たぶんタイトルのようなことは
西洋医学や民間療法に従事している人たちが
現場で一番実感されていることだと思います
例えば
「この人がこういう病気になったのも頷ける」
みたいなことですね
さてそれはさりとて
私のこのblogで一番読まれている記事は
「病気とカルマと身体のこと」
だったりするんですが
ようするに
健康と病気に対して関心を強くもたれている方が
世には多いということですね
このblogにたどり着かれたのは
たまたま調べてて検索に当たっただけで
やれカルマのレッスンだのその意味だのまでは
たぶんそこまでの情報は求めてないと思われますけど
生きているとどうしても
何かしら病気もケガもするものですし
年を取ると体力も衰えてあちこちガタが来ますし
如何せん「死」は
いかようにも避けられないことですから
誰もが自分の健康について人生のどこかで
一度は悩んだり調べたりはするのでしょう
身体か何らかの症状を発症するのは
大体においてその身体の持ち主に対して
何かを訴えているからです
まるで言葉を発せない赤ん坊が
泣き声を上げることで様々な要求や不快感を
自分の養育者である両親に訴えるように
身体は症状として「訴え」を起こしているんです
この場合の身体とは
物理的な肉体だけではなく
心の身体と思考の身体も含みます
クライアントさんで
年中、空咳に悩まされている人がいました
乾いた咳で、風邪でもないし
気管支炎とか扁桃炎とかインフルでもありません
喘息でもないということで何だろう?でしたが
結局、それは心の声だったのです
言葉に、音として声にできない思い、言葉が
咳としてたくさん出ていたのです
言いたい事をいつも言えずに
言葉を溜めて溜めて
言えない言葉がたくさん溜まって
その言えなかった言葉
本当は言いたいけと言えない言葉
それが咳となって出ていたのです
言葉というか、正しくは言葉のエネルギー
これもまたエレメンタルなんですけど
そっちの方面で視ていくと
喉のチャクラのところにたくさん詰まってる状態
最近もやはり似たような方がいました
本音を押し殺したりごまかして
本当に言いたいことではなく
相手の反応を窺ったうえで
周囲や周囲が望んでいる言葉や答えを
話すようになってしまってから
咳が出るようになってしまったのですね
そして
そのような自分の本心を偽ってしまった後に
それに気づけと言わんばかりに咳は酷くなってしまう
ごまかされてしまった本音が行き場を失くして
音に乗せられ言葉として身体の外に出たがるように…
身体が教えてくれているんです
「あなたの本音はどこにあるの?」というばかりに
本当に語るべき言葉
声にして伝えるべき思いが置き去りになっているよ、と
最初の方は、今は咳はほとんど出ません
本当の病気のとき以外は
さて体臭もまたその人に何かを知らせています
日本人は無味無臭?と言われますが
海外の人に言わせれば外国人ほどキツクないだけで
「日本人は豆臭い」ということです
確かに豆腐や醤油、味噌…かなり豆食べてます
(日本人は豆民族でフロスキー)
そんな風に食文化で体臭は変わるわけですが
体臭が柔らかい人たちが多い民族だから
体臭の強い人が目立ってしまうのでしょう
病気で特定の体臭が出てしまっている人もいます
糖尿病とかガンとか
内臓の疾患も率直な言い方をすると
内臓が炎症を起こして膿んでいて
悪化したものは腐敗しているわけですから
まあ臭いですよね
そういうのは本当に「病気の臭い」なわけですが
そして「死」にも臭いがあります
動物はそのような臭いにとても敏感です
あと加齢臭 これは最近の私もそうです
自分が臭くてたまりません
(足も臭いけど。自分の臭さに悶絶します)
人口肛門を付けている人には
周囲が理解をしないといけないです
これは本当に
それと女性の生〇中はホルモンバランス崩れるのと
あれやこれやで臭いの問題が出ちゃいますね
ワキガは体質で日本人には少ないから
ものすごく目立ってしまいますね
気にして消臭を頑張っている人もいるけど
気づかないケースもあって
スメハラもあるので昨今では注意しづらい案件
デリケートな問題です
手術することで改善される人もいますが
とはいうものの
正直、私も臭いには敏感なほうですから
体臭のきつい人にはごめんなさいって感じもあります
でも口臭を含めて体臭は
健康状態のバロメーターなところもあるから
若いころと違って体臭がきつくなったとか
最近身体から体臭がするとか変わったとか
そういうのは
何かの異常を示していることもありますので
加齢臭と片付けるばかりではなく
色々と生活習慣や食生活を見直す必要があるかも
でまあ
ここまでは単なるヘルスケアの話
ある人で独特の体臭を放っている人がいました
ワキガではありませんし
本人にはまったく自分の臭いがわかりません
でも周囲からしたらちょっとダメな臭い
様々な人に指摘されるので
あれこれと努力をするわけです
お風呂に何回も入ったりとか
デオドラントにとても気を使ってみたりとか
現実的な視点で見ると
食生活の偏りに問題があるのでは?
なんですけれど
別の角度(霊的な)から見ると
ひとえにカルマのレッスンなんですね
その方は周囲から言葉で指摘されても
自分の問題を自覚しない(見ようとしない)から
体臭という目には見えない問題を抱えることによって
自分が自覚出来ない(しようとしていない)
性格的かつ行動面において
周囲に迷惑をかけているという現実を
遠回しに示唆されていたわけです
本人にとって問題と思ってはいない(臭くない)点でも
他人にとっては大いに問題がある(とても臭い)点があると
それを体臭という問題を抱える(他者から指摘される)
ことで
謙虚になって周囲に不快感を与えている
自分の臭いの原因の対策を考えながら
同時に周囲に不快感を与えている
自分の性格的な問題に気づく必要があった
そんな感じなんですね
過去生からたくさん何度も提示されてきた問題であり
レッスンで。なかなか改善されないので
こういう形になった…っていうのがあります
別の形での問題提起の方法もあったんでしょうが
どうして「体臭」になったのかというと
それはその方の過去生の生き方に由来するものでして
ですが、ここでは詳しく述べません
そんな風に
ちょっとした身体の異常や健康の問題も
当人にとっては意味があることで
生きる姿勢とかに対する
メッセージを含んでいることがあるのです
ですので
身体の声には耳を傾けないともったいないです
身体と対話することってとても大事です
2019/06/25
夢の世界からの警告
夢と言っても
結局はサイキカル界での出来事になりますが
またまたあまりにも放置して
さほど重要視していないというか
無頓着で不注意であることの警告を受け取ることに
本題の前に
過去記事にも書いたことがありますが
私は今は「視えない人」です
この場合の視えないというのは
普通に肉眼を開けているそのままの状態で
他の三次元の物質と一緒に
それらを視ることは出来ないという意味です
但し、子供の頃から23歳の時までは視える人でした
生きている人と同じようにそこにいるように
目の前にあるかのようにそれらを視ることも出来ました
毎日いつでもどこでも視ていたわけではありませんが
視えない誰かと話すことはしていましたし
色んな映像をしょっちゅうキャッチしていました
でもそのような状態ですと日常に支障もありましたし
何しろ怖がりでしたので苦痛でした
慣れることではないです
誰にも理解してもらえませんし
周囲からは頭のおかしなヘンな人としか思われないし
それがどういうことなのか
自分の身に何が起きているのかもわからないし
どうにも八方塞がりでした
だから「視えなく」なったときにはホッとして
これで普通の人になれる、普通の生活が送れる
もう気持ち悪いものも恐ろしいものも視なくて済むと
心から安堵したものでした
その後、占いの仕事はともかくとして
今の仕事をする流れになったとき
当時の自分のそうした特性があれば便利だった
なんて思ってしまったもので
まあ都合の良い考え方ですね
この仕事をするようになってから
目を開けた状態でそれらも同時に視ることも
まったくないわけではなかったけれど
そういうのはとても稀で
基本的には頭の中に直接映像が視えてる
そんな状態で視ています
でもそれは仕事中だけです
ふだんは何かを視たりとかないです
仕事が仕事というか
こういう電波系の仕事をしていますけれど
プライベートな日常では
何でもかんでも「視えない存在」とか「霊的な原因」
に結び付けて考えることを徹底的に避けていたりします
極めて現実的な考え方、対処法を取るようにしていて
具合が悪ければ医学的な見解を優先し
薬剤や健康法などで対処するなど
極めて現実的に考えるようにしています
これが仕事でお客さんに対してだと違うんですけども
それでもやっぱり最初は当たり前の原因
現実的な原因から物事を見て精査しようとしますね
消去法でどうしてもそれかなって時だけ
霊的な原因に行き着く
これはもう最後の最後の手段みたいな
とくに自分のことはそうです
さて 私は4年前に右目を手術しました
網膜剥離と白内障の同時手術です
過去に交通事故に2度あっていたり
免疫不全で炎症体質なこともあって
そのような症状を患ってしまうのも
仕方ないといえばそうです
PCを使用するようになってから
視力が極端に落ちて眼鏡が必要になったので
それも原因のひとつとして大きかったと思いますし
でも、それだけではなくて
失明するかも知れないという事態に追い込まれたのは
何よりも私が
「目に見える形あるものばかりに囚われて
目に見えない世界から目を背けている」
ことに対しての警告でもあったんですね
「肉眼で見えるものばかりにこだわるなら
ならばその視力が無くなったならどうする?」
とばかりに
右目がそのような状況になってしまうということで
派遣の仕事は不可能な状況になってしまいました
「さあ、どうする?」みたいに追い込まれました
何となく言われていることに
気づいてはいたけど気づかないようにしていました
その前には顔が炎症を起こして爛れるという
仕事が出来なくなる状態がありました
これはみんなカルマのレッスンとしての警告
今はまあ失明こそしませんでしたけど
右目は不自由なままです
左目の白内障はそのままですし
視野欠損とか狭窄というのかな
とてもヘンな見え方をしているけど
これに慣れたというところで
未だ日常生活で困ることもたくさんあるけど
外出も出来ますし、こうしてPCも打ててますから
(ブラインドタッチできるからヨカッタ)
おかしなものです
視えないものが視えることから逃げてて
視えない世界から目を背けていたなら
視える世界を視る目を奪われそうになった…なんて
でも視えないものが
また急に視えるようになったわけでもないです
心の眼も仕事以外では使用していません
すると夢が知らせてくれるのです
こんな想念(エレメンタル)が送られてきているよと
あなたの周囲にこのような人がいるよ(危険!)
とばかりに
ああそうかー とそこで知ることになる
相変わらず視てないままなんだな、自分はと
今朝、夢が知らせてくれたことの事実の前に
ちょっと脱力しています
夢を見ている間は
結構具体的な情報が入ってくるんですよ
起きている時に入る情報よりも
納得できる証拠を提示させられるから
あくまで私の場合ですが
でもね
始終そういった感覚のまま
アンテナを立てたままでいると
挙動不審といいますか
頭のいかれた不思議BBAになってしまう
いやもともとというか既にそうか
難しいですね
良識的な人間でいるのと
そのような感覚を常にある活動させている
オンとオフの切り替えというのは
入れっぱなしもダメですし切りっぱなしもダメで
セコムだけ入れておくってそういうことなんでしょうけど
色々と反省中です
まあではまた「視れる」ようになる
トレーニングでもすれば便利なのかも知れないのですが
弊害も多いかなーいや恐れがあるのかもしれませんね
結局はサイキカル界での出来事になりますが
またまたあまりにも放置して
さほど重要視していないというか
無頓着で不注意であることの警告を受け取ることに
本題の前に
過去記事にも書いたことがありますが
私は今は「視えない人」です
この場合の視えないというのは
普通に肉眼を開けているそのままの状態で
他の三次元の物質と一緒に
それらを視ることは出来ないという意味です
但し、子供の頃から23歳の時までは視える人でした
生きている人と同じようにそこにいるように
目の前にあるかのようにそれらを視ることも出来ました
毎日いつでもどこでも視ていたわけではありませんが
視えない誰かと話すことはしていましたし
色んな映像をしょっちゅうキャッチしていました
でもそのような状態ですと日常に支障もありましたし
何しろ怖がりでしたので苦痛でした
慣れることではないです
誰にも理解してもらえませんし
周囲からは頭のおかしなヘンな人としか思われないし
それがどういうことなのか
自分の身に何が起きているのかもわからないし
どうにも八方塞がりでした
だから「視えなく」なったときにはホッとして
これで普通の人になれる、普通の生活が送れる
もう気持ち悪いものも恐ろしいものも視なくて済むと
心から安堵したものでした
その後、占いの仕事はともかくとして
今の仕事をする流れになったとき
当時の自分のそうした特性があれば便利だった
なんて思ってしまったもので
まあ都合の良い考え方ですね
この仕事をするようになってから
目を開けた状態でそれらも同時に視ることも
まったくないわけではなかったけれど
そういうのはとても稀で
基本的には頭の中に直接映像が視えてる
そんな状態で視ています
でもそれは仕事中だけです
ふだんは何かを視たりとかないです
仕事が仕事というか
こういう電波系の仕事をしていますけれど
プライベートな日常では
何でもかんでも「視えない存在」とか「霊的な原因」
に結び付けて考えることを徹底的に避けていたりします
極めて現実的な考え方、対処法を取るようにしていて
具合が悪ければ医学的な見解を優先し
薬剤や健康法などで対処するなど
極めて現実的に考えるようにしています
これが仕事でお客さんに対してだと違うんですけども
それでもやっぱり最初は当たり前の原因
現実的な原因から物事を見て精査しようとしますね
消去法でどうしてもそれかなって時だけ
霊的な原因に行き着く
これはもう最後の最後の手段みたいな
とくに自分のことはそうです
さて 私は4年前に右目を手術しました
網膜剥離と白内障の同時手術です
過去に交通事故に2度あっていたり
免疫不全で炎症体質なこともあって
そのような症状を患ってしまうのも
仕方ないといえばそうです
PCを使用するようになってから
視力が極端に落ちて眼鏡が必要になったので
それも原因のひとつとして大きかったと思いますし
でも、それだけではなくて
失明するかも知れないという事態に追い込まれたのは
何よりも私が
「目に見える形あるものばかりに囚われて
目に見えない世界から目を背けている」
ことに対しての警告でもあったんですね
「肉眼で見えるものばかりにこだわるなら
ならばその視力が無くなったならどうする?」
とばかりに
右目がそのような状況になってしまうということで
派遣の仕事は不可能な状況になってしまいました
「さあ、どうする?」みたいに追い込まれました
何となく言われていることに
気づいてはいたけど気づかないようにしていました
その前には顔が炎症を起こして爛れるという
仕事が出来なくなる状態がありました
これはみんなカルマのレッスンとしての警告
今はまあ失明こそしませんでしたけど
右目は不自由なままです
左目の白内障はそのままですし
視野欠損とか狭窄というのかな
とてもヘンな見え方をしているけど
これに慣れたというところで
未だ日常生活で困ることもたくさんあるけど
外出も出来ますし、こうしてPCも打ててますから
(ブラインドタッチできるからヨカッタ)
おかしなものです
視えないものが視えることから逃げてて
視えない世界から目を背けていたなら
視える世界を視る目を奪われそうになった…なんて
でも視えないものが
また急に視えるようになったわけでもないです
心の眼も仕事以外では使用していません
すると夢が知らせてくれるのです
こんな想念(エレメンタル)が送られてきているよと
あなたの周囲にこのような人がいるよ(危険!)
