2015/11/17

贖罪と受容~赦すこと赦されること(中)

時々、
個人セッション(過去生セラピーやチャクラヒーリング)において、
下記のような質問を受けることがある。

「ブログのケースファイルを読むと、
皆さん、ハードな体験を過去にされていたり、
罪を犯した人生があったりするようですけれど、
私にはそのような罪深い過去生はないのですか?」

もしくは、
「なんか、とても悲惨で辛い目にあった人生ばかりのようで、
被害者というか、幸薄い人生ばかりだったんでしょうか・・・?」


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現実社会では、たまに「オレ、昔はワルだったんだぜ」と、
過去の悪行自慢をして、素行不良の歴史を勲章のように、
いきがるための材料にする人がいるけれど、
そういう風に言う人ほど、
大したことはしていず、真の悪人には程遠い。
いずれにしても、自分のしたことをよく理解していたなら、
恥ずかしいを通り越して、
申し訳なさと犯したの重さで潰されそうになり、
まして自慢しようなどと思うに至らないだろう。

だからこそ、
自慢するような輩は、
単なる自分を大きく見せたがる腕白自慢の小物で・・・
でないならば、
それをするものはサイコパスや真正の悪人ということになる。

普通ほとんどの人が、
自分が罪人であるとは・・・悪人であるなどとは思いたがらないものだ。
できればいつの時代でも善人で、まっとうな生き方をしていたと、
望むべくは人に好かれ、慕われ、
社会的に認められるような仕事を持ち、生きていたと信じたがる。
過去生の自分は今の自分が誇れるような人であって欲しいと・・・

でも、人は様々な経験をするために「生を繰り返す」ので、
ひとつの魂としてこの世に何度も輪廻転生する過程において、
何人たりとも、ひとつの罪も犯さなかったものはいない。
私たちは善を知り、悪を超越するためにたくさんのお試しを受けるので。
悪を知り、罪を知り、愛を知り、善を実践し、愛を表現していくまでに、
人は何度でもカルマのレッスンに臨む。
常に善の側であり、善のみを実行していた人などもいないのだ。
他者の過ちを理解するために、自ら罪を犯して、
未熟な人を赦すことを覚える必要のある人もいるし、
誰かに痛みを与えるために、悪人の立場を受け入れる人もいるので。


さて、理性があり、人としての情、善悪の自覚がある人は、
人に自慢できないようなこと、他人や世間から咎められるようなこと、
すなわち罪・・・と呼ばれるようなことをした自分に罪悪感を持ち、
そのような過ちをした自分を、過去を忘れたいと願う。


ここで冒頭の答えになるが、

己が犯した過去の罪を突きつけられて、平気でいられる人は少ない。
それを知る必要のある人、知るべき時期が来ている人を除いて。

また、得てして人は自虐的かつ内省的に己が罪を振り返るより、
問題の種(原因)を外に求めるし、
周囲や他人のせいであると考える傾向にある。

だから、まず過去生で「傷」になっていること、
今の人生に影を落としている過去生の出来事は、
被害者的な立場であるときの出来事や
そのように捉えている思考の癖が、
原因となり、影響を及ぼしていることが多かったりする。
(事実よりもその人の感情や意識の受け止め方が全てなので)

その人の意識が目覚めて、精神が成熟して、
自分にも他人にも差別意識を持つことなく、
あらゆることを受け止めて理解できるようになるまでは・・・
己が犯した罪を知ったとき、
その罪の真の意味での功罪と贖罪を理解し、
なおかつ自虐的かつ嗜虐的に走ることをせず、
自分の人生の血と肉にすることが出来るようになるまで、
知らせる必要もないことだから。

幸福で満たされた人生は、癒すべく材料、必要がない。
思い出し、知ることで今の人生の選択に役に立ち、
未来への希望やヒントを得られるようであれば、
伝えるのに邪魔は入らない。
けれど、その人の単なる好奇心やエゴイズムを満たすためであれば、
知ること、伝えることは罪になるので、教えることもない。              

なので、
どうしても被害者として記憶されている出来事から受けたダメージ、
ネガティブな思い癖の解放と
そのダメージを癒すことが最初になってしまう。

けれど、ここで注意しなければならないのは、
その人が「被害者」として痛みを伴う人生を味わうことになったのは、
それなりの理由があるということだ。

それは、悪を・・・罪を犯したことに対しての、
反省を促すカルマのレッスンとして起きた出来事かも知れないし、
単純に被害者としての痛みを
知るためのレッスンだったのかも知れない。
その背景にある理由は様々で、人によって異なっている。
一つとして同じ理由ということはない。

ある意味で、過去生のトラウマに苦しめられることでさえ、
大切な気づきを促すための、レッスンという場合もある。
その場合は、そのトラウマに苦しめられる状況を、
安易に癒してはならなかったりする。
その人を苦しめ、重荷となっている「悩み」や「障害」の原因を、
ただ可哀想と考えて、何故その苦しみがあるのかを理解せず、
安直に取り除こうとしたときには、
その人がその苦しみの中から気づかなくてはいけないこと、
会得しなければいけなかった感情を
育てる機会を奪うことも時にあるので。

※この話については
そのうち別の記事の時にでも例を出して説明しようと思う。


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「なぜ、我々は過去世のことを覚えていないのですか」
と誰かが聞いた。

「その方が自分のためだからだ。
過去の習慣や欲望に再び執着することなしに進歩する
チャンスがあるという聖なる慈悲の一環だ。
もし、現世ではよい宣教師でいる人間がいるとする。
何回かの前世のように、
飲酒が問題になっていないところまで進化している。
しかし宇宙の記憶の中では、
彼のアル中だった部分はまだ生きている。
このような記憶が現世で目覚めてしまうと、
古い習慣に後戻りして、再びアル中になる可能性がある。
キリスト自身も、畑を耕す時、もう既に耕された溝を見るよりも、
次に耕す畝に意識を集中せよ、と言っている」

                              「メッセンジャー」キリアコス・C・マルキデス著より


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もしも、過去にマリー・アントワネットだった人が、
現世に生まれ変わっていたとして、
自分が彼女として生きた人生を思い出したとしたならば、
その人物は、
自分が歴史上に名を記す女王だったことに歓喜するだろうか?
そのことを誇らしく、周囲に吹聴し、自慢するだろうか・・・?

