2016/01/31

類を以て集まる

先日、友人に
「アルマさんのところにはヘビーなお客さんが多いよね」と。

確かに引き寄せの法則みたいなもので、
その人にはその人に合わせたお客さんが来るとはよく言われること。

でも、どうなんでしょう。

結局のところは、セラピストなりカウンセラーなり、ヒーラーなり、
施療者(サービス従事者)が何処に注目しているのか、
何処に原因を求めているのか、によるところもあると思うのです。


施療者が見ようとしていなければ見えてこないし、
施療を受ける側にしても、
根本的な原因を探りたい知りたいと思っていなければ、
それを解決するツールにはたどり着けないのですから。

まさに 「求めよ、さらば与えられん・・・」というだけのことで。

まあ、確かにそれも引き寄せの法則ですね。

例えば、スピリチュアルなことに神秘を求めたり、
キラキラしたファンタジーみたいな世界や優しい世界、
魔法のように自分を救い出しくれる癒しの奇跡を求める人は多いし、
そういう人は、耳障りの良いふわふわスピリチュアルや
天使と繋がれる綺麗目スピリチュアルのところに行くもんだし、

秘密結社とか謎解きとか、ちょっとミステリー入ってて
インテリじみたことが好きな人は、
ムー的オカルト系のほうに行くでしょうし。

自分が世界を救うヒーローヒロインになりたい人や、
特別な使命を背負った選ばれた人の一人だと信じてる人は、
アセンションとかのニューエイジ系に行くことでしょう。

それで受容と供給が保たれてて、
みんなのニーズが満たされているのなら、
それはそれで世の中上手く回っているということだと思うのです。


私がやっていることは、もともと自分が興味があって、
強く関心のあった方面だから、
過去生とか、まあそこいらを紐解いていくことになってる。

うちに来るクライアントさんがヘビーな過去生が多いっていうより、
みんなそういう人生は平均的に生きているわけなので、
たまたま私みたいにこうして公に文章化しているヒーラーさんとか、
ヒプノセラピストの人がいないだけで、伝わってないだけかと。

海外だと
エドガー・ケイシーしかりイアン・スティーブンソン博士しかり、
ブライアン・ワイスやベティ・シャイン、ブラディ・マーフィーなど、
(あとシャーリー・マクレーンの「アウト・オン・リム」とか)
前世を扱った本はたくさんあるし、臨床例っぽいのも
日本で翻訳販売されてないだけでたくさんあるはず。
とはいうものの、私も洋書は読めないのですが。


日本人で書く人は守秘義務や道徳面からも言って、
難しい面のほうが多いのだと思います。
かくいう私も、未だに葛藤はありますよ。
正直、全員には許可は取れてないし。

誰かのためになれば、との想いだけれども、
それは自己満足でしかなく、過去生とはいえ他人の人生を、
いたずらにさらしものにしているだけなのかも知れないと・・・

逆に自分のケースをここに書かれてしまうのでは?と
警戒して躊躇してしまう人もいるかも知れませんね。

こういうケースもあるから、あなたやあなたの周囲の人も
こういう事情からそうなっているのかも知れないよ・・・と、
知識や情報を伝えているつもりですけど、やっぱり
ネットで伝えるのはメリットもあるけどデメリットもあったりする。

して
読み手の人が自分勝手に都合よく解釈してしまうトコまでは、
私には責任を取ることは出来ないのだけども。


また、すべての原因が過去生にあるわけではなく、
そこばかり視点がいってしまうと、失敗も犯しがちになる。
過去生を読み取ることに注意が行き過ぎてしまうと、
他の原因を見落としてしまうこともあるから、
常にその人(クライアント)にとって何が今一番必要なのか、
今するべきベストなことは何なのか、を考えていないと、
視野が狭まってしまう。



で、
クライアントさんは大体「縁」で来ることが多いかな。
ブログやサイトを見て、という人もいるけれども、
知り合いの紹介で来る方のほうが圧倒的だから、

するってーと、
その知り合いの人とその人はまた「縁」で繋がっていて、
そこにカルマのレッスンとか、集合体無意識的繋がりがあったり。
芋ずる式と言えば、聞こえが悪いけど、
友達の友達のさらに友達・・・と行くと、
大きなグループエレメンタルがどうしても関わってきちゃう。

この話は少し置いておいて。

私自身の過去生のご縁で来る人もいますけど、
ご先祖様の縁とかで来る人もいます。


なんていうか、目に見えない人たちが
クライアントさんを引っ張ってくることは多いですよ。
私はイタコではないし霊能者でもないから、
亡くなった人と話してメッセージを伝えるなんてことは
していないわけですけれども。
ブログやホームページを見て連絡くれる人は、
そうした後ろの人(百太郎ではない)の囁きによって、
メールフォームを送ってることが多いようです。

後は生徒さんたちの中でも、
ご先祖さんとか後ろの人たちが、講座を受けろと、
引っ張ってくる人も多いし、自分たちも学びたいからと、
子孫に便乗してレッスンに参加している霊さんたちもいます。
(え?私は視えないし話も出来ない人ですよ・・・そこは秘密で)


また、透明なヘルパーさん(守護霊)の縁とか。
そのケースの場合だと、
私のガイドさんが今のバングラディッシュで人間やってたとき、
改心させてあげられず盗賊として処刑されてしまった
過去を持つ人だったかなあ・・・
でもね、私に託されても、上司?師匠が出来なかったことを
その人の下で勉強中の、
若輩者で不肖の弟子が出来るわけないでわないか!
ごめーんっっ無理~でした。

私自身のご縁としては、
ロシア(今のウクライナ)で貴族の子梨マダムだったときの、
メイドさんが生徒さんにいますね~
どんな関係だったかというと、森薫さんの「シャーリー」みたいな。
まあ、私は限りなく頼りないダメ奥さまだったわけですけど。

150年前カナダ人だったときの娘が来たときは、驚いた、泣いた。
(アザラシの保護活動をしてる最中に子供遺して凍死した。
これも母親としてはどうよって、ダメ母だった気が)
5歳のときの彼女しか覚えてないので、とっても複雑。
いきなり、30代の姿ですから。


余談だけど過去生の元カレに会った時(クライアントでなく)、
一度は惚れた男が、けっ、こんなチンケな男だったのかと、
目一杯ガッカリした。脱力して脱糞状態
過去の自分のオトコを見る目の無さにもぉ、ね。


後は銅像の前でぼやいてたなら、キッツイお叱りを頂いた
某有名人(時代ドラマに時々登場)の子孫さんを
「コレを頼む(何故かモノ扱い)」とその方に託されたりとかとか。。


後は、私自身が紀元前の大陸にて、
秦国によって滅ぼされた楚の人間だったことがあるので、
その大きな運命の渦、歴史のうねりに巻き込まれた人々と
何故か関わってしまいます。

始皇帝(ヒトラー)に翻弄された国々の人間は、
彼が当時の人生を再現させることになったドイツという国、
第二次大戦のあの時代の波において、
再び試されることになりましたから。

とっても大きなグループエレメンタルでねぇ・・・。


従って、ナチスドイツの犠牲者、
そして加害者たるドイツ人、ドイツに加担した咎を持つ人とかetc

その傷を持つ人、必然的にクライアントさんに多いかな。

でも、「シンドラーのリスト」に出てくる、
アモンみたいな人は、さすがに無理だった。
私は未熟な人間だもの。まだまだそこまでの器はない。

過去において殺人や強姦を楽しめて、
それに対して罪悪感も持たないような人は、
生理的嫌悪感を超えて、受け付けろというのが無理。

もう、無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!
(ジョジョ風に)

反省して心から悔恨の情を抱いて、
変わろうとしている人なら、まだ手助けできるけれども。

ただでさえ、私はまだまだ修行中の身。
半人前の半熟卵なのですから。

愛なんて、全然足りてないよ、お金も若さも足りてないけど。

寛容さなんて、無いよ!

人間性も人徳も、器も何も無いよぉ

愛なんて、もっと無いよ~!

