2016/02/29

贖罪と受容~赦すこと赦されること(番外編)

(上)(中)を書くのに一年以上かかって、
ようやく書いたものの、最後まで書くのに
途中また間が空いてしまいました。

私の中で現在進行中の葛藤を抱えている、
とても重いテーマなので、筆もなかなか進まず、
あれやこれや問答し、どう書くべきかと・・・
ずっとずっ悩み続けて今に至ってしまった次第です。

このテーマで書き出したこと、
書きたいことを書くためには・・・
どうしても避けては通れない自分の問題があるなと。
まず、先にこのことを吐き出しておかないことには、
本題を締めくくることが出来ないと思い、
(下)よりも番外編を先に書くことにしました。

でないと、(下)書けないなあ・・・と。

これを書くと傷つく人がいるのは承知しているけれども、
いつか乗り超えないと、ここを通らないと・・・
私自身も彼女自身も未来へと進めないのだろう。

しっかり見つめて、ホンネを吐き出さないことには、
先には行けないのだと痛感したので。

何故って、何よりも私自身の気持ち(本心)や
被害者側の置かれた立場や気持ちを
誤って解釈されてしまっているので。

拒絶していないからって、
全面的に受け入れているわけじゃない。

罪を憎んで人を憎まずとも言うけれど・・・
そうしたいのはやまやまなれど、言うはやすしで、
ことはそんなに簡単じゃない。

「生まれる前のことだし、過去のことなんだから忘れましょ」
なんて単純に割り切れるものじゃない。

人を赦す赦さないなんて、
そんなに簡単に出来ることではないのだから。



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テレビの時代劇・・・例えば
「水戸黄門」のように勧善懲悪の物語で、
悪人が罰せられるのを見て、爽快に思う人は多い。

私も「必殺仕掛人」「必殺仕置人」などの
「必殺シリーズ」が大好きで、
弱い立場のものたちが理不尽な運命に弄ばれ、
虫けらのように殺されて、遺されたものが、
自らの命と引き換えに金銭を作り、
「敵を取って」と無念を託すシーンなどに、
やたら我がことのように感情移入して号泣したもので、
「子連れ狼」の中でも、
底辺の生活を強いられているものたちの
哀しみや境遇を思って、ダメージを受けたりとか。

とくに「復讐」リベンジものには、のめり込んでしまい、
虚構と現実の境界線の区別がつかなくなるほど。


男性に対して、ものすごい怒りを抱いていることに
気が付いたのはいつだったろう。

自分は男嫌いなのかなあ?・・・というくらいに
最初は思っていたのだけれど、
幼馴染は男の子たちだったし、初恋も普通にあった。

でも、そんな風に男の子に交じって、
彼らを友とし仲間として遊ぶ自分とは別に、
世の中に存在する男性という存在、その「性」を軽蔑して、
憎悪している自分もいることにいつしか気づくこととなった。

何をされたか・・・ということもないのに。

友人が痴漢にあったとき、
そのまた友人の友人がレイプされて自殺したとき、
憎悪はピークになり、女性に対してそのようなことをする
すべての男性の股間を散弾銃で討ちぬいてやりたいと、
それをしないと気が済まないと思うくらいに、
自分の中の「夜叉」が激しい怒りの炎をたぎらせて、
目覚めていくとばかりにどんどん大きくなっていった。

もちろん、それだけでなくて、日々の事、
親との関係や様々な出来事からの累積していく
理不尽なことへの憤りなども大きかったけれど。


それはまるで自分の中にいる「怪物」が、
冬眠しながらも少しずつ養分を取って成長し、
耳だけは聞き耳を立て、様々な怒りを吸収して、
いつか爆発する日を待つように・・・。


それでも男友達はいたし、恋愛もしていたから、
それはしごく一部の、
特定の男性や世のニュースに対してだけの
特殊で過激な反応であったように思う。



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さて、縁というものは奇妙なものである。
今の仕事をする以前にも、
過去生のご縁ある人物とは何人か出会ってはいるし、
仕事を始めてからもそれはそう。

自分の兄姉弟妹だった人、母親だった人、
子供だったり、友人だったり、仲間だったり、
魔女裁判において私を嘘の告発で陥れた人とも。
(相手は急にトランス状態になり謝罪してきた)


