占いの館で占い師の仕事をしていた時、
相手がいるいないに関わらず、恋愛相談は圧倒的で。
中でも、
「どうしたら、恋人ができるでしょう?」
みたいなのは結構多かったんですが、
そう真剣に仰る、その方の手をふと見ると、
爪の中が真っ黒だったり・・・
ぐいっと身を乗り出した時の口臭に、
「うっ!」と呼吸を止めさせられるときもあったり…
あと、セーターが毛玉だらけだったり、
「襟足汚れてますよ」とか、「毛抜き使ってますか?」とか、
「ヒゲは剃りましょう」と言いたくなるような方も。
彼氏が欲しいといいつつ、恋がしたいといいつつ、
「それ以前の問題ですよ、お嬢さん!」
なんて言いたくなる人は多かった。
うん。
誰かに自分を好きになってもらいたいなら、
「それ相応の努力はしましょうよ」
って感じ。
今のままのアナタがいいといってくれる人が大多数なら、
ありのままのあなたを愛してくれる人がいるんなら、
とっくの昔に現れてて、
年齢=恋人いない歴にはならないんですぜ、マジ。
別に自分を偽れってことではなくて、
自分の見た目の短所や長所を知って、
より良く見せる努力って必要です。
お洒落以前に清潔さは当たり前。
食事で臭いのきついものを食べてしまった後の口臭と、
口腔内のケアをしていない人の口臭ってやっぱ違います。
たまたま汚れてしまった服と不潔な衣類や身なりも違うし。
肌のケアとか、ムダ毛の処理とか、そーゆーのも大事。
指毛もです。ワッキーの毛もそう。夏はとくに。
耳の後や耳の中の汚れ、見えてるんですってばよ。
鼻毛もね。鼻くそもちゃんと鏡でチェックしてね。
(アタシは目ヤニよくくっつけてるオバサンですけど)
髪の毛ゴワゴワでキューティクルはどこ行った感じで、
ひっつめてて、んでもって洋服がかび臭いとか最悪やん。
※余談ですがデリケートゾーンも洗う習慣もってね
なんたって、
「口が臭い女に、
男が惚れると思うなよ!」
・・・です。
そしてその次に、
自分に似合うファッションやメイクをしましょうよ。
ヘアスタイルもそう。
貞子ヘアは似合ってる人はいいけど、昭和過ぎ。
ゴスロリや奇抜なファッションは似合う人には個性的でも、
顔が麗子像なのに・・・顔無しかコケシなのに、
(麗子さんは麗子さんでコケシはコケシで魅力がありますが)
市松人形がフランス人形の服着たって滑稽なだけなのに。
平たい顔の一族顔で金髪に染めててもなー むむ
どうして自分をわざわざ不細工に見せて、
元々の可愛さとか持ち味とか殺して台無しにするんだろう。
「もしかして、
笑いをとるためにそんな恰好してる?」
って子もいたりする世の不思議。
そりゃ、中身はもちろん一番大切です。
でも、それは中身を知ってもらう機会(距離)があってのこと。
まず最初は見た目から。何よりも恋には第一印象が肝心。
だから人は見た目も大事なんです。
中身が魅力的な子はコミュ能力だけで恋人作れるけど、
コミュ能力のない受け身な子は、
自分の中身も外見も磨かないことには何も始まりません。
縁結びのお守り買って、パワースポットで願掛けしたり、
占いで未来の可能性や出会いを期待する以前に、
「お洒落しろや、ゴラァ!」
と、私は言いたい。
まず、自分の顔やスタイルの欠点を知ること。
そして同時に自分の顔やスタイルの綺麗なとこを探すこと。
自分を綺麗に見せるメイク、自分に似合う色、スタイルを研究し、
身体のラインを美しくみせる服や靴を身に着けること。
ヘアスタイルもそう。
いかに自分を魅力的に見せるか、自分の良さを引き出すか、
個性を際立たせて、好印象を異性に持ってもらう工夫をするか。
エチケットやマナーを知ることも、箸の持ち方とか、歩き方とか、
そういった所作も含めて、自分を高める努力って損のないこと。
そうした努力のひとつもしないで、
やっすい100円ショップで買えるほどの価値の女のままで、
誰かに自分を好きになってもらおうなんて、
100万年早いんじゃあ~!
と私は思ったりする。
まあ、私も人の事は言えませんがね。
化粧はほとんどしないし、お洒落でもないし。
ファッションセンスも決していいほうではない。
(ただPTAのおばさんにならないよう、
イタイ人にもならないよう、気を付けてはイマス)
例えば先日たまたま、
ファッションのアドバイスを求められたのだけど、
その方はとても小柄な方でなおかつ童顔でもあるので、
トラディショナルなカジュアルをかっちり着たり、
ちょっと個性的で奇抜なデザインの服を着ちゃったりすると、
どうしても「子供服」を着てるようにしか見えないのね。
しかも、肌が小麦色なもんで、
落ち着いた色、ダークカラーを着ると、
顔色悪い人つーか、肌が汚く見えちゃうの。
だからまあ、肌を綺麗に見せる色を選ぶ必要があるし、
それだけでなくて、子供服に見えないようなデザイン、
年相応の落ち着きを出せる服を選ばないと、だったり。
あと、その方は首がとても細くて、首から肩のライン、
とくに鎖骨がとても綺麗だったから、
その長所を目立たせるカットソーなんかいいわけ。
欠点を隠すのも大切だけど、
その人の身体の一番綺麗なところを見せると効果的だから。
このあたりはその昔、ハリウッドで
スタイリストをしていた人の著書からの受け売りなんだけど。
(エリザベス・テーラーやグリース・ケリーとかの)
自分の胴が長いとか、手足が短いとか長いとか、
あんまり知らない人が多いよね。
そして顔やスタイルに文句をつけつつ、
自分の身体の何処が一番美しいかってのについても、
知ろうとしない人は意外と多いんだ。
人の第一印象は、まず顔で、その中でも目に人は目が行く。
ファンデーションでいくら隠しても首の色は隠せない。
自分の顔色を美しく見せる生地の色を知らない人も多い。
(ただ色って、素材や染め方(プリント)次第で随分違うから、
実際は出来上がった洋服としての全体で考えないとですが)
自分が他人にどんな表情を見せているのか、
自分の顔の表情が他人にどんな印象を与えているのか、
それを知ろうとする人も少ない。
芸能人やサービス業の人は、鏡に向かって、
自分の表情を研究し、笑顔の練習をし、
放送後のビデオチェックなんかも怠らないけど。
化粧直しは熱心にしても、
口元を歪めて他人の悪口を言っている自分の醜い顔や、
意地悪な目つきを直そうとする人はあまりいないし。
ボトム…スカートの長さもそうね。
足の一番太くなっているところまでの丈を選んで、
(ものすごく細い脚の人なら問題ないけど)
わざと自分の足を薩摩大根並みに太く見せている人多いよね。
靴もそう。ふくらはぎの太いところからのロングブーツとか。
ちゃんと全身鏡観ようよーって感じ。
なんかねー
電車なんかで私はよくそんな風に、人間観察をするですよ。
ファッションチェックとかしてたりしてっっ。
スマホ持ってない人だし、本も疲れるから読めないので。
あの人、仕立ての良い服着てるのに、靴が残念だとか、
惜しい、バッグだけがダメぢゃん、あともう一声…とか。
ヘアスタイルがファッションに合ってないとか。
そのストッキングの色は酷すぎないですか?とか…
そのメイクはいつの時代のですか?
