モチベーションが下がってしまって、
前記事の続きを書けずにそのまま放置状態続いていて申し訳ない。
間つなぎにどうでもいい戯言をば。
スピとはまったく関係ないので、
興味ない人はスルーして下さいナ。
先日、
一部の生徒さんたちと評判のパンケーキを食べに行った際、
(BBA一人ではとても行けない洒落た店なので
ヤング(死語)な彼女たちに付き合ってもらったっっ汗)
最近のティーンたち曰く
「どうして、この頃(昭和)の女子学生たちってスカート長いの?」
と疑問に思ってるらしいという話に。
あ゛あ゛ー そうだよなあ。
今はみんなミニだしぃ。
これが時代ってヤツか・・・
私たちの頃、女子は上着を短くし、
スカートの折り目をほどいてアイロンかけて伸ばし、
努力して少しでも長くしようと頑張ってたなあ。
髪はまあ~金髪はなかったけど、染めたりメッシュ入れたり、
ブローして流して、かまちんカットやサーファーカット・・・
上着の代わりにカーディガンを今でいうとこの
ディレクターズ掛け?したり・・・
男子はソリコミ入れるかリーゼントか角刈りが主流で、
カラーを高くしたり、学ランを短く(短ラン)するか、
長く(長ラン)するかのいずれか、
そしてカバンはひたすらつぶして(時に縫う)薄くして、
マディソンスクエアガーデンのバッグを持ったり、
マスクするのがお約束(当時は花粉症なかったのに)。
※手ぶらが格好いいというか、
荷物が少なければ少ないほどよくって、
勉強しないことが反骨精神の表れっていうのかなあ、
先公には従わないってポーズが恰好いいとされてたのよ。
カバンの中に教科書とか荷物たくさんなのはダサイっていう。
いわゆる不良っていうか、箔をつけたいコは、
男子は学ランの裏地に派手な龍とかのガラ縫い付け、
女子もスカートの裾裏にその手の生地縫い付けたり、
ラインを刺繍したりとかとか・・・
だもんで、不良は自然と裁縫が上手くなる・・・と。
プライベートな私服は、スリット入ったタイトスカートで、
男物のシャツを組みわせたりとか。。モノトーンが多く、
男子は何故かジャージなんだよね。つなぎもいたけど。
今考えると、ヘンに背伸びしてて笑っちゃうし、
なんであんな恰好してたんだろう。
あれが格好いいと思ってたから不思議だ。
わははははは
流行っておかしいよね。
まあ、私たちの時代はそうだった。
荒れてたっていうか、校内暴力世代なもんで。
学校の窓ガラスが割れてるとか、そういうのは当たり前。
ただ、同世代でも地域制で違いはあったと思う。
私の住んでいた学校はそうだった。
そんなんで、
みんなのありあまったパワーや反骨精神(反発心)や
破壊的な衝動は、学校側とか先生とか親とか、
主に大人とか社会など、そっち方面に向いていたので、
同級生同士の深刻なイジメ問題はなかった。
むしろ、不良たちほどイジメられッ子たちを庇う傾向にあって、
パシリにしてイジッたりしても、
とくにハプったり、酷い暴力を振ることもなく。
不登校の生徒とかは当時からもいたなー。
でもって、私は確かにBBAなんだけども、
幼少期の記憶がわりかし鮮やかで、
他の同級生たちと比較しても、記憶の始まりが早く、
同世代が覚えてないような古いことをあれやこれや覚えてる。
上に姉がいたこともあるだろうけど、
2.3歳頃から見ていたテレビとか日常の記憶があるからね。
※直前の人生からの転生が超早かったせいかも知れないが。
年を取ると、昔話が多くなるというか、
昔のことばかり思い出されるようになる。
それはまあ、心霊化学的には当然なんだけどもね。
そこは置いておいて。
今の人生を振り返ると、激動の時代を生きてきたなぁ、と。
もちろん、戦中戦後を生きた、うちの親世代とか、
