2020/07/22

太陽獅子座入り〜自分語り

昔ママがまだ若くて
小さなあたしを抱いてた
月がもっと遠くにあった頃

工場は黒い煙を吐き出し
街は激しく
この子が大きくなるのを祈ってた

by レベッカ「Moon」


昨日は蟹座新月
アストロロジーのネイタルチャートで見たとき
私の4ハウスでの新月

人生の折り返し地点をとっくに過ぎ
まだ終わりというわけではないだろうが
最近はよく昔のことを思い出す

色々と辛いことしんどいことたくさんあった人生
二度の交通事故や膠原病をはじめとした様々な疾患
友人に裏切られたり騙されたりもあったし
この個性のおかげで普通の社会生活を送れず
仕事も続けられず挫折もいっぱいしたし
トラブルもたくさん引き寄せて
壊してきたものもたくさんある
機能不全でいびつな家庭環境に生まれてしまったせいで
死にたいと何度も思うような出来事もたくさんあったが

それでもまあこの人生からの学びは大きい
この人生でよかったかと言われれば
まだわからないのだが
この人生にしてしまったのは自分なので
たぶんこの人生しか生きられなかったのだろう
そしてこの人生を生きることは必然でもあったのだろう

そして自分は
とても良い時代に生まれたのだなあと痛感したり
改めて恵まれていたことを再発見したりもする


今はもう都民としての住民歴の方が長いが
地元は千葉県の東京湾沿い
東京湾沿いといっても千葉港から八幡宿辺りまでは
川崎製鉄(現JFE)の巨大な工場地帯であるので
潮の香りが届く程度に海は近いと言えば近いが 
海水浴場に行こうと思えば
稲毛の人工浜か木更津か君津
もしくは外房の御宿や九十九里など
近いとこでも1時間はかかる場所

川崎製鉄の発展とともにあり
その恩恵のもとに繁栄した町で
東京都ドーナツ化現象のおかげもあって
都内や地方からの移住者の多い町だった
そして製鉄業の衰退とともに廃れ寂れた町

朝は工場内の港に停泊する船の汽笛の音が届き
昼には光化学スモッグ注意報が流れ
夜には24時間 真夜中も稼働している工場の
窯の炎の色が 西の空を真っ赤に染めている

23区住まいでは空や太陽はあきらめるのが常だが
首都圏で都心部に属してはいるものの
まだまだ千葉は半田舎 
住宅街にある実家は東西南北日当たりよく
家の中にいても日焼けできる

窓の側に寝っ転がって空を仰げば
あれはガルーダ航空 パンアメリカン
ANAだのJALだのエールフランスなどなど
航空会社のロゴも鮮やかに
往来し頭上を通過する飛行機を眺めることができる
(墜ちてきたらどうしようと思うくらいには近い距離)
そんな飛行場に行かずとも飛行機が見れる毎日

成田空港反対のデモやバリケード作る
中核派に絡まれたり右翼や左翼と喧嘩した
向こう見ずな若き日も昔のこと

東京ではお盆は7月だが千葉は8月(田舎は9月だった)
子供会の行事など 
夏といえば必ず海水浴がお約束で春には潮干狩り
内房は館山や富津や白浜 外房の御宿や勝浦など
マザー牧場や鴨川シーランド 行川アイランド
谷津遊園に船橋ヘルスセンター 都内へは後楽園 

田舎に帰省するときには東京駅から寝台列車
瀬戸内海で夜が明けて 翌日の昼間に駅に着く
そこから一日二本しかないバスで二時間
田舎はワンダーランドだった

小学校では喘息や気管支炎を患う
クラスメイトがほとんどというのが
工場地帯の煙の下暮らす私たちの当たり前

中学は校内暴力の時代
窓ガラスはいつもどこか割れていて 
クラス全員あるいは全校生徒が一団となって
授業をボイコットしたり 全校集会でヤジ飛ばして
先生たちを糾弾することもあった
窃盗品の横流しを買わないかともちかけられたり
クスリや刃物を持ち込む893の息子もいたり
クラスメイトを逮捕するために警察がきたり
アンパンやトルエンとかでラリってる同級生たち