もしそうだとしたら、
彼女は過去の自分の人生(経験)から何も学んでいないことになるし、
恥というものを知らず、何が善で悪なのかが分からない、
考えなしの非常識な、分別のない人間であるのかも知れない。

とはいうものの、
マリー・アントワネットという有名人であったことを単純に喜べるならば、
その人は自分の過去の人生を思い出すべき時期には
来ていないということなのだが。

本当に彼女が思い出すべき時期に来ているのであれば・・・
精神的に成熟し、人としての成長を遂げていて、
過去に犯した罪や欠点を克服できるレベルに来ているのならぱ、
自分が過去、その人物として生きた人生を客観的に振り返ったとき、
己が罪におののき、恥じ入るに違いない。

自分の置かれた立場への自覚のなさや愚かな欲望によって、
ひとつの国の国庫を赤字にさせ、民を植えさせ、
たくさんの人々から怒りと憎しみを買うことになり、
王政を滅ぼさせて、
嫁ぎ先と家族をギロチンへと送ることになったのだから。

この思い事実を受け止めて、自分の犯した罪を認識した上で、
しっかりとその過ちから学ぶべきことを学び、
反省を自分の生き方に反映して、他者への奉仕や愛の実践を通して、
今の人生や未来へと生かしていくことのできる人でなければ、
己が罪深い人生を送った過去生を思い出すことには何の意味もない。


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基本的に、
「知るべき時期」が来ていない人が自ら過去生を思い出すことはない。
善と悪、己が罪を理解し、懺悔と悔恨の感情を持ち、
自分の過去を贖罪の意識からも
必要な経験であったという真理の認識からも、
双方の視点で受け止めることの出来るレベルに達していない限りには・・・

しかし、例外も時にある。
「時期」が来ていなくても、過去の自分の片鱗を見つけてしまう人もいる。

スピリチュアルなことに興味を持ち、
サイキカルな能力を磨くことに専念などした結果の賜物として。
あるいは、チャクラを刺激する過度の働きかけをしたり、
過去生を思い出すワークや瞑想にたくさん参加したり、
他者のそのような能力を触発するような人物との出会いなどによって。

「意識の目覚め」がまだない段階にある者が、
適切な知識や指導者のいない状態で過去生を思い出してしまう状況は、
「癒し」が行われ、「気づき」や「学び」をもたらすより先に、
その過去生で培った良くない性質(ネガティブな性格)をも、
目覚めさせてしまう危険性を大きく伴っている。

理性が感情をコントロール出来ず、愛が十分に育っていないことから、
過去の自分の邪悪な部分(エレメンタル)を超越することができないので。

過去の人生の欠点を克服出来ず、失敗から反省を引き出すことも出来ず、
再び利己的な自我から生まれた想念の虜となってしまい、
リプレイするかのように、
捨てたはずの過去を繰り返し生きることになってしまう。


残念ながら、そうした人を何人か知っている。


得てして、
そのような状態で取り出された記憶は、エゴイズムによって
肝心の部分を忘却され、都合よく脚色されていることが多々ある。
事実とは異なり、捻じ曲げて理解された過去生の情報は、
本人に何の実りも成長も、意識改革ももたらさない。



たまたまの偶然ではあるが、
(上)に書いた記事でも、過去生において、
ユダヤ人収容所で働いていたであろう女性のことを書いたのだが、
戦後この日本に転生してきた人物の中には、
過去あの時代に生きた人生を持つ人も少なくなく、
生徒さんの中にも、
あの国の歴史の渦、戦争に人生を狂わされた人はいるし、
クライアントさんとして出会った方の中にも、
今まで数人ばかり見かけたことがある。

中には、自ら思い出し、その記憶を語る人もいた。

しかし、その人は自らの過去生を振り返ったとき、
まったく反省のない人であった。


日本人で、戦後の教育を受け、
あの戦争に対しての歴史認識や道徳的意識を学んだ人ならば・・・
ナチスドイツが犯した戦争犯罪について、
ユダヤ人に対して行った、人類史上においてもっとも忌むべき行為、
人が人に対して決して犯してはならない、その非人道的な罪を、
良くないことだと・・・思うはずだ。


過去生を思い出したと・・・自分が思い出した記憶を、
その記憶を輪廻転生という事実からなる、
まぎれもない自分の過去の人生であると信じたとき、

その組織の一員であり、
なおかつ、その犯罪に手を染めていたことなど、
恥ずべきこと以外のなにものでもなく、

自分が酷い目に合わせた相手に対して、
その命を奪った相手と現世にて再び再会したとき、
申し訳ないと・・・
心がつぶれるくらいの悔恨と懺悔の念を抱き、
今生で相手から当時の恨みで殺されても仕方ないくらいに思ったり、
その人に対していかにして償いが出来るのか考えたり、
その人に対してでなくても、不特定多数の
過去の犠牲者の生まれ変わってきた人々や、
あるいは自分が過去に犯したような類似の罪の、
すべての犠牲者に対して、何かしたいと・・・
自分が何か出来ることは無いのかと・・・
過去の人生の過ちをどうすれば、ぬぐえるほどの事ができるのか、
そう考えるのが、人間らしい「こころ」を持った人であるだろうし。

「恥」の概念があり、人の「こころ」があるのならば、
自分がかような歴史的大罪に関与していたことなど、
思い出したくないと、認めたくないことだと思いこそすれ・・・
自虐的に過去の自分を恨んだり、責めたり、
非人道的な行為を行った自分や運命を憎みこそすれ、



しかし、それを懐かしい思い出を語るように笑いながら話すなど、
自分が人間の心をもたない邪悪な殺人ロボットか
血に飢えた狂人であると宣伝し、自慢しているようなものだと思う。


本当に当時の自分の過去生を思い出しているのなら・・・
自分が罪を犯していると、そう自分の過去生のことを解釈しているのなら、
どうして、その邪悪な犯罪におぞましさも感じずに、
自分のしたことを棚に上げて、自分が犯し、命を奪った人に、
平然と接することができるのだろう?