お金なんて、もっともっと無いよ~!
(ズバリ、言い切れてしまう)




まあ、でも
過去生の情報は必要な人、知る段階にある人にしか伝えません。
知りたいという要望に答えるのが私の仕事ではないので。

それに私だって、何でもわかる人ではありません。
実際はわからないことのほうが多いです。

教えてくれないこと、
シャットアウトされて読ませてもらえない情報のほうが多いです。

それに私も、過去生のこと軽く話しているけれど、
ちゃんと読めているのか自信ないし、
私の読み間違い、勘違い、思い込み、ないとは言い切れません。

頭おかしいんじゃん?と言われればそれまで。

証拠ないし、嘘つきと言われれば、ホラフキーかも。

そして、相変わらずスピリチュアルなんてどうでもいいな、
と思っていたりもする。
最近、スピリチュアルという言葉がやはりうざいと思うし、
手垢が付きすぎているというか、キモイ気もする。

スピリチュアルセラピストとか名乗り、
スピリチュアルセッションなどと、名称のついたサービスを
提供しているというにも関わらず、

スピリチュアル? うぜー! うさんくせー!

というのが本音。


突然、グループレッスンも何もかも放り出して、
消えてしまいたくなるような衝動もあったりしますよ(笑)


そして私はアセンションなんたらとかニューエイジとか、
とか天使のメッセージとか地球を救うとかなんとかんとか、
無条件の愛とかなんちゃらかんちゃら


知らね~

過去生とかも、

本当はどうでもいいな・・・


なんて思うときもある。
自分の仕事も、自分が話してることも、

やっぱりたまに、


アホくさいな・・・

バカみて~ぢぶん

・・・って思うときのほうが多い。



かといって、自分を否定するのもまた違うのだけれども。


まあ、色々と思うところあって、


やっぱり私はフツーが一番いいな。

かくありき。フツーの人でいきたい。

ぶっちゃけ、スピ臭はいらない。


いいです、もぉ、お笑い漫談イタコで。

サイキック能力なんか、どうでもいいじゃん、て思いマス。

2016/01/29

惹かれあう罠

ようやっと過去記事の移動(公開)が終わって一区切り。
やれやれという感じです。

三か月くらい、新しい記事、書いていませんでした。

とほほ・・・

こちらのブログは以前のところと違って、
あまり検索にはかからない模様(何故か海外からの閲覧が多く)。
読者さん、かなり減っちゃいまして、こちらマイナー過ぎるのかしら。

やはり以前のところのほうが使い勝手は良かったかなぁ・・・と。
背景が記事ごとに変えられるとか、あれやこれや。
でも、こちらはこちらで公開したものを非公開に再び変更できるし、
何を優先するかでしょうね。自作できない以上は。


さて、前置きはともかとして本題です。

続きを書いていないシリーズものもあるのですが、
それはまだまだ先延ばしで、別の内容から。


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一度夫婦の契りを結んだものは、
生まれ変わって三回は、学びのため、
お互いをパートナーに選ぶのだという。

相手に対する理解を深めるため、
あるいは前回の結婚生活の失敗を反省し、
関係性のやり直しを図るため、再度トライするのだとも。

共に作った、夫婦としてのカルマのレッスンを、
協力して乗り越えるためだったり、
互いに対する負債、貸し借りを清算するためだったり、
夫婦の再会パターンの背景にあるものは種々様々。



より深く愛情を紡いでいくことになる男女もいるけれど、
前回の失敗パターンをまたしても繰り返してしまう男女もいるし、
その逆に、「卒業」とばかりに、二人の関係性を終焉させ
相手に対する執着を断ち切るために出会う場合もあったりする。

例えば、身分差や親の反対、戦争や止むを得ない事情で
引き裂かれてしまった恋人同士が、
結ばれなかったがゆえにその想いを強く心に宿して、
美化した恋を引きずって相手に対する思慕を募らせた結果、

現世で再び出会うことになり、縁のままに強く惹かれあって、
前回ほどの障害もなく、その恋を成就させることが出来たとする。


さあ、想いは遂げられた。

して、愛する者同士、結婚出来て、めでたし、めでたし・・・



と、いくかというと、必ずしもそうはいかない。


絶対にうまくいかない、ということはないが、

得てして、恋とは一瞬の熱病、陽炎や花火のようなもの。

美しい恋の思い出と現実の生活は違う。

時を超えて結ばれた恋と言えば聞こえはいいけれど、

二人が再び再会するまでには(個々のケースにもよるが)、
50年とか、100年とか・・・はてまた数百年ぶりとか、
とにかく何世紀もの年月が経過しているのである。

その間、人は成長するし、変わりもする。
数百年、何千年経っても成長しない人もいるが、
それぞれの精神的成長、情緒の発達など、
人間的成熟度は経験にもよるが、
同じ年月において同じ速度で同じ距離に達するとは限らない。

また、それだけでなくて、
恋愛の夢覚めやらぬうちに別れてしまった男女は、
お互いの悪い面・・・本来なら一緒に年月を過ごすうちに、
知ることになったであろう欠点を、知らないまま、
それを見ないままに、互いに対する理解を深める間もなく、
切ない、結ばれなかった恋の相手として互いを記憶していて、
それが故に、「こんなはずじゃなかった」というような、
恋愛や結婚の幻滅を人一倍味わうことにもなりやすい。

愛しい思いを募らせて夢にまで会いにいくほど、
どれほどに恋焦がれた忘れられない相手であったとしても。

恋はそもそも誤解なのだから。

もし、その恋に障害もなく、
引き裂かれるような運命も訪れずに、
そのまま付き合っていたとしたら?
理想の相手ではないとか、価値観が違うとか、
もっと別に好きな人が現れたとか何だかの理由で、
すぐに別れていたかもしれない。

実際、そのような組み合わせの男女は少なくない。

過去の恋愛の亡霊に導かれ、
まぶしいほどのパッションで結ばれたものの、
あっという間に破たんしてしまうカップルは。

そういう意味では、
過去からの巡り合わせ、再会した男女というのは、
必ずしもロマンテックなものではない。

そんな劇的な恋はそうそうは存在しない。


繰り返す人生の中で何度も再び出会って、
家族や友人や恋人など様々な関係性を結び、
共に時間を、人生を過ごし、喜怒哀楽をともにして、
衝突したり、苦労を共にして、少しずつ歩み寄り、
理解を深めて、価値観を同じくし、
共感や共有する想い出が増えていき、
そうして本物ともいうべき真のパートナーとなって行ったり、
愛ある関係を築いていく人々もいるのは事実だけれども。

得てして、
幾千もの時を乗り越え、再び出会ったというものの、
互いが真の相手ではなかったと・・・それが「愛」ではないのだと、
幻の理想の相手をずっと追い求めていたことに、
悠久の時を消費した後に気づかされることも多いのである。


=======================================================


さて、
上記に関しては、
一度は双方あるいは片方からして恋の対象となった者同士、
もしくは結婚という縁を持った相手との再会したケースなど・・・

それはそれで再会してめでたく大円団になるもよし、
そうならずとも、前回の続きをして想いを遂げて心残りを果たし、
こんなはずじゃなかったとがっかりするもよし、
いずれにしても、
とりあえず満足したと・・・終結させて結果を出せるなら、
その再会は無駄ではなく、双方の人生の良き経験にはなれているはず。

ですが、問題なのは下記に書くような関係性での男女の再会のこと。




ほか、過去で何かしらの関係性を持った異性と、
「恋慕」の情とは程遠い感覚的な反応を錯覚することから、
恋愛や婚姻関係に至ってしまうことがある。

この手のことに関心を持つ人がよく知っている、
有名な案件、事象を持ち出すならば、

ブライアン・ワイス博士の「前世療法」の臨床例の中にある、
被害者と加害者と言える関係性を持ったことのある者同士が、
現代の人生において偶然にも同じ職場で再び出会い、
その時抱いたシンパシーやデジャビュ感、
何か抗えない電撃的な吸引力をその相手や出会いに覚えて、
そのショックめいた反応を恋と勘違いしてしまい、
不倫関係に陥ってしまったというケース・・・があげられる。

このケースでの場合は、
その恋も相手も、相手との関係も、
結局彼女を苦しめ、傷つけるだけで、
何も実をもたらさない不毛な関係であった。

彼女はいくつか前の人生で、彼によって命を奪われていた。
カルマのレッスンとして、二人が出会ったことは
過去の不幸な出会いを超えたところで、
その罪を赦しあい、今度は平和な社会において、
争いや誤解のない友好的な人間関係を築くことだったろう。

