2015/11/05

記憶は嘘をつく

記憶というのは頼りないものである。

例えば、
歴史というのが勝者から見た、都合の良い解釈であるのと同様に、
一人の人間の『記憶』という概念に閉じ込めた現実というのは、
その人物の感情というフィルター通して解釈された、
そのように認識し、事実として『受け止めている』だけの、
主観的なおかつ一方的な見方にしか過ぎないのだから。

ようするに、
数人が同じ出来事の場に居合わせたとしても、
各自が感じること・・・感じ方はそれぞれ異なっていて、
ある人から見たら、とても重要で大きな出来事として印象に残り、
またある人から見たら、それは取るに足らない出来事として、
夕飯の話題にも出すまでもない意味のないこととなるとか・・・

10人いれば20の目が、違う現実を映し出し、
心象として心に映し出される景色も異なるものとなる。

さらに心に映し出された風景には、
インプットされる時点で、脚色をアレンジされたり、
二次創作といったヒネリを加えられることもあるだろう。

また、
その人の物事の受け止め方(善悪の判断や価値観等)や、
イメージのファイリングの仕方のルール如何で、
『記録』される事象は、重要な箇所のみ抜き出されたり、省略されて、
時にその過程において、一番重要なところが欠落してしまって、
あらすじがまったく異なったものになってしまう可能性も否めない。

省略ならまだいいが、
最悪なことは本編が差し替えられるなど、
配役を『間違って』覚えてしまい、
本来の出来事からかけ離れた、多少の相違ではすまない、
全く異なった、別の話になってしまうことも時になきにしもがな、である。

別の視点から話してみよう。

ある殺人事件があったとする。

事件の出来事としては、ひとつだが、
被害者的な視点で見るか、加害者的立場で見るか、
あるいは物見遊山の、完全な外野的立場で見るか、
人伝えにそれを聞いたものの立場で語るか、
被害者の関係者としての立場で語るか、
加害者の関係者としての立場で語るか・・・
それともそれを逮捕したり、裁いたりするなど、
客観的な立場から罰せざるを得ないものの立場から見るか、

それぞれの立場のものが、
事件のあらましを第三者に語るとき、
置かれている立場や、事の本質との距離感からモノを語るので、
たった一つの出来事でも、
幾通りもの説明、「物語」が出来上がるわけである。

『記憶』というのも、そういうもので、
それが客観的な事実と食い違うことは多々あったりする。

そして、人はその『記憶』の部分に、
「このようにありたかった」という理想を付け加えることも少なくない。

思い出が美しく飾られるように・・・初恋が美化されるように・・・

多くの人が知っているように、ほら吹きと言われるような人や
見栄っ張りな人は、そうしがちなものだし、
誰かに話すときには、誰もが、
恥ずかしいことや都合の悪いことを語りたがらないものだ。

他人に言いたくないだけならいいが、
「忘れてしまいたいこと」として、自分の記憶の中からも風化させ、
頭の隅に追いやったり、中には完全に追い出して、
なかったことにするなど、記憶のすり替えをすることも、よくあることだ。


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個人の存在証明というのは、
アイデンティティとしての『記憶』で成り立つものだが、
個人の持つ『記憶』に関して、
共有する体験を持つ、多くの証人がいる今生でさえ、
そうした『記憶』の都合の良い書き換えなど、
勘違いを含めて、日々起こっているというのに、
これが通常は覚えていず、体験を共有する証人が身近にいない
『過去生』といった分野なら、なおのこと。

勘違いや記憶違い、間違ったように解釈して、
事実とは異なった心象体験として、刻まれることがあることは否めない。

なので、『過去生』の『記憶』というのは、
実際に起きた(と思われる)客観的な事実と相違があることも多い。

第三者の目から見たときに、
「それは違う」「事実とかけ離れている」と否定されるような、
異なる物語になってしまっていることも、時にあったりする。

記憶は嘘をつく・・・と言ってしまえば、そういうものなのだが、

人というのは、
得てして自分の『罪』や『恥』に関すること-極めて不名誉で、
それを自分が行ったと認めることに抵抗を覚えること・・・は、
ふつう思い出したくないものだし、
出来ればなかったことにしたいとも願う。

過去の自分が、恥辱まみれの汚職役人だとか、
残虐で非道な悪人だったなんてことは、あって欲しくないことだと、
今もなお、悪人の魂を宿していない限りには、
それを誇りとは思わないものだから。

その心の反作用が、
加害者である自分の立場を被害者側であったように入れ替えてしまい、
犠牲者として相手を憎むような感情を作ってしまうことも希にある。

もしくはもっと深い罪を犯しているのに、
おのがしたことを軽減させて、心の重荷を軽くしている場合も。

また、実際は大したことがない出来事なのに、
とても大きなダメージを受けたと・・・
破滅的で嗜虐的な情緒的反応の結果、
自己憐憫に彩られた、
悲劇のヒロインとしての『記憶』を作り上げていたりとか。

乖離性人格障害(俗にいう多重人格)が生まれる背景に、
児童虐待や性的虐待の経験が作用していることが多くて、
その辛い状況や体験からおのが心を守るために、
別の人格を作り上げて、安全なところから物事を眺めようとしたり、
『記憶』の摩り替えが起こすようなことがあるなど、
物語には多いが現実としては稀有な記憶喪失という現象もそう。

人は自分の心を守るために、
意図的というよりは、無意識的に防衛本能から、
記憶を操作する生き物であったりする。

しかし、
心と人格の崩壊を防ぐために行われる記憶の摩り替えは、
ジャッジされるべきことではないだろう。



そのように『記憶』とは、当人がどのようにその出来事を・・・
自分の身に起きたことや自分自身の人生を記録したか、
だけなのであって、
必ずしも『現実に起きたこと』とは限らないのだ。

