人を紹介するのは難しい
単純に「この人は誰々さんです」と
その人がどこの誰であるのか
名前と自分との関係を説明するくらいなら
とくに難しくもなくためらうことなど何もないが
「仕事」や「お金が絡む場」を紹介するとなると別だ
そこに信用と責任が生じるから
ここに義理とか何かそこに
人としての「情」を絡めてしまうと人の目は曇る
私もこれまでだいたいそれで失敗してきた
例えば私と類似の同業者
私よりもスキルが上の人を紹介したくても
正直な話いないので出来ない
私自身が信頼している人とか知り合いという中には
友達だから信頼したいし活動を応援したいと思っても
友人として付き合っている部分と
職業上の評価と人としての信頼はまた別物なので
今はもうお付き合いは絶えてしまったが
まだ占い師であった頃
とあるイベントで若い占い師の子と知り合った
とてもいい子で人としては好きだし共通点もある
そのような付き合いだけなら楽しくやれた
お堅い仕事の正社員から占い師に転向した彼女は
「占い師がこんなに儲からない仕事だとは思わなかった」
と言う
だが彼女がレギュラーで出演している場所は
都心では占いの仕事においてもっともお客さんの来る街
お商売というのは三か月サイクルで見ないといけないので
出演しはじめたばかりなのかと思いきや
もう1年以上経過しているのに未だリピーターは僅少
場所が悪いという理由でないことは推察できた
ではどのような鑑定をするのかと
それによっては紹介できる仕事もあるかもと
腕を見極めるべくプライベートな相談をもちかけたのだが
結論としてお金を出して見て頂きたいレベルではなかった
センスというか語彙力というか
コミュニケーションの問題がまずあるということで
さりげなくそのことを伝えるも
彼女から相談を受けたわけではないので
聞く耳のない時に伝えても…であった
その後いわゆる「すぴ」のジャンルに興味を持ち
結婚を機に旦那さんの応援もあって
ヒーリングの学校に通ってそちらの道に進んだが
やはりお客さんが来ないということで
「もうやらない」となってしまったようだ
なんていうかお前が言うなと言われそうであるが
正直なところ彼女は社会性に欠けていた
それから占いにしてもヒーラーにしても
その道に進むための明確な動機と目標がなかった
もし動機がしっかりとしてさえいれば
この仕事をするために自分に欠けている要素は何なのか
必要だが欠けている要素を埋め合わせようと学び努力し
身に着けようとしたろうし、習得も可能だったろう
言葉のキャッチボールが苦手であるならば
とてもダサいおばさんファッションを改めて
セルフプロデュースで自らのイメージを創り
言葉少なでも神秘的な神託を告げる占い師として
自己演出したならばファンもついたろう
何てたって彼女は顔立ち整った美人さんであったから
しかし
彼女はこうでありたいという自分のこだわりに固執し
周囲の言葉に耳を傾ける柔軟さを持たなかった
人間としての彼女は誠実で信頼できるし
好きな友人ではあったが
仕事の評価というのに嘘をつくことはできない
知り合いだから友達だからと
そのようなひいき目を持ちたいのは山々だが
「情」で判断することはやはりしてはならないこと
別の人の話
その人はとても教養があって霊的な知識に長けていた
その知識と素養を否定して眠らせておくのはどうよと
多方面から色んな人に言われていたようで
私もそうした知識を教えることは勧めてもいた
だけども私のような形での一対一の
対面式のカウンセリングのようなことをするには
その人はちょっと問題があると思われた
同調と共感力がもっとも欠けている人であったので
他者の気持ちに寄り添うことが出来ないのは
この仕事において致命的な欠点であるから
やる気になったのはいいけれど
欠点を表面化させずに持ち前の長所を引き出す形で
すぴ関連の仕事をするのであれば
ちょっとその方向性は違うんじゃないか
対象とする人たちをうまく篩い分けないと
と思ったりもしたがそれは余計なお節介と言うもの
求められていないアドバイスは
耳障りな騒音でしかないのだから
友人だからといって知り合いだからといって
すべてを信頼して評価できるわけではないのです
その人たちの仕事を見る時には
欲目は引っ込ませて冷静にその価値を見極めるべきで
簡単に人を紹介することは出来ないし
紹介するときにはその人の仕事における失敗も評価も
自分がひっかぶる覚悟で紹介しないといけない
それだけ責任の生じることだと…
時分のWebサイトに
知り合いのサイトのリンクを張ることも同じ
それは過去の反省からくるものだったりします
そしてこの先はまだまだ自分が甘かった時のお話
ある人の紹介で
ある場所での瞑想会に参加した時のこと
その人のことを信頼していたから
誘われて参加して
その人の長年の友達というから信頼して
(でも結局自分の目で見極めないとダメです)
紹介された人は悪い人ではないし基本的に善人で
自分にとって
既に知ってると思う知恵や世界のことであっても
他人から改めて教わったり
自分の知らない新しいことを知る機会にもなるし
それはそれで新鮮で楽しい出来事でもあった
心理的に落ち込んでいるときでもあったので
そこでの出逢いに救われた想いもあった
ある日その人がとあるセミナーを開くという
是非受けて欲しいと
聞けば価格は安くはない
断ったが人数が必要なセミナーということもあって
ぜひ受けて欲しいから料金はいらないという
そういう訳にはいかないと断っても逐一お誘いがあり
良くして頂いているという想いもあったので
そこまで仰って頂けるならと参加させて頂いた
(結局のところ最初は
無料でいいから参加してくれと言っていたが
