2015/11/05

過去生セラピー(前世療法) 前世を知るということ②

忘れてしまった過去・・・
失ってしまった記憶を思い出すということは、
「知る」だけなら、まったく意味がないことですよ、と
それは何度も繰り返してきたとおり。

肝心なのは、何のために、それを知ろうとするのか。

過去と向き合うことは自分自身と向き合うこと。

「過去」に自分が犯してきた罪や愚かな過ちや、
いまなお自分を苦しめている傷の原因を、
それらを解決すべき問題として捕らえ、
正面から向き合って、受け止める気持ちを持つか否か。

動機ひとつ如何で、
アクセスできるデータベースの質も、領域も、
その情報の活かし方も異なってきてしまう。

過去生を知ることは、
いま自分の人生が上手くいっていない理由や
自分の性格の問題点やトラブルの原因を
過去のせいにして、自分が取るべき責任から逃れることではない。
現在の不幸から逃避するための、妄想ツールでもない。

前向きに生きるために、
未来へと歩いていく道の上に、置いてしまった障害物が何であるのか、
何故それが置かれてしまったのか、それについて考えたることであり、
その障害物を取り除くための努力の、ひとつの形だと思う。

そして、自分の歴史を知ること。
自分がどのような経験を重ねてきたのか、
血脈とは異なる、自分という人間の起源(ルーツ)を知ることでもある。
自分の弱点(問題点)、思考のクセ、行動パターンなど、
現在与えられている環境や教育からは、考えられない、
何故自分はこのような感じ方、反応をしてしまうのか?
といった疑問に対する、「答え」とも言える符合を見つけられる方法とも。


ようするに、
単純に「昔の自分はどんなんだったのかしら?」と、
好奇心から知りたがるのだったら、意味のないことだけれど、
そこにしっかりとした「動機」があれば、
その動機に比例した情報を得ることが出来るだろうということ。

ただし、どんなことも知るべき時期というのがある。
その人がその情報を受け取る十分な準備が出来ていない場合には、
過去の扉は開かない。


何故、キリスト(教)は過去生という概念を切り捨てたのかというと、
いまを生きることが何よりも大切で、
過去を振り返り、過ちを思い出し、記憶を引きずっていきるよりも、
未来を創造していくことのほうが重要だということを
しっかりと人々に認識して欲しかったから。
人に「死」はなく、繰り返し生きるにしても、その人生はたった一度きりで、
誰もがその一度きりの人生を、精一杯生きるべきだという考えがあるから。


その、いまというたった一度の人生を実り多く生きるために、
過去と向きあおうとするならば、
過去を知ることはその人にとっては、よりよい未来を創造するための、
有意義なツールとなるだろう。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



なんか、その手の仕事をしている人間なクセに、
否定的なことばかり言っているかしら?

実際、過去生の情報は「取り扱い注意」項目だと思っています。

もちろん、過去の情報を伝えたりすることで
クライアントさんの心が癒されるケースはそれなりにあるので、
無意味なことだとは思っていないし、
前世療法もヒプノも有意義なことだと考えています。



そうですね・・・過去を知る利点を判りやすい例え話で考えてみます。


朝起きて、胸にとてつもない激痛が走ったとします。

「何だろう? この痛みは?」

その原因がわからないと、人は不安に陥ったりします。

心臓病? なんだろう? 自分は死んでしまうのだろうか?・・・とか、
あれこれと想像や、とんでもない妄想がよぎったりして。

でも、その痛みの原因が、夕べお酒に酔って帰宅したときに、
転んでテーブルの角にぶつけただけだと思い出せたりなんかしたら、

「あ、なーんだ・・・それでは痛いはずだ。」と不安は安心に変わる。
痛みに対する処置としては、湿布でも貼っておこうとなって、
それでも痛みがラクにならなければ、整形外科にでも行っておくか、
という話になる。


