2019/08/30

偽善的なエゴイズム~コントロール欲求②

少し間が空くと
前回何を書いたのか何を書こうと思っていたのか
すっぽ抜けて忘れてしまいますっっ汗



前回から続けて
重ねての物言いになりますが

その人にとっての悩みの種
障害や人生を阻害する問題
アクシデントやトラブル
生きにくさや自己否定感など
抱えた人に対して

エネルギー的なワークなどの
第三者的な要因が介入することで
意味づけや理由付けがされたり
障壁としてのそれらにアプローチして
それらを取り除くことに対して結果を得るとき

そのようなものから解放されて
肩の重荷が取れて生きやすくなったり
スムーズにいくようになったことで

その人を一定の状態に縛り付け
自分自身の在り方や人生そのものに対して
不快洞察と熟考と反省を与えるがために
足枷または行動のブレーキとして存在していた
それらから解放された途端

それまで人生か上手くいかないことで
謙虚かつ腰低く
内省的であるような態度を示していた人が
急にエゴイズムを暴走させ
本性を思いっきりさらけ出すようになる

…ってのを
イヤというほど見てきました

でもすべての人ではないですよ
全員が全員といのではありません

一番怖いのは
自分のエゴイズム
当人がまったく気付いていない状態ですね

自分の中の邪の部分 悪の一面
エゴイズムがあるってことに気づけている人は
安心かつ安全なところにいる健康的な人です
自分をちゃんと知ってるから




さて
spiritualなワークとかスキルとか
そういうものに関わっていく上で
一番怖いのは偽善的なエゴイズムです

自分のエゴイズムに気付かず
spiritualな職業に就いている人は多いのですが
これは一番危険なパターンです

「他人を助ける仕事をしたい」
という理由でspiritualな仕事をする人が
陥りやすい罠があります

はいくつかあって

「人を助けたい」のではなくて

「人を助けられる自分になりたい」
もしくは
「人を助けられる人だと周囲に思われたい」
というエゴイズムから
spiritualなワークをする人は多いのです

目的が
「自己顕示欲」であり「自己満足」
なんですね
まぁ早い話が承認欲求
そちらの方が分かりやすいかも知れません
ようするに評価が欲しいんです
認められたくて仕方がない

世の中に必要とされたくて
価値ある人と認められたくて
スゴイ人と思われたい
褒められたい

「自己顕示欲」と「自己満足」から
私はこの仕事をしているって
自覚がある人なら良いのですが
(よくもないけど気付いているだけマシ)


これって
「アナタのためだから」
ってよくやっちゃう人
そういう常套手段と同じところからほぼきてます

相手を救いたいといいつつ自分を救いたいという
自己投影とか代償行為からの人もいるし
(代理ミュンヒハウゼン症候群的な?)
ヒーローまたはヒロイン願望みたいな

周りからの賞賛(評価)を得たくて
その職業を選んでいるパターン

こういう人は
spiritualなワークをすることや
それらの職業に就いてはいけない人ですね
早いうちに軌道修正が図れればいいのですが

ここに自分には人を救う力があるって
そういう勘違いが加わってしまうと
手に負えなくなってしまいます

でもそうなる前に
現実を前にしたりどこかのタイミングで
「こんなはずじゃなかった」
「思ってたのと違う」と挫折して
フェードアウトしたり
想い通りにならないことで
spiritualなテクニックそのものに興味を失くして
また別の好奇心をそそる
「何か輝けるものor自己投影できる対象」
などを探しに行くことになると思います
(ようするにこういう人は続かないってこと)



私は霊的真理を教える先生もしていますが
同時にレイキヒーリングの先生で
そっちの方が経歴として長いわけです

レイキというハンドヒーリングの手法を学ぶとき
他人に対して
「何かサポートできる技術を得た」ことから
(何か出来る力やスキルを手に入れた)

相手のために「よかれと思って」を口にして
一方的に何かをしがちな人は
その相手方からしたら
「ありがた迷惑」であるエゴイズム
かなりの確率で加速させることになります

この場合の「よかれと思って」な行為は
ぶっちゃけコントロール欲求
(形を変えた支配欲)なんですね

他人や状況を思い通りに操ろうとするエゴイズム

親が自分の子供に対して
それをしてしまうケースは実に多いです
指摘しても「悪いこと」だとは気づかないし
心の底から親心だと信じている人は
困ったことに多いですね

家族として本人を見守ること
当人の夢や願望の実現を応援したり
ヘルスケアのサポートをするのと
「自分を満足させ不安や心配を無くすために
 子供の状況を思い通りに操る」
ことはまったく別ものなのですが
この違いについて
皆さんなかなか理解できないようです

こういう方は
他人の問題を解決する前に
自分の問題を解決するのが先なのです


自分が「いいこと」をしているって
思いたい人は本当に多いです
感謝されたい 評価されたい 認められたい
大人になっても子供のままで
そういう自分の成熟していない
満たされていない感情について
気付いていない人はたくさんいますね

うちにレイキを習いに来る人は
だいたい個人セッションを受けて
自分の問題解決のために何度か通ってくれて
それで自立のためにレイキ習おうって
そういう人がほとんどですけど
もちろん個人セッションは受けずに
ダイレクトにレイキだけ
習いに来る方もいたりします


こういう方がいました

皆で食事に行ったとき
他の人に何が食べたいかほとんど聞かず
自分が食べたいものをこれとこれとこれと
勝手に頼んでしまうのです
(大人です。お子さんもいる人です)
率先して動いてくれるので
一見すると気働きが利く人に見えるのですが
実のところそうではないのです

周囲に配慮しているようで
まったく配慮していないんですね
気を利かせて他の人の代わりに
頼んでいるようで
「何食べたい?何が好き?嫌いなものは?」
などと他の人に対して聞いていない段階で
それは独断的判断なんですね

「気が利く私」と言われたいのか
自分の気持ちだけで動いているんです
親切に見せかけた自分の気持ちや意見の
「押し付け」になってしまっていることに
本人はまったく気づいていません


みんなのために、他の人のために頑張っている私
当人がそう思っているだけで
周囲はそう思ってはいないのです
「仕切りたがりの女王様(鍋奉行)」
「親切の押し売り」
になってしまっている

その事実をその人は見ようとはしません
目を背けて知ろうともしません
指摘しようものなら逆切れです

「他人のためにこれだけ考えてあげられる私」
そのエゴイズムに騙されているので

そして自分(性格)には何も問題がない
自分がすることに問題はない
(誰も自分を制止したり反対意見を述べないから
歓迎されていると…でも普通ほとんどの日本人は
上記のような場面において
はっきりと注意したり反論したりはしないものです)
と思っているので
自分の問題と向き合うよう機会や時間を
自ら持とうとすることはないでしょう

