私のゲーム経験といえば
その昔にアーケードゲームやファミコンに興じて
最近ではPC上でのダウンロードゲーム(海外の)に
はまってたことがあるくらい
それも目の問題もあってやらなくなってしまった
もともとオンラインはやらないし
プレステとかwiiとかわざわざ買ってはやらないタイプ
(はまると抜け出せなくなるのがわかっていたので)
前置きはさておき 海外の翻訳掲示板によると
鎌倉時代の「元寇」を題材にした和風アクションゲーム
「ゴースト・オブ・ツシマ」というものが
たいそう評判がいいらしくその話題で持ちきり
なんでもグラフィックが素晴らしいのだとか
最初「ツシマ」を「津島」と脳内変換していたので
津島の亡霊?って何? 津島家という戦国大名が主役?
と勘違いしていたのだが「対馬」のことだったのね
とはいうもののこのビジュアルつかアート
鎌倉時代ちゃうやん 完全に戦国時代やん
つくづく侍のイメージって戦国時代なんだな
鎌倉武士の格好じゃないよ〜ってば思うけども
そういうツッコミは歴史家にまかせることにして
元寇にまつわる過去生の問題
この場合
宿業といってもいいレッスンを背負っている人が
そういえばいたなあ・・・と思い出しました
神風(単なる台風)の由来でおなじみ「元寇」
「元朝」といえば
チンギスハンの孫クビライが開祖のモンゴル帝国
それが鎌倉時代に二度ほど日本に攻めてきた
当然ながら歴史の教科書で学びました<蒙古襲来
今の中国が抱く野望のごとく領土を広げて広げて
周辺諸国を侵略し属国化し東アジアと北アジアまで
西から東へと膨張しまくった征服王朝ですね
中国の歴史だと唐そして隋 五代十国を経て
南宋・金と明の間の時代に位置する国
そして唐以来の統一王朝のこと
(確か宋の時代くらいまでは日本の友好国だったかと)
元寇の背景や蘊蓄はさておき
その方・・・は
元側の兵士(司令官)として
博多湾にて亡くなられた人生を持つ方でした
実のところ
うちの生徒さんであった人ではあるものの
個人セッションでの過去生ヒーリングとか
解放ワークなどの過程において
知り得た情報というのではないので
文永の役か弘安の役のどっちであったのか
そこまでは見てないしわからないのですが
そして元側の司令官と言っても
モンゴル人というのではなく
属国である高麗の軍人さんだったのですね
だから本来 元の国の人間ではなく
元に侵略された側の人間ですから
元という国に対して愛国心はもちろんのこと
義理とか思い入れとかそういうのはないわけです
でも元の国の軍人そして代表として
日本を侵略しなくてはいけない
交渉が決裂した以上
戦を仕掛けて日本を打ち負かし征服する
乗り気でなくても
それをしないといけないわけです<立場上
ていうかある意味根っからの軍人で
任務であり仕事として
それを機械的に考えていたのでしょう
でもってそれは出来るって
さほど難しくないことだってそう思っていたのかなあ
少なくともこの方の過去生であるその男性は
そう鷹を括っていたみたいです<日本攻略
また乗り気ではない戦ではあるものの
戦うことに対して疑問ももたれてはいなかった
戦によって自分方にも相手方にも死者が出ること
自分の部下が 民間人が命を落とすという現実に対して
あまり感情を動かされないというのかな
まるでそれを将棋の上の駒のように考えていて
単なる兵力・戦力として
そんな風に戦の場における人間のことを
数字の上での数としてしか
カウントしていない人だったんですね
だからもちろん負傷して離脱する部下にも冷淡で
助かる命に手を差し伸べようともせず
戦力外であるのか戦力内であるのか
まだ"使える"兵力であるのか否かでしか
命のことを捉えられず図ること能わず
けれど軍人としてはそういう人の方が優秀なのかな
戦闘に勝つという目的がある以上
人情を持たず非情に徹せられる人の方が
有利なのでしょうか よくわかりませんけれど
とはいうものの
そういう方は上には受けはいいのでしょうが
部下にはまず慕われません
結果として この蒙古襲来は
神風という名の台風があったこと
自然災害によって元軍が壊滅的な被害を受けたことで
元側が撤退し敗北 日本の勝利?に終わりました
さてこの方のカルマというのは
この元寇における敗北のトラウマではありません
たまたまそれが元寇であったというだけで
この方の軍人としてのあり方というか姿勢
他者(部下や民間人)に対する扱い
命に対する考え方や態度などにありました
なんで自分たちが自分のたちの国でもない
自分たちを侵略した国のために表立って
最前線で戦わないといけない?
彼の部下も同僚もはてまた上司たる国のトップも
みんなそう考えていた戦です
いやいや戦闘に参加したものがほとんど
それでもやらなくちゃいけない
日本に対して戦をする理由も本来はないというのに
自分たちを侵略した国のために
仕掛けたくもない戦を仕掛けないといけない
逃げることも逆らうことも出来ない
そんなやるせない戦でまとまりもない連合軍の中
互いの胸のうちをわかりあいながら
なるべく自軍の犠牲者が少ない方向で
体裁だけの戦をすればいいと脱力していた
高麗の兵士も多かった中
司令官という立場にある彼は違っていたのです
全力でことにあたり 本気で立ち向かえと
傷ついた同胞を見捨て 土地を荒らし
勝ち戦に出ようとする彼に対して
「やりたくもない戦に巻き込みやがって!!」
「生きて帰りたかったのに」
「お前がもっとうまく立ち回ってくれてたなら」
というような怒りの矛先が
反発心とともに向いてしまい
それが恨みの念へと変わってしまったのです
この方のカルマは
「一人ひとりの命を軽んじてしまったこと」
部下の想いを 自国民の想いを理解しなかったこと
戦に参加したことが罪なのではないのです
部下を死なせてしまったことが罪でもないのです
もとより戦自体はこの人のせいではないし
戦に巻き込まれたこと自体 各自のカルマですし
時代のせいでもあります
殺人が合法化される
戦争という非人道的な行為の場においては
敵を何人殺したかが英雄視される場においては
どのような立場であったかではなく
どのような気持ちや目線でその仕事をしたか
が問題になるのです
このあたり先日のブログの内容と
対比する内容というか関連するとこですね
カルマになることないことというのには
「そこに愛はあるのかい?」と言う問いが
常に付き纏うけれども
共に闘う同志や仲間としての
同じ国の人間としての彼らへの想い
彼らへの命への哀惜の念があれば
違っていたのです
この場合
理由なくして戦わねばならない日本人に対してもそう
自国民たる高麗だけでなく元に侵略されて
ともに戦わされている他国の人間に対しても
一人ひとりが異なる性格や人生を持つ個別の人間で
命を持っていること その重みを理解し
そこを考えることのできる人であったならば
怒りや恨みを買うことはなかったでしょう
というのも
そうした集合体無意識の怨恨の念が
この方のその後の人生(幾多もの転生先)に
そして今生の人生に暗い影を落としていたからです
ちなみにこの人はそれ以前
奈良時代に日本人であったとき
蘇我氏の一族として日本に仏教をもたらした
功徳ある人であったのですが(聖徳太子には非ず)
そうした縁 善行でも庇いきれない影でありました
まあなんでそんな過去の人生がわかったかというと
この方がとある集団とともに
今生でかの地に行く機会があり
当時の彼らを恨むグループエレメンタルたちに
「殺してやる」とばかりに
襲われたからなんですね
すなわち「対馬の亡霊」というよりは
「博多湾の亡霊」に襲われたと・・・
いやさ対馬や隠岐の亡霊も含まれてたでしょうが
日本側の被害者というよりは
自国(高麗)の兵士たちの怨念でできた
グループエレメンタルでしたので
幸い力を持った能力者さんがいたので
最悪のパターンは避けられましたれども
(私は個人のカルマのレッスンを知り得て
この問題についてどんなふうに考えるべきか
彼らの無念に対してどのような姿勢で応えるべきか等
当人が気づくべき学びなどを伝えることは出来ますが
こんな強大なグループエレメンタル
土地に染み付いた怨念の塊と対峙して
それらをどうこうするってそんな力は持ってないっす)
ていいますか
この方が過去に人として未成熟な人であったとしても
今生に至るまでに成長し心を育んでいたならば
今の人生で他人を大事にできる人になっていたならば
そのようなことも起こらなかったというのもあります
彼らの怒りをそこまでは買わなかったというのかな
心で反省もせず 知ろうともせず
災厄だけを免れようとして形だけのことをして
大切なことを相変わらずおざなりなことをしているから
恨みは解けないのだけれども
耳を傾けない 理解しない人にとっては
同じ経験を繰り返し体験して
体で 痛みとして何度も味わうしかないのでしょう
そんな風に私たちは過去自ら犯した罪からも
今の自分の成長度合いを見られてもいるのです
(ちょっと脅すような書き方ですねっっ汗)
他人(集団)から怨まれるっていうのは
こういうことなんです
その人生というよりその後の人生つまり
来世で人生を疎外し邪魔する禍の種を作るってこと
そして九州北部で起きたこととはいえ
九州各所の豪族や武家も国防に参加しているので
もしかして
うちのご先祖様も参加?
とも思ったけど
北条の世になったとはいえ
鎌倉時代じゃまだ出自隠して
息を潜めてただろうから
まず行ってないであろう
2020/07/29
2020/07/28
任務遂行と人情の狭間で
コロナ禍からのこの世相で
集合体意識としてのグループエレメンタルは勿論のこと
どうしても過去の未消化な想念(エレメンタル)が
刺激されてざわざわしてしまう人はいるだろうなと
そう思ってたわりには
そのような相談が持ち込まれることなかったんですけど
この時期になって身近なところで
過去の傷口が開いてしまった方がいたのでした
定期的にレッスンに来て下さっている生徒さん
自粛期間中はずっと
ビデオ通話でのリモートレッスンだったのですが
数か月ぶりの対面にて
なんか胸のあたりがちょっともやもやするとのことで
チャクラのチェック及びクリアニングでもという話に
とはいうものの
私は誘導に徹してのほぼセルフヒーリング
(手抜き? いやさレッスンですもん←言い訳か)
疼いていた傷は第4チャクラにありました
ペストが流行っていた中世において
患者の出た町や村の人たちを閉鎖隔離し
死にかけた人々 罹患した人々を
まとめて"処理"する
いわゆる国側のお仕事をしていた時の記憶
医師ではなく 兵士といいましょうか
現代でいうと警察とか役人とかそんな職務で
彼だったその人が
ことに当たらなければならなくなった
すなわち処理しなければならなかった
その村のこと人々のことを彼はよく知っていました
よく見知った人たち
そのような不測の事態が起きなければ
職業柄決して近い距離ではなく
とくに親しくしていたわけではないけれど
普通に何か有事の際や機会あった時には
挨拶や世間話を交わす関係性だったわけです
でも命令となれば 任務であるならば
黒い悪魔・・・疫病が広がらぬうちに
まだ罹患していない健康な人がいるとか
助かりそうな人がいるとかいないとか
そんなことは関係なしに遺体も何もかもすべて
村ごとひとつ消滅させなくてはならない
なぜそんなことをしなくてはならないのだとか
本当にそれしか方法がないのだろうかと
疑問に思ったとしても
人としての感情がそれに抵抗を示したとしても
「やりたくない」と心が叫んだとしても
遂行しなくてはならない
逆らうことのできない立場の人というのもいるのです
今の時代で法治国家であるならば
自らの意志で拒絶もできるけれど
おかしいことは「おかしい」と声を大にして叫び
世間に是非を問うこともできるけれど
過去の時代で法治国家ではない国においては
権力に従って長いものにまかれて
傀儡にならざるをえなかった
そんな立場の人もたくさんいたわけです
その後 彼自身はペストから生き延び
任務を退いてからは良心の呵責から
自責の念に苛まれ 自暴自棄に陥り
孤独な隠者生活を自分に与えてしまったようです
けれど幸いなことに
彼のことを人々は恨んでいませんでした
誰かがやらなければいけないことだった
彼が彼等を殺さなかったとしたら
誰か別の人がその役割を担い彼等を殺していた
彼がやらなくてもどのみち彼等は殺されていた
そして彼等・・・は
「他の無慈悲な人たちに
ゴミのように殺されるよりは
あなたのような人の手で命を断たれたこと
良かったと思ってる」
どうせ殺されるならば
どのみち誰かの手によって命を奪われる身であるならば
心ある人に 自分たちが見知っている人に
人としての悔恨の念を持つことの出来る情けを持つ人に
自分たちの命を痛み
弔いの気持ちを持ち続けることのできる人に
罪の意識を持てる人に手にかけられて
いくぶんか自分たちはましであったと
彼ら・・・は
ずっと悔恨の日々を送っていた彼のことを
肉体を無くしたあとも見ていたんですね
それを知っていたからこそ
この時期になって和解ができたのでしょう
なんかここでまた「銀の匙」だったかな
「百姓貴族」だったかもしれないけど
屠殺の仕事を辞めたいと言っていた人に
「あなたのような
命の重さを知っている人にこそ
この仕事をして欲しい」と
誰かがそう告げていたセリフを思い出しました
過去の時代において
大規模な伝染病や感染症が流行った時
場所や国によっては
似たような状況が幾度となく起こり
上記のようなこともあったかも知れません
助けられなかった命 失った命
死ななくてもよかった命
奪いたくないのに奪うことになってしまった命
救えなかったことで苦しんだ人が何人いたでしょうか
仕事で 自らの職務で
人を殺すことに苦しんだ人もいます
それが正義なのか何なのかわからないままに
大きな心の痛みを抱えて
苦しみの重石を心に残したまま生まれ変わって
そして今の世相に古傷が疼き出して
自分のしたことを水面下で責め始めるのです
そういえばその方は
「アンリ・サンソンのような人になりたい」と
彼のような生き方が理想であると言っていました
(漫画「イノサン」を薦めたのは私ですがっっ)
どうせ死を免れられぬ人々であるならば
その苦しみを長引かせずなるべく苦しめず
ひと思いに できるだけ楽な方法で
一瞬にして"死"への道行へと誘ってあげたい
アンリ・サンソンの置かれた過酷な状況と
気高い生き方には私も敬服するばかりですが
そうかこの人生での体験と後悔からだったのだなと
納得しうなづくばかりです
集合体意識としてのグループエレメンタルは勿論のこと
どうしても過去の未消化な想念(エレメンタル)が
刺激されてざわざわしてしまう人はいるだろうなと
そう思ってたわりには
そのような相談が持ち込まれることなかったんですけど
この時期になって身近なところで
過去の傷口が開いてしまった方がいたのでした
定期的にレッスンに来て下さっている生徒さん
自粛期間中はずっと
ビデオ通話でのリモートレッスンだったのですが
数か月ぶりの対面にて
なんか胸のあたりがちょっともやもやするとのことで
チャクラのチェック及びクリアニングでもという話に
とはいうものの
私は誘導に徹してのほぼセルフヒーリング
(手抜き? いやさレッスンですもん←言い訳か)
疼いていた傷は第4チャクラにありました
ペストが流行っていた中世において
患者の出た町や村の人たちを閉鎖隔離し
死にかけた人々 罹患した人々を
まとめて"処理"する
いわゆる国側のお仕事をしていた時の記憶
医師ではなく 兵士といいましょうか
現代でいうと警察とか役人とかそんな職務で
彼だったその人が
ことに当たらなければならなくなった
すなわち処理しなければならなかった
その村のこと人々のことを彼はよく知っていました
よく見知った人たち
そのような不測の事態が起きなければ
職業柄決して近い距離ではなく
とくに親しくしていたわけではないけれど
普通に何か有事の際や機会あった時には
挨拶や世間話を交わす関係性だったわけです
でも命令となれば 任務であるならば
黒い悪魔・・・疫病が広がらぬうちに
まだ罹患していない健康な人がいるとか
助かりそうな人がいるとかいないとか
そんなことは関係なしに遺体も何もかもすべて
村ごとひとつ消滅させなくてはならない
なぜそんなことをしなくてはならないのだとか
本当にそれしか方法がないのだろうかと
疑問に思ったとしても
人としての感情がそれに抵抗を示したとしても
「やりたくない」と心が叫んだとしても
遂行しなくてはならない
逆らうことのできない立場の人というのもいるのです
今の時代で法治国家であるならば
自らの意志で拒絶もできるけれど
おかしいことは「おかしい」と声を大にして叫び
世間に是非を問うこともできるけれど
過去の時代で法治国家ではない国においては
権力に従って長いものにまかれて
傀儡にならざるをえなかった
そんな立場の人もたくさんいたわけです
その後 彼自身はペストから生き延び
任務を退いてからは良心の呵責から
自責の念に苛まれ 自暴自棄に陥り
孤独な隠者生活を自分に与えてしまったようです
けれど幸いなことに
彼のことを人々は恨んでいませんでした
誰かがやらなければいけないことだった
彼が彼等を殺さなかったとしたら
誰か別の人がその役割を担い彼等を殺していた
彼がやらなくてもどのみち彼等は殺されていた
そして彼等・・・は
「他の無慈悲な人たちに
ゴミのように殺されるよりは
あなたのような人の手で命を断たれたこと
良かったと思ってる」
どうせ殺されるならば
どのみち誰かの手によって命を奪われる身であるならば
心ある人に 自分たちが見知っている人に
人としての悔恨の念を持つことの出来る情けを持つ人に
自分たちの命を痛み
弔いの気持ちを持ち続けることのできる人に
罪の意識を持てる人に手にかけられて
いくぶんか自分たちはましであったと
彼ら・・・は
ずっと悔恨の日々を送っていた彼のことを
肉体を無くしたあとも見ていたんですね
それを知っていたからこそ
この時期になって和解ができたのでしょう
なんかここでまた「銀の匙」だったかな
「百姓貴族」だったかもしれないけど
屠殺の仕事を辞めたいと言っていた人に
「あなたのような
命の重さを知っている人にこそ
この仕事をして欲しい」と
誰かがそう告げていたセリフを思い出しました
過去の時代において
大規模な伝染病や感染症が流行った時
場所や国によっては
似たような状況が幾度となく起こり
上記のようなこともあったかも知れません
助けられなかった命 失った命
死ななくてもよかった命
奪いたくないのに奪うことになってしまった命
救えなかったことで苦しんだ人が何人いたでしょうか
仕事で 自らの職務で
人を殺すことに苦しんだ人もいます
それが正義なのか何なのかわからないままに
大きな心の痛みを抱えて
苦しみの重石を心に残したまま生まれ変わって
そして今の世相に古傷が疼き出して
自分のしたことを水面下で責め始めるのです
そういえばその方は
「アンリ・サンソンのような人になりたい」と
彼のような生き方が理想であると言っていました
(漫画「イノサン」を薦めたのは私ですがっっ)
どうせ死を免れられぬ人々であるならば
その苦しみを長引かせずなるべく苦しめず
ひと思いに できるだけ楽な方法で
一瞬にして"死"への道行へと誘ってあげたい
アンリ・サンソンの置かれた過酷な状況と
気高い生き方には私も敬服するばかりですが
そうかこの人生での体験と後悔からだったのだなと
納得しうなづくばかりです
2020/07/24
未だ生を知らず 焉んぞ死を知らん
眠い人が眠るように
瀕死の人は死を必要としているのです
抵抗が間違いで無駄だというときが いずれきますよ
by サルバドール・ダリ
不幸な人間にとって
死とは無期懲役の減刑である
by アレクサンダー・チェイス
どのみち死なねばならぬなら
私は なっとくして死にたいのだ
by 梅崎春生
瀕死の人は死を必要としているのです
抵抗が間違いで無駄だというときが いずれきますよ
by サルバドール・ダリ
不幸な人間にとって
死とは無期懲役の減刑である
by アレクサンダー・チェイス
どのみち死なねばならぬなら
私は なっとくして死にたいのだ
by 梅崎春生
ちなみにタイトルは孔子の言葉
先日の嘱託殺人の記事を見て
記事をざっくりと読んだだけでは
あくまで概要からの
個人的な感想 感情的な意見を持ち得るだけで
かといって詳細を知り得たところで
何が良かったのか悪かったのか
ことの是非や真偽を問える立場にはないのだが
一瞬の感想としては
もし医師が患者の願いを聞き届けただけならば
それは医師として人としての立場からの
患者への救済であったのではと
そう思うし思いたいけれど
判断するには全容を知らぬものとして
軽率であるし意見を言うには早計すぎる
これまでにこちらのブログの過去記事でも
自殺はよくないことと何度なく書いてきた
但し
例外というのはどんな事象にもあるもの
実のところ どのような思いや状況下で
その人が自死を選ばざるを得なかったのか
そのようなことが測られ考慮されるべきなので
生きることからの逃避からなのか
他者を救うことのための死の選択であるのか等
そうでないのか否かなど
例えば
即身仏は自死にあらず
だし
登山の事故などで他者を助けるために
繋がったザイルを切って死を選ぶこと
自らを捨て置いて先に行ってくれと頼み
他者の足手まといにならぬよう
自らを助けようとするものの手を振り切り
そのように生きることをあきらめることも
自死にあらず
(そして
彼らの死によって生き延びた人
手を差し伸べること能わず
共に逃げること叶わなかった人というのは
決して彼らを"見捨てた"などという人ではなく
彼らから生を分け与えられ"命を託された人"であるのだ)
もちろん状況によるが
非常事態(戦争や洗脳や特異な支配下)における
強要されての自死なども自死には当たらない
死することで国や誰かの秘密や名誉を守り
大勢を救うための選択も同じこと
切腹も自死に当たらないケースがほとんどで
(三島由紀夫のケースは単なる自殺だが)
江戸時代の切腹は単純に言えば刑死であるし
自ら死期を選んで旅立つ人の場合は
これまた自死には相当しない
生の終わりを自分で決めて
引き際を自ら決めた人たちということで
(とはいうものの
これはある程度の霊的成長を遂げた者の話
アメリカインディアンの
「今日は死ぬのに良い日」など参照のこと)
そして自殺には仕組まれた死というか
カルマのレッスンによる自殺というのもあり
その死には償いの意味だったり
愛の実践だったりレッスンは様々で
決してどれも同じ理由ではないけれど
人類のために
同胞に問いを投げかけるために
世の中を変える原動力となり得るために
自らを贄として
その命を投げ出すことをする
そのような死もあるので
あるいは身近な人のカルマを背負っての
身代わりの死もあったりすし
そのような自死は自殺(殺人)に当たらず
それを幇助したものも勿論
殺人を犯したことにはならない
もちろん現実世界では法律が重んじられる
だから精神世界というか
霊的なルールと必ずしもそれらは一致しないし
しなくても当然だと言える
それらの間にはなかなか埋められぬ乖離がある
現実世界における法のあり方についての
ルールとしていることに対する問いでもあるので
大切なのはこれらのことから
私たちが何を学ぶべきかということ
死とは何か 命とは 生とは
