2016/04/29

スピリチュアル・コミュニティの歪みと落とし穴(下)

団体というのは、
その団体の主導権を握る人次第で、
独特のカラーを発し、醸し出すことになる。

人が二人以上集まると、力関係というのが生まれるので、
どうしても力関係を握っている人の個性が反映されて、
コミュニティのカラーが決定してしまうから。

分かり易い例が職場かな。
職場だと力関係を握っているのは、
ふつーは職権のある上司などの管理職。
小さいところだと社長とか、社長の奥さんとか。
同族企業だと、その同族同士の関係性がまんまカラーで、
大きな会社だと、発言権のある人、社歴の長い人やお局さま。
ようするに、
誰がその職場で「主導権」や「力」を握っているか否か。

また、業種によってもカラーというのがあるし、
同じ業界でも職種に応じて、集まる人の個性は違ってくるケド。

(大分類としてホワイトカラーとブルーカラーの違い、
理系と文系の職種、サービス業やメディア、出版、
ゼネコンや財団、官公庁など、雰囲気も集まる人も
職場ならではのやり方、モラルなども異なっていたりする)

で、すごくイヤな雰囲気の職場だったとしても、
上司(管理職)が移動になったり、
誰かが退職して新しい転職者が入社してくると、
ガラリと良い雰囲気になったりもする。
まあ、元凶となる人がいなくなってくれれば、おのずと。


村社会なんかもそうだし、習い事なんかのサークルもそう。
友達同士の小さい団体も、ママ友も男同士の呑み仲間も、
会社組織やボランティアなどの大きな団体も、
どんな団体も人間関係なので、様々な人が集まることから、
集まった人と中心点になる人物の個性に応じて、
それなりの特色を表現することになり、
ある人にとってはとっつきやすくなじみやすく友好的に映り、
けれど別の人からしたら、同じ団体でも
排他的で閉鎖的な奇妙な団体に映ったりもしたりなんかして。

で、そのコミュニティを結び付けている理由が、
世間から見て極めて特殊性があって、理解しがたく、
いわゆる浮いているというものだったりすると、
コミュニティの閉鎖性は増すことにもなってしまいがち。

この閉鎖性と機密性が増せば増すほど、
結束は強くなりやすいし、
隔絶間から集団ルールは世間一般の常識と遠く隔たり、
団体として歪んだ思想や意志に毒されていく危険が増したりする。

少数の人の偏った見解や考え方に追従せざるを得ない、
リーダーとなる中心点の人を絶対とするような、
危険思想や異常心理ってのにも陥りやすくなっちゃって。

共依存なら不健康ではあっても、まだましかな・・・
カルト的な思想を軸にしていたりとか、
総括事件を起こした連合赤軍なんか酷いもんで。

うん。本当に、どんな小さいコミュニティでも、
民主主義って大切なんだと思う。
福祉的な観点から言うと、共産主義もいいとこあるけど。
政治経済司法に関しては民主主義がベターだわ。

一人ひとりが考えることを止めてしまって、
自らの意志を発言できないって状況は、
集団を間違った方向に導いてしまうものだ。


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さて。。。例えば、
こうした団体、習い事がスピリチュアルでなくて、
バレエでもなんでもダンスか何かだったりする。
そりゃ、無名の人より有名だった人、
コンテストに出て名声と実力に定評のある人だったり、
評判の良い先生のとこで習いたいと思うのが普通だろう。

スピリチュアルな世界も多分そう。
無名な人より有名な人のとこ、誰だって行きたいだろう。

(スピリチュアルなことの場合、
習い事というのも違うと思うから、
たぶん何を身に着けたいか、自分の何を磨きたいか、
なんでしょうけど・・・)


ダンスやらスポーツや、
そうした世界だったら、憧れからの選択でも、害はないかと。
憧れから学び始めた結果、才能を発揮して、
好きこそものの上手なれから道を究めることができる人も、
決して多くはないにしてもいるだろうし、
例え、才能を発揮することが出来ず、
憧れの選手に近づけなかったとしても、
努力して挫折した経験は人生の無駄にならないだろうから。

けど、オカルトやスピリチュアルな世界はちょっと違う。
一歩間違えると、心や精神を病んでしまったり、
ちょっとヤバイことに巻き込まれてしまう危険性がある。
(いわゆる悪霊とか動物霊くっつけるってヤツ)

そんなんで
誰でもかんでもってホイホイいらっしゃいって
そういう世界じゃないから。

ワナもたくさんあるし。
だから、サイキックな能力磨くより、
先に知識を身につけて、自分自身の問題と向き合って、
人格形成をしっかりとしてから、
段階踏んでかないと、エライことになる。

自分のエゴイズムをきちんと知ってないと、
絶対に罠にはまるし・・・
得てして9割の人がその罠にはまってるしね。

だから、ヒーリングが出来るようになったとか、
ちょっと不思議な体験したとか、
そういうのを特別視しないことって大切。
チャネリングも安易にトライすることではないのね。
簡単に考えて手を出すことではないのです。


真面目な話、オカルティスト(近代魔術師)たちって
精神破たんして精神病院行ってのがほとんど。
心が壊れなかったり、人格崩壊しなかった人は、
ちゃんと友達のいる社会性とコミュニティ能力の高い人。

精神鍛錬と人格修養なしにサイキカル能力だけを開発したり、
物質社会以外の存在とコンタクトを取ったり、
そうしたトレーニングだけを行うプログラムやカリキュラムは、
キチガイ養成講座以外の何モノでもないのですよ。

とはいうものの、
スピリチュアルなことは限りなく危険で恐ろしいことだと、
そう脅しているのではなく、
知識もないのにむやみやたらと手を出すなって感じ?

とくにそのようなことをやってるセミナーとかワークとか、
個人でも団体主催のものだったとしても、
雰囲気とか人間関係の状態をよく観察してみるのが大切。
社会人としてのふつーの常識感覚で考えてみて、
コミュニティとして「おかしいな」と思ったり、違和感覚えたら、
自分の感性を信じたほうがいい。

スピリチュアルなことやってるとこだから、
雰囲気が特殊だとか、普通と違うってことはないので。


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スピリチュアル・コミュニティの歪みは、
その中心点にいる人のスピリチュアリティが、
周囲の人をどのように導き、感化することができるか、
教条能力と統率能力(リーダーシップ)に頼るところが大きいけど、
やっぱりその人の人間性云々よりも、
周囲がスピリチュアル性やサイキカル能力(神通力や霊能力)
そのものを崇め奉っていることが大きな問題点なんだと思う。
歪みの原因で、病巣の根源というのかな・・・。

サイキカル能力が特別な力で、
さも選ばれしモノにしか与えられていないかのような
誤解から生まれがちな選民意識と承認欲求・・・
そこに依存して帰依することが異常心理なんだと。

その人を取り巻くの和の中にいることで
特別な人の傍にいられるという優越感を抱くくらいならまだいい。
その人がやることなすことに関われているというプライドの充足と、
自分が支えているという喜悦感を抱くのもまだ普通かも。

けれど、まるで自分がその人物になったかのように、
同一性とすり替えが起きてしまいやすいことが腐敗を生む。
「虎の威」を借りている人は借りている自覚があるだけマシだけど、
単なる三毛猫なのに、自分も虎であり、
同等の力を所持していると勘違いしてしまうのが困りもの。



