グループレッスンで行うのは霊的エクササイズばかりではありません。
もちろん、ヒーリング(ハンドヒーリングやサイキカルヒーリング)、
イメージワークやチャクラワーク、リーディングもしますけど、
家族やパートナーに対するサポートをしたり、
それぞれが抱えている問題について話し合ったりの他、
過去の歴史や事件、リアルタイムの時事について、
知ってもらい、考えたり感じたりする機会を持ってもらっています。
ちなみに前回取り上げたテーマは「洗脳」
洗脳の歴史と、もっとも代表的な10の手口(テクニック)、
そして、洗脳状態で起きた事件などについて。
カルト宗教が起こした事件だとガイアナの人民事件とか、
政治思想絡みだと中国の朝鮮戦争時、旧ソ連のシベリア抑留とか、
エリザベス・ハーストの事件とかストックホルム症候群についてとか、
奇跡を起こして人心掌握とかマルチ商法のテクとかとか・・・
障り程度で、そんなに詳しく専門的な講義をしたわけじゃないけど、
スピリチュアルに関わっているからこそ、
そこに潜んでいる陥りやすい穴についてきちんと知ってもらわないと、
・・・ってのがあります。
で、調べてみると、オカルト事件簿っていうのか、
宗教家や霊能者や祈祷師もどきが起こした事件も結構ありますね。
ライフスペースのミイラ事件とか横浜の悪魔祓いバラバラ殺人が、
有名ですけども、似たような猟奇的な事件がたくさんあったりして。
なんで繰り返されちゃうかな、こんなこと・・・とも思いつつ、
ちょっと考えれば変だってわかりそうなものなのに、
異常心理状態にあると、人は理性を失くしてしまうのでしょう。
無学は人を貧しいままにし、
無知は人を愚かなままにさせておく
とはよく言ったもの。
確かにエレメンタルは筋肉に入りやすいし、
他人の意識(肉体を失った幽体と霊体)は骨に入りやすい。
そしてオーラにもくっつくし、
最終的にエーテルセンター(チャクラ)にも入りこむこともある。
オーラにくっついている状況なら、
音などの波動(柏手や音叉や鈴)で離れていくし、
身体に入り込んでいる場合、電気ショック的な衝撃で
それらが離れていくことは昔からよく知られていたりする。
なので身体を叩くことは時と場合においては有効だけども、
だからといって、肉体を傷つけるほどの暴力や
殺してしまうほどのダメージは酷すぎる。
そのような肉体に負担をかけるような
最悪の切羽詰まった方法を取らずとも、
憑依の問題にアプローチして穏やかに解決を図るのが、
霊的職業に就くもののお役目ではないのか。
それが出来ないなら、そのような肩書きは名乗るべきではないし、
肩書きの元に行われるそれは仕事とは言えないではないか。
と、あれやこれや思ったり。
現実に起きた事件などについて、レッスンで取り上げるのは、
過去の出来事や人々の生き方から学ぶべきものが多いからです。
知ること→感じること→考えること
→そして知ったり感じたり考えたことを現実の生活に生かすこと
知ることと考えることは、ノエティカル体(思考・精神)を育てます
感じることは、サイキカル体(感情・感覚)を育てます
それらを現実の世界に役立てることは行動であり、
マテリアルボディ(肉体とコミュニケーション能力)を育てます
大事なのは知恵と愛と力・・・を鍛えることですね。
知恵だけ、愛だけ、力だけに偏らず、
全てを平均的に育てていくことが、
真理の勉強における霊的成長の道の理想でもあります。
そして、知識を持っていれば・・・
いざというときのために備えることもできます。
それは自分のためだけでなく、家族や身近な人にとっても、
役立つ知識を蓄えることにもなります。
過去のあらゆる事例を知っていれば、
似たような事例に出合ったときに対処すべき方法・・・
すなわち知恵や行動を見つけることも出来ます。
知ること、情報を得ることってとても大切です 。
考える力を育てることも
自分の考えを持ち、意見をいう習慣を身に着けることも
感じる力ももちろんのこと。
でないと自分のことがわかるようにはならないし、
他人のことを理解してあげられる人になることができません。
