2015/11/05

大事なのは現実、築くべきものは未来

タイトルは別にしちゃったけど、以前書いたコラム、
「過去生セラピー:前世を知るということ①②」の続きになるかしら。


当然のことながら、
私たちは明日という未来に向かって、今という現実を生きている。

過ぎた日を振り返り、そこから反省と内省を繰り返して、
気付きと学びを得るなど、過去を教訓とすることは大切だけれども。
過去はもう終わったことに過ぎないので。

大事なのは、「いま」を生きることであり、「未来」を創造することだ。


私の提供するサービスというか、ヒーリングセッションのうち、
過去生リーディングおよびそれに伴うセラピーは、
その大部分というか、主要なパートを占めるものであるけれども、

以前の記事、にもあれこれ書いたように、
過去生というのは、現実逃避をするための材料として知る情報ではないし、
「過去」に責任を擦り付け、それを言い訳にするために知るべきことではない。

私が他者の過去生をリーディングし、
その情報をクライアントに提示することをセッションに取り入れるのは、
そこにクライアントの、
何処から派生しているのか分からない感情や情緒的反応および、
原因のわからない行動パターンに「意味づけ」をするためでもあり、
その起源を説明するためのひとつの手段であるから。



さて・・・
過去で関係のあった人、ご縁のあった人々と、
私たちはしばしば再会することがある。
過去生で、夫婦だったり、親だったり、子だったり、兄弟姉妹だったり、
友人だったり、単なる隣人だったり、
時に、敵味方・・・自分に危害を加えた(強盗や殺人も含む)相手だったり、
その逆であったり。


しかし、過去にいかような関係であったとしても、
この広い世の中で、星の数ほどいる人の中で、
再会できたことは確かに奇跡で、貴重な巡り合わせではあるけれど。

そこに天のはからいを感じたり、
運命を信じる気持ちが生まれるは良いとして、
過去の関係が「すべて」ではないことを忘れてはいけない。

ときにそれを「ソウルメイト」と呼んで、
何か特別な絆のように大切にする人がいるのは知ってる。
それが悪いこととは言わない。
決して、それを否定するわけではないけれど。

過去の縁ある人たちと、初めての出逢いの瞬間があったように、
今生の人生で、初めて出逢う人の中にも、
特別とも言えるその瞬間が、
いつだって可能性として隠れているのだから。

すべては、「一期一会」

過去の出会い、関係だけが特別なのではない。

今の人生でも、その人が成長していくごとに、
必要とする環境が変わり、
求めるものや嗜好が変わるにあわせて、
友達関係が変わっていくように・・・

人はいつまでも一箇所のところに縛られて生きる存在じゃない。


過去はあくまで過去であるのだから、
その出逢いに特別なものを感じたとしても、
それぞれ新しく生まれ変わって、
別の人間として、目的を持って「現在」を生きているのだから、
その出逢いを考えるときに、
新しい人間関係として、新しい絆を築いていかなければならない。


かつて親子だった者同士が、
もう一度、親子としての学びを
この人生でやり直さなければならないのだとしたら、
おそらく親子あるいはそれに近い関係性に生まれているだろうし、
血のつながりが必要ならば、そういうところに生れ落ちていたはずだ。

夫婦だとしてもそうだろう。
結婚や恋愛のできる可能性のある性別や年齢に生まれ、
そのようなポジションに生まれることを選んでいたろう。


でも、そうでないのは、今の人生では、
お互いに対して、その役割をする必要性がないからだ。

あるいは、もっと後の別の人生で、
その機会を与えられる予定になっているのかも知れない。

他人として出会った以上、
他人として、今の自分として関わりあっていくべきだし、
今の人生を生きる上で、
互いの必要性の中で構築していくべき人間関係なのだ。

過去に親子の関係だったからって、無理に愛する必要もないし、
相手に義理や恩を感じて、不自然な形の「しばり」を作ることはよくない。
また、過去に自分にとって、敵や加害者であった人だからって、
その責めを負わせていいものでもない。

過去の関係性を考慮する必要なんか、
するべき理由なんか、何処にもない。

ただ、相手に対する「理由なき感情」が、
何処から来ているものであるのかを知ったのなら、それでいい。

「なるほど、だから私はあの人が苦手なんだな」
「だから、初対面からとても懐かしくて、親愛の情が湧いたんだ」
「私があの人に対して、やたら反抗的で突っかかってしまうのは、
 その感情があるからなんだな」

それで済ませれば。


過去の情報は、自分を赦し、相手を赦し、
出口のない感情を許容するため、
自分の感情に説明をつけるために利用して、
自分を納得させるための材料にしなければならない。

そう、あくまで感情を整理するための方法。

少なくとも、癒しというプロセスにおいては。


つまりは・・・過去生の人間関係というのは、
「おままごと」をするための、配役を決めるソースじゃないよ、ってこと。


過去を思い出すことは・・・
過去生のことを語り合ったり、話すことは悪いことではないけれど。

そりゃ、私たちだって、子供時代や学生時代の想い出話はするし、
昔を懐かしがって、楽しかった頃に戻りたいとか、
過去をやり直したいと願ったりすることは多々ある。

たまにはそういうのもいいだろう。

過去を振り返ることも、いまと比較することで、
新しい発見もあるだろうから。
過去の足跡の中に、その時気付けずに見過ごしてきたことや
今を生きるヒントを見つけることが出来るなど、
学びを見つけることも出来るわけで。

でも、後ろばかり向いていても仕方ない。

大事なのは、今をどう生きるかということ。

いまこの時代に、この瞬間を生きている自分のこと。
毎日のことに対処して、人間力をつけて、自分を日々育てていくこと。


過去生を知ることで、過去生の情報にとらわれることで、
現実の生活がおろそかになるようなことがあってはならない。
過去生を知ることが、
いまを生きるその人の、人間的成長を妨げるようなことになったり、
必要な経験を得るための機会を
邪魔をするようなことであってはならない。

それは、スピリチュアルなことを知ったり、
霊的なことを学ぶことにも当てはまることで、まんま同じこと。

霊的な知識を得たり、霊的真理を勉強したり、
スピリチュアルな学びを得ることが、現実を軽視したり、
日々の生活からの逃避になってしまったり、
現実の関係をおろそかにすることであってはならない。

私たちが何よりも優先しなければいけないことは、
今現在、目の前にある課題に自分なりに取り組むということだけ。
日々の生活を生きるということ以外に大切な魂の修養はない。

この物質的社会で経験すること以上の学びは何処にもなく、
すべては物理的な次元で表現されるべきなのだから。

人生の学校は、すべてこの世と言われる地上の世界にある。
この世で学べること以上の学びは、
あの世と言われる霊界にも、神の世にも、存在しない。

私たちは物質的社会、この物理的次元の世界でしか、
成長し、魂の研鑽を図ることが出来ない存在なのだから。

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