なんでそうなっちゃうんだろう?って考えたとき、

自分自身に問題を抱えている人が、
たくさん集まりやすいジャンルだからなんだろうなって思います。

スピリチュアルに惹かれて集まってくる人の
全員が全員、病んでいるとかいうことではないんですけども。


占い師や霊能者、ヒーラー、チャネラー、
透視能力者なんかのとこに来る人たちは、
奇跡や魔法を欲していたり、救いや助けを求めていたり、
今の自分の人生の状況に不満を抱えていたりするわけで。
だから、依存心の強い、自立してない人も少なくない。
っていうか、日本人は欧米人と違って、
精神が未熟で未発達で自立精神が限りなく育ってない。
依頼心の強さとその精神の弱さゆえ、じゃないかと。

自分自身や自分の人生をコントロールできない人は、
他人に自分の支配や決定権を委ねやすいし、
そうした外側にある力を得て、
自分の人生をコントロールしようとする。

自分自身が力をもって、主導権を取り戻すことが先なのに、
何故かそうはしない人が多いのですよ。
ほとんどの人が他者にあまねるのよね。
自分の選択に責任を取りたくないから。

そういう人は共依存の関係が大好き。

自分で考えること、
自ら意志をもって、意識して選択することが嫌いなの。

だから他人任せにしてたいんだよね。


そういう人がスピリチュアルなコミュニティを形成したり、
寄りかかれる人を見つけて、求心力から集ってしまうと、
あっという間に不健全な共依存の団体が出来てしまう。

例えば、それが共依存を治そうとか、
海外でよくある、同じ問題を抱えた人同士の集いみたいな、
(ドラッグ依存やアルコール中毒を治そうとか)
そういう共通する悩みやテーマがあったとしても、
自らの問題を自覚している人々の集まりだったら、
不健康なネットワークやコミュニティにはなりにくい。
むしろ大きな励みや社会復帰の助けになる。


けれども、スピリチュアルなコミュニティは、
普通の日常では話せないことが話せる唯一の場だったり、
(このくらいはまだ許容範囲かな)
中心人物となっている人の
スピリチュアル的な能力においてのカリスマ性だったり、
そこに通うこと、属することの「特別性」を信じこませていたり、
もしくは「特別な何か」になれることなどなど、
現実逃避的な部分を煽るような・・・
そういう要素を中心軸として集まっていたりすると、
反社会的な病んだコミュニティとなってしまう。

そうすると、そのコミュニティで教えられるスピリチュアルは、
そこに属する人間を現実と限りなく離反させて、
エゴイズムや妄想を肥大させるだけさせてしまう。

残念ながら、そういうところ結構あったりする。

知り合いの占い師さんで
そのようなコミュニティに関わるようになってから
気づけば何を話しているんだか意味不明で、
会話が通じなくなってしまっていて驚いたことがあった。
日本語が下手になったというレベルでなくて。


天使や妖精と話すよりも、
死んだ人間や宇宙人とコンタクトするよりも、
目の前にする人間と話すほうが先じゃないのか・・?

初対面の人に対して挨拶もロクに出来ないのに、
何がアセンションだ、地球を救う使命を背負ってるって、
いつも私は不思議に思うのです。



大勢の人と一緒にいて、
場の雰囲気を壊すようなふるまいをしていて、
それの何がスピリチュアル? 
ハイアーセルフからのメッセージ受信できてるって何?

エネルギー読めるっていうなら、
その前に空気を読んでくれ!

その場にいる人々の心の声、叫び、
あなたの我儘で自分勝手な行動に対する

文句と不満の声を聞きやがれ!



ちょっと経験から叫んでしまいました



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とりあえず、
私自身も小さいながらスクールを主催して、
生徒さんに教えている者として、
グループレッスンのリーダーとして、
いろいろと気を付けなくてはいけないことがあるなあ、と
これまでの失敗とか反省とか、
色々あった出来事から学ぶべきことを学んで、
耳に入ってくる情報を反面教師とさせて頂き、
常に自分自身のエゴイズムや生徒さんのエゴイズム、
グループとしてのエゴイズムをチェックして、
方向性を間違わないようにしないと、と鑑みたりします。



 禅のマスターは他者に対するマスターではなく、
 自分自身のマスターです・・・そして・・・
 自分自身をマスターしているというそのことが、
 彼のあらゆる仕草とひとことひとことに反映しています。

 彼は伝える教義を持っている教師でもなければ、
 神と直接的なつながりを持っている
 超自然的な使者でもなく、
 まさに人間ひとりひとりの内側に潜んでいる
 もっとも高い可能性の生きた証となった人なのです。

 弟子は、マスターの眼の中に
 自分自身の真理が映し出されていることに気づきます。
 マスターの静寂に満ちた臨在の中で、弟子はもっと楽に
 自分自身の実在の静寂へと落ちていくことができます。
 
 マスターの周りに自然に形成される
 探究者たちのコミュニティは、
 ユニークな個人それぞれが自分自身の内なる光を
 見出すのを教えてくれるエネルギーフィールドになります。
 いったんその光が見つかったら、
 外側のマスターは触媒、内なるものの目覚めを喚起する
 仕掛けに過ぎなかったことを弟子は理解するようになります。


 ・・・・略・・・
 マインドが、召使が、マスターの役をしている。
 しかも、その召使は貴方の召使ですらない。
 その召使は外の世界によってつくられる。
 それは外の世界とその慣習に従う。
 
 ひとたびあなたの覚醒が炎になったら、
 それはマインドがつくりあげた隷属全体を焼き尽くす。
 自由ほど、自らの運命のマスターであることほど、
 貴重な至福は無い。

          和尚禅タロット「マスター」のカード解釈より
 

2016/04/27

スピリチュアル・コミュニティの歪みと落とし穴(上)

スピリチュアルな能力が秀でている人の周りには、
その人自身やその人の所持する能力に魅せられて、
そのようなものに憧れる人間が集まりがちなのだが、
当の本人が優れた人格者であったとしても、
得てして周囲には不健全なコミュニティが出来上がりやすい。

まるで誘蛾灯だな、と思ったりする。

中心にいる人はしごくまっとうな常識の持ち主なのに、
その人のようになりたい人々が、
歪んだエゴイズムをその人に投影させて、
カリスマ性や圧倒的な能力の前に跪き、
その人の云うことが絶対であるかのように崇拝して、
自らの意志を失くし相手の言われるがまま成すがまま・・・
皆が下僕のごとく傀儡化していて、
言われることや支持されることに疑問を呈するものはいない。

そんな風にひどく不健全で歪みきった、
病んだコミュニティが生まれやすかったりする。

困ったことに、
これはスピリチュアルなジャンルにはありがちなこと。
もちろん、すべてにあてはまることではない。


お金を取っていなくても、取っていようとも、
その人を取り巻く複数の人間が、
このような形態のコミュニティを作り上げてしまっているのなら、
もはやそれはその人を偶像崇拝した宗教としかいいようがない。
まして、中心部にいる人に対し、滅私奉公とばかりに、
奉仕的かつ盲目的にあれやこれや尽くすようになってしまっては、

もはやその人に対する尊敬とか敬愛とか、
それらを礎にした絆などで、収まる範囲ではないから。

結局は中心部にいる人自身のスピリチュアル・ナルシズム、
自らの能力に対する奢りも反映されてしまっていたりもするから、
いったん歪が生じると、歯止めが利かず、もうどうしようもない。

その人自身をきちんと見て、人物と能力を切り離して考え、
誤った崇拝をすることなく、対等に関われていたならば、
エゴイズムの投影や共依存の毒に犯されることなく、
そうなってしまった人々の渦に巻き込まれることもなく、
多くのことをその人から学び、良き関係を築くことが出来たろう。
そしてそれらは相手から一方的に受け取るものではなく、
互いに刺激と触発を与える関係となり、
双方向に利益をもたらしていたろう。

