2017/12/23

S・C・F番外編「嫉妬は時空を超えて」

また間が空いてしまいました。
そして久しぶりのスピリチュアルカルテ番外編。
友人の話です。
本編は、許可をもらっているのでそのうち書きます。
まずはその周辺の話から。

友人がとある場所から戻ってきた直後、
「なんかヘン。ふらふらする。
 みんな(仕事仲間)にも様子がおかしいって言われる。
 おまけに胸にぽっかり穴があいたみたい」

ちなみに音楽家である友人は、
仕事で地方に行くことが日常茶飯事だったりします。
チャットで会話している限りでは、
離魂病を起こしているのかなあ?とも思ったので、
とりあえず足裏マッサージとか受けておいて~
…とアドバイス。
ごく初期の、軽度のものだと、
それだけで改善することも多いので。

シャーマン体質の感じやすい彼女のこと。
まして彼女にとって曰く付きの場所に行くことになるので、
(そのあたりは本編にて)
なんかしら大なり小なりのトラブル予測はついていましたが。
でも、これまで自力で何とか乗り越えてきた人だったので、
私が手助けするほどではないかなあ、とも。

実際、彼女は胸にできた穴の原因ではないかと思われる
過去の出来事に対して、セルフヒプノを試みたそう。
そして二つの過去生にアプローチして書き換えをし、
それで解決と思いきや…

「おかしい…なんかスッキリしない」

で、結局お客さんとして来ることに。

彼女が仕事帰りだったので、
まずは「夕飯を食べよう」とうどん屋に。
顔を見た瞬間、「ありゃ」と思いましたけども。

海老アレルギーのある彼女。
かき揚げに海老が入ってないことを、
店員さんに何度も確認し、注文するも、
食べ始めるとなんと、桜エビが入ってるっっ
それに気づいたものの、取り除いて食べようとする。
フリーズする私。「エピペン持ってるの?」と聞くも、
「持ってない」

「ぎゃー!(心の叫び)」

自殺行為や。

とりあえず、少し粘膜が腫れる程度で済みました。


落ち着いてから、さてセッション。
問題の本質である過去生はセルフヒプノしたから、
とりあえず今回必要ないとは言うけれど、
どうしても気になることがあったので、
色々とチェックしていくと、
前回セルフヒプノした二個の人生のパーソナリティが、
書き替えられた人生(彼女が創った新しい物語)に
どうにも納得していない様子。

本編に書くのでここでは省略しますが、
ようするに、
その物語って今生の彼女の視点で作られたもの。
過去生の彼女の視点ではないわけです。
あくまで私の友人が
「こうだったらいいな」と思う過去なわけで、
過去の彼女が納得する自分の人生ではないわけです。

過去生と言えども、今生の彼女とは別人格。
同一人物であっても同一人格ではないので、
同意見、同じ性格というわけにはいきません。
まして現代に生きる私たちとは置かれた環境や時代、
そして価値観や倫理観が違います。

過去生を昇華させようとするとき…
すなわち過去生ヒーリング(解放)をするときには、
このことに留意しないといけません。

ぶっちゃけ、
霊を上げる(成仏や浄化)させるときと同じで、
その人を納得させ、説得する視点でないと失敗します。

今生のその人が納得する過去のストーリーではなく、
過去のその人が納得するその人のためのストーリー。
それを一緒に紡いで、導いてあげないと、なのです。

とりあえず、友人が創ったものではない、
新しい、過去生の彼女も、現代に生きる友人も納得する物語を、
もう一度創り直して、とりあえず一段落。

でも、その後がメインだったり。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて、
過去生ヒーリングやヒプノセラピーをするときには、
いきなり本題に入るのは危険です。

過去生をいじるということはエレメンタルをいじるということで、
なおかつ書き換えをするときには、
大量にエーテルバイタリティー(氣)を消費することになるので。
事前と事後でマグネティックヒーリングをしないといけません。
でないと、
クライアントを心神喪失や精神的危機に招くことになります。

このあたりを分かっていず、
過去生セラピーの後、クライアントにダメージを与えている
セラピストが多いのは実に残念なことです。

ベッドに横になってもらって、
友人に氣を流しながらマントラを唱えると、
彼女の中に一時的に寄生した「ソレ」が出てきました。

このあたりの話もかなりはしょりますが、
「ソレ」というのは霊ではなくて、エレメンタル。
さっき書き換えをした彼女の過去生のとき、
三角関係で彼女の彼に横恋慕していた人物の、
数百年の時を超えても未だ残る嫉妬と憎悪の気持ちでした。

当時男性だったその人は女性に生まれ変わってて、
その人が作ったものを食べちゃったんだそう、友人。
(当然ながら覚えてないです、その方。
今生の恋敵さんはまったくそんな意識なく、
彼女の過去生のパーソナリティである男性が
今生の友人に仕掛けた攻撃(サイキカルアタック)です。
うーん…複雑。想定外のBL。勉強不足かも)

「ソレ」が友人に、
アレルギー物質を食べさせるよう仕向けた模様。
まあ大事には至りませんでしたが。

とりあえず、「ソレ」を出して、始末つけました。
そして物理的にもいっぱい彼女には出してもらいました。
エクソシストみたいな緑色の液体ではないです。
トイレでゲーゲー それで済みます。
何しろアレルギー物質吐いたほうがいいし。
吐くのも体力消耗するし、しんどいですけどね。

教訓「嫉妬は男も女も怖い」

てな感じでしょうか。

まあ、昔から魔術や呪術の世界では、
食べ物に何か仕込むのは(毒じゃなくて)、
よくあるお約束でありますから。
それに作り手の「氣」が入るのは確かだし。

なので自分を(が)嫌いな人からの食べ物やギフトは
絶対に受け取らず、まして相手が創ったものは
食べてはいけないってハナシ。
何入れられてるかわからないから。


この日はそんなこんなで憑依したものを引っ張り出して、
とにかく氣の補充、補充、補充。

そしてその後、
別の日に第一チャクラの掃除が必要だなって、
始めたら濁流のようにドバドバと色んなもの出て、
ビックリした。

で、エーテルダブルにたまっているゴミを何とかするのに、
幽体離脱させられてた友人…
(ヒーリングにはそのほうが都合がいい。
20cmくらい浮かされてたそう、リアル実況してくれた)。
耳元で宇宙人のような奇妙な話声がすると。
それは怪音波のような幾何学的な変なものだと…

「バッハの、宗教音楽で、パイプオルガンの
パラピレパラポリラ~♪ みたいな
あっちこっち音階が飛んでいるような曲じゃね?」
と言ったら、そんな感じかも、と。

はい、それは一部の人がエノク語と呼ぶものです。
なんてラッキーなんでしょう。
それは大天使たちの話声です。
滅多には人間の耳で聴きとることは出来ませんのよ。
滅多つーかほとんど、だけど。

ヒーリングには大天使たちの関与が必須ですからね。
(彼らが手伝ってくれないと肉体の修復はできないし、
それが彼らの役割でメインワークだから。
そう、命を創ることが大天使たちの仕事。
人間の願いを叶えることなんか彼らの眼中にはない。
多くの天使は理想化されたファンタジー。
人々の幻想が創り出した妄想の産物でホンモノじゃない)

大天使たちの言葉は人間の言語とは違う、
ぶっちゃけ「音」ですから。
向こうにこちらの意志は伝わっても、
彼らの言葉を人間が解することはほぼ不可能です。

※バッハの宗教音楽の音階は天使の言語に極めて近い。
とくに歌なしパイプオルガンのソロ?
天使と会話するための音楽って感じで。
彼ら(天使)を鼓舞し、呼び寄せ、コミュニケートし、
喜ばせるためにああいう曲調なんだと思う。
私は音楽としては聴くことができないんだけどね。
まぁ、バッハは天使の存在を認識できる人だったからさ。

それを聞くことができた友人は超ミラクルラッキー。

聞きたいと思っても聞けるものではないんで。
もしくは聞いても、それと気づく人もいないんで。


とりあえず友人の状態は無事回復。
年末の多忙な仕事もなんとかこなせている…のかな?

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

こちらのブログで「私は霊能者じゃないしー」と
繰り返し何度も言っている私ですが。

なんだかんだ言いつつ。
その手のことをしているのが実情ではあります。

そうですね、必要に駆られて、といいますか、
なんといいましょうか。

でもあくまで、
私のところに回ってくるのは、
たぶん私に対処できるレベルなんだと思うのです。

そちらが専門とは思いません。
私自身が処理しているのだとも思いません。

たまたまご縁が合って、
うちにいらっしゃるお客さんの問題の背景に、
霊的な存在が関与しているとか何とかって時にだけ、
たまたま何とかできてるってことだと思ってます。

だから積極的にそれを売りにしようとは思いません。
確かに対処はしているけど、できるとはいいません。

今までのもまぐれだと思っているし、
すべては、私を助けてくれている
透明なヘルパーさんたちのなせる業なのです。

だから私の能力じゃあありません。
なので、そっちでお商売をするつもりはないのです。

2017/11/28

原始女性は太陽であった~女性蔑視と慰安婦問題

私はフェミニストというわけではありませんが、
世界的に見て、女性の地位はまだまだ低いなと思います。

それでもまだ日本は男女同権と法的には扱われていて、
優遇されたり守られたりしているところもあるから、
第三国に比べるとかなりマシなほうなのでしょう。
カースト制度の根強いインドや東南アジア、
アフリカやイスラム教の国々などの現状を鑑みると、
事実そうなのだと思います。

でも、ネットの女叩きとか、
一向に減らない痴漢やわいせつな犯罪行為、
政治家やお偉い方たちの女性蔑視発言、
嫁を奴隷と思う人々が相も変わらず存在すること。

もっとも安全で文化的な先進国と言われるけれど、
実態は100年前とあまり変わってないようにも思います。
いやそれでも「良くなった」ところのほうが多いのですが。
中身が伴ってない、というところで。

男性も「社会に出れば7人の敵がいる」との諺通り、
イジメにも差別に合うというところでは一緒です。
痴女もいて、男性が性被害にあうことも少なくありません。
「男はかくあるべき」という社会全体からの
ジェンダーに対する無言のプレッシャーもあるわけで。

男性は社会に出て働き妻子を養うべきで、
女性は家庭で家事をして男を支えるべき。
結婚したら式を挙げるべき。子供を持つべき。
結婚は家同士でするもので、子供は親の老後を見るべき。
長男が家を継ぐべき。両親は揃っているべき。
女の幸せは結婚して子供を産むこと。

(なんでもかんでも、べきべきべき…だなぁ)

そういう暗黙のルールも今や崩れつつあるわけですが、
それでもそれを守らないで外れたコースを行くと、
色々干渉されて、とやかく言われることは昔も今も一緒。

思うに、男も女もないわけで、
それは性差であって、区別であるべきこと。
男には男にしかできないことがあり、
女には女にしかできないことがある。
もちろんそのどちらでもありどちらでもない第三の性もある。

それぞれの役割分担を理解して、
各々の特性を生かして助け合っていくのが、
社会のコミュニティの理想的なスタイルかと思うのですが。

しかし人間というのは、
相手を劣勢に置くことで自らの立場を優位にし、
我が身の保身を図りたいエゴイズムを持った生き物なので、
人種や肌の色や国や民族や信仰する宗教を盾にして、
自分が属する側からのマイノリティを必ず創り出し、
偽りの矜持で選民意識と排他的感情を巧みに隠しながら、
徹底的に相手を貶めなくては気が済まないらしいのです。

それが時に男女の性差になるわけで。

第三の性のことはおいておいて…
世には男と女の二種の性があって、
それが自らの父と母の性であるのに、
女の腹によって十月十日育まれ、産み出され、
その乳を飲んで、かいなに抱かれ、
下の世話をしてもらって、育ったというのに、

何故男という性はこれほどまでに女という性を蔑むのか。

それほどまでに自分を産んだ母が憎いのか。
自分をこの世に産んだ性に唾を吐き、足蹴にするのか。

浮気をし放題で下半身に理性のない男性が、
好色一代男だの男の誉だの男の甲斐性だのと言われ、
羨ましがられることはあっても、
同じく性に解放な女性は叩かれるばかり。
不倫のペナルティは女性が圧倒的で、
アバズレだのビッチだの公衆便所だの、
女性を貶める言葉にはキリがない。
性犯罪にあった女性はキズモノだの言われるし、
そもそもそのような暴力的な性の対象として、
どうして消耗品のように扱われなくてはいけないのか。

男でも女でも、
くだらない屑、クソみたいな人間はたくさんいる。
そのどちらにも悪い人間、善い人間がいる。
男だから特別悪いとも女だから特別良いのでもない。
それは国籍でも民族でも人種でも同じ。

日本人でも韓国人でも中国人でも、善い人はたくさんいる。
アメリカ人でもドイツ人でもイタリア人でも、
どこの国だって悪い人間はいる。
環境に影響されて悪くなる人もいる。
平和な世で善人の羊の中にいるからこそ、
上手に羊の皮を被って、
狼の仮面や牙を隠せているだけの人もいる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


日本と中国と韓国が仲良くなったりすると、
都合の悪い人たちがいたりする。
アジアが一つにまとまるより、
いがみ合ってくれてたほうがいい…と。

私たちは相変わらず罠にかすめ取られたままだ。

正直、慰安婦問題は仕組まれたものであろうが。

古今東西、女性が戦争の影において、
犠牲になってきた事実は否定できない。
男性ももちろん戦争の主たる犠牲者であるのだが。
侵略侵攻され、征服された土地において、
多くの老人や子供たちが殺され、略奪がおき、
妊婦は腹を割かれ、女性は性の餌食となってきた。

もし、慰安婦問題を本気で語るならば、
戦争の勝敗における女性や社会的弱者に対する
非人道的な扱い全体について、
もっと深く語られるべきではないだろうか。
一つの国家や民族が、一つの国家にしたことだけでなくて。

当人の意志とは関係なく女性を強制的に連行し、
性の奉仕者として屈辱的な行為に甘んじさせた
過去すべての戦争においての女性差別について…
その非道の犠牲となった世界中の女性の慰霊として、
そうした像は創られるべきであろう。

その犠牲者の中にはもちろん日本人も韓国人もいるし、
中国や台湾や東南アジアや西洋諸国、
アメリカやアフリカ大陸、すべての国、民族の、
あらゆる女性たちが含まれていないといけないと思う。

女性たちを贄にした加害者たる男性たちも、
それこそ日本や韓国、アメリカやドイツや
すべての国が含まれるのだと思う。

今も遠い空のどこかで、犠牲になっている女性も含めて。

一つの国が一つの国に対して行ったことだけを、
部分的に取りあげて単純に糾弾し、
いつまでも怨嗟のターゲットとして
遺恨を次世代へと受け継がせる道具にするのではなく、
女性を強制的に性的な奴隷として扱う行為そのもの、
そのことこそが問題であり、
差別と紛争と分離と対立の歴史の源の根底で、
このような女性蔑視は排除されるべき考えであると、
人が人としてあるまじき非人道であると…

そのように騒がれるのなら、わからずもがな。


なんかこの問題、肝心なことのすり替えというか、
本当に考えべき焦点からズレまくっている気がする。

例えば日本が「反核」を唱え、
被爆者たちが核の恐ろしさ、自らの体験を語ることを、
「被害者ぶって、加害者に補償と謝罪を要求している」
と謝って解釈され、捉えられてしまうのと同じくらいに。

ヒロシマやナガサキの犠牲者たち、被爆者たちは、
「よくも…」という恨み言を言いたいがために、
あの日の辛い記憶や思い出したくない苦しい体験を
後世に語っているわけではないというのに。

ただ、自分たちと同じような苦しみを味わう人々を、
二度と存在させてはいけない、
同じ痛みを誰かにして欲しくない、
過ちを繰り返して欲しくない、
原爆の後遺症というのがどれほどのものなのか、
土地や生き物が死滅し、一瞬にして廃墟になる兵器が
この世にあってはならぬと、
ほとんどの人がそれだけを訴えられているのに。
世界では曲解して伝えられ、理解されていないように。

日本がどうの韓国がどうの、ではなく、
戦争や他国による支配や侵略によって、
本来ならば起こらなくていいはずの悲劇が起きてしまう。
そしてそういった非常事態において、
女性を性の道具、奴隷として玩具のように扱う、
そういう決まりごとのような悪習慣、
発想がこの世にあることがおかしいのだと…

そういったことにもっと
目が向けられるようになるといいなと思ったりする。

もちろん戦争の悲劇はそれだけじゃない。
戦争はすべてを壊してしまう。
平和だけでなく、人々の暮らしもモラルも品格も尊厳も。
そして戦争は人間が人間であること自体を壊す。
人の子であり親であり友であることも引き裂いて。

てなわけでこの問題に関しては
日本と韓国は未だに戦争をしているのかも知れない。
肝心の被害者になってしまった、
女性たちの本当の人権は置き去りになったまま。
誰も本当の問題を語らないまま。

どこの国の女性たちも犠牲になっている。
どこの国の男性たちも加害者になっている。

こんなんで今後も女たちが犠牲になることが、
終わりになる日が来るのだろうか。

女性を性の道具とみなし、
戦争になったときに公衆便所として扱う
男性たちがいなくなる日は来るんだろうか

そんな風に女性を扱った男が、
愛する女や娘が、母が
他の男たちからそんな目にあったとき、
どんな風に考えるのか、考えたのか…
どう思ったのか聞いてみたい気がする。

戦火の中だけでないけど、
児童に対する虐待も含めて、
性的な事件が起こるたびに思う。

性的暴行の加害者たち、
あなた方はあなた自身を、
あなたの母を、姉を、妹を、
妻を、娘を犯しているのだ…と。
そして冒涜し貶めているのは彼女らの肉体ではなく、
人間としての尊厳であり人格なのだ。

あなたは、胎内として還るその場所…
あなたの生まれる場所を
同時に汚していることを忘れてはならない。
あなたはあなたを休ませ、
守るはずの手を焼き切り、あなたの宿り場を貶め、
本来あなたが与えられるはずの
母の愛を干からびらせ、貶めているのだ
そのことを忘れないでほしい


2017/10/28

人生の宝石

人は決して一人では生きていくことが出来ない。

★ ★ ★ ★ ★

唐突ですが、
皆さんには友人と呼べる人たちが何人いますか?
そしてその中に、親友と呼べる人はいますでしょうか?

気の置ける友人や仲間、
一緒にいて楽しい人、会えないことが寂しい人。
何も話さなくても安らげてリラックスできる人。
会うだけで元気をもらえてハッピーになれる人。

本音を打ち明けて、感情の裏表もすべてさらけだせて、
イヤな自分もダメな自分もお互いに見せ合って、
喧嘩もできて、本気で自分を叱ってくれる人。
自分のために一緒に泣いて笑って怒ってくれる人。
何かあったときには駆けつけてくれて、
黙って傍にいてくれる、自分を大切にしてくれる人。
優しさだけでなくキツイためになるアドバイスをくれる人。

様々な感情や同じ時間を共有して、
色んな事を話して、ともに年を取って、
未来への展望や夢、昔話を懐かしめる人…など。

★ ★ ★ ★ ★

まぁ、それはノリコがいけませんよ
わかいのにおばあさんみたいです

おぎょうぎのよい優等生みんなニガテね
おしゃれやB・Fやスターの話
とても楽しいおしゃべりです

私なんか学生時代 寮を抜け出して
シナトラのコンサート行きましたよ
みんないっしょでそれは楽しかったわ

友達を作らないのは 宝石を捨てるようなものですよ

          by 「有閑倶楽部」一条ゆかり

★ ★ ★ ★ ★

話代わって、
人の幸せってどこにあるんだと思いますか?

何が人を幸せにしてくれるのか知っていますか?

お金でしょうか? 恋人(パートナー)でしょうか?
地位でしょうか? 仕事でしょうか? 名誉でしょうか?
健康? 物質? 成功? 権力やすべてを手に入れること? 
それとも心配や不安のない状態でしょうか?
自分の望みがすべて叶うこと?

愛が人を幸せにすると答える人は多いと思います。
でも、その愛というのがなんであるかと問われると、
答えられる人は少ないでしょう。

人の幸せは「愛」にあるといえばそうだけど、
厳密には「愛」がある状態が幸せといったところで。

でも、愛されることが幸せというのでもないのです。
そもそも愛を与えられて幸せになるものではなく、
愛することの意義と意味を知ったとき…
愛を幸せと感じることができるわけで、
人を愛する喜びの中に「幸せ」を見いだせるって感じです。

とはいうものの、
私たちの云うところの「こころ」は、
実際のところ「幸せ」という感情を味わうことができません。
つまり「こころ」というものは、
「幸福感」の疑似体験ができるだけで、
それは一時的な満足感なだけであって、
残念なことに永続的なものではないんです。

真の意味での幸福感は、感情レベルで得ることはできないのです。
なので、一時的に満たされても、
恒久的なものではないから、すぐ飢餓状態に陥ってしまいます。

ようするに、
感情を満たすことは「真の幸福感」を得るにあらず、
幸福の疑似体験を一時的に与える麻薬のようなものです。

物質的なものから得られる満足感は感情を満たします。
ですが、これは本当に一時的なもので、
すぐに次の感情を満たすものを探さないといけなくなります。

男女の恋愛もまた、感情を満たすだけの、
真実の愛とかけ放たれたものがほとんどです。
だから信頼関係も壊れやすく、気持ちも醒めたり、
かんたんに相手を嫌ったり憎んだりもしがちです。
恋は誤解、愛は理解といいますが、
誤解から始まって、一時的な感情の麻薬に中毒し、
それを愛と錯覚して繋がっている人は多いです。
(それが悪いということはありません。
そうしたところからスタートする関係にも意味はあります。
恋愛や結婚という関係は、個人を成長させ、変化をもたらし、
互いにとって人間関係での大きな学びになるからです)


さて、
では人の「真の幸福」というのはどこにあるのでしょう?