とばかりに
ああそうかー とそこで知ることになる
相変わらず視てないままなんだな、自分はと
今朝、夢が知らせてくれたことの事実の前に
ちょっと脱力しています
夢を見ている間は
結構具体的な情報が入ってくるんですよ
起きている時に入る情報よりも
納得できる証拠を提示させられるから
あくまで私の場合ですが
でもね
始終そういった感覚のまま
アンテナを立てたままでいると
挙動不審といいますか
頭のいかれた不思議BBAになってしまう
いやもともとというか既にそうか
難しいですね
良識的な人間でいるのと
そのような感覚を常にある活動させている
オンとオフの切り替えというのは
入れっぱなしもダメですし切りっぱなしもダメで
セコムだけ入れておくってそういうことなんでしょうけど
色々と反省中です
まあではまた「視れる」ようになる
トレーニングでもすれば便利なのかも知れないのですが
弊害も多いかなーいや恐れがあるのかもしれませんね
2019/06/21
過去が今を創り 今が未来を創る
話を分割して書くと
何をどこまで書いたのか忘れてしまいますね(苦笑)
間に仕事をしていたり雑事をこなしているので
頭の中が散漫になってます
一気に書かないとどうもダメみたいです
なのでちょっと分散してたり行きつ戻りつだったり
あっちこっち話が飛んで広がって
重複してたり抜けている説明があるかも知れません
読む人には読みにくくて申し訳ないです
さて
カルマの法則としてのレッスンにしても
引き寄せの法則というエレメンタルが具現化することも
これは法則があるけれども
絶対というのはなかったりします
カルマのレッスンは必要でなくなることもあるし
(準備というか用意されていても
その前に本人が気づきを得て成長すれば不要になる)
逆に一度クリア出来た事でも
その人にとってもっとも弱いところで
長年クリアできずに悩まされていたことなんかは
本当に身に着けることが出来たのか危うくもあるので
魂の判断で「本当に大丈夫かどうか」
類似の状況をお試し的に仕組んでくるからです
(刺客のように差し向けてくるというか
予告なしの抜き打ちテストというか
Gメンや立ち入り検査や調査が入るような)
後はカルマのレッスンというのは
与えられたり与えたりの関係なので
自分にはもう関係ないことであっても
相手のために、誰かのために(特に愛ある関係)
自分にはもう必要でなくなった
シュチエーションを経験することになったり
相手役としての役割を担うこともあるわけです
そして個人の予定に添って常に事が起こるわけでなく
(魂が計画した人生予定表ブループリント)
宇宙というか地球全体、人類全体の都合での予定調和
他の人の予定などが割り込んできて入れ替えや変更その他
後回しになるものがあったり早まったりするものもあったり
引き寄せの法則としてのエレメンタルの具現化ですが
良い想念思念から生まれたものにしても
悪い想念思念から生まれたものにしても
必ずしもその人が望んだときに具現(現実)化して
結実するというわけではなく
その望みの性質やジャンルによって
エレメンタルが育つ時間が異なっていて
それぞれに必要なエネルギーとか時間があるので
いつ叶うのかどんな時に現実界に表れるのか…
これはもう予測不可です
このあたりは先の記事にも書きましたけども
さて
別の角度から話してみます
色々なスピリチュアルな問題のパターンを
説明する例題として…
ある人が長年叶えたい夢を持っていましたが
ですがなかなか叶いません
現実的に考えることももちろん大切だし
それが最初の一歩ではあるのですが
何故、その人の望みが叶わないのかという理由
ケース1)
その人がその夢を叶えるためには
その人の人間的な成長が不可欠であって
「夢」に照準を合わせたことによって
人間的に成長するための経験が真っ先にやってきた
まずはそれをクリアしなければならない
だが、今生で成長できるかどうかは未定
ケース2)
その人がその人生でその夢を叶えることは
その人にとって本当に必要な経験から遠かってしまう
よって今回の人生では優先順位として後回しになる
たぶん今生での執着はいつか先の人生で芽吹くだろう
ケース3)
過去に様々な欲望や執着、願望を抱き
結果たくさんのエレメンタルを作ってきており
それはとても強い力を持っていて
今生でもそちらが先に具現化しているので
まだまだ力の弱い作りたてほやほやの
エレメンタルでは太刀打ちできず
過去生のエレメンタルに振り回されている
ケース4)
過去生でネガティブなエレメンタルをたくさん作り
他者からもたくさんのエレメンタルを送られた
(恨みとか憎しみとか)
過去の問題を相変わらず抱えたままで
性格は変わっていず問題点が改められていない
当然霊的成長もしていない
波動の低いエレメンタルが具現化しており
悪いことは現実化しても良いことは現実化しない状態
このような潜在意識が汚屋敷化というか
ジャングル化している場合
良きエレメンタルが具現化する隙間はない
ケース5)
当人というより他者意識が邪魔している場合
例えばたまに言われる先祖の因縁的なもの
家系、家族、住環境、他者など外部的な原因によって
邪魔されている場合
※但し、こういうのは本当にまれ
ケースバイケースなので一概には言えませんが
あくまでこういうパターンが考えれるという例です
そういうのを分類してまとめてみました
今生でどうしても叶えたい望みがあるのに
なかなか叶えられないという人は
叶わないことの理由の中に
霊的成長が追い付いていないとか
今生でやらなくてはいけないことをやってないからとか
予定していたことと違う道に進もうとしているからだとか
その前に自分の性格とか他者との関係を振り返るべきとか
これまでに創ってきたエレメンタルを一回整理整頓して
不要なものをミイラ化して潜在意識の掃除をするべき
だったりします
叶わないことの理由の中に
その人が進むべき道だとか
人生へのヒントが隠れていることも多いのです
そうそう
またカルマのレッスンの話に戻りまして
ある人の話です
その人は徐々に難聴が酷くなって
聴覚こそ失わないで済んでいるものの
補聴器が必要な状態になりました
どうして難聴になってしまったのかというと
それこそ数千年前位のとても古い古ーい時代に
ある文明の国において
敵国のスパイ?だか捕虜を
拷問・惨殺する役割をしていたのです
その拷問方法というのが
耳に熱した鉄?か
鉛のようなものを流しいれるというもの
もちろん上(権力者)からの命令によるもので
その人自身が考案した方法でもないし
その人の判断でしていたことではありません
戦争ってそういうものです
でもこの時のその人は疑問に思っていなかったんです
人間が人間に対して行う残虐的な行為に対して
これといって何も思わず
自分がしていることが非人道的だとか
相手が気の毒とか良心が痛むとかは当時はなかった
なのでその後も色々と「戦争」の非道行為と愚かさ
人が人であることを失わせる行為について
考えさせられるような人生を繰り返し生きました
ある時は裁判の記録係として
ある時は城に棲む守備兵として
奴隷船の船員になったり
南北戦争や第一大戦では歩兵隊として
なぜ数千年も経ってからなのか
当時、自分が他者に対して
「耳」をつぶす行為をしていたからといって
それがどうしてそれほどの時間が経った今なのか
当人も誰もが疑問に思うでしょう
別に今の人生だけではないのです
それまでに…ここまで来るまでに
色々なことを当人に考えさせるように
本人が心を目覚めさせ、気づきを得られるように
運命は何度も仕組まれ、機会を与えてきました
でも
様々な経験をしてきたにも関わらず
その人は何も学んでこなかったのです
体験したことから感情を成熟させ
思考を育てることをしてこなかったのです
そして何よりも行動をしてこなかったのです
自分以外の誰かを深く愛おしいと思ったり
他者に対して思いやりを示してこなかったから
相変わらず他人の話を聞かず
自分の都合の悪いことには「耳」を塞ぐので
他人の、何かのせいにしてばかりで甘えて
でもでもだってであれはいやだこれはいやだ
被害者意識で凝り固まったままなので
その意味もあって
「耳」が聞こえなくなっているのです
完全に聞こえなくなっていないのは最後の恩寵です
この状況に至ってまで気づかなければ
次の人生に持ち越しでしょう
別に過去を思い出す必要はないのです
今の人生だけ省みれば
それだけで問題点を見つけることが出来ますし
自分が変わらなければいけないところも
何がいけなかったのかも理解できるはずです
前回の記事で書いた人たちも
何百年もまったく何もなかったわけではなく
その間の人生でも兆候というか
それを気づかせるような出来事や
チャンスはそれなりにあったはずです
少しずつ、あるいは別の形で
別の角度から問題を示唆されていたと思います
そうですね
多くの人に足りないのは感謝と謙虚さですかね
自分の人生に対して恨みや文句ばかりで
「こんなはずではなかった」みたいに
望んでいない人生を生きているようにみんな言うけど
皆、自らが望んで生まれてきて
自分が望んだ結果や自分がしてきたことの結果に
出逢っているだけなのに
文句を言うべきは
神とか仏とか運命とか他人とではなくて
過去と今の自分自身に対してなんですね
「こんなはずではない」人生にしたのは
誰でもない自分自身なんだから
自分の人生には責任を持たないといけません
自分が自分であることに対して責任を持つというか
自分が撒いてきた種
毒草も雑草もイバラも何もかも
それは自分自身で刈り取っていくしかないのです
さすれば道は開かれん
人生とは自分が歩いてきた道であり
これから歩く道は自分で切り開いていくしかないのです
とりあえずこのテーマはいったんここで区切ります
また補足を書くかも知れませんが
何をどこまで書いたのか忘れてしまいますね(苦笑)
間に仕事をしていたり雑事をこなしているので
頭の中が散漫になってます
一気に書かないとどうもダメみたいです
なのでちょっと分散してたり行きつ戻りつだったり
あっちこっち話が飛んで広がって
重複してたり抜けている説明があるかも知れません
読む人には読みにくくて申し訳ないです
さて
カルマの法則としてのレッスンにしても
引き寄せの法則というエレメンタルが具現化することも
これは法則があるけれども
絶対というのはなかったりします
カルマのレッスンは必要でなくなることもあるし
(準備というか用意されていても
その前に本人が気づきを得て成長すれば不要になる)
逆に一度クリア出来た事でも
その人にとってもっとも弱いところで
長年クリアできずに悩まされていたことなんかは
本当に身に着けることが出来たのか危うくもあるので
魂の判断で「本当に大丈夫かどうか」
類似の状況をお試し的に仕組んでくるからです
(刺客のように差し向けてくるというか
予告なしの抜き打ちテストというか
Gメンや立ち入り検査や調査が入るような)
後はカルマのレッスンというのは
与えられたり与えたりの関係なので
自分にはもう関係ないことであっても
相手のために、誰かのために(特に愛ある関係)
自分にはもう必要でなくなった
シュチエーションを経験することになったり
