すみません 個人的な愚痴です
楽しみにしていたものの中止になったライブが
8月に開催と聞いてテンション上がってウキウキで
明日から先行予約だ〜!
チケット取れたら連絡するね・・・と友人と約束し
しかし
今日届いたメルマガで
「電子チケットのみでさらにスマホのみの申込」
地上100階から一気に海面下まで突き落とされた気分
奈落だ
天国から地獄
絶望っす
いやさ6/15の発表の段階では
そんなこと書いてなかったよ
なんて先行予約前日の今日に
そんな大切なことを後出しジャンケンで追記するの
しかも追記
「電子チケットのみです
スマホのみの申込のみになります」
それだけよそれだけ
諸般の事情からこうなったんでご理解いただきたいとの
真摯な説明文の一言もない
開催の告知の段階で言ってくれれば
受け取り方は全然違ってた
致し方ない事情での直前の変更であるならば
誠意ある血の通った言葉での説明が一言ありさえすれば
こんな時代だし致し方ないと残念ではあるがと思えた
だが
「回答できません」で片付けられた
なんざんしょ なんで今の世の中
なんでもかんでもスマホありきなの❓
スマホを持っていることが善なの❓
持ってなくてはいけないの❓
それが当たり前だっていうの❓
日本国民の全員が
すべての人間がどうして持っていることが前提なの❓
持つことができない人もいるのに
持っていない人間は
それを使うことができない人間は
どんなサービスも受けられないっていうの❓
どうして少数派は切り捨てられてしまうの❓
少数派は悪なの❓
少数派は・・・
五体満足ではない人間は音楽を楽しんではいけないの❓
ライブに行ってはいけないの❓
私はたまたま視力の問題で
スマホの画面を見ることができないのだけども
(日常生活はできるしPCの画面ならなんとか
IPADの大きさならかろうじてなんとか)
だから操作できないからガラケーユーザーなんだけども
そりゃ ライブに行っても
メガネかけてたってオペラグラス使ったって
メンバーの顔や姿はよく見えないしぼやけてるし
せっかくの綺麗で素敵な衣装もわからないし
大画面だってちゃんと見ることできないよ
演出も舞台もうっすらとしかわかんないよ
でも雰囲気味わうのが好きなんだよ
その場で音楽聞くだけでも楽しいんだよ
あの臨場感の中 参加者の一人として
みんなと空間をシェアしたいから
だからライブに行きたいと思うんですよ
最近そんなことが多すぎる
なんでもかんでも スマホスマホスマホ
アプリダウンロードしてください
ねぇよ❕
持ってねぇよ❕
持ったって使えないんだよ❕
画面の文字が読めないんだよ
PCだって薄い色の文字や
色付き背景の文字はわかんないんだよ❕
表示されている文章のすべて
判別できる視力はもう持ってないんだよ❕
すべての人間がスマホ使えるわけではないんだよ❕
スマホはすべての人間が使える道具じゃないんだよ❕
すべての人が同じ身体能力や条件下で
生きているわけではないんだよ
少数派のためにどうして選択肢を残してくれないの❓
スマホを使えないことは悪なの❓❓ 罪なの❓
なんか差別を受けた気分だ
白人の店に
「あなたは黒人だから利用できませんよ」って
そんなこと言われたような気分だ
大袈裟ですけども
車椅子の人とか生まれながら障害のある人は
こんな思いをしながら日々生きているんだなあ
世の中 多様性が増えたというけれど
ちっとも多様性なんかない
むしろその逆で一本化される方向に向かってて
少数派はどんどん無視されている
選択肢の幅がどんどん狭まっている
チケットが今後も
この方法でしか買えなくなるっていうのなら
ライブなんてもう二度といけないな
FC会員なんてのは意味ないな
バンドに罪はないけども
もう二度と曲も聞きたくないってくらいな気分かも
今はメンバーの姿すらも不快な気分になるから見たくない
いえね
最初の段階での「これこれこうした事情でと」
その条件下での説明として理解を求められていて
直前の変更にしても
血の通った言葉での断り書きとしての
お詫びがあったならば
しょうがないよね 今はこんな時代だから
これが開催するためのギリギリ精一杯の方法だしと
受け止められましたわ
無事に開催されるといいね
行ける人たちに楽しんできてね
と笑顔で言えましたよ
でも
発売前日の追記という簡単な記載で
血の通った言葉ではなく単なる機械的な文字の羅列で
不誠実なやり方や対応で切り捨てられた日には
5年間として活動を応援してきた気持ちがすべて
雲散して一気にマイナスになってしまった
彼らの音楽性やメンバー一人ひとりや
これまでの軌跡やすべての曲を否定して
嫌悪感を抱くほどに
ダメになってしまった
こんなことは生まれて初めてです
音楽好き 音楽ファンとして
50年近く 国内外のあらゆる音楽を
ミュージシャンたちを好きになって
たくさんの曲を数えきれないくらい聞いてきたけれど
彼らや
その音楽を嫌いになることなんてなかった
趣味嗜好が変わって聞かなくなることがあって
興味が離れることはあっても
拒否反応が出るなんてことはなかった
2020/06/30
2020/06/28
心の目で見える世界
心の目で見るってどんな風に見えてるの❓
と聞かれた時
とっさにはどう説明していいものか悩みます
明らかに物質的なこの目を通して
色かたち存在を知覚しているのとは違う・・・とだけ
それとしかいいようがなく
見え方というか視えているといっていいものなのか
心がそのようなものを捉えているだけで
視えている視ていると錯覚し勘違いしているだけなのか
私自身にも理解しがたいことだからです
だから視力に属するものと言っていいのか迷うのです
皮膚感覚で何かを感じとることもあるし
嗅覚だったり聴覚だったりでも類似のことはあるわけで
そして見え方にもパターンがあるのです
そのまま生きている人と物質的なものと
見分けつかなくそこにあるものいるものとして
視えることもあるし
クラゲやスケルトン素材の何かの存在として
視えることもある
3D画像や立体ホログラフィみたいなものとか
単なる光の球としてそれを視たときに
頭の中にその光の玉の中にいるであろう存在の
情報としての映像をキャッチすることもある
そこにいる人として捉えちゃった場合には
気づかないで後から違和感覚えて
一瞬のち振り返ったらいなかったとか
ご家族だと思って挨拶したら
誰もいない空間に挨拶している私なので
「何しているの❓」と驚かれたりとか
ちなみにそこにいるはずのない人と知って
見てしまったことに気づいた場合には
私はとっても怖がりですから
悲鳴上げて気絶する勢いでしたよw
一昔前の漫画だったら
泡吹いて白目剥いて倒れているアレなパターン
頭の中で・・・という場合
場所でいうなら脳内には間違いありません
でも第六チャクラのある松果体なのかと言われれば
そうとも言えないし眉間の後ろの大脳皮質あたり❓
のような気もするしちょっと特定できません
目の裏で見ているような感じもするし
目の端に視えることもある
(視点が正面にあってそっちを見ながら
目の脇の部分に何かが見えるってとこ)
今見ている目と同じ目の場所で
まったく別のものを見ているような気もするし
その時々で違うのです
視え方も視ている場所も
頭には違いないのですけれどもね
イメージで入ってくる感じ
過去の映像を思い浮かべてるあの感じですかね
それもはっきりくっきり色鮮やかに
ありありと細部まで見えることもあるし
モノトーンだったりセピアの色褪せた感じや
ピンボケで焦点のあってない場合もある
映画や動画のように展開していく場面の時もあるし
コマ送りのようなコンテのようなパラパラ漫画みたいに
ワンショットずつの絵芝居のようなものであったり
一枚の止め写真やポートレートのようなものだったり
時にリアリティのない漫画チックなイラストみたいな
そんなイメージで理解させられることもあるのです
どうして毎回パターンが違うのか説明できませんけど
それと誰かを見たとき
その人の姿形が変わっていって
何かとダブって見えてというのもありますね
あと人以外では町とか建物
今いる空間(建物)に別の建物や町が重なって
見える時もあったりします
別の次元の建造物なのかなーとは思うけど
今はもう未来予知的なものは夢以外見ることはないし
突然に何かの映像が予告なく頭の中に視えるなんて
そんな現象は随分とないのだけれども
予知的なものは本当に唐突で
バンっ!って衝撃音がするかのごとく
目を見開いて体がビクッと反応しちゃうくらい
そんな感じで入ってきてました
例えば授業中にうとうとしながら
ぼっーと窓の外の景色を眺めていたら
目の前の景色・視界に映像(画像)が飛び込んでくる
まったりうとうと昼寝していたり
彼氏といちゃいちゃしていたらば
頭の中にババッーン!!って衝撃的な映像が広がって
目ん玉丸くなって飛び起きてしまうってくらいの
いきなりな衝撃度でマジ野暮すぎるぜ
(時と場所は選んでよってねぇ)
そうなんです こういうのって
瞑想していたりお祈りしていたりって
そんな受け取り万全の時にくるとは限らず
逆に普通のときというかだらだらしていて
超油断しているときに来るのが大概なんですよ
(ある人なんてトイレで用足している時が多いという話)
それも 墜落でバラバラになった物質くらいなら
まだしも人間の肉片とか見せられるのは
たまったものではなかったですよ
覚悟してみるのと油断しているときでは
心の受け取り方 ダメージというか
ショックってパンパねぇっすから
予告はホントしてくださいよー・・・でした
タイムスリップ的なものに関しては
さほど体験した数は多くないのだけども
本当にそこに自分がいるって感じなんですよね
周囲の景色が変わって空気も違うの
頭の中で見ているのではなくて
実際にその場所にいるって感覚
今は・・・セッションとかだと
言葉で入ってくるパターンも多いです
頭の中に情報入りのカプセルがダウンロードされて
それを解凍して読むようなことも
第三者の声で説明を「聞かされる」ことも時おり
今は昔みたいにいつでもどこでもではなく
セッションの時であったとしても必要がなければ
それらの情報をゲットすることもあんまりないですが
とはいうものの
お陰様でこの仕事を通して経験を積んだので
情報源の違いだとか対象物の違いから
視え方や捉え方が違うのだと理解できています
それがわかるからって何❓ってのはありますけども
でもね
自分が視ているものがすべてだとは思ってないし
正しいのだとそこにあるものであると
確信を持って断言することはできませんね
それが狂人の錯覚であれ妄想であれ幻覚であれ
単なる夢想家の創造だとか何であるにせよ
私が何かを捉えていることは間違いないのですが
まだまだ予測と推測の範疇です
と聞かれた時
とっさにはどう説明していいものか悩みます
明らかに物質的なこの目を通して
色かたち存在を知覚しているのとは違う・・・とだけ
それとしかいいようがなく
見え方というか視えているといっていいものなのか
心がそのようなものを捉えているだけで
視えている視ていると錯覚し勘違いしているだけなのか
私自身にも理解しがたいことだからです
だから視力に属するものと言っていいのか迷うのです
皮膚感覚で何かを感じとることもあるし
嗅覚だったり聴覚だったりでも類似のことはあるわけで
そして見え方にもパターンがあるのです
そのまま生きている人と物質的なものと
見分けつかなくそこにあるものいるものとして
視えることもあるし
クラゲやスケルトン素材の何かの存在として
視えることもある
3D画像や立体ホログラフィみたいなものとか
単なる光の球としてそれを視たときに
頭の中にその光の玉の中にいるであろう存在の
情報としての映像をキャッチすることもある
そこにいる人として捉えちゃった場合には