ヒーリングもspiritualなテクニックも
他人を操るためのものではない

といくら説明しても
耳から零れ落ちてしまうのですよ

なので
エゴイズムによるすり替えが起きてしまう
このような人には
霊的知識の初歩的な知識を教えたとしても
これ以上のことに関しては
都合の良いように解釈されたり
よしんば悪用されてしまう…と
途中でお断りすることになります




こういう方もいました

レイキを習得した後
カルナレイキを受講したいという人がいたのですが
(上からの)許可が下りなかったのですね
でもライタリアンレイキならよしとのことでしたので
そちらをオススメすることになりました

レイキヒーリングという
ハンドヒーリングが出来るようになって
当初はご主人やお母様そして友達に対する
サポートが出来るようになって喜んでいたのですが
ヒーリングの結果が出るようになると
が出てこられたようでした

最初は奉仕の精神に火が点いたのか
「世の中のために何かできることがしたい」
と口にされていたので

その当時
私は「お祈り隊」と称した
人類全体やあるいは特定の地域のヒーリングを
生徒さんや有志の人たちに声がけをして
やっていました

なのでそれにお誘いしてみました

ですが、彼女は

私がやりたいこととはちょっと違う
こんな不特定多数の人への曖昧なヒーリングではなくて
北朝鮮の首席を改心させるような働きかけをしたい
世の中を変えるためのもっと直接的なこと
そういうのやりませんか?

ようするに単純な「祈り」とか
災害にあった土地や人々への癒し的なことでは
世の中をよく出来ないしあまり意味がない?みたいな
そんな風に仰る


すると私にまた何かが下りてきました(笑)

唐突にその方が好きなアイドルと
所属事務所が昔行った社会悪的な行為
そういう話を私にさせたのですね

まぁ誰だって自分が好きな芸能人のこと
よくない言われ方されたら当然気分害しますよね

私もなんで今さらな
そんな昔のことを急に自分追及しているんだ?
でした(使われちゃったから仕方ないけど)

その後その人は「お祈り隊」に加わらず
ヒーリングにも興味がなくなったようで
御縁は絶えることになりました

そしてなぜ私がその人に対して
そんな話をさせらることになったのかと言うと

北朝鮮の首席がしていることと
あなたが大好きだったアイドルが
ある人に対して行った不実と
その人の人生を狂わせるような行為の
何がどう違うんだ?ってことですね

たかがアイドルと
一国の首席を一緒にしてもなーではあるものの

していることの重みって
実は対して変わらなかったりします

そしてその方に対しては
自分が好きな人がした「罪」は許せるのに
人としての道を外れた行為は許容して
それはOKといいながらこれはNGと
どうして自己判断してジャッジするの?
自分がジャッジしてNGな行為を
この世にあってはならない事象であると決めつけ
自分が考える善に変えようとするの?

話したこともない相手のことを
邪悪のリーダーであると決めつけて
自分が考えるところの善を行動する人に
どうして変えようとするの?
自分にその権利があるとどうして思うの? 
どうして自分が善悪を決めることが出来ると思うの?

世間一般から明らかに叩かれている
あなたのアイドルのことをあなたはかばうのに
彼の罪や傲慢な考えを
あなたは更生させようともしないのに
その被害にあった人を癒そうともしないのに

こっちは悪でなくてこっちは悪だと?


そういう指摘
問いかけですね

それをやらされたんですね

北朝鮮のことを言う前に
少し前に騒がれた芸能界や芸能事務所の闇や忖度
そうした力関係によってつぶされた人たち
運命を狂わされた人たち
あなたの大好きなアイドルの被害者

そっちを考えることのほうが先では?

辛い想いをしている人がいるのは
どっちも同じだよ
世界情勢のほうが優先順位が高いってのでもない

もちろん世の中で起こることの全てのことにたいして
何か出来るというほどの力なんてない


結局のところ

「何か出来る自分」になりたいだけなんですよね

何かにたいして影響力を与えられる自分になりたいだけ

その対象となるのは大きければ大きいほうがいい
その方が何か成し遂げた「達成感」があるから
アプローチする対象が大きければ大きいほど
(世の中の重要度、注目度が高いということ)
自分がそれだけ大きくて偉大なことが出来た

という自己満足が得られ
偽善的な欺瞞が満たされるという錯覚
をするのです

これは実のところカタチを変えた
征服欲なんですよね

子供向け特撮に出てくる悪役がよく言う
「世界征服」的な支配欲と表裏一体なのです

世界の人々(世の中や社会)にとって
一見すると善い事で行いだと思えることなのですが
これもある意味で形を変えた
「野心」「野望」なんですね


そういうエゴイズムを持つ人も多いです



そしてまたまだ続きます
(明日書けるかな書けるといいなっっ)

2019/08/26

霊的成長を阻むエゴイズム①


中学高校とアマチュアで
クラスメイトの相談に乗ることを初めて
24歳の時に占い師として店に出るようになって
その後サボリ?というか休業というか
他の仕事に逃避しながらもダラダラ続けて
40歳になってからヒーリングとか
過去生リーディングやらヒプノやるようになって
今のセッションスタイルになって
生徒さんに教えるようになって

派遣の仕事をしながらの片手間で
そんなに忙しくしていたわけではないけど
なんだかんだ40年くらいは
カタチを変えつつも
他人の人生を視る仕事をしているのですが

40年以上やっているわけですから
それなりに膨大な事例数を扱ってきたというか
たくさんの人を視てきたってことになりますかね


そうした活動の過程の中で
大勢のクライアントさんと出会い
様々なケース、多種多様な問題を
見させて頂いてきたわけですが

そのような中で改めて実感させられることは

結局
その人の身に起こっていることは
それが痛みや苦しみを伴う問題にしても
人生上の障害やトラブルにしても
どれもこれも
その人にとって必要不可欠だからこそ
起こっているのだということ


主にそれはその人自身が
成長するためだったりするのですが

これら一見すると障害と思えることを
本人を楽にするために
第三者が関与して取り除こうとすることは
実のところ
その人のためにはならないのだということ

当人が気付くべきことから視点を遠ざけさせ
成長をするためのチャンスを阻むばかりで
せっかくの機会を奪っているんだなって

改めて気付かされるのです

その人の人生に起こる障害とかトラブルとか
壁のように立ちはだかる大きな問題は
ある意味でその人の行動を抑制させ
その場所に留めるための重石のようなもの
であるな...とホント痛感させられます

