2018/09/10

智に働けば角が立つ

「エネルギー酔い」について。

それがどういうことかというと、
ようするに「に酔った」ということ。
この場合のエネルギーとはに他ならないので。

確かに、
たくさんの氣を一度に体内に受けてしまったことから、
まるでオーバードーズのような、
ショック症状が起きることがあったりはします。
(氣に満ちた場所に行ったり、人や存在と接したことで)

また、波動の荒い状態にある人が、
とても細かくて高い波動の氣に触れたり、
体内に通してしまうことで、
異質なものを体内に入れてしまったような、
一時的な拒絶反応のようなものが出てしまうことも。
そういう時は船酔いや脳震盪を起こしたかのように、
気持ち悪くなったり、立っていられなくなってしまう。

人間が一度に体内に取り入れられる
氣の量というのは一定量がほぼ決まっていて、
特別な行をした人以外、個人差というのはあまりない。

消費量は別として、体内に蓄えられる備蓄量、
一度(毎分単位程度)に受け入れられる許容量には限界があり、
許容量を超えると、
食べ過ぎや飲み過ぎで身体に負荷をかけてしまうがごとく、
一時的な体調不良を起こすこともある。

でも、それはまれなこと。
そんな頻繁に起こることではない。

たいていは一過性の症状で、すぐに回復するし、
長引いたとしても数日のことで終わる。
(それが継続して長期間にわたって起きるのは、
その人に問題を提示していたり、必然で起きていること。
このあたり後述で説明しますが)

逆にエネルギー不足(氣不足)のほうが深刻で、
これはすぐに改善されないと、
身体が長期的なダメージを負ってしまう要員となる。

さて、それはそれとして…
この辺りはあくまで本題に至るまでの予備知識。


知人にコンタクトを取ると、
「エネルギー酔いが酷くて、半月くらい酔っ払い状態」
との言う。

心の眼でなんとなく見てみると、
彼女のノエティカル体だけが首の後ろから、
斜め後ろにピューと飛び出していて、
エーテルダブルが伸びきり、
離魂病の状態にあったりする。

通常、離魂病状態というと、
ほとんどの人がサイキカル体が飛び出ていたり、
ズレていたり、
どっかあさっての方向に行っているものだけど、
ノエティカル体だけというのは珍しい。

でも、実はオカルトやエソテリックな学びや
サイキカルなワーク、エネルギーワークをしている人、
実践的魔術をしていたりする人に、
結構見られる状態だったりする。

自分の霊的身体の成長度やレベルを見極めずに、
無謀なエソテリックかつサイキカルな行をした結果、
あるいは瞑想などのエクササイズをし過ぎた結果として、
三つの身体のバランスが崩れて、
エネルギー酔いのような軽度な症状を起こす人もいるし、

離魂病を発症して、エネルギー漏れ起こして、
気が上に上がってしまい、地に足つかず、
サイキカル界と現実の境界線が曖昧になっている、
という状況の人もいるし…

テンション高くなって気分が常に高揚し、
眠れない、飲めない、食べれない、
一か所にじっとしていられない、落ち着かない、
常に頭が何か考えていて、心が忙しく反応して、
逆に何も考えられず、心が無反応で無味無感想で、
五感を失くした状態のように何を食べても味気なく、
常に時差ボケのような、酔っ払っていような、
エンドルフィン大放出のドーパミン状態みたいな、
ランナーズハイともラリッてるとも言えるような、
そんな症状になってしまう人もいる。
これが長期的に続いてしまうと、
まるで統合失調症としか思えない状態になるんだけども。
ちなみにこの状態、
スピリチュアル・エマージェンシーと似ているけど、
似て非なるものだったりする。


さて、
サイキカル体というのは感情の身体。
ノエティカル体というのは思考の身体。

ほとんどの人が感情(欲望)優先で生きているもの。
だけど、そうでない人ももちろんいて、
感情に流されず、常に知識を吸収し、思考を磨き、
思考優先で生きている人たちがいるわけです。