戦前から生きてる人々とは比べものにはなりませんけども。
私の子供の頃は戦争はとっくに終わっていたし、
東京オリンピックや大阪万博に代表される祭典で
「もはや戦後ではない!」と言わしめせ、
日本は目覚ましい高度成長を遂げていたけれども、
(戦後復興とプロジェクトX世代、段階世代の頑張りのお陰)
まだまだ貧しかったし、物質的には豊かとは言えなかった。
ていうか、貧富の差が激しかったんだよね。
トタンで作られたバラックに住んでいる人たちもまだいたもん。
(ビートたけしの「たけしくん、ハイ」見ると判ると思う)
小学生の頃、
沖縄は占領地で、まだ日本には戻ってなかったんだよ。
今の若い子は驚くだろうね。
沖縄に行くのにパスポートが必要だったなんて(笑)
ていうか、本土と沖縄と自由に行き来が出来なかった。
本土復帰前、
沖縄の高校球児たちが甲子園に出場できるようになったとき、
彼らが持ち帰ろうとした甲子園の砂は、検疫でアウトで、
泣く泣く船から海へと撒かれたものだ。
(本土復帰後も沖縄出身の人は本土の人から差別された。
沖縄だけでなく離島出身者すべて。日本自体が島国なのにね。
そんなんで離島出身の人で出自を隠す人は多かったし、
復帰後から近年まで集団就職してもお給料は
沖縄の人や離島出身者は安かったんだよ~
だから、沖縄の人々が本土に住む私たちと、
日本国に対する思いが違うのは当たり前で、
米軍基地の移転問題を初めとして、色々あって当たり前なの。
日本に利用されたあげく見捨てられて占領地にされたわけだし、
占領されてる期間、治外法権とばかりに苦渋をなめさせられたから
本土の人々が戦後復興と好景気で湧き上がっている間、
沖縄は文化的にも色んな意味で取り残されていたので。
だから、基地問題を語るとき、こうした背景と歴史を理解しないとネ)
中国との国交もまだ断絶したまま。
中国にも行けなかったし、中国に取り残された人も
なかなか戻っては来れなかった。
国交が復活したとき、中国に取り残された人々、
そして多くの残留孤児たちが親を探しに日本にやってきた。
(日本人の子を中国の人が引き取って育ててくれたんだ。
日本人の子を引き取ってるってのがバレたらヤバイのに。
この問題は山崎豊子著「大地の子」とか城戸久枝著の
「あの戦争から遠く離れて」やドラマ化された「遥かなる絆」
映画「乳腺村の子」なんて見ると背景が判るんでないかと)
毎日のように新聞に載って、
身内を探すニュースであふれていたよ。
この問題は今にも尾を引きずっていて、
チャイニーズマフィアが生まれる背景にもなった。
逆にGHQの落とし子たち・・・ハーフにはまだ辛い時代。
彼らは日本社会で生きていくにはまだまだ厳しく、
たくさんのハーフの人たちがアメリカに養子に行ったり、
日本を追われるように旅立っていった。
今のハーフタレントの活躍なんて当時は考えらなかった。
合いの子なんて言われて、差別とイジメの対象だったから。
在日の人も素性を隠さないと大変だった。
韓国朝鮮系の人は随分と差別されてて、
今よりも暮らしづらかったと思う。
この頃に友好的かつ対等であれたなら、
今の両国の関係性もだいぶ違っていたのかな。
反日に傾く土壌も撒かれなかったのかも知れない。
岸壁の母もいっぱいいたね。
戦争でまだ帰らぬ息子を探し求めている人たち。
今の人は岸壁の母は知らないか・・・
戦後、日本に帰還する人たちは、
ほとんどが京都の舞鶴に船で帰国したんですよ。
その中に自分の息子がいないか、配偶者がいないものかと、
船が着くたびに探しに行く人がいたの。
横井さんや小野田さんみたいな人たちも現れたから、
それが希望にもつながったんだろう。