気づかないで後から違和感覚えて
一瞬のち振り返ったらいなかったとか
ご家族だと思って挨拶したら
誰もいない空間に挨拶している私なので
「何しているの❓」と驚かれたりとか
ちなみにそこにいるはずのない人と知って
見てしまったことに気づいた場合には
私はとっても怖がりですから
悲鳴上げて気絶する勢いでしたよw
一昔前の漫画だったら
泡吹いて白目剥いて倒れているアレなパターン
頭の中で・・・という場合
場所でいうなら脳内には間違いありません
でも第六チャクラのある松果体なのかと言われれば
そうとも言えないし眉間の後ろの大脳皮質あたり❓
のような気もするしちょっと特定できません
目の裏で見ているような感じもするし
目の端に視えることもある
(視点が正面にあってそっちを見ながら
目の脇の部分に何かが見えるってとこ)
今見ている目と同じ目の場所で
まったく別のものを見ているような気もするし
その時々で違うのです
視え方も視ている場所も
頭には違いないのですけれどもね
イメージで入ってくる感じ
過去の映像を思い浮かべてるあの感じですかね
それもはっきりくっきり色鮮やかに
ありありと細部まで見えることもあるし
モノトーンだったりセピアの色褪せた感じや
ピンボケで焦点のあってない場合もある
映画や動画のように展開していく場面の時もあるし
コマ送りのようなコンテのようなパラパラ漫画みたいに
ワンショットずつの絵芝居のようなものであったり
一枚の止め写真やポートレートのようなものだったり
時にリアリティのない漫画チックなイラストみたいな
そんなイメージで理解させられることもあるのです
どうして毎回パターンが違うのか説明できませんけど
それと誰かを見たとき
その人の姿形が変わっていって
何かとダブって見えてというのもありますね
あと人以外では町とか建物
今いる空間(建物)に別の建物や町が重なって
見える時もあったりします
別の次元の建造物なのかなーとは思うけど
今はもう未来予知的なものは夢以外見ることはないし
突然に何かの映像が予告なく頭の中に視えるなんて
そんな現象は随分とないのだけれども
予知的なものは本当に唐突で
バンっ!って衝撃音がするかのごとく
目を見開いて体がビクッと反応しちゃうくらい
そんな感じで入ってきてました
例えば授業中にうとうとしながら
ぼっーと窓の外の景色を眺めていたら
目の前の景色・視界に映像(画像)が飛び込んでくる
まったりうとうと昼寝していたり
彼氏といちゃいちゃしていたらば
頭の中にババッーン!!って衝撃的な映像が広がって
目ん玉丸くなって飛び起きてしまうってくらいの
いきなりな衝撃度でマジ野暮すぎるぜ
(時と場所は選んでよってねぇ)
そうなんです こういうのって
瞑想していたりお祈りしていたりって
そんな受け取り万全の時にくるとは限らず
逆に普通のときというかだらだらしていて
超油断しているときに来るのが大概なんですよ
(ある人なんてトイレで用足している時が多いという話)
それも 墜落でバラバラになった物質くらいなら
まだしも人間の肉片とか見せられるのは
たまったものではなかったですよ
覚悟してみるのと油断しているときでは
心の受け取り方 ダメージというか
ショックってパンパねぇっすから
予告はホントしてくださいよー・・・でした
タイムスリップ的なものに関しては
さほど体験した数は多くないのだけども
本当にそこに自分がいるって感じなんですよね
周囲の景色が変わって空気も違うの
頭の中で見ているのではなくて
実際にその場所にいるって感覚
今は・・・セッションとかだと
言葉で入ってくるパターンも多いです
頭の中に情報入りのカプセルがダウンロードされて
それを解凍して読むようなことも
第三者の声で説明を「聞かされる」ことも時おり
今は昔みたいにいつでもどこでもではなく
セッションの時であったとしても必要がなければ
それらの情報をゲットすることもあんまりないですが
とはいうものの
お陰様でこの仕事を通して経験を積んだので
情報源の違いだとか対象物の違いから
視え方や捉え方が違うのだと理解できています
それがわかるからって何❓ってのはありますけども
でもね
自分が視ているものがすべてだとは思ってないし
正しいのだとそこにあるものであると
確信を持って断言することはできませんね
それが狂人の錯覚であれ妄想であれ幻覚であれ
単なる夢想家の創造だとか何であるにせよ
私が何かを捉えていることは間違いないのですが
まだまだ予測と推測の範疇です
2020/06/24
心象風景としての記憶
遠隔ヒーリングで垣間見させて頂いた風景
その人の心の中に深く落としている影
心の奥底に深く眠らされた 無意識の中に沈む澱
遠い遠い記憶の彼方に埋没させられた
とある春の日のワンシーン
それはそれは古い映画のように
とても印象的で
美しく 叙情的で詩的な切なさにあふれていて
それとは対照的に
そのような景色を心に閉じ込めることになった
母としてのその人の閉鎖的で意固地な心が
様式美を伴って心にインプリントされた風景と
とてもアンバランスで
なんとも言えないやるせなさがありました
基本 遠隔ヒーリングはしごく普通に
氣(エーテルバイタリティ)をお送りするだけで
セラピーが目的ではないので
意識的にリーディングはしないのですが
たまに覗かせて頂くことがあったりするのです
(普段は見ることはないですよ)
さて
目の裏に映ったその光景は
ひらひらと大量に室内へと舞い散る桜吹雪
それはまるで
光とともに障子を通り抜けているかのように
耐えることなく降り注ぎ
その室内 畳の大広間には
うっつぷして倒れている男性の姿
そしてその下に流れる赤い血
桜の花びらは
動かずにいるその人の上にも
静かにはらはらとずっと降り注いで
決して正装(裃)ではなく
普段着の着古したそれを着ているその人は
介錯人のない切腹をして果てていたのです
人が自死をして その遺体を見ているというのに
(現実ではなくあくまで脳裏に映ったイメージ
妄想的な創られた映像であったとしても)
現実離れをした
その静かな光景は
まるで黒澤監督や溝口監督の
古き好き時代の時代劇映画のワンシーンのよう
光と影が織りなす
時間のない空間に閉じ込められた
なんとも言えないドラマがそこにありました
とは言っても
これだけでは何もわかりません
これは一体何を意味しているのか
どういう状況であるのか
この方の過去生の記憶であるのか
そうではない別のものなのか・・・
氣を送りながら
私はその情報を探させて頂きました
戦国の世が遠くなった天下太平な江戸の時代
地域までは分かりませんが
その男性・・・切腹していた男性は
その家の長男として生まれ
当初は跡取りとして大切に育てられたようです
ですが
武術の稽古中 事故というか故意というか
禁じられていた真剣でのやりとりをしてしまい
左腕を失うことになってしまったのです
血気に流行っていた若さ故の過ちといいますか
故に被害者(❓)ではあるけれど それを咎められ
片手を失ったこと
すなわちカタワになってしまったことで
家督を就く座から外されてしまったのですね
次男が繰り上げ跡取りになったと
そのあとはそれまでの蝶よ花よとは違って
腫れ物に扱うがごとくの厄介者扱い
(武士の身分
家の格としてはどうだったんだろう
武家屋敷の作りではあるけれど
江戸の藩屋敷という感じではないから
大名とか旗本とかクラスの
身分って感じはしなかったです
でも家の規模を見るに
江戸城詰めの御徒とか
そこまで低い感じもしないし)
そんな状況だから
自らを持て余すがごとく腐っていた
で
その方はこの男性のこの時の御母堂でした
息子が命を断ったときの風景が
記憶として残っていたのです
けれど よく見てみるとこの光景はとても不自然
まず庭に接する障子はすべて閉じているというのに
桜の花びらが室内に入るはずなんてないんです
そう この光景は彼女が創ったもの
たぶんこのように死んでいたのだろうと
遺体の様子を見た人からの又聞きから
脳裏に浮かべた息子の最後の姿
彼女は亡骸を見ることを拒否していたんです
作法を守らないところでの自室での
その死のあり方を
恥ずべきものとして忌み
対面することを拒絶していたんです
これは現代の感覚からすると理解できないこと
武家の母親の矜恃なんでしょうか
ていうか怖かったのかも知れませんね
本当のところの心中はわかりませんが
息子の遺体を見ることで受け入れたくないと
そう思ったことが
もしかしてあったのかもしれません
なぜなら
この男性 長男さんの
切腹を決心する背中を押したのは
御母堂であった彼女が
彼を否定し誹った一言だったから
その自覚があったんでしょう
認めたくないながらも
本当のところでは
本心では
息子の亡骸に取り縋って大声で泣きたかった
許してほしいと謝りたかった
遺体を抱きしめてあげたかった
けれど武家の母親 家を護る立場というのかな
そういうのがあるからできない
そのような教育を受けて
かくあるべきって それが当たり前と信じていたから
現代の私たちには理解できない
取り繕わねばならない 何かがあったのでしょう
けれど人として
単なる母親としての心の奥底では
ずっと罪悪感を抱えて生きていたのでしょうね
自らを責める傷となっていたのでしょう
とはいうものの
その傷は
ちょっと別方向に出ちゃっていますけれども
てなわけで私ができることは
その傷が癒されて 当時の息子さんと和解して
過去の重荷から解放されることを祈ること
でもその前にこの出来事から
吸収しないといけない学びがあるのであった
はい・・・残念ながら
それはまだ時期が来ていないのです
そして
侍というとどうしても戦国の世のイメージですよね
特に海外の人のイメージでは
日本人は時代劇たくさん見ていれば
そっちのイメージの方が強かったりするけれども
余談ですが 私の母方も祖父と祖母
それぞれの祖父の代までは武士の身分でしたんで
祖父母ともにそうした
独特な士族の風習とか教育方針を受け継いでて
それが母親のセルフイメージにあるわけだから
だから武士ってなんか農民や商人とは違うって
なんとなくわかるとこもなくはないんですけどもね
長男教なのは九州ではありがちで
農家な父方も長男教でしたけんども
母方は祖父と長男に仕えさせられてるって扱いで
単なる長男教を超えていました
ご飯とか一人ひとり御膳でだったし
主人と長男とお客様用の表玄関があって
それ以外の家族用の裏玄関そして使用人は勝手口で
立場が違うと同じ玄関を使ってはいけなかったの
トイレも別だったし
あんな狭い家で玄関が3つもあるってどういうことって
当時はびっくりでした
武士だった時の家ではなく祖父が建てた家でしたけど
間取りが完全なミニチュアの武家屋敷で
農家の田の字式の間取りと全然違ってたなあ
そういえば祖父母は子供達のことを
絶対に呼び捨てにはせず "さん"づけで呼んでましたね
なんていうか襟を正して正座して向き合うみたいな
長男長女に対しては傅くがごとくな態度でしたし
ようするに親子といってもどこか他人行儀な感じ
そんなかんなで
なんか親子関係まで主従関係というか
上司と部下みたいなんだなって
人の情とか押し殺さないといけないというか
家族であって家族でない関係だったのかーとか
いびつな親子関係だったんなあというか
まっすぐに気持ちのままには
生きることができない時代だったのだとつくづく
武家の見栄というか
武士道というのはよく理解できないっすね
その人の心の中に深く落としている影
心の奥底に深く眠らされた 無意識の中に沈む澱
遠い遠い記憶の彼方に埋没させられた
とある春の日のワンシーン
それはそれは古い映画のように
とても印象的で
美しく 叙情的で詩的な切なさにあふれていて
それとは対照的に