けれど、相手のことを「すごい人」と・・・
相手の力を人知を超えたものであるかのように、
奇跡か神の御業かと、大げさに捉えて、
そう思ってしまった瞬間から間違いが始まる。

自分にはない、相手の素晴らしい能力を認め、評価するのと、
その前に屈服するのとでは天と地ほども意味が違う。

スピリチュアルな業界においては、とくに、
そのようなことをやってしまうと、
相手を自分の「支配者」とでも「神」とでもしてしまう。


俗にいう「依存」なのだが。
相手の云う事が絶対になってしまって、
「すごい力」を持った人なのだから・・・と、
相手の云う事やる事すべてをそこで図るようになると、
洗脳の始まりだ。

だって相手はすごい人なんだから、
予知も当たるんだししとか、他の人には出来ないことも起こせて、
こんな現象を自分は体験しちゃったんだから・・・と、
体感的なことが関わってくると尚更。


思うに、普段理性的で論理的と思える人ほど、
この手のことに引っかかりやすいように思う。

そして、あまり論理的思考を持たない、
感情的で感覚的な人のほうが引っかかりにくいようだ。
普通は逆かと、思うところだけど。

感覚的な人は、心に引っかかるものがあると乗らないからね。
頭で考えがちな人ほど、目に見えるもので証明されたり、
体験的な現象を経験した途端、あっさりとのめり込んでいく。

オウムなんかにはまった人も、
高学歴のまさにそういうタイプが多かったんじゃなかろうか。
(中心軸に居た人は、見た目も中身もちいとも魅力的でなく、
なんでアレなの??って。めちゃくちゃ疑問なんだども)


こういう状態に陥ってしまった人って、
言葉でいくら矛盾点をつついたとしても無駄だったりする。
説得しても、聞き入れては絶対にしてくれないんだよね。

自分たちの理屈で凝り固まっちゃってから、
論理的に説得することや常識が通じない。

否定されると余計にヒートするから、
信念体系を崩すこともほぼ不可能だったりする。

客観性を全く失ってしまっているので。



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私は感覚的、感情タイプだから、
いくら体験しても、目の前で視覚的に見させられても、
言葉で論理的に理屈で説明されたとしても、
感情がついていかないこと、動かないこと、
感覚が拒絶反応を示すことには、絶対に応じない。

「へーすごーい」と、
表面的に感心して信じるフリするのは得意だけど、
心が危険信号だしてることは、基本スルーかな。


ヒステリーで怒りっぽいし、
論理的に考えるのはものすごく苦手なんだけど、
猜疑心だけはめちゃくちゃ強かったりしますので。

其のおかげで、引っかからないで済んでるのかな。
マルチとか宗教の勧誘とかetc
その代わり人情に訴えかけられると弱いから、
友達とか人間関係に騙されたりはある(笑)


もしかしたら、不思議な体験もそれなりにしているから、
だから今更ってのはあるかも知れませんね。

子供の頃は霊が見えたし、近所の家で火事が起きるとか、
どの家でお葬式が近々あるとか、
(位牌と遺影がその家の外壁に掛かっているように見えた)
電車の前に座った人の寿命とか、
(近々亡くなる人はオーラが真っ黒)
この人は怪我で足を失くしちゃうんだな~とか、
そういうのも見えてたり判ってた時期もあるし。

幽体離脱して遊んでたこともあるし、
(肉体とサイキカル体はゴム紐みたいなので繋がってて、
サイキカル体はゼラチン質っぽくゼリーみたいな感じ。
壁をすり抜けるときの感覚は独特で面白いの。
体から抜け出るときは首の後ろのとこ、背中上側から出る)
タイムスリップしたこともあるし、その他色々。
至高体験もワンネス体験もいちおうある。

今はもう霊は視えず、エレメンタルくらいしか分からないし、
何もできないタダの人ですけどね。
ちょっとしたリーディングとレイキヒーリングしか出来ん。


だけど、そういう不思議な体験もたくさん経験してるので、
今更って感じなんですよ。
それが出来る人とかいたとしても、
それを「すごい」とは思わないのよね。

それはその人の霊的レベルや
人格の証明にはならないってこと、今は判るし。

だって、私の体験がまぐれなたまたまだったとしても、
いっときでも出来てたってこと考えると、
私みたいな人間力のないダメ人間でも出来ることですよ?
こんな霊的レベル低いヤツでも、出来ることジャンか~と。

だから、そんなん大したことないよって思う。

大げさに騒ぐことでもなんでもないんだよって。

まあ、確かに不思議な体験をしている間は、
面白くも気持ちよく、奇妙な感覚であるから、
それをもう一度味わってみたいと思わなくもないけど。
そこに耽溺して執着してしまうのは、
単なるジャンキーと何ら変わりないので。



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他人に対して、
何か幻影のようなものを見せることが出来ていたとしても、
「氣」を操って、そういうことができる原理はあるので、
(出来る人が少ないので、出来る人は貴重ってだけ)
その能力を素晴らしいと評価すれこそ、
そうした他人の氣を操り、操作する行為にはモラルが必要で、
何のためにそういうことをしたのか、大いに問われること。

自分の力を誇示するためにそれをするのは罪だし、
他人に知らしめるためにそれを使うのも罪。

霊能力と言われる力は、
他人を救うためにしか用いてはいけない力だから。

その人に罰を与えたり、何かさせるため、
思うような状態にするために使ってはいけないのね。
その人に前世を思い出させることさえ、
他人が関与してはいけない。
(ヒプノは単なる誘導なので当人の意志ならセーフ。
本当に思い出してはいけないことはストップかかるし)

その人のカルマのレッスンとして
必要で起きていることに介入し、関わることは、
スピリチュアルな職業にあるものにとって、
一番してはいけないことで、
そうした行為に霊能力は一番使ってはいけない力なんだ。

他人の氣を操ることは、もっとも重い罪だから。

(気功やヒーリングみたいに、気の補充をすることは別。
気が足りてないとか弱っている人に手を貸す事、
エネルギーフィールドに生じている問題の解決の
サポートをすることはもちろん許されています)

起きることはすべて必要で起きていることだから、
自分がその人のカルマやノルマが判る立場にいるからって、
勝手に取ったり、知らしめようとしたり、
無理に思い出させるようなことはしてはいけないんだ。

私たちに許されているのは、
時期が来ていることに対して、その人の気づきを促し、
起きていることを起きているままにすること、
それに対して必要なサポートとフォローをすること、
何かあったときに手を貸す事くらいで。

必要以上のことをしてはいけないってのが大前提なの。

だって、病気とか怪我もそうだけど、
治すのはいつだって医者じゃなくて当人だもの。
当人が自分の力で成し遂げなくてはいけないことを
横から奪いとってはいけないんだ。
本人の生きる力、生命力を伸ばすことが大事なので。

スピりチュアルな世界の事象もそれとまったく同じ。
当人が解決しなければいけないことを、
自分で答えを見つけていかなければいけないことを
先回りして告げて、お節介にやってあげてはいけない。

でないと、本人の力を奪うことになるし、
学びの機会を台無しにして、
その人自身が成長できなくなって、
弱いままの、自分の「力」を発揮できない人に
甘んじさせてしまうだけだから。

その人の成長の機会を奪うことは何人たりとも、
絶対にしてはいけない。

子育てと同じで、その人にこそ、強くなって、
自分で自分の問題を乗り越える力を身に着けてもらわないと、
スピリチュアルってそのための方法論だからさ。



して、相手のエネルギーフィールドに
何か、を埋め込むことも絶対にしてはならないこと。

ヒーリングと気づきを促すためのエレメンタルは
埋め込むことはOKなんだけどもね。

相手をコントロールし、自分に従わせるための
エレメンタルは絶対に創ってはいけないし、
それを他者に埋め込むようなことはしてはならない。


妙な、スピリチュアル・コミュニティに関わっている人は、
グループ・エレメンタル(集合体意識)以外に、
見張り的なエレメンタルを埋め込まれていることが多い。
たぶん、それが洗脳と支配の根源的な力なんだろう。
そっから、パワーを吸い取って、団体の力として
供給しているトコも多いよ。

