2018/07/31

食わず貧楽高枕~昭和のこども時代

仕事やこのブログテーマとはあまり関係のない、
私個人の戯言、想い出語りです。
興味のない人はスルーしてください。

今年の夏は災害レベルと言われるくらい暑くって、
「え? 日本の夏ってこんなに暑くなかったよね?」
という話を会う人会う人としています。
例年は来客のある時以外、エアコンを使わない私でも、
今年はちょっとヤバイかも…とバンバン使用していますし、
コールドドリンクを飲むときにも氷抜きが基本なのに、
自宅でもガンガン入れて飲んでたり。

でも、
この蜃気楼が揺らめきそうな夏の眩しさを見ていて、
ふと子供時代の夏を思い出したりしました。
懐かしい幼少期の風景を、気温こそ違えど、
昔と同じ高さにある真夏の太陽が、
瞼にありありと蘇らせてくれたのでしょう。

リアリティをもって当時を思い出してしまうのは、
年を取ったせいでしょうか。

とても色鮮やかなスカイブルーの空。
その下に水平線にて境界線が分けられた、
白い波しぶきの立つ、青い海。
どこまでも続くビーチ。
混雑する駐車場、人の群れ、海の家など。

夏の匂い、太陽の眩しさ、潮の香り、
とてつもなく長く感じた、夏休みの充実した時間。

親の出身地は鹿児島県ですが、
私自身は千葉で育ちましたから、
夏休みというと、
どうしても海、海水浴が想い出なんですね。

君津、木更津、館山、白浜、稲毛浜といった内房の海。
御宿、九十九里、勝浦などの外房の海。
そして茨城は大洗の海。

民宿に泊まって、川でカニや小魚をとることもしたし、
浜で砂遊びをしたり、
浮き輪つけて波に浸かったりもしました。
(泳げませんが)

海から出た後、
塩や砂まみれの身体を洗うまでの不快さや、
べたべたした身体のまま、
海の家で食べる、焼きトウモロコシやかき氷、
たぶん本当は美味しくないであろうラーメン、
イカ焼きやハマグリやサザエなどの浜焼き、
なんであんなに美味しく感じたんでしょうね(笑)
日焼けした後は痛くてかゆくて、
本当に大変で、皮がボロボロ剥けて汚くて、
二度とあんな思いはしたくないなって思いますけど。

ずっと忘れていたのに、ふいに脳裏に浮かんで、
あれやこれや思い出してしまいました。

そしてつい先日、
いつもいくマッサージ店のお馴染みの施療師(♂)さんと、
世間話をしていて、
子供の頃どんな遊びをしたかっていう話になったんですね。
世代は親子ほど離れているんですけど。

水鉄砲でガンマンごっこ、少年探偵団ごっこや宝さがし、
近所の畑でザリガニ釣りしたー 
カブトムシやクワガタ取ったー 
そんで戦わせて勝ったほうが全部もらった
トンボやカエルも取ったー ホタル狩りもしたー
昔は虫とかヘビとか平気で触れたよねー
めんこもしたー 駄菓子屋が子供が集まる場所だったー
仮面ライダーごっこもしたー(親のスカーフとベルト使用) 
風呂敷一枚でヒーローになれたわー

とかとか そして
秘密基地はお約束で作ったよね~
秘密って言っても、周囲にはバレバレだったんだけど
当人たちは誰にもバレてないと思ってたよね~

なーんて

ここまで話して
「あれ? すべてこっち側(男子)の遊びじゃないですか」
と突っ込み入りましたっっ笑

そうですね。
幼馴染が男の子だったせいもあり、
私、男の子ばかりと遊んでいました。
アニメや特撮もヒーロー系、ロボットもの好きで、
女の子向けはあんまし興味なかったです。

そして、どうでもいいガラクタをのことを、
タカラモノ見つけたー!とばかりに拾い集めて、
クッキーの缶みたいなのにコレクションしてたよねって。
このあたりは世代が違っても同じなんですね。

なんでしょうね。
はっきりいってゴミなんですよね。
くだらないものと言えばそうなんだけど、
それが子供の時の眼で見ると、
キラキラ輝いてみえちゃうの。

実家は今でこそ新興住宅地になってしまったけれど、
当時はまだ田んぼとか畑とか多くて、
とんぼもたくさん飛んでいて、
セミも蝶もカマキリも色んな虫も、
ヨモギや土筆や雑草が生えてる空地も残ってて、
山とかのまるっきり田舎っていうのでもないけど、
都会というのとも違ってた。
自然がたくさん残ってたんですね。

近所には自動車修理工場なんだと思うけど、
とてつもなく広い敷地にスクラップ化した
自動車が山積みにされている場所があって、
そこに入りこんでは、メカニックな処理物の山の中から、
自動車の部品とか、色んなものを見つけては、
ワクワクして拾い集めていたんですよね。

あ゛ー普通女の子はそんなことしないんですがね。

今だったら考えられないし、
とても危険だったのだと冷や汗ものですが、
大人たちに怒られることもなく、探検を愉しんたものです。
(車のパーツでたくさん遊んだけど、
メカ好きにはなりませんでしたなー
そして今考えると、アレ事故車ばっかりだったわーと冷や汗)

だから、映画「スタンドバイミー」を見ると、
なんかわかるわー あの感覚って思っちゃうのです。

本当にあの頃って、遊ぶことにお金かけてなかった。
どうでもいいもので妄想や創造力働かせて、
それだけで一日中楽しめたものです。
いやさ駄菓子屋さんでお菓子購入したりもありましたが、
10円20円の世界でしたしね。

空地や道路で缶蹴りしたり、
かくれんぼしたり、鬼ごっこしたり、
チョークで地面に絵を描いて、ケンケンパしたり、
虫捕まえてやらかして(謎)、野草や花の蜜食べて、
枝や廃材やガラクタ集めてちゃちい基地創って、
それだけで365日楽しめたんですがな。

たまに、お金持ちの家の子のうちに行って、
消える魔球ゲームや人生ゲームを
やらせてもらったりはあったけれど。
(庶民の家では麦茶とせんべい。たまにスイカ。
金持ちの子の家に行くとジュースとクッキーが出てくる)

