私には生まれる前そして生まれた時の記憶がある。
もっとも、それはとても断片的なものであるが…
里帰りしての出産だったので、
出生地は関東ではなく親の郷里である鹿児島。
産院の大部屋に入院している母を、
私は病室の少し上から見下ろしていた。
その後の記憶は退院してから。
年が明け、泣き出しそうな重くて暗い冬の空、
雪が降りだしそうな寒い日に、徒歩で母の実家へと向かう途中、
何故か母方祖母の手に抱かれている自分。
白いおくるみが印象的だった。
(しばらくは産院に近い、父の実家にて過ごした模様。
母と父の実家は車で30分位だが何故か徒歩での移動。
※ちなみに当時は九州にも雪が降ることがあった)
視点はあくまで俯瞰であって、
祖母を見上げているのではなく、
抱かれている自分と祖母と隣に歩いている母。
そしてもう一人叔母とまだ幼い姉がいた。
どうしてこの景色を覚えているのか…
どうして私は赤子たる己が肉体の中にではなく、
外から他人事のようにこの様子を眺めていたのか…
この記憶があることを不思議に思うより以前に、
何故に私はこの家に、この両親のもとに
生まれてくることになったのだろう?と、
自問自答し、後悔することのほうが多かった。
生まれてくる親を子は選べないと人の云う。
しかし、私は確かにこの母を選んで生まれてきたのだった。
今だからこそわかるのだけど…
私は単純にこの母を、気の毒に思い、助けたかったのだと思う。
親の決めた結婚相手に嫁いで知らない土地にきて、
旦那はシスコンのマザコンでおまけに経済DV男で、
小姑二人のイビリにあい、念願の長男を亡くして、
実家では搾取子だから居場所なく帰れないまま、
長女遺して死ぬに死ねず、病みかけているこの人を。
ああ、そうだったな…と思い出したのが近年。
でもようやく気付いたんですよ。
何でもかんでも他人のせいにして、
私はなんて不幸なのヨヨヨって浪花節に酔っちゃってる人は、
どうにもこうにも救いようがないんです。
親のせい、生まれ(貧乏)のせい、時代(戦中戦後)のせい、
学校行けなかったから、好きな相手と結婚できなかったから、
こんなマザコンシスコン男と結婚したのが運の尽きだった、
イジワル小姑が悪い、父実家の人たちは酷い、
子供がいたから別れられなかっただの、
もうね、状況のせいにして悲劇のヒロインなりたがる人は、
どうしようもないんだって、痛感させられました。
ずいぶん長い時間無駄にしちゃったなあ、と痛感しますけど。
こういう人は、私の母みたいな人は、
自分の人生の責任を何一つ自分でとろうとはしないんですから。
いつだってどこだってどんなことでも他人のせい、周囲のせい。
とにかく私は何にも悪くないって、
自分の問題点を一つも認めようとしないし、一向に非を改めない。
嫁いだ相手がダメだこりゃな相手だったら、
裸足で逃げ出せばよかったんですよ。
学はなくても、社員の経験はあるし、
偏狭な九州と違って都内に近い関東なんですから、
仕事だって探せば何とかなったでしょう。
子供がいるから離婚できないなんて、甘えですよ。
中絶できないから生んだとかいうけど、
私ができたから離婚できなかったっていいわけする前に、
私のこと中絶すりゃ良かったんですよ。
それでて子供に危害加えられても助けも守りもしないし、
離婚する勇気とかなくて、子に対する愛情もなくて、
結局独りで生きていくのがイヤだっただけじゃんて、もうね。
ようやくこの結論に行き着いた決定的な出来事があって、
あれやこれやそうだなあ、と自覚した次第です。
★ ★ ★
私のこの甘い認識は、仕事にも反映されていました。
今生での母への同情は、
同じく周囲の人やお客さんに対してもそうで。
人生の荒波で溺れている人、
どん底の苦しみや慟哭の辛さを抱えて、
やりきれないネガティブな思いに囚われて、
不幸の連鎖から脱出できずにいる人。
奈落に転げ落ちるようなにっちもさっちもいかない、