そのような景色を心に閉じ込めることになった
母としてのその人の閉鎖的で意固地な心が
様式美を伴って心にインプリントされた風景と
とてもアンバランスで
なんとも言えないやるせなさがありました
基本 遠隔ヒーリングはしごく普通に
氣(エーテルバイタリティ)をお送りするだけで
セラピーが目的ではないので
意識的にリーディングはしないのですが
たまに覗かせて頂くことがあったりするのです
(普段は見ることはないですよ)
さて
目の裏に映ったその光景は
ひらひらと大量に室内へと舞い散る桜吹雪
それはまるで
光とともに障子を通り抜けているかのように
耐えることなく降り注ぎ
その室内 畳の大広間には
うっつぷして倒れている男性の姿
そしてその下に流れる赤い血
桜の花びらは
動かずにいるその人の上にも
静かにはらはらとずっと降り注いで
決して正装(裃)ではなく
普段着の着古したそれを着ているその人は
介錯人のない切腹をして果てていたのです
人が自死をして その遺体を見ているというのに
(現実ではなくあくまで脳裏に映ったイメージ
妄想的な創られた映像であったとしても)
現実離れをした
その静かな光景は
まるで黒澤監督や溝口監督の
古き好き時代の時代劇映画のワンシーンのよう
光と影が織りなす
時間のない空間に閉じ込められた
なんとも言えないドラマがそこにありました
とは言っても
これだけでは何もわかりません
これは一体何を意味しているのか
どういう状況であるのか
この方の過去生の記憶であるのか
そうではない別のものなのか・・・
氣を送りながら
私はその情報を探させて頂きました
戦国の世が遠くなった天下太平な江戸の時代
地域までは分かりませんが
その男性・・・切腹していた男性は
その家の長男として生まれ
当初は跡取りとして大切に育てられたようです
ですが
武術の稽古中 事故というか故意というか
禁じられていた真剣でのやりとりをしてしまい
左腕を失うことになってしまったのです
血気に流行っていた若さ故の過ちといいますか
故に被害者(❓)ではあるけれど それを咎められ
片手を失ったこと
すなわちカタワになってしまったことで
家督を就く座から外されてしまったのですね
次男が繰り上げ跡取りになったと
そのあとはそれまでの蝶よ花よとは違って
腫れ物に扱うがごとくの厄介者扱い
(武士の身分
家の格としてはどうだったんだろう
武家屋敷の作りではあるけれど
江戸の藩屋敷という感じではないから
大名とか旗本とかクラスの
身分って感じはしなかったです
でも家の規模を見るに
江戸城詰めの御徒とか
そこまで低い感じもしないし)
そんな状況だから
自らを持て余すがごとく腐っていた
で
その方はこの男性のこの時の御母堂でした
息子が命を断ったときの風景が
記憶として残っていたのです
けれど よく見てみるとこの光景はとても不自然
まず庭に接する障子はすべて閉じているというのに
桜の花びらが室内に入るはずなんてないんです
そう この光景は彼女が創ったもの
たぶんこのように死んでいたのだろうと
遺体の様子を見た人からの又聞きから
脳裏に浮かべた息子の最後の姿
彼女は亡骸を見ることを拒否していたんです
作法を守らないところでの自室での
その死のあり方を
恥ずべきものとして忌み
対面することを拒絶していたんです
これは現代の感覚からすると理解できないこと
武家の母親の矜恃なんでしょうか
ていうか怖かったのかも知れませんね
本当のところの心中はわかりませんが
息子の遺体を見ることで受け入れたくないと
そう思ったことが
もしかしてあったのかもしれません
なぜなら
この男性 長男さんの
切腹を決心する背中を押したのは
御母堂であった彼女が
彼を否定し誹った一言だったから
その自覚があったんでしょう
認めたくないながらも
本当のところでは
本心では
息子の亡骸に取り縋って大声で泣きたかった
許してほしいと謝りたかった
遺体を抱きしめてあげたかった
けれど武家の母親 家を護る立場というのかな
そういうのがあるからできない
そのような教育を受けて
かくあるべきって それが当たり前と信じていたから
現代の私たちには理解できない
取り繕わねばならない 何かがあったのでしょう
けれど人として
単なる母親としての心の奥底では
ずっと罪悪感を抱えて生きていたのでしょうね
自らを責める傷となっていたのでしょう
とはいうものの
その傷は
ちょっと別方向に出ちゃっていますけれども
てなわけで私ができることは
その傷が癒されて 当時の息子さんと和解して
過去の重荷から解放されることを祈ること
でもその前にこの出来事から
吸収しないといけない学びがあるのであった
はい・・・残念ながら
それはまだ時期が来ていないのです
そして
侍というとどうしても戦国の世のイメージですよね
特に海外の人のイメージでは
日本人は時代劇たくさん見ていれば
そっちのイメージの方が強かったりするけれども
余談ですが 私の母方も祖父と祖母
それぞれの祖父の代までは武士の身分でしたんで
祖父母ともにそうした
独特な士族の風習とか教育方針を受け継いでて
それが母親のセルフイメージにあるわけだから
だから武士ってなんか農民や商人とは違うって
なんとなくわかるとこもなくはないんですけどもね
長男教なのは九州ではありがちで
農家な父方も長男教でしたけんども
母方は祖父と長男に仕えさせられてるって扱いで
単なる長男教を超えていました
ご飯とか一人ひとり御膳でだったし
主人と長男とお客様用の表玄関があって
それ以外の家族用の裏玄関そして使用人は勝手口で
立場が違うと同じ玄関を使ってはいけなかったの
トイレも別だったし
あんな狭い家で玄関が3つもあるってどういうことって
当時はびっくりでした
武士だった時の家ではなく祖父が建てた家でしたけど
間取りが完全なミニチュアの武家屋敷で
農家の田の字式の間取りと全然違ってたなあ
そういえば祖父母は子供達のことを
絶対に呼び捨てにはせず "さん"づけで呼んでましたね
なんていうか襟を正して正座して向き合うみたいな
長男長女に対しては傅くがごとくな態度でしたし
ようするに親子といってもどこか他人行儀な感じ
そんなかんなで
なんか親子関係まで主従関係というか
上司と部下みたいなんだなって
人の情とか押し殺さないといけないというか
家族であって家族でない関係だったのかーとか
いびつな親子関係だったんなあというか
まっすぐに気持ちのままには
生きることができない時代だったのだとつくづく
武家の見栄というか
武士道というのはよく理解できないっすね
2020/06/21
372年ぶりの月の日に〜過去そして現世から来世へ至る道
またタイトルが長くなってしまった
今日は夏至で新月そして日食という日でした
この条件下の天体イベントは実に372年ぶり
372年前というと1648年で日本では江戸時代
慶長元年三代将軍徳川家光の時代です
(「大奥」とか大河ドラマでおなじみの時代)
※家康は1616年に死んでますし
父親の秀忠も1623年にやはり死んでます
家光自体は1651年に亡くなってますから
亡くなる3年前の天変か
江戸時代前期で戦国時代の名残もあるでしょうが
天下太平で世の中ずいぶんと安定していたのかな
この頃の日本は
世界史的に言うと17世紀半ばで
欧州的には大航海時代も終盤で終焉を迎えた時期
ちょうど欧州の冒険家たちが
アジア含む太平洋の島々 オーストラリア 新大陸など
ほとんどの未開拓 未知の地域を発見し終わった頃で
スペイン ポルトガル オランダ フランス
そしてイギリスが植民地支配を確率した頃でもある
でもってイギリスでは
チューダー朝は終わってすでにスチュワート朝
エリザベス1世はすでに崩御していて
次のジェームス1世の後に即位した
チャールズ1世が処刑される一年前の出来事
ちょうど清教徒革命(イングランド内戦)が勃発した頃ですね
すなわちいったん王政・王朝が断絶した時期であると
中国大陸は明ではなくて既に清が始まってますね
このあたりから世界の近代化が始まるんですね
ところでいわゆるスピ系な人が日食に対して
ウェルカムな発言をしているけど
日食は決してポジティブなものではありません
受け取り方ではあるからポジティブに取れなくもないけど
昔から大きな自然災害の予告をする現象で
地震・台風・津波・干魃・洪水などなど
日食が観測された地域にそれらをもたらします
天変地異そして政権の転覆 国の滅亡 王の死などなど
夏至は確かに地球に降り注ぐ太陽のパワーが
最大限になる日で重要な日ではあるけれども
日食は古代から不吉の象徴なんですよね
まあ物事をネガティブととるかポジティブととるか
その違いですが
さて今回の日食 どう転ぶでしょう
その答えは372年前の観測された地域と出来事を
検証してみると見つけられるのかもしれません
とはいうものの 全体で見ないといけませんし
必ずしも372年前と同じ条件下での
天体配置というわけではないですから
でもまあ
以前の夏至新月日食の後に
大航海時代が終わりを告げたこと
当時覇権を誇っていた国の隆盛が終わりを告げ
イギリスという国が王を処刑して
宗教改革があったということ
これらを考えると
時代の切り替え 何かの終焉を告げていることは
間違いないでしょうね
この辺りはマンデン(国家占星学)とか
宿曜とか陰陽道的な解釈だけども
ちなみに宿曜だと蟹座は鬼宿で魂の宿り場(還る場所)
新月でなくて満月だったら地獄の窯が開く日ですね
だからこその「真夏の夜の夢」で描かれるように
あの世とこの世の境目が曖昧になって
死者の魂とかこの世にあらざるものが彷徨いでて
乱痴気騒ぎを起こす日なのだけども
うん
スピリチュアリズム的には月というのは
魂の刑務所(拘置所)なんですよ
何回転生しても反省しない成長しない更生しない
困った魂の反省房(独房)であって
終身刑以上の極悪人が隔離されるところ
ここから囚人たちが逃走してこられた日には
地球としてはたまったもんじゃありません
完全に太陽が月に隠れてしまう瞬間には
脱走囚人たちがぞろぞろとやってきてしまいます
仮釈放がたくさん出所してくるって意味でも
さて個人としての感想
ちょうど半年前の日食からの回答というか
結果の出る日ですね
その頃に考えていたことや迷っていたこと
取り組んでいたことに対しての結論
(今回の日食前後の結果はまた半年後の次の日食時)
この辺りのこと 今回の天体模様が
個人にどんな影響を及ぼすのかということは
いろんな人があちこち素晴らしい記事を
書いてくれていますので<動画もブログも
気になった人は自分で調べてみてください
ここでは私個人としてのことをお目汚しに
確かにちょうど去年の12月中旬から
あれやこれや考えていることがあって
この人生このままでいいのかとか
これで終わっていいのかなど
ある取り込み・努力をしようと奮起したんです
それをだらだらと続けていまして・・・
現実的に形としての大きな結果は
出た!とはっきりと言えないんですけども
少しずつ出ているとも言えるんですねw
(どっちだっっ)
4月頃から徐々に起きていると言えばそう
けれども確実な形ではない
なんていうか
「受け取る」ための準備をさせられている感じでした
願ったもののそれを「受け取る」ことに対して
まず邪魔と妨害をしている心理的な障壁を
起きた出来事を通して指摘されて自覚させられ
そこをなんとかしろよって直面させられたりしまして
そんなこんなで「整える」期間をもらいました
だから予兆と予行練習はさせられているけれど
結果としての現実はまだまだなのが玉に瑕
けれど今日の瞑想をしていて
はっきりとした自覚や決心が
自分の中で生まれてきたというのかな
迷いが断ち切れてるってそう確信できた瞬間を得ました
自分の中で考えが改めてまとまった感じです
