2017/06/03

世の哀しみを減らすために私自身が出来ること

先週のことですけど、数年ぶりかで映画を見てきました。
映画を見るのは好きですが、今はTVを所持していず、
PCでDVDを見るにも徒歩圏内にレンタルショップがないこともあり、
とんとご無沙汰でした。映画館も行かなくなると情報入らずで。
視力のこともあり、字幕を見るのが無理というのもありましたが…

その映画を見ようということになったのは、
当日の午後、渋谷にて開催されている、
抱きしめる聖者アンマのダルシャンに
一緒に行こうという話になっていたので、
ちょうどその映画のことを知った友人が是非見たいが、
休みがその日しかなく、タイミングよく同じ渋谷で、
上映時間もピッタリ合ったからなのでした。

映画のタイトルは「ライオン~25年目のただいま」

どういう内容かも、誰が出るのか、何の事前知識もなく、
その後はどうせ一緒に行動するのだから、お付き合い程度に、
たまには映画もいいかな位の軽い気持ちでした。

インドが舞台と聞き、アンマはインド人なので、
偶然にも今日はインド一色だね、なんて調子で。

たまたまレディースディだったのでラッキーと思いきや、
この映画を見た事自体もラッキーでした。
友人が誘ってくれなかったら、作品のことも何も知らず、
見逃していたことを考えると、必然とも言え、友人に感謝です。

まあ、その・・・色々と考えさせられる映画でした。

どういう内容の映画だったかをかいつまんで説明すると、
インドの貧しい母子家庭(兄妹4人)に育った五歳の主人公が、
誤って回送列車に乗り込み、そのまま寝てしまい、
1200km以上離れたコルコタの町に着いてしまい、
言語が通じない事から、迷子になり、
さらにストレートチルドレンになってしまうものの、
親切な人に出会えたことからなんとか警察に保護される。
が、五歳という年齢で親の名前や出身地を言えないことで、
身元が分からず、コルコタの新聞にて尋ね人広告を出すも、
1200km離れた町には届かず、結果孤児院へと。
しかし、そこで運よくマザー・テレサの教育を受けた女性が主催する、
海外への養子縁組を斡旋する人権団体を介して、
オーストラリアはタスマニアの愛情深い里親の元に引き取られる。
が、海外留学をしてインド人の同級生たちと交流をしたことから、
故郷や実の家族に自分の無事を伝えたいという想いが強まり、
フェイスブックやグーグルアースを通じて、五年もの歳月をかけ、
幼少期の記憶から自分の出身地を探し出すことに成功し、
インドへ旅し、家族と再会する‥というもの。

実話がベースになっていますが、
ドキュメンタリーではなく、映画として形作るため、
はしょっているところや脚色しているところなど、
そこはそれ、映画という原作を元にした二次創作だから、はい。

友人はこの映画のテーマ
(インドという貧しい国の実状や養子問題)
の重さにズーンとなってしまいましたが、

私のほうはその辺りは想定内というのかな・・・
わりかし第三国の問題に関して事前知識もあるのと、
もっと悲惨な民族浄化物をたくさんこれまでに見てきているので、
(「ルワンダの涙」とか「キリングフィールド」とかetc)
臓器目的の人身売買のための誘拐とか、
孤児院の職員が小児性愛者に子供を「貸し出し」するシーンとか、
現実にあることとして受け止められちゃったりしますね。
今さら感情が動かない自分のことを冷酷な人間だなとも思うし。

インド映画はこれまでも、
サタジット・レイ監督の「大地のうた」とか、
ボリウッドに代表されるマサラムービー「ムトゥ」とか、
そういう牧歌的なものやはちゃめちゃな娯楽もの。
一番好きな「きっと、うまくいく」
それ以外にもみ終わった後、ズーンと来る「女盗賊プーラン」とか。
オリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」とか「カーマ・スートラ」とか、
アメリカで制作されたインド人監督のものも見たりしましたが・・・
国単位の見た本数としては少ないほう。
それでインドという国のすべてを理解出来たかというと、
それはありえないし、一部しか覗き見していないわけで。

ただ非常に混沌とした国で、のんびりとした面がある一方で、
カースト制度により、未だに非人道的で理不尽な人種差別や、
女性蔑視、ありえない常識やルールがあるのは、
近年伝えられる海外ニュースからも察せられるかな。
数字のゼロを発見し、数字に強い天才的な人も排出し、
IT大国でもあったりするけれども…
サイババみたいな奇跡がカリスマ的な人気を博していたり、
貧富の差は激しく、ガンジス川では死体も洗濯物も一緒くたで、
路上生活者や物乞いなど、野良猫のように餓死する人も多々。


話を映画に戻すと、
この映画の「25年も迷子で家族に会えなかった」という話を、
「え?どうしたらそういう話になるの?」と、
列車で遠くに行ってしまっただけで親元に戻れなくなることが、
信じられない、想像がつかないという反応をする人が多いらしい。
得てしてそれは先進国に住んでいる人のセリフで。

まあ、日本という全国統一が成されて何百年も経った国ではそうか。
日本の鉄道網も警察も優秀で、言葉も統一されているし、
新聞も全国で発売されるし、テレビもそう、全国ネットがある。
ほとんどの人が「情報」を手にすることができる。
なので、今の日本ではまず起こり得ないこと。