ナチスの収容所で、自分がユダヤ人たちにしたこと・・・
大勢の人間を残虐に殺し、命を弄び、それを楽しみ、

そのようなことを自分がしたことを思い出していながら、
今生で自分が惨殺した人たちに出会ったとき、
目の前にいる相手がかつての犠牲者、
自らが犯した罪の被害者であることを思い出したとき・・・

相手が自分に対して生理的嫌悪感を抱き、
拒絶反応を示すことに対して理解を示さないばかりか、

どうして拒否されることに怒り、
自分を受け入れようとはしない相手を咎めることができるんだろう?

相手が自分を許さないことに不平不満を言えるんだろう?



どうして、そのように自分の過去を1gも後悔しているようには見えず、
犯した罪に良心の呵責を感じてるようにも思えない、
被害者の傷に塩をなすりつけ、
当時の怒りを逆なでするばかりの生き方をしているような人を、
どうして許すことができるというのだろう?

己が罪の重さに恐れおののき、
相手に対して、贖罪の心を持ち、
自分を戒める心を持った人ならいざ知らず・・・

どうしてそのような人を赦さなければいけないのだろう?
受け入れるのが愛だろうといわんばかりに、
かつての加害者から上から目線でモノを言われ、
侮辱され、罵られ、そしりを受けなければならないのだろう?



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人を赦すことは難しい。

例えば、すべてのことには理由があって、
愛を学ぶために、善と悪が存在するのだと知識の上では理解していても。
被害者になることでさえ、
輪廻転生の循環の中でも因果応報の法則の流れで、
同胞への愛や奉仕のひとつの形であると知識として知ってはいても、
感情は必ずしも、その考えについていけるものではない。



このような仕事をして、
人にスピリチュアリズムを教えることをしていても、
必ずしも、実践できているわけではない。

私の今生の課題のひとつに、
他者の過ちを「許すこと」というのがある。
たくさんの人を赦して、
人間であるが故の弱さや過ちを理解して、
受容しなければいけない。


私は数百年前の過去生において、
西洋の某国にて古い土着の宗教の帰依者で、
とある田舎の村で薬草療法師をしていたのだけれど、
キリスト教徒ではなかったがために、
魔女裁判にかけられ、拷問されたあげく、
首をはねられて殺されたことがあった。

このとき、私はそれまで親しくしていた隣人たち、
患者として自分が助けてきたと思っていた人たちが、
助けてくれないばかりか、
異口同音に魔女だとそしり、非難し、石を投げつけて、
あらゆる嘘を証言してきたことに打ちのめされた。

死へと誘う処刑台に上り、死に至る瞬間まで、
そして死んでからも、この人間不信と人々への恨み、
ひたすら奉仕してきたことに対する仕打ちへの怒りは
ずっとずっと消えず、今の人生に持ち越されていたので。

また、殺されたり、利用されたり、裏切られたりは、
その人生だけでなく、その前にも後にも、
何度も何度も経験していて、
たくさんたくさん、積み重なってしまっていたように思う。


さて、数年前のこと・・・
とあるグループの人たち数人とランチをする約束をしていたのだが、
その約束の直前になって、
ふいに私はその全員から、
殺された過去があったことを思い出してしまった。
猛烈なショックと吐き気と生理的嫌悪感で、
どうにもならなくなってしまい、
とても平静かつ楽しく食事をすることは無理だと、
適当な理由を作って、会食を断ることにした。

一対一なら、まだ何とかなったかも知れない。
けれど、一気にすべてのケースを思い出して、
その恐怖と対峙して抑制するのは神経がもたないと思った。

怒りや恐怖はそんなに簡単に克服できるものではない。

何故そんな、克服できもしない記憶を、
このタイミングで思い出すことになったのか?
・・・そんな疑問のほうが強かったが、
たぶん「お試し」だったのだろう。

知っていることを実践できるかどうか・・・?

否。

私がその人たちを赦せたかというと、答えはNoになる。

その人たちを笑って赦せるほど、
人間的に成熟もしていないし、愛を受容してもいないし、
聖者でも仙人でも、人格者にも程遠い。

私の中にはまだまだたくさんの怒りがあって、
納得できないこともたくさんあって、
当時の自分の「死」の理由を消化できていなかった。


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恐怖はなかなか手放すことができない。
まして、思い出してしまった日には。

無意識の底に沈んでいた得体の知れない何かの、
正体を知ることは出来ても、
「されたこと」から生じた心の傷や埋め込まれた恐れを、
取り除くのは難しい。

でも、赦せない自分を、相手のことを愛することが出来ない自分を、
不寛容で狭量だと、愛が足りないと・・・責めることも違うのだろう。

赦せないのは、その人自身ではなく、
その人をして行われた「行為」そのものなのだから。

罪があるとするならば、
犯す人のほうではなく、罪自身が存在することなのだ。

だからといって、
加害者を憎み、怒り、恨む心もまた、あって然りで、
誰がそれを責めることが出来よう?

愛する人を殺され、自身もまた屈辱的な殺され方をしたとき、
天を恨み、相手の不幸を望み、
末代まで呪いたくなるような、そんな慟哭を抱えた人を、

「愛が足りない」などという言葉で裁いていいはずがない。

被害にあった人に・・・
「それは引き寄せの法則です」
「学ぶべきことがあって、起きた出来事なんですよ」
なんて言うのは、とても無責任で思いやりのない言葉だし、

愛する人を残虐な方法で殺されて、悲しみにくれている人に、
加害者に対して、心が焦げ付きそうなほど、
恨みと怒り、そして憎しみの炎を燃やしている人に・・・
「これは因果応報の法則が働いたからですよ」

なんて・・・そんなの、人が人に言っていいセリフじゃない。

例えそれが霊的真理で宇宙の、カルマの法則だったとしても、
そうしたことを知りたいと、望んで知ろうとする人ではない限り、
その段階にない人に・・・そんなことを知りたいと思っていない人に、
かけるべき言葉ではない。絶対に。

そんなスピリチュアリズムなんて、糞くらえ!とも言える。

2015/11/06

贖罪と受容~赦すこと赦されること(上)