今みたいにゲームはない時代だし、
テレビだって一家に一台で、ない家もあって、
まだバラックに住んでる人もいて、
給食は新聞紙にくるんで持ち帰ったり届けたりで、
塾もせいぜいソロバンと習字くらい。
お金持ちの子はピアノなんてのもあったけど。

オイルショックとロッキード事件の後、
昭和50年代に入ってから、
突然世の中がガラっと変わって、
急にモノがあふれて、日本も豊かになったけれど。

それまではホーント、
半分くらいの人がビンボーって感じで、
ビンボーはそんなに恥ずかしくないっていうか、
食べ物も洋服も何もかも、あまりないから、
それで満足していたって感じです。

でも、そんなにのどかな風景があった反面、
歩いて30分くらいの湾岸側は工場地帯で、
高い煙突からはいつも煙が出ていて、
真夜中であっても空はいつも真っ赤に燃えていて、
「光化学スモッグ注意報」が度々出ては、
外で遊べない日も多かった。
クラスメイトの多くは喘息や気管支炎を患い、
潮の香りと工場の臭い。朝には港の汽笛。
時々寄港中の外国船の乗組員の人たちもよく見かけた。
東京の家や土地を売って越してくる人や、
地方から工場に働きに来た人たちで人口も増え、
毎月必ず転校生がいて、珍しくなかったのです。

そんな幼少期、環境でしたねー
これは世代だけでなく土地柄によっても違うはずですが。

工場で働くために全国から集まってきた人が多い、
工場のおかげで発展し衰退したそんな街でしたから、
東京にも近く、完全な田舎ではなく、
都会でもない中途半端な場所でしたけど、
そのお陰で排他的でないのが救いでしたかね。

モノがないから創意工夫して遊ぶしかなくて、
食べ物もあるもので我慢するしかなくて、
ジュースなんて高いから、水ばかり飲んでて、
麦茶でもすごいありがたくて、
甘いものなんて滅多に食べれなくて貴重で、

でも近所の子供たちと遊ぶ時間、
そして遊ぶ場所はたくさんあった時代。

気が付けば、どこのだれかわからない子が増えてて、
名前も知らないけど一緒に遊んでいて、
年上も年下も性別も関係なく、
子供たちなりにルール作って遊んでケンカして
仲直りして仲良くなって、
そこで理不尽な力関係やコミュニケーションの取り方、
教わったかな、という感じです。
ケガさせられたりケガさせてしまったら、
悪さしたほうが親に殴られて菓子折りもって
誤りに行ってそれで赦して解決って流れがあって、
秩序も保たれてたよなーってホント思います。

今は、東京23区に住んでいるというのもありますが、
時代的にはホントになんでもあって、
食べ物もモノも、便利な商品も、
インターネットもPCも携帯やスマホもゲームも、
昔なかったものがたくさんあって、
私たちの子供の頃と考えると夢みたいなんですけど、

子供たちが走り回って、日が暮れて遊び疲れるまで
遊んだり冒険するような場所がほとんどなくて、
学校から帰ってきたら塾に行かなくてはいけなくて、
夜遅くまで勉強ばっかりで。

なんかやっぱり可哀そうだなって思ってしまいます。

地方、田舎とかはまだ、
遊ぶところたくさんあるんでしょうが。

それにしても友達や誰かといても、
ゲームの画面ばかり見ていて、
一生に一度しか体験できないことや、
見られない景色を目に焼き付けることもないのだと、
そう思うと、なんかなって思うのです。

漫画もアニメも
私たちの頃は子供向けのがたくさんありましたけど、
今の漫画もアニメも、大人のために作られてますしね。
子供のための作品はほとんどないです。

与えられたものではなく、自分たちで見つける楽しさ。
自分たちでガラクタの山をお宝の山と錯覚して、
そこにロマンやワクワクを見つけた創造力、
空想力を刺激する遊びができる環境。
都会にも残っているのかも知れないけど、
そういう遊びに浸ることを許さない現実が、
今の社会だったりします。

(子供たちの声がうるさいとか、あれやこれやで)

昔が良かった、と言うつもりもないし、
昭和という時代が良い時代だったとも言えないけど。

思うに、今の世にコミュ障やナーバスな若者、
適応障害や職場で使いものにならない新人とか、
登校日になると自殺してしまう子が多かったり、
不登校や社会に適合できないニートが増えてるのって、
そういう、幼少期に学校とは別の、こども社会にて、
自らの居場所を作る機会や社会性を学べなかったこととか、
そういうのも少し影響しているんでは?とも。

子供が子供がいられる時期に子供でいられなかったことや
エネルギーを発散する機会がなかったというのか、
空想力を鍛えることとか、創意工夫をする機会とか、
我慢するしかない状況に置かれてあきらめを知るとか、
親だけでなく親以外の人に叱られたり、
ケンカして加減をしったり、殴られた痛みを経験したり、
謝り方を学ぶことも含めて、あれやこれや。

だって小学生の鬱って、今とても多いですもん。
小学生でスクールカウンセラーにかかってる子ばかりって、
いったいどうなっているんだ、ニッポン!て思います。

今の子たちはホント逃げ場所がないっていうのかな、
親もアダルトチルドレンやメンヘラで自立できてない人多いけど、
精神的に追い詰められてて、ストレス過剰なんじゃないかって。

お金だけ、モノだけ与えてたらいいって、
お金があることが大切って、
どうしても今の日本社会の価値基準はそうなっちゃっていますが。
(実際今の子育てはお金がかかります。
私たちの時代とは違いすぎ)

校内暴力の嵐やバブルを経験して
楽観主義が身に付いている浮かれ世代が言うなよ、
ですけれど・・・

昭和の時はまだ、心のゆとりがあったように思うのです。
決して豊かな時代ではありませんでしたが。

個性的な人たちが多く、人間関係も熱くて、
ハチャメチャで面白い時代でもあったなーと。
テレビ番組も今より質が良くて、レベル高かったです。
そして何よりモノを大事にした時代でした。