相手役としての役割を担うこともあるわけです
そして個人の予定に添って常に事が起こるわけでなく
(魂が計画した人生予定表ブループリント)
宇宙というか地球全体、人類全体の都合での予定調和
他の人の予定などが割り込んできて入れ替えや変更その他
後回しになるものがあったり早まったりするものもあったり
引き寄せの法則としてのエレメンタルの具現化ですが
良い想念思念から生まれたものにしても
悪い想念思念から生まれたものにしても
必ずしもその人が望んだときに具現(現実)化して
結実するというわけではなく
その望みの性質やジャンルによって
エレメンタルが育つ時間が異なっていて
それぞれに必要なエネルギーとか時間があるので
いつ叶うのかどんな時に現実界に表れるのか…
これはもう予測不可です
このあたりは先の記事にも書きましたけども
さて
別の角度から話してみます
色々なスピリチュアルな問題のパターンを
説明する例題として…
ある人が長年叶えたい夢を持っていましたが
ですがなかなか叶いません
現実的に考えることももちろん大切だし
それが最初の一歩ではあるのですが
何故、その人の望みが叶わないのかという理由
ケース1)
その人がその夢を叶えるためには
その人の人間的な成長が不可欠であって
「夢」に照準を合わせたことによって
人間的に成長するための経験が真っ先にやってきた
まずはそれをクリアしなければならない
だが、今生で成長できるかどうかは未定
ケース2)
その人がその人生でその夢を叶えることは
その人にとって本当に必要な経験から遠かってしまう
よって今回の人生では優先順位として後回しになる
たぶん今生での執着はいつか先の人生で芽吹くだろう
ケース3)
過去に様々な欲望や執着、願望を抱き
結果たくさんのエレメンタルを作ってきており
それはとても強い力を持っていて
今生でもそちらが先に具現化しているので
まだまだ力の弱い作りたてほやほやの
エレメンタルでは太刀打ちできず
過去生のエレメンタルに振り回されている
ケース4)
過去生でネガティブなエレメンタルをたくさん作り
他者からもたくさんのエレメンタルを送られた
(恨みとか憎しみとか)
過去の問題を相変わらず抱えたままで
性格は変わっていず問題点が改められていない
当然霊的成長もしていない
波動の低いエレメンタルが具現化しており
悪いことは現実化しても良いことは現実化しない状態
このような潜在意識が汚屋敷化というか
ジャングル化している場合
良きエレメンタルが具現化する隙間はない
ケース5)
当人というより他者意識が邪魔している場合
例えばたまに言われる先祖の因縁的なもの
家系、家族、住環境、他者など外部的な原因によって
邪魔されている場合
※但し、こういうのは本当にまれ
ケースバイケースなので一概には言えませんが
あくまでこういうパターンが考えれるという例です
そういうのを分類してまとめてみました
今生でどうしても叶えたい望みがあるのに
なかなか叶えられないという人は
叶わないことの理由の中に
霊的成長が追い付いていないとか
今生でやらなくてはいけないことをやってないからとか
予定していたことと違う道に進もうとしているからだとか
その前に自分の性格とか他者との関係を振り返るべきとか
これまでに創ってきたエレメンタルを一回整理整頓して
不要なものをミイラ化して潜在意識の掃除をするべき
だったりします
叶わないことの理由の中に
その人が進むべき道だとか
人生へのヒントが隠れていることも多いのです
そうそう
またカルマのレッスンの話に戻りまして
ある人の話です
その人は徐々に難聴が酷くなって
聴覚こそ失わないで済んでいるものの
補聴器が必要な状態になりました
どうして難聴になってしまったのかというと
それこそ数千年前位のとても古い古ーい時代に
ある文明の国において
敵国のスパイ?だか捕虜を
拷問・惨殺する役割をしていたのです
その拷問方法というのが
耳に熱した鉄?か
鉛のようなものを流しいれるというもの
もちろん上(権力者)からの命令によるもので
その人自身が考案した方法でもないし
その人の判断でしていたことではありません
戦争ってそういうものです
でもこの時のその人は疑問に思っていなかったんです
人間が人間に対して行う残虐的な行為に対して
これといって何も思わず
自分がしていることが非人道的だとか
相手が気の毒とか良心が痛むとかは当時はなかった
なのでその後も色々と「戦争」の非道行為と愚かさ
人が人であることを失わせる行為について
考えさせられるような人生を繰り返し生きました
ある時は裁判の記録係として
ある時は城に棲む守備兵として
奴隷船の船員になったり
南北戦争や第一大戦では歩兵隊として
なぜ数千年も経ってからなのか
当時、自分が他者に対して
「耳」をつぶす行為をしていたからといって
それがどうしてそれほどの時間が経った今なのか
当人も誰もが疑問に思うでしょう
別に今の人生だけではないのです
それまでに…ここまで来るまでに
色々なことを当人に考えさせるように
本人が心を目覚めさせ、気づきを得られるように
運命は何度も仕組まれ、機会を与えてきました
でも
様々な経験をしてきたにも関わらず
その人は何も学んでこなかったのです
体験したことから感情を成熟させ
思考を育てることをしてこなかったのです
そして何よりも行動をしてこなかったのです
自分以外の誰かを深く愛おしいと思ったり
他者に対して思いやりを示してこなかったから
相変わらず他人の話を聞かず
自分の都合の悪いことには「耳」を塞ぐので
他人の、何かのせいにしてばかりで甘えて
でもでもだってであれはいやだこれはいやだ
被害者意識で凝り固まったままなので
その意味もあって
「耳」が聞こえなくなっているのです
完全に聞こえなくなっていないのは最後の恩寵です
この状況に至ってまで気づかなければ
次の人生に持ち越しでしょう
別に過去を思い出す必要はないのです
今の人生だけ省みれば
それだけで問題点を見つけることが出来ますし
自分が変わらなければいけないところも
何がいけなかったのかも理解できるはずです
前回の記事で書いた人たちも
何百年もまったく何もなかったわけではなく
その間の人生でも兆候というか
それを気づかせるような出来事や
チャンスはそれなりにあったはずです
少しずつ、あるいは別の形で
別の角度から問題を示唆されていたと思います
そうですね
多くの人に足りないのは感謝と謙虚さですかね
自分の人生に対して恨みや文句ばかりで
「こんなはずではなかった」みたいに
望んでいない人生を生きているようにみんな言うけど
皆、自らが望んで生まれてきて
自分が望んだ結果や自分がしてきたことの結果に
出逢っているだけなのに
文句を言うべきは
神とか仏とか運命とか他人とではなくて
過去と今の自分自身に対してなんですね
「こんなはずではない」人生にしたのは
誰でもない自分自身なんだから
自分の人生には責任を持たないといけません
自分が自分であることに対して責任を持つというか
自分が撒いてきた種
毒草も雑草もイバラも何もかも
それは自分自身で刈り取っていくしかないのです
さすれば道は開かれん
人生とは自分が歩いてきた道であり
これから歩く道は自分で切り開いていくしかないのです
とりあえずこのテーマはいったんここで区切ります
また補足を書くかも知れませんが
2019/06/19
カルマのレッスンとサイクル
続きです
さて一番最初の話に戻ります
「人生は連続した時間である」というところ
そして人の一度の人生を一生の一年に例えるとしたら
一年という短い期間の中で
出来ることはさほど多くないという話
もちろん一年の内にスタートさせて
何かしらの結果を出したり完結させられることもあるけれど
(例えば今日これをしたいと思ったことをしたり
明日や目先の予定を消化するなど短期的な計画ならば)
それなりの時間や年月、準備期間などを要することも
人生には多々あるわけで
お金を貯めて何かすることや
とくに習得や鍛錬が必要な技能的なことならなおさら
だから
今の人生において才能を開花させている人は
たまたま才能に恵まれていたわけではなく
それまでに至る道程としてあまたの人生を生きてきた
その結果を享受しているだけなのです
また運に恵まれていると思われる人でも
まったく同様の理論で
自分の未来を邪魔するようなものを過去に創らず
他者に助けてもらえるような種を
過去の人生で蒔いてきたからなのですね
結果は良いものもあるし悪いものもある
すべて自分の行いの結果ではありますが
(引き寄せの法則とも言いますね)
結果っていつ出るのか、蒔いた種がいつ芽吹くのか
努力がいつ成就して開花するのか
これは本当に予測不可で分からないです
何故なら私たちは
自分たち一人だけで生きているわけでなく
運命共同体としての人類の一員
全体の一部の存在として生きているから
世の中や他の人の都合もあるといった感じでしょうか
個々の都合ではなく社会だったり
大きな流れ、全体としての運命のうねりの中では
時に個人の都合や予定は後回しになりがちですので
そして魂は何よりも
実体が霊的成長の道へと促され
カルマのレッスンを学び、乗り越えて
永遠不滅の身体を完成させることを何よりも望むので
そちら側へと誘導します
そうした兼ね合いもあってのことなので
そうですね
「連続した時間としての人生」に
「印刷機」の発明に執着した結果
400年後に印刷に携わる職業へと導かれた発明家(科学者)
の話を書きましたが
当方に過去いらしたクライアントさんの事例でも
今の旦那さんは600年ほど前の人生で片思いした人で
600年の時を超えて初恋成就って人もいました
600年…めちゃ長い
ですが
もちろんその間ずっと思ってたとか忘れられなかったとか
そんなんではないですね
なんてったって実体は記憶として覚えていないから
その間お互いに何度も生まれ変わって
別々の人生を生きて他の人と恋愛や結婚もしてるし
たまたま今回同じ職場で出会えて付き合うことが出来て
結婚に至ることが出来た
でも過去にご縁はあった人ではあるものの
(それが惹かれ合い親しみを覚えたきっかけと言えばそう)
現代の人生において趣味や共通点が少なく
考え方もライフスタイルもまったく異なっているので
ストレス溜められて苦労されてます
過去生でのご縁があった人=相性の良い人(波動の合う人)
というわけではありませんので
「縁」はあくまで「縁」にしか過ぎないのです
関係性を築いて信頼関係を創るのはその後ですし
ではネガティブなことの結果はどうか…というと
12世紀初頭に…約900年前ですね
(年月は大雑把な目安としてカウントしてます)
気まぐれな身分の高い女性として周囲を翻弄していた人が
今の人生でかつての自分とも言えるような人物に
振り回され気苦労が絶えない状況に陥っていたり…
なんてことがあったりします
これはかつての自分と対面(対峙)させられることで
当時自分が周囲に与えていた痛みを知って
客観的に自分に痛みを与えている
その人を見られるようになりなさい
他者との関係性を学ぶ時に
自らのその人に対する態度を省みなさい
という示唆があるんですけれど
何故900年後の今なのか? 遅すぎるのでは?