大映ドラマのイジワルキャラですか?
ひょっとしてその服はバブル当時のを改良したものですか?
ああ、幸せ薄い女の典型的な見た目ぢゃん!
せっかく顔だちが整っててキレイで、磨けば光るのに、
ジミーにおばさんファッションにボサ髪でなんてもったいない、
なんでもっとなんとかしようと思わないのよ~
とかとか…
ねーちゃん、パンツ見えてるよ! 足開くなよ。
その長さのスカート履くなら、足は組みましょうよ。
斜めに傾けてちゃんと足は閉じようよ~
もしくはひざ元にスカーフ置くとか、バッグで隠すとか、
女子なんですから恥じらいもって配慮しましょうぜ。
電車内、化粧するブス、しない美人・・・なんて標語を作ったり。
うん…
とにもかくにもね。
開運の石とか、アイテムとか縁結びスポットとか、
こうすれば彼氏が出来るとかの行動や何かに頼る以前にね。
もっと自分に興味を持って、外見を魅力的に装うこともしてよ!
中身もだけど、見た目ももっとみんな何とかしようよ!
そういうとみんなお金がないとかいうけど、
値段じゃないんですよ。お金かければいいってもんじゃないの。
やっすい服でもね、いいの。
問題は似合うかどうか、着こなしの仕方ひとつなの。
組み合わせなの、コーディネイトなの。
ユニクロだってGUだって、なんだってね。
その辺のバーゲンの服でも、見つけられるのよ。
アクセサリーも100円、300円ショップでも見つけられるし。
でも、
好きな服、着たい服と、自分を美しく見せる服って別だからね。
自分が着たい服を着る冒険が出来るのってせいぜい20代前半まで。
後は年齢とか自分なりの個性を加味しないと、残念なことになる。
とにかくね。女性が一番きれいな時期って、
何もしなくても輝いていられる時期って、10代と20代なのね。
その時期に、自分が一番美しい時期に、
美しく装っておかないと後悔するし、人生無駄にする。
30代以降はある程度、年相応のスタイルを確立しないとだしね。
そして恋愛のチャンスも10代、20代ならたくさんあるわけで、
30代過ぎて、他人に紹介してもらわないことには、
異性との出会いがないという人は、
自力での出会いは不可能に近く、ほぼ無理。
ぶっちゃけ100%ない。酷いこというけど、
そういうドリーム入ったお花畑の人、実に多いんで。
誰か王子様がって待ってたって、絶対来ない。
出会い系とかヘンなナンパくらいしか、声かからない。
社交的で多趣味で同性の友人も異性の友人も、
たくさんいる人なら別だけど。
ただ、何かが人生に起こるのを待っている人はまずない。
だから、努力しないと始まらない。
とりあえず、
見た目をなんとかすることから、始めたほうがいい。
中身を変えるのも勿論必要だと思いますけど。
と、いう訳で
己を磨け! メスとして!!
花の命は短いのだから
2017/06/17
2017/06/13
レイキ受講の感想
クライントさんより
臼井霊気のアチューンメント(伝授)の感想を頂きましたので
単独で紹介(掲載)しておきます。
またこうした体験(体感的なもの)は個々によって異なりますので、
すべての人にあてはまるものではなく、
伝授を受けたすべての人がこのような変化をするとは限らない、
とだけ、お伝えしておきます。とにもかくにも個人差がありますので。
※ちなみにこの方のお祖父様は元々一般人(農業従事者)だったのですが、
とある出来事があって、行者さんの修行をすることになり、
心霊治療家として多くの方々の相談にのってらしたとのことでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アルマ様
こんにちは。
セカンドから1か月を過ぎましたが、
途中経過のご報告をします(^-^)
ここ最近だいぶ変化を感じます。
靈氣で・・・というか、自分自身の内面に変化があります。
セカンドアチューメント後、その日は、気分が気怠く、
”自分など大した人間ではない感”みたいなのが色濃く迫ってきて、
なんだろうな~このダルダルな気分は・・・と思いましたが、
翌日はすっかり気を取り戻し、
その次の日から部屋の模様替えをし、祭壇を充実させ、
家の中の各部屋の機能をすっかり様変わりさせていきました。
1週間後くらいから、
ようやく遠隔ヒーリングを開始し、レイキボックスに祈りを封入し、
その後は、気づけば、毎朝早く起きて、瞑想を日課にし、
チョロチョロと遠隔やらなんやらやり続けております。
ちなみに母によると、眠くなったり、
シャキッとして体が軽くなったり、変化があるそうです。
(母は特別受け取りやすい人のような感じもします・・・
直接の時は100%寝てますし。)
レイキボックスを開けて確かめると、
「朝早く起きられますように」等、すでに叶ったものがちらほらあり、
また、心境が変化したためにこれは要らんわというものもあり、
今日、ごそっと入れ替えしました。
また、夫には、
あなたの病気のおかげで靈氣に出会えたことを感謝している等々
よく述べていたのですが、最近は、
彼の調子の良い悪いがあんまり気にならなくなり、
(申し訳ないけど・・・^^;)
毎朝一番に私の部屋から遠隔ヒーリングをしていたのを
とうとう現在2日続けてやっていません。
執着が離れたという感じでかなあ・・・
実は一昨日あたりから、
瞑想や内省で、思いがけない自分が出てきまして、
”悪は許すまじ”という感覚で、
よく考えれば、刑事もののドラマが大好きなのだから
元からそんなタイプだったのでしょうが、
明らかに、魂の奥底から湧き出る感じで
祓いたい!祓わなければ!という強い使命感み たいな喜びみたいな・・・
で、何を?と考えてるんですが、
特にその辺に対象物があるわけでもなく・・・
でも、夫の病気云々のことなど、
大したことでもないみたいな感じで吹っ飛んでしまいました。
今朝、母と話をしていたら、
祖父はエクソシストだったんだそうです。和風のやつです。
悪魔祓いというか、邪気祓いというか、
それが本筋で、毎日地域のための祈りとかをやっていたそうで、
病気を治すとかお告げをするとかは二次的な需要だったそうです。
今まで話をよく聞いていなかったんだなと思うとともに、
ということは、あれ?