それは喜びを分かち合うということ。
感情を「シェア(共有)」し、
あらゆるものを他者と分かち合うことに、
「幸福」への近道があったりします。

そして、自分を犠牲にすることなく、
他人のために生きることができたとき…
他人のために生きることこそ「喜びである」と…
魂の奥底で実感し、知ることができたとき、

人は真の意味での「幸福感」を味わうことができます。

でも、それは
「他人のためにやってあげてる」とか
「他人のためになることをすれば自分は幸福になれるんだ」
などという視点で行っても、到達できる領域ではないのです。

そこに至るまでには、
踏まなければいけないステップというものがあります。

まず自分のために人生を生きること。
これができなければいけません。
エネmeになって、
他人の支配下の中で自己犠牲を強いられて、
搾取されて奴隷のように生きる人生は、
決して「他人のために生きる喜びを得られている人生」
ではありません。

他人を差別・虐待してはいけないと同様に、
自分のことも差別・虐待してはいけないのです。

他人も幸せにするなら、自分も幸せにしないといけません。

自分を幸せにすることが、
私たち一人ひとりがこの世に生まれた主たる目的なのですから。

(もう一つ、その人のお役目を果たすことすなわち、
自分自身のカラー=創造性を表現する生き方をすることが、
魂の充足感と幸福感を得る必須科目たる条件でもありますが)


他者のためになることをして、
自分が満ち足りた充足感と幸せを感じられる。

ぶっちゃけ、
この状態に達することは「悟り」を開くことと同意語です。

まあ、はっきりいって難しいですし、
自分にはまず無理~!って思う人も多いでしょう。


とりあえずそういう人はそれでいいんです。

今生でやり遂げようと焦る必要はありません。
急にそこまで高尚な目標をいだき、
その高みを目指さして、無謀な精神修養に走らなくても、
人類みな輪廻転生を終わらせるために、
誰しもいつかはその山の頂に到達しなければならないので、
来世とか来来世とか、後100回生きればとか気を長く持てば。
数万年先かも知れませんけど。


手っ取り早く、簡単というか、
誰にでもできることで、その学びや機会を得るためには、

「仲間」や「友人」を作り、「親友」を持つことです。

人は人の中でしか学べず、成長できません。
普通の人間関係、社会というコミュニティでもまれ、
自分を形成していくことも大事なんですけれども、
それとは別に、

「友愛」という、「こころ」と「こころ」で結ばれ、
繋がっていける関係を育てていくことです。

もちろんパートナーを持って、
「恋愛」という関係性から
「愛」や「人間関係」を学ぶことも素晴らしいことです。

でも、家族ではなく、血肉の縛りのない他人同士。
同性異性の性別、職業や世代、
肩書や利害関係を超えたところでの、

共に支えあい、助け合い、色んなことを分かち合い、
互いからあらゆることを学び、与え与えられる、
友人そして親友(心友)といった関係作りは、
なかなか容易なものではありません。

失敗もするし、裏切りと思えるようなこともあるし、
恋愛と同じで相思相愛でないと上手く行かないし、
気の合う人、心を許せる人と出会える機会は、
そうそう人生であるものではありません。

だからこそ、縁を大切にして、
たくさんある出会いの中から、
自分にとってしっくりきた「ご縁」を見出して、
大切に育てて、縁を紡いでいく努力が必要になります。

結局、そこは男女間の恋愛も同じなんですけども。


確かに、
友人関係から得られる感情的満足、
色んなことをシェアする感覚も、
一時的に感情を満たす疑似的幸福感には違いありませんが、
それでも、物質的な事物や肉体的感覚、
性的な興奮やクスリから得られるエクスタシーや
エコイムズを満たすだけの疑似的充足感よりも、
はるかに本物の幸福感に近く、
なおかつ私たちの霊的な成長を促進させてくれる
人生の特効薬といっても過言ではありません。

何よりも、歌のセリフではありませんが、
誰かと繋がっている、「独りではない」という状態は、
心の平穏と安心感に繋がり、孤独を和らげますから。

とはいうものの、
ニセモノの、偽りの関係では意味がないのですが。
(妥協して相手にへりくだり、
好きでもなく尊敬のない相手に迎合し、
従属している関係からは何も生まれません。
その逆で相手を縛り付け、相手を認めず軽蔑等あるのに、
力や義理で支配しようとするような関係でも同じです。)

でも、いつわりの自分ではなく、
本当の自分を生きられるようになったとき、
似たもの同士は引き合うので、本物の出会いもやってきます。
自分の力を取り戻すことさえ出来れば…。

FBくらいしか私はやってないのですが、
SNSやツイッター、そしてLINEなどが流行り、
スマホ依存なんかがあるのも、「誰かと繋がっていたい」という、
皆孤立することに恐れを感じているという証拠だと思うのです。
自分に関心を持ってもらいたい(愛されたい欲求でもあり)、
人と話すことで寂しさや孤独感を埋め合わせたい、
…なんかまあ、それも飢餓感かな。

今の仕事ではなく、占いの仕事をしていたとき、
友達がいれば済むようなたわいのない話を、
わざわざお金を払ってしにくるお客さんもいました。

占い師に依頼する内容というより、世間話。
友達にするようなちょっとした相談話とか。

もちろん、
身近な人だから言えないこと、悩みもたくさんあるでしょうが、
決してそのようなものではなく、
お金を払ってまで(大枚はたいて)いう話なのだろうか?
と疑問に思うような話なんかも多くされたものです。
時に命の電話にかけるような深刻な話などもあったりしましたが。

みんな孤独で、自分の話を聞いてもらいたい、
存在や小さな思い、気持ちを分かってもらいたいんだな、と…

そういうのは、今の仕事に移行してからも、あったりします。

友達がいない、友達が欲しい。

そういう悩みを聞くこともありましたよ。


★ ★ ★ ★ ★

憎しみや怒りより、
“孤独”が人間を加害者にも被害者にもさせ、
人間をダメにもする

by 岩井志麻子

★ ★ ★ ★ ★

豆知識になりますが、

スピリチュアリズム的には、
人っていうのは、今所有している身体すなわち、
肉体(3次元)・感情体(4次元)・思考体(5次元)の3つの身体では、
実のところ、「幸せ」を感じることができません。

幸福を感じる、味わえることができるのは、
精神体(6次元)という、
私たちが上記の身体を用いて育てなければならない身体です。

知恵(思考体)を愛(感情体)を用いて、
行動・表現(肉体)していかないと、
この精神体は育ちません。

愛のない知恵を用いて行動してもダメだし、
愛だけで行動しても、そこに知恵がなければダメです。
知恵と愛だけで、行動や表現をしないというのもダメ。

真の意味の「幸福」を知っているのはこの身体です。
そして、この身体が育たないことには、
幸福感と充足感を得られず、
いつまでたっても何か物足りず、何をしても満たされず、
どこかに虚無と欠落感があり、ゴールが見えず、
魂の飢餓感のある、彷徨える人生を生きることになります。

(物質的なものは肉体を満たし、感情を満足はさせますが、
精神と魂は決しておなか一杯にはならないのです。
物質的な成功をしてもどこか虚しく、精神は満たされず、
不幸な人がいるのはこのためです。
愛=愛する存在が身近にいるということだけではないので。
なぜなら愛は得るものではなく与えるものだから。
愛は外から与えられて満たされるものではなく、
自分の内側にある愛に気づけないと充足に至らないのです)

精神体は6次元の身体(解脱した身体、悟りの状態)ですから、
ある意味でワンネスの場所とも言えます。

私たちが日々求め、欲している「幸せ」は、
この6次元にこそ存在します。

ですが、私たちはリアルで、
3次元(物質界)と4次元(想念の世界)と5次元(思考の世界)にしか、
身体を所有していず、この3つの次元にしか存在していません。

残念ながら、「真の幸せ」は、
今私たちが意識を向けている物質界たる3次元にはないのです。

それでも自らの身体、
「肉体」と「心」「思考」を大切にし、愛や知恵を育み、
それらを物質社会で行動して自らを表現していき、
自分と他人の境界線をなくして考えたり、感じたり、
(他人の身にに起きていることを、
まるで自分のことのように感じたり、
考えたりできるようになって行動できるようになること)

他人と感情や思想、考えなどを共有し、共に生き、
あらゆるものを分かち合い受け入れていく中で、
様々な事物や他者に対する理解を深め、
与えたり与えられたりする過程において、
自らが幸せになり、他人の幸福も喜べるようになり、
そして、そのような日々を一進一退で繰り返しながら、
いつの日か他人のために生きられる人生を、
それが自分の喜びであると…
他者に与え、支え、尽くし、
他人のためになることをすることが、
その中に自分の喜びがあると気づけたとき、

人の真実の意味での幸福にたどり着けたことになるのです。

ようするに、
人は決して一人では「幸せ」になれないのです。

その「幸せ」を分かち合う誰かがいないことには。

より多くの「悦び」をシェアできる人々を得られたとき、
人は、自分にとっての「幸福」を感じられる場所に、
もっとも近いところにいけるのです。

「孤独」はもっとも「幸せ」に遠いところです。
「幸せ」になりたいなら、
「孤独」から脱出しないといけません。

「独り(ぼっち)」のままではダメなんです。


ですから、まず一歩としての、
周囲の人との関係、友人、パートナー、家族との関係性、
その中で「共有できる喜び」を見いだせる人がいるなら、
その可能性を大切にしてください。

あなたの幸福のタネです。

相手が日々元気でいてくれて、
幸せでいること、満たされていること、
そして相手の笑顔を見れたことに、
悦びと感謝を覚える気持ちの中にこそ、
あなたを幸せへと導く道があります。

見知った誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、
見知らぬ誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、
それを心から喜び願い祈ることができたとき、
知る人知らぬ人問わず、
誰かの幸せのために働くことができたとき、
私たちは大きく霊的に成長していくことができます。


★ ★ ★ ★ ★

大切にしたい人がいるなら、
大切にできる間に大切にした方がいい。
仲良くしたい人がいるなら、
仲良く出来る間に
仲良くしておいた方がいい。
人間なんて、
本当にふとしたきっかけで
二度と会えなくなったりしてしまうものだから。
驚くほど簡単に
どこかへ行ってしまったりするものだから。


★ ★ ★ ★ ★

一緒にいて楽しい人ではなく、
一緒にいられないことが寂しく、
傍にいてあげられないことが寂しい人を、
友人に選びなさい

2017/10/25

10年目のリセットと気づき

私には生まれる前そして生まれた時の記憶がある。
もっとも、それはとても断片的なものであるが…

里帰りしての出産だったので、
出生地は関東ではなく親の郷里である鹿児島。
産院の大部屋に入院している母を、
私は病室の少し上から見下ろしていた。

その後の記憶は退院してから。
年が明け、泣き出しそうな重くて暗い冬の空、
雪が降りだしそうな寒い日に、徒歩で母の実家へと向かう途中、
何故か母方祖母の手に抱かれている自分。
白いおくるみが印象的だった。
(しばらくは産院に近い、父の実家にて過ごした模様。
母と父の実家は車で30分位だが何故か徒歩での移動。
※ちなみに当時は九州にも雪が降ることがあった)

視点はあくまで俯瞰であって、
祖母を見上げているのではなく、
抱かれている自分と祖母と隣に歩いている母。
そしてもう一人叔母とまだ幼い姉がいた。

どうしてこの景色を覚えているのか…
どうして私は赤子たる己が肉体の中にではなく、
外から他人事のようにこの様子を眺めていたのか…

この記憶があることを不思議に思うより以前に、
何故に私はこの家に、この両親のもとに
生まれてくることになったのだろう?と、
自問自答し、後悔することのほうが多かった。


生まれてくる親を子は選べないと人の云う。
しかし、私は確かにこの母を選んで生まれてきたのだった。

今だからこそわかるのだけど…
私は単純にこの母を、気の毒に思い、助けたかったのだと思う。

親の決めた結婚相手に嫁いで知らない土地にきて、
旦那はシスコンのマザコンでおまけに経済DV男で、
小姑二人のイビリにあい、念願の長男を亡くして、
実家では搾取子だから居場所なく帰れないまま、
長女遺して死ぬに死ねず、病みかけているこの人を。

ああ、そうだったな…と思い出したのが近年。

でもようやく気付いたんですよ。

何でもかんでも他人のせいにして、
私はなんて不幸なのヨヨヨって浪花節に酔っちゃってる人は、
どうにもこうにも救いようがないんです。

親のせい、生まれ(貧乏)のせい、時代(戦中戦後)のせい、
学校行けなかったから、好きな相手と結婚できなかったから、
こんなマザコンシスコン男と結婚したのが運の尽きだった、
イジワル小姑が悪い、父実家の人たちは酷い、
子供がいたから別れられなかっただの、
もうね、状況のせいにして悲劇のヒロインなりたがる人は、
どうしようもないんだって、痛感させられました。
ずいぶん長い時間無駄にしちゃったなあ、と痛感しますけど。

こういう人は、私の母みたいな人は、
自分の人生の責任を何一つ自分でとろうとはしないんですから。
いつだってどこだってどんなことでも他人のせい、周囲のせい。
とにかく私は何にも悪くないって、
自分の問題点を一つも認めようとしないし、一向に非を改めない。

嫁いだ相手がダメだこりゃな相手だったら、
裸足で逃げ出せばよかったんですよ。
学はなくても、社員の経験はあるし、
偏狭な九州と違って都内に近い関東なんですから、
仕事だって探せば何とかなったでしょう。
子供がいるから離婚できないなんて、甘えですよ。
中絶できないから生んだとかいうけど、
私ができたから離婚できなかったっていいわけする前に、
私のこと中絶すりゃ良かったんですよ。
それでて子供に危害加えられても助けも守りもしないし、
離婚する勇気とかなくて、子に対する愛情もなくて、
結局独りで生きていくのがイヤだっただけじゃんて、もうね。

ようやくこの結論に行き着いた決定的な出来事があって、
あれやこれやそうだなあ、と自覚した次第です。

★ ★ ★

私のこの甘い認識は、仕事にも反映されていました。

今生での母への同情は、
同じく周囲の人やお客さんに対してもそうで。

人生の荒波で溺れている人、
どん底の苦しみや慟哭の辛さを抱えて、
やりきれないネガティブな思いに囚われて、
不幸の連鎖から脱出できずにいる人。
奈落に転げ落ちるようなにっちもさっちもいかない、
四面楚歌の壁に阻まれて、絶望の底にいるような人。

そんな運命の迷路で彷徨い、
舵を見失ってしまったかのような人に、
運命の抜け道を探してあげたいなって思ってたんですね。
希望を与え、光ある方向を見つける手伝いをしたかった。

自分に自信がなかったり、生きる気力を失っている人に、
理由なき苦しみやトラウマに悩まされている人に、
その原因を取り除き、その人本来の力を取り戻す、
そういうサポートをしたいとずっと思ってた。

占いにしてもヒーリングにしても、
その手段にしか過ぎませんが。
結局そのどちらにも限界があったから、
根本的な問題解決として自分の問題に向き合ってもらい、
望むような創造的でよりよい人生を生きてもらうために、
人生の、運命の仕組みを
(どのようにして人生が創られるのか)知ってもらい、
その上で様々なテクニックとしてのエネルギーツールを
教えるためのスクールを始めることになりました。
スピリチュアリズム(霊的真理)を基礎とした、
エソテリックな人間塾、グループレッスンです。

それが10年前のこと。

当初はリクエストを頂いての成り行きから始めたことでしたが、
次第にそれはもっとも私が力を入れるライフワークへとなりました。

やはり、一回きりの、
何かあったときの問題解決のサポートとしての、
個人セッションでは限界があったので、継続的に、
それぞれ個人が潜在的かつ常習的に抱えている問題に対し、
定期的にサポートして、なおかつ共に考えることの出来る、
チームメイトで同胞たる仲間がいることはとても有益で、
複数の人間の意見を聞いたり、アドバイスを受けたりすることは、
個人セッションより何倍も有意義な時間をもたらしてくれました。

でも、それでもやはり人が集まると色々問題は起こります。
トラブルが発生することを避けることは出来ません。

知識を得て、何かの技術を取得出来る段階において、
人は慢心することがあります。

同じスタート地点から始まった人と比較して、
自分のほうがクラスメイトより優れているとか劣っているとか、
コンプレックスを抱える人もいれば、
驕りが生まれ、優越感に浸ろうとする人もいます。
「先生」のお気に入りになろうとする人もいます。

知識やテクニックを得たことで、
そうした知識やテクニックを持たずも
周囲を見下すようになってしまう人がいます。
自分のほうが「友人」や「仲間」よりも秀でていて、
能力が上とばかりに傲慢の罠に囚われてしまうのです。

スピリチュアルなことを学び、
サイキカルな能力が目覚め始めた人によく見られる兆候です。
このような人はごく一部にしか存在しませんが、
必ず一定数は出てきてしまいます。

自分の人間的な欠点に目を向けず、
何を学びに来ているのかを根本的に理解しないで、
ただ自分を悩まさせている問題や事象が、
自分の期待している方向に、
ただ解決することを期待している人も多いです。
これは一般的にみて仕方ないかなとも思います。
学びが進む段階において、知識を身に着け、
自覚が生まれたり、視点が変わっていったり、
問題意識が高まってくるかどうかなので。

エソテリックな学びの場においては、
グループになったとき、学びもグループ単位になり、
お休みする人がいたりするとグループとしての波動も下がります。
学びの場に参加して、ともに支えあい、互いの問題を考え、
同調して取り組みあうことで個々の波動が上がるので。
でもこの過程でエゴイズムが露出します。
個人も大事だし、協調性も大事。
だけど同じ仲間となった人に対しても責任がある。
グループの一員として、他の人の学びに対して責任を持つというか、
手助けをしようというサポート意識、連帯感もすごく大事で。

誰よりも自分の問題でレッスンの時間を割き、
仲間のサポートをたくさん受けていた人ほど、
不義理な止め方をしたり、挨拶もなく、音信不通になります。
何年も一緒に関わって、助け合ったり、助けたり、
共に泣き笑いしたように思っても、
人間社会のルールもマナーなんてあったもんじゃありません。
置き忘れた私物を送付しても、なしのつぶてです。


人生が障害だらけ、うまくいかないって人は、
その人自身の考え方によるものが大きいってそれだけなんですが。
カルマのレッスンでわざとそうなってることのほうが多く、
ある意味で、性格や考え方の歪みを「気づかせるため」であり、
暴走させないための重石みたいなものなのだと思います。

この辺りは、その「重石」が一時的にでも軽くなると、
すぐにその人本来の性格が顔をのぞかせるから、すぐわかります。
状況が改善されて、自分を苦しめていた問題が解決したとき、
そのことに対して謙虚に感謝して、本来の直さで生きられる人と、
調子に乗って本来の傲慢さとわがままに拍車がかかる人とに、
だいたい大きく分かれるからです。

スクールでは、
後者の人はすぐに天狗になるからわかりやすかったです。

人生がうまくいっていかず、にっちもさっちにもいかなくなって、
行き詰まって、藁をもつかむ思いでいるときには、
人の話に耳を傾ける人は多いです。でも、問題はそのあと。

自分を悩ませている事象が消えたとたん、
それまでの謙虚さは一気に消え失せてしまう。

ああ、だからこの人の「問題」は解決しちゃいけないんだな。
本当に気づくまでは、苦しまなくてはいけないんだな。
でないと、またもっと大きいのが後からやってきて、
其のときにはきっと取り返しがつかないんだろう…

そういう人って多いです。
「重石」が取れてみたならば、
自己中さが赤裸々にむき出しになる。

でも、そのような要素がある人だからって、
最初に突き放すことは出来ません。
途中で気づいて、
人としての良心に目覚めてくれることも多々あるからです。

でも、直りたくない人は直らない。
自分が変わりたくない人はいかようにしても変われない。

他人がその人を変えるわけではなく、
私は変わりたい、成長したい、人生を変えたいと、
そう望んでいる人をサポートすることは出来るけど、

変わりたくない、
変わろうとしない人を手助けすることは、
どんな人にも難しいことです。

マイナスに投資してもゼロにしかならない。

人を救うなんて本当に驕りでしかないけど、

私が今回の人生で、
「この人の娘に生まれて、母であるこの人を救ってあげよう」
なんてのは笑止千万の驕りでしかなかった。
偽善的な甘いドリームでした。


★ ★ ★

自分本位の女性って、
人と話していても、
直ぐに自分中心の話に持って行ってしまい、
”私は私は”とずーっと一人で話しているのだそうです。

そして、人に自分の事を否定されたりすると、
直ぐに逆ギレしてしまい、自分は間違ってない、
自分は可哀相だと騒いでしまうようです。

こんな女性、結構、居ますよね。
この事を、「境界性パーソナリティ障害」と呼ぶようです。
対人関係や自己に対するイメージなどの広い範囲において、
激しく考え方や感情が変化して行く特性がある障害だそうです。

by 某ブログより引用


看護士の知人が、当時働いていた心療内科の病棟にて、
患者さんに引きずられて、精神を病んでしまう医師が多い、
と言っていた。
(自らに処方箋を書いて、薬を飲まずに居られないそう)