カルマのレッスンとして戻ってくるにも
時間かかりすぎ…と思いますよね
ケースファイルにも書かせて頂いた事例でも
1000年前に他者にかけてしまった呪いが
「人を呪わば穴三寸」となって
今さらに戻ってきたという人もいました
そうかと思えば
私の友人の友人のケースでは
今の人生で愛のない考え、発言をしたために
速攻ですぐそれが戻ってきたという人もいました
(結婚して引っ越しした新築マンションの一階テナントに
義手義足を作る工場が入居したことに不快感を覚えたなら
産まれた子が小児麻痺だったのです)
そんな風にこの人生で創ったカルマが
数年や数か月、あるいは数日で
この人生でスピーディに具現化することもあるのです
これはそうですね
色々な都合、理由があります
ケースバイケースなので
一口にこうだとは言い切れませんが
前述した個人の都合だけで
すべて(宇宙)のプログラムが組まれているわけではない
というのもありますし
色々な事が絡み合っての「今」だとも言えます
後は個々がカルマのレッスンを提示されたとき
そこから学べる人ばかりではないということです
カルマのレッスンはテストみたいなものなので
状況や出来事として提示されたときに
誰もが一発で合格点を取れるわけではないということです
下手したら何十回、何百回とテストを受けては
不合格ラインで未だクリアできず…な場合もあるでしょう
一発で皆、合格出来ていたならば
何百回も生まれ変わる必要はなく
すべての人が輪廻転生をとっくの昔に終了してるはず
カルマのレッスンは何度も何度も手を変え品を変え
あらゆる方向性からくるわけですが
その都度、不合格でクリアするどころか斜め前の対応で
新たな課題を生み出してしまう「こじらせ組」もいますし
とりあえず人によって違いがあるのは
個々の霊性の差であるとしかいいようがありません
「解脱~輪廻転生の終わりと霊的成長」にも書きましたが
その人が霊的進化の過程において
どれほどの霊的成長を遂げているか否か
ようするに第4の身体がどこまで成長しているのか
…によるところが大きいということです
霊性の状態によって
結果が反映されるスピードが異なるという話なのです
(エレメンタルが現実社会たる三次元に具現化されること
流行りの言い方だと引き寄せの法則が実現することですね
カルマのレッスンがブーメラン的に戻ってくるスピードも
望んだことが実現されるまでのスピードもどちらも全部)
でもそればかりでなく
カルマのレッスンでは何度目の再テスト(追試)なのか
というのが一番大きいです
「仏の顔も3度まで」を過ぎると
段々と厳しくなって、どんどん荒療治になっていきます
そう3回というのが目安ですね
今の人生でも同じ学びのシュチエーション
似たようなパターンの問題と対峙させられることが
最低でも3回はあるんです
3回目で乗り越えらなかったら来世に持ち越し
ですから理由や原因がわかっている今のうちに
「覚えて」いる間にいかに取り組むか、ですね
なので目の前の問題から逃げてはダメです
類似のパターンが2度起こったら
それはカルマのレッスンで
3度目のチャレンジを逃したら後がないと思ってください
そしてここで終わると思ったらあともう一回位…ですかね
さて一番最初の話に戻ります
「人生は連続した時間である」というところ
そして人の一度の人生を一生の一年に例えるとしたら
一年という短い期間の中で
出来ることはさほど多くないという話
もちろん一年の内にスタートさせて
何かしらの結果を出したり完結させられることもあるけれど
(例えば今日これをしたいと思ったことをしたり
明日や目先の予定を消化するなど短期的な計画ならば)
それなりの時間や年月、準備期間などを要することも
人生には多々あるわけで
お金を貯めて何かすることや
とくに習得や鍛錬が必要な技能的なことならなおさら
だから
今の人生において才能を開花させている人は
たまたま才能に恵まれていたわけではなく
それまでに至る道程としてあまたの人生を生きてきた
その結果を享受しているだけなのです
また運に恵まれていると思われる人でも
まったく同様の理論で
自分の未来を邪魔するようなものを過去に創らず
他者に助けてもらえるような種を
過去の人生で蒔いてきたからなのですね
結果は良いものもあるし悪いものもある
すべて自分の行いの結果ではありますが
(引き寄せの法則とも言いますね)
結果っていつ出るのか、蒔いた種がいつ芽吹くのか
努力がいつ成就して開花するのか
これは本当に予測不可で分からないです
何故なら私たちは
自分たち一人だけで生きているわけでなく
運命共同体としての人類の一員
全体の一部の存在として生きているから
世の中や他の人の都合もあるといった感じでしょうか
個々の都合ではなく社会だったり
大きな流れ、全体としての運命のうねりの中では
時に個人の都合や予定は後回しになりがちですので
そして魂は何よりも
実体が霊的成長の道へと促され
カルマのレッスンを学び、乗り越えて
永遠不滅の身体を完成させることを何よりも望むので
そちら側へと誘導します
そうした兼ね合いもあってのことなので
そうですね
「連続した時間としての人生」に
「印刷機」の発明に執着した結果
400年後に印刷に携わる職業へと導かれた発明家(科学者)
の話を書きましたが
当方に過去いらしたクライアントさんの事例でも
今の旦那さんは600年ほど前の人生で片思いした人で
600年の時を超えて初恋成就って人もいました
600年…めちゃ長い
ですが
もちろんその間ずっと思ってたとか忘れられなかったとか
そんなんではないですね
なんてったって実体は記憶として覚えていないから
その間お互いに何度も生まれ変わって
別々の人生を生きて他の人と恋愛や結婚もしてるし
たまたま今回同じ職場で出会えて付き合うことが出来て
結婚に至ることが出来た
でも過去にご縁はあった人ではあるものの
(それが惹かれ合い親しみを覚えたきっかけと言えばそう)
現代の人生において趣味や共通点が少なく
考え方もライフスタイルもまったく異なっているので
ストレス溜められて苦労されてます
過去生でのご縁があった人=相性の良い人(波動の合う人)
というわけではありませんので
「縁」はあくまで「縁」にしか過ぎないのです
関係性を築いて信頼関係を創るのはその後ですし
ではネガティブなことの結果はどうか…というと
12世紀初頭に…約900年前ですね
(年月は大雑把な目安としてカウントしてます)
気まぐれな身分の高い女性として周囲を翻弄していた人が
今の人生でかつての自分とも言えるような人物に
振り回され気苦労が絶えない状況に陥っていたり…
なんてことがあったりします
これはかつての自分と対面(対峙)させられることで
当時自分が周囲に与えていた痛みを知って
客観的に自分に痛みを与えている
その人を見られるようになりなさい
他者との関係性を学ぶ時に
自らのその人に対する態度を省みなさい
という示唆があるんですけれど
何故900年後の今なのか? 遅すぎるのでは?
カルマのレッスンとして戻ってくるにも
時間かかりすぎ…と思いますよね
ケースファイルにも書かせて頂いた事例でも
1000年前に他者にかけてしまった呪いが
「人を呪わば穴三寸」となって
今さらに戻ってきたという人もいました
そうかと思えば
私の友人の友人のケースでは
今の人生で愛のない考え、発言をしたために
速攻ですぐそれが戻ってきたという人もいました
(結婚して引っ越しした新築マンションの一階テナントに
義手義足を作る工場が入居したことに不快感を覚えたなら
産まれた子が小児麻痺だったのです)
そんな風にこの人生で創ったカルマが
数年や数か月、あるいは数日で
この人生でスピーディに具現化することもあるのです
これはそうですね
色々な都合、理由があります
ケースバイケースなので
一口にこうだとは言い切れませんが
前述した個人の都合だけで
すべて(宇宙)のプログラムが組まれているわけではない
というのもありますし
色々な事が絡み合っての「今」だとも言えます
後は個々がカルマのレッスンを提示されたとき
そこから学べる人ばかりではないということです
カルマのレッスンはテストみたいなものなので
状況や出来事として提示されたときに
誰もが一発で合格点を取れるわけではないということです
下手したら何十回、何百回とテストを受けては
不合格ラインで未だクリアできず…な場合もあるでしょう
一発で皆、合格出来ていたならば
何百回も生まれ変わる必要はなく
すべての人が輪廻転生をとっくの昔に終了してるはず
カルマのレッスンは何度も何度も手を変え品を変え
あらゆる方向性からくるわけですが
その都度、不合格でクリアするどころか斜め前の対応で
新たな課題を生み出してしまう「こじらせ組」もいますし
とりあえず人によって違いがあるのは
個々の霊性の差であるとしかいいようがありません
「解脱~輪廻転生の終わりと霊的成長」にも書きましたが
その人が霊的進化の過程において
どれほどの霊的成長を遂げているか否か
ようするに第4の身体がどこまで成長しているのか
…によるところが大きいということです
霊性の状態によって
結果が反映されるスピードが異なるという話なのです
(エレメンタルが現実社会たる三次元に具現化されること
流行りの言い方だと引き寄せの法則が実現することですね
カルマのレッスンがブーメラン的に戻ってくるスピードも
望んだことが実現されるまでのスピードもどちらも全部)
でもそればかりでなく
カルマのレッスンでは何度目の再テスト(追試)なのか
というのが一番大きいです
「仏の顔も3度まで」を過ぎると
段々と厳しくなって、どんどん荒療治になっていきます
そう3回というのが目安ですね
今の人生でも同じ学びのシュチエーション
似たようなパターンの問題と対峙させられることが
最低でも3回はあるんです
3回目で乗り越えらなかったら来世に持ち越し
ですから理由や原因がわかっている今のうちに
「覚えて」いる間にいかに取り組むか、ですね
なので目の前の問題から逃げてはダメです
類似のパターンが2度起こったら
それはカルマのレッスンで
3度目のチャレンジを逃したら後がないと思ってください
そしてここで終わると思ったらあともう一回位…ですかね
2019/06/18
解脱~輪廻転生の終わりと霊的成長
さて続きです
書けるうちに書いておかないと
いつ電池切れして書かなくなるか解らないので
そして同一テーマでの内容なら
タイトルを統一して番号を振るか
上中下にすればよかったかもですね
今日書いた続きなのに
何をどこまで書いたのかもう忘れちゃいました
加齢のせいにしていいですか?
ええっと
私たちの本体である魂は永遠不滅の存在です
「じゃあ永遠に私たちは輪廻転生しないといけないの?」
「悟り開いて解脱して
輪廻転生の輪から脱出ってどういう意味?」
って疑問を持つ人もいると思います
先の記事に書いた内容で
私たち人類には共通の目的があると書きました
といいますか
創造的意識(絶対存在)の「神聖なる計画」
というものがすべてのベースにあるのです
これはまぁ宇宙の法則ですね
計画書で方程式で規則みたいなもの
私たちが本体の現身として3つの次元に自己を投影し
所有している3つの身体…これが実体ですね
これは一時的な身体で仮の宿みたいなものですが
「個別」の存在として
自己を表現していくためには必要不可欠なものです
(だって私たちは根っこの部分では繋がっているというか
本来は同じひとつのものだから
一個の生命体の一部でそれ全体としては一つ
けれども一つひとつのセルは個別に分かれていて
そのセルはセルごとに末端を持っている
根っこから見ると一つだけど
末端はいくつにも分かれててその数は無数で
末端から見ると、一つひとつが単体なんですね
この説明で分かりますかね?)
末端である実体をして
私たちは「個」としての自己を所有し表現できる
他者と自己の区別・差別化が可能になるのです
実体としての身体は80~100年程度しか持ちません
輪廻転生というのは
この腐敗し死滅する身体としての実体を
何度も個別のパーソナリティとして生き
使い捨てるかのように通過していくこと
これには「終わり」が設定されているのです
輪廻転生の終わりとは
腐敗し死滅する身体ではなく
永遠不滅の身体を完成させることが出来たとき
(いわゆる霊的成長を遂げ
悟りを開くとか解脱とかそういう意味合いの時期ですが)
たくさんの人生を生きて様々な経験をして
唯一無二の自分を表現するというミッションを遂行しながら
私たちはその永遠不滅の身体を育てることをしています
3つの次元で3つの身体を使って
永遠不滅の身体である第4の身体は
2つの身体を成長させつつ
現実世界であり物理的次元であるこの三次元にて
自己の創造性を表現していかないことには成長しません
これは
4次元の身体であるサイキカル体(心)と
5次元の身体であるノエティカル(思考)体で
それぞれ49段階あります
(7つの段階がさらに7つに分かれてる)
これがすなわちそのまま霊的成長の段階ということなります
サイキカル体とノエティカル体が
二人三脚みたいに共に手を携え足並み揃えて
一つの段階を成長し、上っていけるのなら良いのですが
残念ながらそうではなく
2つの身体が成長していくスピードはバラバラです
心の身体であるサイキカル体だけ成長していく人もいるし
思考の身体であるノエティカル体だけ発達していく人もいる
そんなわけで
人の霊的成長の段階というのは49段階ではありますが
2つの身体の成長の状態が異なっているので
2つの身体それぞれがどこの段階にいるかという
組み合わせになりますから
49×49-49=2352でしたっけ?
数学は大の苦手だし計算式調べてもわからん…でしたので
あくまで仮の数字として
まあ、なんていうかこの世には2352通りの
霊的成長の段階にいるパターンに分かれるということで
それだけバラエティ豊かな人材がいるということです
でもこの2つの身体だけ鍛えて成長させても
その成長の度合いに合わせて
肉体を使って物質的次元で「表現」「行動」していかないと
第4の身体・サイコノエティカル体は成長しませんが
とりあえず私たちは
永遠不滅の身体を得るために
幾多数もの身体に一時的に宿っては
幾多数のもの人格を生き
色んな人生を展開しているわけですね
ひとつの人生で2つの身体が一段階成長できれば
49回の人生を生きてゴール到達!となるわけですが
残念ながらそうはいかないのです
落第も飛び級もないけど留年はあるのがこの地球学校
100回位の人生で「輪廻転生終了」となる人もいるけど
この地球上には「600回生きてまーす」なんて人もざら
そして地球単位で全員がゴールに到達しないと
全員がその後に進めないのでございますが
(連帯責任なんで)
困ったことに楽観的な状況とは言えないのです
ちなみに霊的成長の段階を語る時に
「ヤコブの階段」という図式があるんですけど
5.超意識
4.意識的
3.目覚め
2.無意識
1.本能
これで言うと
地球の60%以上の人がまだ1と2なんですね
4以上の人はほとんどいず
5なんてウルトラマイノリティ
そして「私がー」「私がー」な価値観なんですよ
標準的な基準が「I, My, Me」「I me mine」
まだこの地球って星は
大国はジャイアニズムですし
政治にしても国単位として
自国の利益だけで動いているとこばっかなわけ
「You&I」とか「We are」的な
分かち合い、シェアする価値観はマジ少数派
ここまで書いてああ最初書こうと思ってたところから
風呂敷が広がりすぎているというか
話がどんどん別方向に流れている気がっっ
そしていったんここで切って
また続きにしてしまいます
書けるうちに書いておかないと
いつ電池切れして書かなくなるか解らないので
そして同一テーマでの内容なら
タイトルを統一して番号を振るか
上中下にすればよかったかもですね
今日書いた続きなのに
何をどこまで書いたのかもう忘れちゃいました
加齢のせいにしていいですか?
