2016/09/30

All Things Must Pass

※タイトルは大好きなジョージ・ハリソンのアルバムから



さて、目のことですが、視力は相変わらずで、
新聞や本などの紙ものを読むのは辛く、
PCを閲覧するにも見づらくて支障はあります。
読み間違いも多いし、誤字脱字打ち間違いも気づかず。

で、前にここに書いたような現象、
目の裏に色々と映像が浮かぶってのは、
あれ以来はとくになかったりします(残念)。


思うに、子供の頃から
オカルト的な心霊体験をはじめとした不思議体験
すなわち神秘体験などをそれなりにしてはいるのですが、
二度目というか、継続的に同じことを経験することって、
はっきりいってなかったなあ・・・と。

確かに怖い体験に関してはもう二度とはゴメンですが、
至高体験とかは気持ち良かったし、
アレは何だったんだろう?みたいな不思議体験とかは、
何度でもどうぞ、なんですけれども。

ありませんなー

亡くなった人(殺人事件の被害者)が
夢で犯人教えてくれたのも、一度きりなんですよね。
スプラッタは超苦手ですけれども、
出来ればそういうのって、どなた様でも、
何度でもご出演どうぞ、なんですが・・・。

思うようには行きません。

まぁ、よしんば出てきてくれても
情報の活用のしようがないというのもアリ。

ただ、幽霊を直接視るのだけはごめんなさい。

実物視るのはホント怖い。
身内の霊(祖父や祖母)でも、悲鳴上げまくり、
失禁して気絶しそうになりましたから。
職場でも悲鳴あげて、口から泡吹くばかりに驚き、
白目状態に放心したことあり←お陰でヤバイ人扱い

アレは本当に慣れません。

死んだ人の映像に関しては、
頭の中・・・夢や脳内映像に限ってのご出演でって、
そんな制限付きでないと心臓麻痺起こしますよって。
(ホラー映画は怖いもの見たさで見てしまうが)


で、結局なんであれやこれや
色んな体験をさせられているかっていうと、
「こういうのもある」「こういう視え方もある」とかとか、
とりあえず一通り色んな段階のパターンを経験しておけって、
たぶんそういうことなんでしょう。

他人がした経験、クライアントさんや生徒さんの
体験話や状態を理解するための踏石といいましょうか。

何にしても、自分が経験しておかないことには、
それがどういうことでそのあとどうなるとか、
対処法にしても説明にしても出来ませんし。

だから、何度も繰り返す必要もなく、
同じことを再現してそこに耽溺したり、
その状態を維持・活用していく必要性もないみたい。

こないだの、目の裏に映る映像も、
「こんな風に目の裏に視える人もいる」
「ときに、こんな視え方をすることもある」
ってなもんで、とくに意味はなかったかと。

そういう意味で、
私はやっぱり、人に教えるのが本業なんだって痛感します。
それありきの人生でもあると。

(どうでもいいことだけど、
従姉妹たちは保育士、幼稚園教諭、園長先生してたり、
姪二人や甥や嫁は中・高・大とで教職に就いているし、
叔父も自衛隊では教官という指導的立場だったなーと
気が付けばそういう親戚が多かった)

霊的な事柄に関しても、
こういう理屈で原理なんだと、教えてもらい、
あくまで垣間見させてもらって体感させてもらっただけで、
その道をプロとして極める必要はなく、
(もちろん技量も霊格もないわけで)
さわり態度知ってればいいって、それだけのことで、

例えば、お酒造りをするならば、
米作り(農業)と水のことは知っておくのが基本とばかりに、
ありとあらゆる範囲の広い体験を認識させられたって、
そんな感じですかねー

私は霊媒だけど霊能者になるのが道なわけではない
亡くなった人に道しるべを与えて、旅立たせたり、
彼らの想いを受け取って、生きてる人に伝えたり・・・
そういうのは仕事ではないのです
偶然できてしまうことがあったとしても、
それは本当にまぐれとしかいいようがなく

それはそれで専門の人がいる

未来を予知して予言する予言者でもないし
神様を身体に降ろして天啓を告げることもしないし、
祈祷をしたり、神様や仏様との仲立ちをするものでもない
呪術を掛けたり解いたり・・・な呪術師でもない
陰陽道や道教なんかも出来ない 風水師でもない

アカシックレコードを読むのも得意ではないし
透視能力者というような能力もない

簡単な内気功はするけど、
人をふっとばしたりするほどの外気功は出来ないし、
病を治す神通力や奇跡のハンドパワーも持ってない

そのような「しくみ」はわかるし、解説は出来るけども。

つまりは、解説者や評論家みたいに、
その世界のことをあーだこーだいうことは出来るけども、
解説者や評論家がその道のブロとしての技術を持たず、
第一人者では成り得ないように、私もそう、
能力や技術を持っていないものなのですよ。

スピリチュアルセラピーの現場では、
どうしても今生や過去生の情報やカルマのレッスンとか、
その人の考え方や性格や心根の問題だけでなく
他人から飛ばされた生霊(想念)や自分で作った想念体、
憑依などで影響を与えている霊的な存在やら、
先祖や因縁的なものetc
どうしても原因が多岐にわたって複雑に入り組んでいる、
そんなケースだけでは終わらないから、
どうしても広い範囲で見て、浅い知識ででもざっくりと、
自分(私)が出来ること出来ないことを見切る必要性があるし、
それがサイコセラピーと言えばそうなので、
出来ないことのほうが多いわけだけど(実力不足なので)、
それでも"あたり"をつけて、
出来る限りのことはとりあえずやってみるしかない。

原因が判っても、技術が追い付かないのが実状。
それが私の限界で。

だから、私よりも出来る可能性、実力(霊性)を秘めた人・・・
磨けば光る才能を持った人を育てていくのが仕事。

サイキックな能力が開花しつつある人の
スピリチュアリティを高めて、花開かせるのがお役目の一つ。

そのための、今までの経験であると私は理解しているのです。

霊的指導者というにはおこがましく、
そのようなことができる人格者でもないけれど・・・

個人セッションでは、
あくまで"運命の整体師"として、
その人が生き方を間違えてちゃってますってトコを
くきくきっと矯正しつつ、
あなたのカルマのレッスンこれでんがなって、
辛口に人生の批評家になりつつ、