最初に書こうとしたのは去年の春。
このテーマについて書こう、書かなければとは思ったものの、
結局、色々なことを思い出して、しんどくて、苦しくて、
思い出しては泣けてきて、辛すぎてタイプが進まず、
書きかけたまま、一年半も放置してしまった内容。





先日「アクト・オブ・キリング」が公開された。

過去にたくさんの戦争映画を見て、
「キリングフィールド」「ルワンダの涙」
などのジェノサイドものも見てきた。

検視官モノやマーダーケースブックも大量に読破してきた私だが、
この映画だけは本編もさながら予告編でさえも見る気がしない。

※映画「アクト・オブ・キリング」
【解説】1965年にインドネシアで起きた100万人規模の大量虐殺。
その加害者たちが殺人を再現する様を収録した映画。
虐殺を自慢げに語る人々にあるのは心の闇なのか?
それとも……。



 "One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify"

     一人の殺害は犯罪者を生み、 
         百万の殺害は英雄を生む
             数が(殺人を)神聖化する

                          映画「殺人狂時代」より
         
               ※元は英国国教会牧師で奴隷廃止論者
                 ベイルビー・ポーテューズの言葉




人は誰しもが完璧ではなく、誰もが過ちを犯す。

自らも過ちを犯すのだから、
誰かの罪を咎めることなどできようがない。

とはいえ、

罪を憎む気持ち、
犯罪者や相手に対する嫌悪感や憎悪を止めることは難しい。

まして、
犯罪被害者やその家族に一度はなったことがあるものならば。

仮にその罪や被害が、
本当と嘘が入り混じったおとぎ話の世界、
過去生というリアリティのない虚構の中のことであったとしても・・・



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冒頭にも書いたけれど、

子供の頃から、人の生と死について興味を持っていて、
同時に、殺人や犯罪に関しての本をたくさん読み漁ったものだ。
コリン・ウィルソンの「殺人百科」やら、その類のもの。

犯罪そのものに興味を持っていたというよりは、
人は何故犯罪を犯すのか?
その犯罪者心理、犯罪が起きてしまう背景に関心を持ち、
そうした情報を得ることに、貪欲だったと思う。

時代的にも、その当時のテレビ番組は
今のバラエティ化した意味のないゴミ番組とは違い、
昭和の犯罪史や事件簿などを取り上げた、
実に秀逸なドキュメンタリー番組や特番がたくさん放映されており、
ありがたいことに好奇心を十分に満たしてくれた。

また、写真の規制も今ほどではないので、
現場の写真(遺体など)もモノクロであれば、
一部掲載されている雑誌などがあり、目にすることも可能だった。
(食べかけの被害者の体とか、切断された遺体とかetc...)



何故人は人を殺すのか・・・

憎しみや恨みなど、正当な理由なく、
快楽や己の利益のために、
いとも簡単に人を殺めてしまうのか・・・

他者の権利を奪い、虫けらのように命を奪ってしまうのか・・・

どうしてこのシリアルキラーたちは、
サイコパスと成り得たのか・・・?

そのような異常な人間へと育ってしまったのか・・・

このような犯罪を起こさざるを得なかったのか?

どうしたらこんな人間が生まれてしまうのか?

そんなことを知りたくて、ひたすらに本を読み漁った。

それで分かったことは、

彼らが殺人を犯すには明確な理由は無いということだけだった。

ただ、そうしたいから殺すという単純な理由。
そうせざるを得ない要求があって、
本能的にそれに従うだけだ。

まるでそれは空腹を満たすように、
排泄がしたくなったら、それをするというような、
生理的欲求と彼らにとっては何ら変わりがないと。


彼らの中にはそれが「悪いこと」であると、
法律に反し、戒律的、道徳的にも良くないことであると、
そのようなことを考える頭のないものもあるが、
中には、非常に頭が聡く、
その罪を重々承知している、
贖いようのない咎であると判っていると言いながらも、
自分の楽しみが失われたことの失望を隠さない。

彼らは人の姿はしていても、人の"こころ"を持っていない。

いったい全体どうして、こんなモンスターがいるのか?

この世の中に??

どうして人を殺すことに悦楽と快楽を感じるような人間が、
この世に生まれるのか・・・? 存在するのか・・・?

何故、彼らは後悔したり、反省をしないのか・・・

罪の意識を持たないのか・・・

自らを責め、懺悔の気持ちを示すことをしないのか

被害者に対して、申し訳ないとか、酷いことをしたとか、
そのようなことを一片のかけらも思わないのか・・・

どうして人の痛み、悲しみ、苦しみが理解できないのか。

何故他人の感情を想像することができないのか・・・

それらを知る、"こころ"がないのか・・・




そして、また 
何もそのような異常性のある人物でなくても、
善人と言われるような人であっても、
人は状況次第で簡単に他者を殺めることをする。
敵とみなした人の命を、
自分に正義の刃があるとして奪おうとする。

ある日突然に、普通の人であると思った人が、
温和な隣人が・・・急に牙を向き、
狂気を目に宿らせて、なぜ人を害し、殺すのか。

命を慈しむその一方で、どうして命を奪うのか。

戦争という場においては、殺人は正義になり、
かくも人はいつも簡単に、
残虐で冷酷かつ非情な生き物へと変わってしまうのか。

人を殺したその手で、どうして命を創ることが出来るのか。
どうして平然とした顔で、
愛しいものに触れることが出来るのか・・・

どうして人間は、同じ人間を、命を、
殺そうなどということを考えるのか、
それを行動に移すのか・・・


一時期ずっとずっと疑問に思って、
そのことばかり考えて過ごしていた時期がある。

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もう20年くらい前のこと。

まだ若く、外に出ていくことに積極的だった私は、
とある趣味のオフによく参加していたもんで。

そこで知り合った、ある女の子に
何かの拍子で抱き着かれてしまったんだけども、
ものすごく血生臭い感じがすると同時に、
その子の過去生と思われるビジョンが頭の中に飛び込んできて、
一瞬フリーズしてしまった。