それがコンプレックスにしても痛みにしても
それらはその人がきちんと真正面から
向き合わないといけないことであり
熟考して気付きを得ないといけないんですね
考えて悩んでとことん向き合って
乗り越えようと努力して克服して
絶望の中から這い上がろうと
そうやって自分を磨いて人間力を蓄えて
力も知恵も身に着けないといけない

そのために起きていることがほとんどだから

これは魂が自分自身に架したことであり
レッスンでもあるが当人の望みであり
意思として決めたことなんですよね


ちなみに聖書では占いや予言は悪とされています
なんで悪なのかって?
それは未来は自分で創るものだから
未来とは知るものではなく
当人が望んで創造していかないといけないから
与えられるものを待ち望むのではなく
自らが望んだ未来を自分に与えるべきだから

「決めつけ」てしまうと制限が入るし
起こることに対して「待ち」の姿勢になり
自分で努力することをやめてしまうから

ちなみに過去生だって
当人が霊的成長に伴って
自然と思い出せる段階に至るまでは
そのような情報を与えることは罪とされています
実際そうです
過去生の情報を与えることは
よろしくないというか弊害の方が多いです

癒しという名の解放を与える場合もあるけど
情報を与えていいのは
ある段階に至っている人に限りますね
当人が知りたがっているからといって
誰にでも開示していい情報ではない

知ったことによって
そこから「教訓と学び」を得られるのでなければ…
知ることと合わせて今の人格に
霊的成長の機会を与えることがないのであれば
知ったことは当人にとって実害でしかないのです



なんで改めてそう思うに至ったかというと

例えばエネルギー的関与によって
あるいは過去生や未来の情報を与えることによって
その人が問題と思っていることや
苦悩の原因となっている現在の問題から
離れることが出来たとします(一時的解決)

するとその途端に…
自分を抑圧していたものから解放された直後に
ほとんどの人が謙虚さを失くして
エゴイズムを暴走させるんです

まるで重石が外れたとばかりに
性格的な問題を全開にし始める

自己内省はおろか人の話も聞かなくなりますしね

その時に

「ああそうか
 この人を苦しめるこれらの出来事や
 こんなあんな出来事は
 すべてこの性格を矯正するために
 自分に内在する問題と向き合わせるために
 (反省を促し、心を成長させるために)
 必要な経験として起こっていたんだな」

なんてことはザラです


そうですね

人って自分の人生がうまくいかないときは
あれこれ考えるものです

というか
そのような追い詰められた状況でないと
他人のアドバイスに耳を傾けようなんて人は
あんましいないですね

上手くいっているときに
自分に問題があるのでは?なんて
我が身を振り返って考える人は少ないわけで

だからまあ
自分の内面に自分自身の問題に気付かせようと
その人の内面的な問題が外面的な世界に投影され
その人を苦しめる「痛み」として「出来事」として
そして「痛み」を与える存在として
「人」の姿をした反面教師が写し鏡で表れる

悩んだり苦しんだり挫折したり自信を無くしたり
そういう状況下に自分が置かれないと
人間てなかなか自分を見つめなおせないし
謙虚な姿勢も取ることはできない

その中から自分が学ぶべきことを学んで
気付きを得て 感情も成熟させて
人としてしっかりと成長できたら御の字で
そのための一大プロジェクトなんですが

魂の計画を無視して
三次元で起こっていることだけを問題視して
楽にしてあげようという仏心から
安易に「解決」を図ったり
「取り除く」方向へと働きかけたり
当人の願望(実のところはエゴイズムの欲望)を
具現化して引き寄せることだけに焦点を絞っても

結局のところ
霊的成長をするための機会から遠さげ
本来の道から寄り道させて
(学校でいうなら留年させること)
魂の道から外れさせるだけになっちゃう

カルマのレッスンから落第させて
新たな宿題や課題を増やしてしまうだけという

そんな感じです



そういう意味で
私たちのような仕事っていうのは難しい
ある意味では罪深い
そのことをきちんと理解していないと
堕落の道へと誘いこむ反逆者になってまう

でもね
ほとんどの人が
自分の人生が何故こうなのか?
自分の人生の諸問題はどのような理由で起こっているのか?
それらが自分に何を伝えようとしているのか
自分が何に気付くべきなのかってことに関しては
興味ないんですよね
自分の人生に起こっていることの
意味を知りたがる人は本当に少ないです

それよりも欲しいものを手に入れたい
思い通りの人生を生きたい願望を叶えたい
お金が欲しい恋人が欲しい
そんな風に
欲望を叶えることにみんな夢中です

願望を持つのは無意味じゃなく
必要な欲望ではあるけれど
望んでも叶わない理由が何なのか
どうして「おあずけ」をくらっているのか
その「制限」がどこからきているのか
それが自分にとって何を意味しているのか

結構大事なメッセージが含まれているのに
そこに取り組みたがる人はあまりいません

そういう説明をしても
霊的知識を教えても

手っ取り早く願望が叶う魔法の杖を
皆さん欲しがって
探す努力にエネルギーを注ぎます

まあ
自分の中にある問題と向き合うのは
確かに怖いことなんだと思います

色んなことを認めることでもありますしね


そしてこの話ちょっとだけ続きます

2019/08/25

人間関係にもトライアル期間は必要

 "この一か月のうちに
 あなたが逢って時間や空間を共有した人
 もしくはコミュニケーション(会話)を取った人
 最低でも7人
 思い出してリストアップしてごらんなさい

 その7人は未来のあなたを表しています"


過去記事でも
似たような内容について
書いたことがあると思ったけれど...

どんな人と付き合うのか
自分が関わる人を選ぶのって大事なこと


「その人が
 日ごろ付き合っている人(友人仲間)を見れば
 その人がどんな人であるのかよくわかる」

と言われるくらいに
とくに友人というのは自分の評判や信用を
よい意味でも悪い意味でも表すものなので

自分がよく会う人というのは
「なりたい自分」でなければならないのです

ようするに
相手のような人間になりたいと憧れを抱ける人で
見習いたいところや吸収したいところがたくさんある人で
影響を受けたいって思える人でないと
関わることに意味はないって感じですかねー

その人が世間一般から受けている「評価」は
そのまま自分の「評価」になりますから

実際、関わるということは
相手の世界が自分の世界と交わる
(相手の人生を自分の人生とする)ということなので

他人を自分の人生に招き入れる行為ですから
そこには自分にたいしてはもちろん
他人に対する責任も伴うものなのです





さてさて
私という人間は滅多に人のことを信用しないし
相手がどんな人かよくよくわかるまでは
友達認定を絶対にしません

少なくとも1年以上
いやさ2.3年は必要でしょうか
その人の言動や行動パターンをきちんと見て
その過程の中で信頼できる人なのか否か
総合的に見て判断しているって感じです

