相変わらず更新滞っていてスミマセン。
暑さにかまけてダラダラしていました(困ったものです)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
人間って基本的にあまり他人に関心がないもの。
ほとんどの人にとっては自分が世界(宇宙)の中心で、
自分の感情や日常の出来事、人生がすべてです。
自分以外の他人を理解しよう、と、
相手の身になって考えようとする人は意外と少ないです。
もちろん、思いやりと他者への慈しみに満ち溢れた人が、
この世にまったくいないわけではありません。
理解できないからこそ、理解しようと、
理解してあげたいと…
そのように日々努力する人も存在しているわけですが。
他人のことを理解するのは難しいものです。
立場を理解し、気持ちを想像することは出来ても、
相手と同じように考えたり、感じたりするのは不可能です。
同調・共感は出来ても、個別の存在である限り、
相手が望むことを100%提供することはまず無理。
でも、人は我がままだから、
自分が満たされること、他人に満たしてもらうことばかり、
つい追い求めてしまう。
・私を見て! 注目して!(look me!)
・私を知って!
・私の気持ちを解って!
・私に心の動きに気づいて!
・私を認めて!
・私を褒めて!
・私を必要として!
・私の話を聞いて!
・私の意見を聞いて!
・私をもっともっと大事にして!
・私という人間を尊重して!
世の中には行動や言動の端々に
そんな気持ちが見え隠れしている人ばかり。
自己愛性パーソナリティ障害まで行かなくても、
ほどほどにこのような傾向を持っている人は、
現代において、たくさん存在しています。
結局は愛されたいってことなんですが…
自分が理解されること、我がままを聞いてもらうこと、
自分の思い通りになってくれること、
自分の欲望や願望など叶えてもらって、
尊重されて大切にされてチヤホヤしてもらうことを、
周囲の人にも運命(人生)にもあれこれ求めるてばかりで。
そしてそれをしてもらえないことに対し、
(してくれない相手に対して)
怒りを覚え、憎しみや恨みを感じて、執着したり、
逆恨みして攻撃的な態度に出たり、
フラストレーションを貯めこんだりもします。
こういう自己中的な考えが行きすぎると
クレーマーやキチ害やモンスターになるんでしょうが…
そこまで行かなくても、多かれ少なかれ
ほとんどの人がその予備軍状態にいたりします。
(問題なのは問題自体なのではなく、
自分が問題を抱えているという事実に
気づかないということです)
他人から理解されない、愛してもらえないという
不平不満を持つ多くの人が…誰でもない自分自身が、
真の理解や愛から自身を遠ざけ、
「他者から愛されない理由」
を創り出している原因だという事実に気づいていません。
そのような状況を受け入れられないまま、
理解されない苦しみや愛を得られないという
飢餓状態の中にいるのです。
でも、本当のところ、
自分を飢えさせているのは自分自身で、
ほんの少しあたりを見回し、
目を見開いて探すべきところを捜したならば、
空腹を満たすべき捜していたそれは、
ものすごく身近なところにあったりするのですけどね。
うん。
世の中、自分が愛されないことに対して
腹を立てている人ばかりなんでやんすのよ。
さて少し話は180度変わって
私は幼児の頃、野犬の群れに襲われて、
全身を噛まれたことがあったりします。
もちろん入院してあちこち縫いました。
現代では考えられないことですが、
当時は犬を繋いで飼うということが一般化していず、
また処分場に持ち込む以前に犬をそこら中に捨てる人が、
今以上にたくさんいました(それが昭和の時代というもの)
そして捨てられた犬たちが徒党を組んでたむろしている、
という風景が珍しくなかったのです。
(もちろん社会問題になっていたとは思います)
何故襲われたかというと
カルマ的な理由がそこにはありましたが、
それは少し置いておいて…
(実は犬に襲われたのは以前以後もあり、計4回ほど)
怖ろしい経験をしながらも、完全に犬を嫌いになり、
触れられなくなるほどの拒絶反応が出なかったのは、
自宅や親の実家にてリアルタイムで
飼い主に忠実な犬を飼っていたからでしょう。
(私が襲われている時、愛犬は大きな声で吠えながら、
鎖を引き抜いて駆けつけようともがいてくれてましたから)
そのような事由で、