ひょっとしてこの感覚は血筋ですか?とやや思った次第です。
瞑想中にたまに、
坊主頭のちょっと凛々しい青年かおじさんが浮かんでくるのですが、
私はその人がとても好きでして、ま、ただそれだけの事なんですが、
ワイン派の私が日本酒を買ってきて飲んでみたり、
まんじゅうが食べたくなったり、ここのところ「和」の気分です。
そういえば、いつもいるこの部屋は和室です^^!
余談ばかりで失礼いたしました。
来週末のサードアチューメントとても楽しみにしています。
またその後も精進のために、レッスンを受けていきたいと思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
臼井霊気のアチューンメント(伝授)の感想を頂きましたので
単独で紹介(掲載)しておきます。
またこうした体験(体感的なもの)は個々によって異なりますので、
すべての人にあてはまるものではなく、
伝授を受けたすべての人がこのような変化をするとは限らない、
とだけ、お伝えしておきます。とにもかくにも個人差がありますので。
※ちなみにこの方のお祖父様は元々一般人(農業従事者)だったのですが、
とある出来事があって、行者さんの修行をすることになり、
心霊治療家として多くの方々の相談にのってらしたとのことでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アルマ様
こんにちは。
セカンドから1か月を過ぎましたが、
途中経過のご報告をします(^-^)
ここ最近だいぶ変化を感じます。
靈氣で・・・というか、自分自身の内面に変化があります。
セカンドアチューメント後、その日は、気分が気怠く、
”自分など大した人間ではない感”みたいなのが色濃く迫ってきて、
なんだろうな~このダルダルな気分は・・・と思いましたが、
翌日はすっかり気を取り戻し、
その次の日から部屋の模様替えをし、祭壇を充実させ、
家の中の各部屋の機能をすっかり様変わりさせていきました。
1週間後くらいから、
ようやく遠隔ヒーリングを開始し、レイキボックスに祈りを封入し、
その後は、気づけば、毎朝早く起きて、瞑想を日課にし、
チョロチョロと遠隔やらなんやらやり続けております。
ちなみに母によると、眠くなったり、
シャキッとして体が軽くなったり、変化があるそうです。
(母は特別受け取りやすい人のような感じもします・・・
直接の時は100%寝てますし。)
レイキボックスを開けて確かめると、
「朝早く起きられますように」等、すでに叶ったものがちらほらあり、
また、心境が変化したためにこれは要らんわというものもあり、
今日、ごそっと入れ替えしました。
また、夫には、
あなたの病気のおかげで靈氣に出会えたことを感謝している等々
よく述べていたのですが、最近は、
彼の調子の良い悪いがあんまり気にならなくなり、
(申し訳ないけど・・・^^;)
毎朝一番に私の部屋から遠隔ヒーリングをしていたのを
とうとう現在2日続けてやっていません。
執着が離れたという感じでかなあ・・・
実は一昨日あたりから、
瞑想や内省で、思いがけない自分が出てきまして、
”悪は許すまじ”という感覚で、
よく考えれば、刑事もののドラマが大好きなのだから
元からそんなタイプだったのでしょうが、
明らかに、魂の奥底から湧き出る感じで
祓いたい!祓わなければ!という強い使命感み たいな喜びみたいな・・・
で、何を?と考えてるんですが、
特にその辺に対象物があるわけでもなく・・・
でも、夫の病気云々のことなど、
大したことでもないみたいな感じで吹っ飛んでしまいました。
今朝、母と話をしていたら、
祖父はエクソシストだったんだそうです。和風のやつです。
悪魔祓いというか、邪気祓いというか、
それが本筋で、毎日地域のための祈りとかをやっていたそうで、
病気を治すとかお告げをするとかは二次的な需要だったそうです。
今まで話をよく聞いていなかったんだなと思うとともに、
ということは、あれ?
ひょっとしてこの感覚は血筋ですか?とやや思った次第です。
瞑想中にたまに、
坊主頭のちょっと凛々しい青年かおじさんが浮かんでくるのですが、
私はその人がとても好きでして、ま、ただそれだけの事なんですが、
ワイン派の私が日本酒を買ってきて飲んでみたり、
まんじゅうが食べたくなったり、ここのところ「和」の気分です。
そういえば、いつもいるこの部屋は和室です^^!