で、思考優先のクールな人たち。
理知的で論理的でいいじゃん!…って思うわけですが、
それはそれで弊害というか問題もあったりするのです。

また思考優先の人がすべて、
そのような症状に悩まされるわけでもなく、
ノエティカル体だけが抜け出してしまう人には、
特徴というか、とある共通点が見られるんですね。

こうした症状に悩まされることになる人の、
特徴・共通項としては、

・まず第一に人間関係にドライ。
・他人と自分との間に一定以上の距離を置き、
 なおかつその距離を縮めようとはせず、
 自分のテリトリーに入れないよう囲いを作る。
・心の内を見せず、語らず、聞かず、
 他人との感情的な交流を徹底的に避ける。
・協調性がないわけでも非社交的なわけでもないが、
 仲間意識を持たず、常に「部外者」のスタンスを守り、
 何処までいっても一匹狼的な距離と立場を保ち、
 親密かつ家族的な関係を他人と築きたがらない。
・何か用事(目的)がない限り、
 自分から積極的に連絡は取らない。
 (マメに連絡はしない)
・情報のアンテナは高いが、広く浅くがモットーで、
 他人の状況に好奇心を抱くことはあっても、
 他者の内面には無関心で相手の動向や近況は聞いても、
 体調や心情、精神状態を心配しての声掛けはほぼない。
 (季節の便り的な挨拶、様子伺いは皆無)

といったところ。

このような性格的特徴が悪いとか間違っているとか、
そういうのではないのです。

決して排他的で狭量な人たちというのではないし、
個人主義で個性は強くても、むしろ社交的で、
わりと誰とでも気さくに付き合うし、
仕事にも私情を交えず、公正かつ公明正大。
そして感情的にはならないしイジワルもしない。
なので敵を作りにくく、付き合いやすい人かと。

早い話が女性であっても男性脳なタイプ。
理性的で理詰めで合理的な思考が優勢を誇っている人。

けれど、共感性には非常に乏しい。
他人の心に寄り添うってこと、
まずしてくれない人だったりするし。

心の打ち明け話が出来ない相手だから、
心情的な話が出来ず、疎外感を覚える相手でもある。
本音や信頼が見えない相手というか、
心と心の繋がり、ふれあいを求め、
人間関係に温もりと深いコミュニケーションを
求める人にとっては、手ごたえなく、ちょっと寂しい相手。
とくに恋愛なんかでは突き放されたような、
理解しあったりまじりあったりできない孤独が募って、
カサンドラ症候群に陥ってしまう人もいるかもしれない。

まあ、それはそれとして。
ではどうしてこのようなタイプが、
ノエティカル体が飛び出してしまう系の、
離魂病になってしまいやすいのか…

それは単純に言えば、
感情体をほとんど使わず、思考体ばかり使っていて、
思考が感情を抑圧するなど、分離させて使っていて、
共に情報交換をして使うことをしないもんだから
サイキカル体とノエティカル体が乖離してしまって、
三つの身体の成長のバランスが崩れてしまった。

そんな感じ。
それが何処からだかはわからないけれど、
いつの間にか感情体を育てることが、
後回しになったというか怠ってしまったというか、
おざなりにされてしまっている間、
思考だけ群を抜いて先に成長してしまった。

「心」を育てることよりも…感情よりも思考重視で、
知識や理屈、理論を追い求めすぎて、
思考(体)ばかり育てることに偏ってしまったせいで、
感情体は弱体化して脆くなって、
感情のエネルギーの受け皿が弱いというか、
耐久性がなくなってしまった、みたいな。
(あくまで例えて話していますが)

実際、離魂病はエネルギー漏れ起こすし、
色々と心身の健康にも支障をきたしますが。

一般の人だったら、
またもうちょっと違う出方していたと思う。

ここで問題なのは、
単なるエネルギーワークの実践者も含めて、
エソテリックな知識の勉強をしている人たち。

こういう場合、「カルマのレッスン」として、
お題を提示されているので、
単なる霊的な身体のバランスの崩れ、
として簡単に正常な状態に調整することは難しい。

何故ってそこに本人に対する
「気づき」が求められているので。

エネルギーワークの従事者であるなら、
「氣」を扱う仕事をしているのだから、
「氣」のコントロールくらい、
自分自身でちゃんとできるようにおなりなさい、
という警鐘、示唆として起きていることだったりする。