エーテルコード(紐のようなもの)を刺されていて、
機械的な見張りのようなもの、
使い魔みたいなのを付けられてたり、とかね。

今まで見た中には、「星の子チョビン」に出てくる
目玉に羽が生えたようなエレメンタルもあったなあ。

新興宗教はそういうのばっかりだったりするっっ

コワイなー ヤダなー 関わりあいたくないなーって
つくづく思う。


私も生徒さんたちに、何か埋め込んでいたら、
どーしようって、時々心配になっちゃうときもある(爆)

まあ、でも私にはカリスマ性はないし、
反面教師にしかならないダメダメ先生なので、
幸いなことに私を崇拝する人がいないのが救いか。
いやさ、それもちょっと寂しいかな(笑)

2016/04/26

スピリチュアル・ハラスメント(下)

タイトルにした、スピリチュアル・ハラスメントってのは、
パワハラ、セクハラ、モラハラってのがあるなら、
当然あって然りと、今回わたしが勝手に創った言葉。

この言葉を使うのは私が初めてなのかも知れないし、
もしかしたら、だいぶ前から誰かが使っていたかも知れない。
まあ、どっちでもいいんだけども。


実際、そういう行為は太古の昔からあった。

宗教的教義の行き過ぎた行為とか、
信仰や宗教の押し付け、押し売りとかとか・・・
神様の名前を盾にして、
人間の私利私欲、エゴイズムを正当化する行為。

昔から存在する文化や土着の宗教を理解しようともせず、
一方的に野蛮だと否定して、自分たちの思想を押し付ける
キリスト教の布教行為と異端尋問や魔女狩りなんかは
そのもっともたる例だし、十字軍なんかもそうだと思う。

自分と相手の信じる神様が違うからって、
その人を差別したり、非難する行為も分類されるだろう。

あ、ヒンズー教のカースト制度もそうかな。
昨今のふつーのイスラム信者と過激派をいっしょくたにして
叩いて排除する傾向もスピハラと言えるかも知れない。


とはいうものの、
上記のようなことは日本ではあんまし起きないことだけど。

ああ、でも
新興宗教の狂信的な信者なんかだと、
やっちゃってくれてるか・・・



日本だと、霊感商法がスピハラの代表格になるかも知れない。
あと新興宗教、スピ系自己啓発セミナーの勧誘も加わるかしら。

「あなた水子の霊がついてますよ」とか
「先祖の祟りです」とかとか
「このままでは結婚できません」とかとかとか・・・

そういうことを脅し文句にして、
印鑑やら壺やら仏像やら売りつける行為?ありーの
この神様拝みなさい、教祖様の云う事を聞きなさい、とか。

ふつーに考えれば、
モノ買って解決ってこともないし、
その価格が法外だってこととか、おかしいとこばかりなんだけど。


うん、昔から不思議に思う、
どうしてそんなのに引っかかる人がいるんだろうって。

でも、不幸やトラブル、災難災厄続きで、出口見えず、
何故どうしてこんなことばかり起きるのだろう?と
絶望している人や精神的に参って追い詰められている人、
説明不能かつ不可解な現象に悩まされている人は、
とにかく何でもいいから、この状況を何とかしたい・・・
それをすることでこの地獄が終わるならばって、
藁にもすがる想いですがってしまうのですよね。

そういう心理状態に陥ってしまう心の弱さ、
これは理解してあげないといけないところかな。
そこにつけ込む人たちがいるのが許せないとこで。


あと、占い師や霊能者や祈祷師なんかでも、

身近に迫った危険を警告したり、
回避をアドバイスするような物言いではなくて、

「あんたこのままじゃ死ぬよ」
「地獄に落ちるわよ」

みたいな・・・

相手の不安を煽って、
人格否定するような脅し文句や恫喝をする人がいたりする。
ここはスピリチュアルナルシズムが関わってくるとこだけども。

実際、きつい物言いで叱らないことには
生き方や自分自身を振り返らない人もいるから、
どこからどこまでがハラスメントに当たるのか、
ボーダーを決めるのは難しいとこ。


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で、ちょっと前の話になるけど・・・

クライアントさんから、
とても話しやすくて優しい占い師さんがいたので、
何かと頼りにして通っていたのだけども、
突然「あなたは特別な人だから、○○になるべき」
みたいなことを言われて、
とあるセミナーに誘われたと・・・

でも、なんかちょっとおかしい。
途中最初に感じてた違和感がどんどん膨らんでしまった、
で行くのを止めたそうで。

ええ、確かにおかしい。
宗教でないというけど、神様の名前出した時点で宗教やん。
とも思った。


ていうか、ここの団体に限ったことでなく、
似たようなことは別の団体もやってるわけで、
それこそ地下鉄で事件起こしてくれた団体さんもそうだし、
昔からあって、いつの時代でもあるっていうか、
やり方や常套句が変わるだけで、
雨後の竹の子のように、わんさかわんさか出てくる。

信仰宗教って感じでなく、
スピリチュアルって装い変えてリニューアルした感じが、
最近の流行りなのかな。


(まあ、私も十分胡散臭いわけだから、
お前が言えるのか?ってのは置いておいて・・・)


結局はこういうのって、
スピリチュアルを利用したマルチ商法なんだと思う。

そうですね、さしづめ
スピリチュアル・マルチ??とでも命名しましょうか。

商品が物質的なものではなくて、
視えない世界を対象すなわち体験的な価値観を
重きにおいた分野を対象としているだけで、
やり方としてはマルチ商法独特の厭らしさと
同じだと思うのです。

つまりは視えない世界とか、
スピリチュアリティ性に関する商売自体が胡散臭いのではなく、
それを対象(利用)とした商売のやり方そのものに
道徳と倫理を無視した問題があるってこと。


マルチ商法の何が不快かって言うと、印象操作と洗脳かな。

ネットワークビジネスの方法が悪とは思わない。
多くのビジネスには人間関係を利用する場面がありがちだし、
義理や人情、コネに頼ったりも珍しいことではない。
ふつーに商売してても、オーナーと客の関係になった途端、
色々とあって壊れる人間関係もあったりするしね。


だけど、ストレートに
「こんど商売始めたよ、イイモノだから、気に入ったら買ってね」
「他のところで同じの買うのだったら、
知り合いのうちから買ってちょーだいよ、ヨロシク~」
ってフツーに営業してくれればってところを・・・

「あなたのタメだから」「私はあなたのためを思って」
「みんなで幸せになりましょう」「一緒に儲けましょう」
「この商品を使ってもらうことで、
あなたの周囲の人もを幸せにできるはず」

みたいな、
ビジネスの理由を別の目的(歯の浮く理想論)にすり替えて、
相手の善良性につけ込み、利用してしまうのが問題なんだわ。

お金儲けをしたいなら、したいって言えばいいのに、
そのために商売をしますよって正直に言えば、
それはウソのない誠実な商売と言える。
もちろん商品がエセじゃないのが大前提で。

けれど、仮に商品自体が本当に良い製品だったとしても、
ウソをついて相手の購買心理を操作している段階で、
サギなんだよね。マインドコントロールだもん。
不誠実な商売以外の何物でもない。
そういう不誠実なことに、知り合いや友人などの
大事な人間関係を巻き込むことは、
人とのしての道徳やモラル、良心の問われるところ。

まあ、マルチに引っかかる人はお人好しが多いかな。
美味しい話はないよってのは通説であっても、
テレビのニュースで散々報道されてても、
若い世代(とくに田舎からの上京組)は引っかかりやすい。

(私が昔リゾートホテルで働いていたときも(バブル時代)、
浄水器、24時間風呂、布団、まくら、矯正下着、アムウェイ・・・
「なんだブルータス、お前もかっ!」って、
叫びたくなるほど地方出身の友達がこぞって引っかかてたよ。
怒って友止めしてしまった子も多々)


そして、スピリチュアル・マルチに引っかかる人も減らない。


「あなたは選ばれた人なのよ」
「私たちは光の戦士なの、あなたも仲間になりましょう」
「あなたも天使とつながりましょう!」
「日本を救うため、あなたも目覚めましょう」

・・・みたいな言葉に何故その気になるんだ?