スピリチュアルスクールのセンセとしては、
人生という「自分育成ゲーム」の攻略法を教えつつ、

優秀な、未来のサイキッカーさんのコーチとなって、
宗方仁のように「岡!エースを狙え!」とばりに、
飴とムチもって、しごきを繰り返していたりー

なのであります。


それをするがためのこれまでの人生なのですよ。


そして、病弱で学校や仕事を休んで寝てて、
本や漫画ばかり読むしかなかった時期があるのも、
映画をたくさん見ることが出来たのも、
音楽が好きで、歌うのが好きだったのも、
このブログであれやこれや書くのに、
引用するにしても知らないと書けないから、
そのために読書や視聴する時間が
たーんとあったんだなあって思います。


そんな風に人生はうまく出来ている。

すべてのことは必然である

本当にそう思います



ところで、このブログ。
カテゴリが細かく分かれすぎてて、
重複しているテーマもあり、とっても読みにくいし、
過去ログや関連した記事を探しにくいとのご指摘が。

うーんうーん・・・

てなわけで、近いうち、ここはここでメインとして、
全部の記事は置いておくとしても(更新も)、
過去生関係のものとケースファイルは独立させようかと、
あと霊的知識とかそのあたりも別個にまとめるかも、
(リンクは貼ります)
今はiphoneやスマホなど、小さい機器で見る人も多いから、
スクロールが下に長いと記事が探せないのだと、
パソコンにしても・・・らしいので、
ちょっと考えてみます。

つーか 誰か良いアイデアないかしら??


2016/09/21

嘆きの大地、涙の河

遠く遠く何処までも遠く 
流れる河で
暮れかかる空に貴方想い
今日も待っています

愛しい人よ 私は歌う 
千もの言葉願いを込めて
遠い昔のおとぎ話の恋のように

どれだけ待てばいいのですか
ああ届かぬ愛を
二人の運命知らぬ河は
淡い夢を乗せて
流れてゆくようで

逢えぬ辛さを語れぬ日々よ
私は想う
せめてこの髪があなたの元に
伸びるくらいになれと
  愛しい人よ 帰らぬ人よ
私の愛を遮るものは
深く冷たいこの河の
流れだけなのでしょうか

 by万里の河~チャゲ&飛鳥



中国の長江?だったかなぁ?
作者が訪れたとき、この歌が生まれたそうな。
うろ覚えですが、昔見たTV番組での記憶。
(本当かどうか確信がない。間違ってたら失礼)


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


有史の昔から幾星霜、
人類は何度となく戦争を繰り返してきた

土地や水利を巡っての争い、
覇権や利権、主権の争奪戦、
領土争いや侵略戦争、反乱や騒乱、
報復や宗教絡みの聖戦などなど


飽きることなく、何世代も幾世代も・・・
争いの種は尽きず、紛争の嵐は止まず
弔いの鐘は響くとも、血は大地を染め上げて
哀しみの咆哮が風にこだまする

戦地に赴くのは男たち

その男たちの背中を女たちは幾度見送ってきたろう

恋人を、夫を、我が子を、父を、兄弟を、

いつ帰るとも判らぬ、旅路
戻ってくるあてのない凄惨な戦いへと
死地へと向かう彼らの姿を
涙で曇って見えないその瞳に焼き付けるようにして

涙の河が出来るほどに、海すら飲み込むほどに・・・
世界中の、たくさんの、たくさんの女たちが、
身体中の体液を絞り出すほどの涙を流し、
辛く哀しい想いを祈りにかえて、
ただひたすらの無事と帰還を願い続けた


(もちろん
残された女たちもいつだって受け身ではいられず、
侵略者たちの慰みものになったり、奴隷にされたり、
守ってくれる存在や後ろ盾を失った日には、
弱者として流転の人生を歩まざるを得なかったわけですが)


一日千秋の想いで、今日帰るか、明日帰るかと・・・
生の望みを、便りを待ち続け、再会を心待ちにし、

あきらめた頃の再会もあったろう
気が付けば帰らぬ人を待つ間に若さを失い、
髪は白髪になり、逢えぬまま、想いを残したままに、
あの世での再会を待ちわびることになった人もいたろう


永遠に待つわ あなたを
幾千の夏が過ぎようとも
あなたが私のもとに戻るまで
この腕にあなたを抱く日まで

  by シェルブールの雨傘


昔から戦争で引き裂かれる恋人たちを描いたものに弱く、
映画「シェルブールの雨傘」「ひまわり」など、
曲のイントロを聞くだけで何故か号泣できちゃう(笑)




この仕事を通して、
他人の人生の歴史(過去生)に触れるとき、
そうした哀しみの記憶や
戦争の傷、爪跡を垣間見る機会は多かったりする

それほどに"戦争"というのは、いつの時代にも、
何処の国、土地、民族にも存在していて、
決して避けることは出来ない天災のようなもので
逃れることの出来ない運命の火の粉でもある


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


ケースファイルの何処かにも書いたけれども、
先の戦争で日本軍として南方戦線で亡くなった人
(今は生まれ変わって農業を営んでいるけれども)
彼は飢餓で死にゆく間際に、
ふるさとの母のこと、兄弟姉妹たちのこと、
そして母の味のおむすびの味を思っていた

空襲で逃げまどい、背中に背負った我が子を
焼かれて狂死した母親である過去を持つ人もいた

広島の原爆、そして長崎で亡くなった人も

ドイツ軍の空襲で亡くなった人もいた

べトナム戦争で米軍にレイプされ、
家族ともども焼き殺された過去を持つ人も

ロシア革命において、
富裕層であったがために暴徒に襲われて、
一家全員が惨殺される悲劇に見舞われた人も

ナポレオンのロシア遠征の途中、
凍死した過去を持つ人もいた
彼は故郷に恋人を残し、彼女を思って死んでいた

キリスト教が異端だった頃、
残酷な処刑方法で殺された過去を持つ人もいた

有名なサン・バルテミーの虐殺・・・
キリスト教徒同士の争い、
ユグノー教徒に対するカソリックの弾圧で
命を落とした過去生を持つ人もいた

秦に侵略され、侵略された側の国であったがゆえに、
穴に生き埋めにされて殺された子供たちの一人
であったという過去を持つ人も

十字軍に従軍して亡くなったことのある人も
南北戦争での名誉の戦死も・・・

歴史上での有名な戦争も歴史に残らない小さな争いも

自分が男性で戦地で亡くなったり、
戦争に赴いた恋人を待つ女性だったり、
戦争に巻き込まれて、悲劇的で惨い死に方をした人も・・・

ほとんどの人の魂の歴史に
紛争や戦争の影、名残を見つけることができる
血と涙、惨殺によって奪われた記憶がある
それらは怒りと哀しみと、ときに虚無とあきらめと共に


人の過去生を紐解くとき、
人類の歴史は戦争に彩られているものであると、
つくづく戦争の無かった時代はないものだと
改めて認識させられ、痛感させられる


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


参加したくない、行きたくないと思えど、
嫌々仕方なしに徴収され、
逃れようのない義務として戦地に赴くもの
報奨金目当てに、
生活のため家族を養うために軍に入るもの
愛する人を守るため、愛国心の表れ故、
祖国を救う英雄を目指し、理想や志を叶えるため、
否応なく巻き込まれて仕方なく武器を取るもの、
理由なき殺人、人を撃つことが正当化される場を求め、