今はモノだけでなく、
人さえも消費する時代になっちゃいましたね。
よくなったこともたくさんたくさんあるけれど。

あと、やはりビックリするのが、
どこに居てもみんなスマホやタブレットやらいじってて、
LINEとかSNSやアプリでのレスは早いけど、
目の前にいる人と会話することはおざなりで、
今リアルに見えている景色や体感していることに対しては、
見事にスルーなんですよね。全然見てないっていうか。
誰かと一緒にいても食事していても、
ひたすら機械をいじってるだけ。
それって一緒にいる意味あるの?って思う。

なんかなー です。


そして日本はどこに向かっているのでしょう。

てなことを思ったりします。

2018/07/24

獅子身中の虫

二か月くらい前のこと。
定期的にいらっしゃる長いお付き合いのクライアントさん。
最近どう?などという世間話的な様子伺いにて、
どうにもここのところ体調が思わしくない…と。

その流れで、「心の眼」のほうで彼女を見やると、
何か細かいものが、スピーディーに
彼女の身体の上を這いまわっていたりしました。

うちで色々とヒーリングその他を学んでくれてた人だから、
自身にもチェックしてもらいながら、
(まず自分自身で見てみよーよ!と、当人任せ→手抜きか)
同時にもっと詳しくちゃんと見てみると、
ホタルみたいな黒い虫?のようなものが、
彼女のオーラをたくさん食い破っていたのです。

当然、オーラ(エネルギーフィールド)は穴だらけ。
これじゃ、エネルギーだだ漏れ状態だから疲れやすくなります。

で、この虫の正体はというと、
本物の蛍の幽霊とかではなく、単なるエレメンタル。

ホタルのようなモノ…に波長を合わせてみると、
彼女の昔からの友人で、あれこれ彼女に対して、
複雑な思いを抱いている人が創ったものらしく…

どうも、昔から彼女にあれやこれや口うるさく言われてて、
(昔の彼女はそういう性格だったので)
それに対して、うるさいと思う反面、
他人のことに口出ししてくる彼女のことやそのふるまいを、
表向きありがたいふりや耳を傾けてるふりをしながら、
何処か小馬鹿にして見下していたらしいのですが、

ある時から彼女が徐々に変わっていって、
性格も穏やかになり、謙虚さも出てきて、
他人に煙たがられるような(彼女が小馬鹿にしていた)面が、
すっかり影を潜めて、他人と上手くやれるようになったこと等

かつて彼女のことを
自分と同類あるいは自分以下と思って揶揄し見下し、
自分のコンプレックスを投影して安心していたのに、
ここ数年の彼女が人として変化して成長していき、
結果として、とても平穏で幸福そうにしている
現状を目の当たりにすることになり、
それに対してとても複雑な人としてのこじらせ感情、
嫉妬と羨望の感情等を抱き、そのドス黒い感情が、
大量の虫の形を取った想念体(エレメンタル)になった。

…ということのようでした。

まあ、人間て、そういうトコありますね。
仕方ないんですけど。

それを彼女に説明すると、
「ああ、そうか」と納得した様子。
心当たりというか、薄々は気づいているわけです。

そして確かに体調が悪くなる直前に
その友人が自宅に遊びにいらしたと…
逆に言えば、その友人が来訪してから体調を崩したと。

ついでに自宅も見てみると、
家にもたくさんの虫が飛んでいました。

そういえば、彼女の家を訪れた他の知り合いが、
「なんか、今ゴキブリ?みたいな黒い虫がささっーと、
通っていったような気が??」
と、気配を感じて振り返り、そんなこと言ったとか。
(本当のゴキブリだった可能性も否定できませんが)


これって、無意識的なんですよね。
意図的に相手を攻撃しようとした呪詛とかではないし、
身近な人に対しての、葛藤を生じさせる複雑な心の反応。

その友人の方も、相手が憎くて、
生霊のことを飛ばしているわけではないんですよ。

好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。
愛してるけど憎い。憎いけれど愛している。

そういう説明不可能な感情ってありますよね。
愛憎とも言うのだけれど。

今回のクライアントさんの友人の方は、
今の自分や現実が嫌いというか、不満アリというか、
自分の醜い感情や側面をすごく嫌ってて、
そんな自分とオサラバしたいはずなんですね。
だからこそ、自分が手放したいと思っている
自らの性格の弱さとか欠点とかを手放すことで、
見るからに明るくなってイイヒトになっていき、
結果的に周囲からの信頼を得られている彼女のことを、
羨ましいと、妬ましいと思ってしまったわけです。
刺激されたというのかしら。

彼女の今は、自分が欲しかったもので、
彼女が手放したものは、自分が手放したいものなのに、
それが出来ない自分に対して歯がゆくもあり。
自分と同じところにいると思ってた人が、
自分よりも少し先に行ってしまったことで、
ざわざわとしたドス黒いものが、
たくさん毛穴から吹き出てきてしまったのでしょう。


こういうのってよくあります。
女性なら、いやさ男性でも。

片方が心を許していて、
片方がそういう気持ちを持っていて、
笑顔の下に刃を隠して、目には見えない次元で、
相手に対して攻撃を加えていたり、
エネルギーバンパイアのごとく、
エーテルコードを差し込んで
エネルギーを奪っていたりとか。

よく見る光景ですね。
共依存とか力関係とか、
そういうのとはちょっと違う関係だけど。

人の心理は本当に複雑で一筋縄ではいきません。
けれど、無意識的にそんなことをしている人のことを
一方的に責めることは出来ません。

誰しもそんな弱さを持っています。
そして誰もがそういうことを誰かに対して、
「やっていない」とは絶対に言い切れないのです。

子供の頃、兄弟姉妹に対しての
親の愛情をめぐっての独占欲や些細な嫉妬から、
あるいは同級生に対しての勉強やスポーツの場面で、
習い事や仕事を通して、
自分より秀でていたり、才能があったり、
恵まれていると思う相手に対して、
恋愛にまつわるエトセトラから、

他人に対して、攻撃的な感情(反応)や考え、
嫉妬や羨望だけでなく、怒りや憎しみやあれやこれや
批判的で否定的な想念を飛ばしてしまったことが、
最低でも何度かはあるはずです。



