2015/11/05

スケープゴート(後半)

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ヨハネによる福音書第8章3節-11節:

イエスを試すために、
律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。
律法では石打ちの死刑に値する。

イエスは、

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
 まず、この女に石を投げなさい。」

と言った。

これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。
また、イエスも女の罪を許した。


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少し遠まわしな話題から。

私は6年くらい前から私塾を開いて、
レイキによるハンドヒーリングとは別に、
スピリチュアリズムやエソテリックな知識など、
教えることをしているのだけれども・・・

このような霊的真理の学びや
サイキックな能力の開発の過程においては、
必ずといっていいほど、
避けることのできない、通らなければいけない道があって、

まず第一に、自らのことも含めて、すべての事柄を、
客観的かつ中立的な視点で眺められるようになる・・・ということ。
つまりは個人的視野や感情に囚われず、包括的に物事を捉えて、
自分さえも他人を眺めるがごとく、突き放して見なせるようになる・・・
のが最初のトレーニングで始発点になる。

魔術にしても、宗教的修行にしても、どんなものにせよ、
多くの精神的修養というのは、共通してここが基礎になる。

内側から感じ、外側から眺める目を同時に持つというのが。

さて、そうしたトレーニングをしながら、
並行して自分の問題と向き合っていくことをするんだけれども、
自分自身の力を取り戻すために目指すこととしては、
まず第一に己の力を奪っている事柄からの解放であり、
それは過去の傷を癒し、自らを癒して、
自分に対する信頼や尊厳を回復していく作業になるのね。

で、ここまでは「気持ちのよいこと」になる。
重荷を取り払うことで楽になり、自分を取り戻すことで喜びも感じる。

問題なのは、次のステップ。
ここからがとても重要で、ここを乗り越えることができないと、
自分自身も人生もコントロールすることなんてできないし、
本当の解放・・・自由を得る道には至れないのだけれども。

だいたい半分くらいの人が挫折してしまう。

それは、自らの罪深さ・・・ケガレを知り、真正面から向き合うこと。
ひたすら内省をして、自分の中のエゴイズムをチェックして、
過去を振り返って、
自分が他人に与えてきた痛み、苦しみを知ること。
自分の弱さ、愚かさ、未熟な部分・・・
醜くて汚くて、目を背けたくなるような、恥辱にまみれた、
自分自身をしっかり見据えて受け止めて、
その上で他者の痛み、弱さ、過ちを、己が罪と感じ、
人が人であるが故の罪深さを、赦す心を育てる必要がある。

キリスト教の言葉でいうと、贖罪に近いかな。

で、これはとても「イタイ」作業だから、逃げ出す人ばかり。

誰もが、自分の間違いを認めたくないもので・・・
過去生であったとしても、常に自分は「善人」で、
間違いなど犯したことのない、正しい人物だったと思ってもいたいので。
自分が過去に「過ち」を犯していたとか、
他人に対して、情け知らずで非道で、罪深いことをしていたなぞ、
あったとしても、受け入れたくない事実なのだろう。

でも、この道程を通らずして、
スピリチュアルな成長なんて、ありえないんですけどね。
ここの部分を省略して・・・スルーして、
サイキックな能力の開発やら、スピリチュアルな仕事に就くと、
あっという間のエゴイズムの餌食になってしまうし。
すると、光を見ることはおろか、成長は堕落に変わり、
もっと深い闇の底に囚われてしまうことになる。

人は誰だって、自分に悪いところがあるとは思いたくないし、
自分の中の悪いものは、見たくないんだよね。
一番目を背けていたい部分でもあり。


精神世界に憧れ、惹かれる人ほど・・・
自分は高潔で、清い、誠実な善人だと・・・
信じていたいものだから。

うん。欠乏は過剰を産むというわけで、
そうなりたいと願う人ほど、
自分の中の醜い部分、汚いものに蓋をする。

そしてイタイこと、辛いことは回避しようとする。
自分の外に存在する奇麗事を求めることで、
自らの醜さを拭い去りたいとするかのごとく、
まるで、自分の黒さを白いローブで覆い隠すかのように・・・。

清いものに憧れれば憧れるほど・・・
光に近づきたければ、近づきたいほど・・・
自分の中の闇をきちんと見据えて、
直視しないといけないのだけどね。
否定することなく、ありのままを。

邪悪だって、目をそらさずに、
そこにあるものとして、知る必要がある。


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「前半」の続き。

一部の自虐的な人はともかくとして、
ほとんどの人が、
「非は自分のほうにある」ということを安易には認めたがらない。

「私のせいではない。あの人が悪いのだ・・・」
「私はついていなかっただけだ」
「うちの旦那の稼ぎが悪いから」
「相手が私の話を聞いてくれないから」
「あの場所がよくないのだ」