それが戦という仕方のない状況であったとしても、
彼女の人生、命を奪うという行為をした相手(彼)が、
彼女に対して人間性を尊重するという態度で望み、
職場の同僚として出会った以上、
良き隣人としてサポートしていくことが理想的でもあった。

しかし、実際はそうはならず、
今度は相手の肉体的の命ではなく、
心を殺すような関係性へと陥ってしまった。


私がクライアントさんを見てきた中でも、
そのような相手と恋愛関係に陥って苦しんだ経験をした人がいる。

その人の場合では、過去生において主従関係にあった相手に、
DVやレイプを受け、最後には殺されてしまったのだが、
現代において再会したとき、何のいたずらか恋人同士になり、
今生ではDVやモラハラなどの被害を受けたわけではないというのに、
一緒にいると身体が震え、心臓が苦しなるほどに肉体が辛くなり、
理由の見えないフラッシュバックに悩まされるというもの。

過去を紐解いてみて、自分に日常的に暴力をふるい、
無残な殺し方をした相手であることを知ったとき、
それがPTSDであり、被害者が加害者に抱く・・・
自分を殺した相手に対する「正常な反応」でもあると、
ようやく彼女の中で全てのパーツが繋がった。

そんな相手と再会をして、拒絶反応が出ながらも、
運命の吸引力に抗えなかったのは、

過去の彼女が過去の彼に対して、
ストックホルム症候群のような共時性や同情や、
自らの身を犠牲にしても相手を救いたいというエネmeな母性、
そして、どこか相手のサディスティックな行為の中に、
自分への僅かばかりの愛情を期待して探していたから。

しかし、答えなどあるはずもなく、
互いに、まして彼女の傷が癒えていない段階では、
その関係は健康的かつ対等と呼べる恋愛関係には成り得ない。


最近のケースでは、まだ幼く子供であったというのに、
当人の意志とは関係なしに保護者と慕っていた相手から、
無理やり妻とされた(いわゆる児童婚)心の傷を持つ人もいた。

これも根深い問題だと思う。

そして未だに世界には児童婚という、
不幸な風習のある国が存在している。


詳しいことは書かないが、

いずれにしても、
そのような相手に対しては、他の人とは異なる一種独特な、
特別な感覚を出会いのときに体験する傾向にあるようだが、

結果的にその関係は双方にとって、
あまり幸福な結果をもたらさない。

いやさ、
時に加害者側とも言うべきポジションにいたものにとっては、
再び望みの「相手」を手に入れた、という
偽りの喜びと自己満足的な幸福を味わえることにもなるのだが、

最初は恋と錯覚し、他の出会いとは違う何か・・・
他の人に対して抱くのとは異なる、
肉体的あるいは「感情的反応」を相手に対して抱いたものの、

一緒にいると精神的に不安定になり、
何処からくるのか分からない怒りや相手に対する憎悪が
ふいにこみあげてきて、暴発するかのように相手に向けてしまい、
それをコントロールできず、
相手を傷つけてしまう自分をただただ責めて、

何でこんなに小さなことで怒ってしまうのか、
相手を受け入れられないのか・・・
二人でいるのに孤独で、一緒にいるとしんどくて、
ますます辛くなるばかりなのか・・・

幸せになりたいから一緒になったのに、
互いを理解して支えあって、
平凡ながらもただ笑いあって暮らしたいのにと、

そんな風に自分はメンヘラなのだと、
自分がおかしいのだと、すべて悪いのは自分だと、
責めてしまう人も多くて。

そういう人は、
その相手(恋人や配偶者)にだけそのような面がでてしまい、
他の人に対しては至って普通で感情もコントロールできたりする。

恋人や配偶者に対してだけ、
ヒステリックに、常軌を逸した攻撃性が出てしまう。

(もちろん、アダルトチルドレンだったり、その他もろもろの理由で、
特定の対象となる人に対してのみ、感情を爆発させる人はいます。
なので、過去生に原因がある人だけに限ったことはないですが)



では、どうすればいいのか・・・

確かに再び出会ったということは意味のあることで、
互いに解消すべきもの、学ぶべきカルマのレッスンが
あるといえばあるのだけれども。


実際問題、こういう関係は、離れてしまうほかない。

現実的に距離をおいてしまう、これしか方法はない。

関係を解消して、いつか互いのことを冷静に見れるようになるまで、
「他人」としての関係性に戻るのが一番だったりする。


それしか方法がない。

一緒にいて、
自分の中の感情の折り合いをつけようとしても無理だ。


人間の感情なんて、そんなに簡単なものじゃない。

汝隣人を愛せとはキリストの言った言葉だが、

こうした相手との出会いを、
霊性の成長の機会と捉えて、自らに重い試練を課すのは、
拷問にも等しい自虐的行為で、自分に対する虐待で差別でもある。

相手を赦して愛そうとするあまりに、
愛せず、許すことが出来ず、
怒りを手放せない自分を赦せないという負のスパイラルに陥ってしまう。

そんなのは間違っている。

相手は自分を無理やり手籠めにした人だ。

憎しみや怒りは生まれて当然で、手放せくても責められたことではない。

赦すべきは傷を負った自分自身だ。
相手を赦すことができない、自分自身をまず赦すべきなのだ。
そんな自分を愛して、大事にしてあげるべきだ。


相手は自分に異性としての思慕を、
愛情を持ってくれてた人かもしれないが、

それがゆえの行為であったとしても・・・

夫婦という世間的に認められた
「かたち」にあった者同士だったとしても、

強姦は強姦だ。

相手の同意のない行為は凌辱でしかない。
それは「人間扱い」をされていないということ。
人間以下のものであると、
そうした烙印を押されたのと同じこと。

レイプは殺人と同じ。

自分の人間性を、存在自体を否定されるに等しい行為だ。

男性には分からないことかも知れないが。


幼い自分の人生を奪って、性の意味も知らないうちに、
自分をいいようにしたとしか思えない大人に対して
かつての少女が、
その大人であった相手の圧倒的な力に畏怖を覚え、
生活の面倒を見てもらっているという恩義とのはざまで
裏切られたような嘆きと慟哭と怒りとを募らせたとして
誰が責めることが出来よう?

その相手を赦せとか、汝隣人を愛せとなどと言う人は、
そんな人はどれほどの苦悩も哀しみも知らないのだろう。

その怒りのエレメンタルを取り除けば、それで終わる?
癒されれば平気になる?

そんなことはありえない。

こういうのはとてつもない時間が掛かることだ。

時間と距離だけが解決することでもある。

相手を赦すことなど、しなくていい。

相手がいつか、人のこころを持ち、
他人の、そして女性の立場になって、
考えたり、感じたり出来るようになって、
思いやりを誰しにも表現できる人になって欲しいと、
そう願ってあげるだけでいい。
自分が相手を変えようとはしなくていい。
自分にそんな重荷を与える必要はない。

それは誰でもない、自分自身を一番傷つける行為だから。


一緒にいて、楽しくない相手だと判断して、
黙って袂をわかって、離れるのがいい。


いつか過去の悲しみを手放して、癒されて、
すべての傷がなくなって、乗り越えられたとき、
そのときにはまた新しく、一から始められるかも知れないが。

過去から始まった不幸な出会いは、
一度リセットしたほうが一番いい。

それがいい。

不安定な基礎のもとに、新たな関係を築こうとしても、
上手くいくわけはない。
いつかその土台は崩れてしまうし、
その前に無理が二人の心を壊すことになるだろう。


だから、相手を前にして、
相手を受け入れられない自分を責めることはない。
相手に対して、憤りを感じる自分を抑制する必要もない。

そんな自分を受け入れるだけでいい。

人は誰しも別れに向かって生きている。

会うは別れの始めなり。

そして、再び出会うために人は別れるものだから。

いつかまた出会うときのために、

今は「さよなら」を言おう。


そういう関係もある。

手放すことが「愛」の表現であることもある。

一緒にいるばかりが愛じゃない。

相手のことを思えばこそ、
お互いが幸せになりたいからこそ、選ぶ「別れ」もある。

2016/01/01

2015 レポートNo.12 「I・Eさん」

◎スクール前、そして2013年まで

最初にお会いしたときは、
私は仕事ばかりやっていて、プライベートもなく、
時間管理も甘く、遅刻ばかりしていました。
しかも、仕事のしすぎで体をこわし、
定期的に入院している状態でした。
それでも「自分はまだできていない」と思い、
体をこわす自分を責めていました。