四面楚歌の壁に阻まれて、絶望の底にいるような人。
そんな運命の迷路で彷徨い、
舵を見失ってしまったかのような人に、
運命の抜け道を探してあげたいなって思ってたんですね。
希望を与え、光ある方向を見つける手伝いをしたかった。
自分に自信がなかったり、生きる気力を失っている人に、
理由なき苦しみやトラウマに悩まされている人に、
その原因を取り除き、その人本来の力を取り戻す、
そういうサポートをしたいとずっと思ってた。
占いにしてもヒーリングにしても、
その手段にしか過ぎませんが。
結局そのどちらにも限界があったから、
根本的な問題解決として自分の問題に向き合ってもらい、
望むような創造的でよりよい人生を生きてもらうために、
人生の、運命の仕組みを
(どのようにして人生が創られるのか)知ってもらい、
その上で様々なテクニックとしてのエネルギーツールを
教えるためのスクールを始めることになりました。
スピリチュアリズム(霊的真理)を基礎とした、
エソテリックな人間塾、グループレッスンです。
それが10年前のこと。
当初はリクエストを頂いての成り行きから始めたことでしたが、
次第にそれはもっとも私が力を入れるライフワークへとなりました。
やはり、一回きりの、
何かあったときの問題解決のサポートとしての、
個人セッションでは限界があったので、継続的に、
それぞれ個人が潜在的かつ常習的に抱えている問題に対し、
定期的にサポートして、なおかつ共に考えることの出来る、
チームメイトで同胞たる仲間がいることはとても有益で、
複数の人間の意見を聞いたり、アドバイスを受けたりすることは、
個人セッションより何倍も有意義な時間をもたらしてくれました。
でも、それでもやはり人が集まると色々問題は起こります。
トラブルが発生することを避けることは出来ません。
知識を得て、何かの技術を取得出来る段階において、
人は慢心することがあります。
同じスタート地点から始まった人と比較して、
自分のほうがクラスメイトより優れているとか劣っているとか、
コンプレックスを抱える人もいれば、
驕りが生まれ、優越感に浸ろうとする人もいます。
「先生」のお気に入りになろうとする人もいます。
知識やテクニックを得たことで、
そうした知識やテクニックを持たずも
周囲を見下すようになってしまう人がいます。
自分のほうが「友人」や「仲間」よりも秀でていて、
能力が上とばかりに傲慢の罠に囚われてしまうのです。
スピリチュアルなことを学び、
サイキカルな能力が目覚め始めた人によく見られる兆候です。
このような人はごく一部にしか存在しませんが、
必ず一定数は出てきてしまいます。
自分の人間的な欠点に目を向けず、
何を学びに来ているのかを根本的に理解しないで、
ただ自分を悩まさせている問題や事象が、
自分の期待している方向に、
ただ解決することを期待している人も多いです。
これは一般的にみて仕方ないかなとも思います。
学びが進む段階において、知識を身に着け、
自覚が生まれたり、視点が変わっていったり、
問題意識が高まってくるかどうかなので。
エソテリックな学びの場においては、
グループになったとき、学びもグループ単位になり、
お休みする人がいたりするとグループとしての波動も下がります。
学びの場に参加して、ともに支えあい、互いの問題を考え、
同調して取り組みあうことで個々の波動が上がるので。
でもこの過程でエゴイズムが露出します。
個人も大事だし、協調性も大事。
だけど同じ仲間となった人に対しても責任がある。
グループの一員として、他の人の学びに対して責任を持つというか、
手助けをしようというサポート意識、連帯感もすごく大事で。
誰よりも自分の問題でレッスンの時間を割き、
仲間のサポートをたくさん受けていた人ほど、
不義理な止め方をしたり、挨拶もなく、音信不通になります。
何年も一緒に関わって、助け合ったり、助けたり、