その子はリストカットをしていた子だったから、
血の臭いはそのせいだったのかも知れない。

でも、頭の中に飛び込んできたそれは、
ナチスの収容所で集められた囚人たちから、
色んな持ち物を集めている金髪の女性の姿だった。

それは事務的に淡々と作業をしているいうよりは、
嬉々朗々と、すごく楽しそうに・・・
数人かで彼らを罵り、嘲り笑いながら、
衣類や貴金属を引きはがしたり、
あげく髪の毛を毟るかかのように切り取ったりしていて、
一言でいうと、ゾッとする光景としか言いようがない。

うわあ・・・と思い、ダメだこの子、イヤだ、と思った。

そういえば、
その子は脱毛症でレッグをつけていたのだけど、
ビジョンで見た女性は、ケタケタと笑いながら、
ユダヤ人の髪をひんむしっていたから、
その理由がなんか納得できてしまった。


ちなみに、私のその子に対する最初の印象は最悪で、
なんか・・・本能的に近づきたくないというのが働いて、
「あの子、嫌い」ってなのがダダ漏れだったと思う。
親しい男友達には、
「私、あの子ダメだわ」とはっきり言っちゃってたりした。
とても大人気なかったんだけれど。

で、その子はとてもその趣味のことが上手くて、
オフでは皆にチヤホヤされるアイドルみたいな存在で、
人に媚びたり甘えるのが上手な子でもあり、
私に対しても、友好的な態度なので、
「毛嫌い」してしまう私のほうが狭量なのだろうと思ってもいた。

けれど、その日を境に、
なんで自分がこの子が「ダメ」なのか、
野性的な本能?で拒絶反応が起きていたのかが、
その理由が判ってしまい、さらにダメになってしまった。

でも、そんなこと、誰にも話せることじゃない。
それにそれが本当かどうかも確実じゃない。
(当時は前世療法などは仕事にしていなかった)
それ以上は親しくならないように、
なるべく距離を保つようにしていたけれど、
趣味の"仲間"であることには違いない。

そんな彼女の情報は他の仲間と飲みに行くと、
どうしても耳に入ってきてしまう。

家庭環境も複雑で、リストカットの常連で、
抑うつ剤なんかも飲んでいる、とかとか・・・



私はまだヒーリングの仕事はしていなかったけれど、
たまたま、友人のちょっと名のあるヒーラーMさんが、
新しいスキルを学んだんで、
無料のモニターさん募集してるのヨロシクって話をされ、
それが彼女の精神の安定にちょっとでも役に立つのなら、
お金もない人なのでちょうどいいんではないかと・・・

紹介しちゃったりした。

大嫌いな子なのに。


紹介してくれた子が来たよー!

・・・とMさんから連絡が来て、

「随分とヘヴィーな子、紹介してくれたもんじゃない?(笑)」

と、かくかくしかじか話をした。

実はその子ちょっと、苦手なんだけどねーって。

したらば、

「でもさー 
 見捨てられないつーか 放っておけないンでしょ?
 なんだかんだ、ホントこーいう子、好きだよねぇ」

と言われて、

「え゛え゛ー 好きちゃうやん、
 むしろ嫌いよぉ 拒絶反応出てるモン」

なんで~私がああいう子好きだなんて、思うのよん! プリプリ

・・・だったんですが、その意味って後からわかった。

Mさんが言った言葉の意味。


そういや、昔から犯罪者や犯罪心理に興味持ってたんだっけ。
今でもそういうの読み漁ってるし、ネットでも見るし・・・


す、好きって、そういう意味かー!

あああ 納得。


だから、縁が出来ちゃうのねん。

興味持ってて、関心が強かった分野だから。


引き寄せの法則では、嫌いも、好きも同じ意味を持つから。

関心を持ち、調べまくって、知りたいと思う行為そのものが、

ダイスキーってことだもん。


ああ、そうかー 


あっちゃ~ って思った。


一度創ったエレメンタルは、消すことができない。

それも長い年月で、強固に創られたものならば、なおさら・・・



続く

2015/11/05

縁なき衆生は度し難し

物事には知るべきタイミングと時期というものがある。

このタイミングとか時期、
そして何処までその出来事から学び、何を理解するべきか・・・
と、いうようなことは、
先の記事「学びの順番」に書いたように、
その人の霊性-霊的成長のレベルに比例していたりする。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さてさて、人の欲望というのは果てしないもの。


 お金が欲しい。成功したい。出世したい。
 何不自由ない生活がしたい。お金持ちと結婚したい。
 いつまでも若々しくいたい。健康でありたい。
 キレイになりたい。痩せて理想的なスタイルになりたい。
 異性からモテたい。好きなことをして収入を得たい。
 誰もが羨む幸せな結婚がしたい。子供が欲しい。
 献身的で優しい、魅力的な恋人が欲しいetc,etc・・・


夢や目的意識を持つのはいいことですし、
ほどよい野心や欲しいものへの渇望も、あって然るべきもので、
物欲や物質は悪ではなく、もちろん否定されるべきものでもなく、
それを望むこと自体は罪ではないのです。

物質社会で物質としての肉体を所有して存在している以上、
物質は必要ですし、私たちは"かたちあるもの"の世界に、
自分を表現して生きる必要があるのですから。
物質から慰めを得たり、悦びや楽しみを得ることも当然のことです。

何が問題かというと、物質偏重主義というか、
物質など見えるものに価値の重きを置きすぎて、
それ以外のことをないがしろにしてしまうことです。

つまり、物質・・・かたちあるものがすべてで、
優先順位の一番になってしまいすぎ、
物質に振り回されてしまっているというところに問題があるのです。

その人の人間性よりも、
家柄とか財産とか学歴や肩書きなどが尊重されるのも、
その一つですね。

残念なことに今の時代では、
ほとんどの人が、他人や人生に多くのものを期待しすぎていて、
欲望を叶えることに執着し、
物質の奴隷となる生き方を選んでしまっています。

得てしてそれは『エゴイズム』に操られている状態なんですが。

本当にそれが自分にとって必要なものなのか、
意味のあるものなのか、よく判らない状態のまま、
何が自分の本当の幸福であるのか・・・
自分を幸せにしてくれるものが何で、
どんな生き方をすれば充実感と満足を得られるのか・・・
そのような事をきちんと考えず、向き合わうこともせず、
物質的なものを得ることや欲望を満たすことがすべてと言わんばかりに、
エゴイズムの奴隷になって、操られてしまっているんですね。