心の奥にある会社への怒りや、
仕事以外に価値を見いだせないことに対する恐怖、
自分が迷惑をかけている友人や
まわりの方たちの心から目をそらして。
今思うと、なんとひどい人間だったろうと思います。

スクールでは、霊的な基本知識を学ぶかたわら、
アルマさんのご指導のもと、仲間たちといっしょに、
日々の毎日を意識的に過ごすレッスンに取り組みました。

「意識的に過ごす」というのは、
霊的なアタックから身を守ったり
そういうエネルギー的なものに対処するということではなく
(そういうことも多々ありますが)、
それよりも、約束を守る、人の心を大切にする、感謝をする、
自分の欠点から目をそらさない、など、
言葉にすると当たり前といえるようなことですが、
なにより大事な真理を日々実践することです。

それは簡単に言うと、「人としてまっとうに生きること」です。

アルマさんは、いわゆる「霊能力」は人格がダメでも宿るが、
本当の意味での霊能力、
つまり「霊格」は人格に比例する、とおっしゃいます。
さらに、その人が繰り返す失敗パターンには根拠があること、
そして本人の性格や欠点が、
実は過去生から繰り返されていた失敗パターンを
なぞっているにすぎないという教えは、目から鱗でした。

人格を高めるということは、イコール、
過去の課題(カルマ)を解消し、性格を矯正していくことです。
それによって、結果的に霊的な力も向上します。
逆に言えば、いくら力を目指しても、
性格がダメダメのまま力を求めると
必ずどこかでエゴイズムのワナにかかってしまうのです。

その教えをいただいたとき、
実は私は「そうか、この自分の悪いクセは直せるんだ」と
救われたような、安心したような気持ちになったのを覚えています。
そのとき、私はとにかく自分でもよくわからない何かに
振り回されているような気がしていました。
いつも目の前にある何かに追われている気がして、
本当の自分を見失ってしまっていたように思えていたのです。

私が最初に自覚していた課題は、
仕事ばかりしてプライベートや体と心のバランスが取れないこと、
そしてすぐにのっとられる憑依体質でした。
でも問題は、その奥にある、自分という存在を軽視するクセ、
そして、自分と同様に他人を軽んじてしまうクセにありました。

スクールに通い始めた当初は、
とにかく自分の憑依体質をどうにかしたいということばかりでした。
それが次第に、
自分に何かの原因があるのではないかと思うに至り、
自分の中のウソや言い訳に気付かせていただくようになったのです。

それを、数年間かけて、スクールでの座学や、
失敗したことやトラブルのパターンを通じて、
少しずつ薄皮をはぐように矯正していただきました。

アルマさんの指導内容は、とにかく自分を見つめることです。
ニュートラルな視点で、
自分の行動や考えがどういうエゴイズムに基づいているかを見つめて、
実際に次からの行動で修正していく、その繰り返しです。
過去から繰り返したパターンなので、
頭でわかっても何度もやってしまいます。
それをそのたびに「違うでしょ」とご指摘いただき、
私たち生徒は反省して次は直そうと努力します。
そこには華やかさや耳ざわりのよさはありません。

でも、そのトライ&エラーが、
人が本当の意味で幸せになるためのおそらく一番確実な方法です。
アルマさんの根気強さと忍耐強さ、
そしてスクールの仲間のサポートがあってはじめて、
私はそれに気付かせていただくことができました。
おまけのようにサイキカル能力が発達しましたが、
あくまでも結果論であり、それよりも一番大事なことを
何度も形を変えて教えていただいたことは、
とてもありがたいことであり、
また私にとっての大変な幸運でもあったと思います。


2013年~2015年の間に学んだこと

この間に一番大きな変化は、
あれほどこだわっていた「仕事」、
正確には会社員という身分を捨てたことです。

世間的には、
こんなにいい職場はないといわれていた会社でしたが、
結局自分は仕事を通してしか自分に価値を見いだせず、
しかもそこに安住していただけだと気付いたからです。
そこから離れることは勇気のいることでしたが、
やはり今後の私の人生で、
価値観というところで大きな取捨選択をしたのだとあらためて思います。

そしていったん手放すことで、逆にたくさんの別の道筋が見えてきて、
やるべきことが次々と出てきて出会いもいただきました。
そこには不思議な偶然や、ありえない導きもたくさんあり、
宗教ではないのですが「神」という存在について
以前よりずっとリアルに考えるようになりました。

それと同時並行で、あらたな課題も山ほど出てきました。
それまで自分が自分に対して思っていたセルフイメージや、
自分のクセなどが、本当は全然別の意味を持っていたり、
真逆の姿をとっていたりすることがわかりました。

たとえば私は自分のことを人間的に淡泊で、
あまり感情が動かないタイプだと思っていました。
でも本当はそのそこにものすごいドロドロとしたものを抱えており、
それを隠そうとフタをしていただけだったり、
また過去生で自分の負った傷がおかしな具合にねじれて
今の自分のクセにつながっていたりといったことです。

自分の現在かかえているエゴイズムと向き合って、
分解して、修正して…といった作業を2013年までやっていたとすれば、
ここ2年間は、そのエゴイズムのさらに下にある
根本原因と向き合ってきたのだと思います。

それには、この期間でたくさんしていただいた、
多くの過去生の解放も深く関わっています。
それも、私自身の、人間としてプラスとマイナスのルーツを
知る上でとても役に立ったと思います。
自分でも原因不明のこだわり、
マイナスのクセなどの理由を知ることができて、
それによって次以降の課題もよりはっきり見えてきました。


2016年からの課題

・自分を客観的に見つめる、きちんと生活する、内省をする
一見バラバラのようですが、
すべて同じところから派生していると思ったので、
まとめさせていただきました。

自分の波動が落ちると、
とたんにすべての行動や思考がマイナス方向に向かいます。
弱気になり、自暴自棄になりやすくなり、憑依されやすくなります。
過去のマイナスの習慣である遅刻グセや問題の先送りグセ、
人嫌いも復活します。
免疫力も落ちるので病気にもかかります。

そしてもっとも問題なのはそれに気付かないことが多々あり、
先生や仲間に指摘されるまで自分で放置してしまったことも…。
そもそもの原因として、あるときは自分を甘やかしてしまったり、
またあるときはマゾヒスティックに自分をいじめてしまったりと、
自分のありのままを把握できずに、自分で自分を扱うときに
両極端な形をとってしまっていることから生じていると思います。

それは結局、自分のプライドが高く、
間違えそうな自分、できていない自分が許せないからです。
そうして、等身大・現実の自分を
客観的に知るということからしつこく逃げていたために、
このようなことになっていたのだと思います。

それを早い段階で修正するために、内省、エクササイズ、
何度も書いている基本ですが、
とても大事なこれらの習慣を欠かさず続けます。
また、何かに集中するとほかの
ことがおろそかになってしまうクセも残っています。
とにかく、バランスが欠けやすい自分をもっと自覚して、
生活なり、精神的なところなり、毎日きちんきちんと見つめ、
規則的な生活と精神を心がけることが大事だと痛感しました。

・他人の心に目を向ける
上のように、自分の中のバランスが崩れると、
自分のことでいっぱいいっぱいになってしまい、
人のことを思いやることができなくなってしまうのだと、
(本当に今更ですが)最近気付きました。

過去生の数々を思い出したり、
現在の自分の悪いクセなどをあらためて見てみると、
やはり自分は、
人のことを思いやる気持ちが育ち切れていないと感じます。
しかも、ただでさえ弱いところを、上のように
精神的・肉体的なバランスを欠くことでさらに悪化させがちです。
自分のことしか見ていないから、
人が自分の行動によってどう感じたか、
相手は何を考えているのかなどに思い至りません。