まぁ、当然かもです。
氣のコントロールも出来ないのに、
そういう仕事してんじゃねー! ってお叱り受けるのは。

エソテリックな勉強をしている人の場合も、
対して変わらないです。
知識を学んで、それでちゃんと実践してる?
というお試し。

インプットばかりしてないで、
ちゃんとアウトプットしなさいよ!

というような意味合い。
エネルギーワーカーに対する「問いかけ」と
さほど変わりはしないんですけどね。

この場合の実践ていうのは、
クラフトやプラクティスなどのテクニックのことではなく、
エソテリックな教義の真意を理解したのなら、
それが何を意味しているのか解っているよね?
自分がどういう風に生きるべきなのか理解してるよね?
さぼってないでちゃんとやんなさいね!

エソテリックな教義では、
真理の探究者は進化し成長しなければいけない
ということをあれやこれやの角度から説いています。

そして人間は人の中でしか、
成長することが出来ないと・・・
それが真理の教えの中核にあります。

ようするに、他人との関わり合いなくして、
人は自分を成長させ、研磨していくことはできない。
だから、今の人間関係を見直し、今の自分のやり方、
他者との関わり合い方、感情の現し方を考えろって、
示唆と警告が身体の問題として表れている。

他人と交わることを恐れたり、避けたりしてはいけない、と。

自分の中にある創造性、
内に流れ込む愛情のエネルギーを、
現実社会である三次元において、
自分にとって正しい方法で具現化し、
言葉や態度で他者に対して、
相手がわかるように伝えないといけない。

まあ、それです。

愛のエネルギーをちゃんと形として、
外に出していないから(表現してないから)、
出口なく行き場を失った愛のエネルギーがうっ血して、
不活発な(腐って老廃物かw)エネルギーとなって、
その人の体調不良の原因というか、
三つの身体のバランス崩しまくりで、
あれやこれや不調で苦しむことになるって感じ。

霊的知識を学んだ人だからこそ余計に。
他の人よりこういう「お試し」だったり、
「問いかけ」的な試練は自然と多くなります。
カルマが具現化して戻ってくるのも、
学んでいる人とそうでない人とでは雲泥の差があって、
超特急で色んなことが早く起こるようになります。
だから、
「あの時蒔いたことが戻ってきたんかー」って、
分かりやすいし、気づくのも早くなります。

知識を身に着ける、霊的知識を学ぶってそういうことで。

まあ、何千年も何百年もあと、生まれ変わってから、
戻ってきた引き寄せ法則的なカルマのレッスンでは、
原因なんて覚えてないですからね。
覚えているすぐその直後でそれが具現化されると、
因果関係がわかって便利ですって、反省もしようがあったり。


結局、霊的な知識、宇宙の法則でもなんでも、
真理を学ぶということは、愛を学ぶのと同じで、
人間としてどう生きていくのか、
どんな人間になっていくのか、
人として人と交わって、正しく生きる方法を学ぶこと、
社会のために同胞と協力して、
皆が住みやすい世の中を創っていく方法を学ぶこと、

だったりするので、

周囲の人の心に寄り添って考えたり、
共感して、親愛の情を示して、
深いコミュニケーションを取っていく…
ってことを疎かにしていると、


それは霊的成長とはまったく相反する生き方なので。

当然、三つの身体のバランスも崩れるし、
第四の身体であるサイコノエティカル体も、
それではまったく育ちません、
育つ機会を得られませんって、
魂からの突っ込みというか、ダメ出しが入るって感じですかね。

てなわけで、開けゴマ…ではなく、
オープンハート! なのでありました。

知識や視野のオクターブを広げたら、
同時に心のオクターブも広げないと、
結局高みには登れないよってなオハナシ。

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