過去生についてのこと、
クライアントさんの魂の履歴の物語等、
それらを文章に起こしてしまうと、
何処か大げさで、フィクションのような現実味のない話に思えてしまう。
過去生なんて、立証できるものではないし、
仮にあるとしてみても、
私が見たものが「ホンモノ」で寸分狂いもない事実だと、
言い切ることはできない。
その人が頭の中で書き換えた「記憶」や
いつかどこかで読んだ「物語」を
勘違いしてこじつけているのかも知れないし、
与えられたヒントをもとに私が自分の頭の中で尾ひれはひれをつけて、
創りあげて語っているだけの空想の産物かもしれないし・・・。
よしんば、アカシックレコードを読んでいたとしても、
間違えて別のレコードを読んでいないという保障もない。
それが正しい解釈だと・・・解釈を間違えていないという保障もない。
肉眼で霊の姿を見て、
そうした存在と確実に話をすることが出来る霊能者でもない。
ちょっと、影のような、光のようなソレを見ることが出来るだけ。
頭の中に映し出されるこの映像が、
私の想像の産物でないなんて、誰が証明してくれるのだろう?
私自身が、それを疑うときもある。
自分自信に絶対的な信頼をおけるほど、
すべてを見、理解することが出来る能力があるわけじゃない。
私は自分が優秀なヒーラーであるとは思っていないし、
自信なんか、いつだって、
いつまで経ってもこれっぽっちも持てない。
自分の能力の限界点ばかり思い知らされて、
毎度無力感に襲われてばかりだ。
解らないこともたくさんあるし、できないことが多すぎる。
こんな仕事をしていても、
「見えないもの」「わからないこと」は本当に多い。
チカラのなさに、ほとほと、自分はこの仕事向いてないんじゃないか、
こんな中途半端なことしかできなくて、
ヒーラーなんて仕事を自分はやってはいけない人間じゃないのか?
なんて思ったりもしょっちゅうしている。
子どもの頃にできたことができなくて、イライラしているのは私だ。
あの頃は幽体離脱なんて簡単にできたのに、
それを役に立てられる仕事をしている今になってやろうとしても
まったくできないなんて、情けない。
ホント、使えねぇ・・・・と自分のこと、思います。
さてさて、
ここに書いている例は、しいていうならば、施療がうまくいった例になる。
いつも上手くいくわけじゃない。失敗も多い。
その人に憑依されている霊に「やられちゃう」こともある。
言葉が足りなかったり、
反対に余計なことを言い過ぎてしまうこともあるし・・・。
役に立たなかったこともたくさんあるわけで、
有意義な経験や感動を与えられなかったケースのほうが、
そうだったケースよりも多いような気もしますよ。
この仕事をはじめてそれなりの年月も経ったが、
今もなお反省ばかり。
ああすればよかったのではないか?
こう言えば、こう伝えればよかったのではないだろうか?