それに気づいたり思い出した人ならともかく、
いちいち相手にそれをいう必要はないと思うし、
だから何?という問題でもあるので、
私自身、過去生でどんな関係性であったか、
ということに縛られないようにしている。
今の関係とそれは別のものなので。

けれども、時にそれは
無視することの出来ないものであるというのも知った。

それが今に続く葛藤である。


その人の施療をすることになったとき、
深い考えも感情的反応もとくになかった。


クライアントさんと接するときはフラットな状態を保つべきで、
個人としての私(人格や私情)は脇に置くものと心得、
個人的感想も感情も一切合切持ってはならず、
あくまで「道具」と成りきって、
人間でありながら人間ではない単なる「存在」として、
メッセージを伝えるなり、その都度出来ることに徹する。
・・・というように、いかに「自我」を捨てるかが大事なので。

しかし、であるのにも関わらず、どうしても施療の度ごと、
その人に使用したリネンを捨てたい衝動に駆られた。
汚れもののごとく、まっさきに洗濯機に放り込み、
即座に洗わずにはいられなかった。
まるでそのリネン類が不浄のものになってしまったかのように。

私がしているサービスにおいて施療をするとき、
ベッドに横になって頂くのだが、
衣類を着たままに受けてもらうこともあって、
当日なら、いちいちシーツや毛布を変えたりはしない。
(顔にかけるタオルなどは別だけれども)

なのにその方・・・に関してだけは、
その人が触れたもの、すべてを熱湯消毒するような勢いで、
すべて洗わずにはいられなかった。
もちろん、私自身の手も、何度も何度も念入りに洗った。

本来、それほど潔癖症ではなく、
客商売だから整理整頓、清潔は心がけるものの、
そこまで徹底して、神経質になることはないというのに。

別にその人が不潔ということはない。
独特の体臭はあるが、臭いというのではないし、
衣類や身体上にも問題はない。

そして、その人が私にと気配りで持ってきてくれる、
ブログで私が好きだと書いた果物を
私はどうしても食することができなかった。
本当に好きなものだし、昭和の「もったいない」教育から、
食べ物を無駄にし、捨てることに何よりも罪悪感がある私だが、
せっかくの気持ちもあるし、「食べなければ」と思いつつ、
何故か激しい拒絶反応が出てしまい、
冷蔵庫に入れたまま、触ることも出来ず、
何度も食べよう、食べようとするものの、
どうしても食べることが出来ず、そのまま腐らせてしまう。
このこともどうしてもしんどくて、辛かった。
他の人が持ってきてくれたものは平気なのに、
その人が持ってきてくれたというだけで、
その食べ物を見ると苦しくて、苦しくて、どうにもダメで。


最初は自分のこの抑えきれない衝動的な反応、
無意識でしてしまう行動の意味が、分からなかった。

もしかして、これは私の中にある、
「差別意識」なのだろうか・・・?

当初はそのことで随分悩んだし、自分を責めた。

でも、自分には障害を持ついとこ達がいて、
彼らに対してそのような気持ちを持ったことはないし、
むしろ自分はたまたまそうではなかっただけで、
自分もそうなる可能性があった側だという自覚もあった。


では、自分のこの反応は何なのだろう?
この無意識的な行動は
いったい何処からきているのだろう?


玄関先に敷いたマットは、
東急ハンズで見かけたとき、気に入って購入したものだ。
自分が憧れている、理想の家を思い起こさせるので。
けれど、それが
その人の○椅○によって傷がつけられてしまったとき、
自分の「夢」や「憧れの未来」まで、
同時に踏みにじられてしまったように感じて、泣いた。
怒りと悲しみがたくさん出てきて、どうしようもなかった。



そんな風に、考えよりも先に自分の体が、
そして心が色んな意味で反応していた。
それをよく理解して、思い出さないうちに。

それだけのことだった。


理由のない感情的反応も怒りもないのだと、それだけだ。

たぶん、その反応こそがすべての理由だった。




自分が何をされたのか・・・

過去にどんなことが起きたのか、

思い出したら、すべて合点がいく。


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でも、その人はそのことを思い出しているわけではない。

私に会う前に、
自分にとって汚点だと考えられる過去のひとつを
自ら思い出してはいるものの、その過去の中に私の存在はない。


自分を過去において、裏切ったり、殺したり、
理不尽かつ非道な目に遭わせた相手に出会った時、
どうしたらいいというのか・・・。

どう感情を処理すべきなのか・・・


答えは今も見つからない。

例えば犯罪被害者でもある、
心理カウンセラーやセラピストが、
ある日、加害者もしくは加害者家族が
被験者として現れたとき、どう対応すべきか、
そんな問題に近いかもしれない。
いやさ、その場合は自分は適合者ではないとして、
別のカウンセラーを紹介して、断ればよしという話だろう。