そんなわけで世の中にはそんな感情から創られた、
虫の形をしたものや動物みたいな形をしたもの、
あらゆる形状をした邪悪で醜悪な想念の塊が、
たくさん存在していて、あちこちを浮遊しています。

だからこそ 
みんなそういうものが見えなくて幸いだと思うのです。

本当に気持ち悪いですしね。

それらは色んな人にくっついていたり、
悪さをしていたりもします。掃除をしない限りは。

そしてそのようなものは、
必ず最終的にそれを作った創造主たる人の元に
戻っていくことになります。
たくさん力をつけて仲間を増やして大きく成長して。

たから、一言った悪口は七倍になって増えて、
その人の元に戻ることになるのです。

戻るタイミングは今生とは限りません。
今生に戻ってきているものも、
今生に創られたものとは限りません。

過去生で創ったものも何十倍にも成長して戻ってくるのです。

なので、私たちは
自分の行動や言動だけでなく、
「どんなことを考えるか、思うか」についても、
気を付けなくてはいけません。

その人が「想像」したものは確実に創造されて、
物質的な次元で戻ってくるという法則があるからです。


"親切を語り、やさしさを語れ 忍耐強くあれ
 人のあら捜しをするな 他人を非難するな

 あなたがたがこれから歩む道筋に
 あとで困るようなものは置かないことだ
 
 他人の非難を浴びるような無駄口を叩くな
 このことが身体の状態の前途を変えるかも知れないのだ"

    byエドガー・ケイシー


ちなみに、
他人からそうした攻撃的な想念体を送られても、
ダメージを受けない人もいます。

ダメージを受けてしまうのは、
攻撃的な想念体と同調する、何かが、
受け手の側にあるからです。
ようするにその人の中に、
送ってきた相手で無くても、誰かに対する、
そうした同種の感情を抱えているってことです。
今は表面化していなくても眠っているだけで。

だから、その攻撃的なエレメンタルを
(今回の場合はホタルもどきの黒い小さな虫)
創ったのは彼女ではなく友人の方ですが、
結局は、自分が創ったのと同じなんですね。

そうした類似の感情がまったくない人は、
このような邪な感情が創り出したエレメンタルの
攻撃を受けてダメージを受けることはまずありえないので。


ですので、
霊的な攻撃(サイキックアタックやアサルト)
のダメージを受けないためには、
まず自分自身の心を浄めて、自らの過去と向き合い、
自分の弱さや精神的問題を克服しないといけません。

そして誰かからの攻撃を受けたときには、
自らが放った攻撃の矢を受けているのだと、
相手自身とその罪と同じく、
自らの過去の自分自身と犯した過ちを受け入れ、
その心情や背景を十分理解して、
赦してあげる機会とするべきです。

とはいうものの、とても難しいことですけどね。

自らが他人から受け取るものは、
自らが他人に与えたものなんで、
与えたものが戻ってきただけと、
受け止め、受け入れるしかないです。

だから、こうした攻撃の矢みたいなものは、
返品とばかりに相手に戻しても、なんですね。
また戻ってくるだけだから。

てなわけで、
虫はこちらで退治というか処理するわけです。
自分が捨てたゴミでないけど、
こっちで処分を引き受けるみたいな。
自分が捨てたゴミも他の誰かが始末してくれてると感謝して。

いくら捨てても何しても、
永遠に送って来る人もいますけどね。

とりあえず今回のことで彼女は、
友人さんに一日も早く心の平穏が訪れるよう、
祈り続けるとのことです。

時々送られてくる虫をチェックしつつ。

2018/07/20

愛の泉の限界点

何故奥様は
アーサーを追いつめてしまったのですか
アーサーは誰よりも奥様の幸せを願ってきたのに
奥様 
奥様はこの20年間…
アーサーにどんな夫になって欲しいのか
伝えたことはありましたか

理想とは程遠かったですか
夫として受け入れられませんでしたか
夫として愛せないなら
温かな食事と清潔な寝床
ドレスに娯楽
望むままに何不自由なく
分け与えてくれる家族

友人としてならどうでしたか
友人としても失格でしたか

アーサーに友情のかけらすら
感じませんでしたか
友人としても失格でしたか

アーサーに友情のかけらすら
感じませんでしたか
友人としてアーサーに
うわべだけでも
接してあげようとも
思わなかったのですか

貴女は盗まれたくなかったんですか
手に入れたままでいたかったんですか
貴女はアーサーの心を自分のものだと
そう思っていたんですか

それは
その…感情は
何と呼べば正解なのですか
もしそれが愛だというのなら

愛だというのなら
何故アーサーに手を差し伸べて
あげなかったのですか

彼を傷つけたら
殴りつけたら
もっと愛してくれると思いましたか
切り裂いたらもっともっと愛してくれると

幼い子供が
親を傷つけて愛を確認し続けるように
貴女はアーサーの惜しみない愛を
返す事無く飲み干すだけ枯らせました

まだ試し足りませんか

愛にも終わりがくるものです
彼の心を砕いたのは
奥様 貴女です

 by船戸明里「Under the Rose」より引用 


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

他人の気持ちや好意、愛を試す人がいる。

これでもかこれでもかと、相手を痛めつけて、
わざと嫌われるように…
自分を憎ませて、侮蔑感や怨恨を植え付けるのが、
さも目的であるかのように振舞って、

相手からの自分に対する、
一滴の同情や憐みの欠片すらも
奪い尽くすことに成功して…

相手から愛情の泉を日照らせ、
その井戸を枯渇させたのは
誰でもない自分であるというのに、
そう仕向け続けたのは自分自身のなのに、

それでもなお、
まだ自分が相手から赦される存在であると、
自分がほんの少し改心しただけで、
相手が両手を広げ受け入れてくれるものだと…
過去そうであったように満面の笑顔を向けて、
自分を愛してくれるはずだと信じて疑わない人がいる