自らの内面の闇や性格の異常性や問題に気づいて、
心療内科や精神科を受診する人は重篤だろうが、
重篤であっても自らの異常性に気づかないもの、
薄々気づきつつ当人も周囲も認めようとしないもの、
そういう人たちは外にある事象にその原因を求めがち。

すると、中には「運命」や「霊的な要因」あるいは、
「過去生」などの問題に責任を転嫁しようとする人もいる。

本当に原因がそこにある場合もあるけれど、
上記に引用した文章中に示されるような、

・境界性パーソナリティ障害
・自己愛性パーソナリティ障害
・妄想性障害
・統合性失調性
・発達障害

などの人も占いや霊能的なことに助けを求めてきたり、
チャネリングやリーディング、ヒプノセラピーなどの
スピリチュアルなワークの門戸を訪ねてくることも多いから、
その手の人をいかにして、
本当に必要な医療的ケアやサポートに導くか、

というのはこの手の仕事に携わる人の悩みの種でもあり、
対処法を学ばなければならない課題であるかもしれません。

何故なら、私たち、スピリチュアルワーカーは、
医師ではなく、
診断もその手の専門的治療も出来ない存在だからです。

かなりの早い段階で、
そのクライアントさんがそうした精神障害の問題を、
抱えている人であるということを見抜いて、
理解した上で適した距離の取り方や対処法をとっていけば、
症状や状況の悪化も防げて、一番良いのですけれど。


私のところに来ていた、
境界性パーソナリティ障害の人は二人ばかりいて、
引用した文章の通り、
何かというと「私は、私は」と、
他人の話にすぐに割り込んで、その話題を取ってしまう。
他人の話を横取りするというか、すぐに自分の話とすり替えて、
自分が主役になって、延々と自分語りをする。

そして、一対一の時はしないのだけれど、
三人以上で話をしていると、必ず誰か一人を無視して、
のけ者にしてしまう。誰かしらをハブるわけです。
自分の仲間うちの集まりに部外者を連れて行ったなら、
自分の連れのその人そっちのけで、
その人にわからない仲間うちの話をして、
アウェイの人を放置する。

これって意図的にわざとでなくて、無意識なんですよね。

自分は常に悲劇のヒロインで、被害者の立場。
性格の問題や欠点を指摘されて、非を責められても、
いつだって相手が加害者で、自分は悪くないと、
怯えて傷ついた自分をマヤって、同情を引き、
相手をワルモノにして、味方を作ろうとする。

単純に性根の腐った性格の悪い腹黒女、と思いきや、
もうこれは人格障害なわけです。

でも、当人が自分が「人格障害」であると、
何処かで気づいて専門的な治療を受けないことには、
どうにも治療は難しいでしょう。
こういう人にはスピリチュアルな知識は理解できず、
むしろ下手な自己養護と言い訳の材料。
他人や霊的事象のせいにする都合のよい理屈に
勝手にされてしまいます。

自己愛性パーソナリティ障害の人もそうです。
知識を正しく理解し、自分自身の問題と対峙して、
人生を生きる上でのノウハウとテクニックと使うのではなく、
自らの正しさや存在価値を証明するための道具に、
オカルトやスピリチュアルな知識を利用しようとするなど、
主に己がエゴイズムの承認欲求を満たすためだけに、
力を手に入れようとしたり、
知識を理屈にすり替えようとします。
こういう人は、スピリチュアルな教えを説くものに対して、
自己投影が激しいので、同化意識を持ち、
しつこいくらいに、ものすごく執着してきます。
自分を認めさせようと、付きまとってくるのです。



このようなことを理解するために
講座を開いた10年だったような気がします。

その意味で、誰でもない私自身が、
多くのことを学ばせて頂き、貴重な経験を得ました。

そして こうした人々が表してくれた問題の中に、
私自身の問題の種を見出すことが出来たのも大きかったです。

多かれ少なかれ、
私自身の中にも、彼らは存在していました。

彼らと対峙することは、
自分自身の問題と対峙することでもあったと、
いまはよく理解しています。

人生とは本当に無駄はなく、
すべてが学びなのだなと思います。

どんな出会いにも意味があり、
必要でない出会いや出来事はありません。

すべてが必然なのだな、と実感しています。

自分に必要なものはすべて人生の中にあるのだと…
自分を成長させる経験は、人生において、
ぜんぶ用意され、提供され、与えられているのだと、

私は自分の人生でのことを振り返って痛感させられます。






2017/10/24

会者定離~幽明境を異にす

会うは別れの始めなり。

別れの来ない出会いはない。
人は死に向かって生きており、
共に人生を生き、同じ道のりを生きていたとしても、
やがて「死」が互いの居場所を引き離す。

出会ったときから、別れは常に付きまとう。
いつか必ず別れの時は訪れる。
どんな風に「別れる」か…
互いの関係性をどんなふうに締めくくるのか、
出会いと別れまでの物語をどのように飾るのか、
心の中の、思い出という置き場所にどのようにしまい、
どう位置づけるのか…

それだけ。

どんなに大好きな相手とも、大嫌いな相手とも、
憎くてたまらない恨めしい相手とも、
憧れの人であっても、
さみしいかな、「会わない」「会えない」という選択以外に、
「死」が確実に互いの居場所を分かつのである。
別れの日は誰にでも公平に訪れる。

和解は生きている間でこそ。

「あの世」での再会なんて幻でしかない。
死んでしまえば、その人生での出来事も、
お互いのことも、何もかも忘れてしまうので。

だから、生きている間に、
仲良くできる人とは仲良くしていたほうがいい。
二度と会えなくなってしまう前に。
できるだけ会いたい人とは会っておいたほうがいい。

「別れ」の日は、望もうが望むまいが、
思いがけずあっという間に訪れてしまうのだから。

下手なプライドに振り回されて、
意地を張って、強情でいる間に、
相手はこの世から去ってしまうのだから。

すべてを失って後悔した後には何もかもが手遅れなのだから。

2017/07/29

何故、不貞はいけないことなのか

浮気をしない男性は全体の2割程度に過ぎず、
結果、ほとんどの男性というものは、
機会さえあれば浮気をする生き物なのだと言う。
女性も男性ほどではないにしろ、
仕事を持つ既婚女性の3割は浮気の経験ありで、
専業主婦では2割程度、独身女性も3割程度とやはり、
同等数の割合で不倫の経験者はいるものであると…。

こうした統計値がどのようにして取られたものなのか、
その信憑性、真偽の程は分からないが、
上記の理論で言うなら、
男女の比では男性は女性の倍以上の数が浮気をし、
主婦人口の1/3、3人に一人は浮気の経験ありという事か。
そして、浮気をする女性の割合が少ないことを考えれば、
同じ相手と関係を続ける、ということは少なく、
(浮気する)女性は全体の中で偏っていて、
その偏りの中にいる女性たちは生涯を通じて、
複数の男性と関係を持つ割合が高い人たち・・・
・・・ということになる。

もしくは男性の場合、同じ既婚者を相手にするより、
パートナーのいない独身者を相手に選んだり、
風俗などで割り切った関係を結ぶケースが多いのかも。

いずれにしても、
男性のほうが浮気、不倫をする確率は広範囲にて高く、
女性の場合、不倫人口には偏よりがあるというわけだ。


何故、男性のほうが浮気する確率が高いのか・・・

男女のこうした関係性は、
しばしば、「花とみつばち」に例えられる。

男性は、子孫を高確率で残そうと、あちこちで種まきをし、
女性は、男性を引き付けるために甘い蜜で誘惑を仕掛ける。

また、そればかりでなく原始的な本能のなせるわざで、
男は自分の子孫にとって最適な「母」になるような女を求め、
女は優秀な子孫を産むための種の持ち主を厳選し、
さらに子育てに最適な環境と自らの食い扶持を確保してくれる、
いわゆる三高な男性を他のメスと奪い合い、獲得し、縛ろうとする。

はてさて、男性のほうが共有を気にせず、
女性のほうが他者のものを奪い取ろうとする意識が強いような?

男は女の最初の男になろうとし、
女は男の最後の女になろうとする…らしいが。

まあ、いずれにしても、
浮気をしない男性は少数派ということなので、
貴重かつ希少価値のある生き物かも知れん(なんだかー)。

統計なんて誤りで、
もっと少ないものだと信じたいですが。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

私個人としては、
他人のものにはまったく触手が伸びないというか、
興味が湧かない人なので(芸能人とか憧れの人は別)、
相手が既婚者だとかパートナーのいる人となると、
「人のもん」つかその人の付属品にしか見えないので、
そーゆー経験はないが。

彼氏がいると知ってて誘ってくるヤツなんか、
「なんだこいつ」としか思えなかったですしねー
(若い頃の話ですぜ)

ただ、確かに周囲にはそういう状況はあった。
友達の中にも不倫や浮気をしている人はいた。

割り切って既婚者と付き合ってるのとか、
相手がいるのに、行きずりで遊んだーとか、
その心情を理解してあげることは出来ないんだが、
わりとよくある話と言えばそう。

占いの仕事をしていたときでも、
不倫のお悩み相談はてんこもり、でしたし~。

今でいうところの「サレラリ」話。

昔、知り合い(三人の子持ち主婦)だった人で、
旦那さんとレスとかで、
あちこちで恋の花を咲かせてる人がいた。
ちょっとどうなの?と目を細めてはいたものの、
そこまで親しい関係ではなく、
子供たちにとっては良き母親であったから、
何かそれに対して注意をすることはなかったけど。
そのうち、不倫相手の子を妊娠してしまったことで、
さすがにいい加減、関係を終わりにして
中絶すべきでは?と口を挟ませてもらった。
けれど、彼女は「命は大切なものだと思うから産む」、
自分の生き方を応援して欲しいとのこと。

して、旦那さんに正直に話して謝罪し、
ケジメをつけて離婚し、子育てするならいざ知らず、
旦那さんの子として育ててもらうつもり(托卵か)・・・と。
私は「あなたの生き方を応援することは出来ない」
そう伝えて、ご縁を断たせてもらったかな。

他、旦那さんとの関係性が冷え切ってて、
離婚を申し入れたものの受け入れられず、
その後で好きになった人もいて不倫関係になって、
慰謝料を払うから別れてくれとお願いしたものの、
それでも離婚してくれず、
仕方なく子供のために再構築している人もいる。

それと、
不倫小説の教祖みたいな某作家さんのとこには、
その世界観に酔いまくった不倫願望の強い女性たちが、
たくさん押しかけて大変だった、と聞いたことがある。
(据え膳食ったかは謎)

そして、何故か不倫体質の人っているのよねー
他人のモノにしか興味を持たず、
次から次へと既婚者に手を出す人が。なんだかー

なんだろーな、まあ、そんな風に、
身近なところでもそれなりにそうした話はあるので、
困ったことに浮気、不倫、不貞、不義密通etc...
は結構ある話で相変わらず減らない話でもある。

2chなんかではホント、この手のネタ尽きないしね。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

ただ、人の心って当人にとっても予測不可能なことで、
結婚してしまってから、本気の恋に落ちることもある。
出会うべき時期を間違えた、みたいなの。

複数の人を同時に愛せる人もいたりするし、
複数の人から愛されないと満たされない人もいるし、
その逆で誰の事をも愛せない人もいる。

恋愛フェロモンは2年が限界と人の言う。

気持ちは冷めるものでもあるし、
結婚して一緒に暮らしてから、現実を前にして、
相手に抱いていたものが妄想であり、
誤解であったことに気づかされることも多々。

いつまでも最初の頃の、
出会った当時の気持ちのままでいられるなんて幻想。

歳を取ってくると、
男性はハゲるし、お腹も出てくるし、臭くもなる。
女性も身体の線が崩れ、容貌も衰えて、オバサン化する。
(相手にいつまでも綺麗で若くいて欲しいなら、
相応の努力と金銭、生活の余裕が必要だったりする。
それを与えずして芸能人と同じレベルを求めるなかれ)

恋は誤解、愛は理解ではあるが、
恋に落ちたその日には、誤解しかなく、
相手の良いところしか目に入らないもの。
すべてを良いように取ってしまうなど、
盲目化現象に際限はない。

結婚前には両目をしっかりあけて相手を見て、
結婚後には、片目をつぶって見ないようにする。
ともいうけれど。

育ってきた環境も価値観も異なる二人だもの。
受けた躾、教育だけでなく、趣味とか嗜好とか共通点とか、
合わないこと尽くしなのに、
「好きだから」というだけの理由で無理に合わせていれば、
気持ちが冷め、夢が終わった瞬間には、日常は悪夢となる。

で、その時、どうするか・・・なんだけど。

結局は、
結婚てそういうことも想定しておかないと、なんだよね。
気持ち・・・恋愛感情が、自分あるいはパートナーのほう、
双方に無くなってしまったときにどうするか…

どのように協力関係を維持できるのか。
共同生活者としての相手をどう位置付けて、
どのような関係系を築き上げることが出来るのか。

いつまでも相手に「恋」していられたらいいし、
相手も、自分に「恋」してくれてたらいいんだけども、
もしくは「恋」から本物の「愛」の関係を育てられてたら、
家族としての人と人との絆を、育めてたらいいのだけど。
(いわゆる「聖なる結婚」てやつね)

でも、人の気持ちほど不確かなものはない。
人生に絶対はないという意味で。
人の心ほど、あてにならないものはないのだ。

先の事など、誰にも、自分にも分かりはしない。


パートナーがいるのに、
その人よりももっと好きな人が、
大切と思える人が出来てしまったのなら、
それはもう仕方がないように思う。

心を止めることは出来ないだろう。

どちらも大切とも思い、
今のパートナーに対する気持ちも嘘ではないが、
それよりも別の人への気持ちの方が大きいと、
明らかに恋だったり、愛だと確信できる場合など。

その気持ちを責めることは誰にも出来ないだろう。

互いが独身同士であれば、ことは簡単だ。
別れを選んで、より強く大切だと、
恋心を感じた相手の方を選べばいい。
(但しそれで上手くいくとは言えないし、
婚約していた場合は手順が必要だが)

だが、それが既婚者なら?
自分または相手がそうであったなら?
そして、子供がいる夫婦だったら?

ことは簡単ではない。

結婚は社会的な責任を共同で担う、契約そのものだからだ。
子供がいるのであれば、
子に対する養育義務を持つ親同士の関係でもある。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

不貞がいけないとされるのは、
それが契約違反であり、信頼を裏切る行為そのものだからだ。
恋愛にしても、結婚生活にしても、すべては人間関係なので。

相手の心も人格もおのが所有物ではなく、
自らの利己的な欲望や願望を叶えるための奴隷や便利屋としてでなく、
別人格として尊重し、畏敬の念を持って接せれるか否か。
男女の枠を超えた、精神的な愛があればなおよし、ではあるものの、
それは難しいことで、とりあえずは上記さえあれば十分であろう。


他の人を愛することが罪なのではない。

気持ちには、心には罪はない。

パートナーがいるのに、誰か他の人を好きになってしまった、
その心を裁くことなぞ、他の誰にも出来ることではない。

パートナーが、
配偶者がいる人を好きになることが罪なのではない。
そこには罪はない。

その人を素晴らしいと、素敵な人だと評価し、
心奪われてしまうのは、異性としての深い愛情を抱くことは、
自然なことで、ごく普通のこと。
現実を考えたときに、
その人は結婚している、という事実があるだけ。

それはハンデでしかなく、
相手が結婚しているという事実は、
相手が障害者であったり、異性ではなく同性であったり、
相手の家族に問題を抱えている人がいるとか、
その人が経済的に自立できていないとか、
そういうのと何ら変わりがない。

相手を愛(恋)することを止める理由にはならない。

ただ、現実を考えた時に、
そのハンデが乗り越えられるものなのか、
乗り越えられないハンデなのか、そのいずれか、なだけ。

そして結婚している人であるならば、
その人とは結婚できない理由があるってこと。
恋愛対象にしてはいけない人だって、それだけ。

その人のことが好きで、愛しているという気持ちは、
胸の中に大切に収めておくしかない。

互いが独身同士であれば問題ないが、
そうでないならば、
お互いの人生を、
人間関係を壊すような関係を築いてはならない。

肝心なのは、どう行動するか。

結婚した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまうことは、
それは不幸とも言える出来事なのかも知れない。

他に愛する人を見つけてしまったとき、
今のパートナーとの関係をどうすべきなのか・・・

大いに悩むことになると思う。

今の関係を解消して、心に素直になるべきなのか、
理性で抑えて、これまで築いてきた人間関係を、
家族との関係を選択すべきなのか…

問題はこの順番なんだろう。

誰かに心を奪われたことを「浮気」という人もいる。
肉体的な関係性がないのなら、プラトニックならば、
それは不倫とか不貞とは言わない…という人もいる。
けれど、肉体の浮気は赦せても、
本気になられるほうが赦せないという人もいる。
継続的な関係でなく、一度限りの過ちなら赦せるとか、
風俗ならば仕方ないという人もいる。
風俗もダメだし、女性とご飯を食べるだけでNGという人も。

(なかにはsexの相手をするのが嫌なので、
愛人を作って他所で性欲を満たして欲しいと・・・、
そのような正妻もいたりするし、
妻が他所で恋愛するのを楽しみとする夫もいるので、
夫婦がそれでよしならばそれはそれでいいのだろう。
が、こういうのは双方の価値観が一致していればの話)

そこは各自個別の価値観なので、
それをこう考えるべきと裁定したり、
間違っている正しいとも他人が言えることではないけど・・・

さりとて、

心霊科学の視点からは、
やはり人間関係を損ねるものであるか否か、がポイント。

属する社会の法や規範(この場合は日本)に従って考えるべきで、
相手に対して不実な態度を取るべきではないってスタンス。

つまり、どうしても他に好きな人が出来てしまい、
そのことで結婚生活を続けることが不可能であると、
心に正直になりたいのならば、
結婚生活を解消したいと、誠実に相手に申し入れるべきで、
その際に己が果たすべき社会的責任を道義的に果たし、
その後で、
好きになった相手に気持ちを伝えたり、関係は持つべきである。
いずれにしても、
法的配偶者がいるうちは、性的関係を持つのはNGということ。

配偶者以外の人を愛してしまう気持ちに罪はないけど、
不義理かつ不誠実な行動を取るのが罪ってことなのです。

人としての道に反しているか否か、なんですよね、すべては。

プリン脳やラリは、物事の筋道通していない人がほとんどで、
そもそも筋道通せる人だったのであれば、
プリン脳やラリにはならないのであろうが・・・

とあるコラムニストの人が、俳優の旦那が浮気したとき、
「私の作ったご飯を食べて、私が干した布団で寝て、
 私が選んだ服を着て、私が洗ったパンツを履いて、
 彼女に会いに行くのは止めてちょうだい」
荷物をつめたボストンバッグを放り投げて、そう云ったそうだ。

なるほど、本当にそうだ。
妻は家族ではあるが母親じゃない、他人だ。
自分の世話をしてもらうための一方的な存在ではない。
相手の想いを踏みにじっていい理由など何処にもない。

不倫は不義理以外のナニモノでもない。


あともうひとつ、
不特定多数の人と性的関係を持つのがよくないって理由がある。
性病の危険性があるからってことではなくて、
心霊科学的な視点から、ね。

Sexって、エネルギー的交流でもある。
お互いの第一チャクラを通じて、
クンダリーニのエネルギー的交換が行われるんだな。
(詳細を知りたい人はクロウリーの性魔術書とか
インドのタントラとかカーマスートラとかでも読んで。
ちなみに相手から性氣を奪ってダメ人間にしてしまうための
房中術という、それに特化した性的技能の暗殺術もある)

普通に、二人あるいは複数の人間が同じ空間にいると、
互いのオーラ的領域の空間を通じて、
エネルギー(エーテルバイタリティーすなわち氣)が
交じり合って、互いに吸い取られたり吸ってしまったりがある。
(3m四方もあれば十分で、時間にして約2時間。
10mでも共に過ごす時間が長ければ確実に影響を受ける。
都会の狭いアパートなら隣、上下の部屋からもお互いに)

まして、イチャイチャしてお互いの身体に触れ合い、
Sexという行為を通じて、エネルギー交換が行われると、
マイナスの意味でもプラスの意味でも、
色んな影響を相手から受けることになる。

これが単一の相手とならいいんだけど、
同時期で複数の相手とそういう関係性を持つと、
第一チャクラがぶっ壊れることも多々。
性的関係が乱れるというのはまさに
エネルギーが乱れるってことで非常によろしくない。

結果、色んな相手から、色んなものをもらっちゃうわけです。
この場合、現実的な肉体の病気もしかり、
目には見えない良くないものもたくさんもらうことになる。
相手の第一チャクラの中にあるものとかね。
(ちなみに第一チャクラは先祖のお荷物とかある場所だからさ)