それに問題は、今の人生で起きたことではない。

前世など、夢物語、妄想と片づければそれまで。
狂人のたわごとのようなものだ。
言いがかりでしかなく、科学的に証明することも出来ない。

当たり前の話だが、
法的な拘束力なぞ、制裁など出来ようもない。

それに誰よりも私自身が、
この記憶が真実なのか、自分のものであるのか、
勝手に頭の中で自作自演で作られた創作物語なのか、
何がなんだか未だに分からない。
立証なんて何一つ出来る手立ては持っていない。


本当に、「だからどうした?」という話である。

互いに生まれ変わって、きれいさっぱり忘れて、
新しい肉体、別の性別を持っていたりもする。

でも、激しい「怒り」と「憎悪」と、恐怖の感情、
相手に仕返ししてやりたいと、その想いだけは残ってる。




それでも相手がきれいさっぱり忘れている時には、
まったく何も思い出さないでいる時分には、
直前の人生(前世)を自主的に思い出し、
深い悔恨と懺悔の気持ちを抱いているように話すその人のことを、
「人に謝罪し、反省する気持ち」があるのならと、
あくまで一人のクライアントとして、
生き方を改めて、自分を変えていくサポートを全力でしようと、
そうも思えたのだけれども・・・

もちろん、私に対して自分が何をしてきたのか、
私が伝えたわけでなく、思い出してくれた時も、
その涙の中に、反省や後悔や色々なものがあるのだと、
信じたかったし、大切なのは今の人生であり、
これからその人がどんな人になっていくかなので、
そこはそれ、切り離していくべきだし、
そうしてきたつもりでもあった。

でも、ふと・・・

私自身の過去の修羅のような想いや、
他の被害者たちの意識にリンクして引きずられてしまい、
普段は抑えていられるものの、
ふとした時に、ドス黒い染みのような感情が広がって、
首を絞めたくなってしまったり、
冷淡でイジワルな考えが頭に浮かんでしまうことはある。



なんで
あなたはのうのうと生きているの?

あなたに殺された人たち、
幸せを壊されて、
人生を、命を奪われて、
愛するものを奪われて、
その哀しみ、傷や痛手をみんな引き摺って、
その後の人生も狂わされて、
あの苦しみから、悪夢から逃れられずに、
人生を狂わされ続けている人が多いというのに

なんであなたは笑ってるの?
笑ってられるの?

男性恐怖症になったり、
Sexの問題でパートナーを傷つけてしまったり、
自分のせいで相手が不幸になってしまうと、
本当に好きな人からは逃げてしまう人とか・・・
たくさんたくさんいるのに・・・

どうして国からお金もらって、
あちこちで優遇されて、
働かずに生きていけて、
好きなところ行きたいところにも行けて、
人生楽しんで生きてるの?

みんなまだ苦しんでいるのに

何が○○者の権利? 人並みに生きる?
笑わせないでよ

自分たちを差別するな、人並みに扱えっていうけど、
単なるクレーマーじゃない

自分がしたことを思い出してなお、
どうしてそんなこと言えるの?

自分の犯した罪のことなんて、全然判ってないじゃない

あなたのせいでどれだけの人が命を落としたのか、
本当にわかってるの?

自分が助かりたいからって、命が惜しいからって、
同じユダヤ人の仲間を、ドイツ人に媚びへつらって、
売り渡して、何人の人をガス室送りにしたの?
同じ仲間を・・・友人を、隣人を!

その罪だけじゃないでしょう?
それだけなら人は弱いものだから致し方ないけれども・・・
何度同じこと繰り返してるの?

欲望のままに奪って、殺して、人の命をゴミみたいに。


あなた当時は刑務所にさえ服役してないじゃない?

何も罪を償ってないし、反省なんか
まったくしてないじゃないの!!



