2019/07/03

高慢と偏見

といっても
ジョーン・オースティンの小説の話ではなく<タイトル
小説の内容ともほぼ関係ないお話です


以前の話
知り合いの呼びかけで
とあることに参加させて頂いたのだけれど
そこには普段わたしが
あまり接することのない人たちの集まりで
私からしてほぼほぼ全員初対面
それはそれで触発的な実りの多い時間だった

共通点や接点は少ないけれど
男女世代年齢関係なく
自分のジャンルではない話が聞ける機会は貴重だし
その意味で異業種交流はとても楽しい
まー別の言い方で言えば
「これが意識高い系の人たちってヤツか」と思ったり

でもその中のある女性が
明らかに私を嫌っている
・・・というか私の肩書
どうも職業がね、お気に召さないらしい

"スピリチュアル"というもの
そうした分野のものをたぶん忌み嫌っているのでせう
嫌いな分野に関しては排他的だから知る機会もないし
すべてを一括りにして考えているご様子

男性ならともかく
女性にしては珍しいかなとも思うけど
インテリジェンスな女性の中には
そういう人も少なくはないのでしょう
(でも見下し態度は教養アリとは言えませんね)

私にしてみれば
せっかく共通の人を介して知り合って
楽しい時間を共有したのだから
そこはそれ社交のひとつとして体裁は整えて欲しいトコ
出来れば友好的な関係を築きたいとは思うのです

何しろお互いのことを良く知ってから
ダメだ合わない嫌い
となってしまうのならともかく
対して話もせず職業だけで決めつけられて
嫌悪感丸出しにされるとは・・・
(別に初めてのことではないけど)

ある分野で頑張っている人なだけに
ものすごく残念だなーと思いました
相手からして第一印象もよくなかったのかもですので
それも致し方なしです


職業で判断されると言えば
私は父の職業が建築業の職人というブルーカラーでしたので
「どこの馬の骨とも言えない家の子」なんて
ご近所のお上品なマダムに言われることもありました

確かに家には父の知り合いの職人さんたち
(同じ建具職の人だけでなく左官とか大工さんとか土建屋)
いろいろ出入りしていましたから
口が悪くて酒好きでガラ悪い…ってのは
はい、良く知ってます

その手の職業の人たちを差別する考え方
この令和の時代にもありますもの
例えば都内で足立区(の人ごめんなさい)のことを
ガラの良くない地域と言うような人も少なくなくて
その理由がまあ、とある事件のせいもあるのですけど
建築業の人たちが多い町だから…みたいな
そういう意味合いでいう人も未だいるのです

そのような言い方をする人には
「私の親も中卒でガラの悪いブルーカラーなんだけど?」
と言ってしまいますが

私自身も高卒ですしね
DQの子はDQと言われれば立派にDQですよ
私の場合は電波系DQかな



さてそんな風に人には偏見というものがあります
それは無意識的なものなのか
それとも生まれ育った環境からの刷り込みなのか
親のしつけや教育によってそうなったのか
実体験からくるトラウマからなのか

まあひとえに無知からくるものだと言えましょう
単純にエゴイズムの奴隷になっているだけです

マウントと同じで
人は他人より自分の方が優位なところにいると
そう思いたいだけなんですね
自分は上級(国民?)で立派な人間で
そのご立派なご自分とやらに対し
その下に位置している
下等で低級な人間を配置したがっているだけです
そういうエゴイズムが多かれ少なかれ人には存在するのです

「アテクシは特別な人間ですのよ ヲホホ
 ワタクシたちは選ばれた人間でアナタ方とは違いますの」
という優越感にでも浸りたいのか
保守的なプライドという鎧で自分を守ろうとして
がんじがらめになってそれで幸せなんだろうか?
とは思うものの
人って自分たちが帰属するものがいつだって正しくて
それ以外のものはいつだって間違っているという
そういう区分けが大好きな生き物なんですよね


基本的には勝手に私の意志で
他人の過去生(カルマのレッスン)を視たりはしませんが
その人にそうされたとき
「ああ…この人は
 何世代もこんなことを繰り返してきたんだ」
そういうのが覗き視えてしまいました

ご立派なご身分にあったとき
下々の人たちに善意と奉仕の精神で
自分は高潔な人間だと信じて疑わず
それを使命と信じて施しをしつつ
そのくせ身分や出生によって人を区別し
卑しい人たちとレッテルをはった人たちを排斥し
自分たちの利権やテリトリーを守ることに一生懸命で

今もこの人はちっとも変わっていないのだな
そうした考えの貧しさを捨てることが出来たのなら
この人はもっともっと成長して今の分野で輝けるのに

そう思いつつ


別に彼女にとって
"スピリチュアル"なサービスは必要でなく
知識も必要なものではないのでしょう
けれどそのようなものから学ばずとも
謙虚さを身に着けていればおのずと
すべての人は同等であり
すべての人から私達は学ぶことが出来る存在で
本当の教養や上品さが何であるのか
それらを学ぶことは出来ます

人を教条しようとすることに熱心な人が
食わず嫌いからくる偏見で
一部を盲信して他人を排他的に扱い
個人的な感情を隠さずに不快感を持った相手に対して
コミュニケーションを拒絶する態度は
なんとも頂けないなあ・・・なんて思った次第

今回の人生では足りないかも知れないけど
ほんの少しでも早く
自分という人間の枠を狭め
人生を制限してしまっている偏見から
その方が卒業できるといいなあ、と思ったり


そうですね
「受け入れない」ということはそういうことなんですよね

意見の違いや個性の違い、価値観の違いはあって当然で
誰かに迎合することなく他人を批判することもなく
ディスカッション出来るのが理想ではあるけれど
コミュニケーションを取らないというのは
自分とは生き方や意見の異なる人を
自分の人生や視野から廃除するというのは
自分自身の生き方をも否定して排除するということで
自分の世界を狭くするだけで
自分の人生に必要な経験や気づきやヒント
そして学びなどすべて成長する機会を奪ってしまう
実にもったいないことだと思います

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