生活のためとか、それしか出来る仕事がないとか、
色んな事情で風俗や性的産業で仕事をしている人もいるから、
それは否定しない(本人が覚悟決めて本気でやってることなら)。
けど、目に見えてる身体だけでなく、
目に見えない身体も壊すことになる仕事だから、
あんまり長期間従事しないほうがいいとは思う。
当人の心身の健康のためには。


そういう意味で、愛情や心の寄り添い、
互いに対する"情"や慈しみのない性的行為は、
オーラやチャクラ、エーテルダブルなどの
エネルギーとしての身体をダメにする行為でもあるから、
むやみやたらとするもんじゃない。

恋人にしてもセフレにしても、
その期間、そういう関係を結ぶ相手は一人ってのがベター。

あんまし、あちこち飛び回るものではないってのはアリ。
どんな相手とSexをするかってのも、大事だったりする。
(だからホントにサゲ○○とかアゲ○○とかあるよ)

気持ちの良いSexって言い方もヘンなんだけど、
自分のエネルギーを高めてくれる、
良い氣の持ち主を性愛のパートナーに選ぶことって大切。
だからこそ、愛し、愛されている相思相愛のパートナーと、
人間関係を大切にして、その間はその人だけってのが正解。
恋多き女でも男でも、パートナーが随時入れ替わる人であっても、
その時期は相手が一人だけってのであれば問題なし。

独身の人でも複数の人と同時進行ってのはあまりよろしくない。
(相手がそういう人と知らず、つき合っている人は、
エネルギー的にも相手から悪いものもらって大変だ)

そして、
浮気、不倫てのはどこかで背徳的な罪悪感があり、
そこには常に負の意識がつきまとう。
互いに割り切っていたとしても。
また、そうした行為に対する
「怒り」や「憎悪」のグループエレメタルも、
そこに反応して集まってくるしね。

つまりは負のエネルギーがいっぱい集まってくる。
純粋に「本気の恋愛」から始まった関係ならまだしも、
性的な行為に耽溺していたり、遊びとしてのそれは、
さらなる負のエネルギー、退廃的なエレメンタルも
呼び寄せて、どんどん悪いものが集まってくることになる。

どちらかのパートナーの信頼を裏切り、踏みにじり、
他人を傷つけている行為には違いないから、
そうしたカルマのレッスンも背負うことになるしね。

どこかで、それは戻ってくることになる。
背負ってしまった負債から逃れることは出来ない。

他人の心を傷つけた、踏みにじってしまった罪。
人間関係を壊して、信頼を裏切ってしまった罪。

いつかそれは自分に戻ってくることになる。
他人にさせた思い、味合わせた感情は、
必ず自分も味わうことになる経験だったりするから。
それがカルマの法則というもの。

あなたが他人にすることは、
すべて未来の自分に対して行っていることなのだから。



魔女の書の第一節に書かれた言葉。

"誰かを傷つけることなく、
 汝のしたいことをすべてしなさい"


この言葉に恥じ入ることなければ・・・
それは咎にはならないけれど。

果たして、あなたの恋は、
あなた以外の誰かを傷つける恋であろうか否か。
今一度自分の胸に問うてもらいたい。



"愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
 愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、
 自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
 すべてに耐える。愛は決して滅びない"
    コリントの信徒への手紙Ⅰ 13-4-8


本当の愛はあなたを決して傷つけることなく、
誰のことをも傷つけることはない。

2017/07/25

ふたなりとトランスジェンダー

"魂"のことを説明するのは難しいが、
とりあえず、理解しやすいように、この三次元(~五次元)、
物質世界(思考と想念の世界)に存在し、表現される
私たち(一パーソナリティ)の原型、元データとしておく。

この"魂"には性別はない。
男でもなければ女でもなく、そのどちらの性別であるともいえる。

性別とは、あくまで物質世界において与えられた肉体の特質であり、
現実社会を生きる上で、肉体的特質による役割分担が必要という理由で、
便宜上、二つの性に別れたに過ぎない。

それは、
子供を宿し体内にて成長させ、産み育み保護するに適した性と、
獲物を捕り住処を作り外界の敵と戦い、家族を守るに適した性。

哺乳類において、この二つの目的を両立させる肉体は難しい。
(魚や一部の鳥類、植物は雌雄同体の種も多く単為生殖も可能だが)

この二つの性がともに協力しあって、
互いの性特有の欠点を補完し合うため、
助け合って生きるという友好的かつ協力関係を維持するために、
物質的存在(個体)としての肉体から、
次の生命を生み出すための行為が快楽を伴って存在するとも言える。
(こういう固い言い方をすると身も蓋もないけれど)

胎児は「人間」の形骸を要するまでに様々な変態をするが、
その過程において、染色体の配列に従い、
メスのままでいるものと、メスからオス化するものとに分かれる。
つまり最初はすべて「メス」であって、
「オス」は変態によって「オス化」した性なのである。

そして稀にその変態の過程で「オス化」に失敗するものがある。
染色体の配列に異常(キメラ)があって、そうなるものもあるし、
宿り主である母親の精神的ストレスによって、
「オス化」が上手く行かないこともある。

この「オス化」の段階が何処で止まってしまったのか…
それによって「メス」であり「オス」でもあるものになったり、
性同一障害など心と身体の性の不一致に悩む者が生まれる。

男性のほうが女性に比べて精神が脆く、ストレスに弱いのは、
変態時に「オス化」によるダメージによるものらしく、
生物学的な理由によるものとのことだが真偽は定かではない。
(確かに心が女性なニューハーフのほうがゲイの人より、
精神的に逞しい←限りなく女性寄り、なのは納得がいく)

男性脳、女性脳といった、脳の使い方の特質も、肉体の違いも、
外界の危険や敵を見分けて、食べ物を確保し、
社会において有利に生き抜く方法を模索するのが男性の担当で、
その男性の子を産むことで自分の安全と食料を確保するなど、
優秀な子孫を残し、周囲からの庇護を得るために、
コミュニティを形成していくのが女性の担当という、
性別による役割分担があるが故のもの。


さてとりあえず、それは置いておいて、

ではなぜ、両方の性を持つ者や、
肉体の性と心の性が一致していない人が生まれるのか、という話。

不幸な事故的巡り合わせでそうなってしまうのか、
何かの功罪なのかカルマ的な罰なのか…


   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★

その前に、
人は女性にも男性にもどちらにも輪廻転生をする。
たまたま男性ばかりの人生を生きている人もいるし、
女性としての人生の方を数多く生きている人もいる。

女性になるか男性になるか、
それを決めるのは当人の意志やカルマの導きであり、
それはその人が学ぶべきレッスンだったり、
果たすべきその人生でのお役目が、
どちらの性であるほうが都合がいいかって、それだけだ。

正しくは、その性に生まれる、というより、
器として、その性の肉体を選んでいるというだけ。

だから、その「家の子」になりたい、
というところでは選ぶことは出来ず、
その「家の子」として生きることになる人生が、
その人の今生の目的やカルマのレッスンに沿っているか。
性別のその要素のひとつ。
(とはいうものの、どの「家」「両親」というのはかなりランダム)

ジェンダーによる差別や優遇、社会的境遇の差がある限り、
人は男性としての人生も女性としての人生も、
どちらも等しく経験しなくてはいけない。

だから男性はずっと男性ということはないし、
女性もずっと女性の人生を生きるということはない。
ある一定の霊的成長を遂げたならば、
その者が「神聖なる計画」の一員として、
どちらの性であったほうが、人類同胞に対する奉仕をするのに、
都合がよいかどうか、判断して生まれてくるであろうが、
輪廻転生の輪の中にいるものは、自分では決められない。

では、男でも女でもない第三の性にあるものは?
肉体の性に心の性が順応できないものは?

そこにはカルマのレッスンが存在している。

男でもない女ではないもの、男であり女でもあるもの、
その第三の性を受け入れるということが。
どちらでもなく、どちらでもあるという事実を受け入れ、
その肉体の性に縛られずに、ただ一人の人間として、
性によって限定されず、しかしどちらの良さも持ち合わせる、
性のない、ただ肉体を持って存在する人格として、
それが本来の人間の究極に目指すべき目標であるという、
進化の先を行くアイコンとして生きるべきカルマが。

さて、
肉体が男であるのに心が女性であるもの、
肉体が女であるのに心が男性であるもの…の場合、

一言で言えば、
その不一致のあるままに生きる必要性があったりする。

何故ならば、その不一致によって経験することすべてが、
その人にとってカルマのレッスンを学ぶ道だから。

女の心を持ちながら肉体は男でないと出来ないこともある。
男の心を持ちながら肉体は女でないと出来ないこともある。

そのための性の不一致だから。

だから、
手術によって性別を変えてしまうことはよくないこと。
事故や病気によっての性器損傷は致し方ないが、
意図的に持って生まれた性別を変えてしまうのは×。

気持ちは分かるけど。それは自分に対しての罪になる。
カルマのレッスンからの逃避で、その性のままで生きるべき人生、
成すべきことを放棄していることだから。

整形手術も多少はやむなしだけど、根本は同じで、
必要のない整形や過度なものはNG。

性別にこだわることは、執着以外のナニモノでもないんです。
その性別で生きる人生にこだわっている限りは、
それは本能のまま、欲望のまま、
物質的価値に縛られて生きていることなので。

肉体は男でも心は女なら、
女の心を持った男として生きる必要があり、
女の心を持つ男にしか出来ないことをして生きるべきなの。
性別が男であることを利用して。

その逆もまたそう。
肉体は女でも心が男なら、男の心を持った女として、
男の心を持つ女にしか出来ないことをして、
自己表現をしていくべきなんですね。

その人たちがそのような状態に生まれたのには、
ちゃんとした理由があるので。

自分の肉体の性を、ちゃんと受け入れて、
身体を愛する必要があるんです。

その性である自分の肉体に違和感を覚えたとしても、
その性として生まれた自分を受け入れて、
その性を生きる必要性が・・・。

でもって、
パートナーが異性同士でなければいけないということはない。
同性を愛することは罪じゃない。誰に罰せられることではない。
愛し合うことに性別は関係ない。

だって、今の人生で女であったとしても、
過去の人生では男性で女性と結婚していたり、
今男性でも女性だった、ってのは当たり前なんだから。

過去生でのパートナーが今生で再会したならば、
同性に生まれてたとか、親兄弟姉妹や子だったとか、
その逆で同性の親友だった人に再会したらば、
異性として現れたとか、そういうのもよくあること。

子孫を残すという生物学的な種の保存の目的を考えたとき、
異性間の性愛、パートナーとの恋愛関係のほうが望ましいだけ。

でも心から深く愛せる人が同性だったならば、
それ以外の人で愛せる人がいなかったのなら、
また相手も同じ気持ちで自分のことを求めてくれるのであれば、

ええじゃないか。

と、私は個人的にそう思う。

だって星の数ほどもいる人間の中で、
愛し、愛される関係の人と巡り合えるのってなかなかないよ。

それがたまたま同じ性別だっただけ。

でも、まあ、自分と同じ性別しか愛せないというのは、
ちょっと違う問題でもあったりする。
その人の中身を愛しているのではなく、
その性たる「器」しか愛せないっていう問題だから。

ここにはその人が克服したり、
向き合わないといけない問題の胤が隠れてる。
ようするに、相手の心や精神を愛しているわけではなく、
なおかつ自分と同じ性を持った人以外、
違う性の人間に対する拒否感があるってことだから。
ナルキッソス的で排他的な自己愛が隠れていたりしてね。
受け入れられない一方の性に対する愛の欠如があるわけで。
健康的とは言えないんだな、これが。

女性の身体が嫌い。男性の身体が嫌い。
愛情を与える対象にどうしても思えない。

ここは多分、あと何回か輪廻転生を繰り返すうちに、
自分が受け入れることの出来ない性を持つ、
人間(存在)に対しての偏見と拒絶反応、愛の問題etc..
カルマのレッスンとして、必然的に向かわせられることになる。

そう。次の人生でゲイの人は女性の肉体を持ち、
レズビアンの人は、男性の肉体を持つなどしてね。

自分が否定し、嫌悪感を抱き、受け入れられない性を、
愛すべき肉体として、所有して生きる人生を与えられるかも。

うん。
性愛は否定されるべきものではないけど、
人の愛は性愛だけでなく・・・・・・だから。

とはいうものの、
SEXは欲望を満たすためだけものではなく、
具体的な愛情の表現のひとつでお互いの肉体を慈しむ行為。
動物の毛づくろいにみられるような、
相手への愛情を示し、伝えるボディランゲージでもある。
相手を悦ばせ、自らの悦びを分かち合うための。

異性同士でなくてはいけないということはなく、
同性同士だからと言って、してはいけないということはない。
霊的には何ら問題はない。そこに禁忌など何処にもない。

ただ、相手の同意のない、一方的で無理やりな行為は、
相手を踏みにじる行為であり罪以外のナニモノでもなく。
欲望を満たす対象としてのみ相手を見ることと、
快楽という名の肉欲に溺れることが問題なのだ。



   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★


冒頭のほうに書いたように、
魚や昆虫、鳥類などは雌雄同体だったり、
単為生殖をするものが多かったりする。
オスが少なくなったから、オスたくさん創るぞ、もあるし、
メスの割合が減ったから、私オスになります…みたいなのも。

そして人間の場合、
戦争や自然災害、特にジェノサイドや空襲下など、
死の恐怖と隣り合い、生存を脅かされる状況になると、
己が子孫を残そうという行動に出やすいのだそうだ。
腹立たしいことに戦場下における集団レイプもそうで、
地震など被災地の緊急時でもそのような被害は増える。

戦場では、単にそれだけでなく、
敵国の女性を集団レイプし、老人や子供を惨殺するのは、
ここは既に自分たちの縄張りで支配下にあるという、
マーキング的に力を誇示する行為らしいけど、
これは動物界にはよくあることで、
ライオンやサルなどが行っていることと同じだ。
つまりはこういう行為に及ぶ人間は、
理性も知性もない、本能に忠実な動物と同等なんだな。

また、妊娠している女性が、
戦争や災害による死と隣り合わせの恐怖を味わうと、
胎児はストレスを受け、ナーバスな精神状態となる。
そして、何故か生まれてくる子のほとんどは、
異性を愛することが出来ないという、
第三の性で生まれてくるケースが多くなる。
そして、戦後は女性の出生率のほうが高くなるそうだ。

何故なんだろうね?


男、だと戦争に行かなければならないから?

純粋な「オス」は攻撃的な本能が強く、
戦争を好むから、肉体は男で男性の仕事が出来ても、
心が女よりで、戦争という破壊行為を好まないタイプの性を、
母体としてのメスが強く望むからだろうか…。

男を作り、育てるのは女だと人の言う。

原初、男性は皆受精したその時、女性であった。

社会を構成する必要性に応じて、
メスが自分たちを守るためのナイト役として、
力仕事をさせるために特化した性としてのオスを作った、
自らの体内で「オス化」と言う変態を起して。

旧約聖書ではアダムの肋骨からイブは作られたというけれど。

しかし、オスとメスの比率を決めているのは、メスなのである。

オスがオスになれるかどうかは、オス化が成功するか否かは、
メスが妊娠時に受けるストレスにも左右されるのであるから。

女王蟻や女王蜂が、
自らに奉仕させ、使役させるために、奴隷として、
労働者としての働き蜂や蟻、兵隊蟻などを産みだすように。


ある意味で、
女性でもなく男性でもなく、そのどちらでもあるもの、
女性であり男性の心を持つもの、男性であり女性の心を持つもの、
性別を超えたところで愛し合うことの出来るものが増えていることは、
それだけ人々が争いのない社会、世の中を望んだ結果かも知れない。
女性であることで屈辱的な立場に甘んじることを強要されることや、
男性であるがゆえに死地に赴かされ、重責を負わされることなど、
それぞれに与えられた理不尽な状況を改善し、無くすための、
何か意図的な力、大きな意志の働きかけ故なのかも知れない。

極端に、男性的な力が優位になりすぎたことで、
社会が負うことになった、バランスの悪い側面を正すために、
必然的にそうなっているのかもなあ・・・と思ったりします。

この争いの多い、破壊的な、いつまでたっても、
愛の足りない時代と世の中を鑑みるに。



2017/07/20

虹の橋の向こう側・・・命の生まれるところ

畜生(ちくしょう)とは、
仏教において、神や人間以外に生まれた生物のことをいう。 

畜生は、苦しみ多くして楽少なく、
性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、
父母兄弟の区別なく互いに残害する。

畜生道に堕ちると言うは、
悪業を造り、愚痴不平多くして感謝報謝なき者、
動物のような生き方をする者、死後に畜生に生るという事。

畜生道(ちくしょうどう)とは六道また十界の1つ。

※六道(ろくどう、りくどう)とは、
仏教において迷いあるものが輪廻するという、
6種類の苦しみに満ちた世界のこと。
十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。

                Wikipedia参照

     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


子供の頃に読んでいた漫画「うしろの百太郎」の中に、
言葉を話す犬シロというキャラクターがいて、
その犬は人間の生まれ変わりという設定だったりするのだけども、
実際のところ、人が動物に転生することはありえない。
(それでも、私はこの口の悪いシロが好きだったし、
ペットが口が聞けて話せたなら便利だなあ、って思ったり)

心霊科学では、ダーウィンの進化論も「違います」って、
話になるんだけども、それはさておいて。
(遺伝子ゲノムが近かろうが何だろうが我々の祖先はサルではなく、
人間は最初から人間であり、このカタチだったということ)

どうして、人間が動物に、そして動物が人間に、
というように生まれ変わることは「無い」のかというと、
それは人間とは肉体の仕組みが違うということと、
動物には「霊」も無いし、「魂」も無いからって話になります。
(昆虫、鳥類、爬虫類も。そして哺乳類であっても)

肉体の仕組みの違いを言うなら、
人間は、目に視える肉体が一つと目に見えない肉体が二つ。
けれども動物は目に視える肉体のみ。

人間は原型としての魂があるから、転生をする。
でも、動物は転生はしないんです。

人間の魂を今風?に分かり易くいうと、
魂はそれまでの作業の経緯含めて、
すべての過去履歴、今後の計画、データが入ってる、
メインサーバでホストコンピュータみたいなもの。
一つの人生を一台のPCだとすると、そのPCが昇天する度、
そのPCで作業した全データがホストコンピュータに移行する。
エラーもバグも、何回ウィルスに感染したとか故障したとか、
インストしたアプリやアップデートの回数や使用履歴も一緒に。

そしてそれまでのデータを元に新しいPCの環境作りをする。
それが転生する際の肉体とキャラ作りみたいなもの。
そのPCを使用して作業するのが新しい人生みたいな。
(この場合、PC廃棄は死亡になるかと)

これは人間一人につき、メイン一台。
(転生の終わりはさておいて)

動物の場合は、その動物の種類別にメインサーバが一台。
共有で使っているって感じかな。
一匹の猫が死んだとき、
猫専用メインサーバにそのデータは回収されるって感じ。
犬は犬専用、馬は馬専用に。

あくまで比喩の言い方ですけどね。

動物は魂はないけど、宿っているもの、はあります。
(ぶっちゃけエレメンタルなんですけど)
まあ、生命エネルギーとして考えても問題ないかと。
この辺り説明するとめんどくさいので。

この動物の「命」は学習しますし、記憶もします。
その人生での体験や恐怖など。人間への警戒心や感情も。
人にされたこと、もちろんメモリーとしてインプットします。
だから動物は進化するし、個性も生まれる。

ペットだったり、人間との接点が多い動物は、
身近な人間が創り出すエレメンタルを吸収して、
それを己が特徴や性格として表現するようになります。
(憑依体質ってわけではなくっっ笑)

だから、飼い主に似てくるのは当然なんですね。
攻撃的な人といると攻撃的な性質を帯びてくるし、
穏やかでのんびりした人に育てられるとそうなるし。

どんな人間に育てられるか・・・
これによって感化される性質が決まるんですね。
つまりペットってのは、
一番身近にいる人間が創り出す想念を表現する媒体ともなる。


そして、その犬だったり馬たったり猫だったり・・・は、
やがて死ぬとひとつの命の源たる塊の中に戻ることになる。

原始の海に還るがごとく…。

その人生での体験、記憶したことすべてを携えて。

それは大きな水瓶の中に水が戻されるようなもの。
組みだされた水の量より、
生きた人生分増えた量が加算されて再び水瓶の中に。
そして新たな命が生まれる時、
水瓶から水が汲みだされることになる。
けれど、必ずしもそれは、
以前ひとつの形骸を持っていたものとは一致することはない。
水は混ざるものだから。

だから、動物に関しては悲しいけれど、
同じ「命」は転生してこない。

過去、人生を一緒に過ごした、
あの可愛い子の一部が混ざっている奇跡に出会えたとしても。
同じ子には出会えない。

とても残念で寂しいことだけど。

犬も、猫も、馬も、牛も、鳥も、うさぎも、
生まれながらにして個別の性格があるのはそういうこと。

転生と言えばそうだけど、転生とはかなり違う。

別の犬や猫が、どこかで生きていたときの記憶、
何処かの誰か(人間)から模倣してコピーしたデータがあるから。

それは虐待の記憶かも知れないし、
愛に満ちた幸せな記憶かも知れない。

捨てられた哀しみや人間に対する絶望や恨みかも知れないし、
可愛がられて、抱きしめられた、懐かしい甘い想い出かも知れない。


 "犬には犬の哀しみがあり、
    猫には猫の喜びがある…"