私は基本的に犬好きですが、だからといって、
咬まれたときのあの恐怖を完全に忘れたわけではありません。
今となっては大昔の、記憶も朧げな幼少期のことですけど。
でも、犬好きで犬飼いをしている人の中には、
そのような他人の恐怖に対し、無頓着で無関心な人もいます。
「うちの子はとってもおとなしい」と信じて疑わず、
「うちの子に限って」と考えがち。
まあ、昨今は人を咬んだら、殺処分の対象になってしまうので、
そういう観点から真の愛犬家な人たちは、
自己防衛を十分になさっていますけれども。
「犬に襲われたことがある」「咬まれたことがある」
と言っても、その恐怖を理解してくれない人もいます。
「私もうちの子に噛まれたことあるよ」と軽く捉える人も。
甘噛みをされるのと「何頭もの犬に襲われて全身咬まれた」
という状況はかなり違いがあるのですが…。
「犬を飼ってたことがあるなら、全然平気でしょう。
うちの子はとっても利口で可愛いのよ。
平気、平気。触って御覧なさいな、
抱っこしてもらいなさいよ、〇〇ちゃん」
そんなことを言って、
歯をむき出してキャンキャン吠えている犬を
抱かせようとする人に会ったこともあります。
でも自分が子犬の頃から飼っていた家族たる犬と、
他人の愛犬とは全く違う犬です。別の犬です。
初対面から親愛の情を示してくれる、
人懐っこい、優しい犬なら、触れ合えますが、
そうでない排他的で攻撃的な犬には、
過去の恐怖がフラッシュバックするだけだということを、
類似の体験をしたことのない人には
なかなか理解してもらえません。
その他、車の同乗事故の経験もあります。
自爆事故ですが、車は大破してスクラップになりました。
助手席にてフロントガラスが割れて、
その中に突っ込んで気を失ったものの、
額を切ってしまったのと全身打撲で済んだのは奇跡でした。
その後、何年も車に乗ることはもちろん、
近づくことも出来ませんでしたが、
何とか克服することができて、
相手が信用できる人なら助手席に乗ることは出来ています。
でも、あの時の事故で死の一歩手前に行かされた恐怖が、
私の中から完全に消えてしまったわけではありません。
そのことを説明しても、
神経質で心配性だ程度に受け止めるだけで、
わかってくれない運転手がいたりします。
「それなら、仕方ないね」ではなく、
「俺の注いだ酒が飲めねぇのか!」とばかりに、
自分の運転(技術)が信用されないことに、
不平不満を隠さない人も。
まぁ、でもそれは仕方がないことです。
理解してもらえないことに、
残念さ、少しの悲しみと虚脱を覚えたとしても、
怒りを覚えることは間違っています。
人はそもそも理解し合えないものであるとの前提で、
「理解」を相手に求めるものではありません。
でも、少しの失望や傷つけられた気持ちを抱くことも、
また仕方のないことです。
「だめだこりゃ」と呟いて、あきらめる他ありません。
もちろん、
説明をするなど、理解を求める努力は必要で、
対等な関係と考えるなら、
理由を説明するのは相手に対するマナーでもあります。
コミュニケーションはとても必要なもので、
人生においてその価値は十分にあるもの。
しかし、
試みた上で相いれないのならもうしょうがないのです。
そもそも それがどんな体験であったとして、
他人の体験や心象風景なんて
完全に理解できるものではないでしょうし、
理解してもらおうなどという考えも間違っています。
他人の言葉や心象風景を理解しようと思ったら、
自分が過去に体験した、
類似の事象で味わった感情の記憶を引っ張り出してきて、
状況や感情を照らし合わせて、想像することしか出来ません。
それが出来ない人を責めることなど出来ません。
こちらの話や言い分に、
いちおうの耳を傾けようとの姿勢を取ってくれるだけ、
ありがたいと言えるものかも知れません。
人は話し合わないことには理解し合えない生き物ですが、
話し合っても理解し合えないことも多く、
互いの感覚や意見の相違を尊重しあえず、
立場を理解し合えない者同士もたくさん存在するのです。
誰だって自分が一番正しい、のですから。
自分以外の人のことなどわかりようもなく、
基本的にはみんな他人のことには関心がありません。
相手の考えや気持ちなど知ったことではないという感じで。
(片思いをしている間、相手を口説こうとしている時だけは、
他人に対して最大限の関心を示したりするものですが)
とにかく、自分の意見が通ること、