まるで自分のほうにだけ、
決定権や拒否権が存在しているかのように、
相手にも意志があり、感情があるということに無理解で。
そのようなことに無自覚で…

ある日突然、当の相手から拒絶されたことに対して
茫然自失とばかりに驚き、信じられないという顔をする。
そして、そのことに対して、我が身の行動の振り返りなど、
これまでの自分のやり方についての、
後悔や反省へと繋がっていけばいいのだれども、
困ったことに「お試し行為」をするほとんどの人が、
自分が相手(他人)から嫌われた理由や
避けられたり拒絶されたりする原因について、
客観的に自己分析したり内省するようなことをしない。
そのあたりはもう絶望的なほどに。

この手の人のことを、ボーダーとか自己愛性とかの、
人格障害と片付けてしまえばそれまでなのであるが。

スピリチュアリズム的には、
エゴイズムのエレメンタルに支配され、操られた人々…
ということになるし、
チャクラがぶっ壊れて修復不可能になってしまった人々、
という話になる。

(中には他者意識(いわゆる霊や悪霊、悪魔、動物霊の類)などに
取り憑かれている人もいたりする)

完全に自分(自己)を見失ってしまっているなら
それはそれで仕方がないとも言えるけれど、

自らの愚かな行動に薄々気づいていたり、
親しい人々、身近な人が自分から離れてしまっていく段階で
そのことに傷つき、気に病むことの出来る
理性がまだ残っている人であるならば、
それでもまだ
自らの行動を改める努力ひとつしないのだとしたら、
それはもう完全に自業自得で自己責任というしかない。
でも、それでも最後の悪あがき的に誰か他人のせいにして、
相手の問題だけをあげつらい、
「私は悪くない」と言い張る人も少なくない。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

悟りに達し、解脱に達した聖人君子なら、
どれだけの粗雑な扱いや残虐非道な辱めを受けたとしても、
その相手の手を取り、その足を洗い、口づけをして、
慈悲と慈愛を与えることも出来ようが、
普通の人は…
いやさ霊的な道理を学ぶ途中過程にあるものであってさえ、
愛や寛容には上限がある。

仏の顔も三度まで…ではないが。

散々あれやこれやされたあげく、ここまでされたらもう無理!

という限度に達する瞬間がいつかは訪れる。

愛は確かに枯渇する。

男女間であってもそうだし、友人間でも、家族の関係性でも。
他人同士、利害関係で結ばれた者同士や、
ボランティアであったり、主従関係でもそう。

愛情は…いつまでも無くならないものではなく、
いつかは目減りして枯渇してしまうものです。

男女間のホットな情熱もいつか冷めてしまうように、
人と人との関係性の中にある「愛」も「情」も、
枯渇して干上がってしまうときがあります。
モノに対するものであってもそうです。

いつも与えるばかりで、
決して相手からは与えてもらえなかったり、
ちっともそれに応えてもらえなかったり、
奪い尽くすだけ奪い尽くし、他人の信頼を裏切り、
いつだってクレクレばかりで、
何をしてもいい相手とばかりにいいようにされるばかりでは、
与えがいもないし、尽くしがいもない。

見返りを求めて、
相手に何かしら"与え尽くした分"と等分の、
"与えられ尽くされる"ことを求めているわけではないにせよ、
最初からそのつもりで、
計算づくに近づいたり関わった人間関係でなかったとしても、
純粋な好意と人としての親切、
思いやりから出た行為であるにせよ、

一方的な関係というのは虚しいもの。


どんなエネmeな人であっても、
ある日突然に搾取され続けている己が身に、
ハッと気づかされる日が来る。

これまで自分が与えたことに対して、
一度も相手に感謝されたことがないことに。

そして疑問に思う。

何故こうまでして
自分の想いは踏みにじられなければならないのか。

何故どうして、
相手は自分に対して一片の感謝すら示さないのか。

はるか遠く前に、そんな言葉を聞いたことはあっても、
自分はその言葉をよすがにしていただけで、
時間は流れ、言葉の効力はとっくの昔に無くなり、
いま、の私には一かけらの「愛」も「感謝」も、
与えられていないことに。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

自分を真の意味で愛しているならば、
自分を真の意味で愛してくれる人がわかる。

自分のことを大切に想い、
自分にとっての幸せが何なのかを、
よく理解しているのであれば、

本当に自分を愛し、大切に想い、
誠実に接し、いつわりのないの心を見せ、
真実(まこと)の愛情を与えてくれる人が誰だか、
見抜くことはそう難しくない。

自分をイジメ抜きたい人だけが、
いつわりの、まやかしの関係に魅入られ、
自分を破滅に導く、誤った関係に堕ちて、
その呪縛に縛られていく。

自分の幸せを願わない生き方、考え方が、
自らを不幸の選択へと歩ませる。

黄金の心はおろか、真実(まこと)を持たず、
誠実さのかけらも、愛も感謝もない、
何も与えず、他人から奪い尽くすだけの存在。

人により多くを与えたいと思っている人に限って、
そんな虚飾を見抜けず、罠に陥ることもある。

同情を愛と錯覚して。

でも、同情は同情でしかない。

本当の愛は対等なものだ。

本当の愛は、
いっさいを奪わないし、奪われることもない。
与えても減ることはなく、むしろ倍になって戻ってくる。

そして、真実の愛は、双方を満たし、幸せにする。
真実の愛で結ばれた関係は、周囲をも豊かにする。

もし、自分の愛がそのような関係でないのであれば、
互いを映す鏡の中に曇りがあるのだろう。
時に歪みさえ生じているのかも知れない。

共依存であったり、
どちらかが従属する支配的な関係であったりといった、
不健康な関係性。

お互いの存在の中に自分の問題を見出すための、
ダークサイドの「投影」としての、
具現化されたレッスンの相手かも知れない。
あるいは、過去生の因縁や負債で結ばれた、
カルマのレッスンがその関係性にはあるのかも知れない。