いずれにしても、
いつかこの子とまた会いたい、
生まれ変わって、またうちの子になりにおいでね、
と思っても、それは叶わない夢。
動物に関してだけは、
その子がその子として生きるのは一度きりの人生になるから。

また、その種類の一匹にすることは、
すべてのその種の動物にすることとなる。
その動物にとって、共通の記憶にもなるので…。

つまり、一人の人間が一匹の動物に対してしたことは、
その種のすべての動物の恨みをかうってことでもある。
その人が生まれ変わって姿形が変わったとしても。

それに関しては、その人がそのような行動をしたという
行為のデータ(エレメンタル)をその人自身が所持している、
というのもあるんだけれども。

動物側にも、
「この人はかつて同胞に酷いことをした」
というデータがインプットされているのです。

だから、やたらと動物から攻撃されたり、嫌われたり、
極端な目に遭ってしまう人というのは、
その人自身の身体から匂い立つ悪しき波動とか、
そうしたものだけに反応しているのではなくて、
過去の行いに対して復讐されているのかも知れませんね。



     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そんなわけで動物は人間と違うので、
いわゆる成仏がとても速いです。
死んだらサクッとサヨウナラという感じで。

しばらく飼い主の周囲をエレメンタルとして徘徊してるのもいますが。
人間みたいに自分が死んだ現場を離れられないとか、
自分の死を受け入れられないでいるとか、そんなことはありません。

何年も飼い主の傍にいるようなのは、
ほぼ100%といっていいんですけど、
その飼い主が創ったエレメンタル(生前に創ったコピー)ですね。

(あ゛ーただし、
あまりにも悲惨で非業の死とも言える状況下では、
キレイに上がれず、人霊の地縛霊と同じ状態に陥っている
そうした動物たちもいます。
飢餓状態で死んだとか人によって残虐に殺戮された場合とか。
こういう状況下で結果的に人間に祟ってしまうなど、
「悪さ」をしてしまう子たちは、
一般に言う「動物霊」というのとはまた別種ですケド)

飼い主が死ぬと一緒に回収(人間の方に)されるものだけど、
たまーに、はぐれちゃって迷子になって、
犬好きな人や犬を飼っている人に、
くっついていたりすることがあったりします。

あと前に街中で見たケースでは、電車の中ですけど、
盲導犬に心配そうに寄り添っている犬の霊
(霊ではないけどっっ)を見た事があります。

これもまた、誰かが創った、
ペットのコピーとしてのエレメンタルでしたけど。

犬ってやっぱ優しいんだなって思いました。
人間と違って「心の身体」も「思考の身体」もないけど、
だからこそ、人と違って混じりけが無いというか、
計算なくて、純粋でまっすぐなんだなって、ホント。

あ゛・・・そういえば昔、
実家が肉屋(解体とか含む)だって言う人の、
家に遊びに行った時、牛とか豚とかの霊(正確には違うが)が
たくさんいて、苦しくなって、「ごめーん、用事てきた」と
すぐに飛んで帰ってしまったことがあります。
彼らってボリューミー(体重が)なんで・・・。



さて、ならばどうして動物という存在がいるのかっていうと、
私たち人間がため、だったりするんですよね。
こういうと人類至上主義みたいな言い方になってしまうので、
ちょっとイヤなんですが、そういう意味ではなくて。

地球という天体、
私たち人類が生きていくための母なる大地、
その環境維持のためには、微生物や昆虫や各種の動物、
植物、魚類の存在(生態系)が不可欠で。
動物たちを滅びの道に追い込むことは、
自滅の道であり、環境破壊以外のナニモノでもありません。
我々人類が存続していくためには地球環境を守る必要があり、
そのためには、動物たちの世界もそのままに、
維持して守っていく必要があるのです。
彼らはこの地球を住みよい天体にしてくれている功労者で、
環境を生みだし作り出している自然システムそのものなので。

(だから彼らが生息している地域から彼らを引き離すのは悪です。
命を必要以上に奪うことや彼らの生息地を荒らすことも含めて。)

またそれだけでなく、動物の生きる姿から、
様々なことを学ぶためでもあります。
あと、私たちのために「命」を「糧」として
提供してくれているところもありますが…

でも、いつかは彼らから「命」を頂くことも、
卒業することが目標ではあります。

して、「動物」に対してどう接するか…ってのは、
その人が同胞たる「人間」に対して、
どう想い、どう考えているか、
人を人としてどう扱かっていうバロメーターなんだそうで。

まぁ、だから、
動物虐待は殺人の予兆だっていうのは真理なのか。

子供は虫やカエルなんかを殺すことで残虐性を発揮して、
やがて命の大切さを知って、しなくなるというけど。

動物しか愛せない人、昆虫としか向き合えない人、
植物しか関心がないってのもかなり問題があるとは思いますが。
やっぱ動物嫌いより好きな人のほうがキャパあるかもな。

動物に対してどう接する人なのか…
動物の命をどのように考えている人なのかって言うのは、
その人の「人間」に対する本当の想いを知ることの出来る、
ひとつの目安になるでしょうね。
動物や植物をどう扱っているか、って点がね。



とはいうものの、
私は植物は好きだけど枯らしまくりの炎の手の持ち主だし、
犬も猫も鳥も金魚も飼ってたことはあるけれど…
よその犬には4回噛まれてますのよ、ワハハハ。
(そして蛙とクマとネズミは嫌いだ~!)

動物園も大嫌いで、反対の立場であります。
野生動物を保護する施設は必要だけど、
その土地に生息しない動物を人間の娯楽のために、
別の土地に連れてきて見世物にするのは良くない。
人間のエゴイズム以外のナニモノでもなく・・・。
一般の人が動物の生態を学ぶなら、書物や映像だけで十分です。
野生に戻れなくなった動物を保護飼育する施設が、
維持管理費稼ぎのために見物料を取るのはいいかなって、
そう思いますがね。


てなわけでして、人間が動物に転生することはありません。
動物に人間が、人間に動物が「憑依」することはあったとしても。

(あるんだな、これが)


2017/07/14

知る者は言わず言う者は知らず

"私たちの苦の原因は、私たちの執着にある"
                  by ゴータマ・シッタルダ(仏陀)

    ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

私が占いを用いて他者の相談に乗ることをしていたのは、
正確には高校時代からで、仕事にしたのは24歳の時からだけれども。
途中やらなかったりの時期もあるが、ダラダラと40近くまで続けていて。

何度同じことの説明をしても、
最悪を回避するためのアドバイスをしても、
こうしたいのならこうしたほうがいいと伝えても、

いつまで経ってもオウムのように同じ愚痴や不満を繰り返し言い続け、
「私には難しい」と自分が変わること努力することには消極的で。
そのくせ、こうなりたい、あれが欲しい、こうじゃなきゃだめなのと、
未来に対する期待とこだわりは半端なく、リクエストは常に最上級。
いつも誰かのせいにし、運命のせいにし、状況や環境のせいにし、
自分は変わらずとも何も努力をしなくても、
ある日突然に状況が変わって、すべてが自分の望む通りになり、
欲しいものが手に入っている幸福な人生が訪れるのはいつなのか?
(但しそのために自分は何のリスクも負わないのが前提)

そんな風にとどのつまりが、
自分の欲望の奴隷になっている人が多く、
執着から自分の本心も本来の自分の幸せが何であるかも
見失っている人ばかりの現実に辟易しつつ、

「占いでは人を救うことは出来ない」

なぞと、
占いを用いて他者の相談に乗ることに限界を感じ、
フラストレーションとジレンマに陥っていた。

ちょうどその頃、
たまたまレイキヒーリングを習うきっかけがあったり、
偶発的かつ強制的にヒプノセラピーをやるはめになり、

「この人に必要なのは占いによるアドバイスではなく、
エネルギー(エーテル体)の状態を改善することなのでは?」
という状態にあったクライアントさんに対して、
お試し的な施療をして結果(改善)を得られたことから、

「なるほど、これだ!」

と活路を見出したものの、
やっぱり数年で似たような壁にぶちあたることになった。

もちろん立ち直って自分の状況を理性的に判断できるようになり、
自分の力を取り戻し、問題を解決できるところまでに至るなど、
混乱と迷いの森から脱出して自立できた人もいるにはいるが、

どうしても往来の考え方の癖や執着を手放せない人は多く、
考え方の歪みや性格的な問題から引き寄せている憑依の問題や、
過去生や他人からの良くない影響、カルマのレッスンといった課題、
繰り返してしまう運命のパターンなど根深いものに関しては、
本人が自覚して意識してそのことに向き合わない事にはどうにも・・・
だったりするので、

これはもうきちんと霊的な知識を身に着けて、
己が運命を作り出している仕組みを理解してもらわなければ、と。
レイキの伝授やヒーリングを教える以外に、
瞑想やエクササイズを教えたり、私塾みたいなスタイルで、
霊的真理(心霊科学)を教えることを始めたのだけども。

それでも、
エゴイズムの罠にはまり、己がレッスンと向き合わず、
執着や私欲から逃れられない人は少なくないのです。

その度に色々とがっくりきてしまって、
自分が出来ることの限界を感じていたのだけど、
そもそも、「人を救う」ことなんて誰にも出来ないし、
自分が他者に良い影響や感化を与えることが出来るなんて、
思い上がりもはなはだしいこと。

他人を変えることなんて誰にも決して出来やしない。
その人を変えることができるのはその人だけ。
変わることを選ぶのも選ばないのもその人次第。
すべてはその人が選んでいるんだから。

交流原則の基本、
「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」
を口にしながら見失っていたのは私自身。

私が誰かを「変える力」を持っているなんて、
傲慢以外のナニモノでもなく・・・
その人の問題を解決出来るなんて勘違いもいいとこ。

自分だって問題てんこもりで道の途中にいる人なのにね。
結局、私はクライアントさんの問題を、
解決できる自分になりたかったんだろう。
「助けて」と言われて、「助けられる」人に成ろうと、
クライアントさんの期待に応えられる人になろうとしていただけで。

私が出来ることなんてたかが知れていて、
ホント大したことは出来ない。

それに私は「占いでは人を救うことが出来ない」なんて、
過去に思い込んでしまったけど(占いに意味無しって感じに)、
その「占い」の段階のアドバイスだけでも、
そこからヒントを見つけたり、希望や気づきを得て、
自分の可能性を見つけ出して、未来へと歩き出し、
道を切り開いていくことができる人はいるし、

マグネティックヒーリングとしての気功や、
レイキヒーリングの施療を受けただけで、
氣が充実して、エネルギーのダメージが回復し、
自分自身の力や生きる力を取り戻す事が出来る人も、
運気が上がって人生が変わっていく人もいるわけで、

それはホント、無駄ではないわけ。

どの段階でも、
良くなっていく人、良くならない人はいるし、
アドバイスを無にする人、無駄にしない人、
人の話を聞く人、聞かない人もいる。
状況が改善する人、しない人、
問題が解決する人、しない人、
努力する人しない人、変わろうとする人しない人…

過去生の情報が役に立つ人もいれば、意味のない情報な人もいるし、
過去生セラピーやヒプノで問題を手放せる人もいる。
憑依していた霊や生霊を取ったり、エレメンタルを書き換えたり、
そういうハードワークをしないことには改善されない人もいるし、
でも、それさえもすべては良くなっていく、成長の過程において、
その人にとっては意味のある事だったりする。

知識を学んだことでそれを活かして知恵に換えていく人もいるし、
たくさんお金をかけてヒーリングを習得し、
霊的知識を学んだって、教えの本質を全く理解しようともせず、
相変わらず他力本願で勘違いに磨きをかけている人もいる。

結局は当人の問題だ。

どれだけお金をかけたから、でもなく。

学ぼうと思えば、人はどんなことからでも学べるし、
人生すべてに無駄はなく、起きていることすべてから学べるわけで。

その人か人生や経験から吸収することに関して、
そこは私の責任ではないのね。
今までの私は「救おう、救わなきゃ」とばかりに、
私にはその人の人生の問題を「解決する責任があるのだー」
みたいな感じで気負って、ものすごく肩に力が入ってました。

だから、
気づいてもらわなくっちゃ、気づいてよ~! となって、
あなたの人生の課題、これもあるよ、これもだよ、と…
余計なこと言いすぎでした。
早くカルマのレッスンをクリアしてもらおうと、
焦って急かしてぎゃーぎゃーと。

物事には適切な時期があるというのに。
すべての出来事には意味があるというのに。

大事なのはその人自身が経験を通じて、学ぶこと。
自分の人生を生きて、経験して、知恵や生きる力を得ること。
その人自身が内側からの声と出会って、内面から気づきを得ること。
自分の人生の意味をその人自らが見つけること。

その人に起きていることは、
良くないことも良いこともすべて必然で、
その人にとって、何もかも絶妙なタイミングで起こってる。

だから、無理に外野がそれを変えようとしてはいけない。
必要で起こっていることを変えることはできない。
出来るのはそのタイミングが来るまで見守ることだけ。
それが起こるその日まで支えてあげることだけ。
準備を進める手伝いをすることだけ。

なんですよね。

この辺りは子育てと同じ。
自分が楽したいからって、子供の成長の機会を奪ってはいけない。
子供が「覚えようとしていること」を取り上げてはいけない。
その子が転ぶのを見たくないからって、
怪我をして泣いて欲しくないからって、手当が面倒だからって、
石ころをいちいち取り除くことをしてたら、
それはその子の「怪我」をする機会を奪ってしまうことになる。
石に躓いたら転んでしまうとか怪我がどういうものかというのを、
その子が知る機会を潰してしまうことになる。

そんなのはその子のためにはならない。
その子を守ることではなく、
自分を守りたいがための自己満足でしかないから。

私もどっかで、仕事に対するスタンス、間違えてた。
情熱とエゴイズムを錯覚して、勘違いしていた。
随分と傲慢になっちゃってて、自己満足なセッションに陥っていた。
レッスンの参加者に対しても、成長をサポートするどころか、
自主性を妨げ、自立を邪魔して縛り付けてたかな。
責任感と誠実さを混同して、完全にはき違えてた。

脱落したり、反発して出てった人も、
満足できず他所に行った人も、「ほっとけ」なんですよね。
すべてその人には必要で起きていることだから。

去るもの追わず、来るもの拒まず、な姿勢でいいのに。

そう…相手を無理に変えようとしなくていい。
ほっといても変化のタイミングはいつか訪れるし、
成長したいかしたくないか、時期も当人が決めること。

理解できないことを教えようとしても、無理。
知りたくないことは知るべきことではないし、
知ったからといって、当人がそれを受け入れられるわけでなし。
なんでもかんでも、「知った立場」から言うべきではなく、
そういうのは愚の骨頂でしかないんだと。
所詮奢りで自惚れでしかなく、知識をひけらかし、
自分の力を誇示するためのパフォーマンスでしかないんだと。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

先日、数年ぶりのクライアントさんがいらしたのですが、
6年前の初見のときより状況が悪化しているとのこと。

初見で、やりたくない仕事(親の跡を継がれた)をしていて、
なおかつそのやりがいの無い、好きでない仕事を通して、
お金儲けと業務拡張に走っちゃってるのが良くないんですよって、
これ以上、営利を追求したり事業を拡大するのは止めて、
少しずつ業務を縮小し最低限の規模にして、その傍らで
本来やりたかったことに近いことを始められては?
というアドバイスをさせて頂いたんですが、そこはそれ、

いくら嫌々継いだ家業とは言え、
「我が城」となったものをなかなか手放すのは難しいもの。
まして養うべき家族がいるなら、なおさら。

思いきれないというよりは、
「うーん、現実的でないですね」と笑って流されてまして。

今回も結局は根本原因はソレだから、
6年前のアドバイスと対して変わらず…
だけど、今回はその方、聞く耳があったんですね。
うち以外のところでも同じこと言われたと。
「6年前にアドバイス頂いた時にその通りにすればよかった」

確かにそうかも知れません。
でも、実際はこの方が今の心境に至るまでに、
6年の月日とさらに悪化した状況が必要だったんです。

ほら私が言ったとおりになったでしょう!ではないんです。
その時にアドバイスを受け入れてくれれば
今の最悪な状況は回避できたとか、そんなんじゃないんです。
違います。予見してたとかはどうでもいい。

この方は痛い思いをする必要があったんです。
どうしようもないところまで叩きのめされるような、
奈落の底に突き落とされる挫折を経験しないことには、
至れない心境、掴めない「気づき」が。

人間ってそこまで追い詰められないと、
ブライドや執着を手放すことが出来なかったりするんです。

6年前に私が言ったアドバイスを受け入れてたとしても、
この方が変わらなければ、別の出来事が起きていたでしょう。

そして、その手の職業の人に言われたからという受け入れ方では、
当人心の底では納得してないから、くすぶるものもあって、
結果が気に入らない時、周囲や私のせいにしていたはず。

もちろん、本人の意識がシフトというのかな、
現在起きているような最悪な状況が起こる前に、
自分自身を見直すことや生き方の修正をしていれば、
ある程度早い段階で避けられていたとは思う。

でもそれって第三者の誰かが起こすことではなく、
当人が選ぶことなんですね。
自分自身の声に耳を傾けるか否か。
自らが気づかなければ、気づこうとしないことには、
こればかりはどうすることも出来ないこと。

この人を、このクライアントさんの意識を「変える」ために、
すべては必要なこととして起こっている出来事なのですから。

それに対して第三者や私みたいな職業のものが出来ることは、
本当に小さく限られています。
もちろん当人が求めたことに対して、
こちらが理解できた情報や知り得たことを伝えたり、
アドバイスはしますけれど、当人が知りたがらないこと、
求めて来ないことに関しては、伝えようがないのです。

そして、伝えたその情報やアドバイスをどう扱うか、
そのこととどう向き合うのかは、
相手の自由意志と選択に任せるしかありません。


改めて、当人に必要で起こっていることは、
どうにも避けられないのだと思った次第です。

これはどうにも変えられない。

人生のあらゆる出来事には原因があって、
その人が原因を造りだし、引き寄せていて、
当人にとって良いことも悪いこともすべて、
その人を成長させ、意識を変え、気づきをもたらすことで、
人生を修正させるべく働きかけている出来事であるのだから、
干渉無用、関与すべきではない…ってことがたくさん。

この場合、その出来事に関して無力と自分を嘆くこともなく、
起こることをじっと見守るしかないのだと、痛感しました。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そして先日の記事に書いた、
「私がこの仕事をする動機ってなんだっんたっけ?」
「何をしたくて、私はこの仕事をしているんだろう」の答え。
確かに私には
「情熱はイラネー、過剰になるだけだから」なんですけども・・・

結局のところ、
人の運命の変遷(魂の歴史)、不思議さを見るのが好き。
なんだというのに気が付きました。
人間を知ることが好きというのかしら、
そこに好奇心が働くのですよね。
一人の人がこれまで生きてきた物語を知るのが楽しいっていうか。
(もともと伝記や人物伝とか歴史とか事件史とか好きだし)
そこに尽きる。

あー それでいいんだなって思いました。
好きでないと面白くないし、つまらないから。

あと、クライアントさんが明るく元気になっていく姿、
その人らしさを取り戻してまるで憑き物が落ちたように、
その人自身もその人を取り巻く出来事も、
良い方に変わっていく現実やその過程を見られるのも好きですし、
生徒さんの目覚ましい成長を実感出来る距離にいるのも楽しい。

だからもうそれで、それだけでいいんですね。
この仕事をする理由はそれだけで十分。

それでもって第一に、それで自分の特技というか、
個性(霊媒で他人の過去生を見るのが得意)が生かせる道で、
他人に重宝してもらえる知識や能力があるわけで、
そこに自分が面白い楽しいってことがリンクするんだから、
もうそれでいいやですかね。

ヘタな大義名分とかお役目ガーとか、イラネ。
隣人愛はあっても、妙な使命感や博愛精神だの必要ないや。
ヘンに理想や天命だのを掲げるとエゴイズムの餌になる。
んなもんあると、反面教師だと他人をジャッジしていた、
なまじスピリチュアルナルシズムの罠にはまるばかりだから。


お金を頂く範囲で、自分の出来ること(能力)を提供する、
それ以上でも以下でもない。
感謝も尊敬も評価も名誉もなんも必要ないっす(お金で十分)。

そういうところで落ち着きました

はい。肩書きなんて何もなし。
私は聖人(聖者)でもグルでもマスターでもない。
私は大工の孫で、建具職人と縫製職人の娘でしかない。
自分の知っていることを教えて、
出来ることでお金を稼いでいるだけの単なる職人なんです。

2017/06/17

花の命は短くて・・・

占いの館で占い師の仕事をしていた時、
相手がいるいないに関わらず、恋愛相談は圧倒的で。

中でも、
「どうしたら、恋人ができるでしょう?」
みたいなのは結構多かったんですが、

そう真剣に仰る、その方の手をふと見ると、
爪の中が真っ黒だったり・・・
ぐいっと身を乗り出した時の口臭に、
「うっ!」と呼吸を止めさせられるときもあったり…
あと、セーターが毛玉だらけだったり、
「襟足汚れてますよ」とか、「毛抜き使ってますか?」とか、
「ヒゲは剃りましょう」と言いたくなるような方も。