しつかり強く堅く決意できたっていうのかなー
そのまとまった考え
決意っていうのが何かというと
来世でやりたいことに対して
すなわち来世計画ですね
して自分にかけた呪いを解く日にもなりました
372年前ですから明時代のトラウマですねっっ
そのあたりから始まった負のパターンの解除
カルマの負債の返済というか
それはここ数年向き合わされていましたがっ
あと自分が本当に欲しいもの
求めているものがすごくわかりました
もうBad endな結末はイヤなんだ
そうしたパターンの繰り返しはもうたくさんなんだと
この仕事をするなら(今の仕事のようなこと)
その道はあきらめなくちゃいけないとか
両立できないから どっちか捨てないといけない
他は全部あきらめて望んだりしてはいけないとかとか
そういうのに対して「NO!」とはっきり言えて
欲しいものは欲しいと 両方求めていいんだ
それで自分も誰も周囲の人も不幸にすることはないし
自分も幸せになっていいし周囲も幸せにできるしって
「YES!」と肯定できるようになったのを実感したのが
今日確認できたこと
具体的には書けませんがw
で 来世計画
その前に封印というか抑圧を解く方向ですね
このブログにも書いていますけど
私23の時までは目を開けた状態で
見えざる世界に住む人たちがちゃんと見えてました
これから起きる事件とか未来のことも
見えたりしていました
けれど ある日(といってもそれ以前から)
「いやだ 見たくない」ってめちゃくちゃ強く拒絶して
気がつけば 見えなくなっていました
いやさまったく見えないってこともないんだけど
子供の頃のようにはってことですね
彼らと話をしたりもできなくなった
幽体離脱したり タイムスリップみたいな経験したり
そういうのもできなくなってしまった
占いは知識があったからできたけども
先を見ることが苦手になった
40過ぎて 占いではなく
ヒーリングを習得したことをきっかけに
リーディングとかこういう仕事をするようになって
過去生に関しては情報は得られるけれども
相変わらず昔みたいなことは何もできない
できるようになったら仕事の役に立つのにといいつつ
心ではどこか恐怖がありました
だってそれって「おかしい」人になることでもあるから
植物と会話したり
誰もいないところで空中見て独り言言ってたり
挙動不審で怪しくて それで色々と弊害もあったから
日常というか自分が壊れそうでいやだったんですね
子供の頃は怖いもの恐ろしいものもたくさん見てきたし
ただでさえ常識外の変な奴なのに
もっと変な人になるのって怖いですよ
しょっちゅう見えない人に話しかけられて
これから怒るであろう事件の映像見せられて
気が狂いそうな思いも過去にしましたし
普通の人として生きるのが夢でしたから
昔できたことができる自分になれたら便利だなあと
いろんな人の役に立てるのになって
頭では考えてそう口に出しつつ心は拒否ってて
でもようやっと「もう大丈夫だ」って思えたんです
とはいうものの そう思えたからって
元に戻れるとは限らないんですけれど
一度失ったものを取り戻せるとは
能力が復活するのかわからないんですけれどもね
今の人生ではやはりまだ早いと思うというか
スピリチュアリティ(霊性)が到達していないから
それをやらせてもらえないのは承知しているんですけど
私やはりサイコメトラーになりたいんですよ
それを望んだきっかけっていうのは
子供の頃 地元千葉(お隣の市原市)で起きた殺人事件
ジェラール・クロワゼの一面記事が運命でした
彼をして超能力捜査 サイコメトラーの存在を知ったんです
それ以前からエドガー・ケイシーも読んではいましたし
心霊的な書物をあれやこれや調べたりしていましたけどね
憧れたというか
こんなことができる人になりたいって切実に思いました
(その前はブラックジャック読んで医者に憧れてたけどw)
そのような能力で真実を知ることができるのならば
行方不明者を見つけたり 事件の真相を明らかにしたり
犯人逮捕の手がかりを得ることができたり
誰にも見つけてはもらえない遺体を
遺族の元に返してあげられる手伝いができるのならば
冤罪の人の無罪をはらすことができるのであれば
それができるようになりたいって思いましたのよ
実際 謎解きや推理小説がものすごく好きで
事件史や犯罪史や検視官ものも大好きで
その手のケースファイルブックも読みあさっていましたし
犯罪被害者に対してのシンパシーありますし
犯罪に対する憤りってものがものすごくあったから
子供の頃のままに
霊を見たり話をしたり 未来の映像を見たりとか
そんなことができたままだったら
それを伸ばすことができたなら
そうなれたかもしれませんけども
(実際 未解決事件の被害者の人が
夢に出てきて死亡時の状況を教えてくれたことも
あったりしたんですけどね・・・
お役に立てず申し訳なかったです)
途中で「見たくない!」って蓋をしてしまった
嫌だ嫌だになっちゃってた
でもってここ数年は興味というか関心薄くなってました
熱い思いや情熱がなくなっていたというのかな
そのわりにはだらだらとYouTubeで犯罪系の動画とか
見ていましたけれども それも無意識のなせる技か
今日の夏至及び新月の瞑想中
やっぱり私やりたいです!! 来世は絶対!
なんて気持ちが戻ってきました
決心したって感じですね
たぶん心の中で
様々なしがらみがとれてきたせいなのでしょう
できなくなってしまったこと
失ってしまった能力
取り戻せるかわからないけど
今よりもっと変な人になること
怖がらないで 心をオープンにして
本当の自分を隠すこと
いつわって別人のふりをするのはやめて
あの頃の感覚を取り戻したいなあって
思いました
なんだかんだもうこの年ですし
今更って感じですもんね
普通の人でいようと本来の自分をごまかして
蓋をしてしまって 使えるものを使わないより
世の中の役に立てそうな力なら
役立てたほうがいいなあってそう思いますし
それで少しでも助けられる人がいるなら
今回の日食はちょうど私のネイタルチャートで
(占星学の誕生時のホロスコープ・天体配置)
木星とぴったりの合(コンジャクション)の
位置で起きているのでものすごく大きな意味あるなーと
ちょうどトランジットのドラゴンズヘッドも
そこいらに来ているし 水星逆行中ではあるけれども・・・
今日は夏至で新月そして日食という日でした
この条件下の天体イベントは実に372年ぶり
372年前というと1648年で日本では江戸時代
慶長元年三代将軍徳川家光の時代です
(「大奥」とか大河ドラマでおなじみの時代)
※家康は1616年に死んでますし
父親の秀忠も1623年にやはり死んでます
家光自体は1651年に亡くなってますから
亡くなる3年前の天変か
江戸時代前期で戦国時代の名残もあるでしょうが
天下太平で世の中ずいぶんと安定していたのかな
この頃の日本は
世界史的に言うと17世紀半ばで
欧州的には大航海時代も終盤で終焉を迎えた時期
ちょうど欧州の冒険家たちが
アジア含む太平洋の島々 オーストラリア 新大陸など
ほとんどの未開拓 未知の地域を発見し終わった頃で
スペイン ポルトガル オランダ フランス
そしてイギリスが植民地支配を確率した頃でもある
でもってイギリスでは
チューダー朝は終わってすでにスチュワート朝
エリザベス1世はすでに崩御していて
次のジェームス1世の後に即位した
チャールズ1世が処刑される一年前の出来事
ちょうど清教徒革命(イングランド内戦)が勃発した頃ですね
すなわちいったん王政・王朝が断絶した時期であると
中国大陸は明ではなくて既に清が始まってますね
このあたりから世界の近代化が始まるんですね
ところでいわゆるスピ系な人が日食に対して
ウェルカムな発言をしているけど
日食は決してポジティブなものではありません
受け取り方ではあるからポジティブに取れなくもないけど
昔から大きな自然災害の予告をする現象で
地震・台風・津波・干魃・洪水などなど
日食が観測された地域にそれらをもたらします
天変地異そして政権の転覆 国の滅亡 王の死などなど
夏至は確かに地球に降り注ぐ太陽のパワーが
最大限になる日で重要な日ではあるけれども
日食は古代から不吉の象徴なんですよね
まあ物事をネガティブととるかポジティブととるか
その違いですが
さて今回の日食 どう転ぶでしょう
その答えは372年前の観測された地域と出来事を
検証してみると見つけられるのかもしれません
とはいうものの 全体で見ないといけませんし
必ずしも372年前と同じ条件下での
天体配置というわけではないですから
でもまあ
以前の夏至新月日食の後に
大航海時代が終わりを告げたこと
当時覇権を誇っていた国の隆盛が終わりを告げ
イギリスという国が王を処刑して
宗教改革があったということ
これらを考えると
時代の切り替え 何かの終焉を告げていることは
間違いないでしょうね
この辺りはマンデン(国家占星学)とか
宿曜とか陰陽道的な解釈だけども
ちなみに宿曜だと蟹座は鬼宿で魂の宿り場(還る場所)
新月でなくて満月だったら地獄の窯が開く日ですね
だからこその「真夏の夜の夢」で描かれるように
あの世とこの世の境目が曖昧になって
死者の魂とかこの世にあらざるものが彷徨いでて
乱痴気騒ぎを起こす日なのだけども
うん
スピリチュアリズム的には月というのは
魂の刑務所(拘置所)なんですよ
何回転生しても反省しない成長しない更生しない
困った魂の反省房(独房)であって
終身刑以上の極悪人が隔離されるところ
ここから囚人たちが逃走してこられた日には
地球としてはたまったもんじゃありません
完全に太陽が月に隠れてしまう瞬間には
脱走囚人たちがぞろぞろとやってきてしまいます
仮釈放がたくさん出所してくるって意味でも
さて個人としての感想
ちょうど半年前の日食からの回答というか
結果の出る日ですね
その頃に考えていたことや迷っていたこと
取り組んでいたことに対しての結論
(今回の日食前後の結果はまた半年後の次の日食時)
この辺りのこと 今回の天体模様が
個人にどんな影響を及ぼすのかということは
いろんな人があちこち素晴らしい記事を
書いてくれていますので<動画もブログも
気になった人は自分で調べてみてください
ここでは私個人としてのことをお目汚しに
確かにちょうど去年の12月中旬から
あれやこれや考えていることがあって
この人生このままでいいのかとか
これで終わっていいのかなど
ある取り込み・努力をしようと奮起したんです
それをだらだらと続けていまして・・・
現実的に形としての大きな結果は
出た!とはっきりと言えないんですけども
少しずつ出ているとも言えるんですねw
(どっちだっっ)
4月頃から徐々に起きていると言えばそう
けれども確実な形ではない
なんていうか
「受け取る」ための準備をさせられている感じでした
願ったもののそれを「受け取る」ことに対して
まず邪魔と妨害をしている心理的な障壁を
起きた出来事を通して指摘されて自覚させられ
そこをなんとかしろよって直面させられたりしまして
そんなこんなで「整える」期間をもらいました
だから予兆と予行練習はさせられているけれど
結果としての現実はまだまだなのが玉に瑕
けれど今日の瞑想をしていて
はっきりとした自覚や決心が
自分の中で生まれてきたというのかな
迷いが断ち切れてるってそう確信できた瞬間を得ました
自分の中で考えが改めてまとまった感じです
しつかり強く堅く決意できたっていうのかなー
そのまとまった考え
決意っていうのが何かというと
来世でやりたいことに対して
すなわち来世計画ですね
して自分にかけた呪いを解く日にもなりました
372年前ですから明時代のトラウマですねっっ
そのあたりから始まった負のパターンの解除
