2017/12/23

S・C・F番外編「嫉妬は時空を超えて」

また間が空いてしまいました。
そして久しぶりのスピリチュアルカルテ番外編。
友人の話です。
本編は、許可をもらっているのでそのうち書きます。
まずはその周辺の話から。

友人がとある場所から戻ってきた直後、
「なんかヘン。ふらふらする。
 みんな(仕事仲間)にも様子がおかしいって言われる。
 おまけに胸にぽっかり穴があいたみたい」

ちなみに音楽家である友人は、
仕事で地方に行くことが日常茶飯事だったりします。
チャットで会話している限りでは、
離魂病を起こしているのかなあ?とも思ったので、
とりあえず足裏マッサージとか受けておいて~
…とアドバイス。
ごく初期の、軽度のものだと、
それだけで改善することも多いので。

シャーマン体質の感じやすい彼女のこと。
まして彼女にとって曰く付きの場所に行くことになるので、
(そのあたりは本編にて)
なんかしら大なり小なりのトラブル予測はついていましたが。
でも、これまで自力で何とか乗り越えてきた人だったので、
私が手助けするほどではないかなあ、とも。

実際、彼女は胸にできた穴の原因ではないかと思われる
過去の出来事に対して、セルフヒプノを試みたそう。
そして二つの過去生にアプローチして書き換えをし、
それで解決と思いきや…

「おかしい…なんかスッキリしない」

で、結局お客さんとして来ることに。

彼女が仕事帰りだったので、
まずは「夕飯を食べよう」とうどん屋に。
顔を見た瞬間、「ありゃ」と思いましたけども。

海老アレルギーのある彼女。
かき揚げに海老が入ってないことを、
店員さんに何度も確認し、注文するも、
食べ始めるとなんと、桜エビが入ってるっっ
それに気づいたものの、取り除いて食べようとする。
フリーズする私。「エピペン持ってるの?」と聞くも、
「持ってない」

「ぎゃー!(心の叫び)」

自殺行為や。

とりあえず、少し粘膜が腫れる程度で済みました。


落ち着いてから、さてセッション。
問題の本質である過去生はセルフヒプノしたから、
とりあえず今回必要ないとは言うけれど、
どうしても気になることがあったので、
色々とチェックしていくと、
前回セルフヒプノした二個の人生のパーソナリティが、
書き替えられた人生(彼女が創った新しい物語)に
どうにも納得していない様子。

本編に書くのでここでは省略しますが、
ようするに、
その物語って今生の彼女の視点で作られたもの。
過去生の彼女の視点ではないわけです。
あくまで私の友人が
「こうだったらいいな」と思う過去なわけで、
過去の彼女が納得する自分の人生ではないわけです。

過去生と言えども、今生の彼女とは別人格。
同一人物であっても同一人格ではないので、
同意見、同じ性格というわけにはいきません。
まして現代に生きる私たちとは置かれた環境や時代、
そして価値観や倫理観が違います。

過去生を昇華させようとするとき…
すなわち過去生ヒーリング(解放)をするときには、
このことに留意しないといけません。

ぶっちゃけ、
霊を上げる(成仏や浄化)させるときと同じで、
その人を納得させ、説得する視点でないと失敗します。

今生のその人が納得する過去のストーリーではなく、
過去のその人が納得するその人のためのストーリー。
それを一緒に紡いで、導いてあげないと、なのです。

とりあえず、友人が創ったものではない、
新しい、過去生の彼女も、現代に生きる友人も納得する物語を、
もう一度創り直して、とりあえず一段落。

でも、その後がメインだったり。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて、
過去生ヒーリングやヒプノセラピーをするときには、
いきなり本題に入るのは危険です。

過去生をいじるということはエレメンタルをいじるということで、
なおかつ書き換えをするときには、
大量にエーテルバイタリティー(氣)を消費することになるので。
事前と事後でマグネティックヒーリングをしないといけません。
でないと、
クライアントを心神喪失や精神的危機に招くことになります。

このあたりを分かっていず、
過去生セラピーの後、クライアントにダメージを与えている
セラピストが多いのは実に残念なことです。

ベッドに横になってもらって、
友人に氣を流しながらマントラを唱えると、
彼女の中に一時的に寄生した「ソレ」が出てきました。

このあたりの話もかなりはしょりますが、
「ソレ」というのは霊ではなくて、エレメンタル。
さっき書き換えをした彼女の過去生のとき、
三角関係で彼女の彼に横恋慕していた人物の、
数百年の時を超えても未だ残る嫉妬と憎悪の気持ちでした。

当時男性だったその人は女性に生まれ変わってて、
その人が作ったものを食べちゃったんだそう、友人。
(当然ながら覚えてないです、その方。
今生の恋敵さんはまったくそんな意識なく、
彼女の過去生のパーソナリティである男性が
今生の友人に仕掛けた攻撃(サイキカルアタック)です。
うーん…複雑。想定外のBL。勉強不足かも)

「ソレ」が友人に、
アレルギー物質を食べさせるよう仕向けた模様。
まあ大事には至りませんでしたが。

とりあえず、「ソレ」を出して、始末つけました。
そして物理的にもいっぱい彼女には出してもらいました。
エクソシストみたいな緑色の液体ではないです。
トイレでゲーゲー それで済みます。
何しろアレルギー物質吐いたほうがいいし。
吐くのも体力消耗するし、しんどいですけどね。

教訓「嫉妬は男も女も怖い」

てな感じでしょうか。

まあ、昔から魔術や呪術の世界では、
食べ物に何か仕込むのは(毒じゃなくて)、
よくあるお約束でありますから。
それに作り手の「氣」が入るのは確かだし。

なので自分を(が)嫌いな人からの食べ物やギフトは
絶対に受け取らず、まして相手が創ったものは
食べてはいけないってハナシ。
何入れられてるかわからないから。


この日はそんなこんなで憑依したものを引っ張り出して、
とにかく氣の補充、補充、補充。

そしてその後、
別の日に第一チャクラの掃除が必要だなって、
始めたら濁流のようにドバドバと色んなもの出て、
ビックリした。

で、エーテルダブルにたまっているゴミを何とかするのに、
幽体離脱させられてた友人…
(ヒーリングにはそのほうが都合がいい。
20cmくらい浮かされてたそう、リアル実況してくれた)。
耳元で宇宙人のような奇妙な話声がすると。
それは怪音波のような幾何学的な変なものだと…

「バッハの、宗教音楽で、パイプオルガンの
パラピレパラポリラ~♪ みたいな
あっちこっち音階が飛んでいるような曲じゃね?」
と言ったら、そんな感じかも、と。

はい、それは一部の人がエノク語と呼ぶものです。
なんてラッキーなんでしょう。
それは大天使たちの話声です。
滅多には人間の耳で聴きとることは出来ませんのよ。
滅多つーかほとんど、だけど。

ヒーリングには大天使たちの関与が必須ですからね。
(彼らが手伝ってくれないと肉体の修復はできないし、
それが彼らの役割でメインワークだから。
そう、命を創ることが大天使たちの仕事。
人間の願いを叶えることなんか彼らの眼中にはない。
多くの天使は理想化されたファンタジー。
人々の幻想が創り出した妄想の産物でホンモノじゃない)

大天使たちの言葉は人間の言語とは違う、
ぶっちゃけ「音」ですから。
向こうにこちらの意志は伝わっても、
彼らの言葉を人間が解することはほぼ不可能です。

※バッハの宗教音楽の音階は天使の言語に極めて近い。
とくに歌なしパイプオルガンのソロ?
天使と会話するための音楽って感じで。
彼ら(天使)を鼓舞し、呼び寄せ、コミュニケートし、
喜ばせるためにああいう曲調なんだと思う。
私は音楽としては聴くことができないんだけどね。
まぁ、バッハは天使の存在を認識できる人だったからさ。

それを聞くことができた友人は超ミラクルラッキー。

聞きたいと思っても聞けるものではないんで。
もしくは聞いても、それと気づく人もいないんで。


とりあえず友人の状態は無事回復。
年末の多忙な仕事もなんとかこなせている…のかな?

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

こちらのブログで「私は霊能者じゃないしー」と
繰り返し何度も言っている私ですが。

なんだかんだ言いつつ。
その手のことをしているのが実情ではあります。

そうですね、必要に駆られて、といいますか、
なんといいましょうか。

でもあくまで、
私のところに回ってくるのは、
たぶん私に対処できるレベルなんだと思うのです。

そちらが専門とは思いません。
私自身が処理しているのだとも思いません。

たまたまご縁が合って、
うちにいらっしゃるお客さんの問題の背景に、
霊的な存在が関与しているとか何とかって時にだけ、
たまたま何とかできてるってことだと思ってます。

だから積極的にそれを売りにしようとは思いません。
確かに対処はしているけど、できるとはいいません。

今までのもまぐれだと思っているし、
すべては、私を助けてくれている
透明なヘルパーさんたちのなせる業なのです。

だから私の能力じゃあありません。
なので、そっちでお商売をするつもりはないのです。

2017/11/28

原始女性は太陽であった~女性蔑視と慰安婦問題

私はフェミニストというわけではありませんが、
世界的に見て、女性の地位はまだまだ低いなと思います。

それでもまだ日本は男女同権と法的には扱われていて、
優遇されたり守られたりしているところもあるから、
第三国に比べるとかなりマシなほうなのでしょう。
カースト制度の根強いインドや東南アジア、
アフリカやイスラム教の国々などの現状を鑑みると、
事実そうなのだと思います。