余談ばかりで失礼いたしました。
来週末のサードアチューメントとても楽しみにしています。
またその後も精進のために、レッスンを受けていきたいと思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
2017/06/03
世の哀しみを減らすために私自身が出来ること
先週のことですけど、数年ぶりかで映画を見てきました。
映画を見るのは好きですが、今はTVを所持していず、
PCでDVDを見るにも徒歩圏内にレンタルショップがないこともあり、
とんとご無沙汰でした。映画館も行かなくなると情報入らずで。
視力のこともあり、字幕を見るのが無理というのもありましたが…
その映画を見ようということになったのは、
当日の午後、渋谷にて開催されている、
抱きしめる聖者アンマのダルシャンに
一緒に行こうという話になっていたので、
ちょうどその映画のことを知った友人が是非見たいが、
休みがその日しかなく、タイミングよく同じ渋谷で、
上映時間もピッタリ合ったからなのでした。
映画のタイトルは「ライオン~25年目のただいま」
どういう内容かも、誰が出るのか、何の事前知識もなく、
その後はどうせ一緒に行動するのだから、お付き合い程度に、
たまには映画もいいかな位の軽い気持ちでした。
インドが舞台と聞き、アンマはインド人なので、
偶然にも今日はインド一色だね、なんて調子で。
たまたまレディースディだったのでラッキーと思いきや、
この映画を見た事自体もラッキーでした。
友人が誘ってくれなかったら、作品のことも何も知らず、
見逃していたことを考えると、必然とも言え、友人に感謝です。
まあ、その・・・色々と考えさせられる映画でした。
どういう内容の映画だったかをかいつまんで説明すると、
インドの貧しい母子家庭(兄妹4人)に育った五歳の主人公が、
誤って回送列車に乗り込み、そのまま寝てしまい、
1200km以上離れたコルコタの町に着いてしまい、
言語が通じない事から、迷子になり、
さらにストレートチルドレンになってしまうものの、
親切な人に出会えたことからなんとか警察に保護される。
が、五歳という年齢で親の名前や出身地を言えないことで、
身元が分からず、コルコタの新聞にて尋ね人広告を出すも、
1200km離れた町には届かず、結果孤児院へと。
しかし、そこで運よくマザー・テレサの教育を受けた女性が主催する、
海外への養子縁組を斡旋する人権団体を介して、
オーストラリアはタスマニアの愛情深い里親の元に引き取られる。
が、海外留学をしてインド人の同級生たちと交流をしたことから、
故郷や実の家族に自分の無事を伝えたいという想いが強まり、
フェイスブックやグーグルアースを通じて、五年もの歳月をかけ、
幼少期の記憶から自分の出身地を探し出すことに成功し、
インドへ旅し、家族と再会する‥というもの。
実話がベースになっていますが、
ドキュメンタリーではなく、映画として形作るため、
はしょっているところや脚色しているところなど、
そこはそれ、映画という原作を元にした二次創作だから、はい。
友人はこの映画のテーマ
(インドという貧しい国の実状や養子問題)
の重さにズーンとなってしまいましたが、
私のほうはその辺りは想定内というのかな・・・
わりかし第三国の問題に関して事前知識もあるのと、
もっと悲惨な民族浄化物をたくさんこれまでに見てきているので、
(「ルワンダの涙」とか「キリングフィールド」とかetc)
臓器目的の人身売買のための誘拐とか、
孤児院の職員が小児性愛者に子供を「貸し出し」するシーンとか、
現実にあることとして受け止められちゃったりしますね。
今さら感情が動かない自分のことを冷酷な人間だなとも思うし。
インド映画はこれまでも、
サタジット・レイ監督の「大地のうた」とか、
ボリウッドに代表されるマサラムービー「ムトゥ」とか、
そういう牧歌的なものやはちゃめちゃな娯楽もの。
一番好きな「きっと、うまくいく」
それ以外にもみ終わった後、ズーンと来る「女盗賊プーラン」とか。
オリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」とか「カーマ・スートラ」とか、
アメリカで制作されたインド人監督のものも見たりしましたが・・・
国単位の見た本数としては少ないほう。
それでインドという国のすべてを理解出来たかというと、
それはありえないし、一部しか覗き見していないわけで。
ただ非常に混沌とした国で、のんびりとした面がある一方で、
カースト制度により、未だに非人道的で理不尽な人種差別や、
女性蔑視、ありえない常識やルールがあるのは、
近年伝えられる海外ニュースからも察せられるかな。
数字のゼロを発見し、数字に強い天才的な人も排出し、
IT大国でもあったりするけれども…
サイババみたいな奇跡がカリスマ的な人気を博していたり、
貧富の差は激しく、ガンジス川では死体も洗濯物も一緒くたで、
路上生活者や物乞いなど、野良猫のように餓死する人も多々。
話を映画に戻すと、
この映画の「25年も迷子で家族に会えなかった」という話を、
「え?どうしたらそういう話になるの?」と、
列車で遠くに行ってしまっただけで親元に戻れなくなることが、
信じられない、想像がつかないという反応をする人が多いらしい。
得てしてそれは先進国に住んでいる人のセリフで。
まあ、日本という全国統一が成されて何百年も経った国ではそうか。
日本の鉄道網も警察も優秀で、言葉も統一されているし、
新聞も全国で発売されるし、テレビもそう、全国ネットがある。
ほとんどの人が「情報」を手にすることができる。
なので、今の日本ではまず起こり得ないこと。
インドは州によって言葉が違い、公用語でさえ何種類もあること。
治安がとても良いとは言えない国で、
地域によっては警察も公務員も腐敗しきっていて、
刑務所に収監されたほうが暴力やレイプにさらされる危険が高いこと。
貧富の差が激しく、子供の誘拐事件は年間で8万人もあるが、
その子たちの行方を捜したり、気にしたりする人は少ないこと。
道端で餓死する人やストレートチルドレンが死んでいたって、
野良犬程度の扱いであったりすること。
今のインドは知らないが、少なくとも映画の主人公、
実体験をした原作者が迷子になった当時のインドではそうだった。
さて、私がこの映画をして脅かされ、感動したのは、
主人公に起きた幸運的な奇跡の数々と、
幼少期の想い出を覚えていられたという事実。
あと、人の幸福、子供の幸せってお金じゃないんだなってこと。
養父母の元で養子になったのは、主人公のサルーともう一人、
マントゥッシュという同じインド人の男の子なんだけども。
彼はとても精神的に不安定で、いわゆるトラウマを抱えており、
フラッシュバックから暴れて、素直に親に甘えられず、
成人してからはドラッグに溺れて自堕落な生活を送っていた。
このあたりは映画にドラマ性をもたせるため、
かなり大げさにしているみたいだったんだけども。
彼がそうなっちゃったのは
実の家族から虐待を受けていて、なおかつ、
インドの孤児院に居たとき、性的な虐待も受けていたから。
対してサルーは、とても貧しくて、毎日お腹を空かせていて、
とても不衛生で酷い環境で育ったのだけども、
母親は子供達を分け隔てなく、かつ惜しみなく愛情を注ぐ人で、
子供達のために過酷で辛い仕事を頑張る人だったんですね。
だから、兄たちも弟を可愛がり、とても家族思い。
養父母もとても素晴らしい人たちで愛のある人たちだった。
同じ養子として、同じ環境に引き取られ、
愛情深い養父母に育てられたというのに、
二人のその差はどこから生まれてきたんだろう?
