2015/11/05

『死』というトラウマ(後半)

先日、有志の方数名と共に、
3.11の三回忌に寄せ、祈りと黙祷を捧げさせていただいた。
(それより前に「遺体、明日への10日間」も観にいき)

現実の時間は確実に過ぎ、
二年という決して短くはない月日が流れてはいるけれど・・・
未だに時間が止まったままの空間があって。

生きている人の中でもあの日から先に進めない人もいるし、
死して、あの瞬間の中に閉じ込められている人もいて、
死を自覚してもなお、家族の側に居たいと・・・

大勢の人の祈りの声や読経など、
多くのサポートを拒否して、現世にあり続けようという人もいる。

先の映画上映中では、
自分たちのために泣く人の涙に、慰めを見出す霊たちもいて。
死者のためにその死を悼み、涙することは、
これまた大切な供養なのだと改めて気づかされる。
そのための泣き女という職業、泣く場としての葬儀かも知れない。

(もうひとつ気づいたのは、二年前の地震だけでなく、
それ以前の地震、昭和初期や明治の時の津波犠牲者も
未だ浮かばれぬ霊たちがいるということ。
今回の、日本中から届く供養のエネルギーを
過去の犠牲者たちも多く必要としているのだと・・・)

少数ではあるが、この二年のうちに
すでに生まれかわっているものたちもいるのに、
死のショックに縛られし者たちもいて、
残された家族の悲嘆にくれる姿が心配で、
上がりたくても上がれない、
次のステップに行くことが出来ないものもいたりするのは、
なんとも複雑な気持ちになる。

自らが死を自覚せず、死の瞬間に囚われているのならいざ知らず、
家族の涙や死者への執着が、彼らの旅立ちを妨げているというのは、
よくあることだけれども、やりきれない部分であるのは事実だ。


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『死』はいつか訪れる。

スピリチュアリズムの世界では、『死』は存在せず、
『変遷』があるだけだけれども・・・。

現実社会(三次元)に生きている以上、生物としての肉体の死、
いま存在しているパーソナリティの死は避けられることではない。

肉体の『死』は、
その人がその人として存在している、拠り所を失わせること。

永遠の別れであり、生きて再び触れること叶わぬ状態でもある。



肉体の『死』により、おのが肉体と離れた魂魄は、
自分の足元に横たわる、おのが姿を見て、
その生の終わりを自覚するものもいるし、
それすら見えず、死の状態に縛られるものもいる。

自分の遺体の状態にショックを受けるもの・・・もいるし、
自分の死を受け入れて、すぐに次の段階に移行できるものもいれば、
この世や人への執着から「現実」を受け入れることができず、
時のしじま・・・時間の狭間を彷徨うことを選ぶものもいる。

『死』そのもの・・・
突然の人生の終結にショックを受けるものもいるし、
自分を『死』へと追いやった状況に対して、
激しく動揺したり、憤怒するものもいる。

それはそれ、その魂のレベルによって様々。

それがいいとも悪いとも責められることではないし・・・
それすらも必要な経験としかいいようがない。


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前半の文の続きになるが、
自分の『死の状態』そのものに強いショックを受け、
それがトラウマとなって、今生での理由なき感情的反応や
PTSDのような心的障害をもたらしていることがある。

それは、
自分を『死』へと導いた凶器に対する過度な恐怖心の場合もあるし、
『死』へ誘った加害者を連想させる、類似の人物への拒絶反応だったり、
いまわのきわに見た物へのデジュヴュ的な不可視感だったり・・・とか。
無意識の心理的な反応として出る場合も多いが、
今生の肉体にその影響が出てしまう場合もこれまた多かったりする。

自分の『死』の原因となった不衛生さから、過剰に潔癖になっていたり、
病気にかかることに異常に恐れを抱いていたり、
心理的に何らかのストレスや圧迫を感じると、
そのときの患部や損傷した部分がうずいたり・・・など。
後者のような肉体への出方は、ときにファントムペイン(幻視痛)を生む。