などなど・・・

人が兵士となり、戦争に参加する理由は様々

しかし、大体において、
争いの仕掛け人、戦争の開始ボタンを押すものは
安全地帯にいて、命の危険にさらされることは少ない

将棋の駒となり、消耗品として捧げられるのは
いつもごく普通の人々であり、良き隣人、民衆の命

最前線は彼らが的となる場所

それでも生きて帰りたいと、
絶対に生きて帰るのだと・・・誰もが思うもの

一人ひとりに人生があり、想いがあり、
家族が・・・待つ人がいて、帰る場所がある

屍を何もない大地にさらし、
後から進むものの踏み石になりたいなぞ、
誰が思うものか


戦争というのは、
大量の命を消費するだけの行為である

憎しみを燃料として、人の身体を石炭のように、
命を・・・無駄に燃やし尽くして
人類のエコイムズを増長するだけの不毛な行為である

怒りと哀しみと何も生産しない、
ただ何もかもを奪って破壊しつくすだけの、
創造から最も遠く離れた、
人類の霊的成長や進化を阻む、悪魔の御業である

そこに愛が存在する余地はなく、
崇高な精神は試されるばかりである

人はいつになったら学ぶのであろうか・・・

争いという破壊は我が身を滅ぼすだけということを

自らに奢れて、太陽に焼かれたイカロスのように
痛い思いを何度となくしても、
それでも人類は何も学ぼうとしないのだ

同じ惨劇を飽きることなく繰り返すばかりで

自らの哀しみにも痛みにも鈍感なまま


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


国や主権者たちの思惑に乗らされて、
自分の意志ではないままに、
ただ・・・それが与えられた役目であると、
何の疑問も持たず、信念もそこにはなく、

まるでロボットのように、上つ人の言いなりになって、
争いを指揮し、戦争に黙々と使役し、従事した人がいる

それがその人の仕事、生業であると言えばそう


遠く故国を離れて、強国の下僕にさせられて、
ただ言われるまま、命じられるまま
納得も共感もなく、不快さと反発心はあるものの、
そこには矜持はなく、己が意志はなかった

もはやこれまでという時になって、
たくさんの部下たる兵士たちが海に沈み、
次々に命の灯が消えゆく様を見ても、

彼らの死に何の感慨を覚えず、
自分が死することだけが恐怖で、後悔で・・・
同胞たちのことを思うことはいっさいなく、

死した後も、何故こうなったのか、
自分はどうするべきだったのか、
何か他に出来たことはなかったのかなど、
そのようなこと、生まれ変わっても気づかず

輪廻転生の流れの中、
何度も足りないことへの「問い」が投げかけられても、
答えに至ること能わず


それは一人ひとりの命の重みを知ること

自分で考えて行動を起こすことの必要性

例え逆らえず、立場上避けられない使役であったとしても、
己が与えられたポジションに全力で身を捧げ、
自分なりに出来ることのベストを尽くすこと

ではあったが・・・


大量のゴミのように、
消耗品のように扱われてしまう民衆たちも、
権力者や上つ人たちと同じ人間であり、
その命は尊く、重みや価値に違いはないということ
どんな命でも等しく、命の価値の前に貴賤などはなく、
戦で散らされて奪われていく命一つひとつに、
人としての心や人生があるのだと・・・
一人ひとりに家族がいて、守るべきものがあって、
彼らの無事を祈る人がいて、帰りを待つ人がいるのだと・・・

彼らを待つ人たちの存在 
その人たちの彼らへの想い
彼らの死によって、
遺され、路頭に迷う人々がいること

戦場で死ぬ兵士たちばかりではなく、
その兵士たちをよすがとして生きる人たちがいて、
彼らの死によって、死を余儀なくされる人がいることを


そして彼ら、大衆あっての国であり、
彼らのための国造りであるということ

争いなどのために、戦に身を投じるために、
生まれてきた命ではないということを、
それを知るための人生であったのだが

勝てる戦ではなく、負け戦でも、
仕方なく、望まず巻き込まれた戦場であっても、
その立場に駆り出されてしまったからには、
自分なりに国を想い、人を想い、未来を想い、
終幕を避けられずとも、
終わらせることができる権限を持たずとも、
己が命の花を一瞬でも咲かせて、
この世の仇花として散らせることも選べるものを、
共に戦い、死にゆくものたちと心を通い合わせ、
彼らを思って、対等な仲間としての惜別もあったものを

だが、それをしなかった



彼らへの償いが、慰霊や供養などとはおこがましくもある

生まれ変わって、かの地を訪れて、頭を下げて何になろう

それで散っていった命、仲間たちの想いが昇華するとでも?

今生での懺悔など、何の意味もない




何が当時の自分の人生の過ち、考えの奢りであったのか、
まったく悟らず、知ろうともしていないのに

肝心のそこを改めずして、過去を償えるはずもない


生き方が変わっていないのに
他人に対する態度もまったく変わらず、
誰をも、命をも尊重し、他人を・・・
他者との縁を大切にする生き方すら出来ていないのに

人の心、絆というものの大切さを
まったく気づかず、築き上げる努力もしていないのに

ただ手を合わせれば、彼らの当時の想い、
彼らの帰りを待ち続けた人々の哀しみが癒えるとでも?

十把一絡げにされて、
人として扱っては貰えなかった人たちが
果たして、カタチだけの謝罪で、それで満足するとでも?