でも、ネットの女叩きとか、
一向に減らない痴漢やわいせつな犯罪行為、
政治家やお偉い方たちの女性蔑視発言、
嫁を奴隷と思う人々が相も変わらず存在すること。

もっとも安全で文化的な先進国と言われるけれど、
実態は100年前とあまり変わってないようにも思います。
いやそれでも「良くなった」ところのほうが多いのですが。
中身が伴ってない、というところで。

男性も「社会に出れば7人の敵がいる」との諺通り、
イジメにも差別に合うというところでは一緒です。
痴女もいて、男性が性被害にあうことも少なくありません。
「男はかくあるべき」という社会全体からの
ジェンダーに対する無言のプレッシャーもあるわけで。

男性は社会に出て働き妻子を養うべきで、
女性は家庭で家事をして男を支えるべき。
結婚したら式を挙げるべき。子供を持つべき。
結婚は家同士でするもので、子供は親の老後を見るべき。
長男が家を継ぐべき。両親は揃っているべき。
女の幸せは結婚して子供を産むこと。

(なんでもかんでも、べきべきべき…だなぁ)

そういう暗黙のルールも今や崩れつつあるわけですが、
それでもそれを守らないで外れたコースを行くと、
色々干渉されて、とやかく言われることは昔も今も一緒。

思うに、男も女もないわけで、
それは性差であって、区別であるべきこと。
男には男にしかできないことがあり、
女には女にしかできないことがある。
もちろんそのどちらでもありどちらでもない第三の性もある。

それぞれの役割分担を理解して、
各々の特性を生かして助け合っていくのが、
社会のコミュニティの理想的なスタイルかと思うのですが。

しかし人間というのは、
相手を劣勢に置くことで自らの立場を優位にし、
我が身の保身を図りたいエゴイズムを持った生き物なので、
人種や肌の色や国や民族や信仰する宗教を盾にして、
自分が属する側からのマイノリティを必ず創り出し、
偽りの矜持で選民意識と排他的感情を剥き出しに、
徹底的に相手を貶めなくては気が済まないらしいのです。

それが時に男女の性差になるわけで。

第三の性のことはおいておいて…
世には男と女の二種の性があって、
それが自らの父と母の性であるのに、
女の腹によって十月十日育まれ、産み出され、
その乳を飲んで、かいなに抱かれ、
下の世話をしてもらって、育ったというのに、

何故男という性はこれほどまでに女という性を蔑むのか。

それほどまでに自分を産んだ母が憎いのか。
自分をこの世に産んだ性に唾を吐き、足蹴にするのか。

浮気をし放題で下半身に理性のない男性が、
好色一代男だの男の誉だの男の甲斐性だのと言われ、
羨ましがられることはあっても、
同じく性に解放な女性は叩かれるばかり。
不倫のペナルティは女性が圧倒的で、
アバズレだのビッチだの公衆便所だの、
女性を貶める言葉にはキリがない。
性犯罪にあった女性はキズモノだの言われるし、
そもそもそのような暴力的な性の対象として、
どうして消耗品のように扱われなくてはいけないのか。

男でも女でも、
くだらない屑、クソみたいな人間はたくさんいる。
そのどちらにも悪い人間、善い人間がいる。
男だから特別悪いとも女だから特別良いのでもない。
それは国籍でも民族でも人種でも同じ。

日本人でも韓国人でも中国人でも、善い人はたくさんいる。
アメリカ人でもドイツ人でもイタリア人でも、
どこの国だって悪い人間はいる。
環境に影響されて悪くなる人もいる。
平和な世で善人の羊の中にいるから、
狼の仮面や牙を隠せているだけの人もいる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


日本と中国と韓国が仲良くなったりすると、
都合の悪い人たちがいたりする。
アジアが一つにまとまるより、
いがみ合ってくれてたほうがいい…と。

私たちは相変わらず罠にかすめ取られたままだ。

正直、慰安婦問題は仕組まれたものであろうが。

古今東西、女性が戦争の影において、
犠牲になってきた事実は否定できない。
男性ももちろん戦争の主たる犠牲者であるのだが。
侵略侵攻され、征服された土地において、
多くの老人や子供たちが殺され、略奪がおき、
妊婦は腹を割かれ、女性は性の餌食となってきた。

もし、慰安婦問題を本気で語るならば、
戦争の勝敗における女性や社会的弱者に対する
非人道的な扱い全体について、
もっと深く語られるべきではないだろうか。
一つの国家や民族が、一つの国家にしたことだけでなくて。

当人の意志とは関係なく女性を強制的に連行し、
性の奉仕者として屈辱的な行為に甘んじさせた
過去すべての戦争においての女性差別について…
その非道の犠牲となった世界中の女性の慰霊として、
そうした像は創られるべきであろう。

その犠牲者の中にはもちろん日本人も韓国人もいるし、
中国や台湾や東南アジアや西洋諸国、アフリカ大陸の、
あらゆる女性たちが含まれていないといけないと思う。

女性たちを贄にした加害者たる男性たちも、
それこそ日本や韓国、アメリカやドイツや
すべての国が含まれるのだと思う。

今も遠い空のどこかで、犠牲になっている女性も含めて。

一つの国が一つの国に対して行ったことだけを、
部分的に取りあげて単純に糾弾し、
いつまでも怨嗟のターゲットとして
遺恨を次世代へと受け継がせる道具にするのではなく、
女性を強制的に性的な奴隷として扱う行為そのもの、
そのことこそが問題であり、
差別と紛争と分離と対立の歴史の源の根底で、
このような女性蔑視は排除されるべき考えであると、
人が人としてあるまじき非人道であると…

そのように騒がれるのなら、わからずもがな。


なんかこの問題、肝心なことのすり替えというか、
本当に考えべき焦点からズレまくっている気がする。

例えば日本が「反核」を唱え、
被爆者たちが核の恐ろしさ、自らの体験を語ることを、
「被害者ぶって、加害者に補償と謝罪を要求している」
と謝って解釈され、捉えられてしまうのと同じくらいに。

ヒロシマやナガサキの犠牲者たち、被爆者たちは、
「よくも…」という恨み言を言いたいがために、
あの日の辛い記憶や思い出したくない苦しい体験を
後世に語っているわけではないというのに。

ただ、自分たちと同じような苦しみを味わう人々を、
二度と存在させてはいけない、
同じ痛みを誰かにして欲しくない、
過ちを繰り返して欲しくない、
原爆の後遺症というのがどれほどのものなのか、
土地や生き物が死滅し、一瞬にして廃墟になる兵器が
この世にあってはならぬと、
ほとんどの人がそれだけを訴えられているのに。
世界では曲解して伝えられ、理解されていないように。

日本がどうの韓国がどうの、ではなく、
戦争や他国による支配や侵略によって、
本来ならば起こらなくていいはずの悲劇が起きてしまう。
そしてそういった非常事態において、
女性を性の道具、奴隷として玩具のように扱う、
そういう決まりごとのような習慣、
発想がこの世にあることがおかしいのだと…

そういったことにもっと
目が向けられるようになるといいなと思ったりする。

もちろん戦争の悲劇はそれだけじゃない。
戦争はすべてを壊してしまう。
平和だけでなく、人々の暮らしもモラルも品格も尊厳も。
そして戦争は人間が人間であること自体を壊す。
人の子であり親であり友であることも引き裂いて。

てなわけでこの問題に関しては
日本と韓国は未だに戦争をしているのかも知れない。
肝心の被害者になってしまった、
女性たちの本当の人権は置き去りになったまま。
誰も本当の問題を語らないまま。

どこの国の女性たちも犠牲になっている。
どこの国の男性たちも犠牲になっている。

こんなんで今後も女たちが犠牲になることが、
終わりになる日が来るのだろうか。

女性を性の道具とみなし、
戦争になったときに公衆便所として扱う
男性たちがいなくなる日は来るんだろうか

そんな風に女性を扱った男が、
愛する女や娘が、母が
他の男たちからそんな目にあったとき、
どんな風に考えるのか、考えたのか…
どう思ったのか聞いてみたい気がする。

戦火の中だけでないけど、
児童に対する虐待も含めて、
性的な事件が起こるたびに思う。

性的暴行の加害者たち、
あなた方はあなた自身を、
あなたの母を、姉を、妹を、
妻を、娘を犯しているのだ…と。
そして冒涜し貶めているのは彼女らの肉体ではなく、
人間としての尊厳であり人格なのだ。

あなたは、胎内として還るその場所…
あなたの生まれる場所を
同時に汚していることを忘れてはならない。
あなたはあなたを休ませ、
守るはずの手を焼き切り、あなたの宿り場を貶め、
本来あなたが与えられるはずの
母の愛を奪い尽くしているのだ
そのことを忘れないでほしい


2017/10/28

人生の宝石

人は決して一人では生きていくことが出来ない。

★ ★ ★ ★ ★

唐突ですが、
皆さんには友人と呼べる人たちが何人いますか?
そしてその中に、親友と呼べる人はいますでしょうか?

気の置ける友人や仲間、
一緒にいて楽しい人、会えないことが寂しい人。
何も話さなくても安らげてリラックスできる人。
会うだけで元気をもらえてハッピーになれる人。

本音を打ち明けて、感情の裏表もすべてさらけだせて、
イヤな自分もダメな自分もお互いに見せ合って、
喧嘩もできて、本気で自分を叱ってくれる人。
自分のために一緒に泣いて笑って怒ってくれる人。
何かあったときには駆けつけてくれて、
黙って傍にいてくれる、自分を大切にしてくれる人。
優しさだけでなくキツイためになるアドバイスをくれる人。

様々な感情や同じ時間を共有して、
色んな事を話して、ともに年を取って、
未来への展望や夢、昔話を懐かしめる人…など。

★ ★ ★ ★ ★

まぁ、それはノリコがいけませんよ
わかいのにおばあさんみたいです

おぎょうぎのよい優等生みんなニガテね
おしゃれやB・Fやスターの話
とても楽しいおしゃべりです

私なんか学生時代 寮を抜け出して
シナトラのコンサート行きましたよ
みんないっしょでそれは楽しかったわ

友達を作らないのは 宝石を捨てるようなものですよ

          by 「有閑倶楽部」一条ゆかり

★ ★ ★ ★ ★

話代わって、
人の幸せってどこにあるんだと思いますか?