うん。横井さんの帰国も小野田さんの帰国も
リアルにテレビで新聞で見た。
繁華街や寺社仏閣に行くと、傷病兵の人たち・・・
戦争で肉体の一部を失った人たちが、
乞食をしている風景なんて珍しくなかった。
お正月に成田山に行くと、参道にずらっと並んでて、
段ボールにマジックで、自分がどの部隊の出身で、
どの戦場でどのように手足を亡くしたのか、
その後どれほどの不遇を味わっているとか書いてあってね。
そんな風に
まだまだ乞食というか、おもらいさんがいた時代。
うちの親は両親とも親(私からして祖父母)がいたけれども、
同級生の親たちは、戦災孤児って人も少なくなかった。
だからおじいさんとかおばあさんとか親戚がいないみたいな。
そんなプロパガンダ的な番組、ドラマがたくさん。
敗戦国であるということ、反戦の思想、
そういうテーマが根底にあるものが多かった。
まだまだ何処かで戦争、戦後を引きずっていた。
豊かになる一方で、匂いはまだまだ残ってたし、
傷跡や記憶も消えてなかった。
そりゃ、爆弾がリアルに堕ちてくる中、
防空壕で身を潜めてたことがあるうちの親たちにすれば、
「どこに戦争の影が?」ってとこだったみたいだけど。
実際、贅沢は出来なくても、
生のサツマイモをかじるしかなかった頃と比べて、
白いお米が食べれて、砂糖もあるし、着るものもあるし、
言論の自由もあるわけで、
毎日人の死体を大量に見ることも墓穴を掘ることもないからね。
戦争の・・・戦場の話は、田舎に言った時、
祖父のアルバムにある写真を見せてもらったけども、
一緒に映っている人が誰かを少し言うばかりで、
さすがに多くは語らなかった。
満州に行く前のフィリピンだかマレーだかでの白黒写真。
ジャングルみたいな南国の風景だった。
で、たくさん娯楽も生まれてて、
アニメや子供番組、漫画や歌謡曲、バラエティー番組、
アメリカのおしゃれなドラマも放映されてて、
西洋的なカルチャーもたくさん生まれてた。
豊かな国、アメリカに対する憧れをたくさん植えつけられたかなww
今思うと、
日本人が二度とアジアに興味を持つことがないように、
アジアの友である人々と離反するかのように
アジア同士で結託しないよう、そう仕向けられてたような、
意図的に操作されてたよな、そんな気がする。
都会にも自然や田畑がまだまだ残ってて、
トイレはぼっとん式で、衛生的な環境ではなかったけれども、
子供達が大声出して走り回るようなとこも、
いっぱいいっぱいあった。
秘密基地を作るところも、かくれんぼも缶蹴りも、
ボール遊びも、花いちもんめも、凧あげも、虫取りも、
子供の声がうるさいなんて文句言われず、
何処でだって遊べた。
熱苦しい青春ドラマが「青春とは!」とか「若さとは?」と叫び、
スポ根では「根性、根性、ド根性」というのが合言葉で。
なんかやたら大げさだったような・・・
(村野武範とか中村雅俊とかの熱い体育会系の「青春ドラマ」
水谷豊の「熱中先生」、森田健作の「オレは男だ」とか
「刑事くんシリーズ」とか、とにかく熱血系人情系真っ盛りな頃。
子供向けのアニメも梶原一騎なんかのド根性もの全盛期で
「サインはV」でも「金メダルのターン」なんかでも、
とにかくシゴキとか体罰とか、根性と美学で語られちゃう時代)
甘いおやつなんてたまにしか食べれず、
給食は食べるまで対峙させられ居残りを食らっていた。
ゲームセンターなんてなくて、
子供の社交場といったら、学校近くの駄菓子屋さん。
何故かおじいさんとおばあさんがやってるのが定番だったり。
成田空港はなく(反対運動や内ゲバ真っ盛りの頃)、
ディズニーランドもなかった。
船橋ヘルスセンターや谷津遊園、行川アイランドはあったけど(笑)