みんな漫画の観すぎ? 二次元脳? ドリーマー?

って私はいいたいけど・・・。


===============================================


先に出したクライアントさんのケース以外にも、
こういう話は定期的に耳に入ってくる。

私は宗教アレルギー?を随分と長く患っていたので、
そっち系統に引っかかることはなかったし、
知り合いの占い師さんや同業者さんに、
そんな酷いやり方している人はいないんだけど・・・

でも業界全体として、
たまーにそっち系統の人たちが紛れてくることもあるし、
信用できない、おかしな人々がいるのは事実。


そして被害者の人たちの話も聞くこともそれなり。

中には500万も使ってしまった人とかいたなー
それは高すぎる勉強代なんてもんじゃなく。

あと、
本職(店のオーナー)があるというのに、
その団体活動をすること(光の戦士になること)を強要されて、
定められた日に出なくてはいけないとかで、
仕事に影響が出てしまい、
経営に行き詰まっていまったという人がいたりする。

あるスピリチュアルな学校を止めた人からも
似たような話を聞いたことがある。
それでは家のことも仕事をする時間も無くなるではないか、
ってくらい、時間的にも金銭的にも拘束されたとか。

なんかそれって本末転倒。

会社をつぶしたり、私生活を破たんさせるために、
なんでスピリチュアルなことを
生活の中心にもっていかなくてはいけないのか?

そもそも仕事や私生活や家族、友人関係に
恩恵を与えるためのものでなくては、
スピリチュアルなことなんて何の意味も価値もないだろう。
すべては現実あってのものだねなんだから。

現実生活を上手く行かせるために、
現実の人生をよりよく生きていくために、
スピリチュアルな世界を探究する意味と価値があるというのに。


ふと、ここで「チャタレイ夫人の恋人」での
レディ・チャタレイのセリフを思い出してみたりする。

 「うんざりですわ

 あなたの精神主義とやらには・・・

 私はもう少しで、
 その精神主義とやらに
 滅ぼされてしまうところでしたわ!

 私は精神か肉体か
 どちらかを選べと言われたら、
 喜んで肉体を選ばせて頂きますわ」



会社のオーナーだったら、
オーナーとしてそのビジネスを潤わせることが、
何よりの社会貢献で世の中への奉仕であり、
従業員の生活を守っていくのが使命だろう。
そのビジネスと利益を通して、
従業員と世間の人々の生活を支えていくことと、
誠実な姿勢でそのビジネスを展開していくのが、
スピリチュアリティを表現することになる。

自分のフィールドで自分にしか出来ないこと、
今目の前にあることを一生懸命やるだけでいい。
それがスピリチュアルな生き方だ。

家庭の主婦なら、
パートナーとの関係をよりよくしていくため、
自分自身の成長や今の生活を充実させるためでいい。
子供がいるなら、子供のためになることが優先で、
家族のために、家庭円満のために、
スピリチュアルな知識や技術を使うべきだ。

まあ、モラハラやDVを受けている人にとっては、
スピリチュアルな世界は、
自分をエネmeから目覚めさせ、
脱出させるきっかけになることになり、
離婚とか家庭崩壊?に繋がるかも知れないけど。



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さて、氣を用いたヒーリングにしても、
前世療法にしても、リーディングだのなんだのにしても、
科学的に原理が解明されてもないし、立証できない事だから、
当人がどう位置づけるか・・・
それに価値を見出すか見出さないか、になるのかな。

何しろ見えない世界のことだから、
見えるという人の云うことを信じるしかない。

信じなくてもいいんですけどね。

(でも、霊的な現象の、きわめて特殊な例では、
信じたくなくとも信じざるを得ないような、
すさまじい驚き桃の木ビックリ仰天なこともあるから、
そういうレアケースに出会ってしまったときは
信用できる人を探すしかありませんが)


その胡散臭いことをしている私が言うのも
本当に奇妙というか、おかしいことなんだけども。


重ねていいますが、大事なのは「現実」なんですよ。

今の科学は進んではいるけど、万能ではなく、
まだ解明されてないこともあるし、
科学ですべてを割り切れるわけではないけど、
論理的に考えるってすごく大事なことです。

神仏や霊的なこと、視えない世界に対して謙虚に考え、
畏敬の念を持つのは大事だし、かくあるべきとは思う。

スピリチュアルなことは科学を否定することではないし、
現実世界を軽く考えて、物質を否定することでもないから、
それだけは知っておいて欲しいんです。


スピリチュアルな観点から言うと、
「現実」ほど、大事な学びはないの。
現実で起きていることは、私たちに何かを教えてる。
この現実世界以上に、
私たちを成長させてくれる場所は何処にもないんです。
必要な経験がたくさんある学校なんです。
毎日の現実を生きることは。

周囲の人と関わって、コミュニケーション取って、
自分に与えられた環境でベストを尽くして、
毎日起こる出来事や問題に日々対処して、
考えて悩んで、思って行動して、
そして自分に適性のある分野の仕事をして、
自分自身ととことん付き合っていく・・・

それがスピリチュアルの中で一番大切なこと。
もうそれだけなんです。

別にカルマの清算や償いをするために、
慰霊の旅をしたり、神社やお寺に行って何かしなくてもいいの。
出家したり修行するのはその仕事をするべき道の人だけ。

今生で与えられた自分という器をよく知って、
自分自身の運命を生きようとすれば、
それが自ずとカルマのレッスンに導いてくれるから、
それだけでいいんですよ。十分なんです。

スピリチュアルな観点からのアドバイスを得たいと、
それを利用しようとすることは愚かだとは思わない。
問題は、それがすべてだと信じ込んでしまうこと。
あくまで情報であり、とある方向からの視方でしかなく、
その情報を判断するのが自分であることを忘れないこと。
また絶対に依存したり中毒になったりしてはいけない。
例え未来を予知し、奇跡を起こせるような人であったとしても、
その情報をくれる人自体を盲信してはいけない。

そして、
スピリチュアルな世界について知りたいと、
興味を持ったり、知識を勉強したり、
それをしたい人はすればいいけど、
(うちも教えてたりしますけどっっ)
現実世界のことを疎かにしてまで、そこに耽溺してはならない。

社会の一員としての自分の役割を果たすことのほうが、
とっ~ても大事で、優先順位の高いことだから。
それが出来ないでスピリチュアルな世界の探究は出来ない。

スピリチュアルな世界は現実世界あって然りで、
現実の人生を生きるための知識であって、
現実世界で起きていることを別の角度から認識して、
どう捉えていくかの観念と心の在り方を
示す道標にすべきなんだと思う。

繰り返し言葉を変えていくと、
現実の事象に対処したり、それを考える際の心の置き所を
決める心の法律であり、哲学でしかなく・・・
スピリチュアリティを追求し、実践するために、
現実を犠牲にして、置き去りにすることは、
スピリチュアリティでも何でもない、単なる現実逃避だ。