何が人を幸せにしてくれるのか知っていますか?

お金でしょうか? 恋人(パートナー)でしょうか?
地位でしょうか? 仕事でしょうか? 名誉でしょうか?
健康? 物質? 成功? 権力やすべてを手に入れること? 
それとも心配や不安のない状態でしょうか?
自分の望みがすべて叶うこと?

愛が人を幸せにすると答える人は多いと思います。
でも、その愛というのがなんであるかと問われると、
答えられる人は少ないでしょう。

人の幸せは「愛」にあるといえばそうだけど、
厳密には「愛」がある状態が幸せといったところで。

でも、愛されることが幸せというのでもないのです。
そもそも愛を与えられて幸せになるものではなく、
愛することの意義と意味を知ったとき…
愛を幸せと感じることができるわけで、
人を愛する喜びの中に「幸せ」を見いだせるって感じです。

とはいうものの、
私たちの云うところの「こころ」は、
実際のところ「幸せ」という感情を味わうことができません。
つまり「こころ」というものは、
「幸福感」の疑似体験ができるだけで、
それは一時的な満足感なだけであって、
残念なことに永続的なものではないんです。

真の意味での幸福感は、感情レベルで得ることはできないのです。
なので、一時的に満たされても、
恒久的なものではないから、すぐ飢餓状態に陥ってしまいます。

ようするに、
感情を満たすことは「真の幸福感」を得るにあらず、
幸福の疑似体験を一時的に与える麻薬のようなものです。

物質的なものから得られる満足感は感情を満たします。
ですが、これは本当に一時的なもので、
すぐに次の感情を満たすものを探さないといけなくなります。

男女の恋愛もまた、感情を満たすだけの、
真実の愛とかけ放たれたものがほとんどです。
だから信頼関係も壊れやすく、気持ちも醒めたり、
かんたんに相手を嫌ったり憎んだりもしがちです。
恋は誤解、愛は理解といいますが、
誤解から始まって、一時的な感情の麻薬に中毒し、
それを愛と錯覚して繋がっている人は多いです。
(それが悪いということはありません。
そうしたところからスタートする関係にも意味はあります。
恋愛や結婚という関係は、個人を成長させ、変化をもたらし、
互いにとって人間関係での大きな学びになるからです)


さて、
では人の「真の幸福」というのはどこにあるのでしょう?

それは喜びを分かち合うということ。
感情を「シェア(共有)」し、
あらゆるものを他者と分かち合うことに、
「幸福」への近道があったりします。

そして、自分を犠牲にすることなく、
他人のために生きることができたとき…
他人のために生きることこそ「喜びである」と…
魂の奥底で実感し、知ることができたとき、

人は真の意味での「幸福感」を味わうことができます。

でも、それは
「他人のためにやってあげてる」とか
「他人のためになることをすれば自分は幸福になれるんだ」
などという視点で行っても、到達できる領域ではないのです。

そこに至るまでには、
踏まなければいけないステップというものがあります。

まず自分のために人生を生きること。
これができなければいけません。
エネmeになって、
他人の支配下の中で自己犠牲を強いられて、
搾取されて奴隷のように生きる人生は、
決して「他人のために生きる喜びを得られている人生」
ではありません。

他人を差別・虐待してはいけないと同様に、
自分のことも差別・虐待してはいけないのです。

他人も幸せにするなら、自分も幸せにしないといけません。

自分を幸せにすることが、
私たち一人ひとりがこの世に生まれた主たる目的なのですから。

(もう一つ、その人のお役目を果たすことすなわち、
自分自身のカラー=創造性を表現する生き方をすることが、
魂の充足感と幸福感を得る必須科目たる条件でもありますが)


他者のためになることをして、
自分が満ち足りた充足感と幸せを感じられる。

ぶっちゃけ、
この状態に達することは「悟り」を開くことと同意語です。

まあ、はっきりいって難しいですし、
自分にはまず無理~!って思う人も多いでしょう。


とりあえずそういう人はそれでいいんです。

今生でやり遂げようと焦る必要はありません。
急にそこまで高尚な目標をいだき、
その高みを目指さして、無謀な精神修養に走らなくても、
人類みな輪廻転生を終わらせるために、
誰しもいつかはその山の頂に到達しなければならないので、
来世とか来来世とか、後100回生きればとか気を長く持てば。
数万年先かも知れませんけど。


手っ取り早く、簡単というか、
誰にでもできることで、その学びや機会を得るためには、

「仲間」や「友人」を作り、「親友」を持つことです。

人は人の中でしか学べず、成長できません。
普通の人間関係、社会というコミュニティでもまれ、
自分を形成していくことも大事なんですけれども、
それとは別に、

「友愛」という、「こころ」と「こころ」で結ばれ、
繋がっていける関係を育てていくことです。

もちろんパートナーを持って、
「恋愛」という関係性から
「愛」や「人間関係」を学ぶことも素晴らしいことです。

でも、家族ではなく、血肉の縛りのない他人同士。
同性異性の性別、職業や世代、
肩書や利害関係を超えたところでの、

共に支えあい、助け合い、色んなことを分かち合い、
互いからあらゆることを学び、与え与えられる、
友人そして親友(心友)といった関係作りは、
なかなか容易なものではありません。

失敗もするし、裏切りと思えるようなこともあるし、
恋愛と同じで相思相愛でないと上手く行かないし、
気の合う人、心を許せる人と出会える機会は、
そうそう人生であるものではありません。

だからこそ、縁を大切にして、
たくさんある出会いの中から、
自分にとってしっくりきた「ご縁」を見出して、
大切に育てて、縁を紡いでいく努力が必要になります。

結局、そこは男女間の恋愛も同じなんですけども。


確かに、
友人関係から得られる感情的満足、
色んなことをシェアする感覚も、
一時的に感情を満たす疑似的幸福感には違いありませんが、
それでも、物質的な事物や肉体的感覚、
性的な興奮やクスリから得られるエクスタシーや
エコイムズを満たすだけの疑似的充足感よりも、
はるかに本物の幸福感に近く、
なおかつ私たちの霊的な成長を促進させてくれる
人生の特効薬といっても過言ではありません。

何よりも、歌のセリフではありませんが、
誰かと繋がっている、「独りではない」という状態は、
心の平穏と安心感に繋がり、孤独を和らげますから。

とはいうものの、
ニセモノの、偽りの関係では意味がないのですが。
(妥協して相手にへりくだり、
好きでもなく尊敬のない相手に迎合し、
従属している関係からは何も生まれません。
その逆で相手を縛り付け、相手を認めず軽蔑等あるのに、
力や義理で支配しようとするような関係でも同じです。)

でも、いつわりの自分ではなく、
本当の自分を生きられるようになったとき、
似たもの同士は引き合うので、本物の出会いもやってきます。
自分の力を取り戻すことさえ出来れば…。

FBくらいしか私はやってないのですが、
SNSやツイッター、そしてLINEなどが流行り、
スマホ依存なんかがあるのも、「誰かと繋がっていたい」という、
皆孤立することに恐れを感じているという証拠だと思うのです。
自分に関心を持ってもらいたい(愛されたい欲求でもあり)、
人と話すことで寂しさや孤独感を埋め合わせたい、
…なんかまあ、それも飢餓感かな。

今の仕事ではなく、占いの仕事をしていたとき、
友達がいれば済むようなたわいのない話を、
わざわざお金を払ってしにくるお客さんもいました。

占い師に依頼する内容というより、世間話。
友達にするようなちょっとした相談話とか。

もちろん、
身近な人だから言えないこと、悩みもたくさんあるでしょうが、
決してそのようなものではなく、
お金を払ってまで(大枚はたいて)いう話なのだろうか?
と疑問に思うような話なんかも多くされたものです。
時に命の電話にかけるような深刻な話などもあったりしましたが。

みんな孤独で、自分の話を聞いてもらいたい、
存在や小さな思い、気持ちを分かってもらいたいんだな、と…

そういうのは、今の仕事に移行してからも、あったりします。

友達がいない、友達が欲しい。

そういう悩みを聞くこともありましたよ。


★ ★ ★ ★ ★

憎しみや怒りより、
“孤独”が人間を加害者にも被害者にもさせ、
人間をダメにもする

by 岩井志麻子

★ ★ ★ ★ ★

豆知識になりますが、

スピリチュアリズム的には、
人っていうのは、今所有している身体すなわち、
肉体(3次元)・感情体(4次元)・思考体(5次元)の3つの身体では、
実のところ、「幸せ」を感じることができません。

幸福を感じる、味わえることができるのは、
精神体(6次元)という、
私たちが上記の身体を用いて育てなければならない身体です。

知恵(思考体)を愛(感情体)を用いて、
行動・表現(肉体)していかないと、
この精神体は育ちません。

愛のない知恵を用いて行動してもダメだし、
愛だけで行動しても、そこに知恵がなければダメです。
知恵と愛だけで、行動や表現をしないというのもダメ。

真の意味の「幸福」を知っているのはこの身体です。
そして、この身体が育たないことには、
幸福感と充足感を得られず、
いつまでたっても何か物足りず、何をしても満たされず、
どこかに虚無と欠落感があり、ゴールが見えず、
魂の飢餓感のある、彷徨える人生を生きることになります。