自分の何が悪かったかを理解してもいないのに
生き方がまったく変わっていないのに

人、一人ひとり、身近な人を誰一人
大切にする生き方が出来ていないのに?

他人を尊重して、相手の心を思いやり、
人と人の繋がりを築いて、優しさや温もりを与える、
そんな基本的なことが出来てもいないのに


何が罪であったか何に非があったのか・・・
他人に対する姿勢を変えずして、
自らが成長すること、自らに望まれていることから、
目を逸らして、本当にするべきことをせず、
儀式的なことをするだけで、
大量に消費されるだけとなった、多くの犠牲者たちが
彼らの魂が救われるとでも
心から満足して昇天できるなど、
どうして勘違いできようものか??

すみません 反省してますで、頭を下げても、

本人はあの頃と何にも変わっていないのに?

肝心なことをまったく学ばず、
理解もできていないのに・・・



彼らの母たちが言う

「私の子供を返して欲しい」

彼らの恋人たちが言う

「私の恋人を返してちょうだい」

・・・と


その声が聞こえまいか?

彼女たちの哀しみが・・・

引き離された人々の、家族の、恋人たちの、
哀しみの声が届かないのだろうか

大切な人を奪われる哀しみが、痛みが、
今もわからないままなのだろうか・・・

そして何が人生で大切なのか、
今も気づくことのないままなんだろうか?

でなければ、いつまでも
犠牲となった人々の嘆きは
「恨みの声」として、自らを責め続けるままだろう



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


誰もが皆 知ってる
消せやしない 傷を
どれくらい 続くの?
もういらないよ

誰もが皆 待ってる
争いのない 日々を
戦場の兵士たち
思い出してよ
今 母のぬくもりを

この果てしない広い世界に
自分だけの地図 描いて
涙こらえて 僕らは歩いていこう 

立ち上がれ今 ほら何度でも
眠れる獅子呼び起こして
生きていくんだ 明日へ

誰もが皆 持ってる
ひとかけらの愛を
憎んでも 何一つ
生まれないんだよ
そんなのもういらないよ

この限りある時間の中で
まだ見ぬ楽園目指して
どこまでだって僕らは歩いていこう

振り向かないで 前だけを見て 
その身体朽ち果てるまで
生きていくんだ 未来へ

       by「楽園」Do As Infinity



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


「コンバット」というアメリカのドラマがある
第二次世界大戦時、ノルマンディー後において、
連合軍のとある小隊が戦場で出会う数々の出来事を
描いたヒューマンドラマの側面を持つ、戦争もので、
今はもう再放送されることはないが、
戦争と平和とを考えさせられる良作であった

このドラマのいいところは、
敵である人々(ドイツ軍)も、同じ人であり、
戦争という非常事態で出会わなければ、
人として理解しあい、友になれたかも知れないと、
そういう含みをもたせていること

昨今のアメリカにありがちな戦勝国万歳の雰囲気はなく、
単純に自国-アメリカが正義であるとは語っていず、
戦火の中での友情や人々の在り方に焦点を当てていて、
敵を倒す行為というよりも、戦争がもたらす悲劇性を、
そして争いの日々の中で苦悩する兵士や
破壊された町の中で生きる人々を描いているところや
敵であるドイツ兵もまた人間であると・・・

そのようなことを暗に示唆して心に響くものがある

もっとも、このドラマが描く「人間ドラマ」に関心を示さず、
戦争ごっこに精を出す男の子たちは多かったけれども
(私はサンダース軍曹が好きでした)

今じゃ、アメリカでこのような視点で作られ、
過去にアメリカが関わった戦争について、
クェッションを突きつけてくる作品は生まれないだろう

「あの戦争は何だったんだろう」という問いにしても、

人と人が争うのはいけない、殺し合いはよくない

敵も味方もなく、戦争は虚しいだけ・・・とか、

敵にも家族がいて、国や民族や言葉が違うだけで、
相手も一人の人間であって、
戦争という場面がなければ、共に笑い合える
仲間になれる可能性だってあるのにと・・・

そんなメッセージを投げかけることすら、

9.11の悲劇の後では憚られ、
非国民として叩かれ、統制されるようになってしまった




何処かにちらりと書いたけれども、
9.11の犠牲者たちのカルマは、
十字軍遠征の歴史(過去生)絡みで。。。

イスラムのジハード、そしてISの建国

中東の問題や宗教戦争は、
絡みに絡まった、宗教の原罪の歴史

これはとっても根が深いから、
そうそうに解決できるものではなかったりする

でも、無関係な人は一人もいず、
今この世に存在しているすべての人の罪とも言える。
何故なら、今生きている人々の過去生で、
この土地に生まれたことがないという人はほとんどいないし、
キリスト教徒やイスラム教徒だったこともあるし、
宗教的な争いに関与した人も少なくないし、
十字軍の長い歴史上で参加した人も多いから

何かしら、関わりあいがないとは言い切れないのです

人類共通の罪、といってもいいかも知れない

でも、誰が悪く、誰に罪がないということもない。

終わらせるのは簡単ではないし、とても難しいけれど。
それでも祈り続けるしかない。
いつか来る平和を、和解の日を、
すべての憎しみの種が絶滅する日が来ることを、
あきらめず信じて、

もう何人たりとも引き裂かれず、涙に暮れることもなく、
戦場に誰を見送ることもなくなる日が来ることを・・・
終わりのない悲劇と不幸の歴史にピリオドが撃たれ、
不毛な復讐の連鎖が消滅するその日まで

すべての人の涙が乾く日が来ることを、
ただ願って、祈るしかない





まわるまわるよ 時代はまわる
喜び哀しみ繰り返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わってめぐりあうよ

  by「時代」中島みゆき

2016/09/19

愛別離苦

世にありき
一度(ひとたび)逢いし君と云へど
吾が胸のとに君は消えずも


 「少しは民子の身にもなってやれ。
 わしは60になるがな、
 60まで生きて来た中で
 何が一番嬉しかったかと言うとな、
 死んだおじいさんと一緒になれた時くらい
 嬉しかったことはないよ」

           "野菊の如き君なりき"より

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互いに想い合う者は、その想いを遂げたほうがいい。

そんなことを今さら改めて痛烈にオバサンは思ったりする。

好いた者同士は、一緒になったほうがいい・・・って。


何故って、
どちらか片方というのではなく、
お互いに心が強く惹かれ合い、
求めあえる人と出会えることは、
長くも短くもある人生において、
そうそうあることではないから・・・