カルマの負債の返済というか
それはここ数年向き合わされていましたがっ
あと自分が本当に欲しいもの
求めているものがすごくわかりました
もうBad endな結末はイヤなんだ
そうしたパターンの繰り返しはもうたくさんなんだと
この仕事をするなら(今の仕事のようなこと)
その道はあきらめなくちゃいけないとか
両立できないから どっちか捨てないといけない
他は全部あきらめて望んだりしてはいけないとかとか
そういうのに対して「NO!」とはっきり言えて
欲しいものは欲しいと 両方求めていいんだ
それで自分も誰も周囲の人も不幸にすることはないし
自分も幸せになっていいし周囲も幸せにできるしって
「YES!」と肯定できるようになったのを実感したのが
今日確認できたこと
具体的には書けませんがw
で 来世計画
その前に封印というか抑圧を解く方向ですね
このブログにも書いていますけど
私23の時までは目を開けた状態で
見えざる世界に住む人たちがちゃんと見えてました
これから起きる事件とか未来のことも
見えたりしていました
けれど ある日(といってもそれ以前から)
「いやだ 見たくない」ってめちゃくちゃ強く拒絶して
気がつけば 見えなくなっていました
いやさまったく見えないってこともないんだけど
子供の頃のようにはってことですね
彼らと話をしたりもできなくなった
幽体離脱したり タイムスリップみたいな経験したり
そういうのもできなくなってしまった
占いは知識があったからできたけども
先を見ることが苦手になった
40過ぎて 占いではなく
ヒーリングを習得したことをきっかけに
リーディングとかこういう仕事をするようになって
過去生に関しては情報は得られるけれども
相変わらず昔みたいなことは何もできない
できるようになったら仕事の役に立つのにといいつつ
心ではどこか恐怖がありました
だってそれって「おかしい」人になることでもあるから
植物と会話したり
誰もいないところで空中見て独り言言ってたり
挙動不審で怪しくて それで色々と弊害もあったから
日常というか自分が壊れそうでいやだったんですね
子供の頃は怖いもの恐ろしいものもたくさん見てきたし
ただでさえ常識外の変な奴なのに
もっと変な人になるのって怖いですよ
しょっちゅう見えない人に話しかけられて
これから怒るであろう事件の映像見せられて
気が狂いそうな思いも過去にしましたし
普通の人として生きるのが夢でしたから
昔できたことができる自分になれたら便利だなあと
いろんな人の役に立てるのになって
頭では考えてそう口に出しつつ心は拒否ってて
でもようやっと「もう大丈夫だ」って思えたんです
とはいうものの そう思えたからって
元に戻れるとは限らないんですけれど
一度失ったものを取り戻せるとは
能力が復活するのかわからないんですけれどもね
今の人生ではやはりまだ早いと思うというか
スピリチュアリティ(霊性)が到達していないから
それをやらせてもらえないのは承知しているんですけど
私やはりサイコメトラーになりたいんですよ
それを望んだきっかけっていうのは
子供の頃 地元千葉(お隣の市原市)で起きた殺人事件
ジェラール・クロワゼの一面記事が運命でした
彼をして超能力捜査 サイコメトラーの存在を知ったんです
それ以前からエドガー・ケイシーも読んではいましたし
心霊的な書物をあれやこれや調べたりしていましたけどね
憧れたというか
こんなことができる人になりたいって切実に思いました
(その前はブラックジャック読んで医者に憧れてたけどw)
そのような能力で真実を知ることができるのならば
行方不明者を見つけたり 事件の真相を明らかにしたり
犯人逮捕の手がかりを得ることができたり
誰にも見つけてはもらえない遺体を
遺族の元に返してあげられる手伝いができるのならば
冤罪の人の無罪をはらすことができるのであれば
それができるようになりたいって思いましたのよ
実際 謎解きや推理小説がものすごく好きで
事件史や犯罪史や検視官ものも大好きで
その手のケースファイルブックも読みあさっていましたし
犯罪被害者に対してのシンパシーありますし
犯罪に対する憤りってものがものすごくあったから
子供の頃のままに
霊を見たり話をしたり 未来の映像を見たりとか
そんなことができたままだったら
それを伸ばすことができたなら
そうなれたかもしれませんけども
(実際 未解決事件の被害者の人が
夢に出てきて死亡時の状況を教えてくれたことも
あったりしたんですけどね・・・
お役に立てず申し訳なかったです)
途中で「見たくない!」って蓋をしてしまった
嫌だ嫌だになっちゃってた
でもってここ数年は興味というか関心薄くなってました
熱い思いや情熱がなくなっていたというのかな
そのわりにはだらだらとYouTubeで犯罪系の動画とか
見ていましたけれども それも無意識のなせる技か
今日の夏至及び新月の瞑想中
やっぱり私やりたいです!! 来世は絶対!
なんて気持ちが戻ってきました
決心したって感じですね
たぶん心の中で
様々なしがらみがとれてきたせいなのでしょう
できなくなってしまったこと
失ってしまった能力
取り戻せるかわからないけど
今よりもっと変な人になること
怖がらないで 心をオープンにして
本当の自分を隠すこと
いつわって別人のふりをするのはやめて
あの頃の感覚を取り戻したいなあって
思いました
なんだかんだもうこの年ですし
今更って感じですもんね
普通の人でいようと本来の自分をごまかして
蓋をしてしまって 使えるものを使わないより
世の中の役に立てそうな力なら
役立てたほうがいいなあってそう思いますし
それで少しでも助けられる人がいるなら
今回の日食はちょうど私のネイタルチャートで
(占星学の誕生時のホロスコープ・天体配置)
木星とぴったりの合(コンジャクション)の
位置で起きているのでものすごく大きな意味あるなーと
ちょうどトランジットのドラゴンズヘッドも
そこいらに来ているし 水星逆行中ではあるけれども・・・
2020/06/19
望む回答を得るためには的確な質問をせよ
水星逆行の直前ということで
敢えてこの手の話題をば
昔から時々
友人や知人とかその手の周辺の人から
「逢いたい」と言われることがあります
でもただ「逢いたい」と言われても
対応に困るというか
「ん❓ はぁ そうなんですか❓」とか
「そうおっしゃって頂けて光栄です」
「そりゃ どうも」「なんで❓」
とだけしか返しようがなく
それが学生時代とかであるならば
私みたいな変なやつがいるよとか
趣味嗜好が似ているとか共通項があるとか
(例えば同じバンドのファンとか)
そういう接点からの「逢ってみたい」ならば
「じゃあ今度一緒に遊びましょうよ」
というノリで
会ったりする機会もあったわけですけれども
(そうやって友達の友達って繁殖していくから)
これが私の職業に対する好奇心とか
そういうものだとそんなに単純じゃないわけです
仮に私の職業とそこに付随する資質への
私に対する興味だったとしても
「今度こうした集まりやイベントがあるからご一緒しません❓」
みたいな軽いお誘いで楽しそうな集まりだなーと
こちらが思えるものだったら誘いに応じるかも知れません
でも本当にただ
「逢いたいんです」ってことを伝えられても
「どういう意味で逢いたいと思われたんですか❓」
って眉間にシワ寄せて怪訝な顔を浮かべるばかりで
こちらとしては警戒をしてしまうだけなのですね
そういう時は
「仕事のご相談だったらサイトを見てくださいねー」
とお伝えして終わっちゃいます
だって
なんで会いたいのかどういう目的なのか
どんな意図で「逢いたい」と言われているのか
よくわからないからです
意味不明というか応えようがないので
さて それはお客様でも同じです
セッションやレッスンを受けるにしても
どのようなお悩みで当方を頼ろうと思われたのか
どういった問題を抱えていらっしゃるのか
解決したいことは何なのか
どうしたいと思っているのか
何を望んでいるのか
現状のこととかこれまでの経緯とか
知りたいこととか何を迷っているのか
自分の気持ちとか考えとか混乱しているとか
何をして欲しいと思っているのか
そういうのを話して下さらないことには
何も始まらないのですよ
ただ私のような職業の人間に逢いたい
ブログを読んで話してみたいと思ったと
それ自体が目的ならそれはそれでいいのですが
それだけですとセッションにはなり得ないんですね
普通に世間話で終わってしまう
ホームページにもこちらのブログにも
その辺りのことをいちおう書いたりはしているんですが
私は「黙って座れば」みたいに
質問や相談のないところで
こちらから自動的にメッセージをお伝えしたりはしません
預言者とか神様のお告げを伝える人ではないのです
確かに職業的にはヒーラーやセラピストというよりは
ユタやシャーマンに近いことしていますけれども
聞かれないこと相談されないことには
答えようがないし相談に乗りようがないのです
会ったならば何か自分に必要なことを話してくれる
などと期待なさらないでください
受動的な態度の方には期待されましても
差し上げる回答はないのです
サイトに書かせていただいている通り
自分の人生の問題に積極的に参加して
能動的に自らがリアクションを起こし
セッションという空間をきっかけに
人生の化学変化を起こそうとしない限りには
そう望まれないかぎりは
当方で得られるものはそう多くはないと
どうぞ知っていただきたいのです
もしあなたが自らの人生に必要なものを
確実に得ようというのなら
あなたの疑問に対して的確な答えを得るべく
それを引き出すために
相応しい質問を用意する必要があるがごとく
それなりの態度ー行動(リアクション)を
とることが肝心だったりするでしょう
スピリチュアルなサービスを利用するときも
どうぞそのように
お金を無駄にすることなく
対価を支払って得るサービスを通して
受け取る恩恵を最大限求めたいのであるならば
「このサービスを通して自分が得たい結果は何か」
という意図を明確にした上で
その得たい結果を得るために自分はどうあるべきか
ということも合わせて考えてみてくださいませ
敢えてこの手の話題をば
昔から時々
友人や知人とかその手の周辺の人から
「逢いたい」と言われることがあります
でもただ「逢いたい」と言われても
対応に困るというか
「ん❓ はぁ そうなんですか❓」とか
「そうおっしゃって頂けて光栄です」
「そりゃ どうも」「なんで❓」
とだけしか返しようがなく
それが学生時代とかであるならば
私みたいな変なやつがいるよとか
趣味嗜好が似ているとか共通項があるとか
(例えば同じバンドのファンとか)
そういう接点からの「逢ってみたい」ならば
「じゃあ今度一緒に遊びましょうよ」
というノリで
会ったりする機会もあったわけですけれども
(そうやって友達の友達って繁殖していくから)
これが私の職業に対する好奇心とか
そういうものだとそんなに単純じゃないわけです
仮に私の職業とそこに付随する資質への
私に対する興味だったとしても
「今度こうした集まりやイベントがあるからご一緒しません❓」
みたいな軽いお誘いで楽しそうな集まりだなーと
こちらが思えるものだったら誘いに応じるかも知れません
でも本当にただ
「逢いたいんです」ってことを伝えられても
「どういう意味で逢いたいと思われたんですか❓」
って眉間にシワ寄せて怪訝な顔を浮かべるばかりで
こちらとしては警戒をしてしまうだけなのですね
そういう時は
「仕事のご相談だったらサイトを見てくださいねー」
とお伝えして終わっちゃいます
だって
なんで会いたいのかどういう目的なのか
どんな意図で「逢いたい」と言われているのか
よくわからないからです
意味不明というか応えようがないので