(物質的なものは肉体を満たし、感情を満足はさせますが、
精神と魂は決しておなか一杯にはならないのです。
物質的な成功をしてもどこか虚しく、精神は満たされず、
不幸な人がいるのはこのためです。
愛=愛する存在が身近にいるということだけではないので。
なぜなら愛は得るものではなく与えるものだから。
愛は外から与えられて満たされるものではなく、
自分の内側にある愛に気づけないと充足に至らないのです)

精神体は6次元の身体(解脱した身体、悟りの状態)ですから、
ある意味でワンネスの場所とも言えます。

私たちが日々求め、欲している「幸せ」は、
この6次元にこそ存在します。

ですが、私たちはリアルで、
3次元(物質界)と4次元(想念の世界)と5次元(思考の世界)にしか、
身体を所有していず、この3つの次元にしか存在していません。

残念ながら、「真の幸せ」は、
今私たちが意識を向けている物質界たる3次元にはないのです。

それでも自らの身体、
「肉体」と「心」「思考」を大切にし、愛や知恵を育み、
それらを物質社会で行動して自らを表現していき、
自分と他人の境界線をなくして考えたり、感じたり、
(他人の身にに起きていることを、
まるで自分のことのように感じたり、
考えたりできるようになって行動できるようになること)

他人と感情や思想、考えなどを共有し、共に生き、
あらゆるものを分かち合い受け入れていく中で、
様々な事物や他者に対する理解を深め、
与えたり与えられたりする過程において、
自らが幸せになり、他人の幸福も喜べるようになり、
そして、そのような日々を一進一退で繰り返しながら、
いつの日か他人のために生きられる人生を、
それが自分の喜びであると…
他者に与え、支え、尽くし、
他人のためになることをすることが、
その中に自分の喜びがあると気づけたとき、

人の真実の意味での幸福にたどり着けたことになるのです。

ようするに、
人は決して一人では「幸せ」になれないのです。

その「幸せ」を分かち合う誰かがいないことには。

より多くの「悦び」をシェアできる人々を得られたとき、
人は、自分にとっての「幸福」を感じられる場所に、
もっとも近いところにいけるのです。

「孤独」はもっとも「幸せ」に遠いところです。
「幸せ」になりたいなら、
「孤独」から脱出しないといけません。

「独り(ぼっち)」のままではダメなんです。


ですから、まず一歩としての、
周囲の人との関係、友人、パートナー、家族との関係性、
その中で「共有できる喜び」を見いだせる人がいるなら、
その可能性を大切にしてください。

あなたの幸福のタネです。

相手が日々元気でいてくれて、
幸せでいること、満たされていること、
そして相手の笑顔を見れたことに、
悦びと感謝を覚える気持ちの中にこそ、
あなたを幸せへと導く道があります。

見知った誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、
見知らぬ誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、
それを心から喜び願い祈ることができたとき、
知る人知らぬ人問わず、
誰かの幸せのために働くことができたとき、
私たちは大きく霊的に成長していくことができます。


★ ★ ★ ★ ★

大切にしたい人がいるなら、
大切にできる間に大切にした方がいい。
仲良くしたい人がいるなら、
仲良く出来る間に
仲良くしておいた方がいい。
人間なんて、
本当にふとしたきっかけで
二度と会えなくなったりしてしまうものだから。
驚くほど簡単に
どこかへ行ってしまったりするものだから。


★ ★ ★ ★ ★

一緒にいて楽しい人ではなく、
一緒にいられないことが寂しく、
傍にいてあげられないことが寂しい人を、
友人に選びなさい

2017/10/24

会者定離~幽明境を異にす

会うは別れの始めなり。

別れの来ない出会いはない。
人は死に向かって生きており、
共に人生を生き、同じ道のりを生きていたとしても、
やがて「死」が互いの居場所を引き離す。

出会ったときから、別れは常に付きまとう。
いつか必ず別れの時は訪れる。
どんな風に「別れる」か…
互いの関係性をどんなふうに締めくくるのか、
出会いと別れまでの物語をどのように飾るのか、
心の中の、思い出という置き場所にどのようにしまい、
どう位置づけるのか…

それだけ。

どんなに大好きな相手とも、大嫌いな相手とも、
憎くてたまらない恨めしい相手とも、
憧れの人であっても、
さみしいかな、「会わない」「会えない」という選択以外に、
「死」が確実に互いの居場所を分かつのである。
別れの日は誰にでも公平に訪れる。

和解は生きている間でこそ。

「あの世」での再会なんて幻でしかない。
死んでしまえば、その人生での出来事も、
お互いのことも、何もかも忘れてしまうので。

だから、生きている間に、
仲良くできる人とは仲良くしていたほうがいい。
二度と会えなくなってしまう前に。
できるだけ会いたい人とは会っておいたほうがいい。

「別れ」の日は、望もうが望むまいが、
思いがけずあっという間に訪れてしまうのだから。

下手なプライドに振り回されて、
意地を張って、強情でいる間に、
相手はこの世から去ってしまうのだから。

すべてを失って後悔した後には何もかもが手遅れなのだから。

2017/07/29

何故、不貞はいけないことなのか

浮気をしない男性は全体の2割程度に過ぎず、
結果、ほとんどの男性というものは、
機会さえあれば浮気をする生き物なのだと言う。
女性も男性ほどではないにしろ、
仕事を持つ既婚女性の3割は浮気の経験ありで、
専業主婦では2割程度、独身女性も3割程度とやはり、
同等数の割合で不倫の経験者はいるものであると…。

こうした統計値がどのようにして取られたものなのか、
その信憑性、真偽の程は分からないが、
上記の理論で言うなら、
男女の比では男性は女性の倍以上の数が浮気をし、
主婦人口の1/3、3人に一人は浮気の経験ありという事か。
そして、浮気をする女性の割合が少ないことを考えれば、
同じ相手と関係を続ける、ということは少なく、
(浮気する)女性は全体の中で偏っていて、
その偏りの中にいる女性たちは生涯を通じて、
複数の男性と関係を持つ割合が高い人たち・・・
・・・ということになる。

もしくは男性の場合、同じ既婚者を相手にするより、
パートナーのいない独身者を相手に選んだり、
風俗などで割り切った関係を結ぶケースが多いのかも。

いずれにしても、
男性のほうが浮気、不倫をする確率は広範囲にて高く、
女性の場合、不倫人口には偏よりがあるというわけだ。


何故、男性のほうが浮気する確率が高いのか・・・

男女のこうした関係性は、
しばしば、「花とみつばち」に例えられる。

男性は、子孫を高確率で残そうと、あちこちで種まきをし、
女性は、男性を引き付けるために甘い蜜で誘惑を仕掛ける。

また、そればかりでなく原始的な本能のなせるわざで、
男は自分の子孫にとって最適な「母」になるような女を求め、
女は優秀な子孫を産むための種の持ち主を厳選し、
さらに子育てに最適な環境と自らの食い扶持を確保してくれる、
いわゆる三高な男性を他のメスと奪い合い、獲得し、縛ろうとする。

はてさて、男性のほうが共有を気にせず、
女性のほうが他者のものを奪い取ろうとする意識が強いような?

男は女の最初の男になろうとし、
女は男の最後の女になろうとする…らしいが。

まあ、いずれにしても、
浮気をしない男性は少数派ということなので、
貴重かつ希少価値のある生き物かも知れん(なんだかー)。

統計なんて誤りで、
もっと少ないものだと信じたいですが。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

私個人としては、
他人のものにはまったく触手が伸びないというか、
興味が湧かない人なので(芸能人とか憧れの人は別)、
相手が既婚者だとかパートナーのいる人となると、
「人のもん」つかその人の付属品にしか見えないので、
そーゆー経験はないが。

彼氏がいると知ってて誘ってくるヤツなんか、
「なんだこいつ」としか思えなかったですしねー
(若い頃の話ですぜ)

ただ、確かに周囲にはそういう状況はあった。
友達の中にも不倫や浮気をしている人はいた。

割り切って既婚者と付き合ってるのとか、
相手がいるのに、行きずりで遊んだーとか、
その心情を理解してあげることは出来ないんだが、
わりとよくある話と言えばそう。

占いの仕事をしていたときでも、
不倫のお悩み相談はてんこもり、でしたし~。

今でいうところの「サレラリ」話。

昔、知り合い(三人の子持ち主婦)だった人で、
旦那さんとレスとかで、
あちこちで恋の花を咲かせてる人がいた。
ちょっとどうなの?と目を細めてはいたものの、
そこまで親しい関係ではなく、
子供たちにとっては良き母親であったから、
何かそれに対して注意をすることはなかったけど。
そのうち、不倫相手の子を妊娠してしまったことで、
さすがにいい加減、関係を終わりにして
中絶すべきでは?と口を挟ませてもらった。
けれど、彼女は「命は大切なものだと思うから産む」、
自分の生き方を応援して欲しいとのこと。

して、旦那さんに正直に話して謝罪し、
ケジメをつけて離婚し、子育てするならいざ知らず、
旦那さんの子として育ててもらうつもり(托卵か)・・・と。
私は「あなたの生き方を応援することは出来ない」
そう伝えて、ご縁を断たせてもらったかな。

他、旦那さんとの関係性が冷え切ってて、
離婚を申し入れたものの受け入れられず、
その後で好きになった人もいて不倫関係になって、
慰謝料を払うから別れてくれとお願いしたものの、
それでも離婚してくれず、
仕方なく子供のために再構築している人もいる。

