2018/07/20

愛の泉の限界点

何故奥様は
アーサーを追いつめてしまったのですか
アーサーは誰よりも奥様の幸せを願ってきたのに
奥様 
奥様はこの20年間…
アーサーにどんな夫になって欲しいのか
伝えたことはありましたか

理想とは程遠かったですか
夫として受け入れられませんでしたか
夫として愛せないなら
温かな食事と清潔な寝床
ドレスに娯楽
望むままに何不自由なく
分け与えてくれる家族

友人としてならどうでしたか
友人としても失格でしたか

アーサーに友情のかけらすら
感じませんでしたか
友人としても失格でしたか

アーサーに友情のかけらすら
感じませんでしたか
友人としてアーサーに
うわべだけでも
接してあげようとも
思わなかったのですか

貴女は盗まれたくなかったんですか
手に入れたままでいたかったんですか
貴女はアーサーの心を自分のものだと
そう思っていたんですか

それは
その…感情は
何と呼べば正解なのですか
もしそれが愛だというのなら

愛だというのなら
何故アーサーに手を差し伸べて
あげなかったのですか

彼を傷つけたら
殴りつけたら
もっと愛してくれると思いましたか
切り裂いたらもっともっと愛してくれると

幼い子供が
親を傷つけて愛を確認し続けるように
貴女はアーサーの惜しみない愛を
返す事無く飲み干すだけ枯らせました

まだ試し足りませんか

愛にも終わりがくるものです
彼の心を砕いたのは
奥様 貴女です

 by船戸明里「Under the Rose」より引用 


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

他人の気持ちや好意、愛を試す人がいる。

これでもかこれでもかと、相手を痛めつけて、
わざと嫌われるように…
自分を憎ませて、侮蔑感や怨恨を植え付けるのが、
さも目的であるかのように振舞って、

相手からの自分に対する、
一滴の同情や憐みの欠片すらも
奪い尽くすことに成功して…

相手から愛情の泉を日照らせ、
その井戸を枯渇させたのは
誰でもない自分であるというのに、
そう仕向け続けたのは自分自身のなのに、

それでもなお、
まだ自分が相手から赦される存在であると、
自分がほんの少し改心しただけで、
相手が両手を広げ受け入れてくれるものだと…
過去そうであったように満面の笑顔を向けて、
自分を愛してくれるはずだと信じて疑わない人がいる

まるで自分のほうにだけ、
決定権や拒否権が存在しているかのように、
相手にも意志があり、感情があるということに無理解で。
そのようなことに無自覚で…

ある日突然、当の相手から拒絶されたことに対して
茫然自失とばかりに驚き、信じられないという顔をする。
そして、そのことに対して、我が身の行動の振り返りなど、
これまでの自分のやり方についての、
後悔や反省へと繋がっていけばいいのだれども、
困ったことに「お試し行為」をするほとんどの人が、
自分が相手(他人)から嫌われた理由や
避けられたり拒絶されたりする原因について、
客観的に自己分析したり内省するようなことをしない。
そのあたりはもう絶望的なほどに。

この手の人のことを、ボーダーとか自己愛性とかの、
人格障害と片付けてしまえばそれまでなのであるが。

スピリチュアリズム的には、
エゴイズムのエレメンタルに支配され、操られた人々…
ということになるし、
チャクラがぶっ壊れて修復不可能になってしまった人々、
という話になる。

(中には他者意識(いわゆる霊や悪霊、悪魔、動物霊の類)などに
取り憑かれている人もいたりする)

完全に自分(自己)を見失ってしまっているなら
それはそれで仕方がないとも言えるけれど、

自らの愚かな行動に薄々気づいていたり、
親しい人々、身近な人が自分から離れてしまっていく段階で
そのことに傷つき、気に病むことの出来る
理性がまだ残っている人であるならば、
それでもまだ
自らの行動を改める努力ひとつしないのだとしたら、
それはもう完全に自業自得で自己責任というしかない。
でも、それでも最後の悪あがき的に誰か他人のせいにして、
相手の問題だけをあげつらい、
「私は悪くない」と言い張る人も少なくない。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

悟りに達し、解脱に達した聖人君子なら、
どれだけの粗雑な扱いや残虐非道な辱めを受けたとしても、
その相手の手を取り、その足を洗い、口づけをして、
慈悲と慈愛を与えることも出来ようが、
普通の人は…
いやさ霊的な道理を学ぶ途中過程にあるものであってさえ、
愛や寛容には上限がある。

仏の顔も三度まで…ではないが。

散々あれやこれやされたあげく、ここまでされたらもう無理!