自分が尊重されること、自分の正しさが証明されることばかり、
人は熱意を注ぎ、そこに人生最大の関心を置きがちです。
自分の意見を押し通すためなら、
他人の人権を尊重することなど宇宙の彼方に飛ばし勝ちです。
自分の感情を満足させられさえすれば、
他人の気持ちや意見は無視してもいいと、
他人はその犠牲になってもいいと想いがちなのでしょうか…。
意思の疎通を行い、
分かり合うために「言葉」というものが存在しています。
ですが、
人は他人の言葉を自分の都合の良いように受け取り、
解釈してしまうというクセも持っています。
全体を理解せず一部の表現や言い回しに過敏に反応したり、
欠点やコンプを刺激されて自分が責められているかのごとく
被害者意識や妄想で反応してしまったり等。
後は勝手に内容をまるごと誤変換、てのもありがちです。
お互いの立場や心情を伝えあい、理解し合うために、
言葉を用いて話し合いをするわけですが、
言葉に対する反応や解釈の違いから、
話し合うことでかえって誤解を生んでしまったり、
収集がつかなくなってしまうこともあります。
なかなか難しいものです。
そして人は相手の反応に傷つくのです。
理解されないことに…
共感してもらったり、同意を得られないことに対して、
相手の自分への無関心さや存在の耐えきれない軽さを感じて、
傷付いてしまうのです。
でも、それは決して、
どちらかに罪があるわけではないのです。
誰が悪いということではないのです。
きっとどちらも悪くありません。
でも誰しもが皆に理解されたいと望んでいます。
とくに自分が愛する人に自分のことを理解されたがっています。
すべての人が自分を理解してくれる人を求めています。
理解は愛と同意語です。
それがゆえに悲劇は起こるのです。
相手の意思疎通能力や理解力を考慮した上で、
相手を説得し納得させる物の云い方や言葉選び、語意表現、
こちらが伝えたいと思っていることを
相手の脳裏に連想させる話術や論法よりも、
得てして人は「自分の内的心情を表現すること」
にみんな一生懸命です。
自分が理解されることを求め過ぎるがゆえに、
詳細な心的表現をリアリズムに求めすぎた結果かも知れません。
理解されたいがために相手を理解することを怠るのです。
理解されたいなら、まず先に相手を理解しなければなりません。
そして理解されることを求めたり、
相手が自分を理解してくれることを期待してはいけないのです。
これは
愛されたいなら、まず先に相手を愛せ、と同じことです。
愛されることを求めたり、
相手が自分を愛してくれることを期待してはいけないのです。
人は愛されたい生き物ではありますが。
愛を求めるがゆえに自らを傷つけ、
愛されない、愛されていないと思い込むことで傷つきます。
愛されたい、
理解されたいと努力することは悪いことではありません。
願う気持ちに罪はありません。
その想いが努力と向上心につながり、
自らを高みに押し上げることになりますから。
ただ、愛や理解を過度に人に求め期待し過ぎることで、
人生の目的や方向性を見誤ってしまい、
自分自身を不幸にしている人はあまりにも多いのです。
他人に求める前に、
まず自分の中に求めなければ決して人は、
本当に自分の欲しいものを手に入れることは出来ません。
愛されたいなら、まず自分を愛すること。
理解されたいなら、まず誰でもない自分自身が、
自分自身の理解者となって、深く自身を理解してあげること。
そして、その次に他人を愛することを覚え、
他人を理解するように努めるべきなんです。
自分の中に愛や理解力、
他者に対する思いやりや共感性、想像力がないことには、
いつまで経っても、
外からの愛情や理解を得られることはないでしょう。
期待しては裏切られた…と。
自分が欲しいと思っている言葉を相手から聞くことが出来ず、
優しくしてほしい人に、求めている優しさはもらえず、
他人にして欲しいことやかけてもらいたい言葉は得られず、
結果、自分は孤独で独りぼっちだと、
自分を分かってくれる人はこの世にはいないのだと、
世界中が自分に無関心で冷たい人たちの集まりであると…
世間を逆恨みしたり、自死を選んだり、
他人の注目や関心を得るために虚しい自己演出に走って、
自分らしくない、他人の期待に応えるためだけの
(他人の愛情を得るために)
偽りの人生を生きることになってしまいます。
love me ,like I love you
私がアナタを愛するようにアナタも私を愛してくれる?