彼氏が欲しいといいつつ、恋がしたいといいつつ、

「それ以前の問題ですよ、お嬢さん!」

なんて言いたくなる人は多かった。

うん。
誰かに自分を好きになってもらいたいなら、

「それ相応の努力はしましょうよ」

って感じ。

今のままのアナタがいいといってくれる人が大多数なら、
ありのままのあなたを愛してくれる人がいるんなら、
とっくの昔に現れてて、
年齢=恋人いない歴にはならないんですぜ、マジ。

別に自分を偽れってことではなくて、
自分の見た目の短所や長所を知って、
より良く見せる努力って必要です。

お洒落以前に清潔さは当たり前。
食事で臭いのきついものを食べてしまった後の口臭と、
口腔内のケアをしていない人の口臭ってやっぱ違います。
たまたま汚れてしまった服と不潔な衣類や身なりも違うし。

肌のケアとか、ムダ毛の処理とか、そーゆーのも大事。
指毛もです。ワッキーの毛もそう。夏はとくに。
耳の後や耳の中の汚れ、見えてるんですってばよ。
鼻毛もね。鼻くそもちゃんと鏡でチェックしてね。
(アタシは目ヤニよくくっつけてるオバサンですけど)
髪の毛ゴワゴワでキューティクルはどこ行った感じで、
ひっつめてて、んでもって洋服がかび臭いとか最悪やん。
※余談ですがデリケートゾーンも洗う習慣もってね

なんたって、

「口が臭い女に、
 男が惚れると思うなよ!」

・・・です。

そしてその次に、
自分に似合うファッションやメイクをしましょうよ。
ヘアスタイルもそう。

貞子ヘアは似合ってる人はいいけど、昭和過ぎ。
ゴスロリや奇抜なファッションは似合う人には個性的でも、
顔が麗子像なのに・・・顔無しかコケシなのに、
(麗子さんは麗子さんでコケシはコケシで魅力がありますが)
市松人形がフランス人形の服着たって滑稽なだけなのに。
平たい顔の一族顔で金髪に染めててもなー むむ

どうして自分をわざわざ不細工に見せて、
元々の可愛さとか持ち味とか殺して台無しにするんだろう。

「もしかして、
 笑いをとるためにそんな恰好してる?」

って子もいたりする世の不思議。

そりゃ、中身はもちろん一番大切です。
でも、それは中身を知ってもらう機会(距離)があってのこと。
まず最初は見た目から。何よりも恋には第一印象が肝心。
だから人は見た目も大事なんです。

中身が魅力的な子はコミュ能力だけで恋人作れるけど、
コミュ能力のない受け身な子は、
自分の中身も外見も磨かないことには何も始まりません。

縁結びのお守り買って、パワースポットで願掛けしたり、
占いで未来の可能性や出会いを期待する以前に、

「お洒落しろや、ゴラァ!」

と、私は言いたい。

まず、自分の顔やスタイルの欠点を知ること。
そして同時に自分の顔やスタイルの綺麗なとこを探すこと。
自分を綺麗に見せるメイク、自分に似合う色、スタイルを研究し、
身体のラインを美しくみせる服や靴を身に着けること。
ヘアスタイルもそう。
いかに自分を魅力的に見せるか、自分の良さを引き出すか、
個性を際立たせて、好印象を異性に持ってもらう工夫をするか。

エチケットやマナーを知ることも、箸の持ち方とか、歩き方とか、
そういった所作も含めて、自分を高める努力って損のないこと。

そうした努力のひとつもしないで、
やっすい100円ショップで買えるほどの価値の女のままで、
誰かに自分を好きになってもらおうなんて、

100万年早いんじゃあ~!

と私は思ったりする。



まあ、私も人の事は言えませんがね。
化粧はほとんどしないし、お洒落でもないし。
ファッションセンスも決していいほうではない。
(ただPTAのおばさんにならないよう、
イタイ人にもならないよう、気を付けてはイマス)


例えば先日たまたま、
ファッションのアドバイスを求められたのだけど、
その方はとても小柄な方でなおかつ童顔でもあるので、
トラディショナルなカジュアルをかっちり着たり、
ちょっと個性的で奇抜なデザインの服を着ちゃったりすると、
どうしても「子供服」を着てるようにしか見えないのね。
しかも、肌が小麦色なもんで、
落ち着いた色、ダークカラーを着ると、
顔色悪い人つーか、肌が汚く見えちゃうの。

だからまあ、肌を綺麗に見せる色を選ぶ必要があるし、
それだけでなくて、子供服に見えないようなデザイン、
年相応の落ち着きを出せる服を選ばないと、だったり。
あと、その方は首がとても細くて、首から肩のライン、
とくに鎖骨がとても綺麗だったから、
その長所を目立たせるカットソーなんかいいわけ。

欠点を隠すのも大切だけど、
その人の身体の一番綺麗なところを見せると効果的だから。

このあたりはその昔、ハリウッドで
スタイリストをしていた人の著書からの受け売りなんだけど。
(エリザベス・テーラーやグリース・ケリーとかの)

自分の胴が長いとか、手足が短いとか長いとか、
あんまり知らない人が多いよね。
そして顔やスタイルに文句をつけつつ、
自分の身体の何処が一番美しいかってのについても、
知ろうとしない人は意外と多いんだ。

人の第一印象は、まず顔で、その中でも目に人は目が行く。
ファンデーションでいくら隠しても首の色は隠せない。
自分の顔色を美しく見せる生地の色を知らない人も多い。
(ただ色って、素材や染め方(プリント)次第で随分違うから、
実際は出来上がった洋服としての全体で考えないとですが)

自分が他人にどんな表情を見せているのか、
自分の顔の表情が他人にどんな印象を与えているのか、
それを知ろうとする人も少ない。
芸能人やサービス業の人は、鏡に向かって、
自分の表情を研究し、笑顔の練習をし、
放送後のビデオチェックなんかも怠らないけど。

化粧直しは熱心にしても、
口元を歪めて他人の悪口を言っている自分の醜い顔や、
意地悪な目つきを直そうとする人はあまりいないし。

ボトム…スカートの長さもそうね。
足の一番太くなっているところまでの丈を選んで、
(ものすごく細い脚の人なら問題ないけど)
わざと自分の足を薩摩大根並みに太く見せている人多いよね。
靴もそう。ふくらはぎの太いところからのロングブーツとか。

ちゃんと全身鏡観ようよーって感じ。

なんかねー 

電車なんかで私はよくそんな風に、人間観察をするですよ。
ファッションチェックとかしてたりしてっっ。
スマホ持ってない人だし、本も疲れるから読めないので。

あの人、仕立ての良い服着てるのに、靴が残念だとか、
惜しい、バッグだけがダメぢゃん、あともう一声…とか。
ヘアスタイルがファッションに合ってないとか。
そのストッキングの色は酷すぎないですか?とか…
そのメイクはいつの時代のですか?
大映ドラマのイジワルキャラですか? 
ひょっとしてその服はバブル当時のを改良したものですか?
ああ、幸せ薄い女の典型的な見た目ぢゃん!
せっかく顔だちが整っててキレイで、磨けば光るのに、
ジミーにおばさんファッションにボサ髪でなんてもったいない、
なんでもっとなんとかしようと思わないのよ~
とかとか…

ねーちゃん、パンツ見えてるよ! 足開くなよ。
その長さのスカート履くなら、足は組みましょうよ。
斜めに傾けてちゃんと足は閉じようよ~
もしくはひざ元にスカーフ置くとか、バッグで隠すとか、
女子なんですから恥じらいもって配慮しましょうぜ。

電車内、化粧するブス、しない美人・・・なんて標語を作ったり。


うん…

とにもかくにもね。

開運の石とか、アイテムとか縁結びスポットとか、
こうすれば彼氏が出来るとかの行動や何かに頼る以前にね。

もっと自分に興味を持って、外見を魅力的に装うこともしてよ!
中身もだけど、見た目ももっとみんな何とかしようよ!

そういうとみんなお金がないとかいうけど、
値段じゃないんですよ。お金かければいいってもんじゃないの。
やっすい服でもね、いいの。
問題は似合うかどうか、着こなしの仕方ひとつなの。
組み合わせなの、コーディネイトなの。

ユニクロだってGUだって、なんだってね。
その辺のバーゲンの服でも、見つけられるのよ。
アクセサリーも100円、300円ショップでも見つけられるし。

でも、
好きな服、着たい服と、自分を美しく見せる服って別だからね。
自分が着たい服を着る冒険が出来るのってせいぜい20代前半まで。
後は年齢とか自分なりの個性を加味しないと、残念なことになる。

とにかくね。女性が一番きれいな時期って、
何もしなくても輝いていられる時期って、10代と20代なのね。
その時期に、自分が一番美しい時期に、
美しく装っておかないと後悔するし、人生無駄にする。
30代以降はある程度、年相応のスタイルを確立しないとだしね。

そして恋愛のチャンスも10代、20代ならたくさんあるわけで、
30代過ぎて、他人に紹介してもらわないことには、
異性との出会いがないという人は、
自力での出会いは不可能に近く、ほぼ無理。
ぶっちゃけ100%ない。酷いこというけど、
そういうドリーム入ったお花畑の人、実に多いんで。
誰か王子様がって待ってたって、絶対来ない。
出会い系とかヘンなナンパくらいしか、声かからない。

社交的で多趣味で同性の友人も異性の友人も、
たくさんいる人なら別だけど。

ただ、何かが人生に起こるのを待っている人はまずない。
だから、努力しないと始まらない。

とりあえず、
見た目をなんとかすることから、始めたほうがいい。
中身を変えるのも勿論必要だと思いますけど。

と、いう訳で

己を磨け! メスとして!!

花の命は短いのだから

2017/06/13

レイキ受講の感想

クライントさんより
臼井霊気のアチューンメント(伝授)の感想を頂きましたので
単独で紹介(掲載)しておきます。

またこうした体験(体感的なもの)は個々によって異なりますので、
すべての人にあてはまるものではなく、
伝授を受けたすべての人がこのような変化をするとは限らない、
とだけ、お伝えしておきます。とにもかくにも個人差がありますので。
※ちなみにこの方のお祖父様は元々一般人(農業従事者)だったのですが、
とある出来事があって、行者さんの修行をすることになり、
心霊治療家として多くの方々の相談にのってらしたとのことでした。


 ☆  ☆ ☆ ☆  ☆  ☆ ☆ ☆  ☆ ☆ ☆  ☆  

アルマ様

こんにちは。
セカンドから1か月を過ぎましたが、
途中経過のご報告をします(^-^)


ここ最近だいぶ変化を感じます。
靈氣で・・・というか、自分自身の内面に変化があります。
セカンドアチューメント後、その日は、気分が気怠く、
”自分など大した人間ではない感”みたいなのが色濃く迫ってきて、
なんだろうな~このダルダルな気分は・・・と思いましたが、

翌日はすっかり気を取り戻し、
その次の日から部屋の模様替えをし、祭壇を充実させ、
家の中の各部屋の機能をすっかり様変わりさせていきました。

1週間後くらいから、
ようやく遠隔ヒーリングを開始し、レイキボックスに祈りを封入し、
その後は、気づけば、毎朝早く起きて、瞑想を日課にし、
チョロチョロと遠隔やらなんやらやり続けております。

ちなみに母によると、眠くなったり、
シャキッとして体が軽くなったり、変化があるそうです。
(母は特別受け取りやすい人のような感じもします・・・
 直接の時は100%寝てますし。)


レイキボックスを開けて確かめると、
「朝早く起きられますように」等、すでに叶ったものがちらほらあり、
また、心境が変化したためにこれは要らんわというものもあり、
今日、ごそっと入れ替えしました。

また、夫には、
あなたの病気のおかげで靈氣に出会えたことを感謝している等々
よく述べていたのですが、最近は、
彼の調子の良い悪いがあんまり気にならなくなり、
(申し訳ないけど・・・^^;) 
毎朝一番に私の部屋から遠隔ヒーリングをしていたのを
とうとう現在2日続けてやっていません。
執着が離れたという感じでかなあ・・・


実は一昨日あたりから、
瞑想や内省で、思いがけない自分が出てきまして、
”悪は許すまじ”という感覚で、
よく考えれば、刑事もののドラマが大好きなのだから
元からそんなタイプだったのでしょうが、
明らかに、魂の奥底から湧き出る感じで
祓いたい!祓わなければ!という強い使命感み たいな喜びみたいな・・・
で、何を?と考えてるんですが、
特にその辺に対象物があるわけでもなく・・・
でも、夫の病気云々のことなど、
大したことでもないみたいな感じで吹っ飛んでしまいました。

今朝、母と話をしていたら、
祖父はエクソシストだったんだそうです。和風のやつです。
悪魔祓いというか、邪気祓いというか、
それが本筋で、毎日地域のための祈りとかをやっていたそうで、
病気を治すとかお告げをするとかは二次的な需要だったそうです。

今まで話をよく聞いていなかったんだなと思うとともに、
ということは、あれ?
ひょっとしてこの感覚は血筋ですか?とやや思った次第です。


瞑想中にたまに、
坊主頭のちょっと凛々しい青年かおじさんが浮かんでくるのですが、
私はその人がとても好きでして、ま、ただそれだけの事なんですが、
ワイン派の私が日本酒を買ってきて飲んでみたり、
まんじゅうが食べたくなったり、ここのところ「和」の気分です。
そういえば、いつもいるこの部屋は和室です^^!


余談ばかりで失礼いたしました。
来週末のサードアチューメントとても楽しみにしています。
またその後も精進のために、レッスンを受けていきたいと思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

2017/06/03

世の哀しみを減らすために私自身が出来ること

先週のことですけど、数年ぶりかで映画を見てきました。
映画を見るのは好きですが、今はTVを所持していず、
PCでDVDを見るにも徒歩圏内にレンタルショップがないこともあり、
とんとご無沙汰でした。映画館も行かなくなると情報入らずで。
視力のこともあり、字幕を見るのが無理というのもありましたが…

その映画を見ようということになったのは、
当日の午後、渋谷にて開催されている、
抱きしめる聖者アンマのダルシャンに
一緒に行こうという話になっていたので、
ちょうどその映画のことを知った友人が是非見たいが、
休みがその日しかなく、タイミングよく同じ渋谷で、
上映時間もピッタリ合ったからなのでした。

映画のタイトルは「ライオン~25年目のただいま」

どういう内容かも、誰が出るのか、何の事前知識もなく、
その後はどうせ一緒に行動するのだから、お付き合い程度に、
たまには映画もいいかな位の軽い気持ちでした。

インドが舞台と聞き、アンマはインド人なので、
偶然にも今日はインド一色だね、なんて調子で。

たまたまレディースディだったのでラッキーと思いきや、
この映画を見た事自体もラッキーでした。
友人が誘ってくれなかったら、作品のことも何も知らず、
見逃していたことを考えると、必然とも言え、友人に感謝です。

まあ、その・・・色々と考えさせられる映画でした。

どういう内容の映画だったかをかいつまんで説明すると、
インドの貧しい母子家庭(兄妹4人)に育った五歳の主人公が、
誤って回送列車に乗り込み、そのまま寝てしまい、
1200km以上離れたコルコタの町に着いてしまい、
言語が通じない事から、迷子になり、
さらにストレートチルドレンになってしまうものの、
親切な人に出会えたことからなんとか警察に保護される。
が、五歳という年齢で親の名前や出身地を言えないことで、
身元が分からず、コルコタの新聞にて尋ね人広告を出すも、
1200km離れた町には届かず、結果孤児院へと。
しかし、そこで運よくマザー・テレサの教育を受けた女性が主催する、
海外への養子縁組を斡旋する人権団体を介して、
オーストラリアはタスマニアの愛情深い里親の元に引き取られる。
が、海外留学をしてインド人の同級生たちと交流をしたことから、
故郷や実の家族に自分の無事を伝えたいという想いが強まり、
フェイスブックやグーグルアースを通じて、五年もの歳月をかけ、
幼少期の記憶から自分の出身地を探し出すことに成功し、
インドへ旅し、家族と再会する‥というもの。

実話がベースになっていますが、
ドキュメンタリーではなく、映画として形作るため、
はしょっているところや脚色しているところなど、
そこはそれ、映画という原作を元にした二次創作だから、はい。

友人はこの映画のテーマ
(インドという貧しい国の実状や養子問題)
の重さにズーンとなってしまいましたが、

私のほうはその辺りは想定内というのかな・・・
わりかし第三国の問題に関して事前知識もあるのと、
もっと悲惨な民族浄化物をたくさんこれまでに見てきているので、
(「ルワンダの涙」とか「キリングフィールド」とかetc)
臓器目的の人身売買のための誘拐とか、
孤児院の職員が小児性愛者に子供を「貸し出し」するシーンとか、
現実にあることとして受け止められちゃったりしますね。
今さら感情が動かない自分のことを冷酷な人間だなとも思うし。

インド映画はこれまでも、
サタジット・レイ監督の「大地のうた」とか、
ボリウッドに代表されるマサラムービー「ムトゥ」とか、
そういう牧歌的なものやはちゃめちゃな娯楽もの。
一番好きな「きっと、うまくいく」
それ以外にもみ終わった後、ズーンと来る「女盗賊プーラン」とか。
オリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」とか「カーマ・スートラ」とか、
アメリカで制作されたインド人監督のものも見たりしましたが・・・
国単位の見た本数としては少ないほう。
それでインドという国のすべてを理解出来たかというと、
それはありえないし、一部しか覗き見していないわけで。

ただ非常に混沌とした国で、のんびりとした面がある一方で、
カースト制度により、未だに非人道的で理不尽な人種差別や、
女性蔑視、ありえない常識やルールがあるのは、
近年伝えられる海外ニュースからも察せられるかな。
数字のゼロを発見し、数字に強い天才的な人も排出し、
IT大国でもあったりするけれども…
サイババみたいな奇跡がカリスマ的な人気を博していたり、
貧富の差は激しく、ガンジス川では死体も洗濯物も一緒くたで、
路上生活者や物乞いなど、野良猫のように餓死する人も多々。


話を映画に戻すと、
この映画の「25年も迷子で家族に会えなかった」という話を、
「え?どうしたらそういう話になるの?」と、
列車で遠くに行ってしまっただけで親元に戻れなくなることが、
信じられない、想像がつかないという反応をする人が多いらしい。
得てしてそれは先進国に住んでいる人のセリフで。

まあ、日本という全国統一が成されて何百年も経った国ではそうか。
日本の鉄道網も警察も優秀で、言葉も統一されているし、
新聞も全国で発売されるし、テレビもそう、全国ネットがある。
ほとんどの人が「情報」を手にすることができる。
なので、今の日本ではまず起こり得ないこと。

インドは州によって言葉が違い、公用語でさえ何種類もあること。
治安がとても良いとは言えない国で、
地域によっては警察も公務員も腐敗しきっていて、
刑務所に収監されたほうが暴力やレイプにさらされる危険が高いこと。
貧富の差が激しく、子供の誘拐事件は年間で8万人もあるが、
その子たちの行方を捜したり、気にしたりする人は少ないこと。
道端で餓死する人やストレートチルドレンが死んでいたって、
野良犬程度の扱いであったりすること。

今のインドは知らないが、少なくとも映画の主人公、
実体験をした原作者が迷子になった当時のインドではそうだった。


さて、私がこの映画をして脅かされ、感動したのは、
主人公に起きた幸運的な奇跡の数々と、
幼少期の想い出を覚えていられたという事実。
あと、人の幸福、子供の幸せってお金じゃないんだなってこと。

養父母の元で養子になったのは、主人公のサルーともう一人、
マントゥッシュという同じインド人の男の子なんだけども。
彼はとても精神的に不安定で、いわゆるトラウマを抱えており、
フラッシュバックから暴れて、素直に親に甘えられず、
成人してからはドラッグに溺れて自堕落な生活を送っていた。
このあたりは映画にドラマ性をもたせるため、
かなり大げさにしているみたいだったんだけども。

彼がそうなっちゃったのは
実の家族から虐待を受けていて、なおかつ、
インドの孤児院に居たとき、性的な虐待も受けていたから。

対してサルーは、とても貧しくて、毎日お腹を空かせていて、
とても不衛生で酷い環境で育ったのだけども、
母親は子供達を分け隔てなく、かつ惜しみなく愛情を注ぐ人で、
子供達のために過酷で辛い仕事を頑張る人だったんですね。
だから、兄たちも弟を可愛がり、とても家族思い。

養父母もとても素晴らしい人たちで愛のある人たちだった。

同じ養子として、同じ環境に引き取られ、
愛情深い養父母に育てられたというのに、
二人のその差はどこから生まれてきたんだろう?
もちろん、元々の資質、性格の差もあるでしょうが。

でも、サルーの場合、五歳になるまで、
面倒見のよい兄たちと子供想いの母親の懐の中、
物質的には恵まれて無くても、
そうした愛の記憶があったから・・・
というのが大きかったんではないかと。

