2015/10/31

アチューンメントとは何か

ヒーリングという言葉を耳にする機会がある人、
あるいはヒーリングについて多少「知っている」とか、
施療そのものを受けたり、スピリチュアルに興味があったり、
その手のサイトを閲覧したことのある人の中には、
『アチューンメント』という言葉を目にしたり耳にしたりして、

「それってなに??」って思った人も少なくないかもしんない。


レイキに限ってではないけれど、
例えていうならレイキなどのハンドヒーリングを伝授することを、
英語で、『アチューンメント』と言うので、この言い方を使う人が多いから。
(レイキ(霊氣)だと正しくは霊授というけど)

とはいうものの、アチューンメントというのは、
翻訳すると「共鳴」「共振」するという意味合いなので、
アチューンメント≠伝授にはなりませんが、

あくまで教え伝え授けるための方法として、
アチューンメント(共振させる)というやり方があるってだけです。

レイキみたいなハンドヒーリングは、
(詳細は別途記事参照のこと<ハンドヒーリングのススメ)
本来・・・そうですね、日本でだと、
例えば密教とか修験道なんたらの人たちが
厳しい修練と修行を重ねて、肉体や精神を鍛えた結果、
神通力とおぼしき霊能力を授かって、
人々の病を治すような力を発揮するようになったり、
あるいは生まれつき『緑の手』を持ち、
他人に氣を譲渡することができる人がいて、
ハンドヒーリング(手かざし療法)が出来る人っていったら、
生まれつきの天賦の才か、厳しい修行を何年もして・・・の
いずれかのパターンの道しかなかったんだけれども、

実はこういう方法もあるんですよ・・っていう、第三の方法なわけです。

っていっても、新しい方法ではなくて、
いにしえの、太古の時代からあった方法ではあるのですが。
古くて新しい方法というのかな。
何故なら、ずっと閉じられていた方法だから。
一部だけで伝えられて、一般の人には開示されなかった方法というだけで。
(この続きはあとで)


何かを誰かに教えたりするとき、
それが知識とか学問であったなら、
「お勉強」を通じて、読書や筆記口述でそれを伝えることが出来る。
これも『伝授』。伝え授けること。

武術などの技であったなら、精神論もさることながら、
実際に体を用いたトレーニングなどの実践でそれを体得してもらうことになる。
「ドラゴンボール」では悟空は亀仙人からカメハメ波を『伝授』してもらい、
「北斗の拳」でケンシロウは一子相伝の北斗神拳を
師匠であるリュウケンから『伝授』されたわけで。

そんな感じで、
知識も技術も教えもどんなことも誰かに伝え授ける方法があって、
その『伝授』の手法が、いろいろあるってだけ。

ヒーリングの方法を人に教えるのも、『伝授』

で、
知識とか作法とか方法を『伝授』するだけでなくて、
”氣を集めて、他人に譲渡できる状態にする”
のが『アチューンメント(共振)』なんですね。
それしないと、氣を流せないから。

レイキなどの見えないエネルギー(氣)を用いたヒーリングの伝授は、
『アチューンメント』もまるまる含めてのこと。
つまりアチューンメントの作業は、伝授のメインでもあり一部でもあり。

『アチューンメント』だけしても意味ないし、
『アチューンメント』をしないと意味がない・・・みたいな。

さて、このアチューンメントって行為をイメージするには、
ホームページのほうに説明(こんな風に考えるとわかりやすいかも)
ってのを書いているので、
良かったらソレ読んで、イメージつかんでみてください。
あくまで正論というより比喩として判りやすく書いただけの説明ですけど。

さて、このアチューンメント。

一時期、色んな人が書いてある説明書につられてか、
「これを受ければ自分の人生にもこの説明のことが起きる」
とばかりに、たくさん受けられた人がいるようです。
流行ったというかね。

私もたくさん、メニューとして出していますけど。

でも、これ・・・受けたから「何か起きる」ってものではないんです。

その独特のカラー(波動)を持った、
ある種の氣と繋がることができるようになるってのは、
それを使えてこそのものなので。

問題は、どう使っていくか、であるし、
使っていくことをしないことには・・・なので。

それに実はそれ以前の問題もあります。

ここが肝心要なことで、
『アチューンメント』という方法の醍醐味でもあり、
どうして長いこと、一般の人に開示されず、
一部の人だけにしか伝えたり、受けることが赦されてなかったか、
という理由でもあったりします。


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もともとアチューンメントという方法は、
波動を引き上げ、霊性を高めるための方法としてのものでした。