生きるということはどういうことなのか
死の尊厳とは何か
生きる自由 死ぬ自由
自由のない身体で生き続けることが人としての尊厳なのか
当人でなく他者の願いだけで生きることに幸福があるのか
たくさんの管を差し込まれ
がんじがらめに束縛された状態で
排便も食事もままならぬ状態で生きることは人と言えるのか
自分がそのような状態になったら何を望むのか
生ある単なる肉塊となってしまった
青年の生の尊厳を描いた
映画「ジョニーは戦場へ行った」を思い出しもするけれど
(あれは医療従事者の患者の扱いに対する問いもあったが)
生かされるも地獄という状況もあるのである
それでも生きていたいという人ももちろんいる
そんな状態になっていても奇跡を信じ
生きていて欲しいと願う家族もいる
看病が負担で嵩張る入院費に苦しむ家族もいる
口にこそできないが密かに死を願う家族もいる
家族の意見と当人の意見が
必ずしも一致するということばかりでもない
生きていたいと望むこと
人として扱われていたいと欲する感情に罪はない
誰が悪いわけでなく それぞれが真実なだけ
だからこそ落としどころが難しい
エゴイズムのないところで考えるべきではあるが
これが正解という答えはたぶんどこにもない
カルマのレッスンにおいては
過去の学びとして
どんな状況になっても生きなくてはならない
という課題を抱えた人もいるけれど
そんな地獄の苦しみを
今生で味あわなればいけない人がいるというのも
そういう人がいるのも確かに事実だけれども・・・
でもそのような苦しみの中にいる人に
「ざまあみろ 因果応報だよ」と言い切るのではなく
そこから人としてのあり方
人間としての心でもって ことの是非を考えて
その人を救済しようという
慈悲と慈愛の心を学び実践することこそ
世にも人にも問われているという
そのような苦しみを味わう人を
少しでも減らしていくべきであるという
一人ひとりへの 全体性の愛の学びが隠れているのです
何が正しいのか正しくないのか
何が良くて良くなくて悪いのか
はっきりいって正解はない 間違いもない
裁きも必要ない 心を裁くことは出来ない
人が人を裁くことなんて本当は出来ない
その権利なんて 実際のところ誰も持っていない
この世のルールとあの世のルールは同じではない
でも私たちは
この世のルールを守るべきであるし
私たちで作ったり変えていく責任がある
法律は一人ひとりが考えて作っていくべきこと
みんなが声をあげていくべきこと
裁きの場にも愛と人間らしい感情は必要だと
法律は現実社会で起きたことを
現実社会のコミュニティの中で生きる上で
私たちで作ったルールで
司法も警察もそれらを遵守するために存在して
義務と権利と責任の所在を明らかにするために
機能するべきものだけれど
だが法がすべてではあってはならないし
法のみがすべを決めることであってはならない
法は良心のもとにあるべきで
法が人の道や道徳に勝るものであってはならないし
法がすべてにおいて優先される世の中であってはならない
法は愛ある世界を壊すものではなく
愛ある世界の秩序を守るものであるべきなのである
さて自分ならどうしたいと思うだろう
私なら 死を選ぶだろう
不自由な肉体を捨てて
次の人生へと旅立つことを望むだろう
自らで選択できれば良いけれど
そうでない場合が厄介とも思うから
誰かに罪を負わせるのならば
その時はどうすればいいのか悩むだろう
理想の死としては
アフリカのサバンナで夕陽を見ながら死を迎えて
動物たちの餌となるのが夢だけども
(完全に息絶えてからね)
とはいうものの
邦人が野生動物に喰われたってニュースになっちゃうか
それで動物たちが成敗されたらとんだ冤罪だし
やっぱりチベットで鳥葬がいいです
それが無理なら遺灰は海に撒いて魚の餌にしてほしい
もしくは森の木の栄養分になりたい
墓はいらない 葬式も戒名も無用です
死は救いとは言いながら
そうは悟りきれぬものである
by 大佛次郎
心が整理された者にとって
死は次なる大いなる冒険にすぎない
by アルバス・ダンブルドア
一代聖教みな尽きて
南無阿弥陀仏に成り果てぬ
我が亡骸は野に捨て獣に施すべし
by 一遍
2020/07/22
太陽獅子座入り〜自分語り
昔ママがまだ若くて
小さなあたしを抱いてた
月がもっと遠くにあった頃
工場は黒い煙を吐き出し
街は激しく
この子が大きくなるのを祈ってた
by レベッカ「Moon」
昨日は蟹座新月
アストロロジーのネイタルチャートで見たとき
私の4ハウスでの新月
人生の折り返し地点をとっくに過ぎ
まだ終わりというわけではないだろうが
最近はよく昔のことを思い出す
色々と辛いことしんどいことたくさんあった人生
二度の交通事故や膠原病をはじめとした様々な疾患
友人に裏切られたり騙されたりもあったし
この個性のおかげで普通の社会生活を送れず
仕事も続けられず挫折もいっぱいしたし
トラブルもたくさん引き寄せて
壊してきたものもたくさんある
機能不全でいびつな家庭環境に生まれてしまったせいで
死にたいと何度も思うような出来事もたくさんあったが
それでもまあこの人生からの学びは大きい
この人生でよかったかと言われれば
まだわからないのだが
この人生にしてしまったのは自分なので
たぶんこの人生しか生きられなかったのだろう
そしてこの人生を生きることは必然でもあったのだろう
そして自分は
とても良い時代に生まれたのだなあと痛感したり
改めて恵まれていたことを再発見したりもする
今はもう都民としての住民歴の方が長いが
地元は千葉県の東京湾沿い
東京湾沿いといっても千葉港から八幡宿辺りまでは
川崎製鉄(現JFE)の巨大な工場地帯であるので
潮の香りが届く程度に海は近いと言えば近いが
海水浴場に行こうと思えば
稲毛の人工浜か木更津か君津
もしくは外房の御宿や九十九里など
近いとこでも1時間はかかる場所
川崎製鉄の発展とともにあり
その恩恵のもとに繁栄した町で
東京都ドーナツ化現象のおかげもあって
都内や地方からの移住者の多い町だった
そして製鉄業の衰退とともに廃れ寂れた町
朝は工場内の港に停泊する船の汽笛の音が届き
昼には光化学スモッグ注意報が流れ
夜には24時間 真夜中も稼働している工場の
窯の炎の色が 西の空を真っ赤に染めている
23区住まいでは空や太陽はあきらめるのが常だが
首都圏で都心部に属してはいるものの
まだまだ千葉は半田舎
住宅街にある実家は東西南北日当たりよく
家の中にいても日焼けできる
窓の側に寝っ転がって空を仰げば
あれはガルーダ航空 パンアメリカン
ANAだのJALだのエールフランスなどなど
航空会社のロゴも鮮やかに
往来し頭上を通過する飛行機を眺めることができる
(墜ちてきたらどうしようと思うくらいには近い距離)
そんな飛行場に行かずとも飛行機が見れる毎日
成田空港反対のデモやバリケード作る
中核派に絡まれたり右翼や左翼と喧嘩した
向こう見ずな若き日も昔のこと
東京ではお盆は7月だが千葉は8月(田舎は9月だった)
子供会の行事など
夏といえば必ず海水浴がお約束で春には潮干狩り
内房は館山や富津や白浜 外房の御宿や勝浦など
マザー牧場や鴨川シーランド 行川アイランド
谷津遊園に船橋ヘルスセンター 都内へは後楽園
田舎に帰省するときには東京駅から寝台列車
瀬戸内海で夜が明けて 翌日の昼間に駅に着く
そこから一日二本しかないバスで二時間
田舎はワンダーランドだった
小学校では喘息や気管支炎を患う
クラスメイトがほとんどというのが
工場地帯の煙の下暮らす私たちの当たり前
中学は校内暴力の時代
窓ガラスはいつもどこか割れていて
クラス全員あるいは全校生徒が一団となって
授業をボイコットしたり 全校集会でヤジ飛ばして
先生たちを糾弾することもあった
窃盗品の横流しを買わないかともちかけられたり
クスリや刃物を持ち込む893の息子もいたり
クラスメイトを逮捕するために警察がきたり
アンパンやトルエンとかでラリってる同級生たち
何が起きてもふーんと流せて動じなくなるくらいには
毎日事件だらけで刺激的な日々だった
(今の時代だと考えられないことだよなあ)
高校時代はひたすらバイトの日々
授業さぼって稲毛の浜で海を眺めたり
バイト終わりには仲間たちと飲み歩いて
駅で夜明かし二日酔いで保健室に直行したり
でも悪いことといったら
酒とタバコとサボタージュくらい
悪いことに誘われたこともないわけでもないが
根がオタクだし正義感も一丁前に持ち合わせてたから
そういうことには興味なく手を染めずに済んだ
(友人とスクーター二人乗りして
追いかけられたくらいか<逃げ切った)
なんかまあ そんな破天荒な現実の合間に
キテレツな不思議体験もたくさんして
なんだかんだ濃厚な人生を生きた気がする
最近色々と思うことあって
自分は若い頃に人生の手本にすべき師匠というか
バイブルみたいなものに出会えていたんだって
ああこの人の生き方がもうすべての答えではないかと
うん
この時期に
ハマショーをいまさらあれやこれや聞いていたのだけど
自分のスタイルとやり方を貫くこの人の姿や音楽が
私にものすごく多大な影響を与えてくれていて
そこにすべての答えがあるじゃんって
そう思ったらこれでいいんだって着地点を見出しましたのよ
誠実に生きるってことをこの人に教えてもらえてる
そういえば省吾は山羊座太陽だったなあ
関係ないけど
手塚治虫という巨匠が生きている間に間近に見れたし
長嶋茂雄さんともちょこっと会話したことあるし
(パーティで誘導しただけだから会話のうちにならんか)
ホンモノって言われる人のオーラに触れられたってだけで
なんか人生得しているよなって前向きに考えようと思います
だからニセモノはいらない
本物はいつだって風格が違う
売れないときからも売れてからも
いつもマイペースでその人らしい
そして人間らしく暖かい
色んな人に媚びを売られる立場になってからも
人に頭を下げる謙虚さがあって決して奢らない
紛い物に熱中する暇があったら
本物に触れて 自分を磨こうっと・・・
そして最近 無性に海が見たくてたまらない
自分が育ったのは湾岸の工場地帯で
海の側というわけではないのだけれども
千葉県民というとやはり海なのだ
東京湾と太平洋の二つの海
昔は地元が好きではなかったが
去年の台風被害のときに
自分にも郷土愛(千葉愛)というものが
あるのを発見して驚いたくらいで
なんか本当に海がみたい
東京の海ではなく千葉の海
あの真っ青な空と白い砂浜と青い海
記憶の中のあの青い海を
死ぬ前までにもう一度見てから死にたいなあ
今は行き来できないもんなあ
さてまた話変わって
自分もなんですが
母方は本当に音楽とにかく歌が好きな人が多くて
叔父も叔母もカラオケできないと楽しみなくて
死んでしまう・・・みたいな人たちっっ
どうしてかなと思ったときに
母方の祖父のご先祖様って
京都から持ち出し 壇ノ浦の海に沈むはずだった
雅楽器をなんとかかんとか持ち出して
800年間大切にしてた人たちだったんだよね
満月の夜には雅楽の宴を催す風習があったらしいし
(長持ちの中に大切に保管されてたんだって)
結局75年前の戦争で全部無くなってしまい
最後に残っていた平家琵琶も
ご飯を炊く時の薪になってしまった(戦中)
私も過去生で音楽とか歌とかやってたことないし
歌手になりたいとかは一度も思ったことないし
楽器を演奏する才能はまったくないのだけど
(母は三味線やってましたけどね)
音楽好きってのはご先祖様の影響というか
血なのかなあ・・・なんて少し思ったりします
とはいうものの
生きるか死ぬかの戦場に楽器を持っていくなんて
なんてお気楽な人たちなのだろう
うちのご先祖ってっっ
だから負けるんでしょ<平家
そんな私は判官びいきな義経好き
小さなあたしを抱いてた
月がもっと遠くにあった頃
工場は黒い煙を吐き出し
街は激しく
この子が大きくなるのを祈ってた
by レベッカ「Moon」
昨日は蟹座新月
アストロロジーのネイタルチャートで見たとき
私の4ハウスでの新月
人生の折り返し地点をとっくに過ぎ
まだ終わりというわけではないだろうが
最近はよく昔のことを思い出す
色々と辛いことしんどいことたくさんあった人生
二度の交通事故や膠原病をはじめとした様々な疾患
友人に裏切られたり騙されたりもあったし
この個性のおかげで普通の社会生活を送れず
仕事も続けられず挫折もいっぱいしたし
トラブルもたくさん引き寄せて
壊してきたものもたくさんある
機能不全でいびつな家庭環境に生まれてしまったせいで
死にたいと何度も思うような出来事もたくさんあったが
それでもまあこの人生からの学びは大きい
この人生でよかったかと言われれば
まだわからないのだが
この人生にしてしまったのは自分なので
たぶんこの人生しか生きられなかったのだろう
そしてこの人生を生きることは必然でもあったのだろう
そして自分は
とても良い時代に生まれたのだなあと痛感したり
改めて恵まれていたことを再発見したりもする
今はもう都民としての住民歴の方が長いが
地元は千葉県の東京湾沿い
東京湾沿いといっても千葉港から八幡宿辺りまでは
川崎製鉄(現JFE)の巨大な工場地帯であるので
潮の香りが届く程度に海は近いと言えば近いが
海水浴場に行こうと思えば
稲毛の人工浜か木更津か君津
もしくは外房の御宿や九十九里など
近いとこでも1時間はかかる場所
川崎製鉄の発展とともにあり
その恩恵のもとに繁栄した町で
東京都ドーナツ化現象のおかげもあって
都内や地方からの移住者の多い町だった
そして製鉄業の衰退とともに廃れ寂れた町
朝は工場内の港に停泊する船の汽笛の音が届き
昼には光化学スモッグ注意報が流れ
夜には24時間 真夜中も稼働している工場の
窯の炎の色が 西の空を真っ赤に染めている
23区住まいでは空や太陽はあきらめるのが常だが
首都圏で都心部に属してはいるものの
まだまだ千葉は半田舎
住宅街にある実家は東西南北日当たりよく
家の中にいても日焼けできる
窓の側に寝っ転がって空を仰げば
あれはガルーダ航空 パンアメリカン
ANAだのJALだのエールフランスなどなど
航空会社のロゴも鮮やかに
往来し頭上を通過する飛行機を眺めることができる
(墜ちてきたらどうしようと思うくらいには近い距離)
そんな飛行場に行かずとも飛行機が見れる毎日
成田空港反対のデモやバリケード作る
中核派に絡まれたり右翼や左翼と喧嘩した
向こう見ずな若き日も昔のこと
東京ではお盆は7月だが千葉は8月(田舎は9月だった)
子供会の行事など
夏といえば必ず海水浴がお約束で春には潮干狩り
内房は館山や富津や白浜 外房の御宿や勝浦など
マザー牧場や鴨川シーランド 行川アイランド
谷津遊園に船橋ヘルスセンター 都内へは後楽園
田舎に帰省するときには東京駅から寝台列車
瀬戸内海で夜が明けて 翌日の昼間に駅に着く
そこから一日二本しかないバスで二時間
田舎はワンダーランドだった
小学校では喘息や気管支炎を患う
クラスメイトがほとんどというのが
工場地帯の煙の下暮らす私たちの当たり前
中学は校内暴力の時代
窓ガラスはいつもどこか割れていて
クラス全員あるいは全校生徒が一団となって
授業をボイコットしたり 全校集会でヤジ飛ばして
先生たちを糾弾することもあった
窃盗品の横流しを買わないかともちかけられたり
クスリや刃物を持ち込む893の息子もいたり
クラスメイトを逮捕するために警察がきたり
アンパンやトルエンとかでラリってる同級生たち
何が起きてもふーんと流せて動じなくなるくらいには
毎日事件だらけで刺激的な日々だった
(今の時代だと考えられないことだよなあ)
高校時代はひたすらバイトの日々
授業さぼって稲毛の浜で海を眺めたり
バイト終わりには仲間たちと飲み歩いて
駅で夜明かし二日酔いで保健室に直行したり
でも悪いことといったら
酒とタバコとサボタージュくらい
悪いことに誘われたこともないわけでもないが
根がオタクだし正義感も一丁前に持ち合わせてたから
そういうことには興味なく手を染めずに済んだ
(友人とスクーター二人乗りして
追いかけられたくらいか<逃げ切った)
なんかまあ そんな破天荒な現実の合間に
キテレツな不思議体験もたくさんして
なんだかんだ濃厚な人生を生きた気がする
最近色々と思うことあって
自分は若い頃に人生の手本にすべき師匠というか
バイブルみたいなものに出会えていたんだって
ああこの人の生き方がもうすべての答えではないかと
うん
この時期に
ハマショーをいまさらあれやこれや聞いていたのだけど
自分のスタイルとやり方を貫くこの人の姿や音楽が
私にものすごく多大な影響を与えてくれていて
そこにすべての答えがあるじゃんって
そう思ったらこれでいいんだって着地点を見出しましたのよ
誠実に生きるってことをこの人に教えてもらえてる
そういえば省吾は山羊座太陽だったなあ
関係ないけど
手塚治虫という巨匠が生きている間に間近に見れたし
長嶋茂雄さんともちょこっと会話したことあるし
(パーティで誘導しただけだから会話のうちにならんか)
ホンモノって言われる人のオーラに触れられたってだけで
なんか人生得しているよなって前向きに考えようと思います
だからニセモノはいらない
本物はいつだって風格が違う
売れないときからも売れてからも
いつもマイペースでその人らしい
そして人間らしく暖かい
色んな人に媚びを売られる立場になってからも
人に頭を下げる謙虚さがあって決して奢らない
紛い物に熱中する暇があったら
本物に触れて 自分を磨こうっと・・・
そして最近 無性に海が見たくてたまらない
自分が育ったのは湾岸の工場地帯で
海の側というわけではないのだけれども
千葉県民というとやはり海なのだ
東京湾と太平洋の二つの海
昔は地元が好きではなかったが
去年の台風被害のときに
自分にも郷土愛(千葉愛)というものが
あるのを発見して驚いたくらいで
なんか本当に海がみたい
東京の海ではなく千葉の海
あの真っ青な空と白い砂浜と青い海
記憶の中のあの青い海を
死ぬ前までにもう一度見てから死にたいなあ
今は行き来できないもんなあ
さてまた話変わって
自分もなんですが
母方は本当に音楽とにかく歌が好きな人が多くて
叔父も叔母もカラオケできないと楽しみなくて
死んでしまう・・・みたいな人たちっっ
どうしてかなと思ったときに
母方の祖父のご先祖様って
京都から持ち出し 壇ノ浦の海に沈むはずだった
雅楽器をなんとかかんとか持ち出して
800年間大切にしてた人たちだったんだよね
満月の夜には雅楽の宴を催す風習があったらしいし
(長持ちの中に大切に保管されてたんだって)
結局75年前の戦争で全部無くなってしまい
最後に残っていた平家琵琶も
ご飯を炊く時の薪になってしまった(戦中)
私も過去生で音楽とか歌とかやってたことないし
歌手になりたいとかは一度も思ったことないし
楽器を演奏する才能はまったくないのだけど
(母は三味線やってましたけどね)
音楽好きってのはご先祖様の影響というか
血なのかなあ・・・なんて少し思ったりします
とはいうものの
生きるか死ぬかの戦場に楽器を持っていくなんて
なんてお気楽な人たちなのだろう
うちのご先祖ってっっ
だから負けるんでしょ<平家
そんな私は判官びいきな義経好き
2020/07/20
未来に託した贖罪と希望〜職業別カルマ④
歌手や音楽家
役者というのは確かに職業であり
アーティストや表現者としての一職種ではあるが
生きていくための生業としてではなく
おのが魂のミッションを燃焼させるがために
その道に進むものも多い
そのような人の中には
生きている人間のためでなく
死んだ人たちのために
鎮魂のため 慰霊のため
歌を歌うことをしている歌手もいる
今生での何らかの犠牲者への追悼で
そのような場所で歌う機会を得ることもあろうが
自らの歌い手 演奏家としての人生そのものが
まさにそれに捧げられた道という人もいる
商業的な成功をするがためではなく そのためでなく
無名ではあるが ただ自分の魂を奏でるだけの人生
何故ならば生きている人のためではなく
肉体を持たぬもの亡き人たちのため
土地や神々 自然に宿るもの 姿なきものたち
そうした存在に捧げられし音楽(歌)だから
今生では現実的な対価はあまり得られないだろう
(だからこそ現世利益
現実的な成功を追求すると得てして不幸になる)
過去に存在した死者のために
彼らを慰めるために
行き先を見失った想いを出口へと導き
無念さや当て所ない悲しみや苦しみを
光へと照らし出し導くかのように
今はもう亡き人々の生きた証を残し
その時確かに存在し呼吸していた彼らの
功績を讃えるために 彼らが忘れ去られぬように
彼らの人生や生き様を忘却の彼方へと沈めぬように
人々の記憶に止めおこうと 生を蘇らせるように
自らの身体を彼らの想いの依代とし表現する役者もいる
前回にも
今生でソングライターや歌い手になる人たちの
過去生の職業とかについて触れたが
それ以外にも
巫女(シャーマン)として
神に祈りを捧げる"うたい"を行っていたもの
あるいは呪歌や死者を弔うために霊媒として
"おらぶ"をしていた人たちもいたりする
Coccoなどがそのタイプの典型だったりするかな
そしてこのようなタイプは
精神的にも不安定な人たちが多く
様々なことに敏感でとても繊細すぎるし
役にハマるというか入り込みすぎてしまうので
現実を生きるにはしんどい人たちだ
精神の均衡 バランスを取ることが非常に難しい
困ったことに一歩間違えれば
自分の人生を他者の意識や想念(エレメンタル)に
乗っ取られやすいし
それがために本当の自分を見失いやすくもある
こういう人は周囲の理解とサポートが必須だ
中には中心軸にいる自分を見失わず
現実と虚構の中をうまく行き来するという
バランス感覚に秀でており
賢者か隠者のように
ストイックな表現者であり続けられる人もいるのだが
例えば緒形拳さんなんか
菩薩の顔と阿修羅の顔の両方を持ち
役によってその顔を使い分けることのできる
本当に貴重で稀有な役者さんだった
(仕掛け人の梅安さん大好きや〜)
けれど残念なことに最近の役者さんは
若い魂の人が多く 頑張ってはいるが
如何せん過去の人生経験値が足りてない
人間的な奥行きや深みが出てくる域には達していない
昨今では
セリフなしの間合いあるいはたった一言の言葉で
表情ひとつ 佇まいひとつで
"すべて"を伝えられる役者さんがいなくなった
歌い手さんもそう
声も伸びるしテクニックは素晴らしいんだけど
極めて個人的な体験や感情だけで歌ってて
背景の深いところの洞察や経験が足りてないから
上手いなあ凄いなあパワフルだなぁだけで終わっちゃう
一瞬の感動と娯楽的な喜びは与えてくれるけど
魂の琴線に届いて もっとその奥底
深い無意識の底に沈みきった何かを揺り動かす
そういうのが無い人ばかりなんだよね
(それが悪いってわけではないよ)
そして色んな人と話していて皆いうのが
最近の歌手の人って
声が声として聞こえないんだよね 単なる音なの
あえて言うなら叫び声 下手すりゃ騒音
声として聞こえないから歌詞が耳に入ってこないし
歌詞の意味が 物語が全然頭に入らない
歌詞カード見ないことには何の歌だかわからない
楽器の一部としての曲の構成要素なんだわ 声=音
言葉としての機能を果たしてないのよ
言葉の羅列ではなく 意味のない音の集合体になってる
格好いいといえばそうだけど もはや歌(唄)ではない
人間が歌っている感じもしない 冷たいAIみたい
まぁ成長過程ということで
成熟に至るまでは見守る段階?