それまでは知人なんですよね
知り合って間もない人というポジションで
表面的にフレンドリィな付き合いはしても
自分の中で相手に対する「最終評価」が出るまでは
その人のことを
友人のカテゴリには決してカウントしないのです

職業柄、人見知りはしませんし
わりと愛想もよく人当たりもいいほうで
それなりに合わせることも出来るし
まあまあフレンドリィなほうだと思いますが
決して社交的ではなかったりします

電話も嫌いですし
しょっちゅう誰かと連絡取り合って
つるんだりするようなのは性に合いません
年齢も年齢ですから
友人とは適切な距離を持って関わっています
(若いころは違いました)

知り合うことや関わることはさほど難しくないけれど
その先に進めるかどうか
もっと深い付き合いができるか否かっていうのは
友人関係も恋愛と同じなので
相思相愛になれるかどうかだと思うのです
相手が同性であっても異性であっても

これはあくまで私の場合ですけどね

その人と関わっている過程の中で
相手がこちらに見せてくる態度とか
人としての在り方なんかを見させて頂いて
心を開ける相手かどうか
人として信用して信頼に足る人か否か
与えたいと思う人なのか
友人になりたいと思える人かどうか
それがすべてですね

例えば時間や約束を守る人なのかとか
私以外の他人に対する接し方はどうかとか
(お店の人に対してなど)
人の悪口を言う人なのか言わない人なのか
他人を尊重する人なのかしない人なのか
親しき仲にも礼儀ありを実践している人か
常識や公序良俗に対してどうか
尊敬できるところがあるのかないのか
欠点を補ってあまりある魅力のある人か否か

完璧な偉人や聖女や聖人君子は求めていません
人間誰しも欠点や問題のひとつやふたつ
いろいろとあるものです
完璧な人はいませんし
欠点やダメダメなところをあげたら
私なんて他人のこと言えたものではありません

お互い様ってところは誰だってあるものです

でも
これだけはダメだってラインはありますよね
そこを下回ってしまうともうダメ

私の場合
他人のことを大切にできない人はダメだなあ
約束を守れない時間を守らない人ももちろん
他人をバカにしたり差別する人もダメです
お金にだらしない人もダメだけど

多少はイジワルだったり
ブラックなところがある人のほうが
面白いって思うけど
意地悪過ぎる人とか
性格の悪過ぎる人はダメですわ
(底意地悪くて性根が腐ってる人は
たぶん誰しもダメっすね)


そして自分からして
尊敬できるところのない人とは
友人にはなれないですね

それは肩書とか職業とか立場とか功績とか
決してそんなんじゃないんです

いつも他人に対して気配りがすごいなあとか
この人は絶対に人の悪口を言わないなあとか
頑張っているところとか
仕事ですごいなあって認められるところとか

そういう自分にとって
価値があると認められるところのある人
評価できるところがある人じゃないと
友人にはなりたくないというか
対等な人間関係を築くのは難しいです

大好きって言える人でないと
自分の人生の貴重な時間を共有したくないし
互いのことを尊敬しあえて
一人の人として畏敬の念をもって
関われる相手同士でないことには
信頼も信用も生まれようがないです

初対面で直観的に「!」って思うことはよくあるけど
やはりそうした先入観で決めつけはしたくないと考え
実際に関わってみてから善いところを見つけようと
そう思ったりはするわけですけど
でも大体において
初対面にすべてが集約されてたりするなあ…
と思ったりする今日この頃


そうですね
そんなんで私は友人とても少ないですww
友人認定するまでにも時間が掛かります
友人を選ぶ基準はとても厳しいですよ

まずは観察 とにかくその人を見ます
その人の一言一句 
あの時どうしたか何を言ったか
どうふるまったか
私に対してどんなふるまいをしたか
他人や見知らぬ第三者に対してどんな反応をしたか

過去どんな人であったかではなく
今、その人がどうであるか
自分をどのように表現している人なのか

友人になりたい人であるか否か
友人としての付き合いを持ちたい人なのかどうか

じっくり観察して吟味して
こりゃダメだと思ったら
見切りつけたところでCO、FOもしくは
そのまま知人ポジですね







お客さんはあくまでお客さんです
人生(あるいは内面)に問題を抱えた対象者ですから
サポートする目線で関わらせて頂いています

なのでその人がどのような性格なのかなど
友人としてのチェック目線で見ることはしません
だって友人ではありませんもの

その方に性格的な問題(歪み)があったとしても
あくまでその人の人生に問題を起こしている
エゴイズムでありネガティブエレメンタルなので
それを料金を頂いて指摘して矯正するのも
仕事のうちですので
サポートの依頼がある限りはその範疇にて
アドバイス及び指導します

指摘して矯正する必要のある一面として捉えており
それを気付かさせて手放させることが私の仕事ですから
個人的感情はそこには介在しません

ですが
そこを勘違いして越境してくる
礼儀や節度のない人に対しては
シャットアウトさせて頂いています
(たまに特別扱いを要求してくる人とか
顧客として接している態度を勘違いして
馴れ馴れしくタメ口きいてくる人とか
いますので)


お客様は神様(札束?)です
とはしていません

横柄なお客さんに関しては
「私よりももっと腕のよい
 素晴らしい施療者はたくさんいますから
 どうぞそちらをお尋ねください」と
お断りしているのでありました

2019/08/17

占い師としてのお仕事

今月からですが
占い師の仕事を復活させています

場所は吉祥寺
コピス吉祥寺4Fのマリーシエル占い館

今月にできたばかりの新しい占い館です
ネイルサロンのように
開放的で明るい感じの場所です

今のところ週一回程度の出勤で
今月に関しては火曜日16時から21時
(最終受付20時半)

※来月はまた変わります
 詳細は占い館の出演スケジュールを確認下さい

アルマ(Alma)の名前の方で出演しています




料金は
9分1000円
20分3000円 
30分5000円
45分7500円 
60分10000円
税別です


こちらでは純粋に占い(タロットと占星学)のみです
自宅salonで提供しているサービスとは異なりますし
salonでお受けしているような相談内容は
(霊的な事象や過去生に関する情報、相談など)
一切お受けしていません

エネルギーのリーディングやヒーリングも
もちろんしません

そちらに関しては往来通りsalonの方にお越し下さい
salonにくるまでもない
一般的な占いによる相談・アドバイスが欲しいという方は
善かったら吉祥寺の占い館までどうぞ