それと、
不倫小説の教祖みたいな某作家さんのとこには、
その世界観に酔いまくった不倫願望の強い女性たちが、
たくさん押しかけて大変だった、と聞いたことがある。
(据え膳食ったかは謎)

そして、何故か不倫体質の人っているのよねー
他人のモノにしか興味を持たず、
次から次へと既婚者に手を出す人が。なんだかー

なんだろーな、まあ、そんな風に、
身近なところでもそれなりにそうした話はあるので、
困ったことに浮気、不倫、不貞、不義密通etc...
は結構ある話で相変わらず減らない話でもある。

2chなんかではホント、この手のネタ尽きないしね。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

ただ、人の心って当人にとっても予測不可能なことで、
結婚してしまってから、本気の恋に落ちることもある。
出会うべき時期を間違えた、みたいなの。

複数の人を同時に愛せる人もいたりするし、
複数の人から愛されないと満たされない人もいるし、
その逆で誰の事をも愛せない人もいる。

恋愛フェロモンは2年が限界と人の言う。

気持ちは冷めるものでもあるし、
結婚して一緒に暮らしてから、現実を前にして、
相手に抱いていたものが妄想であり、
誤解であったことに気づかされることも多々。

いつまでも最初の頃の、
出会った当時の気持ちのままでいられるなんて幻想。

歳を取ってくると、
男性はハゲるし、お腹も出てくるし、臭くもなる。
女性も身体の線が崩れ、容貌も衰えて、オバサン化する。
(相手にいつまでも綺麗で若くいて欲しいなら、
相応の努力と金銭、生活の余裕が必要だったりする。
それを与えずして芸能人と同じレベルを求めるなかれ)

恋は誤解、愛は理解ではあるが、
恋に落ちたその日には、誤解しかなく、
相手の良いところしか目に入らないもの。
すべてを良いように取ってしまうなど、
盲目化現象に際限はない。

結婚前には両目をしっかりあけて相手を見て、
結婚後には、片目をつぶって見ないようにする。
ともいうけれど。

育ってきた環境も価値観も異なる二人だもの。
受けた躾、教育だけでなく、趣味とか嗜好とか共通点とか、
合わないこと尽くしなのに、
「好きだから」というだけの理由で無理に合わせていれば、
気持ちが冷め、夢が終わった瞬間には、日常は悪夢となる。

で、その時、どうするか・・・なんだけど。

結局は、
結婚てそういうことも想定しておかないと、なんだよね。
気持ち・・・恋愛感情が、自分あるいはパートナーのほう、
双方に無くなってしまったときにどうするか…

どのように協力関係を維持できるのか。
共同生活者としての相手をどう位置付けて、
どのような関係系を築き上げることが出来るのか。

いつまでも相手に「恋」していられたらいいし、
相手も、自分に「恋」してくれてたらいいんだけども、
もしくは「恋」から本物の「愛」の関係を育てられてたら、
家族としての人と人との絆を、育めてたらいいのだけど。
(いわゆる「聖なる結婚」てやつね)

でも、人の気持ちほど不確かなものはない。
人生に絶対はないという意味で。
人の心ほど、あてにならないものはないのだ。

先の事など、誰にも、自分にも分かりはしない。


パートナーがいるのに、
その人よりももっと好きな人が、
大切と思える人が出来てしまったのなら、
それはもう仕方がないように思う。

心を止めることは出来ないだろう。

どちらも大切とも思い、
今のパートナーに対する気持ちも嘘ではないが、
それよりも別の人への気持ちの方が大きいと、
明らかに恋だったり、愛だと確信できる場合など。

その気持ちを責めることは誰にも出来ないだろう。

互いが独身同士であれば、ことは簡単だ。
別れを選んで、より強く大切だと、
恋心を感じた相手の方を選べばいい。
(但しそれで上手くいくとは言えないし、
婚約していた場合は手順が必要だが)

だが、それが既婚者なら?
自分または相手がそうであったなら?
そして、子供がいる夫婦だったら?

ことは簡単ではない。

結婚は社会的な責任を共同で担う、契約そのものだからだ。
子供がいるのであれば、
子に対する養育義務を持つ親同士の関係でもある。


 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 

不貞がいけないとされるのは、
それが契約違反であり、信頼を裏切る行為そのものだからだ。
恋愛にしても、結婚生活にしても、すべては人間関係なので。

相手の心も人格もおのが所有物ではなく、
自らの利己的な欲望や願望を叶えるための奴隷や便利屋としてでなく、
別人格として尊重し、畏敬の念を持って接せれるか否か。
男女の枠を超えた、精神的な愛があればなおよし、ではあるものの、
それは難しいことで、とりあえずは上記さえあれば十分であろう。


他の人を愛することが罪なのではない。

気持ちには、心には罪はない。

パートナーがいるのに、誰か他の人を好きになってしまった、
その心を裁くことなぞ、他の誰にも出来ることではない。

パートナーが、
配偶者がいる人を好きになることが罪なのではない。
そこには罪はない。

その人を素晴らしいと、素敵な人だと評価し、
心奪われてしまうのは、異性としての深い愛情を抱くことは、
自然なことで、ごく普通のこと。
現実を考えたときに、
その人は結婚している、という事実があるだけ。

それはハンデでしかなく、
相手が結婚しているという事実は、
相手が障害者であったり、異性ではなく同性であったり、
相手の家族に問題を抱えている人がいるとか、
その人が経済的に自立できていないとか、
そういうのと何ら変わりがない。

相手を愛(恋)することを止める理由にはならない。

ただ、現実を考えた時に、
そのハンデが乗り越えられるものなのか、
乗り越えられないハンデなのか、そのいずれか、なだけ。

そして結婚している人であるならば、
その人とは結婚できない理由があるってこと。
恋愛対象にしてはいけない人だって、それだけ。

その人のことが好きで、愛しているという気持ちは、
胸の中に大切に収めておくしかない。

互いが独身同士であれば問題ないが、
そうでないならば、
お互いの人生を、
人間関係を壊すような関係を築いてはならない。

肝心なのは、どう行動するか。

結婚した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまうことは、
それは不幸とも言える出来事なのかも知れない。

他に愛する人を見つけてしまったとき、
今のパートナーとの関係をどうすべきなのか・・・

大いに悩むことになると思う。

今の関係を解消して、心に素直になるべきなのか、
理性で抑えて、これまで築いてきた人間関係を、
家族との関係を選択すべきなのか…

問題はこの順番なんだろう。

誰かに心を奪われたことを「浮気」という人もいる。
肉体的な関係性がないのなら、プラトニックならば、
それは不倫とか不貞とは言わない…という人もいる。
けれど、肉体の浮気は赦せても、
本気になられるほうが赦せないという人もいる。
継続的な関係でなく、一度限りの過ちなら赦せるとか、
風俗ならば仕方ないという人もいる。
風俗もダメだし、女性とご飯を食べるだけでNGという人も。

(なかにはsexの相手をするのが嫌なので、
愛人を作って他所で性欲を満たして欲しいと・・・、
そのような正妻もいたりするし、
妻が他所で恋愛するのを楽しみとする夫もいるので、
夫婦がそれでよしならばそれはそれでいいのだろう。
が、こういうのは双方の価値観が一致していればの話)

そこは各自個別の価値観なので、
それをこう考えるべきと裁定したり、
間違っている正しいとも他人が言えることではないけど・・・

さりとて、

心霊科学の視点からは、
やはり人間関係を損ねるものであるか否か、がポイント。

属する社会の法や規範(この場合は日本)に従って考えるべきで、
相手に対して不実な態度を取るべきではないってスタンス。

つまり、どうしても他に好きな人が出来てしまい、
そのことで結婚生活を続けることが不可能であると、
心に正直になりたいのならば、
結婚生活を解消したいと、誠実に相手に申し入れるべきで、
その際に己が果たすべき社会的責任を道義的に果たし、
その後で、
好きになった相手に気持ちを伝えたり、関係は持つべきである。
いずれにしても、
法的配偶者がいるうちは、性的関係を持つのはNGということ。

配偶者以外の人を愛してしまう気持ちに罪はないけど、
不義理かつ不誠実な行動を取るのが罪ってことなのです。

人としての道に反しているか否か、なんですよね、すべては。

プリン脳やラリは、物事の筋道通していない人がほとんどで、
そもそも筋道通せる人だったのであれば、
プリン脳やラリにはならないのであろうが・・・

とあるコラムニストの人が、俳優の旦那が浮気したとき、
「私の作ったご飯を食べて、私が干した布団で寝て、
 私が選んだ服を着て、私が洗ったパンツを履いて、
 彼女に会いに行くのは止めてちょうだい」
荷物をつめたボストンバッグを放り投げて、そう云ったそうだ。

なるほど、本当にそうだ。
妻は家族ではあるが母親じゃない、他人だ。
自分の世話をしてもらうための一方的な存在ではない。
相手の想いを踏みにじっていい理由など何処にもない。

不倫は不義理以外のナニモノでもない。


あともうひとつ、
不特定多数の人と性的関係を持つのがよくないって理由がある。
性病の危険性があるからってことではなくて、
心霊科学的な視点から、ね。

Sexって、エネルギー的交流でもある。
お互いの第一チャクラを通じて、
クンダリーニのエネルギー的交換が行われるんだな。
(詳細を知りたい人はクロウリーの性魔術書とか
インドのタントラとかカーマスートラとかでも読んで。
ちなみに相手から性氣を奪ってダメ人間にしてしまうための
房中術という、それに特化した性的技能の暗殺術もある)