洗濯機は二層式でもなく、
一層式で脱水機の代わりにローラーがついてた。
掃除機ももちろんあったけど、高かったし、
畳の家のほうがまだまだ多かったから、
ほとんどの家が箒を使ってた。うちも箒だった。
柄のところがとても長い箒、今じゃ見かけないなあ。
オーブンも電子レンジもなく、
お金持ちの家では天火なんてのがあったりした。
計算機が発売されたときはビックリした。
水洗トイレなんて学校とかデパートとか一部の公共施設だけで、
どこもかしこもまだまだボットントイレ(汲み取り式)。
クラスメイトが肥溜め落ちたとかそんなのも結構あったし、
私も落ちそうになったり、定期入れを落としたりした。
トイレットペーパーは高価だったので、チリ紙を使ってた。
ティッシュじゃないんだよ、チリ紙。固くてごわごわしてるの。
下手したら、新聞紙をもんで使ってる家もあったりした。
お尻が真っ黒になっちゃうんだけども(笑)
ンコがきちんと拭き取れなくてアレでしたしっっ汗
給食で出たクジラの立田揚げはゴム草履みたいだった。
でもって給食の中に異物が入ってても問題にはならず、
みんな文句いいながらも食べてたヨ。
あ、ちなみに私は脱脂粉乳は飲んでないデス。
脱脂粉乳はもうちょっと上の人たちの話。
シラミを駆除する白い粉スプレーされてたのも、少し前の世代。
鉛筆削るにはナイフを使ってて、
みんな折り畳みナイフは持ってたかな。
今の時代では危ないってことで、考えられないだろう。
まだまだモノがない時代だったから、
遊び道具にしても文房具にしても、
自分たちで工夫して作るのが定番だったのですよ。
もちろん売ってはいたけど、
高かったから買えない家の子も多かった。
家にお風呂がある家は金持ちの家で、
まだまだ銭湯に通う家も多かったなぁ。
うちもそうだったし。
毎日お風呂に入るなんて贅沢だったよ。
レジ袋なんてなくて、買い物は買い物かごをぶら下げて、
ほとんどむき出しの包装されてないものを買うのが普通で。
学校の前では、色をつけたヒヨコとか、
なんか胡散臭い怪しい?ものを売る行商人なんかよくいて。
子供達のお小遣い巻き上げてたって感じなのかな。
今だったら大問題になるだろう。
夏にはアイスキャンディー売り、冬には焼き芋屋、
チリ紙交換屋がいて、竿竹屋がいて、
ラッパを鳴らして豆腐屋さんが夕方売りに来る。
駅前にはチャルメラやおでん屋。
そういうのが風物詩だった時代。
デパートの屋上には遊園地があって、
新幹線は夢の超特急で・・・海外なんて夢のまた夢で。
映画スターやアイドルはう○こをしないなんて、思われてて。
もちろん携帯はなく、自宅の電話は黒電話。
待ち合わせするときは、
駅の伝言板と自宅にいる誰かが頼りで。
そんな時代から、
気が付けば、あっという間に日本は豊かになっていた。
昭和40年から50年に移行するときが特に急降下的にガラっと。
ものすごいスピーディだった。
昨日まで、ものすごく貧しかったのに、
今日には金持ちになった・・・その位の激しい変化だった。
何もないモノトーンの世界がある日突然カラーになった感じ。
社会人になって、バブルを経験して、恩恵味わって、
バブル崩壊してリーマンショックもあって、
子供の頃のあの日本が嘘みたいに思える。
ちなみに私の頃はまだ大学行く人少なかったよ。
多くはなかったというのかな。高卒が普通。
気が付けば、大学くらい出て当たり前の時代なんだよね、今。
テレビが普及したのは昭和30年代、
私が生まれた頃には各家庭にも何とかある時代で、
それでもとても高価で、カラーテレビはなかなか買えなくて、
白黒のブラウン管テレビでは色々なニュースを見た。