こちらのblogを見てとか
お声がけ下さいますと嬉しいです



現時点で2回ほど出演しましたが
占いのお店に出るのは久しぶりで緊張しまくり
でも、やはり占いも楽しいですね

根っからというか本質的に
人の相談に乗るのが好きなんだなあと実感しました

自宅でじっくり腰を据えて
お話を聞いて施療をして
一人のお客様と深く関わっていく
ディープなセッションも好きですけど

ライトにさくっと占いを通してのアドバイスも
自分は役に立てているのだと
これもまたやりがいを感じます

さてどうなりますかね・・・

ああ、あとこれもまた詳細が決まったら告知しますが
10月4日に知人主催のイベントに出演します
これまた占い師として占い提供です
価格は私の好きなよう決めていいって話ですので
10分1000円とかで考えています

場所は京王井の頭線富士見ヶ丘駅
Barなので時間帯は昼間でなくてたぶん夜のみ

お近くの方はよかったらどうぞ


2019/08/15

反戦と平和への思い




太平洋戦争が集結して74年目

戦後生まれの戦争を知らない子供たち世代ですが
両親は戦前生まれで空襲を経験していますし
大叔父は広島で被爆しているし
祖父はシベリア抑留者なので
そのような体験を身内からもメディアからも
散々聞かされて育っていますので
先の戦争に対する思いはそれなりにあります

「戦争はよくない」
「日本は無謀なことをした」

戦後のアメリカ先導による
自虐的な刷り込み教育も受けました

でもね
「戦争」はよくないものともちろん思ってはいるし
平和が尊いものであると
戦争はどんな理由であってもよくないものとも
そのようにも実感してはいますが

先の大東亜戦争で日本が100%悪かったとは
思っていない一人でもあったりします

先のこの戦争では戦争という場において
たくさんの蛮行や悪行三昧をした人も多いし
私利私欲から自らの立場を利用した人もいるのは事実

ですが
日本がもともと軍備強化して
アジアの各所に進攻と言う名の派兵をしたのは
西洋諸国の植民地になることを懸念してのことで
そうした魔の手からアジア諸国を解放して
自分たちのアイデンティティを守り
統治権を取り戻そうとした五族共存の精神が
背景にありましたし
日本国の自国と自国民を守ろうという
そうした懸念や考えは戦国時代から
安土桃山と江戸時代にまで遡ることができるんです

キリスト教の迫害とイエスズ会の宣教師追放
その流れでの鎖国
これはみんな深い意味がありました
この時も西洋諸国は
キリスト教の布教とともに(体裁ですね)
アフリカやアジアの植民地化を図っていましたし
(公平な外交でも貿易でもなく)
さらにはたくさんの奴隷貿易も行われていたのです
日本の女性たちも鉄砲を使用するにおいて
欠かせない火薬を手に入れるために
奴隷として火薬1樽に対し何千人単位で
国外に売られていたのですから
(鉄砲本体は日本の技術力でコピー成功となりましたが
火薬だけは輸入するしかなかったので)

こうしたキリスト教国
(カソリックたるイエスズ会)の蛮行から
自国と国民を守ろうとしてのバテレン追放令です
このような事実の前では鎖国もやむなし
(とはいうものの沖縄に対しては
ポルトガルやスペイン、イギリスと
同じような酷いことしたわけですけど)

でも鎖国は黒船来航によって終わった

しかし気がつけばアヘン戦争とかあれやこれや
中国という大国もアジア周辺諸国も
西洋諸国の統治下に入ってしまったわけです

次は日本だ 我々だ
これはヤバイ

と多くの人が思ったわけです

そしてアジア全体で協力して
西洋諸国を追い出そう!
自分たちの国と統治権を取り戻そう!
五族共存だ共闘して立ち上がろう
みたいな・・・

そんな考え、大義名分を振りかざして
大東亜戦争が始まってしまったわけです

歴史というのは勝者の記録なので
日本が負けてしまった以上
敗戦国の日本は「悪」になります

日本はドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたので
同じ敗戦国のドイツとよく比較されますけれど

確かに同盟は結んで友好国ではあったけれど
(利用しあっていたというか利害に一致があったので)
そもそも戦争をしかけた理由がまったく違います

日本はアジア全体を侵略して
統一支配しようとしていたわけではなく
それぞれのアジアの国々の人たちに
蜂起して自国の権利を取り戻してもらおうとしていました

そのような大義名分や理念があったからこそ
日本軍人には規律があり他国への尊重がありました
その結果としてお隣の国以外の他のアジアの人々は
(台湾とかインドネシアとかとか)
そのことを深く理解してくれて親日の人々が多いです
(韓国でも戦争体験者の人たちは
そのことを自らの経験から理解してくれていますが
それを口にすると反日の人から叩かれてしまうという悲劇)

もちろんそうではない
爛れて腐敗した考えの軍人も多かったし
勘違いして傍若無人な恥ずかしい行為をした人々もいます
いつのまにか戦争をすることになったきっかけ
最初のポリシーたる大義名分
「アジアの国々で手を取り合って
 西洋諸国の魔の手から自国を解放しよう」
という大望から遠く離れて
他国を支配して自国の優越を誇るべく君臨しようと
侵略としての戦争として殺戮を楽しんでいた人も
軍部の中にはいたようですし


あの戦争は正しかったのか・・・

と言われると
正しかったとは言えないと思うし
けれども間違っていたとも言えないと思ったりします

あの戦争がなければ日本という国は
イギリスやオランダやスペインなど
どこか西洋諸国の植民地になっていたかもしれない

アジアという地域は他国の畑になり下がって
国という形を持つ場所はなくなっていたかもしれない


ではどうすればよかったのか・・・
あの時、日本はどのような道を選ぶべきだったのか

この答えはたぶん一生わからないと思います


でも
21世紀の今の時点で
全世界のすべての国において
他国の植民地になったことのない国が
わずか日本一国だけ
というのは紛れもない事実なのです
(戦後アメリカに統治はされましたし
分割して植民地化される話も出ていたようですが)






それでも戦争は正当化されていいものではなく
大義名分があり正義のための戦争であったとしても
その中で破壊があり非道も生まれ
生命に対する罪が行われるのは事実で

崇高な目的を持って気高い行為をする人ばかりではなく
これ幸いとばかりに己が本能を剥き出しにして
人が人に対して行うもっとも最低なことを好む輩に
格好のステージを与えてしまうことにもなる