あとは、頭で考えてばかりで、
心で感じることをおろそかにしていました。
これから、身近な人を幸せにする、いっしょにいて楽しく感じてもらう、
そうした基本的なところができるように、
自分のできていない部分をちゃんと見つめなおし
とにかく過去の自分が見落としてきたことを
ひとつひとつ実行していきたいと思います。

・自分の使命から逃げない
最初の「自分を客観的に見つめる」が
今までできていなかった理由のひとつに、そもそも、
この「自分の使命」から目をそらしていたということもあったのかなと、
今になって思います…。根本から逃げていれば、
現在の自分からも逃げるのも当然です。

年末のスクールで、
人間として生まれてきて何をすべきかの
そもそもの最初の理由を教えていただきました。
それはまさに、私がずっと、逃げていたことです。

逃げていたどころか、
逃げた瞬間に「逃げた」ということすら忘れてしまうほど、
強力に抵抗が働いていたことでした。

それでいて、指摘いただいたときに、
心から痛いところを突かれた気がして、
なおかつ「ああ、そうだった」と納得したことでした。
ただ、この使命は、最初の項目の「自分のこと」がきちんとできて、
次の「人の気持ちを思いやった行動」が
とれていて初めて実現できるものです。

最初にのべたように、今の自分の欠点は、
過去生の失敗パターンから
強くインプットされてしまった欠点でしたが、
それはそもそも、すべてが、最初に決めていた「使命」から
何度も何度も逃げ続けたことによって生まれたのだなあと、
最後の最後で気付きました。

こんなにシンプルな一本道だったのに、
ずいぶんといろいろ回り道をして、本当にすみませんでした。

・お金との付き合い方を考える
過去生の影響から、
お金のありがたみを感じるという認識が薄いです。
加えてその時代時代にまつわるお金のトラブルのせいで、
お金は流れていくもの(自分のもとには残らない)という思い込みもあり、
何度も経験する中で強固に自分の意識にすり込まれていきました。
使い道もしっかり考えず、
世のため人のためという意識も低いものでした。
だったら執着はないのかというとそうでもなく、
本当は出て行くお金に気持ちを残していました。

これらのクセはそのまま、今生でも反映されております。
これらのお金に対するマイナスのカルマを、
あえて意識的にプラスに変えていく作業が必要だと思っています。
お金に感謝をし、使い道をよく考え、気持ちよく手放す、
こういったことを日常の中でやっていきたいと思います。


今でもまだ、全然課題は解消できていません。
相変わらず、油断するとすぐに自分本位の考えに陥ってしまい、
エゴイズムに足をとられます。

でも、課題のありかを教えていただいたことで、
自分が陥りやすい罠の方向性もわかりました。
それと同時に、そもそもなぜその課題が生まれたのか、
なんのために人として生まれたのか、
その理由もなんとなくですがわかるようになりました。

これは、どれだけ高いお金を払ったとしても
わからないままで一生が終わることのほうが
圧倒的に多いくらいの価値のあるものです。

人生を生きる上で、とても貴重なヒントを、
スクールで学ばせていただきました。
ときには厳しい御言葉でおしかりいただき、
ときにはまわりの人の姿から同じ課題を感じとっていくことで、
学びにつなげていかせていただきました。

長い間学ばせていただいた割には、まだまだ進みは遅く、
自分で気付かない課題もたくさんあると思います。

それでも、スクールの通い始めの自分には戻りたくないと心から感じます。
少なくとも、人生はまったく違ったもの(悪い方向に)になっていたはずです。
もっと人の顔をうかがって、自分というものがなかったはずです。

これからは、
少しでも本来の自分が目指していた姿にこの人生で近づけるよう、
間違いもしてしまいながらになってしまいますが、
努力と内省、忘れずにいきたいです。

そしてもっと、少しでも人として、
昨日よりも一歩でも成長し、まっとうな人格者になること。
それが、これまでご指導くださった先生と、
スクールの皆さんの月日を無駄にしない方法でもあると思っております。

本当に、ありがとうございました。

2015 レポートNo.11 「H・Mさん」

【スクールに参加して】


私が、スクールに参加し始めて、4年くらいになります。
始めは、霊的真理の事も、短期講座で学んだだけで、
実際には何もわからない状態からの参加でした。

グループレッスンを重ねていくと、
短期講座で学んだことが肌で感じて、実感するようになり、
頭で理解していたことが、自分の血肉になってると感じてきました。

一見、霊的真理のスクールというと、
能力開発的な感じに思われるかもしれませんが、一切違います。
なんというか、人間修行の場というのが一番ピッタリです。
人として、日本人として、地球人として、どのように生きていくか。
人生を全うしていくか。壮大なテーマに聞こえますが、
決して大袈裟ではなく、毎日を真摯に過ごしていく大切さだと思いました。
まあ、結果的に、それぞれの能力が開花してきてるとは思いますが…。

スクールでは、毎回テーマがあり、
実践や真理を探究していきますが、
どこまでいっても自分との対峙です。
人の事は、良くわかるのに、
自分のことは、なかなか分からなかったりするものです。
己の弱さや至らなさ、エゴイズムをとことん見つめて、
自分と向き合うということに尽きます。

そのお陰で、普段では気づかないような、
思い癖を発見したり、気づかされる事がたくさんありました。

また、グループレッスンを通して、参加しているメンバーの
現在起きている問題や課題も共に考えていくこともあります。
これは、『他の人が抱えている問題』と分離せず、
自分の内面にもある問題なのだと思えるようになった事は、
とても深い学びになりました。

結局、自身の内面の世界が、現実の世界に現れます。
自分の周りに起こっている事も
自分自身の内情の表れなんですよね。
そう思えることによって、
より深く相手を思えるようなりましたし、
自分のことも知るようになりました。
また、周りの人が悩みや壁を克服した時に、
喜びも23倍になるのを実感しています。

スクールのメンバーは、年齢も職業も性格もバラバラです。
そういった人達が、互いに理解し合い、協力し合い、
たまにはお互いの悪い所指摘したり、
また良い所を教えてあげたり、スクールという範囲は狭いですが、
社会の縮図のような場だと思っています。
その中でしっかり向き合い、学んでいくことは、
社会でも通じると思いました。

これからも、お互い切磋琢磨し合いながら、
それぞれがそれぞれの使命を全うできる人生になること、
心から願っています。



[この二年を振り返って思うこと]


2013
私にとって2013年は、
自身の夢に向かって行動して、大きな一歩を踏み出した年でした。
それまでの10年務めた会社を辞め、
全く畑違いのマッサージの仕事に就くためにハワイに短期留学し、
技術を習得してきました。

そんな人生の大きな決断をしたわけですが、
それでも、これでいいのか。後悔はないか。思い悩む日々もありました。
そんな折に、私にとってグループレッスンは
自分の気持ちに向き合う場でありました。
グループレッスンでは、ひたすら自分自身に向き合うことをします。
自分が心から望むものはなにか。その奥底には何が隠れているのか。
探りに探って、シンプルな素の自分の思いをあぶり出していく作業を経て、
私の中で「知りたい」という一つの素直な欲求が出てきました。
人の身体の不思議を知りたい。筋肉の不思議を知りたい。
心と身体の不思議な繫がりを知りたいと。
私は心から挑戦しようと決意を固くすることができました。

マッサージを習得していくにつれ、私の思いは確信に変わっていきました。
楽しくて、楽しくて仕方がないのです。
人の身体をマッサージしている時の、あの集中している感覚。
身体と会話しているかのような感覚。自分に合っているという感覚でした。
マッサージを仕事にしていきたいと思いました。

また、それまで霊的真理を学んでいたことにより、
より深く身体を洞察することができる自分に気付きました。
今までは、短期講座にてテキストで学んでいたことが
実際に身体に触れて、感じることや違和感などを、
なぜだろう?と一つ一つ思い返すと、
精神的な事が身体に影響を及ぼしていること、
心と身体の深い繫がりを実感として感じることができました。
より、心の在り方の重要性を感じましたし、
また身体を整えていくことの大切さも痛感しました。



2014
昨年までは、目標に向かって邁進し、
学んだものひたすら吸収するだけで良かったものが、
ここからは、学んだものをいかに提供していくか。
仕事として確立して、展開していくか。
という目標に変わっていきました。