そして、占いやリーディングなどの相談の現場に持ち込まれる、
ほとんどの『お悩み』は、
この『エゴイズム』から派生しているものだったりします。

でもそれが『エゴイズム』だってことに得てして皆気づいてないもので。

突き詰めてなおかつ単純に言ってしまうと、
自分のことにしても、他者との関係にしても仕事や状況のことにしても、
みんな、悩みどころは、
"物事や他人が自分の思い通りにならない"って言う
欲求不満なんですね。
とどのつまりが。身も蓋もないんだけども。

自分に対する要求に関して、はとりあえず置いておいて、
周囲や状況に対するそれは大きな歪みを生む。

恋愛や結婚の相談なども、「相手が○○してくれない」とか、
その人が自分の”モノ”になってくれないとか、
自分を好きになってくれない、好きになって欲しい、
ありのままの自分を受け入れて欲しい、判って欲しいとか。
理想の恋人になってくれることを期待したり、
相手が自分のリクエストに答えて望む人間に変わってくれることとか。
こういう風に感じたり考えて欲しいとか・・・
(もはや相手の人格否定。相手のことを好いてるとは言えない)

子供に対しての悩みもそうです。
勉強ができない。希望の学校に入れたい。
言うことをきいてくれない。高収入の職場に就職して欲しい。

こうして欲しい、ああして欲しい・・・など、
自分の思い通りにならないことが悩みで、
思い通りになってくれることが望みなんです。

みんな状況や他人が自分を満足させてくれることばかり望んでる。
与えられることばかり欲して。
他人から「与えてもらえる」人間にはなろうとはせず、
自分からも決して与えようとはしないのにね。

「くれない、くれない」「ちょうだい、ちょうだい」ばっかり。

交流原則の基本は、
『過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分だけ』
なんですが。

自分は変わろうとはしないのに、
他人を変えたがり、変わってくれることばかり欲する。

ありのままの他人を認めようとはしないのに、
ありのままの自分を認めて、受け入れてもらいたがる。

他人を赦すことはしないのに自分ばかり赦してもらいたがる。
他人を理解しようとはしないのに、理解してもらいたがり、
判って欲しいと望み、判ってくれないという。

他人が求めるものには気づこうとしないのに、
自分が求めるものばかり気づいてもらおうとし、
気づいてくれないことに不平不満を抱く。

そして、変わってくれないこと、赦してくれないこと、
与えてくれないこと、判ってくれないこと、気づいてくれないことに、
怒りを覚えて、相手を憎んだり、恨んだりする。
自分を満たしてくれないことに・・・
自分の期待に応えてくれないことに裏切られたとばかりに憤る。

自分だって、他人の望みや求めに応じられてなんかないのに。
相手が与えられたいと欲しているもの、
求めるものを本当に理解して、与えることなんか出来ていないのに。

人って貪欲です。


そんな風に
自らの欲望を叶えるために周囲の状況や他人を、
相手の思考や心でさえも、思い通りに、
自分に都合のよいようにコントロール(支配)しようとしている人が、
圧倒的に多いのが世の問題点であり、
それに気づいていない人ばかりなのが困りもの。

『エゴイズム』から来る欲望は”汚れた欲望”で、
誤った考えからくるものですから、
これを叶えようとしても、むしろ自分も周囲も苦しめることになります。
カルマ()にもなりますし、
ブループリントの流れにも逆らうことにもなるから。

でもねぇ、『エゴイズム』の虜になっている人に、
そういう自我の押し付け状態になっていることを指摘しても、
大体において、そういう指摘を受け入れないというか、
憤慨して逆切れしたり、反発して意固地になったりするから、
そこから引き離して納得させるのは難しいところです。

みんなその願望と思い込んでいる汚れた欲望、
エゴイズムの奴隷になっていて、それがすべてで、
これをどうにか叶えて、手に入れないことには、
自分は満たされないって、それしかないと思い込んでいるので。



不安はね、恐れや恐怖もまたエゴイズムだけれども、
それは確かにその恐怖のタネを取り除いていくべき必要があること。

でも希望が見えなくて、明日を信じられなくて今が辛いときには、
未来を覗いて、安心を得ることが必要なときもある。
少しの希望が、安心を与えて、心に力を持たせることも多いから。
だから未来を知りたいと望んだときに、
時と場合(動機)にもよりけりだけれども、
未来を垣間見させて、今どうするべきかに繋げるためにも、
予知によって不安を取り除くことも今日を生きる糧となりクスリになる。


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で、
先に書いた『霊性のレベル』において、下位にいる人の場合、
まだまだ"本能"に支配されちゃっている段階だから、
欲望のトリコ-エゴイズムの奴隷になっているのも仕方ないというか、
自らの経験で痛い思いをして理解してもらっていくしかないんです。
できればそこから早く抜け出して欲しいし、
知識を身に付けて、痛い思いから学ぶことを終わらせても欲しいけど。

でも、どのレベルにいるとかはこの場合、関係なく、
スピリチュアルなことに興味を持って、
多少なりとも知識を身に付けたり、学び始めたりした人の場合は別です。

ほんの少しの知識でも、一部のことでも”知った”なら、
自分の生活や生き方そのものに役立てていかないと。


うちで以前開いてた講座とかレッスンとかにしても、
他所のあれやこれやなスピリチュアルなスクールやセミナーとか、
そういう学びの機会があった人でさえ、
まだまだ『エゴイズム』の奴隷になっていて、
それだけなら仕方ないけれど、
スピリチュアルなことを、自らのエゴイズムの目的を叶えることのために、
利用しようと考えがちな人が多いのは、とても残念なこと。

自分の思い通りの結果を招くために、
状況や他人をコントロールするための方法として、
スピリチュアルな知識やサイキカルなテクニックを求め、
何かを期待する人は以前として減らならないんですね。

最初の段階では仕方ないんだけど、
ちょっとでも学んで知識を得たなら、その仕組みを知った段階で、
外にあることではなく、内にある原因に気がついて欲しいなあ、と
そう思ってしまうのはやはり私が欲深だからなんだろうか。