という限度に達する瞬間がいつかは訪れる。

愛は確かに枯渇する。

男女間であってもそうだし、友人間でも、家族の関係性でも。
他人同士、利害関係で結ばれた者同士や、
ボランティアであったり、主従関係でもそう。

愛情は…いつまでも無くならないものではなく、
いつかは目減りして枯渇してしまうものです。

男女間のホットな情熱もいつか冷めてしまうように、
人と人との関係性の中にある「愛」も「情」も、
枯渇して干上がってしまうときがあります。
モノに対するものであってもそうです。

いつも与えるばかりで、
決して相手からは与えてもらえなかったり、
ちっともそれに応えてもらえなかったり、
奪い尽くすだけ奪い尽くし、他人の信頼を裏切り、
いつだってクレクレばかりで、
何をしてもいい相手とばかりにいいようにされるばかりでは、
与えがいもないし、尽くしがいもない。

見返りを求めて、
相手に何かしら"与え尽くした分"と等分の、
"与えられ尽くされる"ことを求めているわけではないにせよ、
最初からそのつもりで、
計算づくに近づいたり関わった人間関係でなかったとしても、
純粋な好意と人としての親切、
思いやりから出た行為であるにせよ、

一方的な関係というのは虚しいもの。


どんなエネmeな人であっても、
ある日突然に搾取され続けている己が身に、
ハッと気づかされる日が来る。

これまで自分が与えたことに対して、
一度も相手に感謝されたことがないことに。

そして疑問に思う。

何故こうまでして
自分の想いは踏みにじられなければならないのか。

何故どうして、
相手は自分に対して一片の感謝すら示さないのか。

はるか遠く前に、そんな言葉を聞いたことはあっても、
自分はその言葉をよすがにしていただけで、
時間は流れ、言葉の効力はとっくの昔に無くなり、
いま、の私には一かけらの「愛」も「感謝」も、
与えられていないことに。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

自分を真の意味で愛しているならば、
自分を真の意味で愛してくれる人がわかる。

自分のことを大切に想い、
自分にとっての幸せが何なのかを、
よく理解しているのであれば、

本当に自分を愛し、大切に想い、
誠実に接し、いつわりのないの心を見せ、
真実(まこと)の愛情を与えてくれる人が誰だか、
見抜くことはそう難しくない。

自分をイジメ抜きたい人だけが、
いつわりの、まやかしの関係に魅入られ、
自分を破滅に導く、誤った関係に堕ちて、
その呪縛に縛られていく。

自分の幸せを願わない生き方、考え方が、
自らを不幸の選択へと歩ませる。

黄金の心はおろか、真実(まこと)を持たず、
誠実さのかけらも、愛も感謝もない、
何も与えず、他人から奪い尽くすだけの存在。

人により多くを与えたいと思っている人に限って、
そんな虚飾を見抜けず、罠に陥ることもある。

同情を愛と錯覚して。

でも、同情は同情でしかない。

本当の愛は対等なものだ。

本当の愛は、
いっさいを奪わないし、奪われることもない。
与えても減ることはなく、むしろ倍になって戻ってくる。

そして、真実の愛は、双方を満たし、幸せにする。
真実の愛で結ばれた関係は、周囲をも豊かにする。

もし、自分の愛がそのような関係でないのであれば、
互いを映す鏡の中に曇りがあるのだろう。
時に歪みさえ生じているのかも知れない。

共依存であったり、
どちらかが従属する支配的な関係であったりといった、
不健康な関係性。

お互いの存在の中に自分の問題を見出すための、
ダークサイドの「投影」としての、
具現化されたレッスンの相手かも知れない。
あるいは、過去生の因縁や負債で結ばれた、
カルマのレッスンがその関係性にはあるのかも知れない。

手放すべきか否かもし迷ったら、
こう説いてみるといい。

「この関係から私が得られるものは何か」
「この関係は私自身を成長させるものなのであろうか?」
次に胸に手を当てて、
「この関係に"愛"はあるのだろうか?」

胸が苦しく、辛いだけならば…
むかし確かにあったと思われる"愛"のかけらすら、
今の自分の中に見つけることが出来ないのであれば、

それが正しい応えである。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

いかに昔、情熱的に愛し合った二人でも、
その時に永遠の愛を言葉にし、誓い合ったとしても、

情熱はいつしか醒めるものである。
まして男女の性愛的なものなら…2年が限界で。

愛には色々かたちがあるし、
時の経過とともに、人の心もやがて変化していく。

釣った魚にエサをやらないと死んでしまうように、
人間同士の関係も生き物だから、
愛や感謝を継続的に与えないと「心」は死んでしまう。

愛情は「心」と「心」の結びつきなので。

相手に対する「感謝」の気持ちや「尊敬」の念、
相手の人間性を「尊重」する態度や思いやりを日々示すこと。

愛され続けたいのであれば、
相手から必要とされる人となり、
愛される人であり続ける努力というのは必要不可欠で。

でも、それをしないで「愛されて当然」とばかりに、
自分を愛せなくなった相手、
自分に対する愛を枯渇させてしまった相手のことを、
何で自分のことを愛さなくなったんだと責め、
昔自分に惚れて口説いてきたのはお前だろうとか、
一生傍にいると言ったクセにウソツキだと…

そういうのは間違っている。

その昔は確かに相手の中にあった、
「愛の泉」を、
一滴の水もない状態に枯渇させてしまったのは、
他の誰でもない、自分自身だったりするというのに。

すこーしずつ毎日すこーしずつ
蒸発させて、泥を投げ込んで、
追加で水を与えることもせずにいたならば、

どんな井戸だって枯れてしまう




"自分の人生において考えるべきことは、
 何を受け取ったか、ではなく
 何を与えることができたか…である"


"人は自分が他人に与えたものしか、
人生から何も受け取ることは出来ない"


人生における真の幸福、真の豊かさとは、
与え、与えられる幸福を知ることである

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