マッサージを学んだからといってすぐに仕事ができる訳もなく、
どのように展開していくか悩みました。
幸いなことに、
私のマッサージを受けたいと言ってくださる方がいらっしゃいまして、
私は出張という形で、仕事をスタートすることができました。

仕事を始めるにあたり、決めないといけないのは、値段設定です。
値段を決めている段階で自分自身の自信の無さが露呈していきました。
高い値段が付けられないのです。
高い値段と言っても相場価格ですが。
私は、初めは練習期間として破格の値段でスタートし、
徐々に上げていこうと決めました。
破格の値段ということもあり、友人を紹介して下さり、
依頼の数は増えていきました。
それでも、初めはマッサージをする機会があるだけで満足でしたし、
喜んでくれる顔を見るだけで幸せでした。

ある程度の人数のお客様を経験した私は、
値段を上げる決意をしましたが、これが怖くてしかたありませんでした。
今まで喜んで受けてくれていた方達はどう思うか。
離れて行ってしまうのではないか。不安で仕方がなかったのです。

そんな折に、アルマさんよりアドバイスをいただき、
自分自身に対しての価値の低さ、技術に対しての価値の低さ、
または価格を低くすることで
業界全体に対しての価値を低くしてしまうことに気づきました。
それでも、価格をあげるのは怖かったです。
私は、ある程度自分でも納得できる価格に設定し、
その価格でも受けたいと言って下さる方に
全力で施術にあたろうと心を変えていきました。

また、その価格帯でも満足して納得して頂けるように、
自分の技術に対しても絶えず、向上していこうと決意しました。
この期間は、マッサージだけでは、生活できず、
他にアルバイトをしながらの仕事でした。
そのひとつが、早朝の清掃のバイトです。
これは私にとって貴重な体験になりました。
昔から朝がめっぽう弱い私にとって、
毎日5時起床は、ものすごい挑戦でした。

その上でのトイレ掃除は心を磨く作業だったように思います。
今までは駅のホームで掃除の作業をしている方に対して
すれ違っても何とも思っていなかったのですが、
清掃のバイトをするようになると、その苦労や大変さがわかるので、
心の中で「御苦労さまです」と思うようになり、
公共のトイレを使うときも丁寧に使うようになりました。


2015
だんだん出張スタイルでの仕事に限界を感じるようになった私は、
サロンに入って、固定の場所で仕事をしてみよう。と思うようになりました。
そんな折に話が舞い込んだのが、接骨院での仕事。
私の技術をそのまま使って良いという話だったので、
迷いながら受けた話でしたが、ここでの出会いは、
カルマの繫がりとはここまで出てくるのか。と思った出来事でした。

反省点としては、しっかり仕事を承諾する前に
、条件などを吟味した上で答えを出すべきであったこと。
その時に自分が感じた嫌悪感。
嫌な予感をうやむやにせずに考えるべきだったこと。

自分の思っていることを飲み込まずに
その都度伝えることをすれば良かったと思いました。
結果、3か月でこの接骨院は退社することになりましたが、
院長とのカルマを無事に?解消することができてほっとしています。
最後は、冷静に相手に伝えることができましたし、
情や変な責任感よりも、自分を大切に思えるようになりました。

それまでは、紹介で入ったから、最低1年間は続けなければいけない。
とか、この接骨院事態の体制を変えなければ。
という変な使命感に燃えるような私の体質があったのですが、
シンプルに嫌なものは嫌と思っていい、
自分が幸せと思えないこの環境に身を投じて、
無駄な時間を過ごすことよりも、どんな悪口を言われてもいいから、
自分が幸せな毎日の方が重要と思えたことです。
そう心が変わったら、決断は早かったです。
また、いかに自分が心を押し殺して働いていたか。
心を押し殺して、頭で考えて理性で動いていたとしても、
身体に症状がでる状態にまでなっていました。

数ヵ月後、新たなサロンで働くことになり、現在に至りますが、
やはりここでもカルマの繫がりが浮かび上がってきました。
カルマの解消や自身の思い癖を克服するには、
何度も何度、状況や環境が変わっても、
手を変え、品を変え、お試しが来るのだと痛感しました。

ここでも、経営者との確執、思いの違いですね。
自分が目指す志に対して、
あまりにも違いすぎるため違和感を覚える状態です。
経営者なのだから売上、利益率、稼働率を考えるのは当たり前で、
とても大事なことです。
それは、今後の私にとって勉強になるところもたくさんあります。
そこをしっかりと認めてなくてはと思っています。

清く正しい志であれば、すべて良い。それはそうかもしれませんが、
そうでないものは「悪い」と思う自分の心はどうなのか。
ジャッジしている自分自身は何様なのか?
「良い」「悪い」で判断してしまう己の狭さを超えるための環境のような気がします。
また、このサロンに働くようになり、
たくさんのお客様の身体を触る機会に恵まれています。
そこで心底思ったのが、やっぱり私は身体だけではなく、
心も癒してあげたいな。というところです。

身体を触ると、
これは精神的なものからくる身体の固さだな。と思うお客様が多いです。
心の固さがそのまま身体の固さになっている。
でも、今の職場は身体のみをマッサージする職場なので言えません。
もどかしい気持ちになることも多々あります。
アルマさんから課題があがったように、
今は手のみで癒しを促せるように波動を伝えて、
少しでも楽になって頂けるように、
修行だと思って毎日施術に当たらせて頂いています。
そういうことができる環境が整ったときに、しっかりと対応できるように、
今はたくさんの身体を触らせて頂いているのだと思って頑張ってまいります。


・グループレッスン
グループレッスンでは、ひたすら自分と向き合います。
時には他の仲間が直面している問題に光をあて、
みんなで考えていくこともあります。
しかし、不思議と自分には当てはまらない問題のように見えて、
奥底では自分にもある問題だったりします。
その出来事はどのようなエゴイズムが隠れているのか。
人の思い癖の動き方や偏りやすい傾向など、
探っていくと一人ひとりの新たな一面が見えたりと、
人は側面だけではわからないということが理解できたり、
相手を理解していくには、多角的に相手を見たり、
その奥の生きてきた年輪を見たりと、
しっかり洞察することができるようになってきました。

なによりも、アルマさんやグループの仲間が愛を持って、
私をはじめ他のメンバーにも接してくれるので、安心感というか、
何度もみなさんに励まして頂きました。今ではかけがえない仲間です。


・これからの課題について
私が初めて、アルマさんの門を叩いたのは、
家族の問題で相談したのがきっかけでしたが、
今、再び家族の問題が浮上しています。
家族のことになると、なかなか客観的に見られないものです。
毎日の忙しさにかまけて後回しになってしまうのが最近の反省点です。

自分へのエクササイズをしっかりと取り組む。
人の身体を触る仕事しているのだから、
普通の人よりもしっかりと自己ヒーリングをしないといけないのですが、
疲れて寝てしまう毎日。気づくと自分の中に毒素がたまってしまうのを
しっかりと自己管理をできる余裕を持つことです。

今、自分に余裕がないせいか、
人のこと気にかける余裕がないなと痛感しています。
周りを見られる自分になれるようになりたいです。

自分自身を分析するのが苦手な私です。
感覚で動いてしまう私は、自分のことを文章や言葉にするのが苦手です。
自分を表現することを意識的にしていきたいです。

  

まだまだ、道半ばで至らないところばかりですが、これからもよろしくお願い致します。


2015 レポートNo.10 「T・Nさん」

レポートの再提出にあたって


始めのレポートと別の観点で
この2年(さらにはそれ以前)を振り返り、
体感世界にどっぷりいたことを客観的に
視点でとらえられるようになり、
思考欲望型エレメンタルに
何度も立ち戻りつつ取り組めることができた。

スクールでのアルマさんをはじめとする
皆のコメントを振り返っていくと、
バラバラしていた様々な事象が集約されていき、
今在る現実と相まって、
それらが何を現わしているのかをわかりかけてきて、
「もっとこうなったら、していければいいな」と
能動的な思いが出てくるようになった。

2年前から日常のことを
以前のように出来なくなる体験を通して、
小さい頃から度々あった心ここにあらず、
生きることへの意欲のなさを
自分の内側の思考パターンとして認識するようになった。