心から深く愛せる人に出会えることなぞ
そうそうあることではないし、
そのような人と出会えたこと自体が奇跡で、
人生の宝ものであるとも言える

輪廻転生を繰り返して生きる中でも、
互いに恋ひし慕われ、求められは求めあう
そんな相手とはなかなか出会えないものだから

片恋、一方通行の想いなら数あれど、
相思相愛で、運命の恋と双方が思える出会いなぞ、
願っても得られるものではない


また、遂げられない想いはしこりとなって、
その人を苦しめ、永遠に引きずる負の連鎖を産んだりもする

ことに恋愛に関してはそうだ。

引き裂かれ、泣く泣く別れを選んだならば、
心は千々に砕け散って、命の灯はやせ衰え、
魂は生きる屍となり、肉体は病み衰えてゆく

あふれでる愛の泉に蓋をすることは、
生きる喜びを捨ててしまうことと同じだから



昼ドラやレディースコミックスでは、愛しあう恋人たちが、
周囲の思惑や陰謀で引き裂かれたり、
他の人と結婚させられたり、相手のことを思って身を引いたり、
やんごとのない事情から生き別れになったり・・・などは、
よくあるお約束パターンだったりする。

けれど、大体において、
愛する人と引き離されたり、あきらめざるを得ず、
好きでもない人と一緒になったヒロイン、ヒーローは、
その想いを断ち切ることが出来ず、
結婚相手を真底から愛することも出来ず、
パートナーともども不幸の花道まっしぐら。


その昔、「風の輪舞(ロンド)」津雲むつみ作を読んだとき、

「愛し合うもの同士が一緒にならないと、周囲を不幸にする」

って思った。

まぁ、漫画だし、フィクションなんだけれども・・・


なんていうのかなぁ・・・

気持ちってごまかしてもダメなんだよね。
人の感情っていうのは本当に複雑なもので。
押さえつければ押さえつけるほどに歪んでしまうし、
熱い想いは煮えたぎって心を焼き尽くしてしまう。

勿論、私たちは自分一人で生きているわけではないから、
自分の心に素直に、
正直に生きることばかりも選べないし、出来ないのだれど。

でも、自分の人生、
誰か他の人が責任を取ってくれるわけではないし、
(輪廻転生のことはさておいて)
一度きりの人生と考えて行動するべきこともたくさんあって、

大好きな人の腕の中に飛び込む勇気を持つべき時も、
今がその時ではないかということもあるわけです。

恋愛は人生の重要課題ではないとも言えるけど、
人を愛することってとても大事で、それは人生の基本でもあって、
愛する人と巡り出会えたならば、人生はそれだけで素晴らしく、
生まれてきた意味も価値も見いだせるくらいに・・・
互いの傍に居られて、心を通い合わせること、
共に人生を歩める喜びは至福の喜びであるわけだから

そんな自分へのご褒美を放棄する必要はどこにもないのです
相手にとっても、自分と共に生きることは喜びなわけで
(つまりは自分というギフトを提供することだがね)

確かに心は気まぐれで、
一生の恋、100年の恋と思ってもいつか覚めるときもあるし、
人の心は変わりゆくこともあるけれど・・・
人と人との関係性に絶対はないけれど・・・

死ぬまで添い遂げられるかどうかは別として、
本当に心から好きだと、
この人と一緒に居たいという人と出会えたならば、
自分の気持ちに正直になって、どうかその手を離さず、
共に花も嵐も踏み越える勇気を振り絞って欲しい

いつわりの愛、まやかしの幸せの中に埋没したりせず
好きではあるけれど
愛してはいない人を愛しているふりをしたりせず、
自分さえ我慢すればなどと心を押し殺したりせず、
相手にふさわしいとかふさわしくないとか、
そんなことを自分で決めたりせず、

ただ出会えた喜びを伝えて、
愛する気持ちを表現する道を選んでほしい。

人生は長いようて短く、
次の人生でと思っても、今生は一度きりなのだから

自分を幸せにすることこそ、
この世を平和にし、周囲の人を幸せにすることなのだから


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 「生まれた時は親だの兄弟だのと言ってみても、
 いずれは別れ別れになるのがこの世の定めです」

 「儚いもんですなあ。
 生きてるうちは泣いたり笑ったり、
 いろんな苦労を散々して
 しまいはどうでもこうでもお墓に入らにゃならん。
 金持ちも貧乏人もみんな同じや
 老い先短い年寄りには昔の夢しか残っていない」



木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」
とても抒情的で詞的で、好きな作品のひとつです。

原作は伊藤佐千夫の「野菊の墓」で、
舞台となったのは、矢切の渡し。

見るたびに、そして思い出すたびに、
何故か号泣してしまいます。



イトコ同士の若い二人の、淡い初恋のお話し。

思い合っているのに、引き裂かれてしまう悲しい恋のお話し。


好きでもない人のところに嫁がされて、
好きでもない人の子を身ごもって、流産して、
たった20年にも満たない人生を終えてしまった民さん。

同じ寿命であるならば、
好きな人と一緒になって、
好きな人の子を身ごもって、
大好きな人に見送られて、その手を握られて、
この人生の終わりを逝きたかったろう

そら若くして儚く散りゆく命なら・・・
せめて想い想われ、恋慕う相手と添い遂げて
短くも幸せで、
心穏やかな生涯を生きさせてやりたかった


政夫さんは誰をも娶らず独身を貫き、
生涯、民さんを思って生き、老いていく
(それが前述のセリフ)

結ばれなかった二人の切ない、切ない恋のお話し。


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「民子はな、お前の名前を一言も言わなんだ。
 だもんでな、諦め切ってるものと思って、
 一目も会わさなんで許してくれや。

 だけどな、息を引き取って枕を直そうと思ったら、
 左の手にな、樅の布に包んだものをしっかりと握って、
 その手を胸に乗せてたんじゃ。
 樅の切れに包んであったのはな、
 お前の手紙と、りんどうの花じゃった」



…(民子は)桐の葉に包んで置いた
竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。

「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。
りんどうはほんとによい花ですね。
わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。
わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花…」

花好きな民子は例の癖で、
色白の顔にその紫紺の花を押しつける。
やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。

「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」 「どうして」
「さアどうしてということはないけど、
政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終って顔をかくして笑った。