自分のために一人殺せば殺人だが
国家のために何千人と殺めれば英雄となるのが戦争

あってはならない悲劇だが
戦争によってしか守れないものもある矛盾
戦争によって行われ、守られる正義など
もはや正義ではないとも言えるのだが


話し合いによって国同士の問題が
解決される見込みのない現代では
戦争のない未来、永続的な和平など
まだまだ楽観的な夢であると言えるので

それほどまでに私たちはまだまだ成長せず
霊的進化のレベルで言えば
動物並みの本能で生きるレベルか
無意識に操られるレベルで止まっている
発展途上の未開人なのだ


本当に人類は何億年何千年と生き
その間にたくさんの文明を誕生させ
歴史を繰り返しながらも
争いを愚かな過ちと学習せず
いつまでも何度でも繰り返す

生まれては死に、死んでは生まれて
たくさんの人生を後悔しながら
怒りや悲しみ、別れの苦しみ
愛する人を失うことの痛みを経験しながら

争うこと殺しあう歴史をやめようとはしない

戦争と人殺しが長く行われなかった文明は
縄文時代(縄文文明)くらいで

早くこの負の歴史が終わることをただただ望むのみ



(ここまで書いてわかった人もいるかと思いますけど
日本が大東亜戦争に至った国のカルマは
鎖国政策に至った経緯の中にあります
このこと、時代の波に合わせて
自らのカルマのレッスンに取り組もうと
転生して取り組んだ人たちもいるわけです

ドイツが戦争に至った国や地域のカルマと
日本という国のカルマとはまた別なんですね
ここではいちいち説明しませんが)





関係ないですが
私は「サイボーグ009」という作品がすごく好きです
最初は白黒のアニメからファンになり原作漫画へと
実はファンクラブに入っていた時期もありましたっっ
なので石森プロに行ったこともあります

石森先生の特撮ものは
仮面ライダー(但しV3まで)やキカイダーや
ゴレンジャーとかの戦隊モノとか好きですし
手塚先生をはじめとして
トキワ荘出身の漫画家さんの
アニメを見て育った世代であります

多国籍なキャラが出てくる作品であるのにも関わらず
世界に誇るジャパニメーションの中で
いまいち人気が出ないのは
キャラクターのステレオタイプ的に描かれた
デフォルメが極端すぎて受け入れられないのかも

でも最近 
こんな感じにキャラが現代風になったものもあるようでして
(見てないけど)
原作ファンからすると違和感ありありですが
世界中の人にこの作品の主題テーマとか良さを
知ってもらうにはいいのかなーとも思ったり





手塚先生の作品は反戦的なテーマのはなくて
人類みな兄弟的なものとか「いのち」の大切さとか
人間そのものの葛藤とか欲望とか村社会の閉鎖性とか
「ひと」に焦点が当てられているものが多かったのですが

石森先生のはたぶん当人の過去生での
恐怖や戦慄体験が影響していたのだろうと思うけど
「戦争」「改造人間(人体実験)」「悪の組織」
「人種問題」「家族を殺される」
なんかが色濃くテーマに出ていましたかね

私が「サイボーグ009」を好きだったのは
戦争と平和そして人種差別というテーマを
扱っていたからだと思います


キャラクターたちの中には
人種差別や偏見など戦争の被害者がいて

主人公のジョーはGHQの兵隊と日本人の混血児で
人種差別に悩む戦争の落とし子でしたし
(戦後の混血児の置かれた立場や問題に関しては
エリザベスサンダースホームの問題などを
ぜひ検索して調べてみて欲しいです)

髪型はモヒカン族なのにアパッチ族の名前なジェロニモは
アメリカの先住民であるのに
侵略者たる子孫の白人たちに差別される立場

ケニア出身のピュンマは奴隷商人に売られ
アルベルトは冷戦下で東西ドイツの壁を越えようとして
恋人を無くした過去を持っていたり

チームの頭脳たるイワンは
マッドサイエンティストで毒親な父親に
虐待とも言える人体実験をされ
母を殺された孤児になるのかな

ベトナム戦争や麻薬カルテルのこと
戦争の仕掛け人たる武器商人とか
当時の世相的テーマがてんこもりです

ただ昔の漫画だし読みにくいかもですね
途中から古代文明とか宇宙人とか出てくるし
少し路線が変わったりして

でも
この作品からはたくさんのことを教えてもらいました
いろんなことを考える機会を与えてもらいましたし
良い意味で影響を与えてくれた作品のひとつです


原作にはない話だけど
一番最初の白黒アニメの「太平洋の亡霊」って話は
ものすごく考えさせられたなあ
もろ昭和っていう作品ですけど
あの時代の作品はドラマなんかでもみんな
あんな感じでした

良い意味でも悪い意味でも
反戦に偏っていたというか
戦争はよくない
日本は悪いことをした国だ
・・・みたいな


戦争はよくない
戦争は正義ではない

けれども

当時、日本という国がした選択は
本当に悪いことだったのか?
日本は本当に悪い国であるのか?

終戦記念日に
一人でも多くの人に考えてもらいたいことでもあります

2019/08/12

動物は子別れ人間は物別れ

子供たちに惜しみない愛情を注いでいた親狐が
まるで縄張りを荒らす敵に攻撃するかのように
手塩にかけた子供たちを巣から
容赦なく追い出すのを見たのは
確か「キタキツネ物語」だったように思う
(映画館で見た。サントラも買った)

ノンフィクションということで
その物語は野生の動物たちのおかれた現実
自然の厳しさと無情さというものを
強烈なインパクトとともに教えてくれた






その道の先輩で
著名な占星術師でオカルティストの某氏は
研究会のようなものを立ち上げては突然に終了させ
また別の場所で似たようなことを始めてはまた壊し
その都度メンバーは入れ代わり立ち代わりというか
残る人もいるし卒業していく人もいる

私自身はご当人とお会いしたことはないのだけれど
友人知人が関わっていたり参加者の中にいたので
聞いたことがあるという程度

そんなんでご当人の考えや詳細は知らないのだけど
なんか分かるような気がする…という話

理想としては
師匠と弟子 先生と生徒みたいな
教える立場と教えを乞う立場であるときに
一生そのよき関係が持続できればよいのだけど
それぞれが対等な立場での集まりとは異なり
カリスマ的な存在に対して
憧憬や崇拝的な気持を抱いているファン心理の人や
依存傾向の強い人が一定数混じっての集まりだと
なんていうか妙な雰囲気が生まれてしまったり
変な方向に流れてしまうことがあるから

なんていうのかしら 
時間が経てば経つほど水は淀んでしまうというか
腐敗したものが涌きやすいというところかも
(マンネリ化とは違うもののよう)