そういうのはしょっちゅう。
いつもベストを尽くしているつもりではあるけれど、
そのように心がけてはいますが、
かといって、100%満足できる仕事が出来ているか、というと・・・
残念ながらそうではない。
過去生に関連した情報を読むのが得意だと・・・
そうした情報を読み取るのが自分にとって安易であるがゆえに、
すべてをそれに結び付けて、
クライアントさん自身を見ていくことを忘れてしまって、
肝心の問題を・・・本当の原因を見過ごしてしまったこともある。
言ってあげるべきだったのに、言わなかったり、
伝える時期を間違えてしまって、相手によしないことをしてしまったりも。
忍耐強く、向き合ってあげるべきだったのに、焦ってしまい、
突き放すように、厳しくしすぎてしまったことも・・・
謙虚さというか、仕事に対する真摯な姿勢、
一期一会の精神で、そのたった一度の来訪に望めなかったこと
慣れてきた頃の己が「自惚れ」を今となっては、恥じるばかり。
最近は、
自分には限界があって、こうするしか今は自分にはできないな、
と完璧を自分に求めすぎなくはなりましたけれど。
ここに書いたサイキックカルテと称したケースファイルは、
以前に症例記録のつもりで綴っておいたものを、
新たに修正して、紹介しているわけですけれども・・・
今回削ったり、直したりした、当時の文章の余計な部分を読むと、
その時の自分がいかに調子に乗っていたか-慢心していたか、
そういう自分の「自惚れ」を垣間見ることになって、
正直辟易させられた。
「わかった」気になっていた自分の姿が、そこに映し出されていて。
そこには謙虚さはなく、「そのやり方でうまく行っている」と
いい気になった、真摯な姿勢からは程遠い、
勘違いヒーラーになっていた自分がいたりした。
なんと恐ろしいことだろう。
まったく、『何様』だったんだろう自分は。
エゴイズムっていうのは、本当に恐ろしいものだと思う。
今回、改めて、こうしたブログに
皆さんの『人生の一部の記録』の場を作ることになって、
掲載するために見直したことで、そのことにも改めて気づかされた。
多分、今こうした作業に取り掛かるのも・・・
こうした機会を持つのも、
私にとって、この仕事を始めた原点に戻る必要があるからなのだろう。
はじめの時の気持ち、喜びを思い出し、
謙虚になって、初心に帰れ、というべきか。
そう、ヒーリング(癒し)は、癒し手である私が起こすものではない。
主役はクライアントさん。
そして、癒しているのはクライアントさん自身。
私はその現場に立ち会って、
時に証人として、時に起きていることの解説者として
それを説明しているだけの道具に過ぎないのだから。
この記録はセッション直後に書いたものではないので、
いずれにしても、書き起こした時点で時間が経過していて、
私の記憶も曖昧なところが出てきていた。
ちゃんと紙モノに記載しておかなかったし、
当然ながら、テープとかも取っていないし。
だから、思い出す時点で「間違えている」可能性もある。
勘違いして付け加えたり、
落としてしまっているエピソードもあるのかも。
クライアントさんと話を磨りあわせたなら、
お互いが記憶しているところに、差異があるかもしれない。
何で、書いて残さなければならないと思うのか、
それはわからないけれど・・・
きっと、残しておいたほうがいいかなっていう、
何かの意志があるんだろうね。
書いて残したからって、だから、どうした・・・って思うんだけど。
セッションをさせていただいて、
教えてもらっているのは誰でもない、私だったりする。
色んなケース、ドラマを見させてもらって、
たくさんのことを学ばせていただいている。
私は占い師だったときも、ヒーリングの仕事にしても、
誰かに教わらないままにいつもそれを仕事にしてしまっている。
ヒプノセラピーもそうだ。
本を読んだり、自分がクライアントになって、受けてみたりして、
そこから勉強しようと、
やり方や技術を吸収しようとしたことはあるけれど。
ほとんどが本能的に、直感の導くままに、
そしてガイドたちの言われるままに・・・
師匠とか先生もいないままに、今日まで来てしまって、
何か、いい加減だなあ、とも思ったりするが。
そんなんで、最初の三年は研修中といったところで、
ホント全てが手探りで
知識もろくにないままに、行き当たりばったり、
「これはどうしてなんだろう?」「なんでこうなってるんだろう?」
毎日が疑問だらけだった。
自分が経験したこと、
疑問に思ったことの答えは、ずいぶん経ってから、
「ああ、なるほど、そうだったのか・・・」
と、その疑問にすべて答えてくれる
書物との出合いによって解決することになって。
思うに、私はセッション代金というお金を頂きながら、
まるでそれが奨学金であるかのように、
ヒーリングや目に見えない世界のこと
心霊科学のことを現場にいきなり放り出されるという環境の中で
勉強させていただいたもののようだと、つくづく思う。
三年前からは、
私が理解できたことを教えるということもしているわけだが・・・
それすらも、「教える」ことで復習というか、
新しい勉強をさせていただいているわけで。
きっと、いつか今まで頂いた奨学金の分、世の中に・・・
そして私に出資し、サポートしてくれる
霊界の透明なヘルパーさんたちに
還元しなくてはいけない日が来るのかも知れないな。
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