自立した精神と、他者を思いやる豊かな心と
学んだことを実践する実行力や、
自分の意見を言うことができる発言力を磨けば、
しっかりと自分を所有することができます
そうすれば、他者の意見に安易に影響されて振り回されたり、
他者の持つ力(霊能力や権力)に依存して、
刷り込みによる「洗脳」を受けることもないのかも知れません。
まあ、そうですね。
私がある日突然イカれてしまって、
「神のお告げじゃあ~」とか言い出して、生徒さんたちに
妙なこと(ハダカで輪になってダンス・・とか?)を強要したり、
「悪魔がヌシについておる!」とか誰かを棒で叩き始めたり、
「私は世界を救う救世主で、新世界の神となる」とか、
ナルシーなうわごとを言い始めたりなんかしたとき、
生徒さんとかクライアントさんが、
「アルマさんの云う通りにすれば間違いない」と、
そうした行為に一切の疑いも持たず、
うるんだ瞳で「ステッキっっっハァト」になっちゃって、
「何処までもついていきますわ」じゃ困るんですよ、
それじゃダメなんです。
むしろ、
「はあ? 何言ってんの? 何かとりついた?」
「とうとう頭おかしくなっちゃった?」「ダメだこいつ」
とかにならないと。
生徒さんほぼ全員が私と同じこと言い出したとしても、
多数決に流されず、「やばい、こいつら相当やばい」
と、いう人がいないとダメなんですよ。
ていうか、皆私の言うがまま成すがまま子ではなくて、
きちんと自分の頭や感情と感覚使って、
物事を判断できる人になってくれないと・・・意味なし。
そうじゃなきゃ、こうしたスピリチュアルなレッスン、
霊的探究つかー霊的成長のためのレッスンを
たくさん時間とお金をかけてしてもらっている意味が
全くないのでありますのよ。
そのためにも過去の出来事を知って、
知識や情報を得ることって大切、
他人と関わることももちろんのこと。
思うに、スピリチュアルな道の探究者となり、
霊的な成長を覚醒を目指せば目指すほど、
人は、社会や他者との交流や関わりあいを
大切にするべきなのだと実感します。
霊的な探究ってつまりはそういうこと。
スピな話はわかる人にしかわからない特殊な話だけれども、
だからこそ、スピな話をする人々だけと固まることはせず、
自分とは価値観が異なった人々との関わりあいも大切にして、
住む世界が違う人、世代も職業も種々様々な
色んな価値観を持った人々と交わって、意見もたくさん聞いて、
世俗を生きて、人と触れ合う機会を持つことってとても大切だと。
偏った関係に固執せず、自分と合わない人ともそれなりに、
誰と関わるか、確かに友や仲間は選ぶべきではあるけれど、
自分に厳しいことを言ってくれる人や、
昔から自分を知っている友人関係も大切にするべきですね。
で、当日は「洗脳」以外で、
「練馬一家殺人事件」をとりあげたけど、
これは皆にはグロッキーでヘビーだったかな。
スプラッタ要素ありありなのでっっっ
躓いた人生をやり直したいと思ってた短期で短絡的で、
思慮が浅いけれども、普段は人の好い平凡なおっさんが、
憎しみと怒りに囚われて、視野を狭くし、
エゴイズムに支配され、心に狂気を宿し、
猟奇的な事件を起こしてしまう・・・
人間はかくも愚かな生き物で・・・弱いものであり。
して、ある日突然ふつーの人が悪魔に代わってしまう。
エゴイズムの怖さと、それが人間てもんだってこととか、
まあそのあたりのお話しとか。
被害者にしても加害者にしても、
どうすればこのような悲劇を避けられたのだろうかとか、
そんなこんなを話し合ったりとかね。
うん。一見スピリチュアルとは関係ないような、
この手の話が人間を知る上で一番良い教材で資料になるし、
多くのことを学べる現実だったりするのです。
現実の中にこそ、学ぶべきことがたくさん隠れてます。
何故って私たちはこの三次元に、現実社会に生きているから。
現実離れした、おとぎ話みたいなことが
スピリチュアル(霊的事象)ではないのです。
ていうわけで、うちのレッスンはこんなだったりする。
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