普通に、二人あるいは複数の人間が同じ空間にいると、
互いのオーラ的領域の空間を通じて、
エネルギー(エーテルバイタリティーすなわち氣)が
交じり合って、互いに吸い取られたり吸ってしまったりがある。
(3m四方もあれば十分で、時間にして約2時間。
10mでも共に過ごす時間が長ければ確実に影響を受ける。
都会の狭いアパートなら隣、上下の部屋からもお互いに)

まして、イチャイチャしてお互いの身体に触れ合い、
Sexという行為を通じて、エネルギー交換が行われると、
マイナスの意味でもプラスの意味でも、
色んな影響を相手から受けることになる。

これが単一の相手とならいいんだけど、
同時期で複数の相手とそういう関係性を持つと、
第一チャクラがぶっ壊れることも多々。
性的関係が乱れるというのはまさに
エネルギーが乱れるってことで非常によろしくない。

結果、色んな相手から、色んなものをもらっちゃうわけです。
この場合、現実的な肉体の病気もしかり、
目には見えない良くないものもたくさんもらうことになる。
相手の第一チャクラの中にあるものとかね。
(ちなみに第一チャクラは先祖のお荷物とかある場所だからさ)

生活のためとか、それしか出来る仕事がないとか、
色んな事情で風俗や性的産業で仕事をしている人もいるから、
それは否定しない(本人が覚悟決めて本気でやってることなら)。
けど、目に見えてる身体だけでなく、
目に見えない身体も壊すことになる仕事だから、
あんまり長期間従事しないほうがいいとは思う。
当人の心身の健康のためには。


そういう意味で、愛情や心の寄り添い、
互いに対する"情"や慈しみのない性的行為は、
オーラやチャクラ、エーテルダブルなどの
エネルギーとしての身体をダメにする行為でもあるから、
むやみやたらとするもんじゃない。

恋人にしてもセフレにしても、
その期間、そういう関係を結ぶ相手は一人ってのがベター。

あんまし、あちこち飛び回るものではないってのはアリ。
どんな相手とSexをするかってのも、大事だったりする。
(だからホントにサゲ○○とかアゲ○○とかあるよ)

気持ちの良いSexって言い方もヘンなんだけど、
自分のエネルギーを高めてくれる、
良い氣の持ち主を性愛のパートナーに選ぶことって大切。
だからこそ、愛し、愛されている相思相愛のパートナーと、
人間関係を大切にして、その間はその人だけってのが正解。
恋多き女でも男でも、パートナーが随時入れ替わる人であっても、
その時期は相手が一人だけってのであれば問題なし。

独身の人でも複数の人と同時進行ってのはあまりよろしくない。
(相手がそういう人と知らず、つき合っている人は、
エネルギー的にも相手から悪いものもらって大変だ)

そして、
浮気、不倫てのはどこかで背徳的な罪悪感があり、
そこには常に負の意識がつきまとう。
互いに割り切っていたとしても。
また、そうした行為に対する
「怒り」や「憎悪」のグループエレメタルも、
そこに反応して集まってくるしね。

つまりは負のエネルギーがいっぱい集まってくる。
純粋に「本気の恋愛」から始まった関係ならまだしも、
性的な行為に耽溺していたり、遊びとしてのそれは、
さらなる負のエネルギー、退廃的なエレメンタルも
呼び寄せて、どんどん悪いものが集まってくることになる。

どちらかのパートナーの信頼を裏切り、踏みにじり、
他人を傷つけている行為には違いないから、
そうしたカルマのレッスンも背負うことになるしね。

どこかで、それは戻ってくることになる。
背負ってしまった負債から逃れることは出来ない。

他人の心を傷つけた、踏みにじってしまった罪。
人間関係を壊して、信頼を裏切ってしまった罪。

いつかそれは自分に戻ってくることになる。
他人にさせた思い、味合わせた感情は、
必ず自分も味わうことになる経験だったりするから。
それがカルマの法則というもの。

あなたが他人にすることは、
すべて未来の自分に対して行っていることなのだから。



魔女の書の第一節に書かれた言葉。

"誰かを傷つけることなく、
 汝のしたいことをすべてしなさい"


この言葉に恥じ入ることなければ・・・
それは咎にはならないけれど。

果たして、あなたの恋は、
あなた以外の誰かを傷つける恋であろうか否か。
今一度自分の胸に問うてもらいたい。



"愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
 愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、
 自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
 すべてに耐える。愛は決して滅びない"
    コリントの信徒への手紙Ⅰ 13-4-8


本当の愛はあなたを決して傷つけることなく、
誰のことをも傷つけることはない。

2017/07/25

ふたなりとトランスジェンダー

"魂"のことを説明するのは難しいが、
とりあえず、理解しやすいように、この三次元(~五次元)、
物質世界(思考と想念の世界)に存在し、表現される
私たち(一パーソナリティ)の原型、元データとしておく。

この"魂"には性別はない。
男でもなければ女でもなく、そのどちらの性別であるともいえる。

性別とは、あくまで物質世界において与えられた肉体の特質であり、
現実社会を生きる上で、肉体的特質による役割分担が必要という理由で、
便宜上、二つの性に別れたに過ぎない。

それは、
子供を宿し体内にて成長させ、産み育み保護するに適した性と、
獲物を捕り住処を作り外界の敵と戦い、家族を守るに適した性。

哺乳類において、この二つの目的を両立させる肉体は難しい。
(魚や一部の鳥類、植物は雌雄同体の種も多く単為生殖も可能だが)

この二つの性がともに協力しあって、
互いの性特有の欠点を補完し合うため、
助け合って生きるという友好的かつ協力関係を維持するために、
物質的存在(個体)としての肉体から、
次の生命を生み出すための行為が快楽を伴って存在するとも言える。
(こういう固い言い方をすると身も蓋もないけれど)

胎児は「人間」の形骸を要するまでに様々な変態をするが、
その過程において、染色体の配列に従い、
メスのままでいるものと、メスからオス化するものとに分かれる。
つまり最初はすべて「メス」であって、
「オス」は変態によって「オス化」した性なのである。

そして稀にその変態の過程で「オス化」に失敗するものがある。
染色体の配列に異常(キメラ)があって、そうなるものもあるし、
宿り主である母親の精神的ストレスによって、
「オス化」が上手く行かないこともある。

この「オス化」の段階が何処で止まってしまったのか…
それによって「メス」であり「オス」でもあるものになったり、
性同一障害など心と身体の性の不一致に悩む者が生まれる。

男性のほうが女性に比べて精神が脆く、ストレスに弱いのは、
変態時に「オス化」によるダメージによるものらしく、
生物学的な理由によるものとのことだが真偽は定かではない。
(確かに心が女性なニューハーフのほうがゲイの人より、
精神的に逞しい←限りなく女性寄り、なのは納得がいく)

男性脳、女性脳といった、脳の使い方の特質も、肉体の違いも、
外界の危険や敵を見分けて、食べ物を確保し、
社会において有利に生き抜く方法を模索するのが男性の担当で、
その男性の子を産むことで自分の安全と食料を確保するなど、
優秀な子孫を残し、周囲からの庇護を得るために、
コミュニティを形成していくのが女性の担当という、
性別による役割分担があるが故のもの。


さてとりあえず、それは置いておいて、

ではなぜ、両方の性を持つ者や、
肉体の性と心の性が一致していない人が生まれるのか、という話。

不幸な事故的巡り合わせでそうなってしまうのか、
何かの功罪なのかカルマ的な罰なのか…


   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★

その前に、
人は女性にも男性にもどちらにも輪廻転生をする。
たまたま男性ばかりの人生を生きている人もいるし、
女性としての人生の方を数多く生きている人もいる。

女性になるか男性になるか、
それを決めるのは当人の意志やカルマの導きであり、
それはその人が学ぶべきレッスンだったり、
果たすべきその人生でのお役目が、
どちらの性であるほうが都合がいいかって、それだけだ。

正しくは、その性に生まれる、というより、
器として、その性の肉体を選んでいるというだけ。

だから、その「家の子」になりたい、
というところでは選ぶことは出来ず、
その「家の子」として生きることになる人生が、
その人の今生の目的やカルマのレッスンに沿っているか。
性別のその要素のひとつ。
(とはいうものの、どの「家」「両親」というのはかなりランダム)

ジェンダーによる差別や優遇、社会的境遇の差がある限り、
人は男性としての人生も女性としての人生も、
どちらも等しく経験しなくてはいけない。

だから男性はずっと男性ということはないし、
女性もずっと女性の人生を生きるということはない。
ある一定の霊的成長を遂げたならば、
その者が「神聖なる計画」の一員として、
どちらの性であったほうが、人類同胞に対する奉仕をするのに、
都合がよいかどうか、判断して生まれてくるであろうが、
輪廻転生の輪の中にいるものは、自分では決められない。

では、男でも女でもない第三の性にあるものは?
肉体の性に心の性が順応できないものは?