 
待つ人も 
待たるる人も 限りなき
思ひ忍ばん 此の秋風に

2016/09/10

データベース、アーカイブとしてのチャクラ

チャクラヒーリング(バランシング)を
独立したセッションメニューとして初めて早や2年。

先日、
トータルセットの2回目(ちょうど第3チャクラが終わったトコ)を
受けてくれた人がいて、それで気が付いたことがある。
(※正確にはグループワークも含めて3回目か)


前情報として、

チャクラというのはよく知られている7つだけではなくて、
大中小大きさも様々にとてもたくさんの数がある。
チャクラがどこにあるかというと、
エーテル体(肉体とサイキカル体とノエティカル体)を
繋いでいるエーテルダブル上にあって、
このエーテルダブルは3つの身体の枠組みでありながら、
同時に3つの身体の組成に必要なエーテルバイタリティ、
すなわち氣(プラーナ、マナ等と呼ばれるもの)を循環させている。
また、経絡という気の流れレイライン(タイの言葉だとセン)は、
このエーテルダブル上に存在する。

で、チャクラは、
このエーテルバイタリティを外界から取り込む場所でもあり、
循環させて振り分ける中継地点ともいうべきところで、
ツボと言われる場所もチャクラに相当する。

チャクラが3つの身体の繋ぎ目にあるということは、
ボルトや蝶番のようなものの役割を担っていると思ってもいい。
(離魂病の人はここがゆるゆるになっている)

なので、チャクラに不具合が起きるということは、
エーテルバイタリティーの取り込みや循環に
不具合が生じるということで、
3つの身体のバランスが崩れるということでもある。

※よくチャクラを開く、などということをいう人がいるけど、
チャクラは3つの身体が十分に成長していて、
なおかつ第4の身体であるサイコノエティカル体が成熟し、
それぞれを個別に引き離しても問題のない状態にある人でないと、
元の結合状態に戻すことが出来なくなってとても危険。
(チャクラが不健康な状態に陥ったり、不具合が生じると、
軽度の場合は、理由のない体調不良や疲れやすさ、
鬱や無気力症、記憶障害、集中力の欠如などで済むが、
重篤なものとしては離魂病、あげく離人症、パニック障害、妄想、
統合失調症や人格障害などの精神疾患を引き起こしたり、
若年性の健忘症、認知症などに導かれることもある。
それだけでなく、憑依されやすくもなり、
クスリをやってないのにも関わらず、近い症状に悩まされたり等)


さて、頸椎と脊椎のところにある7つのチャクラ。
英語ではエーテルセンターと呼ぶここは、
別名ディスクともいい、他のチャクラと比べてとても大きくて、
エーテルバイタリティーを取り込み、循環させるだけではなく、
3つの身体を動かすための、
データを起動させて身体を動かすデータベースであり、
データ(エレメンタル)を読み取るレコーダーであり、
そのデータを7つに種別化して保存する
アーカイブとしての役割も担っていたりする。
この説明じゃちょっと判りにくいかな・・・? 
分からない人、ゴメン。

(分かり易くいうと、今生での
 "肉体"の行動・動作の記録、
 "感情"すなわち心が反応した記録、
 "思考"考えたことの記録
 それらはエーテルバイタリティーを素材として、
 それぞれの身体により想念体・エレメンタルという
 形骸ある記録媒体となる。これはマイクロチップのように
 微細に小さいものから大きなものまで種々様々
 私たちはこの"記憶"でもある"記録"を日々新しく生産し、
 あるいは古いものを読み込みながら生活している。

 エレメンタルは時に外に放たれて、
 ネガティブなものなら生霊となって他人を害することもあるし、
 その人の欲望や願いを叶えるために事物を引き寄せたりもする。
 戻ってきたエレメンタルは首の後、延髄のところ・・・
 ぼんの窪のところにあるチャクラから入り込み、
 7つのチャクラに種別ごとに分割されて収納される)

つまり人体に数多く存在しているチャクラの中でも、
主要かつ特別な場所で、別格扱いと言っていい。
他のチャクラにもエレメンタルは貯まるし、
それなりに重要な役割を果たしているものはあるが。
3つの肉体を機能させているパターン(行動や思考体系など)は、
この7つのチャクラに保存されているデータありきなので。


私たちが行動し、経験し、記憶するのは、
エレメンタルというデータを生産して、
分類保存する書庫であり、
ローディングする7つのチャクラあってこそ。

まさにエレメンタルというレコードをプレスリリースし、
保存し、なおかつ読み込む場所としての"ディスク"というわけ。

とはいうものの、残念ながら、
この潜在意識の宝庫、チャクラというアーカイブは、
綺麗に整理整頓された機能的な書庫にあらずして、
ほとんどの人が支離滅裂なジャングルのような無法地帯。
何があるのか分からない、汚部屋のような状態も珍しくなく。

まあ、大体しっちゃかめっちゃかなわけですよ。
ゴミの山も必要なものも、古いものも新しいものも、
混沌としたカオスを成して、放り込まれていたりして。

(中には空っぽに近い状態の人もいますけど)

7つのチャクラがぐちゃぐちゃな汚部屋状態だとどうなるか・・・
いやさその前に、こういう滅茶苦茶なゴミだらけのとこを
下手につつくと、ゴミが一気にあふれだして大変なことになります。
※チャクラ内のデータが整理整頓されていない状態で、
チャクラに負担をかける過剰なワーク、
霊的トレーニングなどをすると、3つの身体のバランスが崩れ、
心身の健康を損ねるだけならいざ知らず、
下手したら精神障害を起してになったりする。
だからチャクラは人為的に働きかけて開いてはいけないとこなの。

3つの身体の枠組みであり繋ぎ目でもあるエーテルダブルや
そこに存在するチャクラ(7つのディスクたるチャクラ含む)が
おかしくなると、エーテルバイタリティーの摂取と排出も
上手く行かなくなり、エレメンタルの読み込みにも不具合が生じる。
壊れたレコードみたいに同じことばかり話したり、考えたり、
過去の出来事に縛られて、強迫観念に悩まされたりetcetc...