これはもう致し方ない
魂の古株であった俳優さんたちが
次々と世を去ってしまった昨今の時代では
もちろん罪の贖いとして 懺悔として
過去の自分が殺めてしまった命を
その命を重みを伝えるがため
他者の人生を表現している人もいる
自分が軽視してきた一個の人の命
軽んじた他人の人生 その心 思い
それらを理解するがためのごとく
自分以外の人間にも秘めた思いや叶えたい夢や
守りたい人や様々な感情があったのだと
そのようなことを学びのレッスンとして
他人を 他人の人生を知るために
他人の命への慈しみ 複雑な感情を育てるために
表現者として無理やりに他者の人生を模倣することで
自分以外の人が何を考えているのか思っているのか
他人にも人権や人生があることを知るための機会として
そのような職業へと導かれている人たちもいる
表現者としての役者(俳優女優)をすることで
彼らがそうした学びをクリアできるかできているのか
たぶん観客である私たちが決めることだろう
大根役者というレッテルなどの評価とともに
その人の演技に感動するのかしないのか
嘘くさいと思うのか リアリテイを感じるのか
芝居から離れたときの一個人であるその人に
人間的魅力を感じるのかそうでないのかetc
そんな風に
過去の生き方の反省をするために
犯した罪を知り それを償うために
欠如欠落している感情を育て学ぶために
命の重さや他者の心を知るために
人としての生き方を学ぶために
生きられなかった人生をやり直したり
自分が殺めてしまった命を称えるために
他人の人生を演じるという
職業へと進んでいる人もいます
もちろんその逆もしかり
さて
芸能人というのかな
歌い手さんにしても役者(俳優女優)さんにしても
テレビに出ている有名人とされる人たちは
(芸人でもタレントさんでも伝統芸能の人でも何でも)
ファンに対しても一般の人たちに対しても
社会においてある一定の影響力を持っているわけです
発言することで流行を作り出して
経済を活性化することもできるし
思想や行動を左右したり洗脳する力も持ってる
中には
少し前に話題になった"桜の会"とか園遊会とか
そういう政治とか経済とか国の中枢にいる人たちと
接することのできる立場にいたりするじゃないですか
友達になったりあれやこれや
もちろんマスメディアとも持ちつ持たれつの関係で
餌食にもなるけど同時に協力関係を築く事も出来るし
権力者ともだし流行を扇動して人々の意識を操り
プロパカンダを行う立場の人たちとも
非常に近いところにいるっていうのかな
お近づきになって親しいってだけでなく
テレビ局の大物とか企業の社長さん政治家とかと
結婚したり愛人になる女優さんも多いわけですよ
でもって
過去記事「個人のカルマ」か何かでも書きましたが
※マリリン・モンローのカルマ参照のこと
こういう人たちは
自分たちの影響力を過小評価しちゃだめなのね
演技力とか実力でその立場に立ったにしても
運や恵まれた容姿とかを生かしてのことでも
歌手や女優さんになったあとに
芸能界とかテレビに出れたことが縁になって
ある一定の権力とか力を持っている
その種の人たちと結婚できるってことは
そういう人たちのパートナーとして
家庭の中で家族として物を言えて
人として強い影響を与えることができる存在になり
ある意味で彼らの財産や権力も同等に使える力を
得るって言うことだから
そこには天命というかミッションがあるのね
ただ奥さんの座に甘じてたらダメなのよ
うん自分たちのセレブ生活をエンジョイしたり
ブログで誇示して自慢している場合じゃなくてね
(そういう相手と離婚や破局はしちゃったけど
紗栄子ちゃんなんかは自分のミッションを果たせている
稀有な存在だよね 大好きで応援しています 可愛いし❤️)
もち男性芸能人の場合も同じ
もともと庶民というか一般家庭に育った人ならなおさら
今の政治家や経済人は苦労知らずの
おぼっちゃま二世三世も多いじゃない?
(カップ麺の値段や電車の乗り方も知らない永田町族)
政治家や企業のトップ メディアなど
中枢にいる人たちと接することのできる人はね
またそういう人たちをファンにできている
アーティストや芸能人やミュージシャンは特にね
そういう人たちに庶民の声を届けないとアカンの
生の声をね 民意っていうのかな
そういうのを伝えられる立場なんだから
声に出すべきことを声にして
ファンにしても
自分がその立場を利用して接することのできる人に対しては
相手を教育し啓蒙するというか
自分が持つことのできる影響力を行使して
その立場を利用して
「疑問」を投げかけて 伝えるべきことを伝えて
行動していかないといかんのよ
今の時代の芸能人とか表現者の人たちはね
ミッションがあってその立場に皆いるのだから
スポーツマンとかもそうだよね
それがための一般人より高い給料と報酬
それを世の中から与えられているのだから
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
って言っている人にね
その人たちと仲良くして
自分たちの便宜をよくしてもらったり
恩恵を預かっているだけではダメなのよ
それはとぉっても深い罪(業)になる
自分たちのいるポジションからできることを
何もしないやらない発言しないってことはね
やらないことはやることよりも罪だから
対して実力もなくて
事務所の力と容姿のよさだけで
アイドルや有名になれた人ならなおさら
自分が政治家になったり
社長になろうとする人もいるけど
(中にはそれが天命というかOKな人もいるけど)
それは違う
たまたま幸運を掴めた結果
今の自分がいるって思う人ならば
特にここはよく考えるべきだよねぇ
自分が社会やファンに対して
影響力を持っている存在であるってことは
ちゃんと上手く利用していかないといけない
何を表現できるかってのももちろん大切だし
その人自身の望みを叶えたり求めるものを
得てはいけないっていうことではなくて
やるべきこともあってそのポジションにいるってこと
自分が"生かされている"ってこと知らないとダメですがね
そこ吐き違えて 違う道つーか
誤ったとこ行っちゃってる人多いよね
カルマのレッスン クリアできず
ミッションに背いちゃっている人
本当に多い 残念なことに
流されちゃっているというか
染まっちゃうというか
堕落に導かれる誘惑が多い世界だから
仕方ないのかもなーと思いつつ
(へんな宗教や胡散臭い人に頼ってる人も減らんし)
↑
一番胡散臭いお前がいうな??
てなわけで今の時代は
エンターティメントの世界の人は
エンターティメントの能力やスキルだけを
磨いていてはいけないって時代なんですよ
ある意味 その昔の時代に
宗教や宗教家たちが受け持っていた役割を
同胞である大衆に対して担っているから
それがためのその仕事 をさせられている人の方が多いから
そしてこれまだ続く・・・のか? 謎
ネタ切れではないけど どうしようかな
少し飽きてきた・・・らしい
役者というのは確かに職業であり
アーティストや表現者としての一職種ではあるが
生きていくための生業としてではなく
おのが魂のミッションを燃焼させるがために
その道に進むものも多い
そのような人の中には
生きている人間のためでなく
死んだ人たちのために
鎮魂のため 慰霊のため
歌を歌うことをしている歌手もいる
今生での何らかの犠牲者への追悼で
そのような場所で歌う機会を得ることもあろうが
自らの歌い手 演奏家としての人生そのものが
まさにそれに捧げられた道という人もいる
商業的な成功をするがためではなく そのためでなく
無名ではあるが ただ自分の魂を奏でるだけの人生
何故ならば生きている人のためではなく
肉体を持たぬもの亡き人たちのため
土地や神々 自然に宿るもの 姿なきものたち
そうした存在に捧げられし音楽(歌)だから
今生では現実的な対価はあまり得られないだろう
(だからこそ現世利益
現実的な成功を追求すると得てして不幸になる)
過去に存在した死者のために
彼らを慰めるために
行き先を見失った想いを出口へと導き
無念さや当て所ない悲しみや苦しみを
光へと照らし出し導くかのように
今はもう亡き人々の生きた証を残し
その時確かに存在し呼吸していた彼らの
功績を讃えるために 彼らが忘れ去られぬように
彼らの人生や生き様を忘却の彼方へと沈めぬように
人々の記憶に止めおこうと 生を蘇らせるように
自らの身体を彼らの想いの依代とし表現する役者もいる
前回にも
今生でソングライターや歌い手になる人たちの
過去生の職業とかについて触れたが
それ以外にも
巫女(シャーマン)として
神に祈りを捧げる"うたい"を行っていたもの
あるいは呪歌や死者を弔うために霊媒として
"おらぶ"をしていた人たちもいたりする
Coccoなどがそのタイプの典型だったりするかな
そしてこのようなタイプは
精神的にも不安定な人たちが多く
様々なことに敏感でとても繊細すぎるし
役にハマるというか入り込みすぎてしまうので
現実を生きるにはしんどい人たちだ
精神の均衡 バランスを取ることが非常に難しい
困ったことに一歩間違えれば
自分の人生を他者の意識や想念(エレメンタル)に
乗っ取られやすいし
それがために本当の自分を見失いやすくもある
こういう人は周囲の理解とサポートが必須だ
中には中心軸にいる自分を見失わず
現実と虚構の中をうまく行き来するという
バランス感覚に秀でており
賢者か隠者のように
ストイックな表現者であり続けられる人もいるのだが
例えば緒形拳さんなんか
菩薩の顔と阿修羅の顔の両方を持ち
役によってその顔を使い分けることのできる
本当に貴重で稀有な役者さんだった
(仕掛け人の梅安さん大好きや〜)
けれど残念なことに最近の役者さんは
若い魂の人が多く 頑張ってはいるが
如何せん過去の人生経験値が足りてない
人間的な奥行きや深みが出てくる域には達していない
昨今では
セリフなしの間合いあるいはたった一言の言葉で
表情ひとつ 佇まいひとつで
"すべて"を伝えられる役者さんがいなくなった
歌い手さんもそう
声も伸びるしテクニックは素晴らしいんだけど
極めて個人的な体験や感情だけで歌ってて
背景の深いところの洞察や経験が足りてないから
上手いなあ凄いなあパワフルだなぁだけで終わっちゃう
一瞬の感動と娯楽的な喜びは与えてくれるけど
魂の琴線に届いて もっとその奥底
深い無意識の底に沈みきった何かを揺り動かす
そういうのが無い人ばかりなんだよね
(それが悪いってわけではないよ)
そして色んな人と話していて皆いうのが
最近の歌手の人って
声が声として聞こえないんだよね 単なる音なの
あえて言うなら叫び声 下手すりゃ騒音
声として聞こえないから歌詞が耳に入ってこないし
歌詞の意味が 物語が全然頭に入らない
歌詞カード見ないことには何の歌だかわからない
楽器の一部としての曲の構成要素なんだわ 声=音
言葉としての機能を果たしてないのよ
言葉の羅列ではなく 意味のない音の集合体になってる
格好いいといえばそうだけど もはや歌(唄)ではない
人間が歌っている感じもしない 冷たいAIみたい
まぁ成長過程ということで
成熟に至るまでは見守る段階?
これはもう致し方ない
魂の古株であった俳優さんたちが
次々と世を去ってしまった昨今の時代では
もちろん罪の贖いとして 懺悔として
過去の自分が殺めてしまった命を
その命を重みを伝えるがため
他者の人生を表現している人もいる
自分が軽視してきた一個の人の命
軽んじた他人の人生 その心 思い
それらを理解するがためのごとく
自分以外の人間にも秘めた思いや叶えたい夢や
守りたい人や様々な感情があったのだと
そのようなことを学びのレッスンとして
他人を 他人の人生を知るために
他人の命への慈しみ 複雑な感情を育てるために
表現者として無理やりに他者の人生を模倣することで
自分以外の人が何を考えているのか思っているのか
他人にも人権や人生があることを知るための機会として
そのような職業へと導かれている人たちもいる
表現者としての役者(俳優女優)をすることで
彼らがそうした学びをクリアできるかできているのか
たぶん観客である私たちが決めることだろう
大根役者というレッテルなどの評価とともに
その人の演技に感動するのかしないのか
嘘くさいと思うのか リアリテイを感じるのか
芝居から離れたときの一個人であるその人に
人間的魅力を感じるのかそうでないのかetc
そんな風に
過去の生き方の反省をするために
犯した罪を知り それを償うために
欠如欠落している感情を育て学ぶために
命の重さや他者の心を知るために
人としての生き方を学ぶために
生きられなかった人生をやり直したり
自分が殺めてしまった命を称えるために
他人の人生を演じるという
職業へと進んでいる人もいます
もちろんその逆もしかり
さて
芸能人というのかな
歌い手さんにしても役者(俳優女優)さんにしても
テレビに出ている有名人とされる人たちは
(芸人でもタレントさんでも伝統芸能の人でも何でも)
ファンに対しても一般の人たちに対しても
社会においてある一定の影響力を持っているわけです
発言することで流行を作り出して
経済を活性化することもできるし
思想や行動を左右したり洗脳する力も持ってる
中には
少し前に話題になった"桜の会"とか園遊会とか
そういう政治とか経済とか国の中枢にいる人たちと
接することのできる立場にいたりするじゃないですか
友達になったりあれやこれや
もちろんマスメディアとも持ちつ持たれつの関係で
餌食にもなるけど同時に協力関係を築く事も出来るし
権力者ともだし流行を扇動して人々の意識を操り
プロパカンダを行う立場の人たちとも
非常に近いところにいるっていうのかな
お近づきになって親しいってだけでなく
テレビ局の大物とか企業の社長さん政治家とかと
結婚したり愛人になる女優さんも多いわけですよ
でもって
過去記事「個人のカルマ」か何かでも書きましたが
※マリリン・モンローのカルマ参照のこと
こういう人たちは
自分たちの影響力を過小評価しちゃだめなのね
演技力とか実力でその立場に立ったにしても
運や恵まれた容姿とかを生かしてのことでも
歌手や女優さんになったあとに
芸能界とかテレビに出れたことが縁になって
ある一定の権力とか力を持っている
その種の人たちと結婚できるってことは
そういう人たちのパートナーとして
家庭の中で家族として物を言えて
人として強い影響を与えることができる存在になり
ある意味で彼らの財産や権力も同等に使える力を
得るって言うことだから
そこには天命というかミッションがあるのね
ただ奥さんの座に甘じてたらダメなのよ
うん自分たちのセレブ生活をエンジョイしたり
ブログで誇示して自慢している場合じゃなくてね
(そういう相手と離婚や破局はしちゃったけど
紗栄子ちゃんなんかは自分のミッションを果たせている
稀有な存在だよね 大好きで応援しています 可愛いし❤️)
もち男性芸能人の場合も同じ
もともと庶民というか一般家庭に育った人ならなおさら
今の政治家や経済人は苦労知らずの
おぼっちゃま二世三世も多いじゃない?
(カップ麺の値段や電車の乗り方も知らない永田町族)
政治家や企業のトップ メディアなど
中枢にいる人たちと接することのできる人はね
またそういう人たちをファンにできている
アーティストや芸能人やミュージシャンは特にね
そういう人たちに庶民の声を届けないとアカンの
生の声をね 民意っていうのかな
そういうのを伝えられる立場なんだから
声に出すべきことを声にして
ファンにしても
自分がその立場を利用して接することのできる人に対しては
相手を教育し啓蒙するというか
自分が持つことのできる影響力を行使して
その立場を利用して
「疑問」を投げかけて 伝えるべきことを伝えて
行動していかないといかんのよ
今の時代の芸能人とか表現者の人たちはね
ミッションがあってその立場に皆いるのだから
スポーツマンとかもそうだよね
それがための一般人より高い給料と報酬
それを世の中から与えられているのだから
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
って言っている人にね
その人たちと仲良くして
自分たちの便宜をよくしてもらったり
恩恵を預かっているだけではダメなのよ
それはとぉっても深い罪(業)になる
自分たちのいるポジションからできることを
何もしないやらない発言しないってことはね
やらないことはやることよりも罪だから
対して実力もなくて
事務所の力と容姿のよさだけで
アイドルや有名になれた人ならなおさら
自分が政治家になったり
社長になろうとする人もいるけど
(中にはそれが天命というかOKな人もいるけど)
それは違う
たまたま幸運を掴めた結果
今の自分がいるって思う人ならば
特にここはよく考えるべきだよねぇ
自分が社会やファンに対して
影響力を持っている存在であるってことは
ちゃんと上手く利用していかないといけない
何を表現できるかってのももちろん大切だし
その人自身の望みを叶えたり求めるものを
得てはいけないっていうことではなくて
やるべきこともあってそのポジションにいるってこと
自分が"生かされている"ってこと知らないとダメですがね
そこ吐き違えて 違う道つーか
誤ったとこ行っちゃってる人多いよね
カルマのレッスン クリアできず
ミッションに背いちゃっている人
本当に多い 残念なことに
流されちゃっているというか
染まっちゃうというか
堕落に導かれる誘惑が多い世界だから
仕方ないのかもなーと思いつつ
(へんな宗教や胡散臭い人に頼ってる人も減らんし)
↑
一番胡散臭いお前がいうな??