自分が選択したことにでさえ、
運や不運のせいにしたり、相手のせいにしたり・・・
お金がないからだ、才能がないからだとか・・・

いちいちそうした例をあげるとキリがないほどなので、
やめておくが。

いつだって、人は
自分の問題を「誰か」や「何か」のせいにしたがる。

みんな被害者であるほうが楽だから。

誰かを嫌ったり、憎んだりするのは、
それは自分の心の中の問題であるのに、
自分に対してそのような気持ちを起こさせたことに対して、
恨みを晴らすかのごとく執拗に相手を糾弾し、非難し続ける。
嫌いなら嫌いで、好きになれないならそれはそれでいいのに、
自分の中に「嫌悪感」を催させる対象がまるで悪であるかのように、
その相手が存在することが罪であるかのごとく、
人は自分の感情を害させることを悪として、他者を簡単に断罪する。

自分の感情は正しく、
おのが感情の反応こそが正義であるかのように。

自分は他人を裁く、正義の天秤を持っていて、
いつだって他人を断罪する権利を持っているのだと?

だから、自分の感情を傷つける人は悪だと?

自分の好みに合わないものは、すべて排除されてしかるべきだと?


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他人のせいにすることはたやすく、とても簡単で楽なことだ。

間違っているのは、悪いのは相手のほうだ、としておき、
被害者意識に甘んじて、自己憐憫に浸りまくり、
常に誰か加害者を作り出して、誰かを憎み、嫌うことは、
その相手に自分の非も含めてすべてを押し付けることになるから。

誰かのせいにしておけば、自分の責任を取らなくて済む。

誰もが、自分が「悪い」とは思いたくないし、
自分が加害者であることを認めたがらない。

己が責任を負うことも含めて、
みな自分の罪を認めたくないのだ。

みんな、自分のほうが正しい、と・・・
正しいことをしている側である・・・と、思い込みたいのだ。


だから、人は「悪」を作り出す。
自分が正しい側にいるという証明のために・・・

「悪」は排除されるものであって、
「正しくないもの」は「間違っているもの」であり、
「間違っている」ことは、「悪」そのものであると・・・

そんな単純図式を作って、
自分の立ち位置が常に「正しい」側にあるということを確認するために、
自分が「悪」の側にはいないことを・・・
断罪され排除される側にはいないことを証明するために、

絶対条件として自分ではない存在、
スケープゴートとしての「悪」や「敵」を、人は必要としている。


小さな集団では、
「普通の人」と「変わっている人」
地方にあっては、他所者と地元民
少数派と多数派など。

大きな集団では、
民族の違い、肌の色の違い、言葉の違い、宗教の違いetc・・・


「悪」や「敵」と定義づけるのは何でもいい。

個人だったり、集団だったり・・・
自分たちを「正当化」するために、
人はいつだって「敵」を作り出し、それを「悪」と見なす。

相手を自分たちとは異なる意見の持ち主とか、
個性的で風変わりなものとして捉えるのではなく、
自分たちには属さない異質なものとして排除したがる。

差別がまずよい例で。


なぜ、わざわざ差別したがるのか?
差別をする必要がどうしてそこにあるのか?

人が人を区分せざるを得ない理由とはなんぞや?


ある人がいっていたが、そこには「未知なるもの」、
自分たちが理解できないものに対する「恐れ」があるのだという。
なるほど、それもそうかも知れない。

では、どうして「未知なるもの」「理解できないもの」に対して、
そこまで過剰に反応し、畏怖を抱くのか・・・

それは「未知なるもの」に、
自分たちがいつか「排除」されることを恐れるからである。

「排除」されるということは、
自分たちが滅ぼされるべき「悪」であるということだ。
だから、自分たちが「正義」の側であるとして、
相手を「悪」に仕立て上げることで、
安全と安泰を一足先に確保しようとする。


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人は、「間違い」を犯すことを恐れる。

故に己が行動の模範的規範を求める。

それは宗教の経典だったり、所属する社会のルールだったり、様々。

なぜ、間違えることを恐れるのか・・・

それは間違えている側にあると、排除されるから。


集団にあっては多数派の意見に属する側であり、
宗教にとっては、戒律に従うもの・・・というのが、
自らが排除されない「正しい」側にいるという保障のようなものとなる。


自分にとって、何が正しいか、間違っているのか・・・ではなく、
社会や組織などの集団から排除・駆逐され、排斥されないために、
属する集団の「正しい側」にいると、常に自分の居場所を確認し、
身の安全を確保するために・・・

人は、属する集団にとっての「正しいこと」「正しくない」ことを
おのが行動の戒律として、それに従おうとする。


例えば、多数ある宗教の信者にとって・・・
経典の本当の意味・・・始祖の真意や意図がどうであったかなんて、
どうでもいいことになっているように思う。
それが本当はどのようなことを教え諭しているのかなんて、
きちんと考えて、汲み取ろうとしている人はさほどいず。

形だけの儀式や言葉に囚われて、
組織の判断や裁定だけに頼っているだけで。

キリスト教徒が聖書を自らの行動の規範とするなら、
どうして異教徒を差別するのか・・・隣人を愛さないのか・・・
仏陀の言葉や生き様を知りながら、
どうして煩悩に囚われる生き方を選ぶのか・・・