そこにはカルマのレッスンが存在している。

男でもない女ではないもの、男であり女でもあるもの、
その第三の性を受け入れるということが。
どちらでもなく、どちらでもあるという事実を受け入れ、
その肉体の性に縛られずに、ただ一人の人間として、
性によって限定されず、しかしどちらの良さも持ち合わせる、
性のない、ただ肉体を持って存在する人格として、
それが本来の人間の究極に目指すべき目標であるという、
進化の先を行くアイコンとして生きるべきカルマが。

さて、
肉体が男であるのに心が女性であるもの、
肉体が女であるのに心が男性であるもの…の場合、

一言で言えば、
その不一致のあるままに生きる必要性があったりする。

何故ならば、その不一致によって経験することすべてが、
その人にとってカルマのレッスンを学ぶ道だから。

女の心を持ちながら肉体は男でないと出来ないこともある。
男の心を持ちながら肉体は女でないと出来ないこともある。

そのための性の不一致だから。

だから、
手術によって性別を変えてしまうことはよくないこと。
事故や病気によっての性器損傷は致し方ないが、
意図的に持って生まれた性別を変えてしまうのは×。

気持ちは分かるけど。それは自分に対しての罪になる。
カルマのレッスンからの逃避で、その性のままで生きるべき人生、
成すべきことを放棄していることだから。

整形手術も多少はやむなしだけど、根本は同じで、
必要のない整形や過度なものはNG。

性別にこだわることは、執着以外のナニモノでもないんです。
その性別で生きる人生にこだわっている限りは、
それは本能のまま、欲望のまま、
物質的価値に縛られて生きていることなので。

肉体は男でも心は女なら、
女の心を持った男として生きる必要があり、
女の心を持つ男にしか出来ないことをして生きるべきなの。
性別が男であることを利用して。

その逆もまたそう。
肉体は女でも心が男なら、男の心を持った女として、
男の心を持つ女にしか出来ないことをして、
自己表現をしていくべきなんですね。

その人たちがそのような状態に生まれたのには、
ちゃんとした理由があるので。

自分の肉体の性を、ちゃんと受け入れて、
身体を愛する必要があるんです。

その性である自分の肉体に違和感を覚えたとしても、
その性として生まれた自分を受け入れて、
その性を生きる必要性が・・・。

でもって、
パートナーが異性同士でなければいけないということはない。
同性を愛することは罪じゃない。誰に罰せられることではない。
愛し合うことに性別は関係ない。

だって、今の人生で女であったとしても、
過去の人生では男性で女性と結婚していたり、
今男性でも女性だった、ってのは当たり前なんだから。

過去生でのパートナーが今生で再会したならば、
同性に生まれてたとか、親兄弟姉妹や子だったとか、
その逆で同性の親友だった人に再会したらば、
異性として現れたとか、そういうのもよくあること。

子孫を残すという生物学的な種の保存の目的を考えたとき、
異性間の性愛、パートナーとの恋愛関係のほうが望ましいだけ。

でも心から深く愛せる人が同性だったならば、
それ以外の人で愛せる人がいなかったのなら、
また相手も同じ気持ちで自分のことを求めてくれるのであれば、

ええじゃないか。

と、私は個人的にそう思う。

だって星の数ほどもいる人間の中で、
愛し、愛される関係の人と巡り合えるのってなかなかないよ。

それがたまたま同じ性別だっただけ。

でも、まあ、自分と同じ性別しか愛せないというのは、
ちょっと違う問題でもあったりする。
その人の中身を愛しているのではなく、
その性たる「器」しか愛せないっていう問題だから。

ここにはその人が克服したり、
向き合わないといけない問題の胤が隠れてる。
ようするに、相手の心や精神を愛しているわけではなく、
なおかつ自分と同じ性を持った人以外、
違う性の人間に対する拒否感があるってことだから。
ナルキッソス的で排他的な自己愛が隠れていたりしてね。
受け入れられない一方の性に対する愛の欠如があるわけで。
健康的とは言えないんだな、これが。

女性の身体が嫌い。男性の身体が嫌い。
愛情を与える対象にどうしても思えない。

ここは多分、あと何回か輪廻転生を繰り返すうちに、
自分が受け入れることの出来ない性を持つ、
人間(存在)に対しての偏見と拒絶反応、愛の問題etc..
カルマのレッスンとして、必然的に向かわせられることになる。

そう。次の人生でゲイの人は女性の肉体を持ち、
レズビアンの人は、男性の肉体を持つなどしてね。

自分が否定し、嫌悪感を抱き、受け入れられない性を、
愛すべき肉体として、所有して生きる人生を与えられるかも。

うん。
性愛は否定されるべきものではないけど、
人の愛は性愛だけでなく・・・・・・だから。

とはいうものの、
SEXは欲望を満たすためだけものではなく、
具体的な愛情の表現のひとつでお互いの肉体を慈しむ行為。
動物の毛づくろいにみられるような、
相手への愛情を示し、伝えるボディランゲージでもある。
相手を悦ばせ、自らの悦びを分かち合うための。

異性同士でなくてはいけないということはなく、
同性同士だからと言って、してはいけないということはない。
霊的には何ら問題はない。そこに禁忌など何処にもない。

ただ、相手の同意のない、一方的で無理やりな行為は、
相手を踏みにじる行為であり罪以外のナニモノでもなく。
欲望を満たす対象としてのみ相手を見ることと、
快楽という名の肉欲に溺れることが問題なのだ。



   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★


冒頭のほうに書いたように、
魚や昆虫、鳥類などは雌雄同体だったり、
単為生殖をするものが多かったりする。
オスが少なくなったから、オスたくさん創るぞ、もあるし、
メスの割合が減ったから、私オスになります…みたいなのも。

そして人間の場合、
戦争や自然災害、特にジェノサイドや空襲下など、
死の恐怖と隣り合い、生存を脅かされる状況になると、
己が子孫を残そうという行動に出やすいのだそうだ。
腹立たしいことに戦場下における集団レイプもそうで、
地震など被災地の緊急時でもそのような被害は増える。

戦場では、単にそれだけでなく、
敵国の女性を集団レイプし、老人や子供を惨殺するのは、
ここは既に自分たちの縄張りで支配下にあるという、
マーキング的に力を誇示する行為らしいけど、
これは動物界にはよくあることで、
ライオンやサルなどが行っていることと同じだ。
つまりはこういう行為に及ぶ人間は、
理性も知性もない、本能に忠実な動物と同等なんだな。

また、妊娠している女性が、
戦争や災害による死と隣り合わせの恐怖を味わうと、
胎児はストレスを受け、ナーバスな精神状態となる。
そして、何故か生まれてくる子のほとんどは、
異性を愛することが出来ないという、
第三の性で生まれてくるケースが多くなる。
そして、戦後は女性の出生率のほうが高くなるそうだ。

何故なんだろうね?


男、だと戦争に行かなければならないから?

純粋な「オス」は攻撃的な本能が強く、
戦争を好むから、肉体は男で男性の仕事が出来ても、
心が女よりで、戦争という破壊行為を好まないタイプの性を、
母体としてのメスが強く望むからだろうか…。

男を作り、育てるのは女だと人の言う。

原初、男性は皆受精したその時、女性であった。

社会を構成する必要性に応じて、
メスが自分たちを守るためのナイト役として、
力仕事をさせるために特化した性としてのオスを作った、
自らの体内で「オス化」と言う変態を起して。

旧約聖書ではアダムの肋骨からイブは作られたというけれど。

しかし、オスとメスの比率を決めているのは、メスなのである。

オスがオスになれるかどうかは、オス化が成功するか否かは、
メスが妊娠時に受けるストレスにも左右されるのであるから。

女王蟻や女王蜂が、
自らに奉仕させ、使役させるために、奴隷として、
労働者としての働き蜂や蟻、兵隊蟻などを産みだすように。


ある意味で、
女性でもなく男性でもなく、そのどちらでもあるもの、
女性であり男性の心を持つもの、男性であり女性の心を持つもの、
性別を超えたところで愛し合うことの出来るものが増えていることは、
それだけ人々が争いのない社会、世の中を望んだ結果かも知れない。
女性であることで屈辱的な立場に甘んじることを強要されることや、
男性であるがゆえに死地に赴かされ、重責を負わされることなど、
それぞれに与えられた理不尽な状況を改善し、無くすための、
何か意図的な力、大きな意志の働きかけ故なのかも知れない。

極端に、男性的な力が優位になりすぎたことで、
社会が負うことになった、バランスの悪い側面を正すために、
必然的にそうなっているのかもなあ・・・と思ったりします。

この争いの多い、破壊的な、いつまでたっても、
愛の足りない時代と世の中を鑑みるに。



2017/07/20

虹の橋の向こう側・・・命の生まれるところ

畜生(ちくしょう)とは、
仏教において、神や人間以外に生まれた生物のことをいう。 

畜生は、苦しみ多くして楽少なく、
性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、
父母兄弟の区別なく互いに残害する。

畜生道に堕ちると言うは、
悪業を造り、愚痴不平多くして感謝報謝なき者、
動物のような生き方をする者、死後に畜生に生るという事。

畜生道(ちくしょうどう)とは六道また十界の1つ。

※六道(ろくどう、りくどう)とは、
仏教において迷いあるものが輪廻するという、
6種類の苦しみに満ちた世界のこと。
十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。

                Wikipedia参照

     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


子供の頃に読んでいた漫画「うしろの百太郎」の中に、
言葉を話す犬シロというキャラクターがいて、
その犬は人間の生まれ変わりという設定だったりするのだけども、
実際のところ、人が動物に転生することはありえない。
(それでも、私はこの口の悪いシロが好きだったし、
ペットが口が聞けて話せたなら便利だなあ、って思ったり)

心霊科学では、ダーウィンの進化論も「違います」って、
話になるんだけども、それはさておいて。
(遺伝子ゲノムが近かろうが何だろうが我々の祖先はサルではなく、
人間は最初から人間であり、このカタチだったということ)

どうして、人間が動物に、そして動物が人間に、
というように生まれ変わることは「無い」のかというと、
それは人間とは肉体の仕組みが違うということと、
動物には「霊」も無いし、「魂」も無いからって話になります。
(昆虫、鳥類、爬虫類も。そして哺乳類であっても)