何が起きてもふーんと流せて動じなくなるくらいには
毎日事件だらけで刺激的な日々だった
(今の時代だと考えられないことだよなあ)

高校時代はひたすらバイトの日々
授業さぼって稲毛の浜で海を眺めたり
バイト終わりには仲間たちと飲み歩いて
駅で夜明かし二日酔いで保健室に直行したり

でも悪いことといったら
酒とタバコとサボタージュくらい
悪いことに誘われたこともないわけでもないが
根がオタクだし正義感も一丁前に持ち合わせてたから
そういうことには興味なく手を染めずに済んだ
(友人とスクーター二人乗りして
追いかけられたくらいか<逃げ切った)


なんかまあ そんな破天荒な現実の合間に
キテレツな不思議体験もたくさんして
なんだかんだ濃厚な人生を生きた気がする



最近色々と思うことあって
自分は若い頃に人生の手本にすべき師匠というか
バイブルみたいなものに出会えていたんだって

ああこの人の生き方がもうすべての答えではないかと

うん
この時期に
ハマショーをいまさらあれやこれや聞いていたのだけど

自分のスタイルとやり方を貫くこの人の姿や音楽が
私にものすごく多大な影響を与えてくれていて
そこにすべての答えがあるじゃんって
そう思ったらこれでいいんだって着地点を見出しましたのよ
誠実に生きるってことをこの人に教えてもらえてる

そういえば省吾は山羊座太陽だったなあ


関係ないけど
手塚治虫という巨匠が生きている間に間近に見れたし
長嶋茂雄さんともちょこっと会話したことあるし
(パーティで誘導しただけだから会話のうちにならんか)

ホンモノって言われる人のオーラに触れられたってだけで
なんか人生得しているよなって前向きに考えようと思います

だからニセモノはいらない

本物はいつだって風格が違う
売れないときからも売れてからも
いつもマイペースでその人らしい
そして人間らしく暖かい
色んな人に媚びを売られる立場になってからも
人に頭を下げる謙虚さがあって決して奢らない

紛い物に熱中する暇があったら
本物に触れて 自分を磨こうっと・・・

そして最近 無性に海が見たくてたまらない

自分が育ったのは湾岸の工場地帯で
海の側というわけではないのだけれども
千葉県民というとやはり海なのだ
東京湾と太平洋の二つの海

昔は地元が好きではなかったが
去年の台風被害のときに
自分にも郷土愛(千葉愛)というものが
あるのを発見して驚いたくらいで

なんか本当に海がみたい
東京の海ではなく千葉の海
あの真っ青な空と白い砂浜と青い海
記憶の中のあの青い海を
死ぬ前までにもう一度見てから死にたいなあ

今は行き来できないもんなあ



さてまた話変わって

自分もなんですが
母方は本当に音楽とにかく歌が好きな人が多くて
叔父も叔母もカラオケできないと楽しみなくて
死んでしまう・・・みたいな人たちっっ

どうしてかなと思ったときに

母方の祖父のご先祖様って
京都から持ち出し 壇ノ浦の海に沈むはずだった
雅楽器をなんとかかんとか持ち出して
800年間大切にしてた人たちだったんだよね
満月の夜には雅楽の宴を催す風習があったらしいし
(長持ちの中に大切に保管されてたんだって)

結局75年前の戦争で全部無くなってしまい
最後に残っていた平家琵琶も
ご飯を炊く時の薪になってしまった(戦中)

私も過去生で音楽とか歌とかやってたことないし
歌手になりたいとかは一度も思ったことないし
楽器を演奏する才能はまったくないのだけど
(母は三味線やってましたけどね)

音楽好きってのはご先祖様の影響というか
血なのかなあ・・・なんて少し思ったりします

とはいうものの
生きるか死ぬかの戦場に楽器を持っていくなんて
なんてお気楽な人たちなのだろう
うちのご先祖ってっっ
だから負けるんでしょ<平家

そんな私は判官びいきな義経好き


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