なので
どこかで時期を見てリセットせざるを得ないというか
「はい、ここで終わり!」
としたほうがいい場合もあったりする

そりゃ お商売として考えたとき
長く通い続けて頂いたほうがいいわけですが
生徒(教え子)を一人前にするという観点からは
ある程度の知識を習得してもらったならば
独り立ちして巣立っていって頂く…
というのが望ましいことなんですよね

「いつまでも頼っていないで、
 あとは自分で頑張んなさい
 それだけのことは教えました」

と自立を促すのも師たる先生の仕事

まるで子供を群れや巣から追い出す
野生の動物たちのように




切りたい縁などそうそうないけど
切らなくてはならない縁はそれなりにあります

とかくこのような仕事においては

いつまでもこちらに
寄りかからせておくわけにはいかないし
返る場所 頼る人がいる環境が
本人にとって毒になる場合もある

一定の時期が来て 
学ぶ姿勢に難ありだったり
依存的な関係になりそうだと感じたり
信頼関係が築けていなかったり
あらゆる面で望ましくない影響下にあると判断したなら

手を放して 突き放すべき時もある


まあそれ以前に
「期待外れだった」
「ちょっと違う」
「こんな人から教えを乞うのはゴメンた!
 (教わりたい人間じゃない)」
と学ぶ側がそうした判断で立ち去ることもあるでしょう

でもそれはそれで必然なんです

そういう人は
「教わりたい誰か」
のところに辿り着く旅が必要なんですから
色々と巡り巡る必要があるわけです

反発も反抗も結構
子供にも反抗期があります

そして疑問を持たなければ人は成長しません

与えられた情報を鵜呑みにする人は
それ以上は伸びないんです
自分で考えて感じて行動して
始めて知識というのは身に付くし
智慧になっていきます
人生の糧になってその人の実になるんです

何事も経験しないといけません

そして自分で経験するまでは
どんなことも信じてはいけません

誰々がそういっていたから
先生にそう教えられたから

人の言葉を借りて自分のものとしているうちは
そんな知識は何の役にも立ちません
学んだことにもなりません
それでは言葉を繰り返すオウムと一緒です

疑うことは大事です
猜疑心は捨ててはいけません

「私を信じるな
 私の言うことを信じるな
 私が教える知識は信じても
 私という人間をその知識とイコールと思うな
 私の人間性と教えている内容は別物で
 絶対に一緒のものと考えてはいけない
 だが
 私の事を信頼することができないのであれば
 あなたは何も学ぶことができないだろう」

教えの始めにお伝えしていることです

この矛盾の気付くことが出来る人でないと
知識を本当に理解したことにはならないのです


グループレッスンは集団での学びで
エソテリックな知識や
サイキカルなテクニックを学ぶところではありましたが
人との関わり合いを通じて協調性や社会性
人間関係を一番に学ぶところ
慈悲と慈愛の精神 助け合いと奉仕の精神
仲間意識を超えた共同体意識を育む場所

なぜならスピリチュアリティの基本は人間力で
スピリチュアルな能力を伸ばしたいなら
そしてそのような本当の叡智を身に着けたいなら
人としてのエゴイズムを捨てるための「お試し」
洗礼のような最初の振り分けを
通過儀礼として通り抜けないといけないから

それが白いロープを身にまとう資格


そこに至るまでに
自らのエゴイズムと直面させられて
自滅していく人は数あれど
謙虚に向き合える人は極僅か


その過程で起こってしまう決別は
「巣立ち」という自立であるのか
「絶縁」という物別れであるのか

さてどちらなんでしょう





そうですね
生徒さんにしてもクライアントさんにしても
精神的にも人間的にも健康になって
通院やケアサポートが
不必要な状態になるのか望ましいわけですから
いつまでも通っている状況は望ましくありません

問題が解決したり状況が改善されて
自分で自分のことを解決できるところまで
自分の力を取り戻したならば
あとは何かあったときにという程度で
「便りがないのは元気な証拠」という距離か
ベストだったりします

健康的な利用の仕方ができる人や
依存ではない学び方やメンテナンスであれば
ビジネスとしては拒む理由なく大歓迎ですけど
そうではなく不健康な距離を維持しようとする人には
自立を促すためにも
突き放すことはよくあります(私の場合は)

2019/08/06

神様のマーキングとその土地独特のエレメンタル


昨日は月に一度の女子会でして
(女子といっても40代と50代の集まり)

その時に出た話題をば

まあ、都内でダメな土地とかの話から
海外の恐怖体験とかな話になりまして
(夏らしく納涼話?)

「土地のモノ」の話になりましたので
ついでにこちらでネタにしよう

幽霊の話ではなく…


例えば、沖縄出身者の霊的なトラブルって
本土の人間(霊能者とか呪術者)は
基本として手を出せないんですよ

一言でいうと系統が違うのね

その逆で
ユタさんとかノロさんとかが
本土の人の霊的な問題を解決できないかというと
まったくできないというわけではなく
見極めるのが困難でわからないことの方が多いらしい
(あくまでらしいという話)

たぶん霊的ルーツが異なるといいますか
神様や自然に対する考えとか
死後の世界についての認識の違いなんだと思います
一口に言うと信念体系の相違
知識のバックボーンの違いですかね
死んだあとに形成されている霊的世界が違うので
このあたり言葉で説明するのがとても難しいです

沖縄とか島の人たちって
本土の人間たちが古くから信仰してきた
八百万の神々への信仰とは違うものを持っていますので
つまり神道の信念体系に属していないってこと

八百万の神々たちへの信仰が定着する前は
本土には山岳信仰やまつわろぬ神への
信仰なんかもあったわけですが
あまりにも古いし
そのあとの神道や仏教の歴史が長くなったので
今はもうまぼろしで上書きされてしまったのか
その形跡はたまに見つけられる程度です
(影響はもちろん生きていますけれど)

私は沖縄には行ったことないので
それがどんなものか実際に肌で触れて
体験して感じていないわけですけども

「沖縄出身です」
「沖縄に行ってきました」

みたいな人を深く見ていくとき
明らかに違う"何か"をそこに見ることがあります


それは海外に行って帰ってきた人もそうですね

いちいちそんなアンテナ立ててはいないけど
トラブル的なものやダメージ受けてます等の相談で
チェックしてみると

「なんやこれ?」っていう
独特の形態をした謎なモノを見つけることが時折

日本のモノではないもの

形骸が変わっているというか
見たことのない異形のもの

まあ結局エレメンタルなんですけど

現地のものをお持ち帰りしたって感じですかね

とくにバリっていうのは
他の東南アジアとは系統が違うなーってものが多いです
バリに行ったことのある敏感な人が言うには
(アテクシまだ行ったことありませんっっ)