スピリチュアルな智慧にしても、占いもオカルトも、
チャネリングもリーディングも過去生を見ることも未来を覗くことも、
サイキカルなヒーリングやスキルも、『魔法』や『奇跡を起こす術』じゃない。

『魔法』や『奇跡を起こす術』があったとしても、
それは『エゴイズム』のある人は絶対に使うことのできないもの。
”賢者の石”は誰の中にも眠っているけれど、
『エゴイズム』が一片もなくなってからでないと、決して使うことはできない。

スピリチュアルな智慧にしても、占いもオカルトも、
チャネリングもリーディングも過去生を見ることも未来を覗くことも、
サイキカルなヒーリングやスキルで出来ることは、

『エゴイズム』の願いを叶えることではなく、
奴隷から脱した、その人なりの本当の人生を生きる道を見つけること。
だから、『エゴイズム』の奴隷状態で、盲目状態になっている人には、
それらは、納得のいく「答え」を与えてくれる方法にはなりえない。

その人が思い通りの人生を生きるのを邪魔しているのは、
何よりもその人の『エゴイズム』で、自分自身なんだ。
外にあるものは内側にあるものの表れであって、
すべては引き寄せているものなんだから。


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さて、とある人がいた。
仮に会社を経営しているAさんとしておく。
詳細は書けないので説明足らずになってしまうけれども・・・

Aさんは、数年前、
事業を大きくしようとした時があったのだけれど、
何故かその頃に知り合った人に不快に思いをさせられることになり、
一部の人からは逆恨みから、
常軌を逸した嫌がらせをされることになってしまった。

嫌がらせというのは、
ネットはもちろん、古典的レベルな昔ながらの嫌がらせ。

様々な心労からAさんはすっかり参ってしまい、
人に薦められてうちに来ることになった。
原因を知って状況を改善することを目的としてきたのではなく、
心身を癒し、気力を補うための気分転換の施療を受けに。

本人がそれを知りたいと思い、
その方面に目を向けていないでは、聴く耳を持っていないのでは、
こちらがそれと判ってても、伝えたくても言えないこと、
話せないことがあったりする。
聴く耳を持ち、時期が来ていないことには。

Aさん自身が、

「何故、私はこのような目に遭わなければならないのでしょうか?
 彼らから、執拗な嫌がらせを受けたりする理由は何でしょう?
 どうして私はそのことで経済的損失を受け、
 心身の健康を損なわなければいけなかったのでしょうか?」

というようなことを聴いてこない限りには。


そう問われたなら、私は、

「それはあなたが、過去に彼らにしたことに起因しています。
 過去のある戦のあった時代において、
 あなたが彼らの上司として、彼らに対して非道であり、
 理不尽な扱いをして、彼らを苦しめ、死に至らしめたからです。
 また、別の時代の別の国では、やはり雇用主として、
 奴隷であった彼らを、人としては扱わなかったため、
 彼らはあなたに深い恨みを抱いているのです。」

という風に応えるだろう。
そして、その先も話すだろうし、そのことの対処もするだろう。
でも、Aさんはそれを知りたがってはいないし、
受け入れられる段階にはない。


それに過去に起きたことについて知るばかりが、
Aさんに架せられた十字架なのではない。
別に上記のようなことを知る必要性はないのだ。

肝心なのはそこではない。


今回、今生において降りかかっている災難に対して、
Aさんがするべきことは、まず現実的に、理性的な対応をすること。
現状の、この国の法律にのっとって、出来る限りの最善を尽くすこと。
警察に被害届けを出して、地道に対策を考えて、
立法にのっとり、まっとうな方法で対処していくこと。

で、ここが一番難しいことなんだけど、
彼らを恨んだり憎むことをせず、
誹謗中傷をじっと歯を食いしばって耐えて、
人と関わる際に、自分に観る目がなかったのだと、
その点をあきらめること。
不当かつ理不尽な嫌がらせに関しては、
相手を許すことはしなくてもいいけど、人生が上手くいっていないから、
自暴自棄になってこんなことをしているのだと、
相手は病んでいるのだと、可哀想な人物だと、そう受け止めること。


あと・・・何が問題なのかっていうと、

この問題において、
Aさんは相変わらず、自分のことしか考えてないということだ。

例えば、自分への攻撃が自分以外の人に向いたことに対して、
彼らに対して迷惑をかけてしまった申し訳なさとか反省とか、
そういう相手への配慮というよりも、

自分が『他人から恨みを買うような人間』だと周囲に知られること、
『そのような執拗な嫌がらせをするような、
悪質な人間と関係している会社である』というようなことを、
他人に思われることを何よりも恐れているということ。

これが、一番の"カルマ"だったりする。

ここで、Aさんが、自分の名誉よりも、
様々な関係者や家族に多大な迷惑をかけてしまった・・・
ということに心を痛め、申し訳ないと、不快な思いをさせてしまったことに
想いをはせる人になっていたならば・・・
(いやさ、本来はそうでなくてはいけないことです)

少なくともAさんは、過去での非道な性格だったときより、
進歩したというか人として成長したということでもあり、
過去の過ちを償えとばかりに向けられた恨みを、
すべてその身に受ける必要もなかったわけなのです。


だって、過去のことも元はと言えば、
他人の"人間性"を認めず、相手の人としての尊厳に敬意を払わず、
いつだって自分の立身出世のこと、自己利益のことばかりで、
他者への思いやりとか、いたわりの気持ちの欠片もなかったので、
それが原因でのこのカルマですから。
過去においても、財産を増やすために、手柄を立てるために、とか、
自分だけのために利益を追求して、
人を人として扱わなかったことが「恨み」を買うことになったんですが、
今回、会社を大きくしようとしてのときに『悪縁奇縁』として、
互いに引き合ってしまったのも、カルマの配剤と言えましょう。


そういうカルマのある相手として、負債の完済のために出会ったとしても、
Aさんが、他人のことを考えられる人に少しでも成長していれば、
カルマの現れ方、『相手からの復讐』もここまでにはならなかったかも知れない。
Aさんに対して無意識のうちに復讐をしかけた彼ら・・・
過去の彼らのパーソナリティだって、Aさんが変わっていたならば、
悪いところを改めてくれていたならば、
そんなAさんを知って少しは成仏できていたというか、
ここまでAさんを叩きのめしたいという
執着に操られはしないで済んだ可能性もある。