もちろん、元々の資質、性格の差もあるでしょうが。
でも、サルーの場合、五歳になるまで、
面倒見のよい兄たちと子供想いの母親の懐の中、
物質的には恵まれて無くても、
そうした愛の記憶があったから・・・
というのが大きかったんではないかと。
マントゥッシュは子供が一番親の愛を必要としている時期に、
自己肯定が創られる時期(第一チャクラと第二チャクラ)に、
十分な愛を受けられなかったどころか、悲惨な体験をして、
ズタズタにされてしまったから、その後も傷を抱えたのかと、
まあ、そんなこんなで思うことあれこれ。
さて、インドで年間8万人の子供たちが行方知れずになるけど、
先進国たるアメリカでは23万人だったりする。
こちらは人身売買といっても、児童ポルノの犠牲者がほとんど。
中には猟奇的殺人事件の犠牲者になっていたり、
離婚して親権を取れなかった親による誘拐も含まれているけど。
臓器売買目的の誘拐はインドだけでなくて、
インドネシアやタイ、フィリピン、南米などでもたくさん。
ストレートチルドレンはロシアにも南米にもアジアにもてんこもり。
アフリカでは児童労働や児童婚、子供兵士の問題などもある。
かと思えば、お金のために人を平気で殺す人たちもいる。
つまらないことで感情を害して、
ゲームのように人の命を奪う悪鬼のような人たちも。
衣食住足りて人はようやっと他人のことを考えられる余裕が出るという。
だがどうだろう。
衣食住足りていても、人の欲望に際限はなく、貪欲さはますばかり。
お金のために、お金を得るために、稼ぐために、
人は人であることを見失って、大切なものを忘れて、捨てていく。
豊かになったモノ余りの国では、孤独死も過労死も自死も増えるばかり。
テロは無くならないし、中東の和平は遠く、
アメリカはパリ協定から逸脱してしまった。
中国の大気汚染は深刻で、災害からの教訓もどこ吹く風。
相変わらず世の中は問題でいっぱい。
こうした世の中の現状を考えるとき、
自分は何が出来るんだろうって再び考えた。
インド映画を見て、考えて、そして
奇しくもインドからやってきた、
抱きしめる聖者アンマの慈善活動などを改めて見直して。
今の自分が出来ることって何だろう。
それは私自身を活かすこと。
私にしか出来ないことをすること。
もちろん、募金のような金銭的なサポートも微力ながら、続ける。
生徒さんたちとの祈りの会も続ける。
そして、後はやっぱり、私自身がきちんと自分の人生を生きること。
自らをきちんと成長させていくこと。
後は本当に、地道で些細な力でしかないんだけども、
スピリチュアルセラピストとしての仕事を通して、
クライアントさんの問題解決の助力になっていくこと、
そのために知識を吸収して、勉強して、自らを鍛錬して高めて、
人に分け与えることができる力を常に蓄えて、備えておくこと。
この仕事を一生懸命するしか能がないのです。
クライアントさんの過去生を解放したり、
その人が望む未来を創造するために邪魔になっているものを取り除いて、
その人がその人らしく生きられるように、
生き生きと、本当の自分の人生を生きられるように、
一期一会のセッションでの出会いを大切にして、
限られた時間の中で全力を尽くして、
(いつでも全力を尽くせる状態でいられるよう自分を磨いて)
とにかくホントそれしか出来ないんだよなって、
この仕事を通して、世の中の不幸や悲劇のタネを、
少しでも、ひとつでも無くしていく努力をするしかないのです。
それしか出来ないし、それを頑張るしかないって、
改めて想いを強くした今日この頃の私でありました。
映画を見るのは好きですが、今はTVを所持していず、
PCでDVDを見るにも徒歩圏内にレンタルショップがないこともあり、
とんとご無沙汰でした。映画館も行かなくなると情報入らずで。
視力のこともあり、字幕を見るのが無理というのもありましたが…
その映画を見ようということになったのは、
当日の午後、渋谷にて開催されている、
抱きしめる聖者アンマのダルシャンに
一緒に行こうという話になっていたので、
ちょうどその映画のことを知った友人が是非見たいが、
休みがその日しかなく、タイミングよく同じ渋谷で、
上映時間もピッタリ合ったからなのでした。
映画のタイトルは「ライオン~25年目のただいま」
どういう内容かも、誰が出るのか、何の事前知識もなく、
その後はどうせ一緒に行動するのだから、お付き合い程度に、
たまには映画もいいかな位の軽い気持ちでした。
インドが舞台と聞き、アンマはインド人なので、
偶然にも今日はインド一色だね、なんて調子で。
たまたまレディースディだったのでラッキーと思いきや、
この映画を見た事自体もラッキーでした。
友人が誘ってくれなかったら、作品のことも何も知らず、
見逃していたことを考えると、必然とも言え、友人に感謝です。
まあ、その・・・色々と考えさせられる映画でした。
どういう内容の映画だったかをかいつまんで説明すると、
インドの貧しい母子家庭(兄妹4人)に育った五歳の主人公が、
誤って回送列車に乗り込み、そのまま寝てしまい、
1200km以上離れたコルコタの町に着いてしまい、
言語が通じない事から、迷子になり、
さらにストレートチルドレンになってしまうものの、
親切な人に出会えたことからなんとか警察に保護される。
が、五歳という年齢で親の名前や出身地を言えないことで、
身元が分からず、コルコタの新聞にて尋ね人広告を出すも、
1200km離れた町には届かず、結果孤児院へと。
しかし、そこで運よくマザー・テレサの教育を受けた女性が主催する、
海外への養子縁組を斡旋する人権団体を介して、
オーストラリアはタスマニアの愛情深い里親の元に引き取られる。
が、海外留学をしてインド人の同級生たちと交流をしたことから、
故郷や実の家族に自分の無事を伝えたいという想いが強まり、
フェイスブックやグーグルアースを通じて、五年もの歳月をかけ、
幼少期の記憶から自分の出身地を探し出すことに成功し、
インドへ旅し、家族と再会する‥というもの。
実話がベースになっていますが、
ドキュメンタリーではなく、映画として形作るため、
はしょっているところや脚色しているところなど、
そこはそれ、映画という原作を元にした二次創作だから、はい。
友人はこの映画のテーマ
(インドという貧しい国の実状や養子問題)
の重さにズーンとなってしまいましたが、
私のほうはその辺りは想定内というのかな・・・
わりかし第三国の問題に関して事前知識もあるのと、
もっと悲惨な民族浄化物をたくさんこれまでに見てきているので、