なんかマーキングみたいなものを
みんなくっつけられるというのかな
とても小さなものでさほど害があるってものではないけど
遠い昔に現地の呪術者たちが
自分たちの祖国を守るために作って(セコム?)
異国からの来訪者に対してソレをした結果かなーと
そういうものがあるのです

日本にまで持ち帰っている人いるのですから
まるでお土産ですよねww

一緒に飛行機乗ってきたんかーいってw


お土産というと
現地のモノの中にはたまーに
危ないものが入っていることがあります
日本で骨とう品とか古道具買うときも同じですけど
ヤバイですってものたまにありますね

とくに人形とか人の形したものは入りやすいですから


そうそう
たまに海外の神様に魅入られてしまう人もいます
宗教や信仰に関する施設や場所って観光地でもあるので
ツアーなんかでも立ち寄ることも多いわけです
好かれる、というのならいいのですが
魅入られるってちょっと怖いことなんです

知らず「契約」成立になってしまうと大変です
こういうのはレアケースなんですが
「お願い」してしまったばかりに
守ってやるよとついてこられたケースもあったりする
神様とは便宜上で呼ぶものの
実際には神様ではなく
そのように作られたものです
(どれもこれも結局エレメンタル)
でも力強いですから 対処は難しい


そうならないためには
必ず日本の神様とのつながりを作っておくことなんですね
普段から氏神様や祖霊神とかご縁のある神様のいる
神社に定期的に詣でている人ならいいんですけど

適当にお正月やイベントや観光
願い事のある時しか行かないような人は弱いかな

出来れば氏神様には定期的に詣でるのがベストなんですけど
せめて海外旅行に行く前にご挨拶に伺って
旅行に行きますのでとこのときばかりは
旅の安全・守護をお頼みして
それで出かけるのがいいかもです

すると
「このものは我が国のもの
 我が氏子で我が守護するもの」
というマーキングがつくので
それが優先順位にもなる
(ちょっと意味不明な説明ですね)

なんていうか
すでに誰かのものですよって話

神様という存在にも縄張りがあるのです

信仰している神様仏様がいる人はそれでいいけど
宗教に入っていない人の場合は
とりあえず自分は
「どこどこの神様の管轄のものだから」
って刻印を押してもらっていると
(いやさ眼には見えませんが<刻印)

その系統以外のものに
魅入られる(目をつけられる)心配が減ります


まあなんていいましょうか
海外には未だ生き残っている邪教的な
古い信仰から作られた「何か」が
たくさんあったりするんで

やたらめったら手を合わせたり
お礼参りもできない場所で願いごとは
するものではないのでした


2019/08/01

学びは一生




長くこの仕事をしていると
マンネリや慣れだけでなく
慢心や驕りといったものも出てくるもので

なので時々
お客さんからの何気ない言葉に
ハッとして反省させられることも多いのです

例えば
レイキのアチューンメントとか
丸一日のレッスンとかの日には
受講生の方とランチをご一緒することになりますが
その時には世間話を多くするもので
あとはお店を決めたりするときに
土日の江戸川橋は
あまりランチをやっているお店がないもので
(神楽坂や早稲田に出ればてんこ盛りですが)
どの店にしようかというときに
眉間に皺が寄ってしまうのです

するとそれを見て恐縮されてしまった
相手方の反応と言葉に
「ああ、私ってそんな顔(表情)をしてしまっているんだ」
と、その方に対してとった態度ではないのに
(心の中で「クソッ!土日は店がないぜっっ!」との呟き有)
その方を恐縮させ不快にさせてしまう態度や表情を
ロコツにしてしまっている自分に気づかされたり

後は
あるお客さん同士知り合いの方に
「〇〇がこの間、真秀さんを
 イライラさせてしまったと言ってました」
と伝えられ
「(え゛え゛え゛)いやいや怒ってなんかなかったし
 イライラしたりもしてなかったですよ?」
なんですけれども

その方にはイライラして眉間ピキッとなり
激おこな私に見えてたってこと??

なので、それはそれで
そういうつもりはないのに
そのような怒りのオーラを感じさせてしまう
自分に対して海より深く反省するのみ


そうですねー
話し方って難しいです
言葉の響き 話し方
伝え方というのですかね
学ばないといけませんね

とはいうのも
先日にコールセンターでの派遣で
一緒だった友人と会ったのですけど
彼女はお客さんを丸め込む?のがうまい人で
ほとんどクレームにならず
お客さんのあしらいがとても上手い人だったんです
私は話が長くなるとお客さんを怒らすことが
けっこー多かったんでっっ
そのあたりの思い出話をしていたなら

「相手に理解してもらおうと一生懸命になると
 自然と早口になって一気にまくしたてちゃうからネ」

と友人が言った言葉にああそうだよなー
それは私の悪い癖だと改めて反省

対面での接客ではありませんが
電話だとそうなってしまうケースがあり

とはいうものの
自宅で1vs1で仕事をしていると
自分のやり方を見直す機会ってそうそうないもの

「私はこのやり方です!」って
開き直っていてはいけないわけです

そして実は先月
新しくオープンする占いのお店に応募して
面談に行ってきたのですね
実際の鑑定のテストを受けたのですが
(道具を使った占いをするのはブランクがあるので
めちゃあがっりまくっていたというのもありますが)
色々と指摘されたことがあったりしました

でもそれはそれで納得もいくところ
まっさらな状態で見て頂けるのはありがたいことです

何しろ過去にお勤めした占いのお店は
スカウトしていただいたり知人の紹介だったりで
面談とかテストとか受けたことなかったので

自分の欠点とか直すべき点とか
色々と知ることができました

そんなわけで
カウンセリングやセラピーの手法にしても
クライアントさんとの接し方も対応も
もちろん施療にしても占いの知識にしても
話し方とか伝え方とかリアクションとかetcetc...
学ばなければいけないことはたくさんあります

今までやれてきたっていう事実に
胡坐をかいてちゃいけないんですよね

自分の何気ない態度や表情
言葉のトーンとか選び方とか
相手にどう伝わるのかどういう印象を与えるのか
「見せ方」とかそういうのも含めて
今一度考えないとなあ…と

ゆっくりと簡潔に丁寧に
気持ちを押し付けることなく
わからせようとするのではなく
きちんと傾聴することから…ですよね

とにかく初心に一度返って
新人になったつもりで頑張ります


追伸
てなわけで来週から週に一回だけ占い師復活します
場所は吉祥寺です
詳細はどこかに書きます(そのうち)