って、こんな歌詞及びタイトルの昔の歌がありましたが、
恋愛にしても何にしても、人は愛や理解を人に求めるとき、
上記のセリフは大概、
「私が欲しい(求める)愛をあなたは私に与えてくれる?」
という意味で使われがちなんですよね。
自分がしてもらいたいことを相手がしてくれるか否かがすべて。
自分が欲しい愛の表現、それ以外は愛ではない。
そうみんな捉えるわけです。
自分の要求を叶えてくれることが愛で、
自分の要求を叶えてくれない態度や言動は愛とは皆思わない。
相手の考える愛や理解が、自分とは違っていたらもう
相手は自分を理解してくれないし、愛してもくれていない、と
相手が考える愛や理解を認めず、
それは「愛や理解ではない」と決めつけてしまうわけです。
だから自分は「理解されていない」し、
「愛されてもいない」になってしまう。
自分の頭の枠の中で考えている、
定義づけている愛や理解が、
世間サマや愛や人生から得られない、と、
人はこの世には愛も理解もないって思っちゃう。
ものすごい思い込みで劇場型自己完結です。
存在しないわけではなく、
誰でもない自分が、存在しているものを
見えてない盲目状態なだけなんですが。
人から愛されないと…
必要とされていると感じられないと、
ほとんどの人が生きる意味を見いだせないものですが、
それにはまず、誰でもない自分自身が、
自分の味方になって、自分の存在を肯定し、
自分自身を一番に愛せていないと、
人から愛され、必要とされる存在には成り得ません。
他人から提供される愛や理解されることの中に、
自らの存在意義を求める…
(誰かに認められたいという承認欲求)
ということをいつまでもしていると、
永遠に、
誰にも愛してもらえない、理解してもらえない、
そんな自分ではダメだ、生きる価値も意味もない存在だと、
という自己否定の中で生きることになり、
メビウスの輪で追っかけっこをするがごとく、
一番自分が求めていて、欲しいと思っているものから、
どんどん遠ざかるばかりです。
愛されたいなら、人を愛することのほうが先
理解されたいなら、人を理解することのほうが先
誰だってご褒美のほうを真っ先に手に入れたいし、
愛されたり、理解される経験があるからこそ、
愛することも理解することも出来るようになるって、
もう考えがちなんですが…
残念ながら、
人間は自分の中に存在しているもの以上のものを
この物質社会で具現化された事象として
体験することは出来ないのです
ホンモノを知りたければ
まず自分自身がホンモノにならなければ
決してホンモノを知ることも出合うことも出来ない
とエドガー・ケイシーも言っていましたが。
自らが他人にしてあげたことしか、
他人から何かされることはない
人は、自分が他人に与えたものしか、
人生で受け取ることは出来ない
悲しいかな、これって法則だったりします。
だからまず、
愛が欲しいのならば、自分の中にある愛の種を探し出し、
その種に水をやって育てる必要があります
他人に自分の内的世界や体験、立場を理解されたいと
そう願うならば、
自分以外の他人を理解しようとするべきです。
外に求めるのではなく、自分の内側に求めるのです。
大丈夫
誰もが自分の中に「愛」を持っています。
ただ忘れてしまっているだけです。
エゴイズムに隠れ、埋もれてしまっているだけで、
深い深い地層の底の底から、
いつかその「愛」を発掘することが出来るでしょう。
あなたがそれを心底願いさえすれば…
※ちなみに私が犬に襲われた理由は、
私が出しているエナジーのせいです。
恐怖で怯える被害者意識のエネルギー。
犬はこれによく反応するんですよ。
(カリスマドッグトレーナー、
シーザー・ミランの番組や著書を見るとわかりやすいかと)
何しろ狼やクマに食い殺された過去生がありますからね(苦笑)
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