さて それはお客様でも同じです
セッションやレッスンを受けるにしても
どのようなお悩みで当方を頼ろうと思われたのか
どういった問題を抱えていらっしゃるのか
解決したいことは何なのか
どうしたいと思っているのか
何を望んでいるのか
現状のこととかこれまでの経緯とか
知りたいこととか何を迷っているのか
自分の気持ちとか考えとか混乱しているとか
何をして欲しいと思っているのか
そういうのを話して下さらないことには
何も始まらないのですよ
ただ私のような職業の人間に逢いたい
ブログを読んで話してみたいと思ったと
それ自体が目的ならそれはそれでいいのですが
それだけですとセッションにはなり得ないんですね
普通に世間話で終わってしまう
ホームページにもこちらのブログにも
その辺りのことをいちおう書いたりはしているんですが
私は「黙って座れば」みたいに
質問や相談のないところで
こちらから自動的にメッセージをお伝えしたりはしません
預言者とか神様のお告げを伝える人ではないのです
確かに職業的にはヒーラーやセラピストというよりは
ユタやシャーマンに近いことしていますけれども
聞かれないこと相談されないことには
答えようがないし相談に乗りようがないのです
会ったならば何か自分に必要なことを話してくれる
などと期待なさらないでください
受動的な態度の方には期待されましても
差し上げる回答はないのです
サイトに書かせていただいている通り
自分の人生の問題に積極的に参加して
能動的に自らがリアクションを起こし
セッションという空間をきっかけに
人生の化学変化を起こそうとしない限りには
そう望まれないかぎりは
当方で得られるものはそう多くはないと
どうぞ知っていただきたいのです
もしあなたが自らの人生に必要なものを
確実に得ようというのなら
あなたの疑問に対して的確な答えを得るべく
それを引き出すために
相応しい質問を用意する必要があるがごとく
それなりの態度ー行動(リアクション)を
とることが肝心だったりするでしょう
スピリチュアルなサービスを利用するときも
どうぞそのように
お金を無駄にすることなく
対価を支払って得るサービスを通して
受け取る恩恵を最大限求めたいのであるならば
「このサービスを通して自分が得たい結果は何か」
という意図を明確にした上で
その得たい結果を得るために自分はどうあるべきか
ということも合わせて考えてみてくださいませ
2020/06/11
人種差別と奴隷問題<映画「ハリエット」を観て
映画館の上映が復活したこともあり
先日のレディースディに
ようやっと4月から延期になっていた
「ハリエット」を観てきました
アメリカでは
ちょうどタイムリーな問題の起きている時
感想としては良い映画だったとは思うんだけど
ちょっと何か物足りない
内容的にちょっとだけ薄い…かな?
という感じ
なんでしょう
往来の黒人奴隷問題モノと違って
人として胸に突き刺さり心をえぐられるような
正視に耐えない残酷な描写がなくて
黒人奴隷たちの境遇や置かれた環境が
観ている観客にとっても周知の事実として
場面の奥に追いやられているせいなのか
カタルシスには欠ける感じ
いやでも映画としては悪くないんです
主人公ハリエット・タブマンの伝記としては成功してるし
何しろ映画です
テレビのシリーズドラマではない
たかが2時間の中に収めるには
どこかに焦点を当てて
切り捨てるべき点がたくさんあるから
これくらいがちょうどいいのだと思う
「リンカーン」もね
あの部分しか描けないって時間的制約があったし
去年「グリーンブック」を観た時もそう
ジャッキー・ロビンソンの「42」の時もだけど
(「それでも夜が明ける」は残念ながら観れてないし
「カラーパープル」も未見であったっっ)
役者さんはいいし全体として悪くないんだけども
なんだろーなこの物足りなさは
訴えかけてくるものがイマイチ足りない
でももしかしたら
それって私側の感性の問題なのかも知れないですが
私がアメリカの黒人奴隷問題を知ることになったのは
テレビドラマの長大作「ルーツ」だったりするから
(アレックス・ヘンリーの原作も読みました)
そこが起点というか視点になっているせいからかな
あとは「ドラム」とかも
なんていうか昭和脳だと勧善懲悪的ストーリー?
白人の奴隷主が悪として描かれてないと
物足りないってやつなのかな?
いやそんなこともないと思うけれど
※BBCの公民権運動を扱った一連のシリーズも
ものすごくよかったです
これはNHKアーカイブにあるかも
CNNのは偏りがあって東スポなみで駄作
いやでも役者さんは良かったですよ
どの方たちもいい味出てたし
ウィリアム・スティル役の人は
若き日のシドニー・ポワチエに似てたし
ジャンヌ・ダルク張りに神掛かった
ハリエットを目の当たりにしてから
味方に寝返ったウォルター役の人も良かった
願わくば逃亡を助ける白人さんたちの
人柄や背景というか
画面のその奥をもっと知りたかった
でもね そういう人が
少数であっても存在していたことは
いつの時代でも救いだと思います
さて私はこのハリエットがいた時代は
ちょうどカナダ人でした
とはいうもののカナダのどこだったかは謎
山があって冬になると凍る海があってって
(アザラシとかいたしムースもいたし)
そんなことしか分からない
英語圏だったかフランス語圏だったかもわからず
だからもしかしたら
カナダ人としてお隣のアメリカで起きていること
その位は知っていたのかな…とは思う
カナダに逃亡してくる黒人たちがたくさんいたこと
生まれた年も没した年も覚えてないし
30代で死んでて平凡な主婦で子供が二人いたって
そんなことくらいしか分からんですから
んーでも 学はなかったように思うので
やはりそういうことには疎かったかもなー
そしてその後はユダヤ人としてドイツに生まれて
第一次大戦後の不況により幼少期に
ユダヤ系ネットワークを頼り
(ロスチャイルドとかモルガンとかの財閥系ではない)
船でアメリカに家族と移民として渡って
ニューヨークに移り住んで親の商売がうまくいって
好景気に湧く中で成金な青春時代送ったってとこ
それも大恐慌であっという間だったけど
※完全記憶は持っていないのでかなりあやふやです
ニューヨークに住んでいたから
その周辺の近隣の都市フィラデルフィアや
ボストンとかシカゴなんかは行ったかも知れない
けれどかつて北軍だった土地だから
黒人の差別は見知っていても
南部ほど劣悪ではなかったかなーという気がする
当時の自分にとってはたぶん
白人と黒人の差別は当たり前のことだったんだろう
空気みたいにそれは普通でしごく自然だったかも
純粋なアメリカ人ではなく移民でしかもユダヤ人
アイルランド系の人が多い中
そのような差別に対してどのように
当時の自分が考えていたのか感じていたのか
今の私には解らないし解りようもない
ただ言えているのは自分は移民であっても
いちおう特権階級たる白人側だったということ
やがてかつての故郷ドイツが
ナチズムに染まっていく中
迫害される側の民族として世間は
多少同情的にはなっていったけれども
すでに安全な場所に
国民として受け入れられていた私たちは
大恐慌で財産こそ失ったものの
ユダヤ人狩りには合わず命は保証されていたわけで
欧州の戦争も遠かったけれども
そんな世相を自分はどう見ていたのだろう
エンパイヤーステートビルが
出来上がっていくその過程を毎日見ながら
先住民を迫害して略奪して得た土地の上に
築いたきらびやかな文化と高層ビルたち
アフリカ大陸から奴隷として拉致してきた
黒人たちが切り開いた土地で得た金銭で富んだ
矛盾した国の繁栄の下で
あの頃の私はそういったことを
ちゃんと考えていたのだろうか
気付けていたんだろうか
それがおかしいってことに
黒人と白人が同席できず
トイレも何もかもが別で
移民としてやってきた私たちが
歓迎されすぐさま特権階級の仲間入りを
出来たというのに
アメリカという国の犠牲者・拉致被害者である彼らが
その謝罪も保障も受けられずに労働者階級以下のまま
貧しい生活を強いられていることに対して疑問を感じたり
彼らが理不尽な扱いを受けているのを見かけたとき
ちゃんと声を上げることが出来ていたんだろうか?
それとも明らかに不快さを示して
白人であることの特権を振りかざし
人としての道義などおかまいなしだったんだろうか
ハリエットの時代に
もしアメリカの奴隷制度の時代に自分がいたとして
彼らの境遇に同情して「人」として彼らをみなし
博愛精神と人道主義に忠実であることを選び
自分たちの社会の常識やルールを犯す潔さを持ち
彼らに手を貸し 逃亡を助ける
その危険を選ぶことを自分の矜持と出来たろうか
いやたぶんそんな勇気は塵ほどもなかったに違いない
クライアントさんの過去の中には
南北戦争の記憶を持つ人もいて
南軍北軍参加者やその周辺の家族
かつて奴隷商人だった人
そして当の奴隷としてアフリカから
連れて来られた記憶を持つ人もいた
そのたびに
「うーん」て考えさせられることも多々
(でもね 輪廻転生の
因果応報的な流れの中での一つの人生なので
当時どういう立場だったかというだけでは
すべては語れない)
私ももしかしたらもっと遠い過去で
黒人だったことがあるかも知れないけど
(エジプトや中東には何回か)
少なくとも欧州やアメリカにおける奴隷貿易の
被害者になったことはなく
南北戦争もお隣の国の戦争で他人事だった
奴隷だったという人生のトラウマも
幸か不幸か私にはないから
でも奴隷と特権階級の問題って
アフリカからの拉致黒人だけではないんですよね
それこそ紀元前 人類誕生後すぐにまで遡れる
わかりやすい例でいえばエジプト文明
映画「クレオパトラ」とか「十戒」とかでも
戦争による捕虜が奴隷になっていたり
身分としての使役奴隷はたくさん出てくるし
中国の長い歴史の中でもそう
戦に負けた国の国民が奴隷になるってのは
珍しいことではなくて当たり前のこと
それは歴史が証明している
ヨーロッパでもそうだしアフリカ大陸の中でも
殺す(皆殺し)か生け捕る(奴隷化)かの違いだけ
アフリカに奴隷を求めたのはアメリカが最初ではなく
イギリスやフランスなどでの黒人奴隷の歴史は長いし
(安土桃山時代にイエスズ会の宣教師によって
連れて来られた弥助とかも奴隷でしたし)
時にペットのように飼うのが流行したり
日本の女性たちも火縄銃の火薬と引き換えに
何千人も奴隷として欧州に売られているしね
(意外と知られてないけど=イエスズ会の裏仕事)
ただアメリカでは先住民たちから
土地を奪ったことに対する罪悪感からなのか
正当な取引で得た土地としたかったからなのか
先住民たちのことは迫害差別はしても
奴隷にはできなかったみたいだ
征伐という名の虐殺はたくさんしたくせに
だからこそ労働力としての奴隷を
黒い大陸に求め
その数がそれまでとは違い 大人数だったから
いやでもこれも
そんな風に紀元前から繰り返してきた
同朋を 同じ人類であり兄弟姉妹である者たちを
奴隷として境界線を引いて
非人道的な扱いをしてきたことに対する
カルマの返済と皆への問いのムーブメントが
大きく動いていたからかな
これはアメリカだけの問題ではない
黒人と白人だけの問題でもない
何かを理由にして
他人を差別される側と差別していい側とに
分けてしまう我々の中に生じる罪への問いだ
すべての人が心の垣根を取り去るまでは
この問題は世界から無くならないだろう
"ブラウン管の向こう側
恰好つけた騎兵隊がインディアンを撃ち倒した
ピカピカに光った銃で出来ればボクの憂鬱も
撃ち倒してくれればよかったのに
神様にワイロを送り
天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか?