初めてのカラーテレビはとても嬉しかった。
東京オリンピック、渋谷ライフル事件、金嬉老事件、
三億円事件、よど号事件、黒い霧事件、
三島由紀夫の割腹自殺、大久保清事件、
新宿の暴動や東大が燃えるところ、あさま山荘事件、
ベトナム戦争と学生運動、朝鮮戦争、金大中事件、
連合赤軍事件やハイジャック事件やロッキード事件、
ウォーターゲート事件や中東戦争、
東京湾ヘドロ地獄、光化学スモッグ問題、
イタイイタイ病や水俣病、サリドマイド問題、ヒ素事件、
オイルショック、丸の内の三菱重工爆破事件、
ピアノ殺人事件、青酸コーラ事件、君津でのトラ脱走騒動、
三菱銀行の立てこもり事件、新宿バス放火事件、
金属バット殺人、お受験殺人、戸塚ヨットスクール事件、
グリコ森永事件、産業スパイ事件やオンライン横領事件、
ホテルニュージャパンの火災、その翌日の羽田沖墜落、
御巣鷹山墜落、宮崎某による幼女誘拐事件、
東西冷戦時代からペレストロイカ経てベルリンの壁崩壊へ、
神戸の震災、地下鉄サリン事件、昭和天皇の崩御、
平成コメ騒動、ロス疑惑やトリカブト事件、豊田商事事件、
9.11、天安門事件、イ・イ戦争、3.11やらetcetc...
テレビを通して、色んなものを見てきた。
世界中で起きているリアルなこと。
いろんなことがあったなあ、あんなことやこんなこと。
深夜の救出劇や歴史の瞬間を夜通しの中継で見ていたりもした。
ビデオデッキが発売されたのは中学の頃だけど、
高級品すぎて買うのは難しく、価格が下がってから
買えたけど、今はもう別の媒体だもんね。
子供の頃はカセットテープさえなく、
大きなテープをふたつセットするわけのわからない機械があって、
親はそれで浪曲とかを録音して聞いていた。
レコードはドーナツ盤と呼ばれてて、
プレーヤーにLPかけると蓋はしまらず、はみ出していた。
いつの間にかラジオにカセットテープがつくようになり、
テレビの歌番組をそれで録音したりもした。
雑音が酷かったけど。それしか方法がなくて。
それが今じゃCDになり、音楽はダウンロードする時代。
youtubeでも映像が見れるようになった。
巨大だったステレオは小型になりコンポと言われるようになった。
そして今はテレビがなくても、インターネットがあれば
世界中の情報が手に入る。
ホームページやらブログやら、SNSやツイッターで
個人が情報発信をできちゃう。
子供の頃の自分にそれを伝えても信じないだろう。
あの頃を考えると、今という時代のことは嘘みたいな未来だ。
戦争はとっくに終わって平和だったけど、
おなかが空いても、
貧乏で食べるものがなかった子供の頃。
ケーキなんて珍しくて、お菓子なんて贅沢品だったのに、
今はいつだって食べれるし、美味しいものがたくさんある。
コンビニスイーツ万歳、ですもの。
洋服も昔は高くて、なかなか買えなくて、
子供の頃は着た切りスズメだったのに、
(服は継ぎあてだらけでボロボロ、
ベルトは紐ってのもあるあるだった)
今は安いし、色々オシャレも楽しめるのです。
半世紀しか生きてない私でさえ、
これほどの変化を味わっているのだから、
戦前から生きている人にとっては、
日本の70年ていうのは、奇跡的な変化だったかも。
今は便利が当たり前になっているから、
それが日常として受け入れているけど、
こうして昔を振り返ってみると、
たった50年でどれほど日本が進化したのかが
改めて判って、なんかビックリ仰天してしまう。
これからもっともっと日本は変わっていくのかな。
そして若い世代は昔のことを知らずに育っていくのだろう。
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