検査しても、どこにも・・・何も異常がないのに、
切られたり、刺されたような痛みを覚えたり、
肉体の一部を失うような悪夢を見たりなど。

あまり多くない実例だが極端な例では、
原因不明の皮膚炎など皮膚の炎症、
痣などが一時的に浮かび上がるなど。
医学においては、メンタルが原因の疾患としかいいようがないものなど。
※このあたり映画「オードリー・ローズ」に出てきたようなもの。

なぜ過去生とは異なる遺伝子の、別個の肉体に
そのような症状が表れるのかは理由があるのだが、
それはここでは省いておく。


溺れたもの、水に関する死を経験したものは、
海やプール、極端には風呂の湯船まで、水を怖がる人も少なくないが、
すべての水死者が水を怖がるようになるわけではない。
(私も水死の経験は何度かあるが、浮かぶだけなら問題ない)
とはいうもののの、
溺死のとき、水を大量に呑んでしまった経験のある私の友人は、
40を過ぎるまで、味噌汁や飲み物など、それらの水を飲むことさえ、
困難があった。なめるようにしかそれらを取れなくて。
飲み物をゴクゴクと飲み干すということが出来なかった。
(原因を指摘してからは、なんとか飲むことは出来るようになった)

火に関する死、火事などが原因で死したものも
火を怖がるものは少なくない。
けれど、何度か人生を生きるうち、克服できるものもいるので。

焼夷弾や原爆で身体を焼かれた人々の一部は、
ケロイド状のアトピーや爛れなど、
皮膚に疾患を持って生まれる人も少なくない。

肺病というか労咳・・・結核によって亡くなったものは、
今生も喘息や気管支炎など、その部位に疾患を持っていたりする。
これは人にうつる病として、周囲や家族から引き離され、
世間から隔絶される生活を余儀なくされたことから、
孤独と哀しみと厭世観とを、
その病の病巣にも溜めてしまったかのごとく。
今生でも、哀しみと孤独が深くなると、肺を病ませてしまうため。

古くなった食べ物が原因の死は、賞味期限に神経質になり、
ペストやチフスなど、
当時水が原因と思われていた疾患により死した者は、
生水を飲むことに拒絶反応を示し、
喉をつかれて死んだものは、喉に違和感を抱え、
あるいは喉に衣類が触れることに居心地の悪さを覚えたりする。

拷問により針を身体に刺されたものは、
針を怖がり、先のとがったものを畏怖する。

生き埋めになったものは、暗闇を怖がり、空気の薄さを感じたり、
閉塞的な環境や狭いところなどに押し込められると、
パニックになったり、過呼吸の発作を起こしたりする。


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また、自らを『死』へと至らしめた経緯・・・
死する道へと辿ることになった自らの生き様や原因も、
大きな後悔や憤怒や悲嘆など、強い感情的印象を伴いトラウマとなる。


ある人は、その性格ゆえに誰にも心を許さず、
親族をも近づけず、友をもたず・・・
結果として、孤独死を迎えることになった。
遺体となっても誰にも発見してもらえないという、
惨めな自分の死に様を目の当たりにしたとき、
「こんな死に方はもう二度としたくない!」という強い思いとなって、
何が何でも今生では配偶者を得たいという結婚願望へと向わせた。

また、人に騙され、
人生をのすべてをかけて貯蓄した金銭を奪われて憤死した者は、
「二度と誰も信じないぞ!お金以外は信じない」
という強い信念を抱えて生きることになった。


革命により家族とともに追われ、逃げている最中、
幼子だった自分が出してしまった声により見つかり、
それによって家族ともども惨殺されてしまった過去のある者は、
「私のせいで家族が不幸になる」「私がいると皆の迷惑になる」と、
必要以上に感情を抑えて生きる、か細い声の人となり、
常に罪悪感と厭世観の中で生きていた。
そんな風に、
強い人生への後悔、そして特定の相手への恨み、
罪悪感を抱え込んで生きている人は少なくない。