それは霊的真理の学びにおける私達の魂の起源、
どうしてこの物質社会があるのか、
私たちはどこから来てどこに行くのか・・・ということに密接に関わっていて、
もともと神であった私たちが人間として個々に存在し、
この物質社会で様々な経験をした先に、再び神のもとに戻っていくに際して、
ある身体を育てていないといけない(んですが、
(この身体は神道でいうとこの神体。神の元に戻る状態は仏教だと解脱)
そのためには、
心の身体(サイキカル体)精神の身体(ノエティカル体)をちゃんと使って、
鍛えて、あるレベルにまで成長させないことには神体は育たないのですね。

本来は、人間社会で色々な立場に生まれて、様々な人生経験を積み、
その中で体験を通じて感情を育んだり、あれやこれや考えたり、
日々生きることを実践する中で心や思考や精神を育てていって、
智恵を身に付けたり、波動を上げて霊性を高める・・・のが正道なんですが、

手抜き?というのかな。。。
そういうメンドクサイことを嫌ってかどうかは判りませんが、

「早く~人間になりたい!」

とばかりに、

「早く~神に戻りたい!」

と、思っちゃった人がいるわけです。

そのためのカンニングみたいな、ズルしちゃう方法がアチューンメント。

いや・・・ま、それも違うっつーか語弊がありますが。


ちなみに、
霊的な知識(真理)はその昔、一般の人に開示されることなく、
一部の神官とか、その手の人々たちの間だけで伝えられていて、
民衆に教えることは罪・タプーとされていました。
その理由としては、正しく理解できる人が少なかったから。
『アチューンメント』はそういう神官たちの、
まどろっこしい勉強を地道に続けていくよりも・・・
この先の生まれ変わったもっと後の人生よりも、

とにかく今なんです! 
そんな地味なこと続けた先なんて、ぢぶん待ってられないですっっっ

とばかりに、

「早く~神に戻りたい!」

っていう気持ちから生まれたもののようです。

『アチューンメント』が盛んだったのは、古代エジプト文明。

神はこの場合、太陽(アトン神)で、太陽の波動が目標だったわけです。

うーん・・・太陽の波動にあわせたら焼けてまうがな<肉体

けど、アメン神の信仰が盛んになってからの神官たちは、
めちゃくちゃ堕落してて、エゴイズムの虜になってましたから、
霊的な真理も意味をなさず、本当の意味を理解している人は、
既にいなかったわけですね。いくらアチュしても無理無理で。

とはいうものの、

本来のアチューンメントという行為は、
秘教的教え・・・霊的真理の学びにおいては、

『対象物に意識を合わせる』という、
物事を理解するための方法としてのエクササイズでした。
従ってトレーニング方法であり、レッスンでもあった。

それが堕落した神官たちがちょいズルな目的で使うようになり、
霊性を高めるためといえばそうなんだけど、
いつの間にか、「早くスゴイ人になりたいんだもん」という、
利己的な目的を遂げるための方法になっていっちゃったんですな。

やれやれ・・・


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で、アチューンメントは、
もともとその人の波動を高めて、霊性を上げるための方法なわけですが、
やったからって人生で奇跡や「何か」が起こるわけではないです。

また、霊性の引き上げという意味では、
実際に人生で色んなことを体験して、
そこで生まれた喜怒哀楽や知りえたことから考え、学び、
経験を肥やしとして血肉にし、
成長してレベルアップする過程とは比べ物になりませんし。

かといってアチューンメントはまったく意味のない事ということもなく、
ある一定のレベルに達していない人でないと、
『波動を上げ霊性を高める』
っていう本来の目的を達せられないというのがあり。

つまりはどうしても
その人の"霊"がどこの段階にいるか・・・ってことに左右されるので、
アチューンメントしても、
「共振」が起きず、「波動が上がらない」人も多いのです。

とくに『エゴイズム』がたくさんあって、
下層のエゴイズムに囚われている人はね。

 (たまに、アチュメニュー受けに来てくださる方で、
 全身ネガティブエレメンタル(エネルギーブロックとも言うね)だらけで、
 いやさコレは、それ以前の問題があるし、
 アチュ受けるには早すぎるよ~個人セッションのほうですがね~って方、
 ケッコーいるんですけど・・・本人の主体性に任せているというか、
 お金の掛かることだけに勧誘とか誘導になっちゃうしな~なので
 自分の問題を解決したり知りたいとか思ってない人に、
 押し付けても・・・であり、いいませんが。時間的制約もありますし)
 

自分が霊的にどのレベルまで進化しているかなんて、
誰もがわかることではないし、『わからいでか!』なことなので、
受けて意味のある人と無い人を選別してもせんないこと。
それに、霊的に成長していなくても、
サイキカル体が敏感な人は、氣を感じることは出来るから、
「アチューンメント体験で何か感じられた」というだけでは、
『共振』が起きたということにはならないのです。