・・・って、

そんな風に怒りがわいてきて、

階段から突き落として、ヒールで顔を踏みつけて、
金属バットで何回でも殴打し、爪という爪の中に針を指し、
意識があるまま、全身を細切れになるまで、
それこそ細胞単位になるまで細かく刻みたくなる。

横蹴りくらわして、エルボークラッシュ入れて、
ローリングサンダーでぶっとばし、
ギャラクティカマグナムぶっこむとか、

口の中にゴキブリ入れて、なおかつ、
虫という虫、あらゆる気色の悪い虫を入れた穴に
閉じ込めてやりたいとか、

ヤツメウナギやお尻の穴から入って身体を食い荒らす
アマゾンの海にいるナントカって生き物のいる水槽に
突き落としたくなったり、

いくらでも酷い拷問の方法が思い浮かんでしまう。


そんな自分がすごいイヤだな、とも思う。
けれど認めなくてはいけないこと。
それほどの怒りを憎しみを抱えて、
いくつもの夜を乗り越え、今生に至るまでの人生を生きてきたし、
また、この憤怒の感情は、私だけのものではないのだと。
霊媒としての私が、様々な被害者と繋がって、
感応して受け止めている皆の想いでもあるのだと。


彼女に命を奪われたのは、
私だけではないし、私の関係者だけでもない。
他のクライアントさんで彼女の被害者だった人も数人いる。


古いもの、新しいもの・・・たくさんたくさんの
彼女に対して憤りを抱いているグループエレメンタルがいる。

でも、本人が罪悪感を抱かない限り、
罪が「カルマ」になることはなく、
彼女を憎むグループエレメンタルの攻撃を受けることもない。

では、因果応報ってなんだろう?

罪を犯したものが、その罰を受けず、
裁かれることもなく、すべてを忘れて、
新しい人生を謳歌できるとしたならば・・・

すべての被害者たち、人生を狂わされ、
理不尽で屈辱的な末路を味わされたものは、
この沸々として煮えくり返る腸を、おさまらぬ怒りを、
どうすればいいというのだろう?

何故自分たちはこんな目にあったというのに、
こんな目に遭わされたほうは
幾世にもわたって、その苦しみから逃れられのに、
こんな目に遭わせた当の本人は、
相変わらず我儘で、他人のことなど考えず、
自分の意見や気持ちばかり周囲に押し付けて、
何一つ顧みらず、好き放題に生きている。

これをどう納得すればいいというのか?

これでは、失われた命、
被害者となった人々の想いは報われないではないか。


まして、
死んだ人々が、自分のために犠牲になって下さった、
みたいな・・・
スピリチュアリズムの、グノーシスの教義を曲解して、
自分に都合のよいように解釈していて、
相変わらず、他人の命や人生を軽んじて、
自分本位な考え方が一切改まっていないことを
知ってしまった日には・・・



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その昔いらしたクライアントさんで、
猟奇的な連続殺人事件の被害者の一人だったのだな、
という過去を持つ人がいた。

たぶん、国はアメリカ。
深夜の山か森の中、明かりの無いところ、
恐怖でひきつった顔の若い白人女性、
身体を傷だらけになりながら身を隠れるところを探し、
犯人から何とか逃げようとするも結局・・・

というまるで人間狩りのシーンを見させられたかな。


もちろん、言わなかった。
受け止めるにはちょっとキツイし、
何よりも知るべき時期でも必要な情報でもなかった。
今が幸せなら、そんな情報いらないし。

ただ、その人生での親御さんや関係者は
今でも苦しんでいるのだろう。

ちゃんと日本に生まれ変わって、
幸せな人生を今度は生きてますよ、
と伝えてあげたいけど。


うん。子供を亡くした親の気持ちはイヤというほどわかる。
今の人生では子供はいないけど。

変わり果てた我が子の姿を見させられるほど、
親に取っての悪夢もそれ以上の地獄もない。

我がことならいざ知らず、
愛するもの、子供を奪われた親の悲しみは計り知れない。

病気や事故やケガなど、そのような事由での死も
受け入れがたく、同じ哀しみには違いないけど、

人に殺されるがために
我が子を産み育てる親がどこにいようか。

なんでこのような、惨い殺し方をされねばならぬのか、
こんな酷い目に、酷い姿にするために、
慈しんで、今まで育ててきたわけではないというのに。


愛し子の、「人でない」原型を留めぬ姿を見たとき、
声にならない叫びと嗚咽と、これは夢に違いないと、
息を吸うことさえも拒絶したくなるような、
耐えがたい苦しみにただもう、崩れ落ちるしかない。