だから、
「今あなたの身に起きていることは、
 あなたのこのような性格、想い癖が原因で、
 このような対処法が結果的に問題を大きくしている。
 だから、心を改めてやり方を変えてみたり、
 周囲の人との関係性を見直す必要がある」

というアドバイスはアリだし、有益だけれども、

「あなたは過去で罪を犯したから、
 その罪を償うために、
 この仏像を買って拝まなければいけない。
 毎日一日中お題目を唱えなさい」

はちょっとヘンだ。

(実際には先祖の祟りとか神様の障り的なもので
相談者がやらなくてはいけない、
しんどいノルマが生じることも時にあることはあるんだけど
その理由が納得できるかってのも大きいかなぁ)

また、

「あなたのカルマは重い。
 あなたはたくさんの戦に関わっている。
 だから、来週私たちがする慰霊祭に参加しなさい。
 仕事なんてしている場合ではないでしょ」

みたいなのはおかしい。


本人が自分が過去に犯した罪を
自ずとだったり、もしくは他者から指摘されて知ったとき、
自主的にそれをしたいという衝動を持つならいざ知らず、
他者に強制されて言われたままにそれをしても、
慰霊になぞならないからだ。

気持ちが伴ってない形ばかりの謝罪などされても、
誰もが納得いかないのと同じで、霊だって納得しないのよ。

過去の罪を償うために現実のことを疎かにして、
それが何の償いになろうか?

スピリチュアルな活動をいいわけに
仕事でほうぼうに迷惑をかけて、
今の人生でするべきことをせず、
人間関係や大切にするべきものを放置して、
なんなのそれって?

犯罪被害者や遺族が、
加害者に心無い謝罪をされて、お金だけもらっても、
納得しないし、気分すっきりしないのと同じです。

もし本当に過去のことを悔いて、過ちを償いたいのなら、
その罪の重さを知り、二度と過ちを繰り返さないで頂きたい。
現実世界できちんと社会の役に立って生きること、
他者のためになることを無我夢中でやってくれって、
そう思ったりもする。それと同じですよ。




そこが判っていれば・・・

スピリチュアルの本質を誤解せず、
そこんところをきちんと理解していれば、
スピリチュアル・マルチを見抜くことも出来るから、
エセに引っかかることもないだろうし、
スピリチュアル・ハラスメントも回避できると思う。

相手の言葉が非現実的でキツイ物言いだったとしても、
自分がよりよく生きていくために必要な、
本物のスピリチュアルなアドバイスと言うものと
そうではない、スピリチュアルな世界を利用した、
恫喝的で、自分を食い物にするために言われている
ハラスメント的な行為の違いが区別できるようになるでしょう。



・・・うんと、これで書きたいことは書けたかしら?
後で思うところあったら、そのうち書く・・・かも?


そして私自身も、クライアントさんや生徒さんに対して
スピリチュアル・ハラスメントをしないよう、
エゴイズムやスピリチュアルナルシズムに呑まれて、
「相手を思って言ってるつもり」に陥らないように、
重々気を付けないとと痛感しています。
この仕事をする上での営業活動や、お客さんとの関係性が
スピリチュアルマルチにもなってしまわないように、
注意が必要だなあって、そこもハイ。

2016/04/22

どうでもいい昭和の思い出話

身内の死があったり、住居問題が発生したりあれやこれやで、
モチベーションが下がってしまって、
前記事の続きを書けずにそのまま放置状態続いていて申し訳ない。

間つなぎにどうでもいい戯言をば。
スピとはまったく関係ないので、
興味ない人はスルーして下さいナ。



先日、
一部の生徒さんたちと評判のパンケーキを食べに行った際、
(BBA一人ではとても行けない洒落た店なので
ヤング(死語)な彼女たちに付き合ってもらったっっ汗)

最近のティーンたち曰く
「どうして、この頃(昭和)の女子学生たちってスカート長いの?」
と疑問に思ってるらしいという話に。


あ゛あ゛ー そうだよなあ。

今はみんなミニだしぃ。
これが時代ってヤツか・・・


私たちの頃、女子は上着を短くし、
スカートの折り目をほどいてアイロンかけて伸ばし、
努力して少しでも長くしようと頑張ってたなあ。
髪はまあ~金髪はなかったけど、染めたりメッシュ入れたり、
ブローして流して、かまちんカットやサーファーカット・・・
上着の代わりにカーディガンを今でいうとこの
ディレクターズ掛け?したり・・・

男子はソリコミ入れるかリーゼントか角刈りが主流で、
カラーを高くしたり、学ランを短く(短ラン)するか、
長く(長ラン)するかのいずれか、
そしてカバンはひたすらつぶして(時に縫う)薄くして、
マディソンスクエアガーデンのバッグを持ったり、
マスクするのがお約束(当時は花粉症なかったのに)。

※手ぶらが格好いいというか、
荷物が少なければ少ないほどよくって、
勉強しないことが反骨精神の表れっていうのかなあ、
先公には従わないってポーズが恰好いいとされてたのよ。
カバンの中に教科書とか荷物たくさんなのはダサイっていう。


いわゆる不良っていうか、箔をつけたいコは、
男子は学ランの裏地に派手な龍とかのガラ縫い付け、
女子もスカートの裾裏にその手の生地縫い付けたり、
ラインを刺繍したりとかとか・・・

だもんで、不良は自然と裁縫が上手くなる・・・と。

プライベートな私服は、スリット入ったタイトスカートで、
男物のシャツを組みわせたりとか。。モノトーンが多く、
男子は何故かジャージなんだよね。つなぎもいたけど。

今考えると、ヘンに背伸びしてて笑っちゃうし、
なんであんな恰好してたんだろう。
あれが格好いいと思ってたから不思議だ。

わははははは

流行っておかしいよね。


まあ、私たちの時代はそうだった。
荒れてたっていうか、校内暴力世代なもんで。
学校の窓ガラスが割れてるとか、そういうのは当たり前。
ただ、同世代でも地域制で違いはあったと思う。
私の住んでいた学校はそうだった。

そんなんで、
みんなのありあまったパワーや反骨精神(反発心)や
破壊的な衝動は、学校側とか先生とか親とか、
主に大人とか社会など、そっち方面に向いていたので、
同級生同士の深刻なイジメ問題はなかった。
むしろ、不良たちほどイジメられッ子たちを庇う傾向にあって、
パシリにしてイジッたりしても、
とくにハプったり、酷い暴力を振ることもなく。

不登校の生徒とかは当時からもいたなー。



でもって、私は確かにBBAなんだけども、
幼少期の記憶がわりかし鮮やかで、
他の同級生たちと比較しても、記憶の始まりが早く、
同世代が覚えてないような古いことをあれやこれや覚えてる。
上に姉がいたこともあるだろうけど、
2.3歳頃から見ていたテレビとか日常の記憶があるからね。
※直前の人生からの転生が超早かったせいかも知れないが。



年を取ると、昔話が多くなるというか、
昔のことばかり思い出されるようになる。
それはまあ、心霊化学的には当然なんだけどもね。
そこは置いておいて。


今の人生を振り返ると、激動の時代を生きてきたなぁ、と。
もちろん、戦中戦後を生きた、うちの親世代とか、
戦前から生きてる人々とは比べものにはなりませんけども。

私の子供の頃は戦争はとっくに終わっていたし、
東京オリンピックや大阪万博に代表される祭典で
「もはや戦後ではない!」と言わしめせ、
日本は目覚ましい高度成長を遂げていたけれども、
(戦後復興とプロジェクトX世代、段階世代の頑張りのお陰)