てなわけで今の時代は
エンターティメントの世界の人は
エンターティメントの能力やスキルだけを
磨いていてはいけないって時代なんですよ
ある意味 その昔の時代に
宗教や宗教家たちが受け持っていた役割を
同胞である大衆に対して担っているから
それがためのその仕事 をさせられている人の方が多いから
そしてこれまだ続く・・・のか? 謎
ネタ切れではないけど どうしようかな
少し飽きてきた・・・らしい
2020/07/17
未来に託した贖罪と希望〜職業別カルマ③
その歌をライブで聞いたことももちろんのこと
CDも一時期は持っていて(今は手放してしまった)
友人の昔からの友人になる人なのだけれども
※昔はメジャーだったけど今はインディーズの人
プライベートでお会いする機会があった時に
ものすごく重たいカルマを背負っている人なのだなあ
と実感した人がいた
その人のパワフルな歌声からは 密かに
血を吸った 乾いた大地の痛みの声が聞こえる
血の匂いっていうか ジェノサイドの匂い
嘆きの民族が大量に殺戮された憤怒の叫び声
一族を根絶やしにされた 声にならない嗚咽と悲しみ
「ああ
この人はその傷を癒すために歌っているんだ
彼らの魂を慰めるために
仲間の死を痛み 弔うために
確かにあの日あの時 確実に生きていた
一人ひとりの命を讃えるために
歌い続けているんだ」
そんな風に思ったのを覚えてる
でももちろんその人がその人生に導かれたのも
その前の人生の因果関係が理由としてあってのこと
だから二重の意味での重石を背負っているとも言える
それを理解し
その重石を軽くしようと手を差し伸べて
共に背負ってくれた人がいたのは救いであったけど
その人を失った今もその人は歌い続けている
その姿がとっても痛々しくもあるのだが・・・
いつか彼女が光を抱けますように
と祈らずにはいられない
CDも一時期は持っていて(今は手放してしまった)
友人の昔からの友人になる人なのだけれども
※昔はメジャーだったけど今はインディーズの人
プライベートでお会いする機会があった時に
ものすごく重たいカルマを背負っている人なのだなあ
と実感した人がいた
その人のパワフルな歌声からは 密かに
血を吸った 乾いた大地の痛みの声が聞こえる
血の匂いっていうか ジェノサイドの匂い
嘆きの民族が大量に殺戮された憤怒の叫び声
一族を根絶やしにされた 声にならない嗚咽と悲しみ
「ああ
この人はその傷を癒すために歌っているんだ
彼らの魂を慰めるために
仲間の死を痛み 弔うために
確かにあの日あの時 確実に生きていた
一人ひとりの命を讃えるために
歌い続けているんだ」
そんな風に思ったのを覚えてる
でももちろんその人がその人生に導かれたのも
その前の人生の因果関係が理由としてあってのこと
だから二重の意味での重石を背負っているとも言える
それを理解し
その重石を軽くしようと手を差し伸べて
共に背負ってくれた人がいたのは救いであったけど
その人を失った今もその人は歌い続けている
その姿がとっても痛々しくもあるのだが・・・
いつか彼女が光を抱けますように
と祈らずにはいられない
そんな風に 慰霊をするがごとく
自らの過去を葬りもしくは讃えるために
これまでに生きた幾多の人生での想いを
昇華するために歌を歌い 音に想いを託し
楽器を奏 詩を書き 曲を作る人は多い
画家や小説家(脚本家)や映画監督などもそうだが
※漫画家も
それ以外で歌手というか まあ
ソングライターな人の中には
「ああ この人 吟遊詩人だったんだな」
という人が多かったりする
あと"プルチネッラ"とか"旅芸人"系統の人
こういう人たちは当然ながら
役者としての演技もできる
歌唱力に定評のあるバンドAのTさんなんかは
まさに吟遊詩人だったんだなあって超わかりやすい
友人がAのライブのプロモーター会社にいたので
常にギターを離さずいつでもどこでも
即興の歌を一日中作るのを楽屋や移動の際に
いつも聞かされていたのだそう
(友人のおかげでただでチケットもらったお
<しかし単なるアリーナ空席の穴埋め
アリーナ空いてるとアレだから)
吟遊詩人ってどんなん?っていうと
60年代の映画「ロミオとジュリエット」の
二人が出会うシーンで歌ってるお兄さん
と言えばなんとなくイメージできるかな
単純にああいった場所(王宮や貴族や金持ちの家)で
ソネットを歌うような歌手のルーツみたいな人もいるし
町から町へと旅して回る半分旅芸人のような人もいる
ヨーロッパのあちこちに類似の職業の人がいたけれど
それぞれ地域によってちょっと違いもあって
イギリスなんかだと地域のニュースを歌にして伝えて
町から街へと噂を振りまくというか
出来事の語り部的な役割を担ってもいて(瓦版屋か)
※マザーグースとかマーダーソングとかの風習参照のこと
彼らは観客や依頼主のリクエストにすぐ応えて
既存の古い歌を歌うことができなければいけなかったし
そればかりでなく与えられたテーマや
ちまたでの面白い噂話や事件やニュースを
即興で歌にして聞かせられる腕を求められたし
もちろん楽器の演奏もそうだし
社交性というか歌以外に話術なんかも含めて
ありとあらゆる裁量を身につけなければならなかった
雇い主というか金蔓?な有力者のご機嫌とるために
彼らの作ったクソミソみたいな詩を褒め称えて
それに美しい曲をつけて満足させないといけなかったし
(そりゃ作曲技法も身に付くってか上手くなるわな)
そしてそれだけでなく時と場合によっては
"男妾"もやらないといけなかったんだよね
いわゆるご婦人の閨のお相手 男娼と言うべきか
だから今生において恋多き人であったり
女性の扱いを心得ている人が多いのも頷けたりする
やたらとフェロモンあるなーって歌い手さん多いし
旅芸人もそう
川端康成の「伊豆の踊子」でも描かれていますけれど
彼ら旅芸人は芸だけでは食べていけず
受け入れてくれた先の豪農や豪商の人たち
その主人たちのお相手
つまりは枕営業つか売春がセットだった
(学生さんが心惹かれた彼女はまだ幼くて
あのふれあい旅の中では
それをしなくても良い無邪気なところにいたけれど
やがてそれをしなくてはいけなくなるって匂わせ)
瞽女たちも同じ 芸だけでは食べていけないから
どうしてもそういうのがついて回る
なんかそういう昔から
芸を見せる人=パトロンとのご奉仕関係
なんてのがあったということを考えると
現代の芸能界の腐敗具合ようするに
性接待みたい最低な風習も
理解したくないけど理解できるかな
女優さんなんかは過去生で
高級娼婦やってた人も少なくないし
ひと昔前のハリウッドの女優さんなんかは
お貴族様の時代に貴族の嗜みで演劇や歌や
楽器とかを手習としてしていた人多いし
ジプシー(ロマ)は歌や踊り 芝居 そして占いや魔術
あとはプチサーカス的な大道芸やってたけど
(フェリー二の「道」みたいなイメージ)
その時代に占い極めた人はそっち行くけど
歌とか踊りとか芝居が好きだったという人は
やっぱそっちにいきますわいね
芸妓さんとかやってた人もそうかな
とある昭和の女優さんは
過去生の自分の人生を実際に演じていたりして
なんとも不思議な縁です
そのために女優の道に進んだのか
たまたま自分以上に
過去の自分の役をやれる人がいなかったのか
いやはや必然であったのでしょう
けれども過去の自分の人生を演じて
現代の人に当時の自分の真実の思いを
自分をして伝えたかったとしても
"死"までも
過去をなぞる必要はなかったと思ったりする
さて少し 脱線したけれど
歌い手さんというのは やはりカリスマ性あってこそのもの
そして宗教が人々の道徳心を支えたり
良心を呼び覚まし
生き方や導きを啓蒙する
灯台となり得なくなった現代においては
歌というのはものすごくパワーを持っているのね
歌手すなわちアーティストって
ものすごい影響力と求心力と先導力を持っていて
ファンに様々なことをアピールすることができる
昨今はともかくとしてひと昔前のミュージシャンはとくに
(ジョン・レノンのLove&peaceとか
プロテストソングとかウッドストックとかライブエイドとか)
日本ではミュージシャンが
政治的発言をするのはタブーだけど
海外ではそのあたりオープンですし
だからね
ファンを教育するっていうと言葉が悪いんだけど
自らのファンに伝えられることを伝えるってのも
彼らのお役目だったりするのね
それができるかどうかがカルマのレッスンだったりもする
自分たちの影響力を理解した上でそれをどう利用するかってこと
社会的な影響力そして発信力
それらをどのように使っていくべきか
ちゃんと考えないといけない
言葉という言霊(言魂)をどのように使っていくのか
曲(歌)を聞いた人に対する責任があるってことを理解して
自分たちの活動の方向性に責任持って取り組まないとなのデス
実際のところ そこまで考えて
音楽やっている人って少ないと思うけどね
ただ歌うのが好き 音楽やってるのが楽しいとか
みんなそんな理由なんでしょうし
ファンを大切にするとかも大事だけど
それ以上に自分たちの音楽で何を伝えていくのか
歌で人を癒し勇気付けたり元気にするだけでなく
それだけでなくてその先を考えてないと
いつかは行き詰っちゃって
長くは続けられないってのはありますね
今の時代では芸術的なこと
アーティスティックな活動とか音楽やってる人は
時代からそこまで求められていたりするんで
俳優さんとか女優さんに関しての書き残したことなど
次回に持ち越しします
2020/07/13
未来に託した贖罪と希望〜職業別カルマ②
どんな魂も
偶然にこの世界にやってきたなんてことはない
以前に抱いた理想を達成したくて生まれてきているのだ
そして今でも
その理想の達成を求め続けているというわけである
by エドガー・ケイシー(3051-1)
ここで私が書くことは
必ずしもその職業のステレオタイプのことではないし
その職を選ぶ人の絶対的なカルマというものではない
あくまでそのような傾向の人が多かった
という一つの発見的な考察であり
それは全体像を見たときに
最小単位としての部分的な意見にしかすぎず
すべての人に当てはまるケースではないということを
予めお断りしておく
但し何かの事例において
その人のカルマのレッスンを知ろうとしたり
現状置かれている出来事の裏に隠れている
何らかの因果関係的な要因を知る上で
参考になるかもしれないということで
記録的記述としての"まとめ"として理解して頂きたい
すべての人が自由意志を与えられていて
"経験したいと思うすべてのこと"を経験し
"なりたい自分になる"ために
この世(現実世界)での人生を公平に与えられているので
生き方ならびに職業の自由選択があり
(それぞれの魂が持っているミッションとは別に)
過去生において自分が何を望んだか
来世たる今生の自分に何を託したか
ということをまったく覚えていずとも
毎回好きな職業を選ぶことが許されている
もちろんカルマのレッスンによる導き
ブループリント(生まれる前の事前計画書)による仕掛け
そういうものに誘導されることもしばしばだが
基本的には本人の意志がすべて
運命に絶対的な強制力はなく
本人の意志に勝るものはないので
意志は時に運命さえも変更させる
逆を言えば
せっかくの運命の御膳立てを台無しにするのも
当人の意志決定そのものなのである
何万年も何千年もたくさんの人生を生きる中で
種々様々な職業 あらゆる仕事を経験する人もいるし
一貫していつも同じような仕事をする人もいる
それは一つの人生でも同じこと
転職をたくさんする人 転職をまったくしない人
会社だけ変えて業種業界は同じ人
業種も業界も職種さえも変えて 転々とする人
そこに良い悪いはない
その人生と結果に後悔するのも満足するのも当人次第
たった一つのやりたいことを実現するために
何回かの人生でそのための努力を重ねて
千年先にその芽花を咲かせる人もいるし
いったんあきらめて中断していたことを
再びの情熱とともに才能を使い始める人もいる
けれど
何しろ変化し成長しているのは人間だけでなく
時代や文化も大きく変化していくから
必要が無くなっていく仕事もあるし
技術や知識でさえ役に立たなくなっていくものもある
だから一つの人生だけならともかく
いつも同じ仕事を続けるというのは難しい
さて私は派遣の仕事で
製薬メーカーに数年勤務していたことがあるのと
クライアントとしての薬剤師の方を何人か見た経験上
やはり過去生で同種の職業に従事していた人が
多いように思いました
現在は薬剤師であっても
過去には中医学系の医師すなわち漢方医だった人もいたし
教会の修道士や修道女として薬草を育てて通じていた人
(看護士さんの中にも修道女していた人多いです)
山に入ってそうした漢方の材料や薬草を採取していた人
スパイスや香料を採取したり販売することをしていた人
薬草魔女という名の民間療法医だった人もいるし
オカルティック(錬金術的)な研究に興じていた人も
医師に関しても過去にそのようなことしていた人
少なくはないですね
ただ外科医の人は
どちらかというと今の職業とは別で
過去に他人の命を奪うことをしていた人が
まるで過去に奪った命の数を救うべく
その仕事をしている人が多いようです
職業的には騎士というか兵士だったというか
戦争で他人の身体を切り刻むことをした人生があって
今生では他人の命を奪うために刃物を使うのではなく
他人の命を繋ぐために刃物を使っているのでしょう
自分が奪った命の数だけ
切り刻んで損傷させ肉片にしてしまった肉体の数だけ
その肉を生あるものとして繋ぎ合わせ
再び動くように蘇らせることが償いであるがごとく
そのせいか知らないけど
彼らはとてもドライで淡々と仕事をこなす人多いし
(過去たくさんの死体を屍の山として見てきた経験からか)
これも彼らに取って贖罪の形としての人生
ちょっとここ「鋼の錬金術師」の
マルコ医師やノックス医師を思い出してしまいます
そして産婦人科医
漢方系の薬剤師にしても子供に関わること
とくに出産や不妊に関することに関わっている人の中には
"命"を調節するようなことに関わってきた人もいますね
その逆で今回は"命"を生み出すための仕事をしていたり
母体の安全や子供を守ることをしている人も少なくない
実際問題として
老舗の薬家(江戸時代から続く)に生まれた人いましたが
ご先祖様は堕胎薬も扱っていてそちらで儲けてもいて
その方も子供達の命を奪うことをしていたことがあって
そうした"家"が背負った負のカルマとともに
自らの贖いとして今は命を救済することをされている
そういう人もいます
でももちろん純粋に人の命を救いたいという思いで
崇高な志を持って医療従事者の道に進まれる方のほうが
人数的には圧倒的ではありますよ
そのような方々の職業選択の理由は
カルマのレッスンというよりは
使命と精神性の目覚めであり愛による道の選択です
ここで書いているのはカルマのレッスンを背負って
その職業的な選択をすることになった人の話を
カルマのケースファイルとして上げているだけですから
刑事さんとか一部探偵とか調査的な仕事をしている人は
自らが過去の人生において冤罪の被害者だったり
真実をねじ曲げられたことからの被害者だったとか
自らが犯罪被害者だったり遺族だったりとか
そういう人がわりといます
そのような方は正義感がとても強くて粘り強くて
良い刑事さんとか調査員 捜査官になりますよね
普通の警察官だと兵士とか軍隊というか武士とか
国を守ることをしていた上つ方に使える仕事をしていた人
多いかな
自衛隊もそうですが
ただとぉっても嫌な理由で
この手の職業選択をされた方もいて
中には異端尋問官とか拷問を生業としていた人が
転生してまた似たようなことができる職として
警察官とか刑事とか司法の仕事とか
人を捌き断罪する仕事に就いているのは
まったく腹ただしいこと
例えば昭和において冤罪事件を作り出すのが
お得意だった紅林なんてのは
歴史上でも有名な異端尋問官だった奴で
それ以前にも中国史において残虐非道なことをした
とてもクレイジーな人物でした
この人には反省とか償いの言葉は無縁なんだろうなあ
(こやつの顔は写真見てるだけで殴りたくなります)
なのでカルマのレッスンで
このような職業に従事している人たちは
自らの意志というよりは国や権力者の下僕として
なんの考えなしにその任務を遂行していた頃のやり直し
人間としての自分の意志で職務(その役割)を考える
チャンスを再び与えられているということ
人の心を今回はちゃんと持つことができているのか
人として同胞に対して接することができるのか
本当に守るべきものはなんであるのか
自分たちが使えるべきものがなんであるのか
誰のためにその仕事をしているのか
そこをきちんと考えて行動できないといけない
人としての仁義であり道徳
愛を試されてるって感じでしょうか
そして短めにしたいのでここらへんで
とぅーびーこんてぃにゅー
偶然にこの世界にやってきたなんてことはない
以前に抱いた理想を達成したくて生まれてきているのだ
そして今でも
その理想の達成を求め続けているというわけである
by エドガー・ケイシー(3051-1)
ここで私が書くことは
必ずしもその職業のステレオタイプのことではないし
その職を選ぶ人の絶対的なカルマというものではない
あくまでそのような傾向の人が多かった
という一つの発見的な考察であり
それは全体像を見たときに
最小単位としての部分的な意見にしかすぎず
すべての人に当てはまるケースではないということを
予めお断りしておく
但し何かの事例において
その人のカルマのレッスンを知ろうとしたり
現状置かれている出来事の裏に隠れている
何らかの因果関係的な要因を知る上で
参考になるかもしれないということで
記録的記述としての"まとめ"として理解して頂きたい
すべての人が自由意志を与えられていて
"経験したいと思うすべてのこと"を経験し
"なりたい自分になる"ために
この世(現実世界)での人生を公平に与えられているので
生き方ならびに職業の自由選択があり
(それぞれの魂が持っているミッションとは別に)
過去生において自分が何を望んだか
来世たる今生の自分に何を託したか
ということをまったく覚えていずとも
毎回好きな職業を選ぶことが許されている
もちろんカルマのレッスンによる導き
ブループリント(生まれる前の事前計画書)による仕掛け
そういうものに誘導されることもしばしばだが
基本的には本人の意志がすべて
運命に絶対的な強制力はなく
本人の意志に勝るものはないので
意志は時に運命さえも変更させる
逆を言えば
せっかくの運命の御膳立てを台無しにするのも
当人の意志決定そのものなのである
何万年も何千年もたくさんの人生を生きる中で
種々様々な職業 あらゆる仕事を経験する人もいるし
一貫していつも同じような仕事をする人もいる
それは一つの人生でも同じこと
転職をたくさんする人 転職をまったくしない人
会社だけ変えて業種業界は同じ人
業種も業界も職種さえも変えて 転々とする人
そこに良い悪いはない
その人生と結果に後悔するのも満足するのも当人次第
たった一つのやりたいことを実現するために
何回かの人生でそのための努力を重ねて
千年先にその芽花を咲かせる人もいるし
いったんあきらめて中断していたことを
再びの情熱とともに才能を使い始める人もいる
けれど
何しろ変化し成長しているのは人間だけでなく
時代や文化も大きく変化していくから
必要が無くなっていく仕事もあるし
技術や知識でさえ役に立たなくなっていくものもある
だから一つの人生だけならともかく
いつも同じ仕事を続けるというのは難しい
さて私は派遣の仕事で
製薬メーカーに数年勤務していたことがあるのと
クライアントとしての薬剤師の方を何人か見た経験上
やはり過去生で同種の職業に従事していた人が
多いように思いました
現在は薬剤師であっても
過去には中医学系の医師すなわち漢方医だった人もいたし
教会の修道士や修道女として薬草を育てて通じていた人
(看護士さんの中にも修道女していた人多いです)
山に入ってそうした漢方の材料や薬草を採取していた人
スパイスや香料を採取したり販売することをしていた人
薬草魔女という名の民間療法医だった人もいるし
オカルティック(錬金術的)な研究に興じていた人も
医師に関しても過去にそのようなことしていた人
少なくはないですね
ただ外科医の人は
どちらかというと今の職業とは別で
過去に他人の命を奪うことをしていた人が
まるで過去に奪った命の数を救うべく
その仕事をしている人が多いようです
職業的には騎士というか兵士だったというか
戦争で他人の身体を切り刻むことをした人生があって
今生では他人の命を奪うために刃物を使うのではなく
他人の命を繋ぐために刃物を使っているのでしょう
自分が奪った命の数だけ
切り刻んで損傷させ肉片にしてしまった肉体の数だけ
その肉を生あるものとして繋ぎ合わせ
再び動くように蘇らせることが償いであるがごとく
そのせいか知らないけど
彼らはとてもドライで淡々と仕事をこなす人多いし
(過去たくさんの死体を屍の山として見てきた経験からか)
これも彼らに取って贖罪の形としての人生
ちょっとここ「鋼の錬金術師」の
マルコ医師やノックス医師を思い出してしまいます
そして産婦人科医
漢方系の薬剤師にしても子供に関わること
とくに出産や不妊に関することに関わっている人の中には
"命"を調節するようなことに関わってきた人もいますね
その逆で今回は"命"を生み出すための仕事をしていたり
母体の安全や子供を守ることをしている人も少なくない
実際問題として
老舗の薬家(江戸時代から続く)に生まれた人いましたが
ご先祖様は堕胎薬も扱っていてそちらで儲けてもいて
その方も子供達の命を奪うことをしていたことがあって
そうした"家"が背負った負のカルマとともに
自らの贖いとして今は命を救済することをされている
そういう人もいます
でももちろん純粋に人の命を救いたいという思いで
崇高な志を持って医療従事者の道に進まれる方のほうが
人数的には圧倒的ではありますよ
そのような方々の職業選択の理由は
カルマのレッスンというよりは
使命と精神性の目覚めであり愛による道の選択です
ここで書いているのはカルマのレッスンを背負って
その職業的な選択をすることになった人の話を
カルマのケースファイルとして上げているだけですから
刑事さんとか一部探偵とか調査的な仕事をしている人は
自らが過去の人生において冤罪の被害者だったり
真実をねじ曲げられたことからの被害者だったとか
自らが犯罪被害者だったり遺族だったりとか
そういう人がわりといます
そのような方は正義感がとても強くて粘り強くて
良い刑事さんとか調査員 捜査官になりますよね
普通の警察官だと兵士とか軍隊というか武士とか
国を守ることをしていた上つ方に使える仕事をしていた人
多いかな
自衛隊もそうですが
ただとぉっても嫌な理由で
この手の職業選択をされた方もいて
中には異端尋問官とか拷問を生業としていた人が
転生してまた似たようなことができる職として
警察官とか刑事とか司法の仕事とか
人を捌き断罪する仕事に就いているのは
まったく腹ただしいこと
例えば昭和において冤罪事件を作り出すのが
お得意だった紅林なんてのは
歴史上でも有名な異端尋問官だった奴で
それ以前にも中国史において残虐非道なことをした
とてもクレイジーな人物でした
この人には反省とか償いの言葉は無縁なんだろうなあ
(こやつの顔は写真見てるだけで殴りたくなります)
なのでカルマのレッスンで
このような職業に従事している人たちは
自らの意志というよりは国や権力者の下僕として
なんの考えなしにその任務を遂行していた頃のやり直し
人間としての自分の意志で職務(その役割)を考える
チャンスを再び与えられているということ
人の心を今回はちゃんと持つことができているのか
人として同胞に対して接することができるのか
本当に守るべきものはなんであるのか
自分たちが使えるべきものがなんであるのか
誰のためにその仕事をしているのか
そこをきちんと考えて行動できないといけない
人としての仁義であり道徳
愛を試されてるって感じでしょうか
そして短めにしたいのでここらへんで
とぅーびーこんてぃにゅー
2020/07/10
未来に託した贖罪と希望〜職業別カルマ①
エクササイズに関する誘導瞑想の音源を
昔からリクエストされていることもあって
昨年Youtubeを使っていくことも少し考えたのですが
それはちょっとやはり自分には向いてないと思ったり
実際のところ
ブログに文字を打ち込む作業はなんとかなっているけれど
画像加工やら動画編集ソフトを細かくいじるには
視力がもう難しいという現実もありますの
手伝ってくれる人がいないと難しいのですよ
だからやっぱりブログでちまちま記事を書いていくのが
自分には一番合っているのだなと思います
ブログ自体が今ではもう
ネットの世界ではアナログになりつつあるのでしょうけど
そしてブログにしても書く内容に関しては
いつも何処まで書いていいものか悩みながら書いています
でもいつまでこのブログを書くことができるのだろう?