ええっと
私たちの本体である魂は永遠不滅の存在です
「じゃあ永遠に私たちは輪廻転生しないといけないの?」
「悟り開いて解脱して
輪廻転生の輪から脱出ってどういう意味?」
って疑問を持つ人もいると思います
先の記事に書いた内容で
私たち人類には共通の目的があると書きました
といいますか
創造的意識(絶対存在)の「神聖なる計画」
というものがすべてのベースにあるのです
これはまぁ宇宙の法則ですね
計画書で方程式で規則みたいなもの
私たちが本体の現身として3つの次元に自己を投影し
所有している3つの身体…これが実体ですね
これは一時的な身体で仮の宿みたいなものですが
「個別」の存在として
自己を表現していくためには必要不可欠なものです
(だって私たちは根っこの部分では繋がっているというか
本来は同じひとつのものだから
一個の生命体の一部でそれ全体としては一つ
けれども一つひとつのセルは個別に分かれていて
そのセルはセルごとに末端を持っている
根っこから見ると一つだけど
末端はいくつにも分かれててその数は無数で
末端から見ると、一つひとつが単体なんですね
この説明で分かりますかね?)
末端である実体をして
私たちは「個」としての自己を所有し表現できる
他者と自己の区別・差別化が可能になるのです
実体としての身体は80~100年程度しか持ちません
輪廻転生というのは
この腐敗し死滅する身体としての実体を
何度も個別のパーソナリティとして生き
使い捨てるかのように通過していくこと
これには「終わり」が設定されているのです
輪廻転生の終わりとは
腐敗し死滅する身体ではなく
永遠不滅の身体を完成させることが出来たとき
(いわゆる霊的成長を遂げ
悟りを開くとか解脱とかそういう意味合いの時期ですが)
たくさんの人生を生きて様々な経験をして
唯一無二の自分を表現するというミッションを遂行しながら
私たちはその永遠不滅の身体を育てることをしています
3つの次元で3つの身体を使って
永遠不滅の身体である第4の身体は
2つの身体を成長させつつ
現実世界であり物理的次元であるこの三次元にて
自己の創造性を表現していかないことには成長しません
これは
4次元の身体であるサイキカル体(心)と
5次元の身体であるノエティカル(思考)体で
それぞれ49段階あります
(7つの段階がさらに7つに分かれてる)
これがすなわちそのまま霊的成長の段階ということなります
サイキカル体とノエティカル体が
二人三脚みたいに共に手を携え足並み揃えて
一つの段階を成長し、上っていけるのなら良いのですが
残念ながらそうではなく
2つの身体が成長していくスピードはバラバラです
心の身体であるサイキカル体だけ成長していく人もいるし
思考の身体であるノエティカル体だけ発達していく人もいる
そんなわけで
人の霊的成長の段階というのは49段階ではありますが
2つの身体の成長の状態が異なっているので
2つの身体それぞれがどこの段階にいるかという
組み合わせになりますから
49×49-49=2352でしたっけ?
数学は大の苦手だし計算式調べてもわからん…でしたので
あくまで仮の数字として
まあ、なんていうかこの世には2352通りの
霊的成長の段階にいるパターンに分かれるということで
それだけバラエティ豊かな人材がいるということです
でもこの2つの身体だけ鍛えて成長させても
その成長の度合いに合わせて
肉体を使って物質的次元で「表現」「行動」していかないと
第4の身体・サイコノエティカル体は成長しませんが
とりあえず私たちは
永遠不滅の身体を得るために
幾多数もの身体に一時的に宿っては
幾多数のもの人格を生き
色んな人生を展開しているわけですね
ひとつの人生で2つの身体が一段階成長できれば
49回の人生を生きてゴール到達!となるわけですが
残念ながらそうはいかないのです
落第も飛び級もないけど留年はあるのがこの地球学校
100回位の人生で「輪廻転生終了」となる人もいるけど
この地球上には「600回生きてまーす」なんて人もざら
そして地球単位で全員がゴールに到達しないと
全員がその後に進めないのでございますが
(連帯責任なんで)
困ったことに楽観的な状況とは言えないのです
ちなみに霊的成長の段階を語る時に
「ヤコブの階段」という図式があるんですけど
5.超意識
4.意識的
3.目覚め
2.無意識
1.本能
これで言うと
地球の60%以上の人がまだ1と2なんですね
4以上の人はほとんどいず
5なんてウルトラマイノリティ
そして「私がー」「私がー」な価値観なんですよ
標準的な基準が「I, My, Me」「I me mine」
まだこの地球って星は
大国はジャイアニズムですし
政治にしても国単位として
自国の利益だけで動いているとこばっかなわけ
「You&I」とか「We are」的な
分かち合い、シェアする価値観はマジ少数派
ここまで書いてああ最初書こうと思ってたところから
風呂敷が広がりすぎているというか
話がどんどん別方向に流れている気がっっ
そしていったんここで切って
また続きにしてしまいます
「人間/霊・魂」本体と実体のハナシ
昨日の続きです
昨日の用語として書いた「人間/霊・魂」という表現
これは私たちの本体と解釈してくれていいです
本来の私たちであり、ホームたる母体のようなとこ
それに対して実社会を生きている
肉体を持った存在としての私たちは実体
本体の投影(シャドウ)であり現身のようなもの
このような説明は
エドガー・ケイシー的な物言いになりますが
宇宙に一人(個別)の人間が誕生して
「人間/霊・魂」となり
まずそれが本体として存在することになり
三次元と四次元と五次元の三つの世界に
実体としての現身を持ち人生をスタートさせた時
それが一人の人間としての歴史の始まりです
本体には私たちのすべてがあります
これまで生きてきたすべての記録
実体として生きたことのあるすべてのパーソナリティ
記憶であり性格を形作るものとしてのエレメンタル
これまでに創造してきたエレメンタルのすべてが…
さしずめ本体が実家だとすると
実体というのはそこから独り立ちして
アパートに一部の荷物だけ持って
一人暮らししているみたいな状態
スターシップ(母船)とそこに帰属する子船とも
でも独立してそこから生まれた存在というのも違う
親と子の関係というのにも置き換えるのも違うし
何より実体の方は本体という実家があることを知らない
そこから分離していて属しているということを忘れている
もちろん繋がっていて影響も受けていますが
ようするに天涯孤独だと当人は思っているわけです
当人の知らないところで援助を受けていたり
影響や微細なコンタクトを受け取っていますけど
とはいうもののネグレクトではないけど
放任主義であることは間違いないですかね(苦笑)
常に共にあって見守ってはいるけど
あくまで当人の好きにさせて自主性にまかせている
…みたいな
「人間/霊・魂」というとアレだから
魂とだけ短い言葉で言ってもいいかも知れません
その方が判りやすいですかね?
魂(本体)と実体は=ではなく 魂(本体)≠実体
魂(本体)∋実体
そして魂(本体)という存在が私たちが神たる所以
ここがワンネスとしてすべてと繋がっているところ
少し話が逸れますが
私たちは全員、ある目的のために生きています
それは宇宙の意志であり創造的意識(絶対存在)の意志
私たちは宇宙の一部であり創造的意識の一部
私たちすべての存在が宇宙を構成している存在で
創造的意識たる絶対存在の個別化された細胞(セル)のようなもの
だから
全人類共通の目的と言えばそうだし
同時に個人の個別的な目的とも言えるし
連帯責任のようなものを担っているとも言うことが出来る
一人の運命は全員の運命であり
一人の意志は全員の意志でもある
マクロコスモとかミクロコスモとかワンネスとか
その概念、言い方でいいと思いますが
私はあなたであり、あなたは私
けれど同時に
私はあなたではなくあなたは私ではない
何故なら私たちは同じものの一部であっても
その一部は同じ場所に存在しているわけではないから
(人体で言うと、同じ肉体に属してはいても
脳と爪は別もので役割も違うという話)
ややこしい話です
こうした観念を理解しろというのが土台無理な話で
理論的に考えようとするとこんがらがるから
イメージや感覚で理解した方が捉えやすいかも
とはいうものの
理解できないことを無理に理解する必要はないと思うし
理解できない、意味を咀嚼出来ないということは
まだ知るべき時期に来ていないその段階ではない
…ということでもありますので
そんな謎理論や哲学や教義…考えもあるんだくらいに
ifもしもの仮説話として捉えてもらえればと
で、話戻りまして
魂(本体)というのは、この肉体の中には存在していません
ハイアーセルフ(高次元の意識)とか
インナーセルフとか本当の自分とも言われる意識とか
そういう言葉で捉えられている意識が魂(本体)ですかね
そして魂(本体)そのものが
個人のアカシックレコードとも言えるし
ブループリント(人生計画)を創り出す
カルマのレッスンの仕掛け人
でも普段の私たちは
実体としての意識、エゴ(自我)を持って生きている
肉体(実体)だけが自分だと思っていて
魂(本体)が自分であることを忘れているわけです
そして魂(本体)との繋がりも持とうとはしていない
でもまぁそれでいいんですけどね
魂(本体)は永遠不滅のものだけど
肉体(実体)は不滅でも不死でもなく
80~100年位の時間しか生きることが出来ない
私たちは永遠不滅の存在であると同時に
何度も死という変遷を経て輪廻転生を繰り返す
人生をリセットさせては新しい人生を生きる
たくさんの様々な人生を経験する
そして昨日書いた記事でいうところの
一昨年が前々世で去年が前世で
今が今年、そして来年が来世として考えたとき
毎年私たちは去年の記憶を失くして
新しい年を何も覚えてない状態で始める
そう
困ったことに覚えていないのです
でも覚えていないというのは慈悲の行為
生きていると忘れてしまいたいこともたくさん出てくるし
一からリセットされて事前情報がないままの状態で
始めたり、やり直したりした方がいい関係も
これまたたくさんあるから
でも去年までしてきたこと積み重ねてきたことは
着実に符合として人生のあちらこちらに出ている
行くべき方向を示し、そちらへと誘導する
「何か」の力とか「記憶の糸」って必ずありますから
過去生の、去年の記憶はないけど
心が惹かれたり好奇心が刺激されたり
感情が揺さぶられたり拒絶反応が出たり
才能や実技として自分が持っているものに気づいたり
間違った方向に行こうとすると道が閉ざされたり
「過去」に自分が創ってきたものや歩いてきた道のり
撒いた種が成長していたりなどの結果と出逢ったり
覚えてはいなくても…記憶はなくても
私たちは自分たちが「過去」にしてきた行動や
考えたり思ったりしたことと対峙することになる
そしてここでまた続く
昨日の用語として書いた「人間/霊・魂」という表現
これは私たちの本体と解釈してくれていいです
本来の私たちであり、ホームたる母体のようなとこ
それに対して実社会を生きている
肉体を持った存在としての私たちは実体
本体の投影(シャドウ)であり現身のようなもの
このような説明は
エドガー・ケイシー的な物言いになりますが
宇宙に一人(個別)の人間が誕生して
「人間/霊・魂」となり
まずそれが本体として存在することになり
三次元と四次元と五次元の三つの世界に
実体としての現身を持ち人生をスタートさせた時
それが一人の人間としての歴史の始まりです
本体には私たちのすべてがあります
これまで生きてきたすべての記録
実体として生きたことのあるすべてのパーソナリティ
記憶であり性格を形作るものとしてのエレメンタル
これまでに創造してきたエレメンタルのすべてが…
さしずめ本体が実家だとすると
実体というのはそこから独り立ちして
アパートに一部の荷物だけ持って
一人暮らししているみたいな状態
スターシップ(母船)とそこに帰属する子船とも
でも独立してそこから生まれた存在というのも違う
親と子の関係というのにも置き換えるのも違うし
何より実体の方は本体という実家があることを知らない
そこから分離していて属しているということを忘れている
もちろん繋がっていて影響も受けていますが
ようするに天涯孤独だと当人は思っているわけです
当人の知らないところで援助を受けていたり
影響や微細なコンタクトを受け取っていますけど
とはいうもののネグレクトではないけど
放任主義であることは間違いないですかね(苦笑)
常に共にあって見守ってはいるけど
あくまで当人の好きにさせて自主性にまかせている
…みたいな
「人間/霊・魂」というとアレだから
魂とだけ短い言葉で言ってもいいかも知れません
その方が判りやすいですかね?