チャクラに対しては、あくまでゴミ出しをして、整理整頓をして、
エーテルバイタリティを補給して、活性化をして、
不具合を起している問題を取り除いて、バランス取って・・・
っていうような働きかけをするだけでいいのです。
それと一度にやりすぎないっていうのも大事。
ひとつのとこだけいじりすぎないのも重要。
チャクラに働きかけをしたら、全体のバランスも見ること。
全身にエーテルバイタリティーを十分に補給して、
ネガティブなデータを取り除いた後に出来たスペースには、
必ずポジティブなデータを入れて、隙間を埋めること。
これをしないと、意味がないというか、
かえって酷い状態になりかねないので。


で・・・前置きとしての説明が長くなっちゃいましたね。



++++++++++++++++++++++++


本題に戻ります。


通常のセッションの時もそうなんだけど・・・
いやさ、
チャクラヒーリングの場合、第1から第7まで順を追って、
それぞれのチャクラに割り振られたテーマに絞っているから、
なおさら分かり易いのかも知れない。

本当に玉ねぎの皮を剥くように、
地層を掘り進めていくように、
少しずつ少しずつ、深いところ、
もっともっと核心に触れる暗部へと進んでいくなあ、と。

そうね。
ケースバイケースで一概には言えないのだけど、
最初にわんさかとショッカーの戦闘員のような、
雑魚がたくさん出てきて、それポイポイ片づけてくと、
そのうち悪い怪人たちがわらわら出てきて、
そいつらを何とか片づけてくと、
そのうちラスボス登場・・・みたいな?


だからまぁ、一度目のときより、
二度目、三度目のほうがその人を支配している
問題行動や想い癖の根っこの部分。
「芯」の部分には近づいていきますね。

最初に「ぎゃあー!」ってビビるような、
そういうものが出てくる場合もありますけど、
さらに掃除を進めていくと、まだこんなものが、
そして意外なものが・・・っていうのもあります。

似たようなもの、同じようなもの、
前に片づけたと思ったのに、
コピーのようなクローンがわんさかまだ残ってた・・・
みたいなのもありますし。

それぞれのチャクラに個別で収納されているというより、
関連ファイルが前後あるいは全部に散らばっているので、
一通り全チャクラを一巡してから、全部が片付いて、
それが片付いたから、
ようやく次(下の地層というか階層に埋もれていたもの)が
浮上して、手を付けられるようになるってのもあったり。

そういう意味では、一回一巡したからそれで終わりって、
そういうわけでもなく・・・

というか、人間自体がとてつもない
膨大な情報を蓄えたデータベースなのであり、
過去生から何回も輪廻転生を繰り返す中で、
積み重ねられ、創られてきたデータ(エレメンタル)の
圧倒的総量の膨大さたるや、とんでもない量です。

これを一つの図書館とした時、
7つの図書館が人間一人の内部にあるわけで、
するってーと、物理的なものに置き換えて考えたならば、
7つの国会図書館(博物館)の書物や展示物を整理整頓して、
データを登録して、ファイリングして区分する。

・・・ってことになるわけですが。

一生かかっても
終わる気がしません


まあ、現実問題として無理です。

今生だけで・・・
今生の人生の僅か一日のうちの数時間だけで、
ある程度メドをつけることが出来るほど、
カオスなジャングル状態のトコを整理整頓、
ゴミ掃除なんてできません。

一番目立つゴミを何とかして、
冷蔵庫の隙間をつくるがごとく、
あたりをつけるかのように、
とりあえず何とか今よりは良い状態に持っていく・・・

そこまでが限界かな、一度のセッションでは。

もち、アーカイブの状態次第ですけどね。
まれにとても綺麗に整理整頓されてる人もいるし、
ちょっと手を加えれば程度の人もいたりするし、
それにその人の霊的成長次第でもあるんで、
他人がサポートしなくても、
自発的にそれは段階的に進むものでもあるので。



でもね。

それでも、データがある人はまだいいわけですよ。
たくさんあると確かに整理整頓は大変ですけども。

それを整理整頓するほうは、
鬼が出てくるか蛇が出てくるか、

ヒー ハー!

なわけで、途方に暮れることもありますが。


気が付いたというか、困らせられるのは、
アーカイブの中にほとんど、肝心のデータがない人。

そう。
それがふと最近、気が付いたことだったりするのです。
ここで冒頭の話に繋がります。

チャクラヒーリングをして分かったことは、

大量のエレメンタルがカオスなジャングル状態を作り出し、
てんこもりに積み重なり、たくさんの地層を形成している人か、

それなりの人生を生きているにも関わらず、
データとしてのエレメンタルをほとんど作ってこなかった人か、

そのいずれか二極化されるということ。

ロクでもない、使えないゴミのようなデータばかり
大量に生産してきた人も困りものなんだけど、
ほとんどないっていうのはもっと困る。

DVDが1億枚あるけどジャンルが偏っていて
同じDVDが大量にある人と、
DVDがたった数枚しかなくて、
ひたすらそれをエンドレスに使い回ししている人では、
やっぱ後者のほうが問題なのねー。


そういう人はね、
不用意にデータを整理整頓して、
ゴミだからといって安易に捨ててはいけないのです。

だって、データがないという状態は問題なわけですよ。
読み込むものがないということになってしまうので。

読み込むデータがない=3つの身体を動かせない=過去もない

その人がその人たるアイデンティティが喪失しちゃうのよ。


例えば、人としての経験が極端に少ない人、
つまりは転生回数のほとんどない新しい魂。
そういう人は確かにほとんどデータありません。
少ない人生でも、色んなことを感じて考えて、
たくさんエレメンタル創っている人もいるけど。

困りものなのは、
転生回数もそれなりの古い時代から生きている人なのに、

ミニマリストかっ!