ということを考えると
今のうちに書けることは書いておこうかなぁ
書いて伝えておかないとなあとも思ったり
目の状態はよくなったり悪くなったりなので
ちなみに左目も白内障でして
それ以前にこの左目には大きな紙魚というか
飛蚊症の塊があるのです
ど真ん中にあるこれはとても面白い形をしています
随分と昔からあるものですが
人間て切り株とかロールシャッハテストで
なんでも人の顔に見てしまうというか
自分が知っている何かの形に結び付けて
それらを識別してしまう現象があるんですけど
私のこの目の影は地蔵菩薩の梵字の形に見えるんですね
ていうかなんだろう?この形は
と思って調べたときに梵字に似てるってそれだけ
ありがたいものに見えるものではあるけれど
視界を遮るのでものすごく邪魔w
右目は右目で世界が歪んでみえるし
なので左目と右目と見えかたがまったく異なってる
だからカンで動いている感じですねー
たまたまなんですけどね
それにしても
子供の頃から神社好きではありますが
仏教はもともとよくわからない人です
知識は手塚ブッダ止まりだし
さてさて
そんなこんなでここはこっそりやっている
あんまし目立つブログではないから
書いちゃってもいいかなーということも少しずつ
そもそも信じてもらおうと思ってもないからあれです
わかる人だけがわかればいいことで
ここにたどり着いた人だけが知ってればいい内容
見つけられる人が見つけてくれる知識であればいい
理解できる人だけが知っていればいいことかなー
一般の人向けではない
その道を目指す人とか後進(後輩)向けの知識なんで
少し前の記事で
報道とか編集関係の人のカルマについて
ちょこっと触れました
私自身の職業柄たまたま
編集さんとか出版関係の人とかと接する機会があったり
記○クラブの会員さんと座禅でご一緒させて頂いてて
そのご縁で某所の会食に参加させて頂くことがあったり
そんなんでそれらの方たちを見てきた経緯があって
気がついたことでもあるし
お客さんとしての彼らの過去を見させて頂いた
そんなこんなもあって知ることが多かったかな
統計データを取れるほどの
膨大な人数の人たちと関わったわけではないですが
真実を報道する それらを捻じ曲げずに
国民(民衆)に真実を伝えるってのが
集合体無意識レベルでの彼らの使命というか
ほとんどの人のカルマのレッスンとしてありましたね
私利私欲に走らず どれだけ信念を貫けるかのお試し
でも彼ら自身が口にしていたように
「報道しない自由」がマスコミにはあるってことだから
残念ながら自らの今生での使命(ミッション)に
忠実に生きられている人は少ないようです
真実の歴史を改竄し
勝者の都合の良いように敗者の足跡を葬り
そしてその時の主権たる権力者のための
プロパガンダに加担してきた方達
そういう罪とそこに関わる
カルマのレッスンを持つ人がひじょーに多いです
昨今のネット民が「マスゴミ」と揶揄糾弾してますけど
彼らの中には罪深い人たちが実に多いのですよ
面白いことにそういう人たちだけじゃなくて
実際に政治家だった人たちもいましたね
歴史に必ず出てくる蘇我入鹿さんや蝦夷さん
今この現代に生きていらっしゃいますよ
みなさんびっくりなさるでしょうけど
(二人は今は親子ではないが一時的に上司と部下だった)
出版関係の方です 政治経済関係
入鹿さんは相変わらず性格歪んでますが
1400年経っても嫌なやつなんだなこれが
って言っても私は会ってないですよw
間接的に知っているだけです
そしてご当人も自分が過去生で
そんな歴史上の人物だったことなど知りません
(今の霊性の段階で思い出されても困るし)
本人はこんなふうに何度も転生してるのに
1400年前のこの人の体の一部は
呪いのアイテムになっちゃったりしてるんだから
面白いなあって思います
入鹿さんが殺されちゃった事件に関わった人の一人
かつて斉明天皇だった人も今の時代にいます
この人は後にもう一回天皇に生まれてまして
その後にも歴史上の有名人としての人生生きてます
この人に関しての情報開示はここまでが限界
石川麻呂さんも今の時代に生きてますよ
普通の編集者さんですけども
実に濃くて面白い転生遍歴を持っています
(ようするにこの方からすべては紐解けて
繋がって色々と・・・なんですね
彼らはあの事件とお互いに対するカルマで
繋がっているわけだから芋づる式に釣れてしまう
同時期に同じ国に生まれるということは
今回は双方にとってカルマの返済とかでの再会だし)
こういう人たちの人生遍歴というか
魂の履歴は面白いです…って面白がってはいけませんね
ものすごく濃いです 波乱万丈ですしね
やはりね
世の中を動かすことをされた人とかは
カルマのレッスンも重たいです
過去から濃い人生生きています
見ていて大変だなあと思います
あまり「業」という言葉は使いたくないんですが
まさに「宿業」というのを背負う形ですよね
歴史に名を残してしまった人の人生というのは
ああ
大正天皇だった方も今の時代に日本人の若者です
うちのお客さんではないし直接お会いしたことはありません
一般人としての自由な人生を謳歌しているようで何よりです
それがなんか嬉しいというか見守る気持ち
とりあえずさくっと書いてあとは
トゥビーコンティニューにします
(これまでは長い記事ばかりだったから短くを心がけてマス)
昔からリクエストされていることもあって
昨年Youtubeを使っていくことも少し考えたのですが
それはちょっとやはり自分には向いてないと思ったり
実際のところ
ブログに文字を打ち込む作業はなんとかなっているけれど
画像加工やら動画編集ソフトを細かくいじるには
視力がもう難しいという現実もありますの
手伝ってくれる人がいないと難しいのですよ
だからやっぱりブログでちまちま記事を書いていくのが
自分には一番合っているのだなと思います
ブログ自体が今ではもう
ネットの世界ではアナログになりつつあるのでしょうけど
そしてブログにしても書く内容に関しては
いつも何処まで書いていいものか悩みながら書いています
でもいつまでこのブログを書くことができるのだろう?
ということを考えると
今のうちに書けることは書いておこうかなぁ
書いて伝えておかないとなあとも思ったり
目の状態はよくなったり悪くなったりなので
ちなみに左目も白内障でして
それ以前にこの左目には大きな紙魚というか
飛蚊症の塊があるのです
ど真ん中にあるこれはとても面白い形をしています
随分と昔からあるものですが
人間て切り株とかロールシャッハテストで
なんでも人の顔に見てしまうというか
自分が知っている何かの形に結び付けて
それらを識別してしまう現象があるんですけど
私のこの目の影は地蔵菩薩の梵字の形に見えるんですね
ていうかなんだろう?この形は
と思って調べたときに梵字に似てるってそれだけ
ありがたいものに見えるものではあるけれど
視界を遮るのでものすごく邪魔w
右目は右目で世界が歪んでみえるし
なので左目と右目と見えかたがまったく異なってる
だからカンで動いている感じですねー
たまたまなんですけどね
それにしても
子供の頃から神社好きではありますが
仏教はもともとよくわからない人です
知識は手塚ブッダ止まりだし
さてさて
そんなこんなでここはこっそりやっている
あんまし目立つブログではないから
書いちゃってもいいかなーということも少しずつ
そもそも信じてもらおうと思ってもないからあれです
わかる人だけがわかればいいことで
ここにたどり着いた人だけが知ってればいい内容
見つけられる人が見つけてくれる知識であればいい
理解できる人だけが知っていればいいことかなー
一般の人向けではない
その道を目指す人とか後進(後輩)向けの知識なんで
少し前の記事で
報道とか編集関係の人のカルマについて
ちょこっと触れました
私自身の職業柄たまたま
編集さんとか出版関係の人とかと接する機会があったり
記○クラブの会員さんと座禅でご一緒させて頂いてて
そのご縁で某所の会食に参加させて頂くことがあったり
そんなんでそれらの方たちを見てきた経緯があって
気がついたことでもあるし
お客さんとしての彼らの過去を見させて頂いた
そんなこんなもあって知ることが多かったかな
統計データを取れるほどの
膨大な人数の人たちと関わったわけではないですが
真実を報道する それらを捻じ曲げずに
国民(民衆)に真実を伝えるってのが
集合体無意識レベルでの彼らの使命というか
ほとんどの人のカルマのレッスンとしてありましたね
私利私欲に走らず どれだけ信念を貫けるかのお試し
でも彼ら自身が口にしていたように
「報道しない自由」がマスコミにはあるってことだから
残念ながら自らの今生での使命(ミッション)に
忠実に生きられている人は少ないようです
真実の歴史を改竄し
勝者の都合の良いように敗者の足跡を葬り
そしてその時の主権たる権力者のための
プロパガンダに加担してきた方達
そういう罪とそこに関わる
カルマのレッスンを持つ人がひじょーに多いです
昨今のネット民が「マスゴミ」と揶揄糾弾してますけど
彼らの中には罪深い人たちが実に多いのですよ
面白いことにそういう人たちだけじゃなくて
実際に政治家だった人たちもいましたね
歴史に必ず出てくる蘇我入鹿さんや蝦夷さん
今この現代に生きていらっしゃいますよ
みなさんびっくりなさるでしょうけど
(二人は今は親子ではないが一時的に上司と部下だった)
出版関係の方です 政治経済関係
入鹿さんは相変わらず性格歪んでますが
1400年経っても嫌なやつなんだなこれが
って言っても私は会ってないですよw
間接的に知っているだけです
そしてご当人も自分が過去生で
そんな歴史上の人物だったことなど知りません
(今の霊性の段階で思い出されても困るし)
本人はこんなふうに何度も転生してるのに
1400年前のこの人の体の一部は
呪いのアイテムになっちゃったりしてるんだから
面白いなあって思います
入鹿さんが殺されちゃった事件に関わった人の一人
かつて斉明天皇だった人も今の時代にいます
この人は後にもう一回天皇に生まれてまして
その後にも歴史上の有名人としての人生生きてます
この人に関しての情報開示はここまでが限界
石川麻呂さんも今の時代に生きてますよ
普通の編集者さんですけども
実に濃くて面白い転生遍歴を持っています
(ようするにこの方からすべては紐解けて
繋がって色々と・・・なんですね
彼らはあの事件とお互いに対するカルマで
繋がっているわけだから芋づる式に釣れてしまう
同時期に同じ国に生まれるということは
今回は双方にとってカルマの返済とかでの再会だし)
こういう人たちの人生遍歴というか
魂の履歴は面白いです…って面白がってはいけませんね
ものすごく濃いです 波乱万丈ですしね
やはりね
世の中を動かすことをされた人とかは
カルマのレッスンも重たいです
過去から濃い人生生きています
見ていて大変だなあと思います
あまり「業」という言葉は使いたくないんですが
まさに「宿業」というのを背負う形ですよね
歴史に名を残してしまった人の人生というのは
ああ
大正天皇だった方も今の時代に日本人の若者です
うちのお客さんではないし直接お会いしたことはありません
一般人としての自由な人生を謳歌しているようで何よりです
それがなんか嬉しいというか見守る気持ち
とりあえずさくっと書いてあとは
トゥビーコンティニューにします
(これまでは長い記事ばかりだったから短くを心がけてマス)
明鏡止水
今のこのご時世 心を冷静に保つことは難しい
自分だけじゃない 誰しもが 皆がしんどいのだと
そう言い聞かせて 頑張って踏ん張ってもいるけれど
それでも気づかず間に 静かなるストレスが
自分を侵食していることに気づかされたりする今日この頃
少し前は妄想を暴走させて気分を爆上げすることをしたり
自粛生活にも慣れて それなりに
近郊を散歩して
ガラ空きの都内名所の散策を楽しんでもいたのだけれど
人と話せない
会いたい人に気軽に会えない状況ってのは
かなりキツイものですね
友達とのおしゃべりって 数人集まってわいわい騒いで
おしゃべりに花咲かせるのって
おばさんにとってはものすごく大切な時間なのだと実感
それが数ヶ月に一回とか 年に一回だけのことでも
メールとかすればいいものをそれすらする気力なく
用事以外では 返信もずっと放置しがち
メールは・・・簡単なことしか書けないし
会って顔を見て話すのが一番と考える世代でもあるし
数日前の怒り爆発で
自分も相当ストレス溜まってるなあと
改めて自覚させられたりしました
(ヒトカラに行けるようになったのが救いですけど
そうですね 絶叫系で少しだけ発散してきました)
私のような職業に携わるものが
あんなことでキレて軽率な発言して
忍耐なくてどーすんの!!とちょっと自己嫌悪
ダメですね
まだまだ修行が足りません
実際エクササイズや瞑想など
少しお留守になっています
自粛期間で時間があるにも関わらず
先の見えない不安というのを今は誰しもが抱えています
それでもってコロナ禍に加えてこの豪雨被害
日本がこのような状況(自然災害)に陥ってしまう
というのは十何年も前から言われていて
東日本大震災の前からもその後も
色々と警告はあったのですけれども
わかっちゃいるけれどもって感じですかね
コロナは人類全体が引き寄せて招いたことだし
日本の自然災害多発も日本人へのお試しだし
(あと某二カ国からの呪詛とか怨みの念もあるなあ)
3年前に土地の"お掃除活動"から私は外れたのですが
そこも少し考えますね
私がそこに加わったからとか外れたとかで
結果が変わるようなこともないのだれど
(私一人いるいないで左右するようなそんな力はないので)
外れてからは
私はそのポジションからは降りましたんで的な
無関係なところにいる存在として
かなり無責任だったようにも思います
自分程度のものに何ができるのかなあとも
今一度考えるべき時期に来ているのでしょう
このままでは日本という国はいつか
侵食されて無くなってしまうから
そんなことはそれだけは避けないといけない
日本はねぇ 確かに少し特殊というか特別な国です
選ばれたとかいうような言葉は使いたくないけど
だからこそ保たないといけないものがあって
守らないといけないものがたくさんあります
色々な意味で鍵を握っている国ですので
今生で日本人に生まれた自分がこの国でできること
きちんとやっていかないとなあと思っています
なんとかこのお試しの期間を乗り越えないといけませんね
2020/07/09
異次元ポータルとサイキカル界への径
これは補足というか追記ですね
また別の角度からの説明
前回ワープゾーン?といえばいいのかって
悩んだ媒介(媒体)になる物や場所のことですが
ゲームだとポータルが開くって言うふうに
よく表現されていることを思い出したり
訳すと「異次元への扉」ってところでしょうか
(あっていますかね?)
前回の説明では「繋がる」とか「リンクが貼られる」
というような説明をしたんですけれども
その方が誰もがイメージしやすいというか
一般的に理解されやすいので
便宜上その説明になっゃうんですね
きちんと説明すると
3次元(物質世界たる現実世界 マテリアル界)上の
とある地点ととある地点を結ぶリンクが貼られる
ということではなく
写真や映像に写されたり2次元的な絵で描かれ説明された
3次元(物質世界たる現実世界)上の出来事の場所にある
4次元(幽界/サイキカル界)に
それを視覚的に捉えた人すなわち読んだ人や見た人が
「行ってしまう」ということが起きるのです
この場合「行く」のは
4次元の身体(幽体/サイキカル体)ですけれども
繋がるという言い方で統一するなら
繋がりができるのは3次元のレベルではなくて
4次元のレベルになります
繋がるだけではなくて「行くこともできる」
のがミソなんだけども
何故って 4次元には時間とか空間の概念はないから
3次元は物質の世界で時間と空間概念があるから
A地点からB地点まで行こうと思ったら・・・
例えば日本からフランスまで行こうと思ったら
移動手段が必要になります
船に乗ったり飛行機に乗ったり電車に乗ったりなど
そしてそれをするためには時間が掛かります
でも4次元の世界においては一瞬です
これは幽体離脱とは全然違うのですけどもね
まぁ想念の世界ですから
だから瞬時にして誰かと繋がることもできる
想念というエレメンタルを創造して
それを誰かのもとに飛ばすこともできる(生霊とか)
すでに肉体を失った人に
声としての想いを届けることもできる
例えば既に死んだ父親が
別々の場所に住む息子たちに同時に思いを届けるとか
何かの記したるシグナルを発することもできる
サイキカル界っていうのはそういう世界
霊的な現象っていうのは得てして
4次元で起こっていることだから
(5次元ででもだけど そして3次元で起きていることではない)
その4次元に想いが向いたなら
4次元の身体であり目がそちらに向いたなら
それを捉えることは容易いし
その出来事の波動(周波数)にアンテナを合わせて
チャンネルをチューニングすることで
引き寄せることができる
前述のことはそれが起きたってこと
清姫さんに関しては
私の4次元の身体が
彼女を覗きに行ってしまったのでしょうね
見られていたことに気づいた彼女が
私を見に来たってだけ
バイカル湖もそうなのかなっっ汗
意識を合わせたら
「ここから出してくれー」ってことで
なんか助けを求められたのでしょう
そのSOSに気づく人は少ないけど
私はたまたま気づいたと
八甲田山で遭難した某連隊の某さんは
なんであの時あの場所で
意識の波長が合ってしまったのか
それはホント謎なんですけども
確かにもともと事件や事故やら犯罪史やら
歴史とかとか史実を調べるのがダイスキーな私のこと
あの映画も見ているし
取り上げた動画も改めて見たことあるし
朝の5時の御堂はとても寒くて
正座してたなら足も痛くて
眠いは寒いは足は痺れるわで
とてもありがたいお経などに集中していなかったことから
なんかたまたまなのかなー??
とは思っています
それと蛇足ですけど
祖父(母方)の霊と遭遇できているのは
なぜか親族で私だけなんです
一緒に暮らしたことなんてないんですけどね
里帰り出産の時に数ヶ月いただけで
後は数年に一回の帰省した時だけ
数えるほどしか会ったことないんですよ
親しく話したこともほぼないし
(だからこそ突然の出没は怖くてびっくりさせられる)
対象的に母方の祖母はたくさんの人が目撃している
生きている時から(半身不随で寝たきりでしたので)
幽体離脱してあちこちの人に目撃されてたり
死んでからも親族以外の人のとこにも出没するしで
悪霊ではないんだけど怖い幽霊扱いw
でも私は逆に祖母には一度も遭遇したことがない
同じ家の中で母が祖母に襲われている(謎)時でさえ
気づかないという位に祖母に対しては鈍感
父方の祖母には2度ほど会ってますけどね
メッセージは受け取ることもあったし
どっちも死んだ後ですが
父親(祖父)ダイスキーな母にしてみれば
自分のとこには出てこないのになんで
お前のとこには出るねんって思ってるみたいですが
そうですね
母方の親族はわりとみんな
「視る」「遭遇する」たちで
子供の頃からそのような体験はわりとしているので
怖いって感覚はないみたいですね
(だって目の前が墓場な家だったもん
縁側から人魂見学できるんですよ
今はもうその家もなくその土地には親族いませんが)
祖父のお葬式の時にも色々ありましたしねー
火葬場でちょっとね ふふふふふふふ
って私は行ってませんが
叔母の旦那さんとか従姉妹の旦那さんたちは
ほとんどそういうの信じてない人たちだけど
そういう人たちでさえ例の「恐怖の離れ」に
泊まった時には恐ろしい体験をしたとかで
二度とあの離れに近づきたくないって言ってたなあ
(そんな部屋で熟睡できちゃう私って一体)
いやでも十分に怖いですよ
私はとても怖がりな人間ですから
(映画「死霊館」見て電気消して眠れなかったモン)
てなわけでちょっとさっくりな補足でした
また別の角度からの説明
前回ワープゾーン?といえばいいのかって
悩んだ媒介(媒体)になる物や場所のことですが
ゲームだとポータルが開くって言うふうに
よく表現されていることを思い出したり
訳すと「異次元への扉」ってところでしょうか
(あっていますかね?)
