、

問題や悩み事が解決しなかったのは、
自分のせいではなくて、
その方法やモノのせいにできるからね。

あくまでも皆、自分では責任をとりたがらないのよ。


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さて、本題。


もう10年以上前のこと。
外資のマーケティング会社に派遣で在籍してた時、
近所のH大の子がバイトに来ていて知り合いまして、
で、その子を通じてその子のサークルかなんかの
先輩の子と仲良くなったりした(ややこしい人間関係)。

仮にその先輩の子をHとする。
ちなみに私からしたら、一回りも下。

六大学のひとつを卒業したにも関わらず、
エロ漫画家というアナーキーな仕事をしていた
自由奔放なH(♀)は、
一緒にお酒を飲んだり、遊んだりするにはとても楽しい子で、
いるだけで場を盛り上げてくれるし、親父受けするネタもたくさん。
性格も裏表なくて、とてもいい子だったんだけど・・・

いかんせん、約束や時間にルーズだった。
本人は気づいてないつーか自覚ないんだろうけど、
そゆとこで気マグレンてかちょっと周囲を振り回すとこがあって。

職業が職業だったから、というのもあるだろう。

友達というかちょっとした知り合い程度だったからまだいいが、
たぶん職場の同僚とか部下だったら、
かなーりアウトな問題児と思ってたかも新米。


さて、その破天荒なHにまともな恋人が出来た。

それまでの相手は「え゛ー?」な人だったのだけど、
しっかりとした固い大手企業に勤めているリーマン。

はっきりいって美人ではないし、
ぽっちゃりぽにょぽにょ体型なHの、
尽きぬけた明るさや素直さ、中身に惹かれたようで。
(絶対にOLにはいないタイプと断言できる)
そして、なんと! 彼の実家は戦前から続く老舗有名○○。

おぼっちゃまやん・・・


彼にプロポーズされたHから相談された私。
(仕事としてね、そこはきちんとしてる子なの)
当時はまだ占いしかしていなかった。


長男の彼と結婚することは、いずれ里に帰り、
後を継ぎ、その○○の「おかみ」になるということ。


チッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッ(時計の針の音)


これが悩まないでいられようか!


して、出た卦は・・・
(いやさ易でなくてタロットだけどさ)

「プロボーズを受け、結婚せよ! 
 このチャンスを逃すべからず!」


で、私のアドバイスで決心したH。

プロポーズを受け入れ、めでたく結婚!

しばらくは東京で暮らし、
二人の子に恵まれて幸せなファミリーだったのよさ。
(天真爛漫なHは子供の気持ちがよくわかる人でもあり)

ダーリンの故郷に帰るまでは・・・


はっきりいって、旦那さんのご両親は
自分たちの息子が都会で見つけたお嫁さんに不満だった。
跡取り息子には、それ相応の家柄の方を~なんてのを
考えてた人たちだったから。

老舗ガー伝統ガー なんていう昭和のプライド高い、
カタコチ頭の人たちには、Hの良さが分からない。
型にはまらない彼女が宇宙人にでも思えたのだろう。

平穏無事な四人家族に強敵とも言えるラスボス登場。

そして始まる女将修行と称した嫁いびりの日々。

確かに根っから庶民(私と同じ職人の娘)でしかも、
かなり平凡とはかけはなれたHにはハードル高かったと思う。
ふつーの大衆的なとこなら、合ってたと思うけど。
高級と名のつく、敷居の高すぎるとこは
水が違いすぎたとしかいいようがない。


最終的にそんな苦労が待っていたのにも関わらず、
どうしてタロットは、

「結婚せいや」

というアドバイスをしてきたのか・・・。


それは簡単。

彼女、Hは苦労しなくてはいけなかったから。

確かに人間的にも魅力的で面白くて楽しいし、
人に好かれるところ、たーくさんある子だったけど、

いかんせん、常識に欠けていた。

人間関係にもルーズだった。

義理人情に厚いし、酒席では気配りも出来るけど、
無意識に他人の気持ちを踏みにじる面もあった。
欠点を覆うくらいの長所も持ってるけど、
でもやっぱりそれではマズイっていうか、
いつまでもそれではいかんだろうっていうのもあるわけで。


