ずっと昔、私がまだコムスメだった頃。
青信号を自転車で渡っていたとき、
正面から右折してきたワゴン車が、一時停止せずに突進してきて、
「え? まさか・・・? どうして、何故」
と思う間もなく、ぶつかられて自転車ごとガシャーン!
ふつー歩行者とかいたら、渡るまで車は止まるだろがー
なんですが。
ありえないことなので、ビックリしました。
車には大人四人くらい乗ってて、
「大丈夫ですか」と平謝り。
まあ、幸い倒れたくらいで、見た目は怪我なく。
しかし仕事で徹夜が続いていたので頭はボッーと、
自分に何が起きたのか判断力低下で物事考えられず。
(てか、事故にショック受けてたというか、
交通事故は二度目だったので、
車に轢かれた恐怖とショックで
記憶がフラッシュバックしてフリーズ)
コムスメだった私は丸め込まれて示談?
連絡先だけ取り交わして警察呼ばず・・・みたいなことに。
当時はPHSはおろか携帯なんてありません。
今考えるとバカです。
どんなことがあっても事故は事故なんだから、
警察は呼ばないといけない。
自分でも判ってるけど私は炎症体質で打撲に弱い。
しかも左には以前の事故の後遺症もあるわけです。
頭が冷静になってから、病院にいき、警察に連絡しました。
が、その場でないとダメなのね。
相手に連絡取ったものの、その場で事故の検証してないから、
証拠もないし、自分たちが罪に問われることはない、と、
先方はタカをくくっていたのでしょう。
ちょっと罵倒して脅しをかければ、コムスメのこと、
泣いて引き下がるとでも。
恐喝のような、
ヤクザまがいの酷い言葉をたくさん浴びせられました。
留守番電話にそれはそれはたくさん。
最初は穏便に済ませたいと思った私も、
逆にそれ聞いて、容赦しないと腹くくったかも。
私の母は、母親としては失格だったけれど、
呑み友達は多く、顔だけは広い人。
(それが故の推薦受けての民生委員21年)
警察関係のOBで、天下りで某協会の
役員やってるAさんも母の呑み友達の一人。
現役警察はまったく動いてくれないけど、
(相手にしてくれませんでしたねー。
友人兄が現役警官だったので、当初相談しましたが。
組織のしがらみ、管轄外だと色々あるらしく、動けないと。
して、どうしてすぐその場で110番しないんだと怒られ)
OBの鶴の一声って、すごいなって実感した出来事。
コネってこういう時、使うのかー みたいに感心しました。
(この時は流石に親に感謝。
地元に長く住んで、信用とか生活の基盤を作っているって
つまりはそういうことなんですよね<人間関係)
Aさんが色々と動いてくれた結果・・・
てか関係各所に電話一本架けてくれた結果。
詳細過程は省きますが、相手は免許停止。
訴えを取り下げてもらおうと、相手は土下座しに来ましたが、
既に時遅し。
「車に乗れないと、免許がないと、仕事ができないんです」と
泣いて誤って、冷たいコンクリートに頭こすりつけてくれても、
面と向かって暴言はかれて脅迫めいた誹謗中傷を、
たくさん留守電に入れられた後です。
赦すったって、それは無理。
その後は保険会社との話合いのみ。
仕事を失ったというその方がどうなったのか判りません。
相手が最初から誠意ある対応をしてくれていたら、
治療費だけ出していただければ、それで済んだことですが。
でも、相手だけのせいかというと、そうではありません。
いくら徹夜あけでボッーとしていたからといって、
判断力がなかったからといって、
その場で警察を呼ばなかった私のせいでもあるんです。
公衆電話探して110番して、事故があった報告を入れる。
これって、お互いのためにも、後のトラブル防止にも、
絶対必要なこと。
下手な同情とかするべきではなく、事務的に対応するべきで。
常識的な行動を取るべきだったんです。
そのほうが相手のためにもなったこと。
見晴らしの良い、広い交差点で、
歩行者(この場合自転車)がいるのに、
一時停止もしないで、渡ろうとするなんて、
危ないドライバーもいいとこ。
私との接触事故がなくても、
いつかもっと悲惨な事故を起こしてたかも知れない。
そういう意味で相手には必要な事故だったんでしょうから。
私にとって、とっても痛い勉強になりました。
相手の言葉をむやみやたらと信用してはいけない。
下手に同情して、仏心を起こしてはいけない・・・。
それはかえって相手を
もっと悪い立場に追い込むことになるのかも知れないのだから。
加害者の中の悪の心を目覚めさせるのは、
被害者の側の無知や油断のある態度だって、
この出来事を思い出すとき、思い知らされるのです。
「知っておくべきこと」を知らないというのはこれまた罪であると。
自分を守ることをしないのも、また罪なのです。
日本人は危機管理が弱いとよく言われるけれど、
安全神話に頼りすぎたり、他人の善性を信じすぎるのも、
確かに良くないこと。
もちろん出来れば人を疑いたくないし、
人は善良であると、性善説を信じたくもあります。
わざとではない過ちを赦したいと、
出来れば怒らないで笑って済ませたいことも、
そうしたいこともたくさんあります。
そして騙すよりは騙されるほうがいいとも、それも思うし。
けれど、
「騙されるほうにも、騙す相手に罪を犯させた罪がある」
そんな、「ムトゥ踊るマハラジャ」の中の聖者の言葉も、
また真なりとも、自らの経験をして、そう思います。
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