前回の説明では「繋がる」とか「リンクが貼られる」
というような説明をしたんですけれども
その方が誰もがイメージしやすいというか
一般的に理解されやすいので
便宜上その説明になっゃうんですね
きちんと説明すると
3次元(物質世界たる現実世界 マテリアル界)上の
とある地点ととある地点を結ぶリンクが貼られる
ということではなく
写真や映像に写されたり2次元的な絵で描かれ説明された
3次元(物質世界たる現実世界)上の出来事の場所にある
4次元(幽界/サイキカル界)に
それを視覚的に捉えた人すなわち読んだ人や見た人が
「行ってしまう」ということが起きるのです
この場合「行く」のは
4次元の身体(幽体/サイキカル体)ですけれども
繋がるという言い方で統一するなら
繋がりができるのは3次元のレベルではなくて
4次元のレベルになります
繋がるだけではなくて「行くこともできる」
のがミソなんだけども
何故って 4次元には時間とか空間の概念はないから
3次元は物質の世界で時間と空間概念があるから
A地点からB地点まで行こうと思ったら・・・
例えば日本からフランスまで行こうと思ったら
移動手段が必要になります
船に乗ったり飛行機に乗ったり電車に乗ったりなど
そしてそれをするためには時間が掛かります
でも4次元の世界においては一瞬です
これは幽体離脱とは全然違うのですけどもね
まぁ想念の世界ですから
だから瞬時にして誰かと繋がることもできる
想念というエレメンタルを創造して
それを誰かのもとに飛ばすこともできる(生霊とか)
すでに肉体を失った人に
声としての想いを届けることもできる
例えば既に死んだ父親が
別々の場所に住む息子たちに同時に思いを届けるとか
何かの記したるシグナルを発することもできる
サイキカル界っていうのはそういう世界
霊的な現象っていうのは得てして
4次元で起こっていることだから
(5次元ででもだけど そして3次元で起きていることではない)
その4次元に想いが向いたなら
4次元の身体であり目がそちらに向いたなら
それを捉えることは容易いし
その出来事の波動(周波数)にアンテナを合わせて
チャンネルをチューニングすることで
引き寄せることができる
前述のことはそれが起きたってこと
清姫さんに関しては
私の4次元の身体が
彼女を覗きに行ってしまったのでしょうね
見られていたことに気づいた彼女が
私を見に来たってだけ
バイカル湖もそうなのかなっっ汗
意識を合わせたら
「ここから出してくれー」ってことで
なんか助けを求められたのでしょう
そのSOSに気づく人は少ないけど
私はたまたま気づいたと
八甲田山で遭難した某連隊の某さんは
なんであの時あの場所で
意識の波長が合ってしまったのか
それはホント謎なんですけども
確かにもともと事件や事故やら犯罪史やら
歴史とかとか史実を調べるのがダイスキーな私のこと
あの映画も見ているし
取り上げた動画も改めて見たことあるし
朝の5時の御堂はとても寒くて
正座してたなら足も痛くて
眠いは寒いは足は痺れるわで
とてもありがたいお経などに集中していなかったことから
なんかたまたまなのかなー??
とは思っています
それと蛇足ですけど
祖父(母方)の霊と遭遇できているのは
なぜか親族で私だけなんです
一緒に暮らしたことなんてないんですけどね
里帰り出産の時に数ヶ月いただけで
後は数年に一回の帰省した時だけ
数えるほどしか会ったことないんですよ
親しく話したこともほぼないし
(だからこそ突然の出没は怖くてびっくりさせられる)
対象的に母方の祖母はたくさんの人が目撃している
生きている時から(半身不随で寝たきりでしたので)
幽体離脱してあちこちの人に目撃されてたり
死んでからも親族以外の人のとこにも出没するしで
悪霊ではないんだけど怖い幽霊扱いw
でも私は逆に祖母には一度も遭遇したことがない
同じ家の中で母が祖母に襲われている(謎)時でさえ
気づかないという位に祖母に対しては鈍感
父方の祖母には2度ほど会ってますけどね
メッセージは受け取ることもあったし
どっちも死んだ後ですが
父親(祖父)ダイスキーな母にしてみれば
自分のとこには出てこないのになんで
お前のとこには出るねんって思ってるみたいですが
そうですね
母方の親族はわりとみんな
「視る」「遭遇する」たちで
子供の頃からそのような体験はわりとしているので
怖いって感覚はないみたいですね
(だって目の前が墓場な家だったもん
縁側から人魂見学できるんですよ
今はもうその家もなくその土地には親族いませんが)
祖父のお葬式の時にも色々ありましたしねー
火葬場でちょっとね ふふふふふふふ
って私は行ってませんが
叔母の旦那さんとか従姉妹の旦那さんたちは
ほとんどそういうの信じてない人たちだけど
そういう人たちでさえ例の「恐怖の離れ」に
泊まった時には恐ろしい体験をしたとかで
二度とあの離れに近づきたくないって言ってたなあ
(そんな部屋で熟睡できちゃう私って一体)
いやでも十分に怖いですよ
私はとても怖がりな人間ですから
(映画「死霊館」見て電気消して眠れなかったモン)
てなわけでちょっとさっくりな補足でした
2020/07/06
呪詛とカルマと引き寄せと
前回の記事の続き 続き及び補足ではあるけれど
少し内容変わってくるのでタイトルは別になってます
さて
前述の考えられる原因⑤
これはちょっと説明が難しい部分もあるんですけれど
その出版されるテーマ
扱われる記事(事件や事象など)の中に
"呪い"が発動する仕掛けが設定されたものが
混じっているという可能性です
それは土地かも知れませんし
事件や出来事そのものかも知れません
事件や出来事で使われたものである可能性もあります
写真に撮られた何かに掛かっている場合もあるし
今回は一人だとか次は三人だとか不定数ではなく
いつもほぼ決まった人数の人がということですので
もしかしたらもしかしたらですけれど
そのことに触れると"贄"が発生してしまう仕組みなのかも
これだとするなら普通の御祓とか護法術では無理です
相当な呪詛級のものなので
ええ そういうのってありますよ
さほど多くはないですけど 稀に
原因となっているものを洗い出して特定し
扱うことをタブーとして過去の資料も封印しないとです
じゃないと避けられないかな
こういうのを消すことができる人はいることはいるけど
そういう人を探し出すこと自体が難しいでしょうね
(ルートが開かないとネ←ちょっと意味深)
私はこういう基礎知識だけはあるけどもそれだけです
様々な原因を検討して推察したり情報を読み取ったり
特定するところまではできるけどもそこまでが限界
実力以上のことには手を出さないのが賢明
(まあ持ち込まれないってことがそもそもの答え)
普通の人は近寄らないのが一番
君子危うきに近寄らず
で呪詛というか祟りというか有名な呪いの話
以前どこかでも書いたと思いますけど
ツタンカーメン(トゥトアンクアムン)の呪いね
とはいうものの あれは呪いではないです
みんなが死んだのは
ウイルスか病原菌かによる感染症です
カーターは現地でずっと現地人と同じ生活していたから
(同じものを食べて水を飲んで)免疫力が既についていたの
他の西洋人は耐性がなかった それだけ
今回のコロナのごとく
でもカルマは関係していました
ハワード・カーターにはどうしても
ツタンカーメンという歴史の闇に葬られた少年王を
発掘して存在を明らかにしなくてはならないという使命
すなわちカルマによる贖罪をしなくてはならなかった
何故って誰あろうハワード・カーターその人が
過去生においてツタンカーメン王その人を
手にかけて殺害した策略の主犯つか首謀者だったから
この場合のカルマってレッスンというよりは
過去の詫びというか行いに対する償いのほう
カーターの発掘に対してお金を出したパトロン
カーナヴォン卿もそう それ以外の人たち
新聞記事にするべく集まってきた人たちもそう
ようするに亡くなった人の大半なんだけども
彼らはツタンカーメンという人を葬った人たちだし
その父親アメンホテプ4世と彼が行ったアマルナ改革
に反対してそれを白紙にすることをした人たち
だから呪いっていうよりはカルマの精算かなあ
もしかしたらお金儲けとか利害とかなんていうか
彼らの目的がそういうところではなく
もっと純粋な気持ちで発掘に対して協力的であったなら
人として霊的にも精神的にも成長していたならば
感染症に掛かって死ぬことはなかったかもしれない
そういう意味ではカーター氏は
4千年前かよりは人間的に成長していたのでしょう
霊性が高くなっていたというか(意識高い系❓)
別に祟りではないけれども結果的には祟りになってるか
彼の呪いではないということで冤罪は晴らしておくっっ
そして
写真とか映像とか漫画とか
そういうのでも"繋がる"ことってあるのね
例えば 恐怖漫画 ホラー漫画っていうのかな
物というか描く人(作者さん)にもよるんだけど
描くことで場所とか人と繋げてしまうことがあるの
で
それを読んだ人が
その場所や描かれた人物とリンクしてしまって
呼び込んでしまうことがある
うんとー 亡くなった人がいたりする場合
読むことでそのエネルギーと繋がり
描かれている亡くなった存在を呼んでしまう
(自分のいるとこに呼び出しちゃうっていうかー)
単なる場所だとしても場所とリンク張れちゃうのですよ
なんかゲームとかの世界観の中に
こういう現象のよい呼び方があったような気がするけど
思い出せない
ワープゾーンではなくて なんだったけ
ワープゲート❓ むむ なんかまあそういうの
本(絵)や写真が媒介するの 媒体となって
なので心霊特集のテレビとかは害悪になるので
制作もですが放映するものではないと思います
漫画とかに関していうならば
ホラー漫画とかは他の漫画に比べて
早く劣化してしまう場合が多々あります
さほど読んでもいないのにいつの間にか
バラバラになってしまうというのかな
黒ずんでしまったりとか変色するとか
よくそういう話を聞きますけども
「恐怖新聞」とか「うしろの百太郎」とか
「漂流教室」とか 永久保先生の漫画
楳図先生 つのだ先生の作品なんかね
それは"負"のエネルギーを寄せつけやすいからですけど
所持している人によっては大丈夫だったりもする
(そんな理由で私も
その手の本を何冊か押し付けられたことあります
だから私は供養寺ではありませんてば!!
アナベル人形とか呪いの椅子とか
絶対無理だし冗談じゃないし)
そして私自身も繋がっちゃったことはありますよ
小学校の時だったかなー
その前日にテレビの心霊特集で
安珍清姫伝説のお寺で撮影された心霊写真
見てしまったのね
なんの気なしにじぃーっと見入ってしまった
そのまま忘れてたけど
翌日体育の授業で着替えていて
体操着を上から被って首を出した瞬間
いたんだよ そこに
空中に浮かんでたんだがね
(ちゃんと立体的に存在感ばっちり)
目があったよ
(てかー こっち見てたし見下ろされてたし)
写真のままの清姫か❓って呼ばれてた着物姿の女性が
白目剥いて倒れて失禁しそうになった
いやはや
「ぎょぇぇぇえええええ〜!!」
という
悲鳴上げただけでなんとか堪えましたけど
教室から走ってトイレに逃げた
しばらくガクブルだった
失禁なんかしたら
男子に一生言われ続けるところだった
(祖父が亡くなってから
私のところに二度ほど姿現したときも
同等の反応で叫びまくって逃げた私
身内でさえ怖いのに
あんな・・・恐ろしいこぇぇお人はマジ勘弁)
大人になってからもありましたかねー
ただ今は肉眼で立体的に
そこにいる人のようにってのは
ほぼ(まったくないわけではないけど)ないので
脳内妄想的な映像で済んでいますけど
バイカル湖の映像を見てしまったならば
バイカル湖を渡りきれずに凍死してしまった
大量の人と繋がってしまったことがありまして
とっても寒くて寒くて死にそうになりました
(あげるのも大変だった 大人数すぎて
過去生ロシア人だったことあるからっていっても
今の私にはロシア語なんてわからないんだよ〜)
一ヶ月かかったよ
それでも全員あげられたかどうかわかんないよ
カラオケでその間ずっとロシア語の歌を歌ってたよ
発音はめちゃくちゃテキトーだったけどさ
奈良の某寺で毘沙門天さんの油浴なんちゃらを
朝の5時から見物させていただいていたならば
どうしてだか八甲田山でお亡くなりになった人が
「助けて欲しいのです」
どうしてここ青森じゃないよ❓
東北でもないよ
奈良だよ奈良 関西だよ❓
どーして❓
君たちの命日とも関係ない日だよ❓
あの死の雪行軍から何十年経ったと思ってるの❓
まだ上がってなかったの❓
え 何 マジー❓❓❓
と頭ぐるぐるパニック
いやその 今目の前で仏像拝んでる
お坊さんの方に頼んでよー
担当はそっちでしょ❓
頼む人 間違えてるよ〜!!
私本職じゃないよ❓ 専門外ですがな
白目になった フリーズした
そしてやっぱり寒かった
わたしゃ不信心者だから
般若心境ソラでは唱えられませんよって
先祖は浄土真宗だし「なんまいだー」までしか知らんし
そもそも真言宗の山で「南無阿弥陀仏」はいいのかとか
毘沙門天の仏像前だからそっちかーと思いつつも
真言とかわからんよー!!
ねぇ
これは軍人さんだから軍人に頼むべきだって
陸軍の軍人だった祖父に助けを呼んだよ
「おっおじぃちゃ〜ん!! ヘルプミー!!(半泣)」
いつも出てくる度に逃げ回ってたくせに
こういう時だけ頼み事するって
なんて調子の良い孫なのアタシはっっ
そんなこんなで場所も空間も何も関係ないんだなって
本当マジ痛感させられます
少し内容変わってくるのでタイトルは別になってます
さて
前述の考えられる原因⑤
これはちょっと説明が難しい部分もあるんですけれど
その出版されるテーマ
扱われる記事(事件や事象など)の中に
"呪い"が発動する仕掛けが設定されたものが
混じっているという可能性です
それは土地かも知れませんし
事件や出来事そのものかも知れません
事件や出来事で使われたものである可能性もあります
写真に撮られた何かに掛かっている場合もあるし
今回は一人だとか次は三人だとか不定数ではなく
いつもほぼ決まった人数の人がということですので
もしかしたらもしかしたらですけれど
そのことに触れると"贄"が発生してしまう仕組みなのかも
これだとするなら普通の御祓とか護法術では無理です
相当な呪詛級のものなので
ええ そういうのってありますよ
さほど多くはないですけど 稀に
原因となっているものを洗い出して特定し
扱うことをタブーとして過去の資料も封印しないとです
じゃないと避けられないかな
こういうのを消すことができる人はいることはいるけど
そういう人を探し出すこと自体が難しいでしょうね
(ルートが開かないとネ←ちょっと意味深)
私はこういう基礎知識だけはあるけどもそれだけです
様々な原因を検討して推察したり情報を読み取ったり
特定するところまではできるけどもそこまでが限界
実力以上のことには手を出さないのが賢明
(まあ持ち込まれないってことがそもそもの答え)
普通の人は近寄らないのが一番
君子危うきに近寄らず
で呪詛というか祟りというか有名な呪いの話
以前どこかでも書いたと思いますけど
ツタンカーメン(トゥトアンクアムン)の呪いね
とはいうものの あれは呪いではないです
みんなが死んだのは
ウイルスか病原菌かによる感染症です
カーターは現地でずっと現地人と同じ生活していたから
(同じものを食べて水を飲んで)免疫力が既についていたの
他の西洋人は耐性がなかった それだけ
今回のコロナのごとく
でもカルマは関係していました
ハワード・カーターにはどうしても
ツタンカーメンという歴史の闇に葬られた少年王を
発掘して存在を明らかにしなくてはならないという使命
すなわちカルマによる贖罪をしなくてはならなかった
何故って誰あろうハワード・カーターその人が
過去生においてツタンカーメン王その人を
手にかけて殺害した策略の主犯つか首謀者だったから
この場合のカルマってレッスンというよりは
過去の詫びというか行いに対する償いのほう
カーターの発掘に対してお金を出したパトロン
カーナヴォン卿もそう それ以外の人たち
新聞記事にするべく集まってきた人たちもそう
ようするに亡くなった人の大半なんだけども
彼らはツタンカーメンという人を葬った人たちだし
その父親アメンホテプ4世と彼が行ったアマルナ改革
に反対してそれを白紙にすることをした人たち
だから呪いっていうよりはカルマの精算かなあ
もしかしたらお金儲けとか利害とかなんていうか
彼らの目的がそういうところではなく
もっと純粋な気持ちで発掘に対して協力的であったなら
人として霊的にも精神的にも成長していたならば
感染症に掛かって死ぬことはなかったかもしれない
そういう意味ではカーター氏は
4千年前かよりは人間的に成長していたのでしょう
霊性が高くなっていたというか(意識高い系❓)
別に祟りではないけれども結果的には祟りになってるか
彼の呪いではないということで冤罪は晴らしておくっっ
「僕じゃないもん 呪ってないもん」byツタンカーメン
そして
写真とか映像とか漫画とか
そういうのでも"繋がる"ことってあるのね
例えば 恐怖漫画 ホラー漫画っていうのかな
物というか描く人(作者さん)にもよるんだけど
描くことで場所とか人と繋げてしまうことがあるの
で
それを読んだ人が
その場所や描かれた人物とリンクしてしまって
呼び込んでしまうことがある
うんとー 亡くなった人がいたりする場合
読むことでそのエネルギーと繋がり
描かれている亡くなった存在を呼んでしまう
(自分のいるとこに呼び出しちゃうっていうかー)
単なる場所だとしても場所とリンク張れちゃうのですよ
なんかゲームとかの世界観の中に
こういう現象のよい呼び方があったような気がするけど
思い出せない
ワープゾーンではなくて なんだったけ
ワープゲート❓ むむ なんかまあそういうの
本(絵)や写真が媒介するの 媒体となって
なので心霊特集のテレビとかは害悪になるので
制作もですが放映するものではないと思います
漫画とかに関していうならば
ホラー漫画とかは他の漫画に比べて
早く劣化してしまう場合が多々あります
さほど読んでもいないのにいつの間にか
バラバラになってしまうというのかな
黒ずんでしまったりとか変色するとか
よくそういう話を聞きますけども
「恐怖新聞」とか「うしろの百太郎」とか
「漂流教室」とか 永久保先生の漫画
楳図先生 つのだ先生の作品なんかね
それは"負"のエネルギーを寄せつけやすいからですけど
所持している人によっては大丈夫だったりもする
(そんな理由で私も
その手の本を何冊か押し付けられたことあります
だから私は供養寺ではありませんてば!!
アナベル人形とか呪いの椅子とか
絶対無理だし冗談じゃないし)
そして私自身も繋がっちゃったことはありますよ
小学校の時だったかなー
その前日にテレビの心霊特集で
安珍清姫伝説のお寺で撮影された心霊写真
見てしまったのね
なんの気なしにじぃーっと見入ってしまった
そのまま忘れてたけど
翌日体育の授業で着替えていて
体操着を上から被って首を出した瞬間
いたんだよ そこに
空中に浮かんでたんだがね
(ちゃんと立体的に存在感ばっちり)
目があったよ
(てかー こっち見てたし見下ろされてたし)
写真のままの清姫か❓って呼ばれてた着物姿の女性が
白目剥いて倒れて失禁しそうになった
いやはや
「ぎょぇぇぇえええええ〜!!」
という
悲鳴上げただけでなんとか堪えましたけど
教室から走ってトイレに逃げた
しばらくガクブルだった
失禁なんかしたら
男子に一生言われ続けるところだった
(祖父が亡くなってから
私のところに二度ほど姿現したときも
同等の反応で叫びまくって逃げた私
身内でさえ怖いのに
あんな・・・恐ろしいこぇぇお人はマジ勘弁)
大人になってからもありましたかねー
ただ今は肉眼で立体的に
そこにいる人のようにってのは
ほぼ(まったくないわけではないけど)ないので
脳内妄想的な映像で済んでいますけど
バイカル湖の映像を見てしまったならば
バイカル湖を渡りきれずに凍死してしまった
大量の人と繋がってしまったことがありまして
とっても寒くて寒くて死にそうになりました
(あげるのも大変だった 大人数すぎて
過去生ロシア人だったことあるからっていっても
今の私にはロシア語なんてわからないんだよ〜)
一ヶ月かかったよ
それでも全員あげられたかどうかわかんないよ
カラオケでその間ずっとロシア語の歌を歌ってたよ
発音はめちゃくちゃテキトーだったけどさ
奈良の某寺で毘沙門天さんの油浴なんちゃらを
朝の5時から見物させていただいていたならば
どうしてだか八甲田山でお亡くなりになった人が
「助けて欲しいのです」
どうしてここ青森じゃないよ❓
東北でもないよ
奈良だよ奈良 関西だよ❓
どーして❓
君たちの命日とも関係ない日だよ❓
あの死の雪行軍から何十年経ったと思ってるの❓
まだ上がってなかったの❓
え 何 マジー❓❓❓
と頭ぐるぐるパニック
いやその 今目の前で仏像拝んでる
お坊さんの方に頼んでよー
担当はそっちでしょ❓
頼む人 間違えてるよ〜!!
私本職じゃないよ❓ 専門外ですがな
白目になった フリーズした
そしてやっぱり寒かった
わたしゃ不信心者だから
般若心境ソラでは唱えられませんよって
先祖は浄土真宗だし「なんまいだー」までしか知らんし
そもそも真言宗の山で「南無阿弥陀仏」はいいのかとか
毘沙門天の仏像前だからそっちかーと思いつつも
真言とかわからんよー!!
