2017/01/29

論語読みの論語知らず(前半)

はっきり言って私は、たいした人間ではありません。

こんな仕事をしてはいますが、
だからといって、特別な人間なのではなく、
平凡な何のチカラもないただのオバサンです。

たいした才能もスキルも持っていません。

占いがちょっと出来るとか、
人の氣をちょっと読むことが出来るとか、
ヒーリングが多少出来たりもするし、
時に過去生を見たりすることもあるけれど、

その程度です。

霊能力者でも透視能力者でもなく、
すべて何もかもが見通せるような、何でもわかる人ではありません。

判らないことだらけだし、出来ないことだらけです。

評論家がうんちくを垂れて、あれやこれや解説は出来ても、
実際の現場では役立たずだったり、
プレーヤーとしては無能だったりするのと同じで、
知識は持っていても、解説は出来ても、そこ止まりで、
判るから解決出来る能力と技術を持っているわけではないのです。

これは謙遜ではなく、自己卑下でもなく、事実です。

たまにまぐれで実力以上の結果を出せることもあるけれど、
残念ながら私には、多くの人の力になれるほどの、
素晴らしい能力やパワーは備わっていないのです。

奇跡なんか起こせません。
霊だって見えません。呪詛返しも除霊も浄霊も出来ません。
病気を治したり、失くし物を見つけたり、
人の心を読んだり、未来予知とかも出来ません。

大したことは出来ないんです。
ちょっとしたことが出来る程度で。
ほんの少しばかり、判ることがある程度で。


けれど、どうしてそんな三流のセラピスト(ヒーラー)で、
三流のスピリチュアリストが仕事をしているかっていうと、

それはそれ、
私みたいな三流にも三流なりに出来ることがあるからです。

ヘタレなへっぽこはヘタレなへっぽこなりに、
それでも人の役に立っていることもあるようなのです。

何故なら、
一流じゃない二流でもない、
人としても不出来でダメなとこだらけの三流ですが、
三流には三流にしかできない事があったりしますから。



このブログを書き始めたとき、そして今でも、
私にはたくさんのスピリチュアルナルシズムやエゴイズムがあり、
ここに書いてある記事の文章や内容からも、
その臭いがプンプンしています。

少しして振り返って、読み返すなどしたとき、
書かれていることの中に自分のエゴイズムや自惚れを見つけて、
吐き気がするほど気分が悪くなるときがあります。
我ながら情けないというか、自分にがっかりしてへこむことも多いです。

それでも削除しないで、生き恥をさらすことをし続けているのは、
自己欺瞞や自惚れや高慢ちきな目線に満ち溢れた、
そんなスピリチュアルナルシズムとエゴイズムまみれの
文章であったとしても、誰かの役に立つことがあるからです。


怒りと醜い、どす黒い感情から吐き出したような、
そんな書きなぐった文章であっても・・・

それを読んで、目が醒めたとか、溜飲が下がったとか、
自分が抱いている感情や違和感が何なのか分かったとか、
そんな風に、その人が必要としている情報を、
駄文から見つけて下さる人もいるので、

波動が低い言葉(言霊)の羅列であったとしても、
そこに感じるものがある人がいる限りは、
過去に私がそれを書いたことも意味のあるものなのだろうって、
イイワケでしょうが、開き直っていたりもするのです。


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思えば、この仕事を通して、つくづく私は、
自分の成長の機会をさせて頂いてるなあと実感します。


この世は学校で、人生とは学びであり、
生きることは日々楽しみながら、自分を完成させること。

それを別の言い方で修行とも申します。


お客さんの問題と向き合うことは、
自分の問題と向き合うことだなぁと本当に思います。

とくにレッスンの生徒さんに関してはそうです。
個人セッションのお客さんはその場限りの相談がメインなんで、
全体的なサポートはしないし、そこまで深く関わることもしません。
けれども、レッスンの生徒さんは、
年単位での長期的な関わりなんで(長い付き合いというか)、
その人固有のあるいは家族も含めての、
大きな人生の流れ、全体的なサポートをすることになります。

そうすると、必然的にその人が私の映し鏡の存在になり、
その人にとっては私が自身の映し鏡(反面教師)となり、
生徒さんの問題に取り組むことは、
私自身の問題に取り組むことになってきます。

引き寄せられて出会った存在でもありますから。


これまで、私の人生に痛みをもたらした人は、
私自身の内なる問題(ネガティブな思考)を具現化し、
外側の存在として知らしめてくれた、「教師」に他なりません。

こういう気づきを得られるようになったのも、
この道に進んで、この仕事を通して、知識を理論と実践から、
多くを学ぶことが出来たからだとも思います。


私が占いの道に進んだのは、
私からすると単なる成り行きであり、
成りたくて成った職業ではありませんでした。

そのあたりの事は他の記事の何処かに書いたと思うから、
深くは触れませんが・・・

たまたまレイキのアチューンメントを受けて、
それをきっかけとして、ヒーリングをするようになってから、
そしてそのセッションを通して体験した、
様々な不思議な出来事があり、
幼少期から疑問に思っていたことも含めて、
自分の身に起きていることを知りたいと、
これはいったいどういうことなのか?・・・と。

