自分の前世や他人の過去生が判る・・・
というのは、たいした能力ではありません。
そういうのはトレーニング次第で視れるようにもなるものだし、
トレーニングして視れるようになったからにしても、
生まれつき備わっていたにしても、いずれのケースも
そんなのは特別なことでも何でもないのです。
「だからどうした?」ってことです。
前世の記憶があったって、他人の過去生がわかったって、
そんなのは特別な人である「あかし」でもなんでもない。
人より早く走れるとか、IQが標準より高いとか、
一分間でジャガイモ三個皮を剥けるとか、絵が上手いとか、
そういう特技と同じです。
霊的な能力や他人の過去生をかいま視る能力を持った人物を
時に、特別な能力を持った人であるかのように
一種の憧れにも似た、羨望の目で見る人がいます。
(得てしてクレイジーな人に思われることのほうが多いのですが)
数としては少ないと思うんですけどね。
そういうのは正直、鬱陶しいです。
そうした「特技」を持つことを「認める」という見解なら、良いのですが。
得てして、そのような見方をする人は、
他人に「何か」を期待する傾向にあったりするからです。
こういう人の心理は、宗教などに救いを求め、
何かに依存する傾向と共通するものがあるようです。
そうですね・・・占いの仕事をしていたときに実に多かったですね。
「間違えたくない」から、正しい方向に導いてくれる人を求める。
つまりはマニュアルを求める心理。
「私にとって、何が幸せでしょうか」
「どうすれば私は幸せになれますか?」
「どちらの道が私にとって、良いですか?正しい道ですか」
「私はどうすればいいですか?」
「私にとって、何が良くて、何が悪いんでしょうか?」
こんな質問は、少なくないです。
占い師時代のほうが多かったですが。
こういうのって、
他人の決めたレールに従いなさいって
教育を施されたゆえの悲劇でもあるかと。
ある意味ではこういう人々は、アダルトチルドレンとも言えますが。
「間違えてはいけない」っていう思い込みが潜在的にあるからでしょうね。
「間違える」ことが皆の恐怖になってる。
別に「間違えた」っていいのに・・・。
「間違えない」と判らないことはたくさんあって、
間違えたからといって、それですべてが終わるわけでもないのに。
この手の思い込みは日本人独特のものかも知れないですね。
皆、周囲が求める、「良い子」であろうとする。
自分がどうしたいか、何をしたいのか・・・ということについては
日本人はずいぶんと長い間、ほとんど考えることをしないできた。
自分の要求を満たすことよりも、他人の要求に応えること、
周囲を満足させ、その期待に応えられないことは「悪」だと・・・
そして、他人のリクエストを聞いてばかりで、
自分の心の声を無視してきたから、
いざ、自分で考えなければいけないというときに、
考えることができなくなる。
自分が何が好きで、何が嫌いで、何をしたくて、何をしたくなくて、
どうすれば自分が居心地がよくて、
何をしないと後悔することになるのか、誰といたいのか、
周囲にいる誰が自分のことを一番思ってくれているのか、
本当に自分が大切にしたい世界、自分に似合う色、
自分の体に良い食べ物、自分の顔や体のキレイなところ、
それらを魅力的に見せる化粧や服
何をしないと息がつまってしまって、
何をすると楽しくて幸せになれるのか・・・
自分のことなのに、自分のことをよく分かっていない人は多いです。
こういうのを「心の味覚障害」と言えるかも。
自分の人生なのに、脇役に回ってしまって、
他人に脚本書かせて、
誰かを犠牲にしたり、差別をしてはいけないといいつつ、
他の誰でもない、自分の心と体を犠牲にして、
自分自身の人生の中で自分を差別して生きてる。
そういう人は、他人に決めて欲しがるんです。
あっという間に、迷いの森に入ってしまって。
「迷う」ことは悪いことではないし、不安になったり、
これでいいものか・・・と、熟考したり、
他人の客観的なアドバイスを得ようとすることは悪いことではない。
とくに心の力を無くしかけたときには。
心にも筋肉みたいなものがあるから、鍛えないと衰えてしまうし、
心が弱ったときには助けもリハビリも必要だったりする。
でも、日本人は、心の筋肉を鍛える機会を、
社会構造の中で得ることがないままに、大人になってしまう人が圧倒的。
自我が上手く育っていないというか、
自分の意見を持つことがよしとされていない風潮の中で
考える力(思考や発想の応用力)が本当に未熟で、
心が抑圧されて、殺されてしまっている人ばかり。
だから、地位や名誉(学歴とか勤務先)で他人に評価されたり、
親や周囲の期待を裏切らないことが、
自分の正しいポジションだと・・・
それがノルマみたいになってるんでしょう。
そうすれば、安全でいられると。
ある意味では、自分で考えないことはラクですからね。
それは自分で自分の人生に責任を取らないことをも意味する。
誰かに決めてもらうのは、確かに楽なことかも知れない。
でも、考える力を養わないと、いつまで経っても、
自分を幸せにすることは出来ないんですけどね。
いつまでも脇役のまま、主役で人生を生きられず、
心を取り残したまま、満たされぬまま、嘘と虚飾の人生で
他人の道具としてしか生きられない。
おっと、話がずいぶん脱線してしまいました。
そうそう、前世のことでしたね<タイトルテーマ
まとまりがないけど、とりあえずテーマに戻ります。
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前世(過去生)が本当にあるのか?