手放すべきか否かもし迷ったら、
こう説いてみるといい。

「この関係から私が得られるものは何か」
「この関係は私自身を成長させるものなのであろうか?」
次に胸に手を当てて、
「この関係に"愛"はあるのだろうか?」

胸が苦しく、辛いだけならば…
むかし確かにあったと思われる"愛"のかけらすら、
今の自分の中に見つけることが出来ないのであれば、

それが正しい応えである。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

いかに昔、情熱的に愛し合った二人でも、
その時に永遠の愛を言葉にし、誓い合ったとしても、

情熱はいつしか醒めるものである。
まして男女の性愛的なものなら…2年が限界で。

愛には色々かたちがあるし、
時の経過とともに、人の心もやがて変化していく。

釣った魚にエサをやらないと死んでしまうように、
人間同士の関係も生き物だから、
愛や感謝を継続的に与えないと「心」は死んでしまう。

愛情は「心」と「心」の結びつきなので。

相手に対する「感謝」の気持ちや「尊敬」の念、
相手の人間性を「尊重」する態度や思いやりを日々示すこと。

愛され続けたいのであれば、
相手から必要とされる人となり、
愛される人であり続ける努力というのは必要不可欠で。

でも、それをしないで「愛されて当然」とばかりに、
自分を愛せなくなった相手、
自分に対する愛を枯渇させてしまった相手のことを、
何で自分のことを愛さなくなったんだと責め、
昔自分に惚れて口説いてきたのはお前だろうとか、
一生傍にいると言ったクセにウソツキだと…

そういうのは間違っている。

その昔は確かに相手の中にあった、
「愛の泉」を、
一滴の水もない状態に枯渇させてしまったのは、
他の誰でもない、自分自身だったりするというのに。

すこーしずつ毎日すこーしずつ
蒸発させて、泥を投げ込んで、
追加で水を与えることもせずにいたならば、

どんな井戸だって枯れてしまう




"自分の人生において考えるべきことは、
 何を受け取ったか、ではなく
 何を与えることができたか…である"


"人は自分が他人に与えたものしか、
人生から何も受け取ることは出来ない"


人生における真の幸福、真の豊かさとは、
与え、与えられる幸福を知ることである

2018/07/15

愛されたいのに愛されない人たち

相変わらず更新滞っていてスミマセン。
暑さにかまけてダラダラしていました(困ったものです)。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

人間って基本的にあまり他人に関心がないもの。
ほとんどの人にとっては自分が世界(宇宙)の中心で、
自分の感情や日常の出来事、人生がすべてです。

自分以外の他人を理解しよう、と、
相手の身になって考えようとする人は意外と少ないです。
もちろん、思いやりと他者への慈しみに満ち溢れた人が、
この世にまったくいないわけではありません。
理解できないからこそ、理解しようと、
理解してあげたいと…
そのように日々努力する人も存在しているわけですが。

他人のことを理解するのは難しいものです。
立場を理解し、気持ちを想像することは出来ても、
相手と同じように考えたり、感じたりするのは不可能です。
同調・共感は出来ても、個別の存在である限り、
相手が望むことを100%提供することはまず無理。

でも、人は我がままだから、
自分が満たされること、他人に満たしてもらうことばかり、
つい追い求めてしまう。

・私を見て! 注目して!(look me!)
・私を知って!
・私の気持ちを解って!
・私に心の動きに気づいて!
・私を認めて!
・私を褒めて!
・私を必要として!
・私の話を聞いて!
・私の意見を聞いて!
・私をもっともっと大事にして! 
・私という人間を尊重して!

世の中には行動や言動の端々に
そんな気持ちが見え隠れしている人ばかり。

自己愛性パーソナリティ障害まで行かなくても、
ほどほどにこのような傾向を持っている人は、
現代において、たくさん存在しています。


結局は愛されたいってことなんですが…
自分が理解されること、我がままを聞いてもらうこと、
自分の思い通りになってくれること、
自分の欲望や願望など叶えてもらって、
尊重されて大切にされてチヤホヤしてもらうことを、
周囲の人にも運命(人生)にもあれこれ求めるてばかりで。

そしてそれをしてもらえないことに対し、
(してくれない相手に対して)
怒りを覚え、憎しみや恨みを感じて、執着したり、
逆恨みして攻撃的な態度に出たり、
フラストレーションを貯めこんだりもします。

こういう自己中的な考えが行きすぎると
クレーマーやキチ害やモンスターになるんでしょうが…
そこまで行かなくても、多かれ少なかれ
ほとんどの人がその予備軍状態にいたりします。

(問題なのは問題自体なのではなく、
自分が問題を抱えているという事実に
気づかないということです)

他人から理解されない、愛してもらえないという
不平不満を持つ多くの人が…誰でもない自分自身が、
真の理解や愛から自身を遠ざけ、
「他者から愛されない理由」
を創り出している原因だという事実に気づいていません。

そのような状況を受け入れられないまま、
理解されない苦しみや愛を得られないという
飢餓状態の中にいるのです。

でも、本当のところ、
自分を飢えさせているのは自分自身で、
ほんの少しあたりを見回し、
目を見開いて探すべきところを捜したならば、
空腹を満たすべき捜していたそれは、
ものすごく身近なところにあったりするのですけどね。

うん。
世の中、自分が愛されないことに対して
腹を立てている人ばかりなんでやんすのよ。




さて少し話は180度変わって

私は幼児の頃、野犬の群れに襲われて、
全身を噛まれたことがあったりします。
もちろん入院してあちこち縫いました。

現代では考えられないことですが、
当時は犬を繋いで飼うということが一般化していず、
また処分場に持ち込む以前に犬をそこら中に捨てる人が、
今以上にたくさんいました(それが昭和の時代というもの)
そして捨てられた犬たちが徒党を組んでたむろしている、
という風景が珍しくなかったのです。
(もちろん社会問題になっていたとは思います)

何故襲われたかというと
カルマ的な理由がそこにはありましたが、
それは少し置いておいて…
(実は犬に襲われたのは以前以後もあり、計4回ほど)

怖ろしい経験をしながらも、完全に犬を嫌いになり、
触れられなくなるほどの拒絶反応が出なかったのは、
自宅や親の実家にてリアルタイムで
飼い主に忠実な犬を飼っていたからでしょう。
(私が襲われている時、愛犬は大きな声で吠えながら、
鎖を引き抜いて駆けつけようともがいてくれてましたから)

そのような事由で、
私は基本的に犬好きですが、だからといって、
咬まれたときのあの恐怖を完全に忘れたわけではありません。
今となっては大昔の、記憶も朧げな幼少期のことですけど。