共に泣き笑いしたように思っても、
人間社会のルールもマナーなんてあったもんじゃありません。
置き忘れた私物を送付しても、なしのつぶてです。
人生が障害だらけ、うまくいかないって人は、
その人自身の考え方によるものが大きいってそれだけなんですが。
カルマのレッスンでわざとそうなってることのほうが多く、
ある意味で、性格や考え方の歪みを「気づかせるため」であり、
暴走させないための重石みたいなものなのだと思います。
この辺りは、その「重石」が一時的にでも軽くなると、
すぐにその人本来の性格が顔をのぞかせるから、すぐわかります。
状況が改善されて、自分を苦しめていた問題が解決したとき、
そのことに対して謙虚に感謝して、本来の直さで生きられる人と、
調子に乗って本来の傲慢さとわがままに拍車がかかる人とに、
だいたい大きく分かれるからです。
スクールでは、
後者の人はすぐに天狗になるからわかりやすかったです。
人生がうまくいっていかず、にっちもさっちにもいかなくなって、
行き詰まって、藁をもつかむ思いでいるときには、
人の話に耳を傾ける人は多いです。でも、問題はそのあと。
自分を悩ませている事象が消えたとたん、
それまでの謙虚さは一気に消え失せてしまう。
ああ、だからこの人の「問題」は解決しちゃいけないんだな。
本当に気づくまでは、苦しまなくてはいけないんだな。
でないと、またもっと大きいのが後からやってきて、
其のときにはきっと取り返しがつかないんだろう…
そういう人って多いです。
「重石」が取れてみたならば、
自己中さが赤裸々にむき出しになる。
でも、そのような要素がある人だからって、
最初に突き放すことは出来ません。
途中で気づいて、
人としての良心に目覚めてくれることも多々あるからです。
でも、直りたくない人は直らない。
自分が変わりたくない人はいかようにしても変われない。
他人がその人を変えるわけではなく、
私は変わりたい、成長したい、人生を変えたいと、
そう望んでいる人をサポートすることは出来るけど、
変わりたくない、
変わろうとしない人を手助けすることは、
どんな人にも難しいことです。
マイナスに投資してもゼロにしかならない。
人を救うなんて本当に驕りでしかないけど、
私が今回の人生で、
「この人の娘に生まれて、母であるこの人を救ってあげよう」
なんてのは笑止千万の驕りでしかなかった。
偽善的な甘いドリームでした。
★ ★ ★
自分本位の女性って、
人と話していても、
直ぐに自分中心の話に持って行ってしまい、
”私は私は”とずーっと一人で話しているのだそうです。
そして、人に自分の事を否定されたりすると、
直ぐに逆ギレしてしまい、自分は間違ってない、
自分は可哀相だと騒いでしまうようです。
こんな女性、結構、居ますよね。
この事を、「境界性パーソナリティ障害」と呼ぶようです。
対人関係や自己に対するイメージなどの広い範囲において、
激しく考え方や感情が変化して行く特性がある障害だそうです。
by 某ブログより引用
看護士の知人が、当時働いていた心療内科の病棟にて、
患者さんに引きずられて、精神を病んでしまう医師が多い、
と言っていた。
(自らに処方箋を書いて、薬を飲まずに居られないそう)
自らの内面の闇や性格の異常性や問題に気づいて、
心療内科や精神科を受診する人は重篤だろうが、
重篤であっても自らの異常性に気づかないもの、
薄々気づきつつ当人も周囲も認めようとしないもの、
そういう人たちは外にある事象にその原因を求めがち。
すると、中には「運命」や「霊的な要因」あるいは、
「過去生」などの問題に責任を転嫁しようとする人もいる。
本当に原因がそこにある場合もあるけれど、
上記に引用した文章中に示されるような、
・境界性パーソナリティ障害
・自己愛性パーソナリティ障害
・妄想性障害
・統合性失調性
・発達障害
などの人も占いや霊能的なことに助けを求めてきたり、