まだまだ貧しかったし、物質的には豊かとは言えなかった。
ていうか、貧富の差が激しかったんだよね。
トタンで作られたバラックに住んでいる人たちもまだいたもん。
(ビートたけしの「たけしくん、ハイ」見ると判ると思う)


小学生の頃、
沖縄は占領地で、まだ日本には戻ってなかったんだよ。
今の若い子は驚くだろうね。
沖縄に行くのにパスポートが必要だったなんて(笑)
ていうか、本土と沖縄と自由に行き来が出来なかった。

本土復帰前、
沖縄の高校球児たちが甲子園に出場できるようになったとき、
彼らが持ち帰ろうとした甲子園の砂は、検疫でアウトで、
泣く泣く船から海へと撒かれたものだ。

(本土復帰後も沖縄出身の人は本土の人から差別された。
沖縄だけでなく離島出身者すべて。日本自体が島国なのにね。
そんなんで離島出身の人で出自を隠す人は多かったし、
復帰後から近年まで集団就職してもお給料は
沖縄の人や離島出身者は安かったんだよ~
だから、沖縄の人々が本土に住む私たちと、
日本国に対する思いが違うのは当たり前で、
米軍基地の移転問題を初めとして、色々あって当たり前なの。
日本に利用されたあげく見捨てられて占領地にされたわけだし、
占領されてる期間、治外法権とばかりに苦渋をなめさせられたから
本土の人々が戦後復興と好景気で湧き上がっている間、
沖縄は文化的にも色んな意味で取り残されていたので。
だから、基地問題を語るとき、こうした背景と歴史を理解しないとネ)


中国との国交もまだ断絶したまま。
中国にも行けなかったし、中国に取り残された人も
なかなか戻っては来れなかった。

国交が復活したとき、中国に取り残された人々、
そして多くの残留孤児たちが親を探しに日本にやってきた。

(日本人の子を中国の人が引き取って育ててくれたんだ。
日本人の子を引き取ってるってのがバレたらヤバイのに。
この問題は山崎豊子著「大地の子」とか城戸久枝著の
「あの戦争から遠く離れて」やドラマ化された「遥かなる絆」
映画「乳腺村の子」なんて見ると背景が判るんでないかと)

毎日のように新聞に載って、
身内を探すニュースであふれていたよ。
この問題は今にも尾を引きずっていて、
チャイニーズマフィアが生まれる背景にもなった。


逆にGHQの落とし子たち・・・ハーフにはまだ辛い時代。
彼らは日本社会で生きていくにはまだまだ厳しく、
たくさんのハーフの人たちがアメリカに養子に行ったり、
日本を追われるように旅立っていった。

今のハーフタレントの活躍なんて当時は考えらなかった。
合いの子なんて言われて、差別とイジメの対象だったから。

在日の人も素性を隠さないと大変だった。
韓国朝鮮系の人は随分と差別されてて、
今よりも暮らしづらかったと思う。
この頃に友好的かつ対等であれたなら、
今の両国の関係性もだいぶ違っていたのかな。
反日に傾く土壌も撒かれなかったのかも知れない。


岸壁の母もいっぱいいたね。
戦争でまだ帰らぬ息子を探し求めている人たち。

今の人は岸壁の母は知らないか・・・
戦後、日本に帰還する人たちは、
ほとんどが京都の舞鶴に船で帰国したんですよ。
その中に自分の息子がいないか、配偶者がいないものかと、
船が着くたびに探しに行く人がいたの。

横井さんや小野田さんみたいな人たちも現れたから、
それが希望にもつながったんだろう。

うん。横井さんの帰国も小野田さんの帰国も
リアルにテレビで新聞で見た。

繁華街や寺社仏閣に行くと、傷病兵の人たち・・・
戦争で肉体の一部を失った人たちが、
乞食をしている風景なんて珍しくなかった。
お正月に成田山に行くと、参道にずらっと並んでて、
段ボールにマジックで、自分がどの部隊の出身で、
どの戦場でどのように手足を亡くしたのか、
その後どれほどの不遇を味わっているとか書いてあってね。

そんな風に
まだまだ乞食というか、おもらいさんがいた時代。


うちの親は両親とも親(私からして祖父母)がいたけれども、
同級生の親たちは、戦災孤児って人も少なくなかった。
だからおじいさんとかおばあさんとか親戚がいないみたいな。

テレビでは戦争はいけません、いけません、
そんなプロパガンダ的な番組、ドラマがたくさん。
敗戦国であるということ、反戦の思想、
そういうテーマが根底にあるものが多かった。

まだまだ何処かで戦争、戦後を引きずっていた。
豊かになる一方で、匂いはまだまだ残ってたし、
傷跡や記憶も消えてなかった。


そりゃ、爆弾がリアルに堕ちてくる中、
防空壕で身を潜めてたことがあるうちの親たちにすれば、
「どこに戦争の影が?」ってとこだったみたいだけど。
実際、贅沢は出来なくても、
生のサツマイモをかじるしかなかった頃と比べて、
白いお米が食べれて、砂糖もあるし、着るものもあるし、
言論の自由もあるわけで、
毎日人の死体を大量に見ることも墓穴を掘ることもないからね。

戦争の・・・戦場の話は、田舎に言った時、
祖父のアルバムにある写真を見せてもらったけども、
一緒に映っている人が誰かを少し言うばかりで、
さすがに多くは語らなかった。
満州に行く前のフィリピンだかマレーだかでの白黒写真。
ジャングルみたいな南国の風景だった。




で、たくさん娯楽も生まれてて、
アニメや子供番組、漫画や歌謡曲、バラエティー番組、
アメリカのおしゃれなドラマも放映されてて、
西洋的なカルチャーもたくさん生まれてた。
豊かな国、アメリカに対する憧れをたくさん植えつけられたかなww

今思うと、
日本人が二度とアジアに興味を持つことがないように、
アジアの友である人々と離反するかのように
アジア同士で結託しないよう、そう仕向けられてたような、
意図的に操作されてたよな、そんな気がする。


都会にも自然や田畑がまだまだ残ってて、
トイレはぼっとん式で、衛生的な環境ではなかったけれども、
子供達が大声出して走り回るようなとこも、
いっぱいいっぱいあった。
秘密基地を作るところも、かくれんぼも缶蹴りも、
ボール遊びも、花いちもんめも、凧あげも、虫取りも、
子供の声がうるさいなんて文句言われず、
何処でだって遊べた。

熱苦しい青春ドラマが「青春とは!」とか「若さとは?」と叫び、
スポ根では「根性、根性、ド根性」というのが合言葉で。
なんかやたら大げさだったような・・・

(村野武範とか中村雅俊とかの熱い体育会系の「青春ドラマ」
水谷豊の「熱中先生」、森田健作の「オレは男だ」とか
「刑事くんシリーズ」とか、とにかく熱血系人情系真っ盛りな頃。
子供向けのアニメも梶原一騎なんかのド根性もの全盛期で
「サインはV」でも「金メダルのターン」なんかでも、
とにかくシゴキとか体罰とか、根性と美学で語られちゃう時代)


甘いおやつなんてたまにしか食べれず、
給食は食べるまで対峙させられ居残りを食らっていた。
ゲームセンターなんてなくて、
子供の社交場といったら、学校近くの駄菓子屋さん。
何故かおじいさんとおばあさんがやってるのが定番だったり。


成田空港はなく(反対運動や内ゲバ真っ盛りの頃)、
ディズニーランドもなかった。
船橋ヘルスセンターや谷津遊園、行川アイランドはあったけど(笑)