でも、犬好きで犬飼いをしている人の中には、
そのような他人の恐怖に対し、無頓着で無関心な人もいます。
「うちの子はとってもおとなしい」と信じて疑わず、
「うちの子に限って」と考えがち。
まあ、昨今は人を咬んだら、殺処分の対象になってしまうので、
そういう観点から真の愛犬家な人たちは、
自己防衛を十分になさっていますけれども。

「犬に襲われたことがある」「咬まれたことがある」
と言っても、その恐怖を理解してくれない人もいます。
「私もうちの子に噛まれたことあるよ」と軽く捉える人も。
甘噛みをされるのと「何頭もの犬に襲われて全身咬まれた」
という状況はかなり違いがあるのですが…。

「犬を飼ってたことがあるなら、全然平気でしょう。
 うちの子はとっても利口で可愛いのよ。
 平気、平気。触って御覧なさいな、
 抱っこしてもらいなさいよ、〇〇ちゃん」
そんなことを言って、
歯をむき出してキャンキャン吠えている犬を
抱かせようとする人に会ったこともあります。

でも自分が子犬の頃から飼っていた家族たる犬と、
他人の愛犬とは全く違う犬です。別の犬です。
初対面から親愛の情を示してくれる、
人懐っこい、優しい犬なら、触れ合えますが、
そうでない排他的で攻撃的な犬には、
過去の恐怖がフラッシュバックするだけだということを、
類似の体験をしたことのない人には
なかなか理解してもらえません。

その他、車の同乗事故の経験もあります。
自爆事故ですが、車は大破してスクラップになりました。
助手席にてフロントガラスが割れて、
その中に突っ込んで気を失ったものの、
額を切ってしまったのと全身打撲で済んだのは奇跡でした。

その後、何年も車に乗ることはもちろん、
近づくことも出来ませんでしたが、
何とか克服することができて、
相手が信用できる人なら助手席に乗ることは出来ています。
でも、あの時の事故で死の一歩手前に行かされた恐怖が、
私の中から完全に消えてしまったわけではありません。

そのことを説明しても、
神経質で心配性だ程度に受け止めるだけで、
わかってくれない運転手がいたりします。

「それなら、仕方ないね」ではなく、
「俺の注いだ酒が飲めねぇのか!」とばかりに、
自分の運転(技術)が信用されないことに、
不平不満を隠さない人も。

まぁ、でもそれは仕方がないことです。
理解してもらえないことに、
残念さ、少しの悲しみと虚脱を覚えたとしても、
怒りを覚えることは間違っています。

人はそもそも理解し合えないものであるとの前提で、
「理解」を相手に求めるものではありません。
でも、少しの失望や傷つけられた気持ちを抱くことも、
また仕方のないことです。

「だめだこりゃ」と呟いて、あきらめる他ありません。
もちろん、
説明をするなど、理解を求める努力は必要で、
対等な関係と考えるなら、
理由を説明するのは相手に対するマナーでもあります。
コミュニケーションはとても必要なもので、
人生においてその価値は十分にあるもの。
しかし、
試みた上で相いれないのならもうしょうがないのです。


そもそも それがどんな体験であったとして、
他人の体験や心象風景なんて
完全に理解できるものではないでしょうし、
理解してもらおうなどという考えも間違っています。

他人の言葉や心象風景を理解しようと思ったら、
自分が過去に体験した、
類似の事象で味わった感情の記憶を引っ張り出してきて、
状況や感情を照らし合わせて、想像することしか出来ません。

それが出来ない人を責めることなど出来ません。
こちらの話や言い分に、
いちおうの耳を傾けようとの姿勢を取ってくれるだけ、
ありがたいと言えるものかも知れません。

人は話し合わないことには理解し合えない生き物ですが、
話し合っても理解し合えないことも多く、
互いの感覚や意見の相違を尊重しあえず、
立場を理解し合えない者同士もたくさん存在するのです。

誰だって自分が一番正しい、のですから。
自分以外の人のことなどわかりようもなく、
基本的にはみんな他人のことには関心がありません。
相手の考えや気持ちなど知ったことではないという感じで。
(片思いをしている間、相手を口説こうとしている時だけは、
他人に対して最大限の関心を示したりするものですが)

とにかく、自分の意見が通ること、
自分が尊重されること、自分の正しさが証明されることばかり、
人は熱意を注ぎ、そこに人生最大の関心を置きがちです。
自分の意見を押し通すためなら、
他人の人権を尊重することなど宇宙の彼方に飛ばし勝ちです。
自分の感情を満足させられさえすれば、
他人の気持ちや意見は無視してもいいと、
他人はその犠牲になってもいいと想いがちなのでしょうか…。


意思の疎通を行い、
分かり合うために「言葉」というものが存在しています。

ですが、
人は他人の言葉を自分の都合の良いように受け取り、
解釈してしまうというクセも持っています。
全体を理解せず一部の表現や言い回しに過敏に反応したり、
欠点やコンプを刺激されて自分が責められているかのごとく
被害者意識や妄想で反応してしまったり等。
後は勝手に内容をまるごと誤変換、てのもありがちです。

お互いの立場や心情を伝えあい、理解し合うために、
言葉を用いて話し合いをするわけですが、
言葉に対する反応や解釈の違いから、
話し合うことでかえって誤解を生んでしまったり、
収集がつかなくなってしまうこともあります。

なかなか難しいものです。

そして人は相手の反応に傷つくのです。
理解されないことに…
共感してもらったり、同意を得られないことに対して、
相手の自分への無関心さや存在の耐えきれない軽さを感じて、
傷付いてしまうのです。

でも、それは決して、
どちらかに罪があるわけではないのです。
誰が悪いということではないのです。
きっとどちらも悪くありません。

でも誰しもが皆に理解されたいと望んでいます。
とくに自分が愛する人に自分のことを理解されたがっています。
すべての人が自分を理解してくれる人を求めています。
理解は愛と同意語です。