(「ルワンダの涙」とか「キリングフィールド」とかetc)
臓器目的の人身売買のための誘拐とか、
孤児院の職員が小児性愛者に子供を「貸し出し」するシーンとか、
現実にあることとして受け止められちゃったりしますね。
今さら感情が動かない自分のことを冷酷な人間だなとも思うし。
インド映画はこれまでも、
サタジット・レイ監督の「大地のうた」とか、
ボリウッドに代表されるマサラムービー「ムトゥ」とか、
そういう牧歌的なものやはちゃめちゃな娯楽もの。
一番好きな「きっと、うまくいく」
それ以外にもみ終わった後、ズーンと来る「女盗賊プーラン」とか。
オリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」とか「カーマ・スートラ」とか、
アメリカで制作されたインド人監督のものも見たりしましたが・・・
国単位の見た本数としては少ないほう。
それでインドという国のすべてを理解出来たかというと、
それはありえないし、一部しか覗き見していないわけで。
ただ非常に混沌とした国で、のんびりとした面がある一方で、
カースト制度により、未だに非人道的で理不尽な人種差別や、
女性蔑視、ありえない常識やルールがあるのは、
近年伝えられる海外ニュースからも察せられるかな。
数字のゼロを発見し、数字に強い天才的な人も排出し、
IT大国でもあったりするけれども…
サイババみたいな奇跡がカリスマ的な人気を博していたり、
貧富の差は激しく、ガンジス川では死体も洗濯物も一緒くたで、
路上生活者や物乞いなど、野良猫のように餓死する人も多々。
話を映画に戻すと、
この映画の「25年も迷子で家族に会えなかった」という話を、
「え?どうしたらそういう話になるの?」と、
列車で遠くに行ってしまっただけで親元に戻れなくなることが、
信じられない、想像がつかないという反応をする人が多いらしい。
得てしてそれは先進国に住んでいる人のセリフで。
まあ、日本という全国統一が成されて何百年も経った国ではそうか。
日本の鉄道網も警察も優秀で、言葉も統一されているし、
新聞も全国で発売されるし、テレビもそう、全国ネットがある。
ほとんどの人が「情報」を手にすることができる。
なので、今の日本ではまず起こり得ないこと。
インドは州によって言葉が違い、公用語でさえ何種類もあること。
治安がとても良いとは言えない国で、
地域によっては警察も公務員も腐敗しきっていて、
刑務所に収監されたほうが暴力やレイプにさらされる危険が高いこと。
貧富の差が激しく、子供の誘拐事件は年間で8万人もあるが、
その子たちの行方を捜したり、気にしたりする人は少ないこと。
道端で餓死する人やストレートチルドレンが死んでいたって、
野良犬程度の扱いであったりすること。
今のインドは知らないが、少なくとも映画の主人公、
実体験をした原作者が迷子になった当時のインドではそうだった。
さて、私がこの映画をして脅かされ、感動したのは、
主人公に起きた幸運的な奇跡の数々と、
幼少期の想い出を覚えていられたという事実。
あと、人の幸福、子供の幸せってお金じゃないんだなってこと。
養父母の元で養子になったのは、主人公のサルーともう一人、
マントゥッシュという同じインド人の男の子なんだけども。
彼はとても精神的に不安定で、いわゆるトラウマを抱えており、
フラッシュバックから暴れて、素直に親に甘えられず、
成人してからはドラッグに溺れて自堕落な生活を送っていた。
このあたりは映画にドラマ性をもたせるため、
かなり大げさにしているみたいだったんだけども。
彼がそうなっちゃったのは
実の家族から虐待を受けていて、なおかつ、
インドの孤児院に居たとき、性的な虐待も受けていたから。
対してサルーは、とても貧しくて、毎日お腹を空かせていて、
とても不衛生で酷い環境で育ったのだけども、
母親は子供達を分け隔てなく、かつ惜しみなく愛情を注ぐ人で、
子供達のために過酷で辛い仕事を頑張る人だったんですね。
だから、兄たちも弟を可愛がり、とても家族思い。
養父母もとても素晴らしい人たちで愛のある人たちだった。
同じ養子として、同じ環境に引き取られ、
愛情深い養父母に育てられたというのに、
二人のその差はどこから生まれてきたんだろう?
もちろん、元々の資質、性格の差もあるでしょうが。
でも、サルーの場合、五歳になるまで、
面倒見のよい兄たちと子供想いの母親の懐の中、
物質的には恵まれて無くても、
そうした愛の記憶があったから・・・
というのが大きかったんではないかと。
マントゥッシュは子供が一番親の愛を必要としている時期に、
自己肯定が創られる時期(第一チャクラと第二チャクラ)に、
十分な愛を受けられなかったどころか、悲惨な体験をして、
ズタズタにされてしまったから、その後も傷を抱えたのかと、
まあ、そんなこんなで思うことあれこれ。
さて、インドで年間8万人の子供たちが行方知れずになるけど、
先進国たるアメリカでは23万人だったりする。
こちらは人身売買といっても、児童ポルノの犠牲者がほとんど。
中には猟奇的殺人事件の犠牲者になっていたり、
離婚して親権を取れなかった親による誘拐も含まれているけど。
臓器売買目的の誘拐はインドだけでなくて、
インドネシアやタイ、フィリピン、南米などでもたくさん。
ストレートチルドレンはロシアにも南米にもアジアにもてんこもり。
アフリカでは児童労働や児童婚、子供兵士の問題などもある。
かと思えば、お金のために人を平気で殺す人たちもいる。
つまらないことで感情を害して、
ゲームのように人の命を奪う悪鬼のような人たちも。
衣食住足りて人はようやっと他人のことを考えられる余裕が出るという。
だがどうだろう。
衣食住足りていても、人の欲望に際限はなく、貪欲さはますばかり。
お金のために、お金を得るために、稼ぐために、
人は人であることを見失って、大切なものを忘れて、捨てていく。
豊かになったモノ余りの国では、孤独死も過労死も自死も増えるばかり。
テロは無くならないし、中東の和平は遠く、
アメリカはパリ協定から逸脱してしまった。
中国の大気汚染は深刻で、災害からの教訓もどこ吹く風。
相変わらず世の中は問題でいっぱい。
こうした世の中の現状を考えるとき、
自分は何が出来るんだろうって再び考えた。
インド映画を見て、考えて、そして
奇しくもインドからやってきた、
抱きしめる聖者アンマの慈善活動などを改めて見直して。
今の自分が出来ることって何だろう。
それは私自身を活かすこと。
私にしか出来ないことをすること。