「助けられなかった」「自分のせいで・・・」という思いは
ことに重く、なかなかに手放すことが難しい感情だったりする。

自殺したものも、自責の念が強く、そのカルマは重い。
自分の死によって他人に責任を転嫁させてしまっていたり、
迷惑をかけていたのなら尚更。


死は一瞬でしかなく、魂にとっては『変遷』で決して終わりではないが、
ひとつの人生の区切りであり、
その日を迎えると、二度とその人生を生きることはできない。
その人生のその同じ人としては、この現実社会を生きることはできない。

中身は同じであっても、
あなたがあなたとして存在するのは、
皆があなたとして認識する固有の名前と特徴を有した、
一個の存在に対してのことなので。

転生において『死』はなくとも、一個の人格には終わりがある。

いったん肉体を離れたら、その人としての人生は終わりだ。

今のあなたとしての人生は、まぎれもなくただ一度なのである。

かといって、
あなたが作った生の荷物、負の荷物は、そこで捨てられるものではない。
その荷物は次のステージに持っていくべきもの。
あなたが手を離しても、捨てようとしたり、誰かに押し付けても、
その荷物があなたをしっかりと持ち主として認識しているもの。
何世代かを通り越して、あなたが荷物を忘れても、
荷物があなたを覚えているので、あなたのところにいつでも届く。


ただ一度きりの人生だからこそ尊い。

同じ人物としての人生は二度は生きられない。

いまのあなたとしての人生は、
かけがえのないただ一度きりの人生なのだから、
別の人生のことを考えるより、今の人生を味わい尽くし、
目の前にある荷物を片付けることを考えるほうが先である。

明日は明日の風が吹く。

けれど、いまこの瞬間はこの瞬間しか訪れない。

いまの出会いもいま一瞬だけのものである。

いま生きている命も・・・いま目の前にいる人も、
明日の命はわからない。

来年の春には会えない人かも知れない。

いま咲いている花の香りも、来年には嗅げないかも知れない。

次の人生では、
日本という国の名も知らない土地に生まれるかも知れない。

今生、出会えている人たちも・・・家族として愛している人たちとも、
友とも、パートナーとも、仲間とも、
来世では別の国に生まれ、わからない言葉を話し、
見知らぬ他人や敵として出会うのかも知れない。
遠い存在として、お互いを知らずに生きることになるのだろう。


だから、
いま目の前にあることを大事にして、
明日死ぬつもりで生きて、限りある命として考えて、
今日できることは今日してしまって、
いまの自分を楽しんで、今自分に与えられた環境を、
二度は楽しめない状況を、思い切り味わい尽くして生きるのがよい。


死は誰にでも公平に訪れる。

どんな人でも死ぬことは避けられない。

若いから死から遠いということもなく、
老いたものだから近いというものではない。

その日は明日かも知れないし、
今日かも知れない。
あるいは50年先、一年後なのかも知れない。

その日がいつ自分に訪れるのか・・・
それを悟ることの出来るものは多くない。

「今日は死ぬのによい日」

インディアンの言葉でこんな言葉がある。
彼らは、自ら旅立ちのよき日を選んでいくのだという。
肉体を離れる瞬間を自分で選び、準備して、
愛するものに別れを告げて、祖先のもとに行くのだそうだ。


人生の終わりに何を一番後悔したくないか・・・
どういう人生だと想って死にたいのか・・・

「あれもできなかった、これもできなかった。なにもやらなかった」
と、そう思いながら死にたいのか・・・

「あれもやった、これもやった」と、そう思える人生がいいのか。

なにもやらなかったと悔いが残るくらいなら、
同じ後悔なら、
やらなかった後悔より、やり過ぎちゃった後悔のほうがいいと想う。

どんな『死』を迎えたいのか。

『生』を選べないというのなら、『死』こそ自分で準備したいと想う。

それが想定外の死だとしても。


いつ訪れるとも予想不可な状態にしても、
その時、その瞬間には、憎悪や悲嘆などの感情ではなく、
やり尽くし、ベストを尽くした気持ちで、
憂いを残さずに立ち去りたいものだ。

『死』を恐れるより、
常にその日を。その気持ちを準備しておきたいと想う。

理想ではありますが・・・。


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