いつの間にか「〇〇円でいいよ」になり
それが「もらえるなら。いつでもいい」になり
最終的に苦言を告げたところ
一部返金とはなったのだが)
だがいざセミナーという時
私は網膜剥離になり緊急入院することになった
といっても準備などあって数日後の入院であったが
それで断ろうとするも
「だったら余計に参加したほうがいい」と宣う
普通に考えたら網膜が剥離して医師から
「家の中でもなるべく動くな、歩くな」
と言われている人に
電車を何本も乗り継いでの移動と
朝から晩までのセミナー参加を促すなんてありえない事
もしその人が本当に常識があって
相手のことを考えてくれる人であったなら
そんなセリフは出てこないだろう
ここに観切るべき材料が提示されていたのに
バカな私は「義理」と「情」を取ってしまった
だからこれは断ればいいものの
断らなかった私の問題そのものである
そのセミナーには関西から
がん患者の方が参加していた
生きたいと望み 希望があるのなら
どんなことでも試すという想いでの参加だ
もしかしてこれを受ければ
自分は治るのかも知れない
そういう気持ちが言葉の節々に
切々と伝わってきた
新幹線で帰られるとのことで途中まで一緒だったので
二人きりになった時
体力も精神もギリギリのところにいる彼女は
「私はこのセミナーを信じてたのに
書いてあることに僅かな希望を持って参加したのに
東京に出てくるのは本当にしんどくて
それなのに…それなのに…
ひどい」
と絞り出すように小さく
声にならない悲鳴のような声で
大粒の涙を流して嗚咽した
それに対して私は自分が何を言ったのか
覚えてないのだが最後の最後に
「あなたが一緒に参加してくれてよかった」と
ギュッと握りしめてくれて
何とも言えない目で私を見つめて
固く握りしめられた手から
彼女のやるせない気持ちと様々な痛みが
たくさん流れ込んできたのを覚えてる
そしてそれが最後だった
あの時の彼女の失望感と言葉は
今も胸に刺さっている
主催者であるその人に悪気はなく
その内容は他の人にとって良いものと信じているし
自分が誰をどうやって傷つけているのか
まったく気付かない人だから難しい
けれど大人であるならば
ビジネスとしてそれをしていくなら
まして目に見える形がない商品やサービスを
提供していくのならば
何よりも顧客たる人を大切にし
お商売としての信頼関係を築いていく必要がある
相手と誠実に向き合っていくという姿勢で示して
「ここにきてよかった」
「このサービスを受けてよかった」と
いってもらえる体験そして時間を
持ってもらうために気持ちを尽くして
労わりの心を態度に出していかないと
相手はそこに何も価値を見いだせないし
目には見えない「何か」を受け取ることも出来ない
参加者としての私の感想は
言われていることが何なのかはわかるし
内容自体悪くはないのだが
やり方というか進行の問題というか
改善すべき点があるとは感じたし
ともすれば霊感商法っぽい胡散臭い
妙な馴れ合い的な雰囲気を無くしていけば
方向性としてはイイ感じにまとめられるのではと
さてそのような「やり方」をしている
私よりも年配のその人に
どうやって伝えるべきなのだろうか?
と少し考えてタイミングを待ち
「霊感商法と
間違えられるような商売をしていると
他の同業者の人にも迷惑がかかる」
などと言うようなニュアンスのことを
他のこともまじえて伝えたが
結果嫌われて終わり(笑)
まあ伝え方も良くなかったのだと思います
でもきっと正しい伝え方など無いのでしょう
この方を前にして何も言わず
この方のいないところでその人の文句を言う人
この人はそういう方がお好きらしい
私はずっと無視されているが
この人のことを陰ではバカにして揶揄する人や
「あたしのお金を返して欲しいわ」と言って
怒っているけれどそれを言わないでいる人に
「イイネ」をたくさんつけまくっている
たぶん普通こうなのだろうなと思う
みんな物事のよいところしか見たくないものだ
真実を知りたいという人はさほど多くはない
誰もかれも注意されたくはないのだろう
自分に痛いことを言う人のことはみんな嫌いで
それが口だけのおべっかでも陰口をいかに言われていても
直接的に自分を傷つけなければ人はOKで
そういう表面的な付き合いを大切にするもので
霊的成長がどうのこうの言ってはいても
成長したいと心から望んでいる人は少ないのだ
耳の痛いことは聞きたくないし
お説教や欠点を指摘されることは不愉快以外の何物でもなく
それをお節介に言ってくる人はたぶん「悪」なんだろう
そしてこのような気が付いた点について
他人にあーだこーだ言う人は支配的だ
コントロール欲求が強いと非難されてしまう
そうですね
やっぱり社会的常識をわきまえていること
挨拶がきちんとできて「ありがとう」「ごめんなさい」
を口にできる人であるか否かって
そこでその人のすべてがわかるといっても過言ではなく
基本として
それができない人とは
「すぴ」な業界の人であろうが
会社員や経営者や主婦であろうが
対等な関係性、人間関係を創るのは難しい
肩書とか能力は関係ないです
自分が間違えたときに素直に人に謝る事が出来る人なのか
口だけでなくてきちんと行動で示せる人なのか
感謝の気持ちを態度に表している人であるのか等etc...
眉唾もの見せかけのもの
信頼できる人出来ない人
仕事や自分の大事な人間関係を紹介しても
大丈夫な人かどうかは
たぶんそこだけ見て考えれば
まず間違いないんだと思います
そこがきちんとしている人は
仕事にも他人にも誠実だから
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