もちろん、募金のような金銭的なサポートも微力ながら、続ける。
生徒さんたちとの祈りの会も続ける。
そして、後はやっぱり、私自身がきちんと自分の人生を生きること。
自らをきちんと成長させていくこと。
後は本当に、地道で些細な力でしかないんだけども、
スピリチュアルセラピストとしての仕事を通して、
クライアントさんの問題解決の助力になっていくこと、
そのために知識を吸収して、勉強して、自らを鍛錬して高めて、
人に分け与えることができる力を常に蓄えて、備えておくこと。
この仕事を一生懸命するしか能がないのです。
クライアントさんの過去生を解放したり、
その人が望む未来を創造するために邪魔になっているものを取り除いて、
その人がその人らしく生きられるように、
生き生きと、本当の自分の人生を生きられるように、
一期一会のセッションでの出会いを大切にして、
限られた時間の中で全力を尽くして、
(いつでも全力を尽くせる状態でいられるよう自分を磨いて)
とにかくホントそれしか出来ないんだよなって、
この仕事を通して、世の中の不幸や悲劇のタネを、
少しでも、ひとつでも無くしていく努力をするしかないのです。
それしか出来ないし、それを頑張るしかないって、
改めて想いを強くした今日この頃の私でありました。
ラベル:
☆職業的ぼやき呟き
場所:
日本, 東京都新宿区
2017/06/02
見えなくなって見えてきたこと
気が付けば、
前回の記事(お知らせですが)を書いてから二ケ月近く経っていました。
読み物的なものとなると、実に四ケ月ぶりになりますね。
書きたいこともこのブログに即したネタもそれなりにあったのですが、
筆を取る気力というか、考えを文章にまとめる集中力が萎えていました。
おそらく視力の問題が大きいように思います。
どうしても視野欠損というのでしょうか・・・文字が一部見えないんですね。
例えば、4桁に並んだ数字とか、真ん中が重なって3桁に視えちゃう。
そんな風に読み飛ばしてしまう文字があったりするわけです。紙はとくに。
死角のように見えない部分が出来てしまうので、しんどいのですね。
目の痛みも相変わらずありますし、一年経ってだいぶ慣れてはきたものの、
見えづらいのには変わりがありません。暗いところだと鳥目状態ですし。
まあ、あーだこーだ言っても始まりません。
歳を取ると、どっかしら体にガタが来て不具合が出るのが肉体というもので。
(鍛えてないとか日頃の不摂生とかも反映され)
そして・・・健康を害することによって、
身体機能の衰えとか損傷とかを体験することによって・・・
その状態を経験し、類似のハンデを負っている人々の置かれている世界や、
彼らの不自由さを知ることになります。
肉体的マイノリティの人々のフラストレーションだとかを。
例えば、傍目にそれとわかるハンデを人は理解して対応できるけれど、
一見して健康にしか見えない人には健常者として接しますから、
そこでトラブルや誤解なんかも発生してしまうわけです。
まったく目が見えない人は他人からも分かり易いけど、
なまじ私みたいに弱視というわけでもなく中途半端に見えている人間もそう。
耳が聞こえないとか一語も言葉を発せない聾啞者は理解できるけど、
重度の難聴とか、高音部が聞き取りにくいとかの聴力に問題のある人や、
話せないわけではないけど、声を出す事に困難がある人もいるわけで。
パッと見で理解してもらえず、
なまじ健康な人と変わりが無いように見られてしまうから、
相手からしたら、眼鏡をかけているのに「視えない」とが分からない。
私の場合、暗いトコだともう真っ暗なんですよ。
いつも行くところだとか通いなれたとこなら分かるけど、
数メートルくらいの距離しか見えないので砂嵐の中にいるみたい(笑)
昼間でも距離感は未だつかめないし、急に目の前に人が現れる感じ。
右目に映るのは凹凸鏡の世界なんだけども、
友達や会う人に「他の人と同じようには見えてはないんだよ」って説明しても、
皆そこのところはいちいち覚えていず、忘れてくれちゃうから、
もうめんどくさいので、適当に話を合わせちゃいますしね。
まっすぐ歩けないのでぶつかっちゃった日には、
事情を話すより、誤ったほうが早いし。
見えない理由を話すより、「あれなんて書いてあるのー?」って聞いちゃう。
だって私の目で見えている歪んだ世界を理解してもらおうと思っても、
それは無理なことだし。
もっとも、それは霊的かつ不思議な体験のほうで散々経験しているから、
今さらって感じではあるのですけどもね。
なので見えないときにはまあいいやで流すか、
わかんないから適当でいいやになります(笑)
拡大鏡は買ったし、PCも文字を大きく出来るのでそこは何とか、ですし。
印刷物の文字、書物が読めなくなったのはサビシーですけどね。
ここらへんは老眼になったならば同じだし。
もちろん、こういう不自由さは身体に障害を持っている人ならなおの事。
世の中は健常者であることが基本として社会が成り立っているので、
少数派の、それぞれ固有のハンデを抱えている人は、
この社会の中で適応していくしかないのだなあと思います。
またまた私事で恐縮ですけど、 私はお箸と鉛筆は右利きですが、
それ以外は左利きだったりするのです。
お金を扱う時は左利きなんで左利き用の財布を使うことになるし、
切符や定期を扱う時は左利きです。なので自動改札機が使いづらい。
エスカレーターも左利き視点だと右側歩くのは歩きづらいし。
(本当は歩いちゃいけないんだけどさ)
あと、生徒さんで最近膝を痛めて松葉杖状態になった人がいるのだけど、
彼女曰く、「エスカレーターのスピードが早すぎて、乗れない」
ああ、巣鴨商店街に面した地下鉄のエスカレーターがゆっくりなのは、
お年寄りや身体の不自由な人に合わせていて正解なのだな、と思ったり。
そういう意味でも、世の中って流行もそうだし家電も町の作りも何もかも、
健常者や若い人(20代~30代)たち働き盛りを中心に回っているのだな。
グローバルスタンダードってなかなか広まらないのねん、とも。
だって、
郵便局や宅配便の不在票なんて文字小さいしさー 年寄り読めないよ。
携帯(とは今はもう言わないか)の機種とかもそう。
50代、60代以降の消費者は対象外だもの。
まあ、50代はまだついていけるのかな。
税金や給料の指標も
公務員とか大手企業のサラリーマンの所得が基本ですものね。
全ての世代、全ての職業、そして全ての五体満足ではない人も含めた国民・・・
確かに各々違って幅広いから、
全員を対象とした「ものづくり」も「街づくり」も難しい。