魂(本体)と実体は=ではなく 魂(本体)≠実体
魂(本体)∋実体
そして魂(本体)という存在が私たちが神たる所以
ここがワンネスとしてすべてと繋がっているところ
少し話が逸れますが
私たちは全員、ある目的のために生きています
それは宇宙の意志であり創造的意識(絶対存在)の意志
私たちは宇宙の一部であり創造的意識の一部
私たちすべての存在が宇宙を構成している存在で
創造的意識たる絶対存在の個別化された細胞(セル)のようなもの
だから
全人類共通の目的と言えばそうだし
同時に個人の個別的な目的とも言えるし
連帯責任のようなものを担っているとも言うことが出来る
一人の運命は全員の運命であり
一人の意志は全員の意志でもある
マクロコスモとかミクロコスモとかワンネスとか
その概念、言い方でいいと思いますが
私はあなたであり、あなたは私
けれど同時に
私はあなたではなくあなたは私ではない
何故なら私たちは同じものの一部であっても
その一部は同じ場所に存在しているわけではないから
(人体で言うと、同じ肉体に属してはいても
脳と爪は別もので役割も違うという話)
ややこしい話です
こうした観念を理解しろというのが土台無理な話で
理論的に考えようとするとこんがらがるから
イメージや感覚で理解した方が捉えやすいかも
とはいうものの
理解できないことを無理に理解する必要はないと思うし
理解できない、意味を咀嚼出来ないということは
まだ知るべき時期に来ていないその段階ではない
…ということでもありますので
そんな謎理論や哲学や教義…考えもあるんだくらいに
ifもしもの仮説話として捉えてもらえればと
で、話戻りまして
魂(本体)というのは、この肉体の中には存在していません
ハイアーセルフ(高次元の意識)とか
インナーセルフとか本当の自分とも言われる意識とか
そういう言葉で捉えられている意識が魂(本体)ですかね
そして魂(本体)そのものが
個人のアカシックレコードとも言えるし
ブループリント(人生計画)を創り出す
カルマのレッスンの仕掛け人
でも普段の私たちは
実体としての意識、エゴ(自我)を持って生きている
肉体(実体)だけが自分だと思っていて
魂(本体)が自分であることを忘れているわけです
そして魂(本体)との繋がりも持とうとはしていない
でもまぁそれでいいんですけどね
魂(本体)は永遠不滅のものだけど
肉体(実体)は不滅でも不死でもなく
80~100年位の時間しか生きることが出来ない
私たちは永遠不滅の存在であると同時に
何度も死という変遷を経て輪廻転生を繰り返す
人生をリセットさせては新しい人生を生きる
たくさんの様々な人生を経験する
そして昨日書いた記事でいうところの
一昨年が前々世で去年が前世で
今が今年、そして来年が来世として考えたとき
毎年私たちは去年の記憶を失くして
新しい年を何も覚えてない状態で始める
そう
困ったことに覚えていないのです
でも覚えていないというのは慈悲の行為
生きていると忘れてしまいたいこともたくさん出てくるし
一からリセットされて事前情報がないままの状態で
始めたり、やり直したりした方がいい関係も
これまたたくさんあるから
でも去年までしてきたこと積み重ねてきたことは
着実に符合として人生のあちらこちらに出ている
行くべき方向を示し、そちらへと誘導する
「何か」の力とか「記憶の糸」って必ずありますから
過去生の、去年の記憶はないけど
心が惹かれたり好奇心が刺激されたり
感情が揺さぶられたり拒絶反応が出たり
才能や実技として自分が持っているものに気づいたり
間違った方向に行こうとすると道が閉ざされたり
「過去」に自分が創ってきたものや歩いてきた道のり
撒いた種が成長していたりなどの結果と出逢ったり
覚えてはいなくても…記憶はなくても
私たちは自分たちが「過去」にしてきた行動や
考えたり思ったりしたことと対峙することになる
そしてここでまた続く
2019/06/17
連続した時間としての人生
また少し間が空いてしまいました
ちょっと仕事でバタバタしていましたので
こんなblogでも
楽しみにして下さっている方にはスミマセン
ここのところ
自分語り的な投稿が続いていたので
このblogの主旨に添った内容をば久し振りに
分類としては輪廻転生とカルマの法則と魂の計画話
人の一生というのはせいぜい100年弱で
それはとても長いようで短く
あっという間の走馬灯のようなものでもありますが
望む方向に人生が行かず
苦難や悲嘆ばかりだと生きることが辛く惨めで
歩いても歩いても抜け出せない
長い真っ暗なトンネルに置き去りにされて
永遠に閉じ込められたかのような気分になります
でも
永遠に思えるかのようなその閉塞的な時間は
あくまで今の人生での出来事でしかなく
その人が「人間/霊・魂」として誕生し
個別の存在としての歴史を刻んでいるうちの
ほんのわずかな時期の出来事でしかないのです
そうですね
「人間/霊・魂」としての人生を
今の人生(一生)として考えてみましょう
仮に100年で大往生する人生だとします
すると輪廻転生して
様々な人間を生きるひとつの人生は
その100年の人生のうち
1年かそれ以下の数か月程度に置き換えることが出来ます
一年がMAXだとして数時間、数日
あるいは数週間、数か月という人もいます
ひとつの人生は
「人間/霊・魂」としての全体の人生の中で
その程度の期間に過ぎないのです
最高でも一年間しか今の人生が生きられないとしたら
あまりにも短かすぎて何も成すことが出来ず
満足する人生を生きるには
とても時間が足りないように思うでしょう
実際その通りです
今の人生、ひとつの人生だけでは足りないこと
成就できないこと結果を出せないことが
山ほどたくさんあります
てもそれは今の人生を他の人生と切り離して
区切って考えてしまうからそう思えるのです
私たちはこの一年間や数か月という今の人生だけでなく
以前の人生(去年や一昨年)から今の人生(今年)に至り
未来の人生(来年再来年)という時間軸に向けて
連続して生きている存在なのですから
今の人生だけで出来るようになったり
完成させたり叶えられることはさほど多くなく
大体において、過去に計画したことや望んだこと
ある一定の方向性に向かって努力したことや
何かをしたことの結果としての今があります
今の人生で
素晴らしい容姿にも才能にも恵まれている人がいたとして
それはたまたま手に入れたものではないのです
人生で初めてトライする技術を習得するのに
時間が掛かるように水面下の努力が必要なように
今の人生はこれまで努力や忍耐の結果が
開花した年というだけなのです
その逆も然りで
これまでの行動のツケや怠けたことの結果が
逆風として吹いてきて築いてきたものが崩壊する
そんな年もあるのです
輪廻転生というとイメージできなくとも
人の一生の流転、隆盛や因果応報などを考えれば
おのずと理解できると思います
だから今回の人生だけで
すべての結果を得ようとは思わないでください
今の人生がすべてではないのです
人生は連続して続いているのです
ある意味で今の人生の時間(どの人生も)というのは
通過点のひとつでしかないのです
でも通過点といってもとても重要で意味ある通過点
今回の人生で結実しなかったことも
叶えられることが出来なかった望みがあったとしても
それはいつか必ず何らかの形で
あなたのところに戻ってきます
現実の人生でも今年ではなく来年再来年
または数十年後に実現できることがあるように
いつかあなたは自分の望みを叶えることになるのです
その結果を手に入れることになるのです
その時にはもう欲しいとか必要とか
望んだこと自体を忘れてしまっているでしょうが
でも今年さぼったことが来年やそれ以降に
結果として表れるように
いつか自分の元に帰ってくるように
今の人生もおろそかには出来ないのです
だから今の人生が
未来を創っているということを忘れないでください
自分が何を望むのか欲するのか
自分の欲望に注意深くなってください
あなたの未来に
あなたの未来を邪魔する雑草の種を蒔かないことです
下手をすれば雑草引っこ抜くのに時間ばかり取られて
やりたいことがまったく出来ない一年に
なってしまうかも知れません
そして色んなことが先送りになり寄り道ばかりの人生で
無駄な人生(数年)を過ごしてしまうことになるのです
ちょっとここでとある人の話をば
その人は400年前
芸術家で発明家でもありました
当時はまだ無かった印刷機を創ろうと
あれこれと夢中になっていましたが
その人生ではそれを叶えることが出来ませんでした
やがてその人が人生を終えた後
彼の工房出身者、弟子というか後輩が
彼の知識を引き継ぎ、念願を叶えることになりました
発明家だった時の人生を終えた15年後位に
次の肉体へと転生し生まれましたが
その人生では発明家としての人生は選びませんでした
そしていくつもの人生を経て
20世紀に生まれた人生で
彼は印刷局の公務員の職業に就く事になりました
その職業に就く事になったのは
400年前に彼が「印刷機」に対して執着した結果でした
その人はとても霊性の高い人で
いくつもの天才としての人生を生きた人でしたが
そういった人でも、ひとつの望みが叶うのに
400年もの年月を要したのです
とはいうものの、「印刷機」を発明するというところは
他の人に叶えられてしまったので
「印刷機」が世に生まれてしまったのを知った後では
既に興味や気持ちが離れていたのかも知れません
そんな風に
その人生では成せなかったこと出来なかったこと
叶えられなかった望みが
数百年の後に結実することは実に多いのです
そして今生で望んですぐに叶ったと
形になった、手に入れられたと思っていることであっても
実のところは数百年前からいやさ数千年前の単位で
切実に望んで欲したことかも知れないのです
もちろん過去のとある時期、人生で努力したり
望んだことの結果が今の人生という可能性もありますし
元々のあなたの「人間/霊・魂」としての
お役目がその方向性と合致していたのかも知れません
何故ならば
あなた自身の「人間/霊・魂」が許可をして
GOサインを出さないことは何も叶えられないからです
それが良いことにしても悪いことにしても
本人にとって辛く苦渋に満ちたことであっても
とりあえずいったんここで切ります
続きは次回に
ちょっと仕事でバタバタしていましたので
こんなblogでも
楽しみにして下さっている方にはスミマセン
ここのところ
自分語り的な投稿が続いていたので
このblogの主旨に添った内容をば久し振りに
分類としては輪廻転生とカルマの法則と魂の計画話
人の一生というのはせいぜい100年弱で
それはとても長いようで短く
あっという間の走馬灯のようなものでもありますが
望む方向に人生が行かず
苦難や悲嘆ばかりだと生きることが辛く惨めで
歩いても歩いても抜け出せない
長い真っ暗なトンネルに置き去りにされて
永遠に閉じ込められたかのような気分になります
でも
永遠に思えるかのようなその閉塞的な時間は
あくまで今の人生での出来事でしかなく
その人が「人間/霊・魂」として誕生し
個別の存在としての歴史を刻んでいるうちの
ほんのわずかな時期の出来事でしかないのです
そうですね
「人間/霊・魂」としての人生を
今の人生(一生)として考えてみましょう
仮に100年で大往生する人生だとします
すると輪廻転生して
様々な人間を生きるひとつの人生は
その100年の人生のうち
1年かそれ以下の数か月程度に置き換えることが出来ます
一年がMAXだとして数時間、数日
あるいは数週間、数か月という人もいます
ひとつの人生は
「人間/霊・魂」としての全体の人生の中で
その程度の期間に過ぎないのです
最高でも一年間しか今の人生が生きられないとしたら
あまりにも短かすぎて何も成すことが出来ず
満足する人生を生きるには
とても時間が足りないように思うでしょう
実際その通りです
今の人生、ひとつの人生だけでは足りないこと
成就できないこと結果を出せないことが
山ほどたくさんあります
てもそれは今の人生を他の人生と切り離して
区切って考えてしまうからそう思えるのです
私たちはこの一年間や数か月という今の人生だけでなく
以前の人生(去年や一昨年)から今の人生(今年)に至り
未来の人生(来年再来年)という時間軸に向けて
連続して生きている存在なのですから
今の人生だけで出来るようになったり
完成させたり叶えられることはさほど多くなく
大体において、過去に計画したことや望んだこと
ある一定の方向性に向かって努力したことや
何かをしたことの結果としての今があります
今の人生で
素晴らしい容姿にも才能にも恵まれている人がいたとして
それはたまたま手に入れたものではないのです
人生で初めてトライする技術を習得するのに
時間が掛かるように水面下の努力が必要なように
今の人生はこれまで努力や忍耐の結果が
開花した年というだけなのです
その逆も然りで
これまでの行動のツケや怠けたことの結果が
逆風として吹いてきて築いてきたものが崩壊する
そんな年もあるのです
輪廻転生というとイメージできなくとも
人の一生の流転、隆盛や因果応報などを考えれば
おのずと理解できると思います
だから今回の人生だけで
すべての結果を得ようとは思わないでください
今の人生がすべてではないのです
人生は連続して続いているのです
ある意味で今の人生の時間(どの人生も)というのは
通過点のひとつでしかないのです
でも通過点といってもとても重要で意味ある通過点
今回の人生で結実しなかったことも
叶えられることが出来なかった望みがあったとしても
それはいつか必ず何らかの形で
あなたのところに戻ってきます
現実の人生でも今年ではなく来年再来年
または数十年後に実現できることがあるように
いつかあなたは自分の望みを叶えることになるのです
その結果を手に入れることになるのです
その時にはもう欲しいとか必要とか
望んだこと自体を忘れてしまっているでしょうが
でも今年さぼったことが来年やそれ以降に
結果として表れるように
いつか自分の元に帰ってくるように
今の人生もおろそかには出来ないのです
だから今の人生が
未来を創っているということを忘れないでください
自分が何を望むのか欲するのか
自分の欲望に注意深くなってください
あなたの未来に
あなたの未来を邪魔する雑草の種を蒔かないことです
下手をすれば雑草引っこ抜くのに時間ばかり取られて
やりたいことがまったく出来ない一年に
なってしまうかも知れません
そして色んなことが先送りになり寄り道ばかりの人生で
無駄な人生(数年)を過ごしてしまうことになるのです
ちょっとここでとある人の話をば
その人は400年前
芸術家で発明家でもありました
当時はまだ無かった印刷機を創ろうと
あれこれと夢中になっていましたが
その人生ではそれを叶えることが出来ませんでした
やがてその人が人生を終えた後
彼の工房出身者、弟子というか後輩が
彼の知識を引き継ぎ、念願を叶えることになりました
発明家だった時の人生を終えた15年後位に
次の肉体へと転生し生まれましたが
その人生では発明家としての人生は選びませんでした
そしていくつもの人生を経て
20世紀に生まれた人生で
彼は印刷局の公務員の職業に就く事になりました
その職業に就く事になったのは
400年前に彼が「印刷機」に対して執着した結果でした
その人はとても霊性の高い人で
いくつもの天才としての人生を生きた人でしたが
そういった人でも、ひとつの望みが叶うのに
400年もの年月を要したのです
とはいうものの、「印刷機」を発明するというところは
他の人に叶えられてしまったので
「印刷機」が世に生まれてしまったのを知った後では
既に興味や気持ちが離れていたのかも知れません
そんな風に
その人生では成せなかったこと出来なかったこと
叶えられなかった望みが
数百年の後に結実することは実に多いのです
そして今生で望んですぐに叶ったと
形になった、手に入れられたと思っていることであっても
実のところは数百年前からいやさ数千年前の単位で
切実に望んで欲したことかも知れないのです
もちろん過去のとある時期、人生で努力したり
望んだことの結果が今の人生という可能性もありますし
元々のあなたの「人間/霊・魂」としての
お役目がその方向性と合致していたのかも知れません
何故ならば
あなた自身の「人間/霊・魂」が許可をして
GOサインを出さないことは何も叶えられないからです
それが良いことにしても悪いことにしても
本人にとって辛く苦渋に満ちたことであっても
とりあえずいったんここで切ります
続きは次回に
2019/06/15
真夏の夜の夢~夏至の瞑想会
そういえばこちらで告知するのを忘れていました
【真夏の夜の夢~夏至の瞑想会】
Summer Solstice Meditation
2019/6/22(土)19時~21時
参加費:2000円
※お茶・茶菓子込み
場所は当サロン(有楽町線江戸川橋駅徒歩2分)
★相変わらず思い立ったが吉日な告知ですが
今年の夏至が土曜日だったのでちょうどいいかもと
瞑想会開催を思い立ちました
瞑想初心者の人もお気軽にどうぞ
参加申し込みは前日まで
【真夏の夜の夢~夏至の瞑想会】
Summer Solstice Meditation
2019/6/22(土)19時~21時
参加費:2000円
※お茶・茶菓子込み
場所は当サロン(有楽町線江戸川橋駅徒歩2分)
★相変わらず思い立ったが吉日な告知ですが
今年の夏至が土曜日だったのでちょうどいいかもと
瞑想会開催を思い立ちました
瞑想初心者の人もお気軽にどうぞ
参加申し込みは前日まで
2019/06/04
他人のフリ見て我がフリ直す
時々ふとしたある瞬間に
まるでその当時のその空間に戻ってしまったかのように
過去の記憶がありありと脳裏に浮かぶことがあります
といっても過去生体験とかではなく
現世の、今の人生の何気ない1シーンです
それは数年前だったり10数年単位の前のことだったり
単純に言えば思い出したというだけなんですが
例えば子供の頃に見た鮮やかな海岸線
抜けるように青い空と
打ち寄せる波と白い砂のコントラスト
とても眩しい夏の日差し
いつどこで見た景色だったろう?