誠実のかけらもなく笑っているヤツがいるよ
隠しているその手を見せてみろよ
生まれたところや皮膚や目の色で
いったいこのボクの何がわかるというのだろう?
運転手さんそのバスにボクも乗っけてくれないか
行先ならどこでもいい
こんなはずじゃなかっだろう?
歴史がボクを問い詰める
まぶしいほど 青い空の真下で"
byブルーハーツ「青空」
1968年アメリカアイオワ州ライスビルの
とある小学校で教師のジェーン・エリオットが
人種差別についての実験授業を行った
キング牧師の公民権運動に触発され
「子供たちを差別意識から守りたい」
という意志のもとに
彼女は子供たちを青い目と茶色い目の子に分けて
「茶色いロの子は良い子です
だから5分余計に遊んでよろしい」といい
「青い目の子はダメな子です
だから水飲み場を使ってはいけません」といった
そして授業中
青い目の子がミスをすると酷く叱りつけ
茶色い目の子のことは褒めまくった
するとほんの数十分で贔屓され
特権階級であることを与えられた
一部の茶色い目の子は
昨日まで友達として親しくしていた子を
明らかに侮辱し見下し 蔑む態度を取り出した
そして一部の青い目の子たちは
おどおどと卑屈な態度を取るようになる
青い目の子たちは積極的に質問に答え
正解率も高かった
しかし茶色い目の子たちは消極的になり
ミスが多発し答えを間違えることが増えた
翌日はすべてが逆になった
先日特権階級だった茶色い目の子たちは
今度は「悪い子」とされた
差別されていた側の青い目の子たちは
「良い子」として特権階級を与えられた
与えられていた特権階級をはく奪され
差別される側に立った子は成績が落ち
惨めな気持ちを味あわされることになった
逆に差別され劣っているとされていた子は
特権階級の身分を与えられて成績が回復した
子供たちはいう
「これが差別されるということなのか
差別される側の気持ちなのか…」と
さて
この実験から子供たちが得たものは何だったろう?
今の世では絶対にありえない実験
問題視されること間違いなしなので
でもこういう授業こそ必要なのではないか?
知識だけではなく「心」で知る授業こそ
「こころ」を育み鍛え成長させる授業こそ
真の教育ではないのか?
そう思ったりする
先日のレディースディに
ようやっと4月から延期になっていた
「ハリエット」を観てきました
アメリカでは
ちょうどタイムリーな問題の起きている時
感想としては良い映画だったとは思うんだけど
ちょっと何か物足りない
内容的にちょっとだけ薄い…かな?
という感じ
なんでしょう
往来の黒人奴隷問題モノと違って
人として胸に突き刺さり心をえぐられるような
正視に耐えない残酷な描写がなくて
黒人奴隷たちの境遇や置かれた環境が
観ている観客にとっても周知の事実として
場面の奥に追いやられているせいなのか
カタルシスには欠ける感じ
いやでも映画としては悪くないんです
主人公ハリエット・タブマンの伝記としては成功してるし
何しろ映画です
テレビのシリーズドラマではない
たかが2時間の中に収めるには
どこかに焦点を当てて
切り捨てるべき点がたくさんあるから
これくらいがちょうどいいのだと思う
「リンカーン」もね
あの部分しか描けないって時間的制約があったし
去年「グリーンブック」を観た時もそう
ジャッキー・ロビンソンの「42」の時もだけど
(「それでも夜が明ける」は残念ながら観れてないし
「カラーパープル」も未見であったっっ)
役者さんはいいし全体として悪くないんだけども
なんだろーなこの物足りなさは
訴えかけてくるものがイマイチ足りない
でももしかしたら
それって私側の感性の問題なのかも知れないですが
私がアメリカの黒人奴隷問題を知ることになったのは
テレビドラマの長大作「ルーツ」だったりするから
(アレックス・ヘンリーの原作も読みました)
そこが起点というか視点になっているせいからかな
あとは「ドラム」とかも
なんていうか昭和脳だと勧善懲悪的ストーリー?
白人の奴隷主が悪として描かれてないと
物足りないってやつなのかな?
いやそんなこともないと思うけれど
※BBCの公民権運動を扱った一連のシリーズも
ものすごくよかったです
これはNHKアーカイブにあるかも
CNNのは偏りがあって東スポなみで駄作
いやでも役者さんは良かったですよ
どの方たちもいい味出てたし
ウィリアム・スティル役の人は
若き日のシドニー・ポワチエに似てたし
ジャンヌ・ダルク張りに神掛かった
ハリエットを目の当たりにしてから
味方に寝返ったウォルター役の人も良かった
願わくば逃亡を助ける白人さんたちの
人柄や背景というか
画面のその奥をもっと知りたかった
でもね そういう人が
少数であっても存在していたことは
いつの時代でも救いだと思います
さて私はこのハリエットがいた時代は
ちょうどカナダ人でした
とはいうもののカナダのどこだったかは謎
山があって冬になると凍る海があってって
(アザラシとかいたしムースもいたし)
そんなことしか分からない
英語圏だったかフランス語圏だったかもわからず
だからもしかしたら
カナダ人としてお隣のアメリカで起きていること
その位は知っていたのかな…とは思う
カナダに逃亡してくる黒人たちがたくさんいたこと
生まれた年も没した年も覚えてないし
30代で死んでて平凡な主婦で子供が二人いたって
そんなことくらいしか分からんですから
んーでも 学はなかったように思うので
やはりそういうことには疎かったかもなー
そしてその後はユダヤ人としてドイツに生まれて
第一次大戦後の不況により幼少期に
ユダヤ系ネットワークを頼り
(ロスチャイルドとかモルガンとかの財閥系ではない)
船でアメリカに家族と移民として渡って
ニューヨークに移り住んで親の商売がうまくいって
好景気に湧く中で成金な青春時代送ったってとこ
それも大恐慌であっという間だったけど
※完全記憶は持っていないのでかなりあやふやです
ニューヨークに住んでいたから
その周辺の近隣の都市フィラデルフィアや
ボストンとかシカゴなんかは行ったかも知れない
けれどかつて北軍だった土地だから
黒人の差別は見知っていても
南部ほど劣悪ではなかったかなーという気がする
当時の自分にとってはたぶん
白人と黒人の差別は当たり前のことだったんだろう
空気みたいにそれは普通でしごく自然だったかも
純粋なアメリカ人ではなく移民でしかもユダヤ人
アイルランド系の人が多い中
そのような差別に対してどのように
当時の自分が考えていたのか感じていたのか
今の私には解らないし解りようもない
ただ言えているのは自分は移民であっても
いちおう特権階級たる白人側だったということ
やがてかつての故郷ドイツが
ナチズムに染まっていく中
迫害される側の民族として世間は
多少同情的にはなっていったけれども
すでに安全な場所に
国民として受け入れられていた私たちは
大恐慌で財産こそ失ったものの
ユダヤ人狩りには合わず命は保証されていたわけで
欧州の戦争も遠かったけれども
そんな世相を自分はどう見ていたのだろう
エンパイヤーステートビルが
出来上がっていくその過程を毎日見ながら
先住民を迫害して略奪して得た土地の上に
築いたきらびやかな文化と高層ビルたち
アフリカ大陸から奴隷として拉致してきた
黒人たちが切り開いた土地で得た金銭で富んだ
矛盾した国の繁栄の下で
あの頃の私はそういったことを
ちゃんと考えていたのだろうか
気付けていたんだろうか
それがおかしいってことに
黒人と白人が同席できず
トイレも何もかもが別で
移民としてやってきた私たちが
歓迎されすぐさま特権階級の仲間入りを
出来たというのに
アメリカという国の犠牲者・拉致被害者である彼らが
その謝罪も保障も受けられずに労働者階級以下のまま
貧しい生活を強いられていることに対して疑問を感じたり
彼らが理不尽な扱いを受けているのを見かけたとき
ちゃんと声を上げることが出来ていたんだろうか?