マントゥッシュは子供が一番親の愛を必要としている時期に、
自己肯定が創られる時期(第一チャクラと第二チャクラ)に、
十分な愛を受けられなかったどころか、悲惨な体験をして、
ズタズタにされてしまったから、その後も傷を抱えたのかと、


まあ、そんなこんなで思うことあれこれ。

さて、インドで年間8万人の子供たちが行方知れずになるけど、
先進国たるアメリカでは23万人だったりする。
こちらは人身売買といっても、児童ポルノの犠牲者がほとんど。
中には猟奇的殺人事件の犠牲者になっていたり、
離婚して親権を取れなかった親による誘拐も含まれているけど。

臓器売買目的の誘拐はインドだけでなくて、
インドネシアやタイ、フィリピン、南米などでもたくさん。

ストレートチルドレンはロシアにも南米にもアジアにもてんこもり。
アフリカでは児童労働や児童婚、子供兵士の問題などもある。

かと思えば、お金のために人を平気で殺す人たちもいる。
つまらないことで感情を害して、
ゲームのように人の命を奪う悪鬼のような人たちも。

衣食住足りて人はようやっと他人のことを考えられる余裕が出るという。

だがどうだろう。
衣食住足りていても、人の欲望に際限はなく、貪欲さはますばかり。
お金のために、お金を得るために、稼ぐために、
人は人であることを見失って、大切なものを忘れて、捨てていく。
豊かになったモノ余りの国では、孤独死も過労死も自死も増えるばかり。

テロは無くならないし、中東の和平は遠く、
アメリカはパリ協定から逸脱してしまった。
中国の大気汚染は深刻で、災害からの教訓もどこ吹く風。

相変わらず世の中は問題でいっぱい。


こうした世の中の現状を考えるとき、
自分は何が出来るんだろうって再び考えた。

インド映画を見て、考えて、そして
奇しくもインドからやってきた、
抱きしめる聖者アンマの慈善活動などを改めて見直して。

今の自分が出来ることって何だろう。

それは私自身を活かすこと。
私にしか出来ないことをすること。

もちろん、募金のような金銭的なサポートも微力ながら、続ける。
生徒さんたちとの祈りの会も続ける。

そして、後はやっぱり、私自身がきちんと自分の人生を生きること。
自らをきちんと成長させていくこと。
後は本当に、地道で些細な力でしかないんだけども、
スピリチュアルセラピストとしての仕事を通して、
クライアントさんの問題解決の助力になっていくこと、
そのために知識を吸収して、勉強して、自らを鍛錬して高めて、
人に分け与えることができる力を常に蓄えて、備えておくこと。

この仕事を一生懸命するしか能がないのです。
クライアントさんの過去生を解放したり、
その人が望む未来を創造するために邪魔になっているものを取り除いて、
その人がその人らしく生きられるように、
生き生きと、本当の自分の人生を生きられるように、
一期一会のセッションでの出会いを大切にして、
限られた時間の中で全力を尽くして、
(いつでも全力を尽くせる状態でいられるよう自分を磨いて)
とにかくホントそれしか出来ないんだよなって、
この仕事を通して、世の中の不幸や悲劇のタネを、
少しでも、ひとつでも無くしていく努力をするしかないのです。

それしか出来ないし、それを頑張るしかないって、
改めて想いを強くした今日この頃の私でありました。

2017/06/02

見えなくなって見えてきたこと

気が付けば、
前回の記事(お知らせですが)を書いてから二ケ月近く経っていました。
読み物的なものとなると、実に四ケ月ぶりになりますね。 

書きたいこともこのブログに即したネタもそれなりにあったのですが、
筆を取る気力というか、考えを文章にまとめる集中力が萎えていました。
おそらく視力の問題が大きいように思います。 

どうしても視野欠損というのでしょうか・・・文字が一部見えないんですね。
例えば、4桁に並んだ数字とか、真ん中が重なって3桁に視えちゃう。
そんな風に読み飛ばしてしまう文字があったりするわけです。紙はとくに。
死角のように見えない部分が出来てしまうので、しんどいのですね。
目の痛みも相変わらずありますし、一年経ってだいぶ慣れてはきたものの、
見えづらいのには変わりがありません。暗いところだと鳥目状態ですし。 

まあ、あーだこーだ言っても始まりません。
歳を取ると、どっかしら体にガタが来て不具合が出るのが肉体というもので。
 (鍛えてないとか日頃の不摂生とかも反映され)
そして・・・健康を害することによって、
身体機能の衰えとか損傷とかを体験することによって・・・
その状態を経験し、類似のハンデを負っている人々の置かれている世界や、
彼らの不自由さを知ることになります。 
肉体的マイノリティの人々のフラストレーションだとかを。

例えば、傍目にそれとわかるハンデを人は理解して対応できるけれど、
一見して健康にしか見えない人には健常者として接しますから、
そこでトラブルや誤解なんかも発生してしまうわけです。
まったく目が見えない人は他人からも分かり易いけど、
なまじ私みたいに弱視というわけでもなく中途半端に見えている人間もそう。

耳が聞こえないとか一語も言葉を発せない聾啞者は理解できるけど、
重度の難聴とか、高音部が聞き取りにくいとかの聴力に問題のある人や、
話せないわけではないけど、声を出す事に困難がある人もいるわけで。 
パッと見で理解してもらえず、
なまじ健康な人と変わりが無いように見られてしまうから、
相手からしたら、眼鏡をかけているのに「視えない」とが分からない。 

私の場合、暗いトコだともう真っ暗なんですよ。
いつも行くところだとか通いなれたとこなら分かるけど、
数メートルくらいの距離しか見えないので砂嵐の中にいるみたい(笑)
昼間でも距離感は未だつかめないし、急に目の前に人が現れる感じ。
右目に映るのは凹凸鏡の世界なんだけども、
友達や会う人に「他の人と同じようには見えてはないんだよ」って説明しても、
皆そこのところはいちいち覚えていず、忘れてくれちゃうから、
もうめんどくさいので、適当に話を合わせちゃいますしね。
まっすぐ歩けないのでぶつかっちゃった日には、
事情を話すより、誤ったほうが早いし。
見えない理由を話すより、「あれなんて書いてあるのー?」って聞いちゃう。

だって私の目で見えている歪んだ世界を理解してもらおうと思っても、
それは無理なことだし。
もっとも、それは霊的かつ不思議な体験のほうで散々経験しているから、
今さらって感じではあるのですけどもね。
なので見えないときにはまあいいやで流すか、
わかんないから適当でいいやになります(笑)

拡大鏡は買ったし、PCも文字を大きく出来るのでそこは何とか、ですし。
印刷物の文字、書物が読めなくなったのはサビシーですけどね。
ここらへんは老眼になったならば同じだし。 
もちろん、こういう不自由さは身体に障害を持っている人ならなおの事。
世の中は健常者であることが基本として社会が成り立っているので、
少数派の、それぞれ固有のハンデを抱えている人は、
この社会の中で適応していくしかないのだなあと思います。 

またまた私事で恐縮ですけど、 私はお箸と鉛筆は右利きですが、
それ以外は左利きだったりするのです。
お金を扱う時は左利きなんで左利き用の財布を使うことになるし、
切符や定期を扱う時は左利きです。なので自動改札機が使いづらい。
エスカレーターも左利き視点だと右側歩くのは歩きづらいし。
(本当は歩いちゃいけないんだけどさ)

あと、生徒さんで最近膝を痛めて松葉杖状態になった人がいるのだけど、
彼女曰く、「エスカレーターのスピードが早すぎて、乗れない」 

ああ、巣鴨商店街に面した地下鉄のエスカレーターがゆっくりなのは、
お年寄りや身体の不自由な人に合わせていて正解なのだな、と思ったり。 

そういう意味でも、世の中って流行もそうだし家電も町の作りも何もかも、
健常者や若い人(20代~30代)たち働き盛りを中心に回っているのだな。
グローバルスタンダードってなかなか広まらないのねん、とも。 

だって、
郵便局や宅配便の不在票なんて文字小さいしさー 年寄り読めないよ。
携帯(とは今はもう言わないか)の機種とかもそう。
50代、60代以降の消費者は対象外だもの。
まあ、50代はまだついていけるのかな。 
税金や給料の指標も
公務員とか大手企業のサラリーマンの所得が基本ですものね。

全ての世代、全ての職業、そして全ての五体満足ではない人も含めた国民・・・
確かに各々違って幅広いから、
全員を対象とした「ものづくり」も「街づくり」も難しい。
だから平均値を出して、一番人口の多いところ、
平均値のところを基準にするしかないのですけどもね、実状として。

ただ、平均値のところから外れたマイノリティの人がいることを、
多くの人たちが周知してくれるようになってくれればそれで良いとも思う。 

「左利きだから、それは使いづらいんだよ」
「耳がね、拾えない音域の音があるんですよ」
「視力に問題があって、夜だと辺りが見えなくなるんです」

 って誰かが言ったとき、

「なんで?」ではなく、
「ああ、そうなんですね」と… さりげなく、受け止めてもらって、
事情を察してくれるだけでいい。 そんな優しい社会になるといいな。

2017/02/05

月の呪縛, 解放の呪文

先日、占星学のワークショップを開催したんですが、
その時、
「月はその人のお母さんとの関係をも表していて、
お母さんがどんな母親であったかというより、
その人自身が自分のお母さんをどう見ているのか、
どのような人だと思っているのか、
自分から見たお母さんの印象を表している」
というような話をしました。

あとシンクロなのか、ちょうどバーストラウマと
母子の関係性の話なども身近で出ていたりして。

占星学的には、
0歳(受胎時)から7歳(幼児教育)くらいまでは、
月の支配下(年齢枠)にあり、
母親の影響を強く濃く、受け取る時期だったりします。
離れていても母親の感情を受け取り、その身に吸収し、
母親の感情を外に映し出して、表現する
ツールのような役割をするのですね。
まるでモニターのように。

だからこの時期、母親が穏やかで心安らかに、
満ち足りた日常を過ごしていることは、
子供の精神の安定と心身の健康のためには必須。
この時期に母親が不安定で心の均衡を崩していると、
子供の心に何かしらの影響を与えることになります。

そして、物理的には既にないものの、
3歳までは目には見えないへその緒がまだ繋がっていて、
その糸を通って、母親の感情が子供に流れ込みます。
そうして、母子は感情そのものを共有していたりする。
肉体としては既に分離したのに、未だ一部といった具合に。
だから、少なくとも子が3歳まで、
母親のメンタルバランスが安定してることってとても大事。
この時期に肉体的な接触(ハグ、ボディタッチ)をたくさんして、
母親が精神的にリラックスして過ごすことって、
その後の人格形成にも影響を及ぼします。

児童心理学のことは私はよく分からないのですけど。
占星学やスピリチュアルズム的にはそうですね。

0歳児から7歳頃までの間、
母親のメンタルが不安定かつ精神的に抑圧されていて、
なおかつストレスや不満を過度に抱えていて、
幸福感や満足感を十分に得られていなかったりすると、
それはそのまま、子供の心に吸収される。

つまり、
母親の不幸は、そのまま子供への呪いになるんです。

当時の母親の心理状態、抱いた負の感情が、
そのまま子供のトラウマになり、
その後の人生に影を落とす呪縛となるということ。



月は感情の模倣を示しています。
子供は、母親の気質、感情の在り方をこの時期、
学んでいくことになる。
感情の表し方を。母を見習って、そのままコピーして。
そして、女性はこの時期模倣した母性をモデルに、
そのような母親像を自分の外側に創り上げていく、
母親のような女性に、真似するかのように育っていく。
(男性は結婚した後、妻にこの月のイメージの母親を求め、
自分の太陽に父親のセルフイメージを投影します)

困った刷り込みです。悪しき負の連鎖ですねー


とはいうものの、
現代では1歳過ぎると保育園は当たり前で、
専業として育児をスタートさせることができる人は、
経済的にもなかなか難しいという時代背景があり、
理想的な環境での子育てをしようにも無理があります。

まあ、共働きにしてもシングルマザーにしても、
大事なのは、両親が揃っているとか、
経済的に不自由しない環境を提供することよりも、
母であるその人が幸せであるか否か、でしょうか。
両親の仲が良くて、家庭円満なら直よし、ですが。

そして、何よりも、自分を生んでくれた人が、
自分の誕生を心から望み、喜んでくれているかどうか、
そこも母と子の信頼や絆が育つのには大切なポイント。

そうすれば多少、躾が厳しくても、言葉足らずでも、
その感情の記憶が根っこにあれば、
何処かで「自分は望まれて生まれてきた」
「愛されてる」って、自己存在を肯定できるものです。

でもって、成長してお互いの絆に溝や亀裂が生まれても、
修復されるための土台が、残ってるって感じでしょうか。


ここからはほぼ自分語りになるかな…。

私の月は魚座にあります。
私の母親のイメージは、
自己憐憫と被害者意識の強い、精神的に弱い人。

今もそうですね。愚痴が多いです。
一緒にいると毒ばかり吐いているので、
しんどくて疲れます。2時間が限界ですね。

誕生日は戦前で、
当時は生まれても死ぬ子が多かったので、
すぐに出生届が出されることはなく、
数か月経って"生きている"から、
大丈夫だろうということでの届け出。
なので、正確な誕生日が判りません。
その年に生まれたということだけ。
父は祖母が言うには、旧盆の中日に生まれたけど、
出生届を出したのは翌年の正月明けだったり。
だから、占いでの父母との相性は判らないですね。

昔は生まれても育つのは確実ではなかったですから。
死産も多く、出産の事故も当たり前で。
育っても、病院や医師が近隣にいなかったがために、
手遅れになって死んだ人も多かった時代のこと。
そういう意味では、昨今の医療事情というのは
格段に進歩していて、素晴らしいですね。

父の兄弟姉妹のうち死んだ子もいるし、
母のほうにもいますね。珍しいことではなく。

でも、まあ今は無事に生まれて当たり前、
な時代になっているから、
何かあると、すべて医師の責任になってしまって、
助けてもらったとか、手を尽くしてもらったとか、
そういう感謝をすることが少なくなっていて、
現場の人のプレッシャーは半端ないだろうなって思います。


私は「三丁目の夕日」の頃に生まれて、
戦中や戦後に比べると人々の生活水準は上がって、
世の景気も良く(朝鮮戦争やベトナム戦争特需)、
少しずつ日本が豊かになっている、そんな時代でした。

それでも今の時代と比べると、貧しかったです。
でも、一部の人を除いてみんな貧しかったから、
貧乏なのがさほど恥でもなかったです。

幼稚園に入る前までは、
お風呂のないアパートに住んでいたので、
毎日お風呂に入ることは出来ず、
食事も粗末なものでした。
ご飯のおかずがなくて、漬物と味噌汁だけ、
そんな日もしょっちゅう。
お肉が買えないので魚肉ソーセージで代用したり、
お腹いっぱいにご飯を食べることなんてできず。
小学校に上がってからは給食が栄養源で。
だから、食べ物を残すなんて考えられませんでした。
だって食べたくても無かったんですもの。
休んだ日の給食はクラスメイトが、わら半紙に包んで、
学校帰りにその人の自宅に届けるのが当たり前の習慣。

洋服だって滅多に買えません。
私の場合、下着まですべて姉のお下がりでした。
鉛筆やら文房具もです。
鉛筆は短くなったのにキャップをつけて、
使えなくなるまで使っていました。
消しゴムもノートも何もかも、モノはすべて貴重でした。

少しずつ、年単位ごとに、
みんなの生活が向上して、ちょっとずと差が開いて、
だんだんと貧乏なのが恥ずかしくもなっていく、
そんな時代でしたが。

実際、うちは貧乏ではあったんですが、
決して父の稼ぎが悪いというわけではなかったんですね。
むしろ高度成長期で、時代は建築ラッシュ。
皇居の内装の仕事にも参加してたから、
実は高給取りだったんです。当時で月収70万くらい。
なのに、どうしてそんなに貧乏だったのか…

父が自分の姉妹たちにお金を渡していたからです。
とくに父の妹。この4人家族たち…
ほぼ我が家に居候だったんですね。
家は別でしたけど、朝から来て夜までいて、
朝ごはん、昼ご飯、夕飯まで食べて、風呂も入ってく。
ヤドカリというか寄生虫みたいなもんです。
ようするに、父にとっての家族とは、
自分の生家の人間であり、自分の兄弟姉妹の縁者のみ。
私や母といった妻子は、彼の家族ではなかったんです。

そして、私の洋服や持ち物をすべて持ち帰られてしまう。
従妹(長女のほう)は私のひとつ下でしたから、
サイズが合うわけです。靴なんかも。
決して豊かとは言えない母方の祖父母が
なけなしのお金で買ってくれたものも、
私自身がお年玉を貯めて購入したものも、
全部従妹のものにされてしまう。
父が勝手にあげたりする。
これはずっと実家を出るまでやられました。
アルバイトで不在の時に持ち物を近所の子にも
あげてしまわれたりして、取り返すことも出来ず、
泣いたことが何度もありました。

それだけでなく、父はよく職人仲間をよんで、
飲めや騒げやの宴会をする。自分の見栄のために。
その食費、酒代がハンパなかったんですね。
お客さんや従姉妹たち一家のために並んだご馳走が、
私や母の口に入ることはありませんでした。
(姉だけは長子ということで食事は特別。
この時代に「飢え」を経験しているので、
私には食べ物に強い執着があり、
美味しいものを食べることに目がないのかもしれない(笑)

そんなんで家計はいつも火の車でした。
父がそうやって、自分の妹家族のため、見栄のため、
散財をするので、稼いでいるというのに貯蓄はなく、
ボロを着て、お腹を空かせていました。

なので母は、家計のために、
内職をしてミシンを踏み、保険の外交をして、
それでなんとかしのいでいたんですね。
中卒だったから、そういう仕事しかなかったのです。

そういう状況下で母が心を病み、
子供に対して暴力を振るうようになってしまったのも、
仕方がないかなあ、と思います。
離婚したくても出来ませんわね。
離婚や母子家庭にはまだ厳しかった時代です。
中卒で資格や経験、頼れる実家のない人には、
婚姻を継続する以外には生きる道はなかったのでしょう。
まして一人ならまだしも、子供を抱えていては無理です。

2chではよく見る話です。
ああ、うちだけでなくて、似たような人いっぱいいたんだ、
あるある、わかるわかる、そーなのそーなの同じ、
と、今でこそ思いますが・・・


高校に入学してから(実際は春休み)、
アルバイトを始めて、初めて洋服や靴を買えた時、
とても嬉しかったのを覚えています。
コートも買ってもらえず、寒くて凍えていたので。
(それでも父親に勝手に他人に上げられちゃったリして)
暖房もなかったから、バイトして自分で買いましたしね。
生活費も少しは入れてたし、定期代とか、
すべて自分で賄ってましたよ。
確かに遊びもしたし、趣味のものも買ったけど。

この仕事を始めてから、
セッションの金額が万単位だったりとかするので、
労力を対して使ってないわりに高いお金をもらってる、
普通の人が一時間いくらで働いているのか知らないでしょう?
あなたが一回のセッションで稼ぐお金は、
私の時給の何時間分だと思う?
みたいなことをその昔、言われたことがあります。
お金の価値を、苦労をまったく知らない人みたいに
その人は私のことを思っていたのかな。

確かに医師や士業の人たちほどではないにしても、
専門職とはいっても特殊だから、
実質、高給取りに見えるのでしょうね。
対して労力を要していないのに、高い料金を取って、
暴利をむさぼってる職種とでも。

でも、実家はそんなんで、
ネグレクトみたいな放置はされなかったものの、
経済的には困窮していて、
自分で必要なものは自分で稼ぐしかなく・・・
高校時代はアルバイトばかりで、
ひたすら働きまくるって、そんな感じ。

一日4800円稼ぐために、
そのバイトを確保するために期日に電話して、
朝早くからパン工場で流れ作業、
お昼を節約するために無料のパンと水でしのぐ、
そういうのもたくさんやってきましたけどね。

いちおう難病指定の疾患持ちだったけど、
働かない訳にはいかないんで。生きていけないんで。
時おり倒れながらも、休むことも多々あったけど、
それでも死にもの狂いで頑張ったかな。

アニメーターの仕事してた時は、
放映スケジュールに間に合わせるため不眠不休で、
徹夜を何日もして、お風呂にも入れず、
どんなに頑張っても、給与は8万弱。
家賃払って冷蔵庫もテレビも無い生活。
三食100円のラーメンに同僚と10円ずつ出し合って
購入したもやしのみの食事がメイン。
週に一回だけホカ弁でのり弁買って、
月に一回の給料日だけ定食屋で焼き魚定食を食べる。
夏は素麺。西武の優勝セールで投げ売りしてた、
キャベツだけ入ってるお好み焼きを食べ続けたり、
栄養失調状態になり身体中に斑点が出たこともあった。

なのにお金を稼ぐことの苦労を、意味を、
まったく知らない人に見られてしまうこともある。
そう見る人もいる。
(どうも自分一人で生活したことのない人ほど・・・
本当のお金の苦労をしたことがない人ほど、
そう思い込む傾向にあるのは何故なんだろう)

それはそれで仕方がないし、
その人の問題とも言えますかね。

まっ、いいけど。

ところで、7歳までは母親のコピーというか、
子供は母親の感情を吸収し、外の世界に表現する
母親の心の代弁者だと先に書きましたが。

私もまさにそうだったかな、と思います。
兄が亡くなって、母が離婚を決意し、
姉を連れて家を出たものの、
私を妊娠したことが分かり、婚姻継続となったのですが。
まあ、そんな時期でしたから、
まさに不安定そのもので、マタニティブルーも加わって、
「この子さえ宿さなければ離婚出来たのに、キィー!
 お前のせいでっっっ んもっー!!」
となったわけで。

私のASCにどっしりと座っている土星が
まさにその状況を表していますが。
そして当時毎日のように言われたのが、
「金食い虫」と「貧乏神」「疫病神」という言葉です。
他にも色々あったけど、
短いフレーズのほうが覚えてるものでして。

少し前のエッセイで仲違いした先輩が、
私のことを「疫病神」だったと言っていましたから、
母が私に繰り返し言い続けた言葉は、
まさにその通りに成就したという訳か…

母親が子供に与える言葉って、
本来は祝福となり愛の言葉になるはずだけど、
その言葉の内容によっては、呪いの言葉になる。

刷り込みという予言。

おめでとう! あなたの予言は叶いました

 私はあなたがかけてくれた、呪いのままに、
 それはそれは見事な、
 他人を不幸に出来る立派な疫病神に育ちましたよ!」

とは、母には言いませんけど。

いやさ、イヤミ的に言ったことはありますね。

「どうせ。私は金喰い虫だからさ」って。

言えるようになっただけ、私も強くなったというか、
おばさんになったということか。

しかし、母親の呪縛、母親が子供にかけた呪いって、
なかなか解けないものだなーと

その辺りはクライアントさんを見てても強く思います。

チャクラのヒーリングワークで、
第一チャクラにアプローチしても、色々出てきますから。
バーストラウマもそうだし、胎教もそうだし、
その後の事とかも…
覚えているはずはないのに、ちゃんと傷として残っていたりする。

でもね、母親だけの問題ではないんですよね。
繰り返し、繰り返し、祖父母の、先祖の代から、
負の連鎖で続いていることでもあったり、
何よりも父親ですかねー

うちも父親がマザコンでシスコンでモラハラエネ夫でなければ、
母親がおかしくなることも追いつめられることも無かった訳で。

諸悪の根源はお前なんだよ!
真の悪はっっっ
影のフィクサーはお前だっ!