洗濯機は二層式でもなく、
一層式で脱水機の代わりにローラーがついてた。

掃除機ももちろんあったけど、高かったし、
畳の家のほうがまだまだ多かったから、
ほとんどの家が箒を使ってた。うちも箒だった。
柄のところがとても長い箒、今じゃ見かけないなあ。

オーブンも電子レンジもなく、
お金持ちの家では天火なんてのがあったりした。

計算機が発売されたときはビックリした。

水洗トイレなんて学校とかデパートとか一部の公共施設だけで、
どこもかしこもまだまだボットントイレ(汲み取り式)。
クラスメイトが肥溜め落ちたとかそんなのも結構あったし、
私も落ちそうになったり、定期入れを落としたりした。

トイレットペーパーは高価だったので、チリ紙を使ってた。
ティッシュじゃないんだよ、チリ紙。固くてごわごわしてるの。
下手したら、新聞紙をもんで使ってる家もあったりした。
お尻が真っ黒になっちゃうんだけども(笑)
ンコがきちんと拭き取れなくてアレでしたしっっ汗

給食で出たクジラの立田揚げはゴム草履みたいだった。
でもって給食の中に異物が入ってても問題にはならず、
みんな文句いいながらも食べてたヨ。

あ、ちなみに私は脱脂粉乳は飲んでないデス。
脱脂粉乳はもうちょっと上の人たちの話。
シラミを駆除する白い粉スプレーされてたのも、少し前の世代。

鉛筆削るにはナイフを使ってて、
みんな折り畳みナイフは持ってたかな。
今の時代では危ないってことで、考えられないだろう。

まだまだモノがない時代だったから、
遊び道具にしても文房具にしても、
自分たちで工夫して作るのが定番だったのですよ。
もちろん売ってはいたけど、
高かったから買えない家の子も多かった。

家にお風呂がある家は金持ちの家で、
まだまだ銭湯に通う家も多かったなぁ。
うちもそうだったし。
毎日お風呂に入るなんて贅沢だったよ。


レジ袋なんてなくて、買い物は買い物かごをぶら下げて、
ほとんどむき出しの包装されてないものを買うのが普通で。

学校の前では、色をつけたヒヨコとか、
なんか胡散臭い怪しい?ものを売る行商人なんかよくいて。
子供達のお小遣い巻き上げてたって感じなのかな。
今だったら大問題になるだろう。

夏にはアイスキャンディー売り、冬には焼き芋屋、
チリ紙交換屋がいて、竿竹屋がいて、
ラッパを鳴らして豆腐屋さんが夕方売りに来る。
駅前にはチャルメラやおでん屋。
そういうのが風物詩だった時代。

デパートの屋上には遊園地があって、
新幹線は夢の超特急で・・・海外なんて夢のまた夢で。
映画スターやアイドルはう○こをしないなんて、思われてて。

もちろん携帯はなく、自宅の電話は黒電話。
待ち合わせするときは、
駅の伝言板と自宅にいる誰かが頼りで。




そんな時代から、
気が付けば、あっという間に日本は豊かになっていた。

昭和40年から50年に移行するときが特に急降下的にガラっと。

ものすごいスピーディだった。
昨日まで、ものすごく貧しかったのに、
今日には金持ちになった・・・その位の激しい変化だった。

何もないモノトーンの世界がある日突然カラーになった感じ。

社会人になって、バブルを経験して、恩恵味わって、
バブル崩壊してリーマンショックもあって、
子供の頃のあの日本が嘘みたいに思える。

ちなみに私の頃はまだ大学行く人少なかったよ。
多くはなかったというのかな。高卒が普通。
気が付けば、大学くらい出て当たり前の時代なんだよね、今。




テレビが普及したのは昭和30年代、
私が生まれた頃には各家庭にも何とかある時代で、
それでもとても高価で、カラーテレビはなかなか買えなくて、
白黒のブラウン管テレビでは色々なニュースを見た。
初めてのカラーテレビはとても嬉しかった。





東京オリンピック、渋谷ライフル事件、金嬉老事件、
三億円事件、よど号事件、黒い霧事件、
三島由紀夫の割腹自殺、大久保清事件、
新宿の暴動や東大が燃えるところ、あさま山荘事件、
ベトナム戦争と学生運動、朝鮮戦争、金大中事件、
連合赤軍事件やハイジャック事件やロッキード事件、
ウォーターゲート事件や中東戦争、
東京湾ヘドロ地獄、光化学スモッグ問題、
イタイイタイ病や水俣病、サリドマイド問題、ヒ素事件、
オイルショック、丸の内の三菱重工爆破事件、
ピアノ殺人事件、青酸コーラ事件、君津でのトラ脱走騒動、
三菱銀行の立てこもり事件、新宿バス放火事件、
金属バット殺人、お受験殺人、戸塚ヨットスクール事件、
グリコ森永事件、産業スパイ事件やオンライン横領事件、
ホテルニュージャパンの火災、その翌日の羽田沖墜落、
御巣鷹山墜落、宮崎某による幼女誘拐事件、
東西冷戦時代からペレストロイカ経てベルリンの壁崩壊へ、
神戸の震災、地下鉄サリン事件、昭和天皇の崩御、
平成コメ騒動、ロス疑惑やトリカブト事件、豊田商事事件、
9.11、天安門事件、イ・イ戦争、3.11やらetcetc...

テレビを通して、色んなものを見てきた。
世界中で起きているリアルなこと。
いろんなことがあったなあ、あんなことやこんなこと。

深夜の救出劇や歴史の瞬間を夜通しの中継で見ていたりもした。


ビデオデッキが発売されたのは中学の頃だけど、
高級品すぎて買うのは難しく、価格が下がってから
買えたけど、今はもう別の媒体だもんね。

子供の頃はカセットテープさえなく、
大きなテープをふたつセットするわけのわからない機械があって、
親はそれで浪曲とかを録音して聞いていた。
レコードはドーナツ盤と呼ばれてて、
プレーヤーにLPかけると蓋はしまらず、はみ出していた。
いつの間にかラジオにカセットテープがつくようになり、
テレビの歌番組をそれで録音したりもした。
雑音が酷かったけど。それしか方法がなくて。
それが今じゃCDになり、音楽はダウンロードする時代。
youtubeでも映像が見れるようになった。
巨大だったステレオは小型になりコンポと言われるようになった。


そして今はテレビがなくても、インターネットがあれば
世界中の情報が手に入る。
ホームページやらブログやら、SNSやツイッターで
個人が情報発信をできちゃう。

子供の頃の自分にそれを伝えても信じないだろう。
あの頃を考えると、今という時代のことは嘘みたいな未来だ。


戦争はとっくに終わって平和だったけど、
おなかが空いても、
貧乏で食べるものがなかった子供の頃。
ケーキなんて珍しくて、お菓子なんて贅沢品だったのに、
今はいつだって食べれるし、美味しいものがたくさんある。
コンビニスイーツ万歳、ですもの。

洋服も昔は高くて、なかなか買えなくて、
子供の頃は着た切りスズメだったのに、
(服は継ぎあてだらけでボロボロ、
ベルトは紐ってのもあるあるだった)
今は安いし、色々オシャレも楽しめるのです。

半世紀しか生きてない私でさえ、
これほどの変化を味わっているのだから、
戦前から生きている人にとっては、
日本の70年ていうのは、奇跡的な変化だったかも。

今は便利が当たり前になっているから、
それが日常として受け入れているけど、
こうして昔を振り返ってみると、
たった50年でどれほど日本が進化したのかが
改めて判って、なんかビックリ仰天してしまう。

これからもっともっと日本は変わっていくのかな。


そして若い世代は昔のことを知らずに育っていくのだろう。