別に過去で何があったかを知るばかりが為ではないのです。

過去まで遡って自分がしたことの原因を知ろうとはせずとも、
今回、起きていることを厳粛に受け止め、
今の人生での自分を振り返り、
自分を助けてくれている人、
支えてくれている人への恩や優しさに気づき、
それに報いたいと思い、かけている迷惑を心から済まないと思い、
そのことに反省したり、
誠意を持って他者と関わりあって行こうとするだけで、
それだけでいいんです。
過去のことを知らずとも。

今のAさんが自ら変わろうとし、誠実な人になって、
そういう生き方をしようと、努力すれば・・・

過去でAさんに苦しめられた、恨み持つ人々も、
救われるし、納得して成仏する道が開けるんです。

何度も重ねて繰り返し言うけど、
Aさんは別に自分の「過去生」及び過去にした所業を思い出して、
それを反省するところまでは求められていないんですね。
受け入れられる段階にはないし、本人もそこ知りたいと思ってないし。
Aさんに求められているのは、人生で重きを置くべきことは何か・・・
一人の人間として大事にすべきこととは本当は何であるのか・・・
『人としての大事な道』を見つけ、
自分も他人も尊重して生きるということなんです。

お金とか地位とか名誉とか、そんなんではなく。
人と人の間にある、大事にすべきものに気づかないと、
今の苦境から逃れることはできないし、
カルマのレッスンは終わらないんです。


そういうことを理解するための、超痛いレッスンなんです。

Aさんに対して無意識のうちに復讐をしかけた彼ら・・・
過去の彼らのパーソナリティだって、Aさんが変わっていたならば、
悪いところを改めてくれていたならば、
そんなAさんを知って少しは成仏できていたというか、
ここまでAさんを叩きのめしたいという
執着に操られはしないで済んだのです。


確かに酷い目にあっている被害者ではあるんですが。
こんな痛い目に遭うまでに、何度かもっと軽度の出来事で、
警告は何度かあったはずなんです。過去の人生で、そして今生でも。
それでも気づかないからの、こんな追い詰められ方なんですね。


カルマのレッスンは、痛い思いをして理解するか、
それとも知識を学んで法則を知るか・・・そのいずれかしかありません。
初期のカルマのレッスンでの『警告』からの学べば、
それが一番いいんですが。
人ってなかなか、どうして・・・です。

Aさんの場合は、スピリチュアルなことは興味ないし、
残念ながら、そういうことに思いをめぐらす段階にはいず、
いやさ過去に原因を見つけようとせずとも、
いまの状況からいろんなことを吸収して学ぼうとして、
人として大きく成長してくれれば、それこそが肝心なのですが、
相変わらず「人としての大事なもの」を見つめようとはせず、
自分の体裁と経済的損失のことばかりが関心で。

気づくのを待つしかないのがじれったいばかり。
話しても、「聞こえて」ませんから。

人生で重きを置くべきことは何か・・・
一人の人間として大事にすべきことは本当は何であるのか・・・
『人としての大事な道』を見つけ、
自分も他人も尊重して生きるということなんです。
お金とか地位とか名誉とか、そんなんではなく。
人と人の間にある、大事にすべきものに気づくことが求められてて、
そのことに気づけば、カルマのレッスンは終わるから、
このAさんを苦しめている状況は収束に向う。

のに、

ここのところ(本当の原因を解決すること)には、
皆なかなか関心が行かなくて、
Aさんにしても、
「どうすれば自分のビジネスで醜聞が立つのを防げるか」
という、もうそこしか関心がいかず、気持ちも向かず。

ホント、しょうがないっちゃあ、しょうがないんですが、
(その気持ちもわかりますから)

大体において皆そういう状態の人ばかりです。
そうしたことを理解するための、超痛いレッスンなんですね。


Aさんのように、

「問題の『原因』は、そこじゃないんですよ」
って人は多いですよ。

気づこうとしない人、言っても聴かない人。

自分が求めてる状況、
望む状況にどうすれば物事を運ぶことが出来るか・・・
どうすれば、思い通りになるか・・・
思いのままに未来が変わっていくのか・・・


関心のあるのはみんなそういうことばかり。

ほとんどの人が『原因』に興味がないばかりか、耳を貸さない。

だからいつだって話は平行線。


変わりたくない・・・と言い、
自分は変わらずに、周囲が変わってくれることを望む。

他人が自分の要求を聞いてくれないことに対して不平不満ばかり。


魔法を期待して、奇跡が起こるのを待つばかり。

望みの未来が告げられるのを待ち、
それを言われることを欲し、言ってくれる人を探してジプシーする。

だから『霊感商法』に引っかかったり、
当たる占いにすがり、スゴイといわれる人を信じて、
『何か』を起こしてくれるもの、『幸運』をもたらしてくれるものを買う。
モノやパワーに依存して、そのエネルギーはすごいのに、
自分で自分を変えることは難しいと眉を顰める。


でも、得てして説明しても、
「はあ?そんなこと聴いてませんが?」
「そんなこと私の知りたいことではありません」って
なってしまうので、お手上げです。



原因を外に求めて、内側に求めない人、
他人や環境や生霊や因縁などのせいにして、
自分によもや原因があるとは思わない人。
本当の答えを知ろうとせず、そこから耳や目をを背けて、
奇跡のワザや魔法が自分にかけられることを期待している人。
スピリチュアルなことを勉強しても、
都合よく解釈して、まったく何も学ぼうとしてくれない人。
過去生でさえも、ヒロイズムに酔ったりするためのネタでしかなく・・・
エゴイズムを指摘してもどっぷり浸かりっぱなしの人。


そういう人には、残念ながら何も力になってあげられない。
 
己の力量のなさに、がっくりして、途方にくれるしかなく・・・ 


まあね、時期が来ないことには、とか・・・
その人それぞれのレベルとか、タイミングがあるからとか、
そういうのもわかっちゃあ~いるけれども。

ついつい、言いたくなっちゃうときはあります。
それも私のスピリチュアルナルシシズムなんですけどね。