どこの海だったっけ?(たぶん千葉ですが)…とか
以前一戸建てを借りれることになったときの
その素敵な家に棲めることになったワクワク感
あの頃はまだ若く希望に満ちていて
今がこうだなんて想像できなかったな…とか
風景だけでなく
その時に自分が考えていたことや
感じていた気持ちまでもが蘇ってくるのです
でもそうした楽しいこと
甘い痛みや淡い郷愁だけでなく
悲しみや辛かったことはもちろん
自分がどれほど青臭くて生意気な人間だったのか
情けないみっともない愚かな恥知らずであったのか
過去の自分のバカさ加減を客観的に見させられて
萎えてしまうというか穴があったら入りたくなり
消え入りたくなるような気持ちで
いっぱいにさせられることも日常多々あるのです
このblogでは
私の私的な体験談やどうでもいい戯言以外に
読む人に自分の身に置き換えて
あれやこれや人生や生き方について考えて頂くために
(輪廻転生やカルマのレッスン、エレメンタルのことなど)
見えない世界や霊的知識の解決も交えながら
仕事(セッション等)で知り得たことなどを
文章にまとめてあれこれ綴っているわけですが
良い言い方をすれば教訓話として
セッションを受けた人にも自分の問題を
改めて文章にされたものを読むことで
深い理解に繋がればとも
でも良くない言い方をすればお客さんや生徒さんや
周囲の人のことをネタにしてしまっていて
ともすればワルモノにして批判や批評するかのように
揶揄するように他人の秘密を晒しているとも
いえるかも知れません
書き方とか伝え方次第なのでしょうが
読む人に当人にも不愉快さを与えてしまうならば
それは私の不徳のいたすところであり
人間性の欠落以外のなにものでもありません
そういうのは文章力以前の問題で
そして何度もここでも書いているように
私自身は本当に普通の未熟な人間で
何か特別な才能があるとか資質に秀でているとか
そういうのもないですし(外見も人並み以下で)
人間力もありませんしストレス耐性も低いし
人生を達観出来るほどに精神的成熟度は達していないし
出来ないことだらけ欠点だらけのダメ人間です
霊性も大して高くないです
今でこそだいぶ
感情をコントロールできるようになりましたが
この状態に至るまでの私は目もあてられないほど
ヒステリーでキレやすく(まるで火病かって位に)
頑固で怠惰でルーズで口だけ達者の生意気で
こらえ性なく中二病+メンヘラちゃん+電波で
本当に何様ってくらいの傲慢な上から目線さんでした
(ものすごくめちゃくちゃな性格でいいとこなし)
昔の自分をなぐってやりたいと思うことは
一度や二度ではなく何度も思うことですが
そんな性分故に
本当にたくさんの人に迷惑をかけてしまいました
今もどうなんでしょう
人はなかなか変われないものですから
完全に変われたとは言い切れない部分もあります
ですから
このblogで書かせて頂いている
クライアントさんたちの問題は
実は私自身の問題だったりします
写し鏡とはよくも言ったもの
私はクライアントさんの問題を通して
私自身の問題に直面させられ対峙させられているのです
そしてクライアントさんの問題を見させられるたび
クライアントさんに対して何かアドバイスするとき
私にとっても耳の痛いことで
まるで自分のことを言われているようだ…と
「アイタタタタタタタ…」とよくなってしまいます
それはクライアントさんだけに限ったことではなく
プライベートにしても
私自身に痛い思いを与えてくれる人は
いやさそうした人たちを通して
私が与えられるその痛い思いというのは
私が過去に私に関わった誰かに
味合わせてしまった痛みであり
不快な体験で思いだったりするのです
だから私はこの仕事を通して
私自身の問題を知る機会をたくさん与えてもらっています
今の人生だけではなく過去生の私のしたことによって
誰かに与えた苦痛や悲しみ、不愉快な思いなど
様々な自分のパーソナリティ(性格)の歪みを気づかせられ
自分が過去に他人に対して何をしてきたか…
を見つめさせられてもいます
そうですね
子供を失くして狂人になっちゃったりとか
お役目放棄して自殺しちやったこととか
やっぱり現実逃避して自殺しちゃったりとか
陥れられたり殺されたことも数多いけど
それを恨みに思って引きずって性格めちゃくちゃ歪めたし
思い出せた過去生でもたくさん迷惑かけ通し
霊性が高いからとか霊能力があるからとか
他人より一段進んだ高いところにいるから
この仕事をしているわけでは決してないのです
むしろ人とはちょっと違ったこの個性や資質を用いて
私がクライアントさんのサポートをしているのは
私自身が傷つけてきた人たちへの
罪滅ぼしもあるのかも知れません
もちろん私の今生の親のカルマや先祖(士族)の
罪滅ぼしというお役目・負債も背負っているわけですが
まぁでも
私自身「変わる必要性」があり
「変わったこと」で日常や人生変わりましたし
生きやすくなったし色々な意味で楽にもなったし
「自分が変われば周囲も世界も
人生も未来も変えられるんだよ」
っていうメッセージを込めて
かつての私自身のように
自分で蒔いた種に苦しめられている人を
少しでも助けてあげたいと力になってあげたいと
悩んだり苦しんだりした自分の経験を
他人の役に立てたいと思ってのこの仕事でもありますが
このblogで伝えたいことは
スピリチュアルなセッションの現場や知識から
学び得た教訓を多くの人にシェアすることで
それぞれの人に自分の人生や生き方や
周囲の人との関係性とかあやこれやを振り返ってもらって
自分の身に置き換えて考えたり思ったりしてもらいたいと
そして霊的知識を知る事で見えない世界と付き合い方も
知ってもらって「自分は何故生きているのか」
「どう生きればいいのか」などとかも含めて
色々なことに気づいてもらいたいなあと思いつつ
公開することが果たして良いことなのか否か
未だに良心の呵責もありつつ、公開させて頂いていますが
同時に私のようなダメダメな問題児でも
人は変わろうと思えば変われるし
自分が変わることで人生は変えられるよって
過去の生き方と決別して自分人の問題を直視して
向き合っていけるようになれば未来も好転しますよって
そんなこともお伝えしたいと思うわけです
私のどうでもいい人生の経験話が
他人の役に立つことがあるのならば…と
ちなみに
占星学上での私のホロスコープ(ネイタルチャート)では
ASC(アセンダント)に土星が乗っかっているのですが
(おまけに天王星と冥王星のコンジャクションが
それに対してオポジションという正反対の位置で
冷戦状態というか圧迫と攻撃をかけられている)
古典的な読みだと、「人生最初から積んでいる」
というか
「生まれる前から重荷背負って波乱万丈&前途多難」で
まるで地球背負っているアトラス状態なわけですけども
心理占星学とか最近の占星学の読みの方からだと
土星は運命の整体師さんなんで
この人生でのテーマは「人間性の徹底的鍛錬」
という暗示で「徹底的に今回は性格矯正やるど~!」
ってな感じになります
出る杭(欠点)をモグラたたきのように土星に叩かれまくり
まあ太陽も海王星も8ハウスで
ASCはボーダーな魚座で月もここですから
自分という器があやふやで不安定なので
しっかりと自分という器を作らんかい!なんですよね
自分の枠組みと芯を同時にしっかり作れと
何しろ自他ともに認める霊媒体質(憑依されまくり)で
ミディアム(ミーディアムではありませんっっ汗)ですから
だからこその過去の失敗でこの気質
この人生はつくづく
こんな自分には必要なものであったと痛感します
そういう意味で誰もが自分を育てるために生きている
成長しないことには痛みからも課題からも逃れられず
クリアしなければ終わらないダンジョンなのです
私はこの人生によって育ててもらっている最中です
そのためにたくさんの人に出会い
育ててもらいました
私がこんなで発展途上でしたから
せっかく出逢えたのに良い出逢いとはならず
お互いにイヤな思いをする結果になってしまったり
一方的に傷つけてしまったり失礼をしてしまったり
その関係を大事にしたり関係性を育むことが出来ずに
相手を消耗品のように扱うことになってしまったり
若さゆえの過ちと片付けるのは単なるイイワケで
決して若くはない最近のこともあるわけで
今の私だったらもっと違ったやり方があったろう
もっとうまく対処できたろう
別の言い方や接し方が出来たのではと思うことも
とにかく過去の自分のエゴイズムを思い出すとき
吐き気というか眩暈がするくらいに辟易しますが
過去にご縁があって出逢ったすべての人たちには
ただ感謝するばかりなのです
それがどのような出逢いで関係性であって
お互いにとってどんなに不愉快で悲しい別れ方
ご縁の切れ方をした方であったとしても
そのような出来事から私は多くのことを学ばせて頂きました
皆さんは私にたくさんのことを教えてくれた教師でした
そして私に様々な経験を与えてくれ
多くのものをプレゼントしてくれた人たちです
皆さんの存在、出逢いによって
私という人間は育ててもらいました
今の私があるのは皆さんのお陰です
本当に心から感謝していますし
当時の私達の関係がどうであったとしても
どのような問題があ互いにあったとしても
私のことを恨んでいたり嫌っていたり
私のことを思い出すだけで苦痛で
気分が悪くなる人もいるかも知れませんが
それでも私は皆さんの幸福を心から願っていますし
この人生で出逢ってくれたことやご縁があったことに
深く感謝しています
それぞれに意味のある出来事でした
頭ではもう許してはいても
心のわだかまりというのはなかなか溶けないものだから
今の人生では和解や再会はないでしょうが
いつかまた別の人生で出会ったときには
笑顔でお会いして良い関係を築きたいものです
そして今の人生でも
もしも私が貴方たちのお力になれることがあるのなら
出来るだけ私はサポートをして差し上げたいと思っています
でも私もまだまだ発展途上で
未だに克服できていない欠点もたくさんあります
忍耐もまだまだ足りません
やり方を間違えてしまうこともあるかも知れません
それだけご容赦くださいませね
………って
急に「どうしたんだ!」というような
お便り口調になってしまいましたが
何て言いましょうか
私がされたのではなく
してしまったた方の立場で
過去に色々とイヤな思いをさせてしまったり
迷惑をかけてしまったり
申し訳ないことをしてしまった人に対しては
その人に直接お詫びをしたいと思うのは
単なる自己満足ですから
ではどんなことが過去の償いになるのかというと
やはり私がまともな人間になることかと
きちんと過去の自分を反省して
同じ過ちを繰り返さず
人として成長してスジの通った生き方をすること
社会に貢献できる人になること
そして
今出来ることをきちんとして
問題や自分の弱さから逃げずに
自分に与えられた仕事に取り組んで
全力で自分の人生を生きること
目の前の人間関係を大切にしていくこと
だけかなって思います
今の私と友人知人でいてくれる人
繋がってくれている人たち
まだ見ぬご縁の方たち
これから出会うであろう人たち
こんな私を信頼してくれるクライアントさん
これから訪れてくれるクライアントさん
そういう人たちと真摯に向き合っていくこと
誠実にそしてそのご恩にや気持ちに報いれるように
とにかく自分自身を鍛錬して研磨して
心のケガレやエゴイズムを取り払って
人として正しい生き方が出来るように
日々修養していくしかないです
まるでその当時のその空間に戻ってしまったかのように
過去の記憶がありありと脳裏に浮かぶことがあります
といっても過去生体験とかではなく
現世の、今の人生の何気ない1シーンです
それは数年前だったり10数年単位の前のことだったり
単純に言えば思い出したというだけなんですが
例えば子供の頃に見た鮮やかな海岸線
抜けるように青い空と
打ち寄せる波と白い砂のコントラスト
とても眩しい夏の日差し
いつどこで見た景色だったろう?