それでは今、成長して
霊性が一定のレベルに達していない人は、
アチューンメントを受けることは無意味なのか?
というと、そうではなく、『何もしないよりはマシ』(笑)
いやさこの言い方は身も蓋も無いですね。

今のこの人生ではその『波動の氣』との間に共振が起きず、
即効にその『波動の氣』を使うことができなくても、
それを受け入れることの出来る段階にまで成長できたときには、
使うことができますから。
それまでは冷凍保存(コールドスリープ)されて
オーラにくっ付いた種状態のままってことで。

ただ、解凍される時期・・・種が開花するのがいつなのか・・・
それは神のみぞ知るちゅうかー誰にも判りません。もち本人にも。

今生なのか、先の人生、さらに先の人生なのか、果てさてもっと先なのか。

だから、
他人に何らかのアチューンメントをすることの出来る人が、

「あなたの霊性ではまだ、
 このメニューのエネルギー『氣』を、
 使える霊的な段階には達していませんよ」

ということが判っていなくてもまったく問題ないんです。

実際、ヒーリングを施していたり、アチューンメントをしている人でも、
まったく自分が何をしているのか、そのエネルギーが何であるのか、
判っていない人のほうが多いわけですが。
それでも何とかそれは「起きている」し、行われているわけです。

ただ、アチューンメントにより、今生
特定の波動(周波数)を持ったエネルギーと共振を起こして、
その波動の氣をうまく使うことが出来る人・・・
(自分の人生に対しても他人に対しても)
というのは、受けた人すべてではない、というのはあり。

残念ながら。

なので説明書きそのままのことを期待しする人・・・
その周波数を持った氣の特徴が顕していることを、
アチューンメントを受けたことによって、
自分の人生にそのようなことがやってくる・・・なーんて、

それは違います。

アチューンメントを受けて、共振が置き、
「氣」を受け取る事によって、内面的な変化が起きて、
気づきが起きたり、癒しが起きて、それによって結果として、
そのことが物質社会に顕現して、現実が変化し、
受け取ることができる人もいるけれどもね。
それはその人の霊性に合わせて、タイミングとして起きることだから。


そして何よりも、アチューンメントは、
本来の目的としての『イニシエーション(儀式)』でもあると同時に、
『ある周波数を持った氣』を『手渡す』ことなので、

そこに書いてある
共振が起こった人が、自分が感じた『エネルギーの質としての特徴』と、
共振が起きたことによって、自分の内面と外的な面に起きた変化を、

アチューンメントを受けている間に、
同じことを感じられることを期待しても、です。
何度もいうように結果が起きることをも含めて。

そういう意味で、
問題解決のアプローチになる人もいるけど、ならない人もいる。
その人の「いま」の段階では、
何も感じなかった、判らなかった・・・な人も多くいて当たり前です。

なので、
誇大広告な説明書きをしているほうも悪いんだけど、
過剰な期待をして受けるものではないです。

どちらかというと、
何かが起きることを期待して受けるのではなく、
 ・自分の不足している感情を補い、傷を癒す
 ・そういう質を持った種類の氣と縁を持つ
くらいの気持ちで受けたり、

あるいは、本来の目的に添って、
 ・気づきを促して霊性を高めるため
 ・そうした特徴を持ったエネルギーと繋がることにより
  他者を理解する手がかりにし、感情を広げたい
 ・自分に不足している感情、人として足りてないものを補う
とかとか。

後は、他人を癒す仕事をしている人、
ヒーラーでもいいし、セラピーとかカウンセラーとか、
そういう人が、他者に対して、「優しい波動」を出すために、
もしくはクライアントさんに対して、その種の波動の氣を使っていくために、
求めていくべきものなのかも知れない。


『エゴイズム』はもっとも、
アチューンメントをする上で、妨げになるものだから。

過剰な、過大な期待をするでなく、
そのエネルギーとどうして繋がりたいのかという、
確固たる、きちんとした目的意識があってこそ、
生きてくるものだから。

まあ、曖昧でもいいんですけどね。
奇跡が起きることや、
魔法のような、自己都合に合わせた変化を望みさえしなければ。


昔は・・・一般の人が受けることは赦されてなくて、
それを開示した方も処罰されて、下手すりゃ殺されてたけど、
今の時代は、誰でも求めれば(マネーはかかるけど)
受けることはできます。

エネルギーを感じること、変化を感じられないからといって、
詐欺なんではないんですよ。あしからず。

まーでも、価値のない人にとってはまったく価値がなく、
『物質』として顕されるものではないので、
意味や価値を見出さない人にとっては、
詐欺同然の商売と映っても致し方ないかも知れません。

受ける人にとっては
結局、『経験』という、『体感的』なものにお金を払っているわけで、
感じられないでは、
詐欺だってそう言われても、返す言葉がないですものね。

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