今迄の自分の考え方や気持ちの持ちようが行動に表れ、
自分のエネルギーや現実に反映されていることに思い当たる。
現実は持っている考え方や思い、信念と繋がっていて、
「何を思い考えるか」というより、
「どのように思い捉え(反応)考えるか」が大きいとわかり、
いかに潜在意識(エゴイズム・エレメンタル)に意識的にいて、
今在る自分の現実との関係性を観ていくことは、
人生をとても豊かにし、自分自身を真に生きることを
助けてくれると捉えられるようになった。

また、自己満足に終わることなく、自己表現・創造していくことが
自分にとって大事なことだとわかってくる。
自分の感じていることや意思にもっと目を向けて、
それをカタチにすることに思考をもっと上手に生かし、
思考を使っていくことを楽しみながら、
どうのようにして外へ表現していくかということに
意識を注いでいきたいと考えられるようになった。

特にここ一年は、仕事や人と会うことで
外との世界と関わっていくことは、
凝り固まっていく自分の世界から抜け出しやすく、
良くも悪くも自分を知り表現する機会に恵まれると深く実感、
ありがたさを感じる。

一年前からの体験を通して、感情のリアルさを知る。
他人の感情を感じることや
自分の感情を表現することの豊かさを知り、
感情表現への興味と関心が出てくるようになった。
周りのひとへの依存と拒絶、期待や甘え、
かまってほしいという気持ちに気付きやすく、
仕事ではそこに翻弄されないように
切り替えて取り組めるようになる。

それに加え、感情レベルで自分や相手の興味や関心に
もっと意識的になり大事にして、
関係性を深められるようなっていければなと思うようになった。
異性に対しては、相手を異性として意識し始めるか、
相手から意識されて近づいてこられると、
その気持ちに自分の感情が揺れ動かないように、
反応することを避けるように
相手との間に一定の距離を置き、抑制しようとするところがある。

今は、このひとのことをもっと知りたいという気持ちを
素直に感じることもあり、自分や相手の気持ちとともに
そこに居ることを考えたとき、
そこに深い安堵感をも感じるようになった。

好きな人たちと自然に一緒にいたいという思いを感じるままに、
それとともに一緒にいられるように、
自分の気持ちや感じていることを相手にわかるように
伝えていく工夫をしていけるように
(この一文はアルマさんのコメントを拝借しました)、
自分のため、相手のために意識的でいたいなと思う。

気になる考えやコメントがあると、
それを頭で自分に教えこもうとし、
気付くとその知識に盲目的になりやすい。
自分を通して感じ、判断し、
知識止まりでなく知恵となるように生かしていきたい。

自分の文章のパターンについては、
語尾の表現が長くなり、くどくなる傾向がある。
読み手や自分の心にすっと入っていくような、
もっとシンプルで伝えたいことを
ストレートに文章にしていければと思った。

現状に満足していないと、
その不満から満足を求めて行動を起こすことが多いが、
それだけではなく、自分からこうしたい、
こう在りたいと自然に思え、
よろこびから動き出せるようになっていければと思う。

自分のしあわせ、よろこびのため、
のびのびと自分の感情を表現し、
精神の限りない自由さから生まれる自分を
仕事や活動、日々の暮らしで表現していければと思う。
それが自分自身に対して、人に対して、
世界に対して自分をひらいていくことなのかなと思う。

2015 レポートNo.9 「T・Mさん」

2014年・2015年を振り返って


▼2014年

自分がどれだけ人に甘えてきたか気づき、
他者との関わり方を見直す年だったと思います。

まず結婚という人生の大イベントがありました。
実家を出て相手と暮らし初めた時に、
今まで両親と暮らしてきた中でどれだけ自分本位で
両親の子を思う気持ちに甘えていたのか、
どれだけ苦労をかけてきたのかを痛切に感じました。
両親が思いやって尽くして愛を注いでくれていたのかを自覚し、
今度は自分が愛を表現する事で両親お返しをし、
パートナーには「この人のために何ができるだろうか」と
お互い相手を思いやる気持ちを持って接してきた半年でした。

しかし、スクールのレッスンでは
「自分を抑え相手を思いやる気持ち」はどういう事なのかを
沢山勉強しましたが、 いざ実践となると愛を持って尽くす事もできれば、
我が出てしまい自分優先になってしまう時もあり、結果一進一退でした。
スクールの皆さまと比べたらまだまだなのだけれども、
自分には意識的に踏み出せた大きな一歩でした。

また職場の人達は人間的にも能力的にも素晴らしい方が集まっていて、
それに引き上げられる様に自分の能力・興味の幅が増えた様に感じます。
自分一人で仕事は完結するのでなく、
協力する人、届ける人がいる事で初めて達成できる事なのだという事も
教えて頂きました。(仕事に限らずですが)
そして友人関係が狭い自分でもプライベートでも
会う友人やパートナーできた事がありがたく、
会社にも同僚にも沢山感謝をしました。
それは「いかに人が使いやすく、喜んでもらえるものを作るか」
という人生の目的に気づき、
それを実践できる職場を選んだからこそ、巡り会えたのだと思います。



▼2015年

自分の直さなければいけない所や
今まで内在していた問題が鮮明に浮き上がってきた 年でした。


まず会社の体制が変わったため仕事内容と同僚が変わり、
同僚の仕事の進め方が中途半端に見えて怒りを持ったり、
会社の方向性に対して疑問、
仕事が認められていないという仕事に対する不満がでてきました。

まずこれは、人生の目的から少し逸れた仕事内容になったにも関わらず、
安定した会社に執着してしまった事が第一の原因だったと思います。
これには気づくのに半年以上かかってしまいましたが、
以前とは違い何年も囚われる事なく職場を去る選択をする事ができました。

第二の原因として、自分への甘えと人に対する寛容さの欠如。
自分だって失敗はあるし、他人から見たらもどかしいと思う所は
沢山あるだろうに棚にあげてしまっていた。
「自分には厳しく、人には寛容に」というは当たり前の事で
頭では分かってはいるものの、
余裕が無くなると「自分本位で傲慢な」エゴイズムがひょっこり顔を出す。
このエゴイズムが出てきていると気づけた事は収穫だったと思います。
「相手に寛容で謙虚に。自分に対しても人に対しても誠実であろう。」
来年はこれを実践していきます。


次に身内の死というキッカケがあり、
「家族・一族の問題」が浮き上がってきました。

親が「お金に対して」「異性に対して」してきた対応、
一族の子供の育て方の負の連鎖、
親の「過去の怒りの感情」の影響を未だ受けている兄弟。
お互いの過去生のカルマもあって起きたでき事でもありますが、
自分がスクールに在籍してるにも関わらず、
家族・一族に対してのヒーリングを怠っていたからこそ
一気に露見したのだと思います。

まだまだ問題は山済みですが、
一族の負の連鎖を自分の代で断ち切るために
表面化した今だからこそ解決するため
一つ一つ紐をほぐす様に解決してゆきたいと思います。

また、
互いの事を積極的に知ろう・関わろうとしなかった事も原因でもあって、
「好きの反対は嫌い。ではなく無関心」という 言葉がまさにその通りです。
これは、 自分が小さい時から刷り込まれていた点で、
グループレッスンを通じて少しずつ解放できてきたのかなと思います。
まずは 自分から動き、
お互いの事に関心ち結びつきを強くできるきっかけになれば思い、
自宅で定期的に3家族食事会を開くようにしました。
何度か続けているうちに、
少しづつですが互いの考えている事や悩みや問題が表現され、
解決できる様話しあったりし距離が縮まってきたと思います。
場を提供し、料理を作りお持てなしをする事は
今までお世話になってきた家族への私の感謝の形として、
愛の形としてこれからも続けていきたいです。


▼グループレッスンを通して気づいた事

・他人事は自分事という点
誰かが壁にぶつかっている事は、
よくよく話を聞いてみると自分にも同じ問題がある。
グループワークで「ハッ」とさせられる事が何度もありました。
同じグループに属している・身近にいる人なのだから、
同じネガティブエレメンタルに振り回される事もあると実感しました。
皆さんを鏡として自分を見つめ直しつつ、
皆さんの素敵な所も実は自身の中にある。
長所を伸ばし、短所を私事だと思い直す事が大切だと気付きました。