だから平均値を出して、一番人口の多いところ、
平均値のところを基準にするしかないのですけどもね、実状として。
ただ、平均値のところから外れたマイノリティの人がいることを、
多くの人たちが周知してくれるようになってくれればそれで良いとも思う。
「左利きだから、それは使いづらいんだよ」
「耳がね、拾えない音域の音があるんですよ」
「視力に問題があって、夜だと辺りが見えなくなるんです」
って誰かが言ったとき、
「なんで?」ではなく、
「ああ、そうなんですね」と… さりげなく、受け止めてもらって、
事情を察してくれるだけでいい。 そんな優しい社会になるといいな。
前回の記事(お知らせですが)を書いてから二ケ月近く経っていました。
読み物的なものとなると、実に四ケ月ぶりになりますね。
書きたいこともこのブログに即したネタもそれなりにあったのですが、
筆を取る気力というか、考えを文章にまとめる集中力が萎えていました。
おそらく視力の問題が大きいように思います。
どうしても視野欠損というのでしょうか・・・文字が一部見えないんですね。
例えば、4桁に並んだ数字とか、真ん中が重なって3桁に視えちゃう。
そんな風に読み飛ばしてしまう文字があったりするわけです。紙はとくに。
死角のように見えない部分が出来てしまうので、しんどいのですね。
目の痛みも相変わらずありますし、一年経ってだいぶ慣れてはきたものの、
見えづらいのには変わりがありません。暗いところだと鳥目状態ですし。
まあ、あーだこーだ言っても始まりません。
歳を取ると、どっかしら体にガタが来て不具合が出るのが肉体というもので。
(鍛えてないとか日頃の不摂生とかも反映され)
そして・・・健康を害することによって、
身体機能の衰えとか損傷とかを体験することによって・・・
その状態を経験し、類似のハンデを負っている人々の置かれている世界や、
彼らの不自由さを知ることになります。
肉体的マイノリティの人々のフラストレーションだとかを。
例えば、傍目にそれとわかるハンデを人は理解して対応できるけれど、
一見して健康にしか見えない人には健常者として接しますから、
そこでトラブルや誤解なんかも発生してしまうわけです。
まったく目が見えない人は他人からも分かり易いけど、
なまじ私みたいに弱視というわけでもなく中途半端に見えている人間もそう。
耳が聞こえないとか一語も言葉を発せない聾啞者は理解できるけど、
重度の難聴とか、高音部が聞き取りにくいとかの聴力に問題のある人や、
話せないわけではないけど、声を出す事に困難がある人もいるわけで。
パッと見で理解してもらえず、
なまじ健康な人と変わりが無いように見られてしまうから、
相手からしたら、眼鏡をかけているのに「視えない」とが分からない。
私の場合、暗いトコだともう真っ暗なんですよ。
いつも行くところだとか通いなれたとこなら分かるけど、
数メートルくらいの距離しか見えないので砂嵐の中にいるみたい(笑)
昼間でも距離感は未だつかめないし、急に目の前に人が現れる感じ。
右目に映るのは凹凸鏡の世界なんだけども、
友達や会う人に「他の人と同じようには見えてはないんだよ」って説明しても、
皆そこのところはいちいち覚えていず、忘れてくれちゃうから、
もうめんどくさいので、適当に話を合わせちゃいますしね。
まっすぐ歩けないのでぶつかっちゃった日には、
事情を話すより、誤ったほうが早いし。
見えない理由を話すより、「あれなんて書いてあるのー?」って聞いちゃう。
だって私の目で見えている歪んだ世界を理解してもらおうと思っても、
それは無理なことだし。
もっとも、それは霊的かつ不思議な体験のほうで散々経験しているから、
今さらって感じではあるのですけどもね。
なので見えないときにはまあいいやで流すか、
わかんないから適当でいいやになります(笑)
拡大鏡は買ったし、PCも文字を大きく出来るのでそこは何とか、ですし。
印刷物の文字、書物が読めなくなったのはサビシーですけどね。
ここらへんは老眼になったならば同じだし。
もちろん、こういう不自由さは身体に障害を持っている人ならなおの事。
世の中は健常者であることが基本として社会が成り立っているので、
少数派の、それぞれ固有のハンデを抱えている人は、
この社会の中で適応していくしかないのだなあと思います。
またまた私事で恐縮ですけど、 私はお箸と鉛筆は右利きですが、
それ以外は左利きだったりするのです。
お金を扱う時は左利きなんで左利き用の財布を使うことになるし、
切符や定期を扱う時は左利きです。なので自動改札機が使いづらい。
エスカレーターも左利き視点だと右側歩くのは歩きづらいし。
(本当は歩いちゃいけないんだけどさ)
あと、生徒さんで最近膝を痛めて松葉杖状態になった人がいるのだけど、
彼女曰く、「エスカレーターのスピードが早すぎて、乗れない」
ああ、巣鴨商店街に面した地下鉄のエスカレーターがゆっくりなのは、
お年寄りや身体の不自由な人に合わせていて正解なのだな、と思ったり。
そういう意味でも、世の中って流行もそうだし家電も町の作りも何もかも、
健常者や若い人(20代~30代)たち働き盛りを中心に回っているのだな。
グローバルスタンダードってなかなか広まらないのねん、とも。
だって、
郵便局や宅配便の不在票なんて文字小さいしさー 年寄り読めないよ。
携帯(とは今はもう言わないか)の機種とかもそう。
50代、60代以降の消費者は対象外だもの。
まあ、50代はまだついていけるのかな。
税金や給料の指標も
公務員とか大手企業のサラリーマンの所得が基本ですものね。
全ての世代、全ての職業、そして全ての五体満足ではない人も含めた国民・・・
確かに各々違って幅広いから、
全員を対象とした「ものづくり」も「街づくり」も難しい。
だから平均値を出して、一番人口の多いところ、
平均値のところを基準にするしかないのですけどもね、実状として。
ただ、平均値のところから外れたマイノリティの人がいることを、
多くの人たちが周知してくれるようになってくれればそれで良いとも思う。
「左利きだから、それは使いづらいんだよ」
「耳がね、拾えない音域の音があるんですよ」
「視力に問題があって、夜だと辺りが見えなくなるんです」
って誰かが言ったとき、
「なんで?」ではなく、
「ああ、そうなんですね」と… さりげなく、受け止めてもらって、
事情を察してくれるだけでいい。 そんな優しい社会になるといいな。
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