どこの海だったっけ?(たぶん千葉ですが)…とか
以前一戸建てを借りれることになったときの
その素敵な家に棲めることになったワクワク感
あの頃はまだ若く希望に満ちていて
今がこうだなんて想像できなかったな…とか
風景だけでなく
その時に自分が考えていたことや
感じていた気持ちまでもが蘇ってくるのです
でもそうした楽しいこと
甘い痛みや淡い郷愁だけでなく
悲しみや辛かったことはもちろん
自分がどれほど青臭くて生意気な人間だったのか
情けないみっともない愚かな恥知らずであったのか
過去の自分のバカさ加減を客観的に見させられて
萎えてしまうというか穴があったら入りたくなり
消え入りたくなるような気持ちで
いっぱいにさせられることも日常多々あるのです
このblogでは
私の私的な体験談やどうでもいい戯言以外に
読む人に自分の身に置き換えて
あれやこれや人生や生き方について考えて頂くために
(輪廻転生やカルマのレッスン、エレメンタルのことなど)
見えない世界や霊的知識の解決も交えながら
仕事(セッション等)で知り得たことなどを
文章にまとめてあれこれ綴っているわけですが
良い言い方をすれば教訓話として
セッションを受けた人にも自分の問題を
改めて文章にされたものを読むことで
深い理解に繋がればとも
でも良くない言い方をすればお客さんや生徒さんや
周囲の人のことをネタにしてしまっていて
ともすればワルモノにして批判や批評するかのように
揶揄するように他人の秘密を晒しているとも
いえるかも知れません
書き方とか伝え方次第なのでしょうが
読む人に当人にも不愉快さを与えてしまうならば
それは私の不徳のいたすところであり
人間性の欠落以外のなにものでもありません
そういうのは文章力以前の問題で
そして何度もここでも書いているように
私自身は本当に普通の未熟な人間で
何か特別な才能があるとか資質に秀でているとか
そういうのもないですし(外見も人並み以下で)
人間力もありませんしストレス耐性も低いし
人生を達観出来るほどに精神的成熟度は達していないし
出来ないことだらけ欠点だらけのダメ人間です
霊性も大して高くないです
今でこそだいぶ
感情をコントロールできるようになりましたが
この状態に至るまでの私は目もあてられないほど
ヒステリーでキレやすく(まるで火病かって位に)
頑固で怠惰でルーズで口だけ達者の生意気で
こらえ性なく中二病+メンヘラちゃん+電波で
本当に何様ってくらいの傲慢な上から目線さんでした
(ものすごくめちゃくちゃな性格でいいとこなし)
昔の自分をなぐってやりたいと思うことは
一度や二度ではなく何度も思うことですが
そんな性分故に
本当にたくさんの人に迷惑をかけてしまいました
今もどうなんでしょう
人はなかなか変われないものですから
完全に変われたとは言い切れない部分もあります
ですから
このblogで書かせて頂いている
クライアントさんたちの問題は
実は私自身の問題だったりします
写し鏡とはよくも言ったもの
私はクライアントさんの問題を通して
私自身の問題に直面させられ対峙させられているのです
そしてクライアントさんの問題を見させられるたび
クライアントさんに対して何かアドバイスするとき
私にとっても耳の痛いことで
まるで自分のことを言われているようだ…と
「アイタタタタタタタ…」とよくなってしまいます
それはクライアントさんだけに限ったことではなく
プライベートにしても
私自身に痛い思いを与えてくれる人は
いやさそうした人たちを通して
私が与えられるその痛い思いというのは
私が過去に私に関わった誰かに
味合わせてしまった痛みであり
不快な体験で思いだったりするのです
だから私はこの仕事を通して
私自身の問題を知る機会をたくさん与えてもらっています
今の人生だけではなく過去生の私のしたことによって
誰かに与えた苦痛や悲しみ、不愉快な思いなど
様々な自分のパーソナリティ(性格)の歪みを気づかせられ
自分が過去に他人に対して何をしてきたか…
を見つめさせられてもいます
そうですね
子供を失くして狂人になっちゃったりとか
お役目放棄して自殺しちやったこととか
やっぱり現実逃避して自殺しちゃったりとか
陥れられたり殺されたことも数多いけど
それを恨みに思って引きずって性格めちゃくちゃ歪めたし
思い出せた過去生でもたくさん迷惑かけ通し
霊性が高いからとか霊能力があるからとか
他人より一段進んだ高いところにいるから
この仕事をしているわけでは決してないのです
むしろ人とはちょっと違ったこの個性や資質を用いて
私がクライアントさんのサポートをしているのは
私自身が傷つけてきた人たちへの
罪滅ぼしもあるのかも知れません
もちろん私の今生の親のカルマや先祖(士族)の
罪滅ぼしというお役目・負債も背負っているわけですが
まぁでも
私自身「変わる必要性」があり
「変わったこと」で日常や人生変わりましたし
生きやすくなったし色々な意味で楽にもなったし
「自分が変われば周囲も世界も
人生も未来も変えられるんだよ」
っていうメッセージを込めて
かつての私自身のように
自分で蒔いた種に苦しめられている人を
少しでも助けてあげたいと力になってあげたいと
悩んだり苦しんだりした自分の経験を
他人の役に立てたいと思ってのこの仕事でもありますが
このblogで伝えたいことは
スピリチュアルなセッションの現場や知識から
学び得た教訓を多くの人にシェアすることで
それぞれの人に自分の人生や生き方や
周囲の人との関係性とかあやこれやを振り返ってもらって
自分の身に置き換えて考えたり思ったりしてもらいたいと
そして霊的知識を知る事で見えない世界と付き合い方も
知ってもらって「自分は何故生きているのか」
「どう生きればいいのか」などとかも含めて
色々なことに気づいてもらいたいなあと思いつつ
公開することが果たして良いことなのか否か
未だに良心の呵責もありつつ、公開させて頂いていますが
同時に私のようなダメダメな問題児でも
人は変わろうと思えば変われるし
自分が変わることで人生は変えられるよって
過去の生き方と決別して自分人の問題を直視して
向き合っていけるようになれば未来も好転しますよって
そんなこともお伝えしたいと思うわけです
私のどうでもいい人生の経験話が
他人の役に立つことがあるのならば…と
ちなみに
占星学上での私のホロスコープ(ネイタルチャート)では
ASC(アセンダント)に土星が乗っかっているのですが
(おまけに天王星と冥王星のコンジャクションが
それに対してオポジションという正反対の位置で
冷戦状態というか圧迫と攻撃をかけられている)
古典的な読みだと、「人生最初から積んでいる」
というか
「生まれる前から重荷背負って波乱万丈&前途多難」で
まるで地球背負っているアトラス状態なわけですけども
心理占星学とか最近の占星学の読みの方からだと
土星は運命の整体師さんなんで
この人生でのテーマは「人間性の徹底的鍛錬」
という暗示で「徹底的に今回は性格矯正やるど~!」
ってな感じになります
出る杭(欠点)をモグラたたきのように土星に叩かれまくり
まあ太陽も海王星も8ハウスで
ASCはボーダーな魚座で月もここですから
自分という器があやふやで不安定なので
しっかりと自分という器を作らんかい!なんですよね
自分の枠組みと芯を同時にしっかり作れと
何しろ自他ともに認める霊媒体質(憑依されまくり)で
ミディアム(ミーディアムではありませんっっ汗)ですから
だからこその過去の失敗でこの気質
この人生はつくづく
こんな自分には必要なものであったと痛感します
そういう意味で誰もが自分を育てるために生きている
成長しないことには痛みからも課題からも逃れられず
クリアしなければ終わらないダンジョンなのです
私はこの人生によって育ててもらっている最中です
そのためにたくさんの人に出会い
育ててもらいました
私がこんなで発展途上でしたから
せっかく出逢えたのに良い出逢いとはならず
お互いにイヤな思いをする結果になってしまったり
一方的に傷つけてしまったり失礼をしてしまったり
その関係を大事にしたり関係性を育むことが出来ずに
相手を消耗品のように扱うことになってしまったり
若さゆえの過ちと片付けるのは単なるイイワケで
決して若くはない最近のこともあるわけで
今の私だったらもっと違ったやり方があったろう
もっとうまく対処できたろう
別の言い方や接し方が出来たのではと思うことも
とにかく過去の自分のエゴイズムを思い出すとき
吐き気というか眩暈がするくらいに辟易しますが
過去にご縁があって出逢ったすべての人たちには
ただ感謝するばかりなのです
それがどのような出逢いで関係性であって
お互いにとってどんなに不愉快で悲しい別れ方
ご縁の切れ方をした方であったとしても
そのような出来事から私は多くのことを学ばせて頂きました
皆さんは私にたくさんのことを教えてくれた教師でした
そして私に様々な経験を与えてくれ
多くのものをプレゼントしてくれた人たちです
皆さんの存在、出逢いによって
私という人間は育ててもらいました
今の私があるのは皆さんのお陰です
本当に心から感謝していますし
当時の私達の関係がどうであったとしても
どのような問題があ互いにあったとしても
私のことを恨んでいたり嫌っていたり
私のことを思い出すだけで苦痛で
気分が悪くなる人もいるかも知れませんが
それでも私は皆さんの幸福を心から願っていますし
この人生で出逢ってくれたことやご縁があったことに
深く感謝しています
それぞれに意味のある出来事でした
頭ではもう許してはいても
心のわだかまりというのはなかなか溶けないものだから
今の人生では和解や再会はないでしょうが
いつかまた別の人生で出会ったときには
笑顔でお会いして良い関係を築きたいものです
そして今の人生でも
もしも私が貴方たちのお力になれることがあるのなら
出来るだけ私はサポートをして差し上げたいと思っています
でも私もまだまだ発展途上で
未だに克服できていない欠点もたくさんあります
忍耐もまだまだ足りません
やり方を間違えてしまうこともあるかも知れません
それだけご容赦くださいませね
………って
急に「どうしたんだ!」というような
お便り口調になってしまいましたが
何て言いましょうか
私がされたのではなく
してしまったた方の立場で
過去に色々とイヤな思いをさせてしまったり
迷惑をかけてしまったり
申し訳ないことをしてしまった人に対しては
その人に直接お詫びをしたいと思うのは
単なる自己満足ですから
ではどんなことが過去の償いになるのかというと
やはり私がまともな人間になることかと
きちんと過去の自分を反省して
同じ過ちを繰り返さず
人として成長してスジの通った生き方をすること
社会に貢献できる人になること
そして
今出来ることをきちんとして
問題や自分の弱さから逃げずに
自分に与えられた仕事に取り組んで
全力で自分の人生を生きること
目の前の人間関係を大切にしていくこと
だけかなって思います
今の私と友人知人でいてくれる人
繋がってくれている人たち
まだ見ぬご縁の方たち
これから出会うであろう人たち
こんな私を信頼してくれるクライアントさん
これから訪れてくれるクライアントさん
そういう人たちと真摯に向き合っていくこと
誠実にそしてそのご恩にや気持ちに報いれるように
とにかく自分自身を鍛錬して研磨して
心のケガレやエゴイズムを取り払って
人として正しい生き方が出来るように
日々修養していくしかないです
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