それとも明らかに不快さを示して
白人であることの特権を振りかざし
人としての道義などおかまいなしだったんだろうか
ハリエットの時代に
もしアメリカの奴隷制度の時代に自分がいたとして
彼らの境遇に同情して「人」として彼らをみなし
博愛精神と人道主義に忠実であることを選び
自分たちの社会の常識やルールを犯す潔さを持ち
彼らに手を貸し 逃亡を助ける
その危険を選ぶことを自分の矜持と出来たろうか
いやたぶんそんな勇気は塵ほどもなかったに違いない
クライアントさんの過去の中には
南北戦争の記憶を持つ人もいて
南軍北軍参加者やその周辺の家族
かつて奴隷商人だった人
そして当の奴隷としてアフリカから
連れて来られた記憶を持つ人もいた
そのたびに
「うーん」て考えさせられることも多々
(でもね 輪廻転生の
因果応報的な流れの中での一つの人生なので
当時どういう立場だったかというだけでは
すべては語れない)
私ももしかしたらもっと遠い過去で
黒人だったことがあるかも知れないけど
(エジプトや中東には何回か)
少なくとも欧州やアメリカにおける奴隷貿易の
被害者になったことはなく
南北戦争もお隣の国の戦争で他人事だった
奴隷だったという人生のトラウマも
幸か不幸か私にはないから
でも奴隷と特権階級の問題って
アフリカからの拉致黒人だけではないんですよね
それこそ紀元前 人類誕生後すぐにまで遡れる
わかりやすい例でいえばエジプト文明
映画「クレオパトラ」とか「十戒」とかでも
戦争による捕虜が奴隷になっていたり
身分としての使役奴隷はたくさん出てくるし
中国の長い歴史の中でもそう
戦に負けた国の国民が奴隷になるってのは
珍しいことではなくて当たり前のこと
それは歴史が証明している
ヨーロッパでもそうだしアフリカ大陸の中でも
殺す(皆殺し)か生け捕る(奴隷化)かの違いだけ
アフリカに奴隷を求めたのはアメリカが最初ではなく
イギリスやフランスなどでの黒人奴隷の歴史は長いし
(安土桃山時代にイエスズ会の宣教師によって
連れて来られた弥助とかも奴隷でしたし)
時にペットのように飼うのが流行したり
日本の女性たちも火縄銃の火薬と引き換えに
何千人も奴隷として欧州に売られているしね
(意外と知られてないけど=イエスズ会の裏仕事)
ただアメリカでは先住民たちから
土地を奪ったことに対する罪悪感からなのか
正当な取引で得た土地としたかったからなのか
先住民たちのことは迫害差別はしても
奴隷にはできなかったみたいだ
征伐という名の虐殺はたくさんしたくせに
だからこそ労働力としての奴隷を
黒い大陸に求め
その数がそれまでとは違い 大人数だったから
いやでもこれも
そんな風に紀元前から繰り返してきた
同朋を 同じ人類であり兄弟姉妹である者たちを
奴隷として境界線を引いて
非人道的な扱いをしてきたことに対する
カルマの返済と皆への問いのムーブメントが
大きく動いていたからかな
これはアメリカだけの問題ではない
黒人と白人だけの問題でもない
何かを理由にして
他人を差別される側と差別していい側とに
分けてしまう我々の中に生じる罪への問いだ
すべての人が心の垣根を取り去るまでは
この問題は世界から無くならないだろう
"ブラウン管の向こう側
恰好つけた騎兵隊がインディアンを撃ち倒した
ピカピカに光った銃で出来ればボクの憂鬱も
撃ち倒してくれればよかったのに
神様にワイロを送り
天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか?
誠実のかけらもなく笑っているヤツがいるよ
隠しているその手を見せてみろよ
生まれたところや皮膚や目の色で
いったいこのボクの何がわかるというのだろう?
運転手さんそのバスにボクも乗っけてくれないか
行先ならどこでもいい
こんなはずじゃなかっだろう?
歴史がボクを問い詰める
まぶしいほど 青い空の真下で"
byブルーハーツ「青空」
1968年アメリカアイオワ州ライスビルの
とある小学校で教師のジェーン・エリオットが
人種差別についての実験授業を行った
キング牧師の公民権運動に触発され
「子供たちを差別意識から守りたい」
という意志のもとに
彼女は子供たちを青い目と茶色い目の子に分けて
「茶色いロの子は良い子です
だから5分余計に遊んでよろしい」といい
「青い目の子はダメな子です
だから水飲み場を使ってはいけません」といった
そして授業中
青い目の子がミスをすると酷く叱りつけ
茶色い目の子のことは褒めまくった
するとほんの数十分で贔屓され
特権階級であることを与えられた
一部の茶色い目の子は
昨日まで友達として親しくしていた子を
明らかに侮辱し見下し 蔑む態度を取り出した
そして一部の青い目の子たちは
おどおどと卑屈な態度を取るようになる
青い目の子たちは積極的に質問に答え
正解率も高かった
しかし茶色い目の子たちは消極的になり
ミスが多発し答えを間違えることが増えた
翌日はすべてが逆になった
先日特権階級だった茶色い目の子たちは
今度は「悪い子」とされた
差別されていた側の青い目の子たちは
「良い子」として特権階級を与えられた
与えられていた特権階級をはく奪され
差別される側に立った子は成績が落ち
惨めな気持ちを味あわされることになった
逆に差別され劣っているとされていた子は
特権階級の身分を与えられて成績が回復した
子供たちはいう
「これが差別されるということなのか
差別される側の気持ちなのか…」と
さて
この実験から子供たちが得たものは何だったろう?
今の世では絶対にありえない実験
問題視されること間違いなしなので
でもこういう授業こそ必要なのではないか?
知識だけではなく「心」で知る授業こそ
「こころ」を育み鍛え成長させる授業こそ
真の教育ではないのか?
そう思ったりする
ラベル:
★差別&迫害&悪と罪
場所:
日本、東京都新宿区
2020/06/01
終わりなきトンネルの先に
とくにそれを意識して
何となく今日
成仏できず彷徨ってた叔父が
あ、もう上がれたかなあ…と
そんな気がしました
そろそろ17回忌になるのかな?
もう過ぎたんだっけな
そんな歳月をあやふやにしているほど
不義理な私
普段は思い出しもしない冷たい姪なのになー
でも自殺者としては早いほうです
7回忌の法要に帰省した時には
まだ上がれていず苦しみの中にいましたので
叔父といっても
年は10歳程度しか離れていないので
兄みたいな人でした
父方の親戚のことは正直好きではなく
直接的にも間接的にも
たくさんイジワルをされましたし
今となっては交流も縁もありませんが
母方の親戚にはよくしてもらいました
母の兄弟姉妹は8人いて
母のすぐ下の弟は幼少期に亡くなっているので
実質7人で
4人(女・男・女・男)が戦前生まれ
祖父が出征してシベリア抑留から
戻ってきてからの戦後生まれが3人(女・女・男)
叔父は一番下の末弟なので
戦前生まれの兄弟姉妹たちの子である甥姪
私たちとはとても年が近かったのです
ですから叔父さんと呼んだことはなく
いつだって「〇〇お兄ちゃん」でした
学生時代は上京して我が家に居候?
下宿していましたので一年間は一緒に住みましたし
子供の頃は帰省するたびに
山に虫取りなど遊びに連れて行ってもらいました
帰省するたびに私の進学とか
共通の趣味を持ったこととか
色んなことを喜んでくれました
とはいうものの携帯もない時代でしたし
個人的に連絡を取ることはありませんでした
成人してからは母を通じてのみだけ
祖父母が亡くなってからは
私もほとんど帰省することありませんでしたし
けど
奧さんである叔母に浮気されちゃって
あげく仕事が行き詰っての金銭問題で
自死を選んじゃったんですよね
自宅のガレージでの練炭自殺でした
前日に親友さん(警察官)とお酒を飲んだそうです
けどその人も気付かなかった
その人が殺人も疑ってくれたけど
中にしっかりとガムテープの目張りありましたから
山の中とか仕事場とかそういうとこでなくて
自宅を選んだのは
葬式の場にも間男を上がらせていた
叔母に対する抗議だったのか
あかの他人に迷惑はかけまいという
せめてもの気遣いだったのか
どっちなんでしょう
先日コロナ自粛で
4か月行けてなかった美容院に行ったとき
美容師さん(男性)と
この状況下で自殺しちゃう自営業者とか
出ちゃうのがイヤだよねぇ 悲しいよね
と
そんな話をしまして
女は「なんとかなるさー」と開き直って
とにもかくにも生きようとするけれど
男性はどうしてだか弱いよね~
あっさりダメだって思っちゃうよねと…
女性は騒ぎまくってヒスおこして
ギャンギャン泣きわめいたり助けてくれって
声上げて周囲に自分の話を言いまくるけれど
男性は周囲に相談しないというか
気取られないように貯めこんでしまうよね
これしかない道がないって思いやすいよね
なんて
ホントに
男脳と女脳の違いなのかもとかあれやこれや
7回忌の時には
まだ のたうち苦しみまくっていたから
どよーんと死んだところとお寺とお墓と
あっちこっち行ったり来たりだったから
ああ…
ようやっと楽になれたのかなと
良かったなって思います
次の段階に進むことが出来て
きっと
会話もできる状態に移行できたのだと
話せればいいな 話せたらいいな
キャッチしようとも
知ろうともしたわけでなく
核心めいた感覚とも少し異なるのですが
何となく今日
成仏できず彷徨ってた叔父が
あ、もう上がれたかなあ…と
そんな気がしました
そろそろ17回忌になるのかな?
もう過ぎたんだっけな
そんな歳月をあやふやにしているほど
不義理な私
普段は思い出しもしない冷たい姪なのになー
でも自殺者としては早いほうです
7回忌の法要に帰省した時には
まだ上がれていず苦しみの中にいましたので
叔父といっても
年は10歳程度しか離れていないので
兄みたいな人でした
父方の親戚のことは正直好きではなく
直接的にも間接的にも
たくさんイジワルをされましたし
今となっては交流も縁もありませんが
母方の親戚にはよくしてもらいました
母の兄弟姉妹は8人いて
母のすぐ下の弟は幼少期に亡くなっているので
実質7人で
4人(女・男・女・男)が戦前生まれ
祖父が出征してシベリア抑留から
戻ってきてからの戦後生まれが3人(女・女・男)
叔父は一番下の末弟なので
戦前生まれの兄弟姉妹たちの子である甥姪
私たちとはとても年が近かったのです
ですから叔父さんと呼んだことはなく
いつだって「〇〇お兄ちゃん」でした
学生時代は上京して我が家に居候?
下宿していましたので一年間は一緒に住みましたし
子供の頃は帰省するたびに
山に虫取りなど遊びに連れて行ってもらいました
帰省するたびに私の進学とか
共通の趣味を持ったこととか
色んなことを喜んでくれました
とはいうものの携帯もない時代でしたし
個人的に連絡を取ることはありませんでした
成人してからは母を通じてのみだけ
祖父母が亡くなってからは
私もほとんど帰省することありませんでしたし
けど
奧さんである叔母に浮気されちゃって
あげく仕事が行き詰っての金銭問題で
自死を選んじゃったんですよね
自宅のガレージでの練炭自殺でした
前日に親友さん(警察官)とお酒を飲んだそうです
けどその人も気付かなかった
その人が殺人も疑ってくれたけど
中にしっかりとガムテープの目張りありましたから
山の中とか仕事場とかそういうとこでなくて
自宅を選んだのは
葬式の場にも間男を上がらせていた
叔母に対する抗議だったのか
あかの他人に迷惑はかけまいという
せめてもの気遣いだったのか
どっちなんでしょう
先日コロナ自粛で
4か月行けてなかった美容院に行ったとき
美容師さん(男性)と
この状況下で自殺しちゃう自営業者とか
出ちゃうのがイヤだよねぇ 悲しいよね
と
そんな話をしまして
女は「なんとかなるさー」と開き直って
とにもかくにも生きようとするけれど
男性はどうしてだか弱いよね~
あっさりダメだって思っちゃうよねと…
女性は騒ぎまくってヒスおこして
ギャンギャン泣きわめいたり助けてくれって
声上げて周囲に自分の話を言いまくるけれど
男性は周囲に相談しないというか
気取られないように貯めこんでしまうよね
これしかない道がないって思いやすいよね
なんて
ホントに
男脳と女脳の違いなのかもとかあれやこれや
7回忌の時には
まだ のたうち苦しみまくっていたから
どよーんと死んだところとお寺とお墓と
あっちこっち行ったり来たりだったから
ああ…
ようやっと楽になれたのかなと
良かったなって思います
次の段階に進むことが出来て
きっと
会話もできる状態に移行できたのだと
話せればいいな 話せたらいいな
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