彼女は彼女で、自分が逃げてきた「苦手なこと」に、
嫌がおうでも取り組まなければいけなかったんですよ。

これまで人生で怠けていたこと、
必要がないと思ってて、磨いてこなかった対人スキルとか、
まああれやこれや。

どうしてもそこ、矯正しなくてはならなかったんです。
結婚生活において、旦那さんに恋されて、子供に恵まれる
という幸せを味わったけれども、同時に・・・
古い格式ある昔ながらの厳しい人たちに、
人としてのマナーとか、知らなくてはいけないこととか、
そういうのを鍛えてもらわなくてはいけなかったんです。


これは今の人生ってだけでなく、
今後の彼女(来世)にとっても必要な経験。

人って、今のままではいられないわけで、
どうしても「成長」を求められる。
ていうか、「成長」していかないと、先に進めない。
万物が変化していく中で、人もまた変わっていかないといけない。

彼女にはとってもいいところ、心の優しさとか思いやりとか、
美徳とか長所もいっぱいいっぱいあったけれど、
それだけじゃダメだったんです。
親としても知らなくてはいけないこと、たくさんあって。


彼女にとってはとてもしんどくて辛くて、
苦しい時期だったと思う。
故郷を離れて、知り合いのいない土地で、
旦那さんだけしかよるすべがなく、幼い子供二人抱えて・・・

努力をしても報われないというか判ってもらえなくて、
出来ないこと、苦手なことをチャレンジしてもダメ出しばかりで。
叩かれて叩かれてあきれられて、悔し涙も流したろう。


この結婚そのものが間違いだったんじゃないか?って、
そもそも結婚するときに、
家柄が違いすぎるし苦労が目に見えてると
反対した人もいたかも知れない。

もっと彼女を鷹揚に受け入れてくれ、実の娘のように、
可愛がってくれるおおらかな義両親のいるパートナーと
出会えたかも知れないのに? 
東京を離れずに済む相手だっていたかも知れないのに?
もしくは独身のままだったとしても、
それはそれで彼女らしく生きられる、苦労の無い人生を
送れたかも知れないじゃないか・・・とも。

そんな風に考える人もいたかもしれない。


彼女自身もこの結婚を後悔したのかもしれない。

何が良かったのか、悪かったのか・・・

それは誰にもわからない。本当のところはわからない。


だけども、運命というものは、
必ずしもその人が「安楽」に生きる方向を指し示すわけでない。

その人が思い描き、期待している
「良い結果、幸せな未来」というものが、
その人自身を成長させる「必要な経験」であるとは限らないので。

その人が考える「幸せ」がある方向ではなく、
その人が自分自身を「幸せ」にするのを邪魔している
「考えの誤り」や「性格上の問題」を矯正させる方向で、
運命の針というのは、常に「オススメ」の未来を指し示すんである。


それがその人にとっての「良い」になる。

だから、その人が希望している未来と一致すると限らない。

得てして人は「苦労」を嫌がる。

辛い思い、痛い思いをしたくないと考える。

して「苦労」そのものを良くないこと・・・「悪いこと」と捉える。
そのような道を避けるべき運命として選択肢から外そうとする。


けれど、いつだって一番「痛いこと」の中に答えが隠れていて、
避けている事柄の中に自分を成長させる経験が待っていたりする。

進むべき場所は天国ばかりではない。

自分が一番行きたくないところが「行くべき場所」だったりする。
そこに成長と開運の鍵が置かれていて、
「幸運」や「成功」のありかだったりする。

そして安楽を求める人ほど、痛い思いを避けるから、
その痛みは、後になればなるほど痛みが増す経験となって、
自分のところに戻ってくる。

そうなる前に、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」ということか。


だから結果にこだわっても仕方ない。

大事なのは過程であって、その冒険に挑戦することによって、
自分に何が得られるか・・・なので。

冒険の先に、ゴールに待っている
「お宝」の大きさを考えるのではなく、
この冒険にチャレンジすることで、
自分はどれだけ成長できるのか・・・
最終的に何を捨て、何を得られるのか、
自分が何を身に着けられるのか・・・
どんな自分になれるのか・・・を考えるべきだ。

そこを考えればおのずと、今するべきこと、
選ぶべき道が見えてくるはずである。