ってくらい、ガラーンとした、コレってモノがない人。

つまりは、そういう人って、
それなりにたくさんの人生を生きているのにも関わらず、
何も考えてこなかった、心を使ってこなかった人なのね。

考えたり感じたりしてこなかった、
自らの考えで意思決定して行動せず、
流されるまま生きてきたような人は、
サイキカル体もノエティカル体も成長せず、
当然ながらサイコノエティカル体も形成されてない。
(つまりは霊的成長もまったくしてない。
本能のまま、無意識のまま生きてるってだけ)

データファイルとしてのエレメンタルがあまりにも少ないので、
これを整理整頓してしまったら、
3つの身体を動かすデータが無くなっちゃう。

だからできん・・・

良くないものでも、ネガティブなものでも、
何もないよりはマシで、それがないとどうにもならないので、
これ以上はノータッチがベストで、
することなしって人も僅少ながらいましたねー。
(これ以上はチャクラヒーリングをしてはいけないって人が)

そういう人は、
「経験して下さい」「もっと積極的に生きて下さい」
「間違ったことでも正しいことでも、何でもいいので、
色々とトライして、行動してみることから初めて下さい」

てな具合に、

「まず、人としての自分を育てていきましょう」

としかアドバイスしようがないのです、本当に。

ネガティブなエレメンタルを置き換えることも
この場合は無効なんですね。
置き換え、書き換えは元データあってこそだし。

ただ、こう成りたいという自分のイメージを
植え付けることは出来ますけども。
潜在意識の刷り込みってやつ。
ネガティブな元データの横やりがない分、
上手く行きやすい・・・とは思います。
でも、エゴイズムの欲望を叶える方向での
データの植え付けはタブーだから、
行動の指針、正しい考え方や感じ方の方向性としての、
ポジティブエレメンタルをアファメーション的に
インプットするのだったら、OKですが。

とはいうものの、ただひとつネックが。
元データ(エレメンタル)があまりない人・・・
こういう人はサイキカル体が未発達だから、
ビジュアライゼーションが得てして苦手で、
エレメンタルをきれいに創れないの。
そこがねー アレです。
エレメンタルは他人に埋め込まれると洗脳になっちゃうし、
ヒーリング目的以外でするのは良くないので、
なるべく自分で意識的に創ってもらわないと、デス。

んでもって、
「気づき」というプロセスの時期が来てないから、
アーカイブに不具合を生じさせている
邪魔なゴミというか不要なエレメンタルを
いじったりできない人とか、
エレメンタルがほとんどないじゃん・・・ていう人に対しては、
チャクラヒーリングは、チャクラ全体のバランスを整えて、
活性化を図るだけのヘルスケアになるのは否めませんね。
(リーディングした情報もそのレベルの人には
あまり伝えてはいけないというか教えていい段階ではなかったり。
当たり障りのないことしか話せませんの)

でもだからってやって無駄ってことはなく、
病気にならないためのボディケアが大切でもあるように、
良い状態を保つための予防ケアみたいに考えるといいのかな。

でも、何かチャクラから読み取れる情報を知りたい人や
ヒーリングワークを受けることで、
画期的に自分の人生が変化することや、
願望を実現させたいと望んでいる人にとっては、
とっても物足りなく、これといった大きな変化も体感もないから、
損したような気持ちになってしまうかも知れないな。

そこが説明含めて難しいとこ。

結局のところ、期待しすぎないでねって話なんですが。



うちでのチャクラヒーリングの場合、
Gレッスンの生徒さんだったり臼井レイキ取得者だったり、
何かしらのヒーリングやリーディングスキルを
持っていたりする人には、ナビゲートしつつ、
自分で感じてもらいーの、リーディングしてもらいながら、
セルフヒーリング的なワークで進めていたりする。
(それはもしかして手抜きなのか・・・??)

普通の人、そういうスキルありませんな人や
ビジュアライゼーション苦手ですのって人は、
もちろん一方的にこちらで勝手に読みつつ、
進めてしまいますけどね。


でやっぱりそうだなー

どうしても、データとしてのエレメンタルが少ない人は、
チャクラのバランスを整えて、活性化するってのを
するしかないでしょうか、それしかやりようがないというか、
何というかほんちゅうか・・・です。


そういう人は本当に、

「色んな経験してくれ!」

「心の筋肉使って、
たくさんの人と交わって、
喜んで悲しんで、
(喜びも悲しみも幾年月)
泣いて笑ってケンカして、

色んなことして、
失敗も後悔もたくさんして、

とにかく・・
何でもかんでもトライしてくれ!」



だってそうじゃないと、霊的に成長できへんもんなー

輪廻転生の輪から永遠に抜けられませんでー



でもって、あと一つ改めて思ったことは、

セッション時に出てくるものって、
その人のその時の気づきのレベル、
状態に合わせたものなんだと。

手放す時期が来てないと、結局手放すこと出来ないんだなと。

今回2巡目(正確には3度目)のその人の場合、
最初の解放(手放しと気づき)があって、
ようやく2巡目のその問題を問題として、
当人が捉えることが出来たから手放せるわけで、
そうでないと片づけられないようになっているわけです。
手放す「許可」が降りないというのかな。

たから、本人がそれを問題と思っていない以上は、
それがその人の人生を邪魔している
障害を作り出しているものであったとしても、
粗大ゴミとして処理してはいけず(引き取りに来てくれない)、
手放すことは出来ないようになっていたりするのです。

そして、チャクラヒーリングにしても、
他のセッションメニュー・・・セラピーにしても、
その人が覚悟して「受ける」と決めたその日から、
そのテーマを手放すための動きがちゃんとあって、
気づきへの流れというのかな・・・
すべてがそこに向かっていくような現実があるのですよ。

その流れの前では、私は本当に単なる駒でしかなく、
周到にその人のために用意され準備された、
「癒しの道程」すなわち「気づきのもたらし」と
「呪縛からの解放」という祝福のための、
あくまでツールとして、使われちゃっているのだと・・・
大きなプロジェクトの中の一要員として、
ものの見事に配置されちゃっているものだなあ、なーんて、

ひたすら感動するというか感心しているのでありました。

大きな流れの中では、私の役割なんぞそんなものです。
その役割は別に私でなくてもいいし、
でも私がそこにちょこっと加わることですべてが完成してもいる。

たぶん、私のとこじゃなくても、この方法でなくても、
今回ここにきて、チャクラヒーリングをその人が受けなくても、
別のもっと最適なタイミングで最良なものが与えられることになる。
ただ今回はたまたま、その人が私のとこの
チャクラヒーリングという方法を選んだので、
それに応じて引き起こされるように、働きかけがあった・・・

ちゃんとその日にそれが起きるよう、
それまでのやり取りや会話も一つの方向性に導かれてた。

んな感じ。
(抽象的な言い方でスマソ)

一人の人を気づかせるために、
その人を気づきへの道へと促すために、
本当にたくさんの人が関わって、
大きな力が働いているものだと、改めて痛感しました。

言葉はちょっと悪いけど、
一人の人間を更生させるのに、
たくさんの人間の力が必要で、
大勢の人が関わって、それが成されているのと同じこと。

私たちは本当に生かされているのですね。


やっぱり、人間を見て、その人の人生を見ていくこの仕事、
面白くてやめられないです。