・自分自身の欠点を認めて言葉に出す事ができるようになった点
今まではプライドや親からの刷り込みで
「言ってはいけない、隠さなくてはいけない」と
無意識ながら思っていたのか、なかなか自分の言葉が出なかった。
しかし、自分の失敗や欠点を言葉に出すことで、
皆さんの気づきのキッカケになる事に気づいてからは、
自然と表現できる様になりました。
表現できる様になってみると、
以前は自分の殻に閉じこもり 壁を作っていたんだなと感じます。

・内省と瞑想の大切さ
スクール内で自身のネガティブエレメンタルを掃除すると
いつもボロボロ出てきて、今までは自分が困るだけだしと
サボる事が多々あったのですが、 自分が曇ってゆくと
他のメンバーにも影響があり迷惑がかかるという事を痛感しました。
自分のネガティブエレメンタルが クリアになる事で、
スクール内のみならず自分の身近な人達にも
良い変化のきっかけになれる様、
内省と瞑想を積み重ねていきたいと思います。

・「まぁいいか」の逃げの思考や「甘え」から、
まだまだ抜け出せてない点。
これは私にとって見たくなかった弱点で
根の深い問題だなと再認識しています。
2015年の振り返りで前述した
「自分本位で傲慢」エゴイズムにも関わりが深いと思います。

12月のグループレッスン内で
なぜ改められないのかを皆さんと話し合った時
「意志の力が弱く、無気力」という原因と改善策を
考えていただけました(ありがとうございます!)
このエレメンタルはきっとスクールの皆さんにも
迷惑をかけていたのだなと思い反省しきりでした。

まず極端に改善しようとすると、気力が続かない事が分かったので
意志の力を養うために、
小な行為でも(英語でto do)を積み重ねて行こうと、
まさしくto do表を活用してゆきます。

そうする事で意識的に毎日を過ごし
「自分のためでなく全体のため」と思いながら実践できれば良いなと思います。

最後に、皆さんの良い変化から刺激を受ける事ができ、
自分の事を見つめ直す機会になるクラスメイトに、
その場所を提供して下さり、課題をヒントを与えてくれるアルマさんに、
多大な感謝をしております。ありがとうございます。
まだまだエゴイズムに惑わされていていて学ぶ事がある 身ですが、
これからも一歩一歩努力を積み重ねゆきたいと思います。
今後もよろしくお願いいたします

2015 レポートNo.8 「Y・Hさん」

振り返る機会を改めていただいて、最も感じたのは、
人とのかかわりがあって変化し、成長できること。
とくにわたしの場合は人との関係なくしては、変化も成長もない。
周囲の人たちが成長を助けてくださっているのだと痛切に感じた。
グループレッスンへの参加がかなってから、
人とのかかわりを通じて起こる変化が加速した。

○グループレッスン参加前
 人とのかかわりが怖くて(今も怖い)、かかわりをもたないようにしていた。
自分から話しかけたり、話題を提供したりすることは一切ない。
その時間をやり過ごすことに集中。
そんな態度で、こころを開こうとしないのに、親しくなれる人がいたらいいな、
誰か話しかけてくれないかなと都合のよいことばかり考えている。
周囲を見ず、見ようともしない。周りに依存し、期待し、甘えた状態。

○グループレッスン参加から間もなく
 それまでの基本姿勢は崩すことなく、しばらくやり過ごす。
アルマさんが再三注意してくださっていたのに。
周囲への依存、甘えがピークに達し、レッスンでこころを開かないまま、
周囲を拒絶し、かたくなな姿勢をとり続ける。
この間、アルマさん、スクールの皆さんが
どんなにか不快な思いをされていただろうと思う。
二度としてはならない、絶対に繰り返してはならない態度。
それでもアルマさんはスクールへの参加を許してくださり、
クラスメイトは根気強くわたしの軟化を待ってくれた。
受け入れたほうがいいに決まっていると頭ではわかっているのに、
不要なプライドにとらわれていた。
少しずつ受け入れられるようになったころ、
こころを解放することの爽快感を味わった。
みなさんが許し、待ってくださったからできたこと。
ほんとうにほんとうに感謝しています。ありがとうございます。

○日常での変化:母との関係
 徐々に受け入れられるようになると、日常でも変化がみられるようになった。
顕著だったのは母との関係。わたしがかかわろうとしないことに、
母が不信感を抱いていると気づいた。積極的に母と話しをした。
お互いの態度が柔らかくなったと思う。
不信感はぬぐいきれていないと思うけれど。
近い関係だからこそ会話し、たとえそぶりでも、
相手を気遣い続けることが大切なんだと学んだ。

○職場で:同僚との関係
 新しい職場で、
これまでにかかわることのなかった人たちと密に接するようになる。
一回り以上も年下の若い女性たち。
職場には年上も、同年輩も、男性も多くいるのに。
ここでは、相手をよく観察し、懐へ入っていくくらいの勢い(わたしの場合)
で接することが、よい関係につながると教えてもらった。
観察することで相手の美点や変化に気づき、
会話が生まれ、相手への関心が芽生えた。
細かいことはほとんど気にならなくなり、
人間関係にほとんどストレスを感じなくなった。
ほんの最近まで、不満を募らせていたのに。
若い同僚が変化を促してくれていることに改めて気づかされた。

○こころが動く
最近はすぐに涙がでる。こころが動く、それを実感したのは、ごく最近。
知人の病気を聞いたときだ。その知人を猛烈に愛おしと思い、
何かしたいと素直に思えた。
こういった気持ちになったのははじめてだと思う。
こころが解放されつつあると感じた。
人との出会い、誰かと共有・共感できる時間を
大切に大切にしたいと強く願う出来事でもあった。


グループレッスンでの皆さんの助けが、
人との関係の築き方に変化をもたらしてくれた。
チャクラワークもきっかけを与えてくれたと思う。
この二年間は、その変化がこれまでにない速さだった。
変化には段階があることも感じた。
依存も甘えもまだまだあり、観察も気配りも絶対的に不足している。
人間関係の中で学べることは、尽きない。
人とのかかわりはあらゆる感情も呼び起こしてくれる
大切なものだと気づいた。


一方、一貫するものがあることもわかった。
いいなと思う女性像。
昨年、中学生のときに読んだ少女向け小説を読み返したのがきっかけ。
強くて芯がある、でも優美、周囲に配慮できるなどなど。
アルマさんがSNSで示してくださった像と一致する。
それがわかると、課題がみえてきた。

○考える力、気づく力を養う
 無意識に過ごしていることを実感。
変えるための意識はいつもアルマさんやクラスメイトがもたらしてくれた。
なぜ今自分がこういう状況にあるのか、考え、
気づく力が圧倒的に不足している。内省の重要性がようやく腑におちた。

○客観的、多面的に物事を捉える
 考え、気づきを得る過程で必要になるのは客観的、
広く多面的に物事をみる力。
独りよがりにならないよう、つねに考え方を点検する。

○よく観察する
 変わりたいときは、対象をよく観察することが必須と感じる。
世の中に関心を持ち、よく見て、よく聞いて、
よいところを見つけ、相手を理解しようと努める。
自分のこともよく観察する。よいところをさらによくするように。

○自ら行動する
 気づいたことを実行に移さなくては、変化は起きない。
自分の考えを自分の言葉で伝え、行動を起こしていく。
受け身体質脱却は、急務。

○ふんばる
 あきらめる清さがあってもいいと思うけれど、
できれば最後までふんばりたい。
最後までふんばれる、やりきれる力をつけたい。

○差別意識をなくす
 他人と自分を差別しない。
わたしにとってこれは根深く、時間のかかる問題だと思う。
焦らず取り組み続けるしかない。
こだわりや固定観念、先入観を捨て、
本質を見極められる人になれるかにかどうかにかっていると思う。


 振り返りきれていないところ、課題はまだまだあると思う。
感謝や謙虚さ、思いやりの醸成も必要。
職場での人間関係が落ち着いた今、次の段階へ進むことも、
本来の道を歩めるようになることも重要。
そして最近ふと思うのが、なぜ女性なんだろうということ。
女性として生まれてきたことの意味を気づくまで考え続けるしかない。

 再度振り返る機会を与えてくださり、ありがとうございます。