2019/02/26

おしゃべり泥棒と遅刻魔とデモデモダッテちゃん



 人間の悩みはすべて人間関係の悩みである
  by アルフレッド・アドラー「嫌われる勇気」


おしゃべり泥棒というのは、
他人が話している時、
その話題を横からかっさらって、
自分の話にすり替えてしまう人のこと

いつでも自分が話の主役でないと、気が済まないタイプ?
そういう目立ちたがりならまだわかりやすいけど
無意識的にそれをやっている人もいたりする
(構ってちゃんもこの部類か)

こういう人いました
その人は他人の人間関係も欲しがる
知人や友人の話をすると、
「私、絶対その人と気が合うと思うんだ~」
会ってもいないのに、相手が拒絶するかも知れないのに
なんでしょうか、この自信

そのクセ、
複数人でいると、必ず誰かを会話の中から排除してハブる
3人いれば 1vs1で話し、1人を無視してイチャコラ
4人以上ならば 必ず1人を空気扱いして無視する

ようするに自己愛性人格障害のもっともたる人なワケだ

常に他人の関心を得てないと死んでしまうとばかり
同時に仲間外れをするのは
最下位を作っておきたいからなんでしょう

まぁ、こういう人は必ずボーダーも入っていますし…
他人の領域に土足でヅカヅカ入ってくる
ようするに厚かましい人です

他人から何かされることが当たり前で
してもらってもお礼はしない もちろん感謝もない
自分からは何も与えようとはしません
言葉では言うけど口だけです 行動は伴いません


 この世の中、見方によっては、
 すべて人と人との約束のうえに成り立っているといってもよい。
 友人との待ち合わせの時間の約束から、金銭物品の貸借の約束、
 さらには社則や国家の法律というものも、
 おたがいの生活を秩序だて円滑にするための、
 一つの大事な約束ごとであるといってよい。

 約束はおたがいの信用の上に花ひらく。
 だからこれらの約束を守るか守らないかは、
 人間の精神の高まりを示す一つのバロメーターであって、
 道義とか道徳というものも、
 こうしたところにその成果の如何をあらわしてくる。

 自分に都合が悪くなったからといって、
 平気で約束を破るというのは、これはまさに動物の世界。
 人間だけが、おたがいにかわした約束は、
 これをキチンと守るという
 天与の高い精神の働きを持っているのである。

 もしもこの精神が力弱くなったら、
 その影響は社会生活のあらゆる面に
 物心とものおおきなマイナスとなってあらわれてくる。
 単に待ち合わせの時間を ムダにするというようなことだけでは
 事はすまないであろう。おたがいに、約束は守りたい。

 by 松下幸之助「道はひらく」


こういう人もいました

時間にルーズな人
遅刻、ドタキャン当たり前
その理由はたいてい寝坊です

体調が悪いっていうけれど
得てして自覚というか性根であり意識の問題
自己管理が出来ていないといえばそう
生活も不規則で仕事でもミス多く
色んな人に迷惑をかけてもその場限り
職場で不興を買っていても
自分のそうした、ふてぶてしさや生活態度、
性格的ルーズさからとは当人考えません

約束を破るということ
時間を守らないということが
どういうことなのか…
まるでわかっていないのです
自分のしていることが相手をないがしろにし、
他人の時間を奪っているという自覚がないのです

こういう人は他人を自分以下に見ているのです
他人に迷惑をかけてもいいと思っているのです
自分に比べて相手はとるに足らない存在だと
行動で示しているのです

だから遅刻して他人に迷惑をかけても平気なのです

気が乗らないのなら最初から約束しなければいいし
朝が弱いなら、確実に起きれる時間を設定すればいい



 解決策がわからないのではない。問題がわかってないのだ。
  by ギルバート・ケイス・チェスタトン「ブラウン神父の醜聞」



構ってちゃんや察してちゃんも厄介ですが
一番困るのがデモデモダッテちゃん

悩みを訴えて、
延々と己が立場の不条理さや周囲の理不尽さを語るものの、
周囲がアドバイスをしたとしても、まず聞いてない

「でも・・・」「だって・・・」

ようするに共感だけして欲しいわけです
お説教はノーサンキューときたもんで
自分の気に染まないことを言われると、
ぶーたれて子供みたいにふてくされる

同情されたい 心配されたい
可哀そうにって、言って欲しいだけなんです
自分でその問題を解決するための、
ヒントを求めているわけじゃない

ああいえばこういうで、
いつだって相手が悪くて自分は悪くないと言う

解決策を提示しても
「それは難しい」ばかりを連呼して抵抗し反発する
自分に都合の悪いことはすべてスルーする
自分の欠点や問題は見ないふり




 必要であればあるほど拒まれるものがある。
 それは忠告だ。
 それを余計に必要とする人すなわち無智な人々からいやがられる

  by レオナルド・ダ・ヴィンチ



自己愛性人間の特徴として、
時間や約束、人間関係にルーズであるというのがあります
あわせて被害者意識の強さ 自己弁護力の高さ

そしてコンプレックスを剥き出しにするという、
一見して自己評価が低いように見せかけながら、
実のところ「私を認めろ!」っていう気持ちが強いんです
そんな承認欲求

すべて甘えの構図です

今の自分のままで愛されたい 受け入れられたい
甘えさせて欲しい 許して欲しい
認めて欲しい 評価して 尊重してほしい
自分のことを大切に扱って欲しい

単純に言って、批判されたくないんですね
だから批判や批評にものすごく弱くて
否定されることに敏感で
何かというと「傷ついた」と大騒ぎする
他人の善意でさえ悪意に取る