チャネリングやリーディング、ヒプノセラピーなどの
スピリチュアルなワークの門戸を訪ねてくることも多いから、
その手の人をいかにして、
本当に必要な医療的ケアやサポートに導くか、
というのはこの手の仕事に携わる人の悩みの種でもあり、
対処法を学ばなければならない課題であるかもしれません。
何故なら、私たち、スピリチュアルワーカーは、
医師ではなく、
診断もその手の専門的治療も出来ない存在だからです。
かなりの早い段階で、
そのクライアントさんがそうした精神障害の問題を、
抱えている人であるということを見抜いて、
理解した上で適した距離の取り方や対処法をとっていけば、
症状や状況の悪化も防げて、一番良いのですけれど。
私のところに来ていた、
境界性パーソナリティ障害の人は二人ばかりいて、
引用した文章の通り、
何かというと「私は、私は」と、
他人の話にすぐに割り込んで、その話題を取ってしまう。
他人の話を横取りするというか、すぐに自分の話とすり替えて、
自分が主役になって、延々と自分語りをする。
そして、一対一の時はしないのだけれど、
三人以上で話をしていると、必ず誰か一人を無視して、
のけ者にしてしまう。誰かしらをハブるわけです。
自分の仲間うちの集まりに部外者を連れて行ったなら、
自分の連れのその人そっちのけで、
その人にわからない仲間うちの話をして、
アウェイの人を放置する。
これって意図的にわざとでなくて、無意識なんですよね。
自分は常に悲劇のヒロインで、被害者の立場。
性格の問題や欠点を指摘されて、非を責められても、
いつだって相手が加害者で、自分は悪くないと、
怯えて傷ついた自分をマヤって、同情を引き、
相手をワルモノにして、味方を作ろうとする。
単純に性根の腐った性格の悪い腹黒女、と思いきや、
もうこれは人格障害なわけです。
でも、当人が自分が「人格障害」であると、
何処かで気づいて専門的な治療を受けないことには、
どうにも治療は難しいでしょう。
こういう人にはスピリチュアルな知識は理解できず、
むしろ下手な自己養護と言い訳の材料。
他人や霊的事象のせいにする都合のよい理屈に
勝手にされてしまいます。
自己愛性パーソナリティ障害の人もそうです。
知識を正しく理解し、自分自身の問題と対峙して、
人生を生きる上でのノウハウとテクニックと使うのではなく、
自らの正しさや存在価値を証明するための道具に、
オカルトやスピリチュアルな知識を利用しようとするなど、
主に己がエゴイズムの承認欲求を満たすためだけに、
力を手に入れようとしたり、
知識を理屈にすり替えようとします。
こういう人は、スピリチュアルな教えを説くものに対して、
自己投影が激しいので、同化意識を持ち、
しつこいくらいに、ものすごく執着してきます。
自分を認めさせようと、付きまとってくるのです。
このようなことを理解するために
講座を開いた10年だったような気がします。
その意味で、誰でもない私自身が、
多くのことを学ばせて頂き、貴重な経験を得ました。
そして こうした人々が表してくれた問題の中に、
私自身の問題の種を見出すことが出来たのも大きかったです。
多かれ少なかれ、
私自身の中にも、彼らは存在していました。
彼らと対峙することは、
自分自身の問題と対峙することでもあったと、
いまはよく理解しています。
人生とは本当に無駄はなく、
すべてが学びなのだなと思います。
どんな出会いにも意味があり、
必要でない出会いや出来事はありません。
すべてが必然なのだな、と実感しています。
自分に必要なものはすべて人生の中にあるのだと…
自分を成長させる経験は、人生において、
ぜんぶ用意され、提供され、与えられているのだと、
私は自分の人生でのことを振り返って痛感させられます。
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