ねぇ
これは軍人さんだから軍人に頼むべきだって
陸軍の軍人だった祖父に助けを呼んだよ
「おっおじぃちゃ〜ん!! ヘルプミー!!(半泣)」
いつも出てくる度に逃げ回ってたくせに
こういう時だけ頼み事するって
なんて調子の良い孫なのアタシはっっ
そんなこんなで場所も空間も何も関係ないんだなって
本当マジ痛感させられます
2020/07/03
祟りを呼ぶ仕事
先日
ソーシャルディスタンスな内輪食事会の場にて
私が大好きな系統の資料本の話をしていて
某新聞社に昔勤務していた元編集者の方から
何十年か一度に出版される
とある事に関係する歴史資料本を制作すると
関わったチームのうち 2,3人は必ず死者が出る
とのことで
だから社の上にある神社にお参り欠かさず御祓をしたり
みな数珠を腕につけて仕事をされるのだそうだ
それでも死者は出る・・・と
そうですね あるかも知れませんね
私は霊媒ですが霊能者ではないから
祟りとか集団的呪い等の解除は専門外ですけど
(仕組みはわかるけどスキルないしー)
ちなみに私はその資料本 持ってるどー
所有しているだけでは何も起きないみたいだけど
でも私は怪奇現象を引き起こす髪が伸びる人形と
その人形の魔除というか封じるために
同居させられていたことのある人間だからなー
他の人のとこでは何かあるかも知れません<その本
人形に関しては私の部屋にある分には何もないけど
他の人の家だと色々と起きてしまうのよ
(人形寺に供養で納めればいいではないかと思ふorg)
そんな風にポルターガイスト現象や怪奇現象で
親族みんな怖がって泊まりたがらない親戚宅の離れに
生の魔除アイテムとして母親に使われてしまったこともある
いやさ何もなく朝までぐっすり眠れましたけど
↑
だってそれは霧島神宮の神様の通り道に
掛かっちゃってるからってばさ
建物を取り壊して綺麗な庭にすれば万事解決だぜよ?
さて
そんなことが起きてしまうことの考えられる理由としては
まずは
考えられる理由①
プラセボ効果 思い込みかな
伝承というか
ジンクスとして伝えられていることに対して
恐怖で反応してしまって
その人の意識が顕在化してしまう場合
つまりは自ら「死」を呼び寄せてしまうということ
考えられる理由②
感受性が強い人がチームの中にいて
取り上げられている事件と波長が合ってしまい
被害者の意識や負の想念(空間)などと同調して
死の臭いに引きずられてしまう場合
もう一つ
考えられる理由③
その人のカルマが関わっている場合
ちょっとこれはとても複雑なんですけどね
報道や編集の仕事している人って
関わっているジャンルにもよるのですが
過去生で政治とか経済とか
世の中を動かす原動力の一部な仕事をしていて
大勢の人たちに対しての責任あるカルマ(罪と贖い)を
担ったり背負っている人が結構多いのですよ
とくに歴史や記録的なこと
史実を明らかにすることなんてやっている人は
新聞記者も週刊誌もそうなんですけどね
だからこそ仕事に対する真摯な姿勢が求められる
真摯に向き合ってないと人生摘んじゃうことになるし
それともう一つ
考えられる理由④
上記とも重なりますけれども
その資料本を作ることに対して恐れはなくても
その逆で「ふざけた」「ふまじめな」
考えや意識を持っていたりすること
そうすると「怒り」を受けてしまうんです
それって誰の怒り? っていうと
やはりとりあげられている人たちのもの
自分たちのことを 人生を人格を
自分たちの身に起きた不幸や出来事を
興味本位にいたずら半分な軽い気持ちで
扱われることに対する怒り
犠牲者に対する哀悼の念もないまま
彼らの気持ちに寄り添うことなく
単なるデータや偽りも含まれた内容を
興味本位な視点で暴かれて世間の好機のタネとして
晒すことを面白がるような
そういった姿勢が許せないってことで
怒りを買っちゃうのですね
はい 死者にも人権はありますから
そして想念は死してもなお生き続けますし
で
今回の場合としては
みなさん亡くなり方として
脳の疾患がお決まりだということですから
よ ④かなあ・・・という気がします
恐怖による感染だったら
心疾患とか衰弱系だと思うから
ただ個々のカルマもやっぱり
関わっているような気もします
霊的な存在(地縛霊)とか
仏教系(主にヒンズー)の神様絡みだと
脳(頭)に出てポックリってこと多いですね
ある朝急に 元気な人が突然死みたいな
神道系の神様の障りだと首にまず出るし
まず「怒ってますよ」って予告的な合図が先に来るから
いきなり死ぬなんてことにはならないんですよね
怪我や事故や精神疾患の方が先に来ると思うんだあ
それにじわじわ弱って死に至るような病気が多いし
ちなみに昔私の後ろに某神様がいた頃は
私が怒ったとき
(自分に対してされたことではなく
他人が被害にあったり世間的にもしくは
道理的に許せないことに対して
つまりは正義感を刺激されるようなこと)
背中から打ち上げ花火のごとく
怒りの炎が相手のところにピューっと
飛んでしまうという現象が多々ありました
※祖母が危篤で帰省した際
毎日願掛けにいってお掃除していた
某神社の神様
この存在がいたから
魔除になっていたのでしょうね当時の私は
(といっても創造主としての神様ではなく
社にいる神様として拝まれていたエネルギー
神主さんのいない無人のとこでしたので
して そこまで格上じゃないです
これをなぜか私がお持ち帰りしてしまっただけのこと
今は抑え込んでるし ほぼ私と同化しているし
だいぶ力は弱まってると思う)
そうすると何が起きるか
お察しの通り
だから
なるべく誰かに対して怒りたくないんです
もう二度と
怒ることは 怒りを感じることは自分でも恐ろしい
でもおととい激しく怒っちゃったけどっっ
あなおそロシア
しまった!! やばいやばい
実にヤバイ 一昨日の怒りの結果が恐ろしい
お願いやめてー 怒らないでー
大魔神よ どうか怒りを鎮めたまえ!!
元の慈悲と慈愛の埴輪顔に戻って〜(切実)
宮毘羅神(どっちかってっと十二神将?)
この存在 怒らせると怖いのよー
約束守らないと本当怖いのよー
店もつぶすし会社もつぶすよー
計画も破綻させるし 最悪命も奪う
マジ恐ろしい
(そんな私の渾名は破壊神ゴジラ)
以前に2chで叩かれていた時
私を怒らせた人やトラブルになった人が
精神疾患になったとか心を病んでしまったとか
あれやこれや書かれていたけど
それは私ではなくて後ろにいる
この存在を怒らせていたのだと思います
私はすぐ熱くなるたちだけどしばらく怒りまくったら
すぐに忘れてしまうので
(蠍座ではあるが射手座オーバーロードだし)
私自身にはそんな力は微塵もありません
(でもこれは憑物筋ではないので
私自身の個人的な意図とか私怨とか
単なるヒステリーや怒りなどの感情の動きとか
それだけで発動することはありませんので
そこはご安心を)
さて
ちょっとこの話
同系列の話題もあるんでちょい続きます
とぅびーこんてぃにゅー
あ゛
ここまで書いていてもう一つ
考えられる理由があることを思い出した
というわけでそれも後日
ソーシャルディスタンスな内輪食事会の場にて
私が大好きな系統の資料本の話をしていて
某新聞社に昔勤務していた元編集者の方から
何十年か一度に出版される
とある事に関係する歴史資料本を制作すると
関わったチームのうち 2,3人は必ず死者が出る
とのことで
だから社の上にある神社にお参り欠かさず御祓をしたり
みな数珠を腕につけて仕事をされるのだそうだ
それでも死者は出る・・・と
そうですね あるかも知れませんね
私は霊媒ですが霊能者ではないから
祟りとか集団的呪い等の解除は専門外ですけど
(仕組みはわかるけどスキルないしー)
ちなみに私はその資料本 持ってるどー
所有しているだけでは何も起きないみたいだけど
でも私は怪奇現象を引き起こす髪が伸びる人形と
その人形の魔除というか封じるために
同居させられていたことのある人間だからなー
他の人のとこでは何かあるかも知れません<その本
人形に関しては私の部屋にある分には何もないけど
他の人の家だと色々と起きてしまうのよ
(人形寺に供養で納めればいいではないかと思ふorg)
そんな風にポルターガイスト現象や怪奇現象で
親族みんな怖がって泊まりたがらない親戚宅の離れに
生の魔除アイテムとして母親に使われてしまったこともある
いやさ何もなく朝までぐっすり眠れましたけど
↑
だってそれは霧島神宮の神様の通り道に
掛かっちゃってるからってばさ
建物を取り壊して綺麗な庭にすれば万事解決だぜよ?
さて
そんなことが起きてしまうことの考えられる理由としては
まずは
考えられる理由①
プラセボ効果 思い込みかな
伝承というか
ジンクスとして伝えられていることに対して
恐怖で反応してしまって
その人の意識が顕在化してしまう場合
つまりは自ら「死」を呼び寄せてしまうということ
考えられる理由②
感受性が強い人がチームの中にいて
取り上げられている事件と波長が合ってしまい
被害者の意識や負の想念(空間)などと同調して
死の臭いに引きずられてしまう場合
もう一つ
考えられる理由③
その人のカルマが関わっている場合
ちょっとこれはとても複雑なんですけどね
報道や編集の仕事している人って
関わっているジャンルにもよるのですが
過去生で政治とか経済とか
世の中を動かす原動力の一部な仕事をしていて
大勢の人たちに対しての責任あるカルマ(罪と贖い)を
担ったり背負っている人が結構多いのですよ
とくに歴史や記録的なこと
史実を明らかにすることなんてやっている人は
新聞記者も週刊誌もそうなんですけどね
だからこそ仕事に対する真摯な姿勢が求められる
真摯に向き合ってないと人生摘んじゃうことになるし
それともう一つ
考えられる理由④
上記とも重なりますけれども
その資料本を作ることに対して恐れはなくても
その逆で「ふざけた」「ふまじめな」
考えや意識を持っていたりすること
そうすると「怒り」を受けてしまうんです
それって誰の怒り? っていうと
やはりとりあげられている人たちのもの
自分たちのことを 人生を人格を
自分たちの身に起きた不幸や出来事を
興味本位にいたずら半分な軽い気持ちで
扱われることに対する怒り
犠牲者に対する哀悼の念もないまま
彼らの気持ちに寄り添うことなく
単なるデータや偽りも含まれた内容を
興味本位な視点で暴かれて世間の好機のタネとして
晒すことを面白がるような
そういった姿勢が許せないってことで
怒りを買っちゃうのですね
はい 死者にも人権はありますから
そして想念は死してもなお生き続けますし
で
今回の場合としては
みなさん亡くなり方として
脳の疾患がお決まりだということですから
よ ④かなあ・・・という気がします
恐怖による感染だったら
心疾患とか衰弱系だと思うから
ただ個々のカルマもやっぱり
関わっているような気もします
霊的な存在(地縛霊)とか
仏教系(主にヒンズー)の神様絡みだと
脳(頭)に出てポックリってこと多いですね
ある朝急に 元気な人が突然死みたいな
神道系の神様の障りだと首にまず出るし
まず「怒ってますよ」って予告的な合図が先に来るから
いきなり死ぬなんてことにはならないんですよね
怪我や事故や精神疾患の方が先に来ると思うんだあ
それにじわじわ弱って死に至るような病気が多いし
ちなみに昔私の後ろに某神様がいた頃は
私が怒ったとき
(自分に対してされたことではなく
他人が被害にあったり世間的にもしくは
道理的に許せないことに対して
つまりは正義感を刺激されるようなこと)
背中から打ち上げ花火のごとく
怒りの炎が相手のところにピューっと
飛んでしまうという現象が多々ありました
※祖母が危篤で帰省した際
毎日願掛けにいってお掃除していた
某神社の神様
この存在がいたから
魔除になっていたのでしょうね当時の私は
(といっても創造主としての神様ではなく
社にいる神様として拝まれていたエネルギー
神主さんのいない無人のとこでしたので
して そこまで格上じゃないです
これをなぜか私がお持ち帰りしてしまっただけのこと
今は抑え込んでるし ほぼ私と同化しているし
だいぶ力は弱まってると思う)
そうすると何が起きるか
お察しの通り
だから
なるべく誰かに対して怒りたくないんです
もう二度と
怒ることは 怒りを感じることは自分でも恐ろしい
でもおととい激しく怒っちゃったけどっっ
あなおそロシア
しまった!! やばいやばい
実にヤバイ 一昨日の怒りの結果が恐ろしい
お願いやめてー 怒らないでー
大魔神よ どうか怒りを鎮めたまえ!!
元の慈悲と慈愛の埴輪顔に戻って〜(切実)
宮毘羅神(どっちかってっと十二神将?)
この存在 怒らせると怖いのよー
約束守らないと本当怖いのよー
店もつぶすし会社もつぶすよー
計画も破綻させるし 最悪命も奪う
マジ恐ろしい
(そんな私の渾名は破壊神ゴジラ)
以前に2chで叩かれていた時
私を怒らせた人やトラブルになった人が
精神疾患になったとか心を病んでしまったとか
あれやこれや書かれていたけど
それは私ではなくて後ろにいる
この存在を怒らせていたのだと思います
私はすぐ熱くなるたちだけどしばらく怒りまくったら
すぐに忘れてしまうので
(蠍座ではあるが射手座オーバーロードだし)
私自身にはそんな力は微塵もありません
(でもこれは憑物筋ではないので
私自身の個人的な意図とか私怨とか
単なるヒステリーや怒りなどの感情の動きとか
それだけで発動することはありませんので
そこはご安心を)
さて
ちょっとこの話
同系列の話題もあるんでちょい続きます
とぅびーこんてぃにゅー
あ゛
ここまで書いていてもう一つ
考えられる理由があることを思い出した
というわけでそれも後日
2020/07/02
とらわれの貧しい心で〜消えゆく文化
ブログ趣旨から外れた話をもう一つ
高校に入学して間も無く
親しくなったクラスメイトが
「行けなくなった人がいるんだけど
チケットがもったいないから行かない?」と
それは地元千葉は文化会館での
浜田省吾のコンサート(今はライブか)
当時のチケットは画一的な印字物ではなく
アーティスト独自の個性的なデザイン
(コレクションしていた人もいた
私も取っておけばよかったと後悔している)
チケット代は1500円だったと思う
その前の年 日本武道館での
ABBAのチケットが3000円だと思ったから
(レコードのアルバムが2500円程度の時代)
よく知らないままに彼のコンサートへ
観客はまばら 席が埋まるどころか
ぽつりぽつりと まったくの蜜ではない状態w
ステージに出てきた省吾が
「寂しいから
みんなこっちにおいでよ!」
と優しく手招きする
戸惑いながらステージの方に
後ろの方にいた人も前に座っていた人も
友達と来ていた人も一人で来ていた人も
見ず知らずの人々と顔を見合わせて
省吾やバンドの人たちに確認しながら
ステージ前に集まった私たちは
皆照れ臭そうな 少し浮き足立った笑顔で
ステージに肘をついて省吾を見上げた
そんな私たち一人ひとりをさっと見て
省吾はにっこり笑って
そして始まったコンサート
わずかばかりの観客である私たちに
私たちのために
語りかけるように一曲一曲
とても丁寧に彼は歌ってくれた
あの観客数だと大赤字だったろうが
てなわけでハートを鷲掴みというか
その日からファン決定❤️
それ以前に歌詞が心に深く沁みた
その後千葉に来るたびコンサート行ってたけど
少しずつお客さんも増えていくのが嬉しかった
レコードは高くて買えないので
友人からダビングです もしくはレンタル
テレビにも出ずタイアップもほとんどなく
ヒット曲というヒット曲も実のところないけれど
そんな地道な活動が今の彼の土台になって
コンサートはいつも満員御礼のマンモスライブで
プラチナチケットになる理由なんだと思う
そりゃ
歌がうまいかっていうとそういうわけでもない
省吾より歌の上手い歌手も良い声のシンガーも
良い曲創って曲の完成度が高いミュージシャンも
この世にはたくさんたくさんいる
運に恵まれた人 売れている人やヒット曲のある人たちも
事務所のバックアップや時代に乗れた人たちもたくさんいる
けど省吾は一つひとつのステージを大切にして
どんなにお客さんが少なくても手抜きしないステージで
歌で思いを伝えて 皆に語りかけて
ファン一人ひとりの心を掴んできた人なんだよね
壁にぶつかって挫折もしたろうし葛藤もあったろうけど
それでも一本筋を通して歌い続けて来た人なんだよね
うん
だから昭和から平成そして令和になっても
ずっと自分のスタイル貫いて続けていて
たくさんのファンがいて
影響を受けたミュージシャンたちも多いんだわ
FCも入ってないから 今ではチケット取れない人
あんな風にサングラスの下の素顔が見れちゃうほど
彼の近くで 私たちだけのために歌う曲を
聞けることはもう二度とないだろう
今の時代では絶対にありえないこと
昭和だからあったこと
ファンがみんな仲間で
好きなアーティストを通じて繋がっていけた時代
アーティストと家族みたいな暖かい絆を持てた時代
スタッフの人も暖かく優しかった時代
過ぎたからこそ懐かしいあの頃
そういう経験をできたのはとても貴重なことで
今となっては青春の宝物みたいな想い出
あんな優しかった時代はもう二度とやってこない
とくにこのコロナ禍による未来に至っては
そんな風にファンな友人から
レコードを借りたりテープをダビングしてもらったり
「ぜひこれを聞きやがれ!」と押し付けられたり
「行けなくなったから」「チケットがあまってるから」
「よかったら一緒に行って欲しい」
なんてことから付き合いだの暇つぶしだので出かけて
それで曲や舞台を見て 魅了されてファンになる
・・・っことは今の時代というか
これからの時代はもうありえなくなるんだな
電子チケットになってしまったならば
転売防止の観点や利便性から
必然的にそうなるんでしょうけど
チケットを手渡して
「よかったら ぜひ行ってきて」なんてプレゼントする
素敵で小粋なこともなくなるのだろう
JASラックが音楽家たちの収益や権利を守るために
著作権だー!! とあれやこれや煩く言い始めたことで
果たして何が起きたか
街中から音楽がなくなった
音楽が消えてしまった
音楽を聞く機会が狭まった
昔はどこででもかしこでも音楽が流れてた
商店街を歩くとき 喫茶店やお店の中で
町中に音楽があふれてた
テレビでは音楽番組も多かったしね
ラジオ流しているとこもあったし
だから流行りの曲は
誰しもがどこでか聞く機会があって
どこかで耳にすることができた
たまたま入った店のBGMとして
歩きながら耳に入ってきた誰かの歌として
そして「あ、いいな」と思って
調べて探して 自分好みの音楽にたどり着くことができた
でも今はそんな機会を持つことはない
行きつけの飲食店や喫茶店のマスターの
こだわりコレクションのレコードを
聞きたくて訪れて音楽談義に花を咲かせる
なんてこともなくなった
できなくなってしまった
音楽はいつの間にか遠いものとなってしまった
テレビでのタイアップ 主題歌やCMで知るくらい
あとは身内や友人からのルートくらい
動画も知る媒体のひとつではある
でも昔の曲を聴きたいのなら
CDをちゃんと買ってくれよな方向なので
そのアーティストの良さを「知る」機会は
どんどん減っている 間口が狭まってね
自分で撮影したプライベートな動画を
SNSにあげたとき
そこに少しでもその場で流れている
音楽をキャッチして入っていたなら
「著作権がー」
「違法だー」という正義酎が現れる時代
音楽はますます遠くなっている
そりゃ売れなくなるよ<CD
テレビに出ないからばかりじゃないよ
有名だから無名だからってのでもないよ
違法で ただで手に入れる人がいるからって
無料で聞けちゃう場や方法があるからってのもあるけど
「知る」「出会う」機会も同時に減ってきている
聞けないから聞きたくなるってのもあるけど
耳にタコができるほど聞かされているから
もっと聴きたくなる音楽ってのもある
中毒性ってやつかなあ
よく聞くから好きになる曲ってのも
今はそういう現象が起きなくなってるから
よけいに音楽が欲しくならないのかもね
日常的に聞いていればそれが当たり前なら
聞きたくなるけど
音楽がないのが当たり前な日常が普通で
ないのならなくて平気ですよってそういう時代
音楽はなくてもいいものになってる
音楽だけでなくて他の芸術も
お芝居(演劇)も映画もアートも
どんな芸能文化も
身近ではなくなってきてしまったから
生活に普通にあるものではないってことで
それがなくても別に大丈夫ですよって
なくても困らないしってそんな感じ
例えばイタリアの人にとってオペラは生活の一部で
朝から晩までみんな歌ってて
そんなふうに風景みたいに音楽があるから
それを大切な文化として身近な感じて
それらに対する情熱や投資を惜しまなかったりするのだけど
(フランス人にとってはアートか)
日本人は著作権がー 製作者に収益分配をーとか
彼らの権利や文化を守ろうとして
かえって音楽文化を干上がらせ衰退させてしまった
そこに功罪があるのかどうかわからないけれども
音楽や芸術が人々の生活から離れて
とても遠いものになってしまったのは事実だ
人々の生活が多様化したからだけじゃない
うーん
いま音楽を作り それらの活動をする人にとっては
果たして良い時代なんだろうか
やりにくい時代ではないのだろうかと思うけど
お客さんの中にもミュージシャンはいますが
印税収入がちゃんとあったとしてもそれは昔の話で
ステージすなわちライブ開催できないことには
色々と難しいし副業ないと厳しいのが実情ですから
観客が数十人しかいなかった頃から
自分が好きだった人が
こんなにビッグなアーティストになってくれて
本当に嬉しいし今となっては感慨深い
(先見の明があったのかw)
人生の早い段階で 若かったときに
ホンモノのものすごいアーティストのステージを見れたこと
そしてそのわずか数十人のオーディエンスの中の一人だったこと
こんなにすごい人に会えてたんだってことが
奇跡のような出会いで すごいことだったんだって実感する
ほんの2mくらいの距離で この人の歌を聴けたんだよなぁって
そしてバックバンドのメンバーに
元レベッカのドラムスの小田原さんを見つけて歓喜した!!