インドは州によって言葉が違い、公用語でさえ何種類もあること。
治安がとても良いとは言えない国で、
地域によっては警察も公務員も腐敗しきっていて、
刑務所に収監されたほうが暴力やレイプにさらされる危険が高いこと。
貧富の差が激しく、子供の誘拐事件は年間で8万人もあるが、
その子たちの行方を捜したり、気にしたりする人は少ないこと。
道端で餓死する人やストレートチルドレンが死んでいたって、
野良犬程度の扱いであったりすること。

今のインドは知らないが、少なくとも映画の主人公、
実体験をした原作者が迷子になった当時のインドではそうだった。


さて、私がこの映画をして脅かされ、感動したのは、
主人公に起きた幸運的な奇跡の数々と、
幼少期の想い出を覚えていられたという事実。
あと、人の幸福、子供の幸せってお金じゃないんだなってこと。

養父母の元で養子になったのは、主人公のサルーともう一人、
マントゥッシュという同じインド人の男の子なんだけども。
彼はとても精神的に不安定で、いわゆるトラウマを抱えており、
フラッシュバックから暴れて、素直に親に甘えられず、
成人してからはドラッグに溺れて自堕落な生活を送っていた。
このあたりは映画にドラマ性をもたせるため、
かなり大げさにしているみたいだったんだけども。

彼がそうなっちゃったのは
実の家族から虐待を受けていて、なおかつ、
インドの孤児院に居たとき、性的な虐待も受けていたから。

対してサルーは、とても貧しくて、毎日お腹を空かせていて、
とても不衛生で酷い環境で育ったのだけども、
母親は子供達を分け隔てなく、かつ惜しみなく愛情を注ぐ人で、
子供達のために過酷で辛い仕事を頑張る人だったんですね。
だから、兄たちも弟を可愛がり、とても家族思い。

養父母もとても素晴らしい人たちで愛のある人たちだった。

同じ養子として、同じ環境に引き取られ、
愛情深い養父母に育てられたというのに、
二人のその差はどこから生まれてきたんだろう?
もちろん、元々の資質、性格の差もあるでしょうが。

でも、サルーの場合、五歳になるまで、
面倒見のよい兄たちと子供想いの母親の懐の中、
物質的には恵まれて無くても、
そうした愛の記憶があったから・・・
というのが大きかったんではないかと。

マントゥッシュは子供が一番親の愛を必要としている時期に、
自己肯定が創られる時期(第一チャクラと第二チャクラ)に、
十分な愛を受けられなかったどころか、悲惨な体験をして、
ズタズタにされてしまったから、その後も傷を抱えたのかと、


まあ、そんなこんなで思うことあれこれ。

さて、インドで年間8万人の子供たちが行方知れずになるけど、
先進国たるアメリカでは23万人だったりする。
こちらは人身売買といっても、児童ポルノの犠牲者がほとんど。
中には猟奇的殺人事件の犠牲者になっていたり、
離婚して親権を取れなかった親による誘拐も含まれているけど。

臓器売買目的の誘拐はインドだけでなくて、
インドネシアやタイ、フィリピン、南米などでもたくさん。

ストレートチルドレンはロシアにも南米にもアジアにもてんこもり。
アフリカでは児童労働や児童婚、子供兵士の問題などもある。

かと思えば、お金のために人を平気で殺す人たちもいる。
つまらないことで感情を害して、
ゲームのように人の命を奪う悪鬼のような人たちも。

衣食住足りて人はようやっと他人のことを考えられる余裕が出るという。

だがどうだろう。
衣食住足りていても、人の欲望に際限はなく、貪欲さはますばかり。
お金のために、お金を得るために、稼ぐために、
人は人であることを見失って、大切なものを忘れて、捨てていく。
豊かになったモノ余りの国では、孤独死も過労死も自死も増えるばかり。

テロは無くならないし、中東の和平は遠く、
アメリカはパリ協定から逸脱してしまった。
中国の大気汚染は深刻で、災害からの教訓もどこ吹く風。

相変わらず世の中は問題でいっぱい。


こうした世の中の現状を考えるとき、
自分は何が出来るんだろうって再び考えた。

インド映画を見て、考えて、そして
奇しくもインドからやってきた、
抱きしめる聖者アンマの慈善活動などを改めて見直して。

今の自分が出来ることって何だろう。

それは私自身を活かすこと。
私にしか出来ないことをすること。

もちろん、募金のような金銭的なサポートも微力ながら、続ける。
生徒さんたちとの祈りの会も続ける。

そして、後はやっぱり、私自身がきちんと自分の人生を生きること。
自らをきちんと成長させていくこと。
後は本当に、地道で些細な力でしかないんだけども、
スピリチュアルセラピストとしての仕事を通して、
クライアントさんの問題解決の助力になっていくこと、
そのために知識を吸収して、勉強して、自らを鍛錬して高めて、
人に分け与えることができる力を常に蓄えて、備えておくこと。

この仕事を一生懸命するしか能がないのです。
クライアントさんの過去生を解放したり、
その人が望む未来を創造するために邪魔になっているものを取り除いて、
その人がその人らしく生きられるように、
生き生きと、本当の自分の人生を生きられるように、
一期一会のセッションでの出会いを大切にして、
限られた時間の中で全力を尽くして、
(いつでも全力を尽くせる状態でいられるよう自分を磨いて)
とにかくホントそれしか出来ないんだよなって、
この仕事を通して、世の中の不幸や悲劇のタネを、
少しでも、ひとつでも無くしていく努力をするしかないのです。

それしか出来ないし、それを頑張るしかないって、
改めて想いを強くした今日この頃の私でありました。

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