お前だぁぁあ! お前が悪いんだょっっ!

この糞爺がっっ!

早く、死んでおしまいっっ!

(悪人ほど長生きするものですな)

・・・ってつくづく思いますもん。

でも、マザコンを育てるのも母である女なんだよな、ふう。

なんかねー 当時のヤツを
気団の方たちにけちょんけちょんに叩いてもらって、
ウォーターさせて頂きたいものだと思ったりしますが。
もはや手遅れ。

そもそも今の時代であったとしても無理だろな。

そして、もしも私がトランプ大統領だったら、
ママンスキーでモラハラなエネ夫は、

全員去勢すべし!!

という大統領令を発布するに違いありません。

(すっかり私もねらーになってしまったな…ふっ)



さて…母親が実の子供にかけた呪縛。

この永遠の、手強い呪いから、
子としての私が解き放たれる日はくるのであろーか。

そして解放の呪文が耳に囁かれる日は来るのであろーか。

そは、解放の呪文とはいずこなり・・・?


なにはともあれ

すべての母たるものたちよ、幸福であれ
それがすべての子であるものたちの幸いなれば

2017/01/31

感想「チャクラヒーリングを受けて気づいたこと」

クライアントさんでGレッスンの生徒さんでもある方が、チャクラヒーリングのセット(二回目)を受けた感想を下さいましたので掲載します。



昨年のチャクラヒーリングで気づいたことをまとめてみました。
箇条書きのようになってしまいましたが、この経験を踏まえて、自分と向き合って生きたいと思います。


【第一チャクラ】

この時はまだ混乱した部分が多く、心は未整理な部分ばかりが表に出ていました。アドバイスや指摘のひとつひとつが心の奥まで行かず、表面的に理解しようとしている感じでした。そのなかで印象的な体験をしました。


●友人を事故で亡くした経験の時の感情

古い過去生の記憶の中に、事故で助けられなかった友人のために悲しむものがありました。
その感情を体験した時、自分の中にこのような心があったということに驚き、その悲しみの中でしばらくとどまっている自分を体験しました。
自分の中に、無情でない部分を発見したひと時でした。

このことは後から考えると、決して育たない心を持ち合わせたわけではなく、自分が経験を理解しようとしなかったということをあらわしているように思いました。


●荒い波動に細かい波動は伝わりにくい

第一チャクラのヒーリングを受けた時、自分の中にあるエレメンタルを全て綺麗にした後にエネルギーを入れると、とても入りにくく感じました。私の中には細かい波動と荒い波動が混在していて、荒い波動の方が割りを占めているように思いました。

荒い波動の多い中に細かい波動を広げていくにはとても時間がかかり、伝わりにくいものなんだと思いました。

この経験から推測したことは、低い波動の人は高い波動の人のものは伝わりにくく、高い波動を持つ人には、低い波動はひどく疲れるのではないか、ということでした。

低い波動はネガティブなものが多いように感じました。それがすべて欲望志向型のエレメンタルだとしたら、欲望志向型エレメンタルを多く持つ人は他者にとってエネルギー的にも痛みを与えやすい存在になるのではないかと思いました。

私は人に痛みを与えやすい人間だったんだと思います。ネガティブなものを心からなくしていくことは、自分だけの解放ではなく、周りへの影響に変化があることにつながると感じました。


【第2チャクラ】

この日は対話の中から自分のありようを見つめたという感じが残りました。
この頃起きた事件などで自分の身に起こったとしたらどうなのか、では過去の記憶を持ち合わせながら、その人に拘らなければならなくなった時どう感じると思うのか。
対話の中から自分の感覚を確かめていく時間のように思いました。

実際第2チャクラを見ても、全てを口にできていない自分がいました。
どこまで話していいのかがわからないという感じです。
見たもの全て、感じたこと全てを言った方がいいのに、なぜか言わないでいる自分がいました。どこまで本当に感じているのか、自分に対して疑問を持っていました。
見たものをすべて話せなかったのは、恐怖に勝つことができなかったからだろうと、今は感じています。

自分が過去に行なったことは、二度と消えることはないということを実感し、エレメンタルをすべて取ったとしても自分が変わらなければ意味がないということが心に響きました。

ヒーリングの間涙が止まらず、後味が悪く、もう二度と過去のような行いはしたくないと感じていました。

ヒーリング後、相手のことを考えること、相手の幸せを考えることは、すぐにうまくできることではないけれど、できないことではないのかもしれないと感じ、また、無意識のエレメンタルに気が付けるようになりたいという気持ちにもなりました。


【第3チャクラ】

この回に気づいたことは、自分の視野の狭さでした。
それは今も昔も変わっていなくて、誰かのアドバイスがなければ周りが極端に見えてなく、気づかないのでした。また、一つの過去生から気づいたことがありました。

それは、3000年前の奴隷の人生だった頃です。
彼は体が小さく、できる仕事は少なかったようでした。仲間は多く、色々助けてもらったのに、そのことと人生観とは別で、もう自分はこんな身分には二度と生まれない、と思っていました。

彼はこの人生で、どんな人生にも人を愛し、学びはあり、変えなければいけないのは社会のシステムだけで、どんな人生にも意味があるということを学ばなくてはならなかったのです。なのに学べませんでした。

それは物事を悲観的に、他者を排除して考える傾向がこの頃にもあったということです。
物事をとても狭い視野からとらえ、その考えを広げられない、その傾向は今の私の性格につながっていました。

また、この人生は、この後の人生に大きな影響を及ぼしているように思いました。この後の道を踏み外した人生に進んでしまうきっかけの人生が、奴隷だったとは思いませんでした。ネガティブなものは本当に怖いことになることを知りました。

アドバイスをいただいて、この過去生の彼の生き方について、私が提案を考えることになりました。私は、過去生の彼に対して、小さなことにも喜びを見出し、仲間が助けてくれることに感謝し、日々のたわいないことに気を向けて、1日1日積み重ねるというようなことを提案しました。

エレメンタルに向き合った時のアドバイスを大事にして、自分で考える癖をつけていこうと思いました。少しでも視野を広げるためには、努力するしかないと思いました。


【第4チャクラ】

●目標を自分で決めて生きることは、とても大切なこと

この回のヒーリングの前に、心に決めたことがありました。自分の生きる目標をしっかり持つということです。たとえ間違っていても、自分で決めた大きな目標に向かって生きるということは、自分の人生を人任せにしない姿勢であるというように思いました。

今までもそうして生きてきたように思うのだけれど、なにが違うのか考えた時に、もしかしたらたて方の方向が違うというか、根本の考え方が違うものだったのではないかと思いました。

今までは、私欲(エゴイズム)に基づいた、生きる目標たったように思います。人並みになりたい、認められたい、人として対等に扱われたい、などなど。そのためにどう生きればいいかという目標だったように思います。

目標とはそういうものではなくて、自分が成長するためにはどうあるべきか、という視点が重要だったのだと思いました。

この項の最初に書いた、「たとえ間違っていても」という言葉の意味は、「(成長するという観点ならば)たとえ間違っていても…」という書き方が正しいのでしょう。
いつか本当の生きる目標にたどり着くために、今感じている生きる目標をしっかり心に据えて生きていこうと思いました。その気持ちを持ってヒーリングを受けました。

第4チャクラにあったものはさまざまなものの残骸で、それぞれの品物に詰まった、作ってくださった人の気持ち、丁寧に管理してくれた人の気持ち、壊した人の気持ちが伝わってくるものでした。
そのひとつひとつは哀しく寂しく、切ないものでした。
何も分かろうとせずに邪険に扱っていた過去生の自分は、一つ一つのものに込められていた気持ちのひとつも気が付かず生きていました。

「壊した人の罪を無くしなさい。元どおりに一つ一つ自分で直しなさい」とアドバイスされたことで、人の罪をなくしていくことも大事なことなんだと感じ、原因を作ったのは自分であることを再認識しました。

この回は他者の様々な感情を追体験し、ただただ悲しくて涙が止まらず、人を大切にしたい、もう二度と悲しませたくない、と思いました。そのために成長したいと思いました。

「羨ましいと思った時、自分にないものを人に見た時は、そのまま認めてあげればいい。
素敵だなって思うこと。それが愛すること。そのことを見られたことに感謝すること。それが愛すること。じぶんにないものをみられたことを、見せてもらえたことを、その人の美徳を、感謝すること。それが愛すること」

愛について教えていただいた言葉です。

終わってみて、気持ちはとてもハードだったけれど、愛する方法、悲しみの実感、寂しさの本質が少しでも感じられたことが印象的でした。私の過去の行いは消えることはないけれど、向き合いたいと思いました。


【第5チャクラ】

前回の後、「やらなくてはいけないと思っていたことが、実はやりたいことだった」ということに気がついた日がありました。
今まで、やらなくてはいけないと思って生活を律してきたけれど、そのほとんどが実はやりたいことでした。
ちゃんと生活したかったし、さぼりたくなかったということは、いろんなことを覚えたかったし、できるようになりたかったんだと思います。

また、人としてどう生きたいかを考えた時に、例えば一番身近な介助の方との関係について頭な浮かび、介助を通しての関係性をビジネスライクに考えて我が道を行く生き方よりも、いろんなことを考えながらベストを尽くす生き方をしたいと感じました。

今回のヒーリングは、私の中にある「見栄」「誤解」「間違った解釈」に向き合う回になりました。寂しさばかりで、そこに愛のない赤ん坊のような心から起こした私の行動は
、多くのひとを傷つけ、悲しみを残しました。

とても悲しく、ただ悲しく、もう二度とこんなことはしないと思いました。
ヒーリングの最中に見えたたくさんのガラスの破片は、私が壊したひとの心だと教えていただきました。「おもちゃのようにひとの心を欲しがったけれど、心は得ることはできなかった」

この日は立ち直れないほどの悲しいきもちで終わりました。この悲しみは、私のものではありませんでした。多くの人が感じていたものでした。


【第6チャクラ】

毎回毎回がとても大事なひとときになりますが、この回は特に私にとって大切な時間になりました。

●人の幸せを願うことをしてもいいということ

私は、人の幸せを願うということが、何か特別なことをしなくてはいけないことなんだと
思い込んでいたようです。私にはできそうもないことなんだと、心の何処かで思っていました。それは、自分と他者を差別していたということかもしれません。

ある過去生と向き合った時に、私も人の幸せを願っていいということに気づきました。今生で私と接してくれる人のなかには、(障害を持つ人と)どう接していいかわからない、
何か特別なことが必要なのかもしれないという気持ちを教えてくれる人たちがいます。

そのような経験の中で、実は私自身の中にある気持ちを見せてもらっていたのかもしれないと思いました。
また、今生で障害を持つ私に足らなかったことは「他者の幸せを願うこと、祈ること」だったんだと感じました。

感謝だけではダメなんだと思いました。人の視点に立つということは、その人の幸せになる視点に立つということなのかも知れません。

どうすればいいかメタトロンに聞くと、心からしあわせを願えばそれでいいと教えてくれました。なにも難しいことではなく、心から幸せを願えるならば、その時にその人に対して自分のできることがわかるように思いました。自分がなにもできないとか、なにをすればいいのだろうと焦る前に、その人が幸せであるように願ってみようと思いました。

また、メタトロンのいるべき場所がエレメンタルでいっぱいだったことにはじめて気づかされました。ネガティブな自分のエレメンタルと向き合えるよう、鍛えたいと思いました。


【第7 チャクラ】
第7チャクラのヒーリングを受ける前に気がついたことは、「提供する方の人生を選ぶということ」です。

自分の人生は求めることばかりだったと気づきました。人生で選べる道が二つにひとつならば、求める人生ではなく、提供する方の人生をこれからは生きてみたいと思いました。なぜならば、求め続けるときりがなく、不安になり、得られないことに不満が募り、エゴイズムが大きくなるだけだとわかったからです。

私はそういう人生を生きてきたのだと思いました。これからはできれば、一つ一つに学びを見いだせるような豊かな人生を生きたいと思いました。
そして、頭で考える、と言っていたことはエレメンタルが考えていたんだということを、
なんとなく感じるようになりました。

サイキカル体とノエティカル体を使って、感じたり考えたりすることが必要だということを実感しました。好きな人たちを幸せにしたいという最初の思いに戻って(自分のことしか人は幸せにできないということを胸に留めて)、自分のやりたかったことをぶれないようにすること、間違ってしまったことで取り返しのつかないことがたくさんあるけれど、
二度とその道は行かないということを誓い、幸せを願おうと思いました。

第7 チャクラのヒーリングを受けて感じたことは、思い込みや恐れなど、自分で作ったネガティブなものはとても手強く、深く大きなものになってチャクラに宿っているということでした。幾つ振り返っても新たなものがあり、不安になればまたできていくような感じを受けました。

また、恐怖は本当に怖いものだと思いました。いつも雲のない空を保つためには、気持ちを強く持たないとと思いました。自分の現実を知り、一歩一歩確実に歩くことが大事なのだと思いました。


【トータルのチャクラヒーリングを受けて】

実はまだまだヒーリングは続いております。私の中で自分と向き合うことに終わりはなく、今回は納得のいくまで向き合ってみたいと思っております。昨年中に自分の中で納得のいった、上記以外のことを記させていただきます。


【障害についての理解が深まったこと】

私が持って生まれた障害は、私に必要な経験を与えてくれるものであり、私が人に与えてきたものを理解するためのものでした。今までの人生の結果であり、一つひとつの行いの重さに気づかないまま過ごしてしまったツケであり、蒔いた種であるということです。
私が今回できないこと、制限のあることひとつひとつには意味があり、その状態を体験しなければならなかった理由があります。

障害のことにすべて向き合うにはまだまだ長い道だとは思いますが、本気で受け入れて、生きてみようと思いました。


【エゴイズムと自分の区別がついたこと】

第4チャクラの2回目のヒーリングを受けた時に、エゴイズムというものは怒るばかりで反省もしないし、自らも振り返らないということを見ることができました。ただ自分の気持ちを押し通すだけで、人のことを考えることもしないエゴイズム。

これは自分とは違うものなんだと気づきました。

振り返らないのがエゴイズムならば、ああそうか、と思う心は私自身なのかもしれないという仮説が生まれました。

明らかにエゴイズムと違う行動なのだと思いました。

自分の姿を見つけた時、こちらの方を大切にしていこうと思いました。エゴイズムと自分を切り離して、日々自分を見つけようと思いました。


【自分の中にも愛を感じたこと】
第4チャクラの2回目のヒーリングの時に、エレメンタルを綺麗にした後、湧き出るようなものを感じました。言葉にならないものでした。それが「愛」なんだと説明していただきました。胸の奥に湧き出るものは熱くなく、硬くもなく、暖かいとかそういう言い方では言い表せない、表現しようとすると涙が出てきてしまうものでした。

私の中にもあったということが驚きでもありました。今でも思い出すと涙がが出てきます。日々思い出して記憶を留めておきたいものです。

「愛は愛である」この時に心に聞こえてきた言葉です。
「愛は許しではない。愛は愛である」
この言葉を聞きながら、脳裏に浮かんだことがあります。愛は許しではない、愛は愛である。そのことを肝に命じました。ことあることに、この時のイメージを思い出している自分がいます。


【傲慢でしかなかった】

私はいつの日も自分のことしか考えず、傲慢でしかありませんでした。そのことに気がつくこともありませんでした。

傲慢さに気づいた時、私の選択のほとんどが間違えていたことを知りました。自分の世界しかないということはとても怖いことだと思いました。

自分の殻の中に入らず、学ぼういう姿勢をいつも持つことは、知らなかった世界を知ることになるのではないかと思います。

毎日を大切にして、一つでも多く知り、謙虚さとは何かをいつも胸にといながら、人として生きることを身につけていこうと思いました。


【自分なりに物事を考えるということ】

私は今まで、いただくアドバイスや意見に対して、そのまま受け取って、直さなくてはと思うばかり、その方向でひたすら考えるばかりでした。今回のヒーリングの中での対話などの体験を通して、アドバイスなどいただいた言葉は、もう一度自分で検証し内省して、自分なりの結論という、見解を出していくことが必要なのではないかと思えました。


【人の気持ちを感じることができるという実感】

今回のヒーリングを受けるまで、自分には人の心を感じられるような心はないと思っていました。いくら努力をしてもできなかったことでした。
今回のことで、感じることは努力してできることではなく、感じたい、理解したい、その人の心をわかりたい、とまず思うことと、自分の中のエゴイズムを捨てていこくとを日々やっていくことが大事なことなんだと思いました。
人を大切に思う姿勢を持ち、経験を積んでいけばできるようになるのだと思いました。


【エゴイズムの奴隷に二度とならないということ。そのためにどう生きるか】

私は、長い間、エゴイズムの中で生きてきました。スクールで様々な知識を学んでいる時でも、そこからなにも気づけずに日々を重ねていました。

習ったことを復習しても、実践していても、そこに自分の生きる目的を持ち、自分が成長する観点から、美徳の観点から「どういう自分になりたいか」という思いがなければ、成長は決してしないということを知りました。
エゴイズムの観点から生きる目標を持っても、エゴイズムを育ててしまうだけで自分自身は成長せず、エゴイズムの強さの中で溺れてしまうのだと思いました。

20回あまりの過去生の中で同じ道を歩んでしまった私は、やはり性格に欠点があったように思います。まず傲慢なこと。自分が正しいという観点から離れられませんでした。差別意識が強いこと。自分は人と違うとどこかでいつも思いたいという欲望がありました。

これらのエゴイズムは、感情が強すぎること、理性を働かせる経験が少ないこと、思い込みに対して執着が激しいこと、そのような傾向が引き寄せたものではないかと思います。

そして、他者に対しての愛を育むことを忘れてしまったということが、転落の大きな原因でした。

自分の弱さ、臆病さがそこにあり、その性格と向き合えないために、他の理由をいつも探して、ひねくれた嘘の正しさ、嘘の正義感の中にいました。

なにかと自分は孤独だと思いがちなのもその傾向があるからだと思います。弱さのために、人との関係を作ることを怠けてきたということに行き着きます。

感じている恐怖や不安の根本に向き合わず、ただ逃げるだけだったということです。そして自分が一番楽な理屈に逃げてしまったのです。

その結果、エゴイズムに囚われてしまいました。本来絶対に手放してはいけない、愛も見失いました。

辛くてもその場にいて、物事を見る目を謙虚な気持ちで養っていけば、自分がその場しのぎの楽な方に逃げなければ、もっと早く道は拓けたかも知れません。多くの人を悲しませることにはならなかったかも知れません。

自分の弱さを変えていくには、忍耐を身につけること、どんなことからも学んでいこうとする謙虚さを育てることだと、今は思っています。
日常の様々なことから教えていただけることに感謝して、傲慢の自分を手放し、胸の中に感じた愛情を増やせるような人間を目指そうと思います。

人は望めば限りなく成長できるという言葉を信じて、わかったと安心しない生き方を身に付けたいと思っています。心から納得のいく人生を探し続けたいと思います。


この機会に、本当に、感謝しています。ありがとうございました。