肉体の仕組みの違いを言うなら、
人間は、目に視える肉体が一つと目に見えない肉体が二つ。
けれども動物は目に視える肉体のみ。

人間は原型としての魂があるから、転生をする。
でも、動物は転生はしないんです。

人間の魂を今風?に分かり易くいうと、
魂はそれまでの作業の経緯含めて、
すべての過去履歴、今後の計画、データが入ってる、
メインサーバでホストコンピュータみたいなもの。
一つの人生を一台のPCだとすると、そのPCが昇天する度、
そのPCで作業した全データがホストコンピュータに移行する。
エラーもバグも、何回ウィルスに感染したとか故障したとか、
インストしたアプリやアップデートの回数や使用履歴も一緒に。

そしてそれまでのデータを元に新しいPCの環境作りをする。
それが転生する際の肉体とキャラ作りみたいなもの。
そのPCを使用して作業するのが新しい人生みたいな。
(この場合、PC廃棄は死亡になるかと)

これは人間一人につき、メイン一台。
(転生の終わりはさておいて)

動物の場合は、その動物の種類別にメインサーバが一台。
共有で使っているって感じかな。
一匹の猫が死んだとき、
猫専用メインサーバにそのデータは回収されるって感じ。
犬は犬専用、馬は馬専用に。

あくまで比喩の言い方ですけどね。

動物は魂はないけど、宿っているもの、はあります。
(ぶっちゃけエレメンタルなんですけど)
まあ、生命エネルギーとして考えても問題ないかと。
この辺り説明するとめんどくさいので。

この動物の「命」は学習しますし、記憶もします。
その人生での体験や恐怖など。人間への警戒心や感情も。
人にされたこと、もちろんメモリーとしてインプットします。
だから動物は進化するし、個性も生まれる。

ペットだったり、人間との接点が多い動物は、
身近な人間が創り出すエレメンタルを吸収して、
それを己が特徴や性格として表現するようになります。
(憑依体質ってわけではなくっっ笑)

だから、飼い主に似てくるのは当然なんですね。
攻撃的な人といると攻撃的な性質を帯びてくるし、
穏やかでのんびりした人に育てられるとそうなるし。

どんな人間に育てられるか・・・
これによって感化される性質が決まるんですね。
つまりペットってのは、
一番身近にいる人間が創り出す想念を表現する媒体ともなる。


そして、その犬だったり馬たったり猫だったり・・・は、
やがて死ぬとひとつの命の源たる塊の中に戻ることになる。

原始の海に還るがごとく…。

その人生での体験、記憶したことすべてを携えて。

それは大きな水瓶の中に水が戻されるようなもの。
組みだされた水の量より、
生きた人生分増えた量が加算されて再び水瓶の中に。
そして新たな命が生まれる時、
水瓶から水が汲みだされることになる。
けれど、必ずしもそれは、
以前ひとつの形骸を持っていたものとは一致することはない。
水は混ざるものだから。

だから、動物に関しては悲しいけれど、
同じ「命」は転生してこない。

過去、人生を一緒に過ごした、
あの可愛い子の一部が混ざっている奇跡に出会えたとしても。
同じ子には出会えない。

とても残念で寂しいことだけど。

犬も、猫も、馬も、牛も、鳥も、うさぎも、
生まれながらにして個別の性格があるのはそういうこと。

転生と言えばそうだけど、転生とはかなり違う。

別の犬や猫が、どこかで生きていたときの記憶、
何処かの誰か(人間)から模倣してコピーしたデータがあるから。

それは虐待の記憶かも知れないし、
愛に満ちた幸せな記憶かも知れない。

捨てられた哀しみや人間に対する絶望や恨みかも知れないし、
可愛がられて、抱きしめられた、懐かしい甘い想い出かも知れない。


 "犬には犬の哀しみがあり、
    猫には猫の喜びがある…"


いずれにしても、
いつかこの子とまた会いたい、
生まれ変わって、またうちの子になりにおいでね、
と思っても、それは叶わない夢。
動物に関してだけは、
その子がその子として生きるのは一度きりの人生になるから。

また、その種類の一匹にすることは、
すべてのその種の動物にすることとなる。
その動物にとって、共通の記憶にもなるので…。

つまり、一人の人間が一匹の動物に対してしたことは、
その種のすべての動物の恨みをかうってことでもある。
その人が生まれ変わって姿形が変わったとしても。

それに関しては、その人がそのような行動をしたという
行為のデータ(エレメンタル)をその人自身が所持している、
というのもあるんだけれども。

動物側にも、
「この人はかつて同胞に酷いことをした」
というデータがインプットされているのです。

だから、やたらと動物から攻撃されたり、嫌われたり、
極端な目に遭ってしまう人というのは、
その人自身の身体から匂い立つ悪しき波動とか、
そうしたものだけに反応しているのではなくて、
過去の行いに対して復讐されているのかも知れませんね。



     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そんなわけで動物は人間と違うので、
いわゆる成仏がとても速いです。
死んだらサクッとサヨウナラという感じで。

しばらく飼い主の周囲をエレメンタルとして徘徊してるのもいますが。
人間みたいに自分が死んだ現場を離れられないとか、
自分の死を受け入れられないでいるとか、そんなことはありません。

何年も飼い主の傍にいるようなのは、
ほぼ100%といっていいんですけど、
その飼い主が創ったエレメンタル(生前に創ったコピー)ですね。

(あ゛ーただし、
あまりにも悲惨で非業の死とも言える状況下では、
キレイに上がれず、人霊の地縛霊と同じ状態に陥っている
そうした動物たちもいます。
飢餓状態で死んだとか人によって残虐に殺戮された場合とか。
こういう状況下で結果的に人間に祟ってしまうなど、
「悪さ」をしてしまう子たちは、
一般に言う「動物霊」というのとはまた別種ですケド)

飼い主が死ぬと一緒に回収(人間の方に)されるものだけど、
たまーに、はぐれちゃって迷子になって、
犬好きな人や犬を飼っている人に、
くっついていたりすることがあったりします。

あと前に街中で見たケースでは、電車の中ですけど、
盲導犬に心配そうに寄り添っている犬の霊
(霊ではないけどっっ)を見た事があります。

これもまた、誰かが創った、
ペットのコピーとしてのエレメンタルでしたけど。

犬ってやっぱ優しいんだなって思いました。
人間と違って「心の身体」も「思考の身体」もないけど、
だからこそ、人と違って混じりけが無いというか、
計算なくて、純粋でまっすぐなんだなって、ホント。

あ゛・・・そういえば昔、
実家が肉屋(解体とか含む)だって言う人の、
家に遊びに行った時、牛とか豚とかの霊(正確には違うが)が
たくさんいて、苦しくなって、「ごめーん、用事てきた」と
すぐに飛んで帰ってしまったことがあります。
彼らってボリューミー(体重が)なんで・・・。



さて、ならばどうして動物という存在がいるのかっていうと、
私たち人間がため、だったりするんですよね。
こういうと人類至上主義みたいな言い方になってしまうので、
ちょっとイヤなんですが、そういう意味ではなくて。

地球という天体、
私たち人類が生きていくための母なる大地、
その環境維持のためには、微生物や昆虫や各種の動物、
植物、魚類の存在(生態系)が不可欠で。
動物たちを滅びの道に追い込むことは、
自滅の道であり、環境破壊以外のナニモノでもありません。
我々人類が存続していくためには地球環境を守る必要があり、
そのためには、動物たちの世界もそのままに、
維持して守っていく必要があるのです。
彼らはこの地球を住みよい天体にしてくれている功労者で、
環境を生みだし作り出している自然システムそのものなので。

(だから彼らが生息している地域から彼らを引き離すのは悪です。
命を必要以上に奪うことや彼らの生息地を荒らすことも含めて。)

またそれだけでなく、動物の生きる姿から、
様々なことを学ぶためでもあります。
あと、私たちのために「命」を「糧」として
提供してくれているところもありますが…

でも、いつかは彼らから「命」を頂くことも、
卒業することが目標ではあります。

して、「動物」に対してどう接するか…ってのは、
その人が同胞たる「人間」に対して、
どう想い、どう考えているか、
人を人としてどう扱かっていうバロメーターなんだそうで。

まぁ、だから、
動物虐待は殺人の予兆だっていうのは真理なのか。

子供は虫やカエルなんかを殺すことで残虐性を発揮して、
やがて命の大切さを知って、しなくなるというけど。

動物しか愛せない人、昆虫としか向き合えない人、
植物しか関心がないってのもかなり問題があるとは思いますが。
やっぱ動物嫌いより好きな人のほうがキャパあるかもな。

動物に対してどう接する人なのか…
動物の命をどのように考えている人なのかって言うのは、
その人の「人間」に対する本当の想いを知ることの出来る、
ひとつの目安になるでしょうね。
動物や植物をどう扱っているか、って点がね。



とはいうものの、
私は植物は好きだけど枯らしまくりの炎の手の持ち主だし、
犬も猫も鳥も金魚も飼ってたことはあるけれど…
よその犬には4回噛まれてますのよ、ワハハハ。
(そして蛙とクマとネズミは嫌いだ~!)

動物園も大嫌いで、反対の立場であります。
野生動物を保護する施設は必要だけど、
その土地に生息しない動物を人間の娯楽のために、
別の土地に連れてきて見世物にするのは良くない。
人間のエゴイズム以外のナニモノでもなく・・・。
一般の人が動物の生態を学ぶなら、書物や映像だけで十分です。
野生に戻れなくなった動物を保護飼育する施設が、
維持管理費稼ぎのために見物料を取るのはいいかなって、
そう思いますがね。


てなわけでして、人間が動物に転生することはありません。
動物に人間が、人間に動物が「憑依」することはあったとしても。

(あるんだな、これが)