始祖の真実の教えはもはやそこにはなく、
組織が存在するためだけの、形としての象徴であり、
自分たちの行動やエゴイズムを正当化するためだけに、
もともとあった教えやカリスマ的な存在を利用しているだけのもの。

本当に彼ら、始祖たる人々の教え、
まことの心に触れることができたなら、
宗教が殺人と差別の歴史を繰り返すことに終わりを告げように。



「魔女狩り」という集団ヒステリー

誰かを「悪」と決め付けて、裁定・糾弾し、
憎悪の対象として排除するだけでは飽き足らず、
必要以上の厳罰を与えて、
社会的かつ生命をも抹殺しようとする行為。

「魔女狩り」という言葉で表される残酷行為、
人類の同胞への残虐性は、何も語源の「魔女狩り」だけでなく、
それ以前にも、それ以降にも、たくさん・・・
あまりにもたくさん行われてきた。

歴史の昔から、現代まで。
小さな集団から大きな集団、民族や国家規模まで。

大なり小なり、類似の行為は世界中で今も行われている。

学校のイジメもそうだし、会社でもあるし、
近隣住人の間でも、近親者の間でさえも存在する。


何かを理由にして、人は誰かターゲットを作り、
その相手に憎悪をぶつける。

人は自分の中の悪を認めないにも関わらず、
他人を悪とし、罪を犯したことや悪であることを理由に、
自らを相手を裁くことを正義と称して、罰を与えようとする。


いつになったら、終わるのか・・・
いつになったら、人はこの愚かな行動に気づくのか

鏡を正面からきちんと凝視して、
醜い怪物の姿をしたそれを、自分と認めるのか。

自分が罰を与えようとしている対象者が、
誰でもない自分自身であることに、いつになったら気づけるのか・・・


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~他人を清く至らしめようと思う以前に、己が罪を清くせよ~

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誰かのせいにして、憎むことはとてもたやすい。

憎しみの対象を作って、
すべての責任を押し付けて、
相手のせいだと、責任逃れをすることは・・・。

自分のせいではないと、
自分は何も悪くなく、すべて他人が悪くて、
何もかも相手のせいだと・・・

そんなふうにしていれば、
自分の問題と向き合うことなく、自分を責める必要もなく、
何もしない状態に甘んじていられるから。


人を憎むことが、自分が問題から逃げる言い訳になるから。

つまりは「問題のすり替え」なんだよね。
他人を自分の身代わりにして、罪の衣を着せているだけ。

自分の黒さや罪を認めて、自責の念を持つことよりも、
相手の黒さや罪を責めて、相手を苦しませるほうが、
そのほうが自分を苦しめることなく、楽だと思えるから・・・

実際はもっともっと、後のほうで自分の苦しみは深くなるのに。

確かに、自分の非を認めることはとても勇気のいること。
自らの過ち、罪深さ、闇の部分と向き合うことは難しい。
とても辛くて痛いことだし、
ときに耐え切れないほどの苦しみももたらすから。

間違いを犯した自分、を・・・赦すことからすべては始まる。

まずは、「間違ってはいけない」という強迫観念を捨てることだ。

「間違ってはいけない」「間違いを犯すことはよくないこと」

間違い=悪で、
悪は裁かれるもの、断罪して排除しなければいけないもの・・・

という考えが不幸や歪を作り出す。

自分に対して
「間違ってはいけない」という強迫観念を持っていると、
「間違いは赦されない」という思考回路になってしまい、
何が「正くて」か「間違っている」ことなのか、
という価値基準を常に外側の世界に求めるようになり、
そのモノサシで自分も他人も計ってしまって、
自分自身も人生もかなり窮屈にしてしまう。

そして、そこから外れることに恐怖を覚えて、
自分にとって本当に価値あるものを見逃してしまいやすくなる。

さらに、「間違っている」ことを許容できないので、
「間違えている」と思えることに対して過剰に反応し、
相手を赦せなくなり、批判的になり、攻撃的になってしまう。

「間違っている」ことは悪なのではないし、
誰もが「間違える」可能性があるというのに。

人が人である限りは・・・

人は不完全な生きものであり、
正しいこともするけれども過ちも犯すものだ。
間違いを犯さずして、人は成長することなぞできない。
それを「間違い」だったと、気づけるはずもない。

間違いを犯したら・・・気づいたら、それを正せばいい。
完璧な人はどこにもいない。
人間は過ちを犯す生きものなのである。

そして、自分も間違いを犯すように、
誤った判断をすることがあるように、
他人もまた間違いを犯し、誤った判断をすることがある。
その人が自分で気づくまでは、正しい行動はできないだろうが、
自分が気づくことができたように、
その人もやがていつか自分の間違いに気づく日がくるのである。

だから、間違えている人を憎む必要はないし、
そのことを糾弾して、非を責め、断罪する必要はない。

もし、断罪しなければならないとするならば、
今までのあなた自身を、何回殺しても飽き足らないだろう。

誰もが模範的な人生を初めから生きられたわけではないのだから。



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