でも努力は大嫌い


誰だって欠点はあるし、完璧な人なんていやしないし、
誰しもが成長途中で発展途上ではあるけれども…

如何せん許容する方にも限界やキャパがあります




 過去の経験は今の姿と関係ありません
  by シーザー・ミラン




私のサロンで行っているようなセッション、
すなわち
非科学的な角度から問題の考察を図り、
アプローチを行っているようなところを訪れる
上記のようなタイプの人(に限りませんが)の多くが、
自分の問題を外部に求める傾向にあります


問題の本質が、

・心霊的な現象なのか
・カルマ的な学びとして起きているのか
・過去生の記憶に由来する心理的外傷なのか

とかとか

原因を見つけて 知るべきを知って
根本の根を断ち切り解決を図ることが
本来この手のアプローチ、テクニックの目的なんですが、

ただ自分以外の「何か」のせいにするために…
"心霊的現象"や"過去生"を言い訳や理由にしたいがために、
スピリチュアルなことに答えを求める人は減りません

そういう自己愛の強い人には、
スピリチュアルな知識も説明も、害悪にしか成り得ません
だってイイワケの材料にされちゃうだけですもの
その人の人間的成長を阻害する知識以外の何物でもなく、
中二病的な妄想を誘発して現実逃避させるだけで、
何の解決にもなりません

エゴイズムを増長させるだけです
(こういう場合、過去生も心霊的現象も冤罪の対象か!)

そんな人をたくさん見てきました


今のその人が現していることがすべてで
その人が「いま」どんな人間であるかだけがすべてなのに、
それがすべてを物語っているのに…



目に見えない事象のせいにすんな!


と私は言いたい



一言でいえば、「性格」なんですよ

すべては


過去生に起きた出来事だって
性格の問題や考えの誤りや思い違いや
選択ミスやら人間性の欠如の問題が発端となって
起きたことなんだから
今の性格の問題さえ修正すれば、
それで解決することなんです

今の自分の考え方、思い癖、
生きる上での姿勢とかとか
大体その歪みが
人生の歪みとして表れているだけなんだから

今生で日々を真摯に生き、
人として成長していきさえすれば
過去なんて知る必要なんてないです

まあ、過去生を知る意味がないってこともないですけど…
理由のわからない感情的反応で苦しむ人にとっては
その感情的反応の由来を知るのは
意味があるし、有益なことだから
そういう意味ではお役に立てていることもたくさんあります

て、いいますか
本来そのために、
スピリチュアルなテクニックのアプローチがあるんです

決して、己が責任の所在を
"見えない存在"や"心霊現象"や"過去の人生の出来事"や
"過去生の自分"や自分以外の誰か、に押し付けるために
心霊的な施療や過去生セラピーやあるわけじゃない

心霊的な知識もヒーリングもリーディングも全部、
そんなことのためにあるわけじゃないんです




自分以外のところに原因を求めたい人にとって、
眼には見えない事象、非科学的な要因に
問題解決というよりは単なる責任の押し付けをしたい人には、



過去生や
心霊現象のせいにすんな!!

すべてはその性格だ!
あなたこそが原因だ!
問題の核そのものなんだ!



と言いたい


というわけで新宿区のはしっこで叫んでみました


ええ、たいていのカルマのレッスン(人生の学び)は、
「今」起きていること、
現在に起きているトラブルに真摯に向き合うだけで
それだけで乗り越えられるますのよ

自分の内側にある問題を内省して見つめれば

外側の事象は、
内在している問題を投影されたものであって、
痛みを与えてくれる人物は、
その人の欠点や問題点をディフォルメされた
キャラクターを演じることで教えてくれてるだけだから

うん
人は自分以上の人に出会うことは出来ないし
自分の頭で考え、思い描いたこと以外の現実には出会えない

痛みを与えてくれる人は「過去の自分」であり
今、自分が感じている「痛み」は、
まさに自分が過去に誰かに与えた「痛み」そのものだから

過去の自分であり内在している
自分の問題を表している人物と出逢っているだけだから

そして人は自分が与えたものしか与えられることはなく
得ることも出来ない
今自分が受け取っているのは、痛みも悦びも含めて
すべて他人に与えてきた「感情」だから
与えないことには何も得られない

私達は蒔いた種に日々出合っているだけなのだから



0 件のコメント:

コメントを投稿