そんな風に思っていたとき、
当時の友人から、ダスカロスの本を教えてもらいました。

それを読んで、すべての疑問が解けてから、
私は彼の教えを学び始めました。

それはちょうど11年前のことでした。

学び始めると同時に、
たくさんの「お試し」が起きたように思います。

自分の中のエゴイズムの掃除が始まったかのように、
自分の内側でも外側でも色んな事が起こりました。

気づきも起こったけど、同時に罠もあり、
スピリチュアルナルシズムに囚われたり、
ひとつ気づいては後退して、また膿が出て、
そしてまた、エゴイズムに囚われている自分に気づかず、
何もかも知ったような錯覚に陥って、
誤った考え方に囚われて、上から目線でいたり、
下手な自己擁護をして、自分が正しいと思いんでいたり、

まぁ、色々です。

今考えると恥ずかしいもので。

何度も、はっとして、気づかされて、
ひとつステップアップしたような気になって、
でも、数年経って振り替えると、
その気づいたと思ってた自分がまた、
全然気づいてないじゃんって状態だったと気づかされ。

その繰り返しですねー

クライアントさんのセッションや
そのセッションでの仕えない無能な自分。
勘違いして何か出来たようになっている自分。

スクールを主催していて、あれやこれや起きるトラブル、
生徒さんの抱える問題に自分の問題を見つけて、
エゴイズムが騒ぎ出したり。

仕事もそうだし、プライベートでも。

様々な感情の問題、私がもともと抱える弱さ、
人間としてのダメダメさ、何かあると逃げるところとか、
繰り返し対峙させられました。


ついこの間も、ワークショップのレジュメを作ろうと、
その参考にするべく、昔作った古いテキストを開いたなら、
テキストのあまりの不親切な出来に、唖然とさせられたり。
(情報が詰め込み過ぎで、初心者に分かりづらい)
そんなところに自分のエゴイズム・・・
自己満足に浸り、自分本位な目線から、
とても良い、分かり易いテキストを作っているという自惚れ、
そんなのを見つけて、吐き気を覚えたりしました。

なんて傲慢だったんだろうって。

優しくなかったなあ、と・・・

色々と反省しました。

気づいたことはそれだけでは無く、
ひとつ気づくと雪崩のように、あれやこれやと
過去の情けない自分、高慢ちきな勘違い女だった、
過去の自分のアラがたくさん見えてきて、

自己嫌悪でしばらく立ち直りませんでした。


本当に、過去の自分から長所を見つけるのは難しいです。

恥ずかしくて穴が入りたいと思うこともしばしば。

だからと言って、今の自分はどうか・・・と言われれば、
たいして進歩しているようには思えません。

それでも、こうした過去の生意気な自分を「恥」と
思えるようになっただけ、マシと言えるのかも知れませんが。

それも、なんだかんだ、真理のお勉強を続けて来れたから。
「スピリチュアリズム」たる、真理の教えを、
ダスカレの教えに沿って、日々のエクササイズや学びを
何とかやれてこれたからでしょうか。

また、その本流たる教えを核にして、
グループレッスンやスピリチュアリズムの講座を
生徒さんたち、参加者の人たちに教える機会を
こうして持ち、何年も続けて来られたお陰だと思います。

この霊的知識ありきで、
自分の人生の問題に取り組んだり、
自分自身と向き合う機会を持ち続けられたからこそ、
ようやっとの今の心境、
自分の成長を感じられる場所に来れたのでしょう。

でなければ、変わることは出来ず、
昔のまま、高慢ちきで、自惚れた、生意気なヤツのまま、
年を取って、色んな人に嫌われて、憎まれて、
エラソーな態度で上から目線のことを言い続け、
自分の醜悪さに気づかず、老害となって、
キチな姿をさらして生きていたに違いありません。

もしくは勘違いして、邪悪な霊に取り込まれ、
精神を病むことになっていた可能性も高いです。


それでもまだ、気づいていないエゴイズムはたくさんあるし、
怠けていたこと、さぼっていたこと、たくさんありすぎで、
人としての力が付いているとは言えず、
まっとうな人間になれているかというと、自信はありません。

ようやっとまっさらなスタートライン立てた、

その程度でしょうか。


この年になってようやく、というのが情けないけれども。

そしてこれからも、学びの日々は続くし、道のりは果てしなく、
先は長いなあって思います。

それでも自分を育てていく作業には終わりはなく、
日々精進して、心の澱を掃除して、
人様のお役に立てるような人間になるべく、
成りたい自分になるために・・・
このダメダメな自分と付き合っていくのであります。

もちろん、人生を楽しむことも忘れてはいません。


思うに、謙虚さと感謝。

これをいつも忘れたらいけないのだと痛感します。

謙虚になるのって本当に難しい。

自分にはこの謙虚さが足りず、
謙虚さと感謝が足りないことから、
数々の問題がいつだって起こっていたんだよなあ、と改めて。


まぁ、11年もかかって、ようやっとここまで来れたかなあ・・・

ていうか、11年でこれだけの進歩かよって、情けないですね。

トホホホホ


で、後半に続く

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