だから。。。


FBI捜査官シリーズやプロファイリングものが好きで、
せっかく多少なりとも、サイキカルな能力があるのなら、
今生では無理でも、それを伸ばすことが出来たら、
サイコメトラーになって、行方不明者の捜索や
犯人逮捕や未解決事件の解決に尽力したいなあ。。。
そして遺族のものに見つからない遺体を返してあげたいと、
ずっと思ってた。


そして、同時になぜ人は人を殺すのか?

猟奇的殺人者などのサイコパスの心理、
なぜ彼彼女らのような人間が、この世に存在するのか、
どうしてこのような悪魔が生まれてしまうのか・・・

ずっと疑問に思ってた。


私自身が、何百回、何百万回も殺しても飽きたらない、
地獄の果てまでも追いかけて、何度でも殺してやるって、
私自身もそして愛する人々をも酷い目にあわされた、
そんな憎い相手がいて、


たぶんその尽き果てぬ憎しみが今生に縁を創ったのだと思う。



あれほどまでに憎んだ、
私の命を何度となく奪い、娘の命をも奪った相手が、
私の前で自主的に自分の過去を思い出して語ったとき・・・

「ああ、この人は
あの時の恐ろしい大男ではなくて、
今は小柄な女性で、身体の自由もきかなくて、
何の力もない、小さき人なんだ。
恐れる必要はない。
一緒にいたって、何かされることもない」

そんな虚脱感を覚えた。


10年前の自分だったら、
「復讐」をしたくてたまらなかったろう。


でも、この人を・・・生まれ変わった相手を殺しても、
私の人生が取り戻せるわけではないし、
死んでいった人々がすべて生き返るわけではない。
私が失ったもの、当時の自分、愛する人、人生、
大切だったもの、宝物のような時間、
幸せが戻ってくるわけじゃない。

何も取り戻せないし、取り返せない。

あの時間はもう二度と帰ってこない。


失ったものは何一つ、帰ってこないのだ。


人生は取り戻せないし、時間も戻らない。

終わった人生は終わった人生でしかない。

報われるものなど何もない。


よしんば、仕返しをしたり、殺すことが出来たとしても、
なんでこの人のために今度は私が
「人殺し」という咎を背負わねばならぬのか。
相手と同じところに堕ちたくないし、
そんなことをした自分が私は私でとても許せないだろう。


少なくとも、あの苦しい経験を、人生を味わってきたから、
私は人の痛みや苦しみが分かる人間になってきたろうし、
今の人生では経験していないことも想像できる。

他人の過去生の中にある、
深い哀しみや憤りや、恐ろしい体験も
受け止める土台にはなっているとも思う。


多少なりとも、その経験や感情が、
今の仕事には役に立っているわけで。


そんな風に考えないと自分が救われないのだが。


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そんなに辛いのに、
自分がしんどいだけなのに、どうして断らないのか?

自分でも何故?とそう思う。

受け入れていること自体が偽善なのだと思う。

もしかしたら、
相手を寛容に受け入れている私ってエライ、
みたいなスピリチュアルナルシズム、エゴイズムに
酔っているだけなのかも知れない。


でも、相手を赦しているか?