人の記憶ほど、不確かで、アテにならないものはない。


『過去生リーディング』をするときは、たいていの人が
当人のエーテル・センターに記録された情報を読むのだが、
ここに保存されているのは、そのような『当人側の記録』である。

それ以外には、一般にアカシックレコードと呼ばれる、
宇宙の書庫(戸籍や公文記録の保管所)のようなレコード
つまりは巨大なグループエレメンタルを読むか、のいずれか。
アカシックも書き換えの出来ないオリジナルと、
書き換えや上書き可能な、常に更新されているものがあるわけで、
(ここは個人の書庫たるディスクすなわちエーテル・センターと
リンクする場所でもある)

何処を、どの情報を読むか、ということで、内容に差異が出てくる。


※アカシックレコードを読むとき、たいがい
オリジナルではなく、書き換え可能なほうにアクセスすることになる。
でないと、ヒプノセラピーや過去を扱ったヒーリングなどをするとき、
辛い記憶や過去生の傷を解放したりすることが不可能であるから。
オリジナルにアクセスすることの許可を得ている人は、
ほとんどいないと言っていい。
厳重に保管されている場所といったところか。


しかし、個人が蓄えている情報・・・その人の『記憶』が、
史実として正確であるか否か、というのは、あまり問題ではない。
その記憶が間違った記録であったとしても、
脚色されたり、歪められたり、無から創られたものであっても、
その人がそれを自分の『記憶』として所有しているのには変わりなく、
判断するべきは、その『記憶』が、
その人自身や人生や、周囲の人々や諸問題に害を与えているか否か、
・・・なのだから。

事実を把握することが、セラピストのするべきことではない。

問題は、その『記憶』として創られたデータが、
本人の人格形成や人生の構築に、良くない影響を与えているかどうか。

そこだけを判断すべきだ。

もちろん、誤った記憶がある場合、
それが当人の心の成長を阻害していたり、
現実認識力がないとか、物事を直視できないとかの
激しい人格的欠陥が故に・・・
間違った現実を作り出し続けている場合には、
そのような心根の誤りをこそ、正していくように導かなければならない。
大本にある心や考え方の間違いをこそ、
気づくように促していくという意味で。

過去生にしても、今リアルに生きている日常にしても、
それがほんの数時間前のことでも、数日前、数年前のことでも、
おぼつかない幼少期の頃にしても、

『記憶』とは、その人が創るものにほかならない。

すべては感情の反応としての結果として。

プリズムとしての感情を通し、人はそこに色をつける。

色のつけ方は様々。

感情がどのような状態であるかで、プリズムが映し出す色は異なる。

否定的にとるか、肯定的にとるか・・・

事実をどのように取るか、である。

事実を歪ませるのも、斜めにさせるのも、ありのままに映すのも、
プリズム次第だったりする。

だから、本当のことなんて、わからない。

何が本当だったのかを問題にしても仕方ない。

けれども、その人の中に、
そのような「感情」や『記録された情報』があることだけは事実だ。



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さて、話代わって・・・


セッションやセラピーにおいて、
いまその人の問題として現れている事象に影響を与えている、
過去生の情報を紐解いていくなどするとき、

「私は、どれだけ辛くて悲しい人生ばかり、生きてきたんですか?」
「私の過去生には、幸せな人生はひとつもないんですか?」

などと、質問されることが多々ある。


言えていることは、
人は・・・楽しいことよりも、
悲しいことや辛いことのほうを多く覚えている生き物だということだ。

そして、平凡で起伏のない人生より、
刺激的で変化に富んだ、喜怒哀楽をたくさん感じた人生のほうが、
印象に残りやすい、というのもある。

何不自由のない暮らしをしていて、
どんなに幸せで、満ち足りた日常でも、
何か悲しいことがあると、人はそのことで頭がいっぱいになり、
悩みで支配されて、ひとつ上手くいかないことがあっただけで、
自分の人生を悲劇的なものだと感じることも出来たりする。

楽しいことも嬉しいことも、たくさん味わえているというのに、
たったひとつの哀しみで、なぜこんな目に、と天を恨んだりもする。

人ってそういうものだ。

だから、喜びを感じる出来事より、
痛みを感じる出来事のほうが、より深く心に刻まれ、
インパクトの強い出来事として、『記憶』に残ってしまう。

それが故に、
現在の人格にトラウマとして影響を与えることになり、
そのためのセラピーにおいて、過去生を扱うとき、
哀しみや痛みを感じて、トラウマになった人生ばかり、
出てきてしまうのである。優先順位の上位として・・・


それにまあ、
私たちは色んなことを経験せねばならず、
たくさんの喜怒哀楽を知って、感情を豊かにしていかなければならない。
人として成長し、力をつけていくためには、
「痛み」を感じることは避けては通れない道なのである。

何故なら、人は「痛み」を通してしか、学ぶことができない生き物だから。
(痛みを感じないで学ぶ方法もあることはあるのだけど・・)


そういうわけで、解決しなければならない過去を取り扱うとき、
それは成仏していない自分との対話であり、
未消化な感情や、癒えていない傷と向き合うことであるから、
ハッピーエンドで、満ち足りた人生を語られることを期待しても・・・

ということだ。


けれども、過去生の情報は、
その人のエゴイズムを満足させるために開示すべきではない
ということも言っておく。


※ちなみにタイトルは、ある著書のタイトルより、まま。

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