過去を思い出すということは、そういうことでもあると思う。


さて、人の意識の80%は眠っていて、
それは使われていない脳の領域がごとく、
普段私たちは意識して
それらを取り出すことが出来ない(単に忘れているだけ)。

これらは、無意識とも潜在意識とも言い、
通常は忘れていて、埋もれている記憶であるのにも関わらず、
私たちを裏から操っていたりする。

この潜在意識とは、過去の経験であり、それらの蓄積データだ。
私はこれを記憶のアーカイブ(倉庫とも書庫とも)と呼んでいたりする。

人は、「いま」を判断するとき、
過去の出来事をして、判断する生き物だ。

目の前にある事物を選択するとき、
過去、それを選択してどのようなことが起こったのか、
それによって、どのような経験が
プログラミングされることになったのか・・・
それは痛い経験か、心地よい体験であったのか、
そこで判断する。

人は痛みと快楽と、そのふたつですべてを判断する。
まるでコンピューターの二進法のようだ。
複雑なようで、意外に単純。

例えば、自分の職場やクラスに
昔、自分に対して嫌がらせをしたりするなど、
思い出したくない苦痛を強いたある人物と同じ名前、
あるいはそっくりな顔をした人物が転職してきたとする。

その不快な経験をクリアして、相手に対する感情を昇華できていれば、
同じ名前(そっくりな顔)をした人を目の前にしても、
「同じ名前か・・・」とか
「顔が似ているなあ」程度の反応でスルーできるだろう。

でも、思い出したくない出来事・・・トラウマ(恐怖)として残っていた場合、
その名前を聞いただけで、あるいはその顔を見ただけで、
感情は簡単にフラッシュバックしてしまう可能性が高い。
それだけならまだいいが、
同じ名前のその人、顔が似ているその人に対して不快感を持ってしまい、
相手の人格と関係無しに、
付き合う以前から相手のことを嫌いになってしまったり、
避けてしまったり、性格が悪い人に違いないなどと
先入観を持ってしまったり、
そのような経験的反応をしてしまう可能性がある。

そうした事情を知らない相手からすると、
理由もなく相手に嫌われたり、避けられたり、レッテルを貼られたりで、
自分に対して不自然な態度を取る相手を、
今度はその人側から嫌ってしまうことにもなるだろう。
もしかしたら、とても気の合う友人になれたかも知れないのに。

こうした例のように、過去の出来事から立ち直れてないことが、
人間関係にひずみをもたらすことを、
時として私たちは多々経験していたりする。

潜在意識という書庫・・・過去生を含む、記憶のアーカイブの
「お掃除」をすることは、上記のような、
余計な経験、邪魔な記憶を処理することにも通じる。

これは過去生だけに限ったことでなく、
今の人生で、蓄えてしまったすべての不必要な価値観、
邪魔な行動パターン、感情的反応に起因している悪しき記憶も含めて。
過去だけにスポットを与えても意味がないので。

とどのつまりが、
前世療法を有意義な体験に出来るか否かは、
「現在」の人生で表に現れている問題をちゃんと見極めて、
すべてのことを受け止めようと覚悟した上で、
被験者が自分の問題を解決するために、
積極的にヒーリングという行為に参加する場合に限るかも。


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なんか、つらつらとまとまりのないままに、ダラダラ書いていますが・・・。

何でこういうことを書くのかというと、

過去生セラピーに過大な期待を抱きすぎる人がいることとか、
(過去を知れば、何でも解決?みたいな)
過去生を視れる人を「すごい人」と勘違いしている人がいたりとか、
このブログに書いてある体験談を読むことで、
過去生を知ることはものすごくロマンティックでドラマティックなことだと、
映画やドラマに対する娯楽性を求めるのと同じように、
自らの過去の物語を捕らえてしまう人がたまーにいたりするので、
前世療法って、そういうことではないですよ・・・と。

漫画や映画や小説やドラマなどの、フィクションの世界を楽しむことは、
面白いことだし、全然OKなことですが、
過去生を知ることは、そうしたお話を楽しむこととは全くベツですので。

そのようなことと同次元で捕らえてしまうのは、
はっきりいって好ましいことではないです。

また、「過去」にばかり目を向けてしまうのは、良くないことですのでね。


※途中で追記したり、
修正するかも知れないな・・・しないかも知れないけど。

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