低く座して高く考える・・・ということは難しい。
これまで生きてきた中でも、
そのような謙虚で崇高な姿勢を見せてくれる人は、
残念ながら、多くは会えていないのが実状で。
歴史において騙られる人物や、
伝説の賢人や偉業を成し遂げた人など、
尊敬できる人はいるものの。
他人に期待するより先に、
まずは己がそのような人物になるを目指すが先であろう。
さて、前回の
正義や信念に「盲目的」になってしまうこと。。。に付随してもうひとつ。
知識というのは、時に人を盲目に、そして傲慢にしてしまう。
自分が、『知っている』として、
『知らない』ものに対し、それをひけらかしたり、
どこか居丈夫で高慢な態度を取ってしまいがちでもあるし、
自分が知っていることがすべてで、それ以上はない、と・・・
他の意見に対して耳塞ぎになっていたり、
新しいことを学ぼうという姿勢も見失いがちだからだ。
早い話がナニサマになってしまいがちだという意味で。
「知っていることは知らないということで、
知らないということは、知っているということでもある」
謎々のようなこんな言葉もあるが、
「無知の知」というのも、真理なのである。
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知り合ってからは長い人なのであるが、
なかなか会うことが出来ず、
PC環境もない人なので、手紙や電話での時折のやりとりだけ、
という知人がいる。
その人は学者肌で、なるほど多種多様な知識を持っている。
特殊な環境に生まれて、独特のバックボーンを持ち、
稀有で紆余曲折に富んだ人生を歩んできた人であるから、
確かに含蓄のある言葉と智恵を語れる人だ。
そんな何者にも屈しない精神の強さを持つ彼女に、
私は尊敬の念を抱いていたし、
交わした言葉の多さよりも、
同胞として、通いあうことの出来る何かを大切にしてきたつもりだった。
しかし、最近・・・
彼女の奢りに気づかされることがあった。
彼女は、いつの間にか、
自分のものの見方、モノサシにすべてを当てはめて、
まるで、自分こそがすべてを知っていて、
すべてを裁き、語れるものだといわんばかりで、
他人の意見を聞くことなく、
物事を決め付ける人に変わってしまっていた。
相手がアドバイスを求めてもいないのに、
自分から相手の現状を根掘り葉掘り聞きだして、
勝手に「それはあれだから、これだから、こういうこと」と、
その人が望みもしない裁定、予言のような断言を
一方的にしてしまう人になってしまっていて。。。
確かに、彼女の洞察力、知識の深さは素晴らしいと思う。
けれども、
視野は広いかも知れないが、
その代わりに何かが見えなくなってはいないだろうか?
自分は何でも知っている、分かっている人間だとして、
おのが価値観や知っていることが世の習いとして、
どこか他人を見下し、知識の目を通してしか、
他人や世の中のことを見ることがなくなってしまっている。
とても残念なことだった。
それが正しい知識で、真理であったとしても・・・
求めてもいない人間に、
押し付けるようにして一方的に語ることなぞ、
それが正論で、的確な指摘でアドバイスであったとしても、
そんなのは虚飾にまみれた詭弁のような気がする。
いかに物事を知っていようが、
辛酸をなめてきた経験豊かなものの含蓄であったとしても、
相手を尊重することなく、
上から見下ろして語られる知識なぞ、智恵とはいえない。
耳を傾けたとて、誰がための知識になるとも思えない。
単なる暴論でしかないような気さえする。
ここで思い出す。
以前にも別の記事で引用した、言葉を。
~たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、私は騒がしいドラ、やかましいシンバル。
たとえ、預言する能力を持ち、あらゆる神秘に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い果たそうとも、
誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、
愛がなければ、わたしに何の益もない~
・・・を。
自分が知識そのものであり、叡智の代理人であるかのように、
そのように錯覚してしまうことは恐ろしい。
自分が何もかも知っていると、
自分が知っていることがすべてであると、
そのように自惚れて、傲慢に取り込まれてしまうことは恐ろしい。
知識は時に本当に、人の目を曇らせてしまう。
正しい自分の姿を見えなくさせてしまう。
知っている、と思ってしまったときが終わりなのだ。
確かソクラテスだったかな・・・
「我々が知っているのは、
我々がまだ何も知らないということだけだ」
と言っていたのは。
スピリチュアルエゴというのかな。
そういう罠にはまってしまった人を何人か知っている。
私も陥ってしまったことがある。
願わくば、今回の彼女の目が、
いつか曇りなく、
ありのままに物事を見ることができる日が再び来るように。
見失っているものを、見つけることができますように。
自然や動物たちの声を聞くように、
他人の「心」を感じることが出来るようになりますように・・・
でも、彼女の姿は私の姿。
彼女が見せてくれた人としての弱さ、エゴイズムを通して、
私は自分のエゴイズム、かつてはまったことのある罠を
改めて知り、気づかされることになった。
私も知識を通して物事を見過ぎないように、
それに囚われすぎないように・・・
人と人との関係において、もっと大切なものを見失わないように、
気をつけていかないと・・・と、自分に言い聞かせてみる。
「低く座して、高く考えよ」
常にこの言葉を旨に、自分への戒めとして。
その姿を持って、教えてくれた人々の姿を教師として。
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