と言われると、そうではない。

はっきりいって、「赦してはいない」

ていうか、
相手を赦すことができない自分を、赦すことが最近ようやくできた。

「ああ、別に赦さなくてもいいんだ」と思ったら楽になった。

相手を受け入れられない、赦すことのできない自分を
ずっとずっと責め続けてきたので。

赦せなくても仕方ない。過去の自分はまだ怒っている。
それはそれで仕方ない。
今の私とは別人格であり、別の人生なのだから。


私の背中には、彼女に対して未だに憤りを解いてはいない、
被害者たちの意識(グループエレメンタル)があるわけだが、

だからと言って、被害者の会代表として、
その人の見張りだとも、裁く権利がある側だとも思ってはいない。


ただ・・・

もう二度と、私のような思いをする人を増やしたくない。

二度とあんな目に遭う人を作りたくない。

誰にも、あのような辛い思い、
地獄を這いずるような苦しみを与えたくない。


それだけだ。

相手に罪を犯させくない・・・というのではない。

自分が流した血の涙を、
もう二度と誰にも、流して欲しくはない。
あんな思いをさせたくない。

二度と自分と同じような目に遭う被害者を出したくない。


そんな想いしかない。

まぁ。。。毒親に育てられてあれやこれや修羅場を経験して、
その問題を乗り越えるために随分と長い年月を費やして、
自分と向き合って、親のことを可哀想な人たちだと、
そう思える着地点に行きつけたからこそ、なんだとも思う。
その経験が、感情的経緯がなければ、
過去生の感情に怨念とも言えるべき、増悪の心に、
どっぷり浸かって、支配されてしまっていたかも知れない。

それでも時々、二年前に切り離すことが出来た、
般若のような・・・鬼の心の塊が顔を覗かせることがあるよ。

相手の中に過去を反省する心や態度が、
まったく見られないときとか、
人として成長していないというか・・・
過去の・・・罪を犯したときの当時の人格を彷彿とさせる
発言や行動をとられたときなんかは、どうしても。



最初は相手を変えたいと・・・
人の「こころ」を信じていたけれども。

やはり「変えたい」とか「更生させたい」とかは、
個人のエゴイズムで、傲慢な目線。
人はなかなか変わらないし、
変えようと思うのがそもそも無理。

人を変えることなんて出来ないんだよね。



どんなに真摯に向き合って、何千回言葉を使っても、
「こころ」を伝えようとしても、
理解できないものは理解できないわけで、
理解してくれることを期待しても無駄なだけ。
今更ながら、思い知らされる。

いやさ、「教えよう」なんてのが、そもそも
おのれの自惚れで傲慢さなのだと、
気づかされたというのが結果なのかな。

たぶん私も最初から「愛」がないというのに、
それを妙な「正義感」と「義務感」にすり替えていたのかも知れない。

やっぱ「愛」がそこにないと、双方のためにはならないし。



だから本当に過去生は忘れていたほうがいいもので、
別に思い出さなくてもいいこと。

忘れているのっていうのは、思い出せないっていうのは、
慈悲なんですよ、って改めて声を大にしていいたい。


例えば、自分が生んだ子が、
過去生で連続殺人犯だとかレイプ魔だったとか、
そんなのの生まれ変わりだって知ったら、
どんな母親だってお乳を吸われたくもないし、
育てるのが怖くなってしまうだろう。

そうした事実を受け止めて、
過去の感情に流されないで出会えるほどのレベルに、
精神の成熟度が到達していたなら、問題はないけれど。

私だって、精神はちいとも成熟してないのにね。

だから、すごーく重荷でとてもしんどいことなんですよ。


2 件のコメント:

  1. アルマさんの文章を読んで受け取るものの大きさや深さのわりに、自分のスキル不足で陳腐な言葉しか出せないことが残念でなりませんが、こういう記事を書いて発信してくださることがとてもありがたいです。私は、ルシファーのイデアとか、わかることが出来るなら分かりたいけれど、正直難しいし、全くわからないです。そういう存在は無ければいいとさえ思ってしまいます。でも、宇宙というか、法則というか、真理は私に理解される義理はないのですよね。私がわかりたいと憧れを抱いているだけですからね。小さいながら真理を求める者としてアルマさんのような方がいてくださること、記し分かち合ってくださること、私の中にかけがえのない軌跡として残っています。感謝です。ありがとうございます。

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  2. こんぱんは。コメントありがとうございます。そしてレスポンスが遅くなってしまってすみません。とても重い、読む人にはヘビーな内容だと思うのですが、そのように仰って頂ける方がいるということで、かなり書くのに勇気がいった内容でしたが、思い切ってブログに書いてよかったと思います。こちらこそ忌憚ない感想をありがとうございます。とても難しいテーマで一口には言えず、賛否両論色んな意見が分かれるテーマでもあると思うのです。私がこのように文章に書き起こしたことで傷つく人もいたでしょうし、不快に思った方もいたと思います。善と悪の問題は理屈でも感情でも簡単に割り切れるものではないし、立場が違えば主張(主観)も視方も痛みも異なるので、そのどちらの立場も理解したいとは思うものの、経験しないと理解しがたいことであり、何ともって感じです。

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