高校に入学して間も無く
親しくなったクラスメイトが
「行けなくなった人がいるんだけど
チケットがもったいないから行かない?」と
それは地元千葉は文化会館での
浜田省吾のコンサート(今はライブか)
当時のチケットは画一的な印字物ではなく
アーティスト独自の個性的なデザイン
(コレクションしていた人もいた
私も取っておけばよかったと後悔している)
チケット代は1500円だったと思う
その前の年 日本武道館での
ABBAのチケットが3000円だと思ったから
(レコードのアルバムが2500円程度の時代)
よく知らないままに彼のコンサートへ
観客はまばら 席が埋まるどころか
ぽつりぽつりと まったくの蜜ではない状態w
ステージに出てきた省吾が
「寂しいから
みんなこっちにおいでよ!」
と優しく手招きする
戸惑いながらステージの方に
後ろの方にいた人も前に座っていた人も
友達と来ていた人も一人で来ていた人も
見ず知らずの人々と顔を見合わせて
省吾やバンドの人たちに確認しながら
ステージ前に集まった私たちは
皆照れ臭そうな 少し浮き足立った笑顔で
ステージに肘をついて省吾を見上げた
そんな私たち一人ひとりをさっと見て
省吾はにっこり笑って
そして始まったコンサート
わずかばかりの観客である私たちに
私たちのために
語りかけるように一曲一曲
とても丁寧に彼は歌ってくれた
あの観客数だと大赤字だったろうが
てなわけでハートを鷲掴みというか
その日からファン決定❤️
それ以前に歌詞が心に深く沁みた
その後千葉に来るたびコンサート行ってたけど
少しずつお客さんも増えていくのが嬉しかった
レコードは高くて買えないので
友人からダビングです もしくはレンタル
テレビにも出ずタイアップもほとんどなく
ヒット曲というヒット曲も実のところないけれど
そんな地道な活動が今の彼の土台になって
コンサートはいつも満員御礼のマンモスライブで
プラチナチケットになる理由なんだと思う
そりゃ
歌がうまいかっていうとそういうわけでもない
省吾より歌の上手い歌手も良い声のシンガーも
良い曲創って曲の完成度が高いミュージシャンも
この世にはたくさんたくさんいる
運に恵まれた人 売れている人やヒット曲のある人たちも
事務所のバックアップや時代に乗れた人たちもたくさんいる
けど省吾は一つひとつのステージを大切にして
どんなにお客さんが少なくても手抜きしないステージで
歌で思いを伝えて 皆に語りかけて
ファン一人ひとりの心を掴んできた人なんだよね
壁にぶつかって挫折もしたろうし葛藤もあったろうけど
それでも一本筋を通して歌い続けて来た人なんだよね
うん
だから昭和から平成そして令和になっても
ずっと自分のスタイル貫いて続けていて
たくさんのファンがいて
影響を受けたミュージシャンたちも多いんだわ
FCも入ってないから 今ではチケット取れない人
あんな風にサングラスの下の素顔が見れちゃうほど
彼の近くで 私たちだけのために歌う曲を
聞けることはもう二度とないだろう
今の時代では絶対にありえないこと
昭和だからあったこと
ファンがみんな仲間で
好きなアーティストを通じて繋がっていけた時代
アーティストと家族みたいな暖かい絆を持てた時代
スタッフの人も暖かく優しかった時代
過ぎたからこそ懐かしいあの頃
そういう経験をできたのはとても貴重なことで
今となっては青春の宝物みたいな想い出
あんな優しかった時代はもう二度とやってこない
とくにこのコロナ禍による未来に至っては
そんな風にファンな友人から
レコードを借りたりテープをダビングしてもらったり
「ぜひこれを聞きやがれ!」と押し付けられたり
「行けなくなったから」「チケットがあまってるから」
「よかったら一緒に行って欲しい」
なんてことから付き合いだの暇つぶしだので出かけて
それで曲や舞台を見て 魅了されてファンになる
・・・っことは今の時代というか
これからの時代はもうありえなくなるんだな
電子チケットになってしまったならば
転売防止の観点や利便性から
必然的にそうなるんでしょうけど
チケットを手渡して
「よかったら ぜひ行ってきて」なんてプレゼントする
素敵で小粋なこともなくなるのだろう
JASラックが音楽家たちの収益や権利を守るために
著作権だー!! とあれやこれや煩く言い始めたことで
果たして何が起きたか
街中から音楽がなくなった
音楽が消えてしまった
音楽を聞く機会が狭まった
昔はどこででもかしこでも音楽が流れてた
商店街を歩くとき 喫茶店やお店の中で
町中に音楽があふれてた
テレビでは音楽番組も多かったしね
ラジオ流しているとこもあったし
だから流行りの曲は
誰しもがどこでか聞く機会があって
どこかで耳にすることができた
たまたま入った店のBGMとして
歩きながら耳に入ってきた誰かの歌として
そして「あ、いいな」と思って
調べて探して 自分好みの音楽にたどり着くことができた
でも今はそんな機会を持つことはない
行きつけの飲食店や喫茶店のマスターの
こだわりコレクションのレコードを
聞きたくて訪れて音楽談義に花を咲かせる
なんてこともなくなった
できなくなってしまった
音楽はいつの間にか遠いものとなってしまった
テレビでのタイアップ 主題歌やCMで知るくらい
あとは身内や友人からのルートくらい
動画も知る媒体のひとつではある
でも昔の曲を聴きたいのなら
CDをちゃんと買ってくれよな方向なので
そのアーティストの良さを「知る」機会は
どんどん減っている 間口が狭まってね
自分で撮影したプライベートな動画を
SNSにあげたとき
そこに少しでもその場で流れている
音楽をキャッチして入っていたなら
「著作権がー」
「違法だー」という正義酎が現れる時代
音楽はますます遠くなっている
そりゃ売れなくなるよ<CD
テレビに出ないからばかりじゃないよ
有名だから無名だからってのでもないよ
違法で ただで手に入れる人がいるからって
無料で聞けちゃう場や方法があるからってのもあるけど
「知る」「出会う」機会も同時に減ってきている
聞けないから聞きたくなるってのもあるけど
耳にタコができるほど聞かされているから
もっと聴きたくなる音楽ってのもある
中毒性ってやつかなあ
よく聞くから好きになる曲ってのも
今はそういう現象が起きなくなってるから
よけいに音楽が欲しくならないのかもね
日常的に聞いていればそれが当たり前なら
聞きたくなるけど
音楽がないのが当たり前な日常が普通で
ないのならなくて平気ですよってそういう時代
音楽はなくてもいいものになってる
音楽だけでなくて他の芸術も
お芝居(演劇)も映画もアートも
どんな芸能文化も
身近ではなくなってきてしまったから
生活に普通にあるものではないってことで
それがなくても別に大丈夫ですよって
なくても困らないしってそんな感じ
例えばイタリアの人にとってオペラは生活の一部で
朝から晩までみんな歌ってて
そんなふうに風景みたいに音楽があるから
それを大切な文化として身近な感じて
それらに対する情熱や投資を惜しまなかったりするのだけど
(フランス人にとってはアートか)
日本人は著作権がー 製作者に収益分配をーとか
彼らの権利や文化を守ろうとして
かえって音楽文化を干上がらせ衰退させてしまった
そこに功罪があるのかどうかわからないけれども
音楽や芸術が人々の生活から離れて
とても遠いものになってしまったのは事実だ
人々の生活が多様化したからだけじゃない
うーん
いま音楽を作り それらの活動をする人にとっては
果たして良い時代なんだろうか
やりにくい時代ではないのだろうかと思うけど
お客さんの中にもミュージシャンはいますが
印税収入がちゃんとあったとしてもそれは昔の話で
ステージすなわちライブ開催できないことには
色々と難しいし副業ないと厳しいのが実情ですから
観客が数十人しかいなかった頃から
自分が好きだった人が
こんなにビッグなアーティストになってくれて
本当に嬉しいし今となっては感慨深い
(先見の明があったのかw)
人生の早い段階で 若かったときに
ホンモノのものすごいアーティストのステージを見れたこと
そしてそのわずか数十人のオーディエンスの中の一人だったこと
こんなにすごい人に会えてたんだってことが
奇跡のような出会いで すごいことだったんだって実感する
ほんの2mくらいの距離で この人の歌を聴けたんだよなぁって
そしてバックバンドのメンバーに
元レベッカのドラムスの小田原さんを見つけて歓喜した!!
2020/07/01
愛なき時代 心なきサービス
昨日の続きになりますかね
本来のブログ趣旨とは異なる書き込みですみません
昭和の時代を知っている人間としては
あの時代の人と人との生身の関わり合いが
懐かしいなあと思う今日この頃
良くない面や悪しき風習も勿論たくさんありましたが
企業にも人にも
道徳心と誠実さは今よりかはあったような気がします
マナーとか礼儀礼節も 人を敬う気持ちもですね
あと優しさとか思いやりなんかももちのこと
かといって現代において良くなった点
改善された点はたくさんありますので
一概に今が悪いとは言えず
時代という全体性を見れば
確実に「良くなって」はいるのです
さて過去記事でも触れたこと何度かありますけれど
流行の中心 ターゲットとしての購買層
マーケティングの対象というのは
いつだって20代30代です
その世代がuserである前提で
商品開発や企画って進められることが
世の中では圧倒的です
特にITや通信機器などは
その世代が使うことがスタンダード
(あ、でも政治と司法は旧世代の老人主体ですね)
家電などは主婦層 アパレルは女性というように
女性をターゲットとするものもありますが
ほとんどの製品が男性 そして若者主体
50代以上を対象とした商品開発ってほとんど無し
あっても極端に介護用品とか健康器具とか医療品とか
特殊なものに限ります
テレビもその世代が楽しめる番組はほとんどないし
レジャーもショッピングも置いてきぼりです
爺婆の選択肢はめちゃ狭いです
あなたたちにはこれしかないですって追いやられてる
高齢化社会でみんな歳を取って 見た目は若々しくても
身体機能も衰えて できないことが少しずつ増えて
目線も変わって 不自由さも出てくるというのに
少子化でどんどん社会での年寄りの比重が増えているのに
高齢者目線の商品ってバリアフリー商品位かって一択
ユニバーサルデザインは相変わらず普及しません
30代の人を基準とした当たり前を押しつけられて
それができないと年寄り扱いされるだけ
なんかなーって感じです
人々の意識や趣味嗜好は多様化しましたが
世の中の 私たちの使う道具や受けられるサービスは
一人ひとりの個性や身体機能の違いを無視して
一本化されて選択できない傾向にあるし
それぞれに適した多種多様なサービスや対応を
受けられなくなっているのです
人も臨機応変な態度を取れる人が少なくなってきました
ケースバイケースな
各自の事情に合わせた工夫や融通を図れる人が
今はサービス業にはほとんどいないですね
それと読解力のない人が本当に増えた
コミユニケーションが取れない人が本当に多い
発達障害とかADDとかそういう人でなくても
それはそれとして とにもかくにも世知辛い
嗚呼、そうこの違和感の正体
それは現代のサービスがすべて
「温かみ」にかけているってこと
使用される言葉とか文章の体裁とか提供のしかたなど
「血の通ったサービス」がほぼ見つけられず
それが絶滅危惧種であるということ
お断りの言葉も何もかもそこに「血が通っていない」
ことに対して
私はたぶん一番の不快感と違和感を覚えているのかも
そこに突っかかっているの
相手のことではなく自分たちを保護し
何かの責任を負わされることから回避するためだけの
体裁を整えた言葉選びが透けて見えるのが昨今だから
誠実さとは真反対にある不実な自己保身
なんだかな
コロナ禍で変わりいく時代だからこそ
誠実さや道徳心というものが
心あるサービスや対応が必要だと思うのですがね
そこはそれお互いに譲り合って許しあって
もちろん必要以上のことを求めない
互いの立場に歩み寄り思いやって譲歩して妥協して
我慢や忍耐やあきらめる姿勢を示すことも
肝心ではあるのですれどもね
機械的で画一的で 人を人として扱わない
人を人してみなさない
心を軽んじるサービスや企業が増えました
なんか悲しいなあ
おかしな世の中になっていってもいるなあ
自分は昭和の遺物で化石なのかもなあ
話変わって
昨年私の地元の千葉では
大きい台風がふたつばかし直撃しまして
実家(県庁所在地から車で10分位のいちおう市街地)は
最初の台風で屋根が飛んでいってしまったり
友人宅では停電したり携帯繋がらないとか
そんな状態だったのですね
でブルーシートひとつ探すのも大変で
行政はネットでは情報を出しているわけです
どこどこにあるよってのとか
でもネット環境のない人のところには情報は入らない
肝心のその情報を必要としている人に伝わらないんですよ
こちら都内や他県の人間が
ネットで得た情報を家電で伝えるのみ
行政もテレビもインターネット(ホームページ)の情報を
見てくださいっていうんです そっちで確認してって
そちらには書いてあるからって
電話の問い合わせはやめてって
だから70代以上 80代の人間は
スマホとか持ってない人ばかりだし
使えない人ばかりなんだよってば
PCも持ってないし
(それ以前に台風でネット繋がらなくなってるという問題も)
若者が同居している世帯ならともかく
年寄り世帯にネット見ろって❓
スマホとかPCとかないですっていっても
とにかくネットで情報確認してくださいの一点張り
ネットが普及しているというへんな当たり前の勘違い
それは若者の間だけでしょ
10代から40代ならほとんど持ってるって話
50代や60代になると少なくなって
それ以上はまばらですよ
テレビとネットは違うんだってば
どうしてネットとテレビを同列で考えるかな
若い人にはネットが有効でも
50代いやさそれ以上にはまだテレビなのよ
思うんですけど あのような緊急時には
すべてのテレビにネットで収集できる行政や民間の情報も
開示してくれて告知する局があってもいいように思う
でないと非常時に情報を一番必要としている
受動的な高齢者が受けられるべきサポートや助けを
逃してしまうし いつだって取り残される
いわゆる情報難民です 増えてます
ITを知らない使ったことのない世代がぽっかりと
それらの機器を所持することのできない人たちが
時代や文化から取り残されている
ほんと昨今は
情報についていけない人の方が悪いって風潮なのね
スマホ買えばいいじゃんって片付けられて終わりで
どうどう廻りです
少数派はお荷物扱いなんだわ
少数派のために対応は変えられないってね
そして無視して切り捨てられる
なんかこのあたりどうにかならないかなーって思います
NHKが本来はその役目を担うべきなんでしょうけれども
もしくはローカル局か
そしてスマホ画面を認識することのできない私は
スマホとPCをケーブルで繋いで
PCでスマホを操作できたら嬉しいな
そんな技術があったらいいなと思うのであった
本来のブログ趣旨とは異なる書き込みですみません
昭和の時代を知っている人間としては
あの時代の人と人との生身の関わり合いが
懐かしいなあと思う今日この頃
良くない面や悪しき風習も勿論たくさんありましたが
企業にも人にも
道徳心と誠実さは今よりかはあったような気がします
マナーとか礼儀礼節も 人を敬う気持ちもですね
あと優しさとか思いやりなんかももちのこと
かといって現代において良くなった点
改善された点はたくさんありますので
一概に今が悪いとは言えず
時代という全体性を見れば
確実に「良くなって」はいるのです
さて過去記事でも触れたこと何度かありますけれど
流行の中心 ターゲットとしての購買層
マーケティングの対象というのは
いつだって20代30代です
その世代がuserである前提で
商品開発や企画って進められることが
世の中では圧倒的です
特にITや通信機器などは
その世代が使うことがスタンダード
(あ、でも政治と司法は旧世代の老人主体ですね)
家電などは主婦層 アパレルは女性というように
女性をターゲットとするものもありますが
ほとんどの製品が男性 そして若者主体
50代以上を対象とした商品開発ってほとんど無し
あっても極端に介護用品とか健康器具とか医療品とか
特殊なものに限ります
テレビもその世代が楽しめる番組はほとんどないし
レジャーもショッピングも置いてきぼりです
爺婆の選択肢はめちゃ狭いです
あなたたちにはこれしかないですって追いやられてる
高齢化社会でみんな歳を取って 見た目は若々しくても
身体機能も衰えて できないことが少しずつ増えて
目線も変わって 不自由さも出てくるというのに
少子化でどんどん社会での年寄りの比重が増えているのに
高齢者目線の商品ってバリアフリー商品位かって一択
ユニバーサルデザインは相変わらず普及しません
30代の人を基準とした当たり前を押しつけられて
それができないと年寄り扱いされるだけ
なんかなーって感じです
人々の意識や趣味嗜好は多様化しましたが
世の中の 私たちの使う道具や受けられるサービスは
一人ひとりの個性や身体機能の違いを無視して
一本化されて選択できない傾向にあるし
それぞれに適した多種多様なサービスや対応を
受けられなくなっているのです
人も臨機応変な態度を取れる人が少なくなってきました
ケースバイケースな
各自の事情に合わせた工夫や融通を図れる人が
今はサービス業にはほとんどいないですね
それと読解力のない人が本当に増えた
コミユニケーションが取れない人が本当に多い
発達障害とかADDとかそういう人でなくても
それはそれとして とにもかくにも世知辛い
嗚呼、そうこの違和感の正体
それは現代のサービスがすべて
「温かみ」にかけているってこと
使用される言葉とか文章の体裁とか提供のしかたなど
「血の通ったサービス」がほぼ見つけられず
それが絶滅危惧種であるということ
お断りの言葉も何もかもそこに「血が通っていない」
ことに対して
私はたぶん一番の不快感と違和感を覚えているのかも
そこに突っかかっているの
相手のことではなく自分たちを保護し
何かの責任を負わされることから回避するためだけの
体裁を整えた言葉選びが透けて見えるのが昨今だから
誠実さとは真反対にある不実な自己保身
なんだかな
コロナ禍で変わりいく時代だからこそ
誠実さや道徳心というものが
心あるサービスや対応が必要だと思うのですがね
そこはそれお互いに譲り合って許しあって
もちろん必要以上のことを求めない
互いの立場に歩み寄り思いやって譲歩して妥協して
我慢や忍耐やあきらめる姿勢を示すことも
肝心ではあるのですれどもね
機械的で画一的で 人を人として扱わない
人を人してみなさない
心を軽んじるサービスや企業が増えました
なんか悲しいなあ
おかしな世の中になっていってもいるなあ
自分は昭和の遺物で化石なのかもなあ
話変わって
昨年私の地元の千葉では
大きい台風がふたつばかし直撃しまして
実家(県庁所在地から車で10分位のいちおう市街地)は
最初の台風で屋根が飛んでいってしまったり
友人宅では停電したり携帯繋がらないとか
そんな状態だったのですね
でブルーシートひとつ探すのも大変で
行政はネットでは情報を出しているわけです
どこどこにあるよってのとか
でもネット環境のない人のところには情報は入らない
肝心のその情報を必要としている人に伝わらないんですよ
こちら都内や他県の人間が
ネットで得た情報を家電で伝えるのみ
行政もテレビもインターネット(ホームページ)の情報を
見てくださいっていうんです そっちで確認してって
そちらには書いてあるからって
電話の問い合わせはやめてって
だから70代以上 80代の人間は
スマホとか持ってない人ばかりだし
使えない人ばかりなんだよってば
PCも持ってないし
(それ以前に台風でネット繋がらなくなってるという問題も)
若者が同居している世帯ならともかく
年寄り世帯にネット見ろって❓
スマホとかPCとかないですっていっても
とにかくネットで情報確認してくださいの一点張り
ネットが普及しているというへんな当たり前の勘違い
それは若者の間だけでしょ
10代から40代ならほとんど持ってるって話
50代や60代になると少なくなって
それ以上はまばらですよ
テレビとネットは違うんだってば
どうしてネットとテレビを同列で考えるかな
若い人にはネットが有効でも
50代いやさそれ以上にはまだテレビなのよ
思うんですけど あのような緊急時には
すべてのテレビにネットで収集できる行政や民間の情報も
開示してくれて告知する局があってもいいように思う
でないと非常時に情報を一番必要としている
受動的な高齢者が受けられるべきサポートや助けを
逃してしまうし いつだって取り残される
いわゆる情報難民です 増えてます
ITを知らない使ったことのない世代がぽっかりと
それらの機器を所持することのできない人たちが
時代や文化から取り残されている
ほんと昨今は
情報についていけない人の方が悪いって風潮なのね
スマホ買えばいいじゃんって片付けられて終わりで
どうどう廻りです
少数派はお荷物扱いなんだわ
少数派のために対応は変えられないってね
そして無視して切り捨てられる
なんかこのあたりどうにかならないかなーって思います
NHKが本来はその役目を担うべきなんでしょうけれども
もしくはローカル局か
そしてスマホ画面を認識することのできない私は
スマホとPCをケーブルで繋いで
PCでスマホを操作できたら嬉しいな
そんな技術があったらいいなと思うのであった
登録:
投稿 (Atom)