それがゆえに悲劇は起こるのです。

相手の意思疎通能力や理解力を考慮した上で、
相手を説得し納得させる物の云い方や言葉選び、語意表現、
こちらが伝えたいと思っていることを
相手の脳裏に連想させる話術や論法よりも、
得てして人は「自分の内的心情を表現すること」
にみんな一生懸命です。
自分が理解されることを求め過ぎるがゆえに、
詳細な心的表現をリアリズムに求めすぎた結果かも知れません。

理解されたいがために相手を理解することを怠るのです。

理解されたいなら、まず先に相手を理解しなければなりません。
そして理解されることを求めたり、
相手が自分を理解してくれることを期待してはいけないのです。

これは
愛されたいなら、まず先に相手を愛せ、と同じことです。
愛されることを求めたり、
相手が自分を愛してくれることを期待してはいけないのです。

人は愛されたい生き物ではありますが。

愛を求めるがゆえに自らを傷つけ、
愛されない、愛されていないと思い込むことで傷つきます。

愛されたい、
理解されたいと努力することは悪いことではありません。
願う気持ちに罪はありません。
その想いが努力と向上心につながり、
自らを高みに押し上げることになりますから。

ただ、愛や理解を過度に人に求め期待し過ぎることで、
人生の目的や方向性を見誤ってしまい、
自分自身を不幸にしている人はあまりにも多いのです。

他人に求める前に、
まず自分の中に求めなければ決して人は、
本当に自分の欲しいものを手に入れることは出来ません。

愛されたいなら、まず自分を愛すること。
理解されたいなら、まず誰でもない自分自身が、
自分自身の理解者となって、深く自身を理解してあげること。

そして、その次に他人を愛することを覚え、
他人を理解するように努めるべきなんです。

自分の中に愛や理解力、
他者に対する思いやりや共感性、想像力がないことには、
いつまで経っても、
外からの愛情や理解を得られることはないでしょう。

期待しては裏切られた…と。
自分が欲しいと思っている言葉を相手から聞くことが出来ず、
優しくしてほしい人に、求めている優しさはもらえず、
他人にして欲しいことやかけてもらいたい言葉は得られず、

結果、自分は孤独で独りぼっちだと、
自分を分かってくれる人はこの世にはいないのだと、
世界中が自分に無関心で冷たい人たちの集まりであると…

世間を逆恨みしたり、自死を選んだり、
他人の注目や関心を得るために虚しい自己演出に走って、
自分らしくない、他人の期待に応えるためだけの
(他人の愛情を得るために)
偽りの人生を生きることになってしまいます。


love me ,like I love you
私がアナタを愛するようにアナタも私を愛してくれる?

って、こんな歌詞及びタイトルの昔の歌がありましたが、
恋愛にしても何にしても、人は愛や理解を人に求めるとき、
上記のセリフは大概、
「私が欲しい(求める)愛をあなたは私に与えてくれる?」
という意味で使われがちなんですよね。

自分がしてもらいたいことを相手がしてくれるか否かがすべて。
自分が欲しい愛の表現、それ以外は愛ではない。
そうみんな捉えるわけです。

自分の要求を叶えてくれることが愛で、
自分の要求を叶えてくれない態度や言動は愛とは皆思わない。

相手の考える愛や理解が、自分とは違っていたらもう
相手は自分を理解してくれないし、愛してもくれていない、と
相手が考える愛や理解を認めず、
それは「愛や理解ではない」と決めつけてしまうわけです。

だから自分は「理解されていない」し、
「愛されてもいない」になってしまう。

自分の頭の枠の中で考えている、
定義づけている愛や理解が、
世間サマや愛や人生から得られない、と、
人はこの世には愛も理解もないって思っちゃう。

ものすごい思い込みで劇場型自己完結です。

存在しないわけではなく、
誰でもない自分が、存在しているものを
見えてない盲目状態なだけなんですが。


人から愛されないと…
必要とされていると感じられないと、
ほとんどの人が生きる意味を見いだせないものですが、
それにはまず、誰でもない自分自身が、
自分の味方になって、自分の存在を肯定し、
自分自身を一番に愛せていないと、
人から愛され、必要とされる存在には成り得ません。

他人から提供される愛や理解されることの中に、
自らの存在意義を求める…
(誰かに認められたいという承認欲求)
ということをいつまでもしていると、

永遠に、
誰にも愛してもらえない、理解してもらえない、
そんな自分ではダメだ、生きる価値も意味もない存在だと、
という自己否定の中で生きることになり、
メビウスの輪で追っかけっこをするがごとく、
一番自分が求めていて、欲しいと思っているものから、
どんどん遠ざかるばかりです。

愛されたいなら、人を愛することのほうが先
理解されたいなら、人を理解することのほうが先

誰だってご褒美のほうを真っ先に手に入れたいし、
愛されたり、理解される経験があるからこそ、
愛することも理解することも出来るようになるって、
もう考えがちなんですが…

残念ながら、
人間は自分の中に存在しているもの以上のものを
この物質社会で具現化された事象として
体験することは出来ないのです

ホンモノを知りたければ
まず自分自身がホンモノにならなければ
決してホンモノを知ることも出合うことも出来ない

とエドガー・ケイシーも言っていましたが。

自らが他人にしてあげたことしか、
他人から何かされることはない

人は、自分が他人に与えたものしか、
人生で受け取ることは出来ない

悲しいかな、これって法則だったりします。

だからまず、
愛が欲しいのならば、自分の中にある愛の種を探し出し、
その種に水をやって育てる必要があります

他人に自分の内的世界や体験、立場を理解されたいと
そう願うならば、
自分以外の他人を理解しようとするべきです。

外に求めるのではなく、自分の内側に求めるのです。


大丈夫

誰もが自分の中に「愛」を持っています。
ただ忘れてしまっているだけです。

エゴイズムに隠れ、埋もれてしまっているだけで、
深い深い地層の底の底から、
いつかその「愛」を発掘することが出来るでしょう。

あなたがそれを心底願いさえすれば…


※ちなみに私が犬に襲われた理由は、
私が出しているエナジーのせいです。
恐怖で怯える被害者意識のエネルギー。
犬はこれによく反応するんですよ。
(カリスマドッグトレーナー、
シーザー・ミランの番組や著書を見るとわかりやすいかと)
何しろ狼やクマに食い殺された過去生がありますからね(苦笑)