という議論はさておき、それが「ある」と仮定しての話。
といいつつ・・・
「ある」としても、過去はしょせん過去でしかないんです。
人間は、未来に向かって生きている。
いま現在が一番大切で、「いま」を確実に生きないことには、
人生は意味がないんです。
そして、
過去も現在も未来も、ひとつに引かれた延長線の一点に過ぎず、
その一点だけ切り取って、すべてを語れるものでもないです。
過去を振り返って、そこから反省と教訓を得ることは大切。
過去と言う経験を積み重ねて、人はいまを生きている。
そして、未来はこれから行く場所であり、
未来に進むことで、現在は過去になり、未来もまた過去になっていく。
人生とは時間の積み重ね。
経験を蓄積することで、人は自分を日々育てている。
私たちは過去を滋養にして、成り立っている。
過去とはそういうもの。
現在に至るまでに歩いた道であり、
いまここにいる「自分」という存在を創り上げてきた時間と経験。
今の名前を持つ存在として、この世に生まれ、
赤子として親という名の人々に養育され、
子供として、成人として生きた人生の出来事となんら変わらない。
短くも長くもある月日には、数々の喜怒哀楽があり、
人としての過ちも愚かな行為も重ねてきて、
良いこともして、友情も築き、恋もして、
失敗や挫折や怠慢や裏切りや、いろんな痛みも思いも味わって
年を重ねるごとに柔軟になったり、逆に頑なになったり・・・
喜びや達成感を味わったり、人に感謝したり、
欲望の虜になったり、人を恨んだり、妬んだり、
好きになったり嫌いになったり、むなしさを覚えたり、死にたくなったり、
生きることに執着したり・・・人それぞれドラマを生きる。
この人生での過去・・・例えば子供時代とか、学生時代とか
そんな時期に環境的なものとか、教育とか、
植えつけられた価値観がその人を支配したり、
人格形成に大きな影響を与えたり、
心の傷がトラウマとなって、その後の人生に問題をもたらしたりとか
そういうのはよくあること。
たった一度の恋愛のダメージで、
その後の恋愛観がおかしくなる人もいるわけで。
大人になってからのPTSD体験で苦しめられる人もいるし。
でも、得てして、あまり昔のこと・・・
幼年時代のことなんて、徐々に忘れてしまい、
そんな昔の出来事で自分が苦しんでいるなんて、気づかない人も多い。
記憶を埋没させてしまった人は、
自分が何故、そんな「傷」を抱えているのか、
自分の問題行動、思考のクセ、繰り返すパターンの意味がわからない。
それが自分の人生を邪魔していると気づければ、だけれども。
覚えている人はまだいい。
でも、覚えてても、向き合うのは難しいこと。
まして、過去生なんて、
ほとんどの人が覚えていない記憶だから、なおさら。
そういう意味では、現在の人生には存在しない原因を探るには
過去生セラピー(前世療法)は意義がある。
でも、ただ過去を思い出したり、過去のことを知るだけなら、
それは何の意味もないことだ。
忘れている(覚えていない)・・・ということにも意味があるので。
記憶喪失が、「忘れてしまいたい」という
強い要求のもとにしばし発生するように、
人が過去の記憶を埋没させるには、
そうした、パンドラの蓋を開けたくないという気持ち
何もかも忘れて、真っ白な状態で人生をやり直したいという想いが
あってのことばかりだから。
だから、「過去」と向き合うには相当の覚悟がいるし、
何かちゃんとした理由がそこにあって、それに臨むべきなんだと思う。
いたずらに、理由もなしに、
自分の「過去」をほじくるのは止めたほうがいい。
自分の精神がそれに耐えられるようになってから、
いろんなことを受け止められるほど成熟して、強くなってから・・・
そう・・・
時期がくれば、イヤでも思い出すことになるし、
それは自然な形で訪れるだろうから。
心の重荷を軽くして、自分の心の筋肉を鍛えて、成長するために・・・
自らの問題行動とかネガティブな行動パターンとか、思いグセとか、
知らず知らずに背負いこんでいる不要な荷物とか、
そうしたものを捨てるためだったり、自分をラクにしてあげるために
過去と向き合おうとするのなら、
そうした情報はその人にとっては不利益にならず、
自らの「癒し」に繋がるのだろうけど。
好奇心だけで、過去の自分の姿を知りたがるのなら、
封印した過去の扉は開けずにしたほうがいい。
前世療法すなわち過去生セラピーというのは、
「あなたは昔、お姫様でした」
なんてことを知るための場ではない。
自分の辛い過去をもう一度、経験を通して解放する作業だし、
現在の自分が、過去の自分を赦したり、
癒したり、受け止める場でもある。
過去には幸福も善行もあったかも知れないが、
同時に罪も過ちも存在している。
いまの人生を振り返ったときに後悔するときがあるように。
その時には、それが正しいと信じていたことでも、
年を取り、時間が過ぎてから、いろんなことの意味を知るように・・・
いまを生きる自分だからこそ、過去の自分のしたことを恥と思い、
赦せないと思うこともあるのだと、知って欲しい。
それだけでなく、そんなことがあったことなぞ、
忘れたいと・・・記憶喪失になって、
なかったことにしたいという出来事も
体験している可能性もあるということ。
過去の自分がもう一度引っ張り出されることで、
傷つくのは誰よりもあなた自身かも知れないのだということを。
例えば、自分が犯罪被害者だったり、逆に加害者だったり。
加害者だったときの被害者が家族や友人の中にいるかも知れない。
いま手の中にいる赤子が、
自分をレイプして殺した相手だと思い出したとき、
その母はその子を愛せるだろうか?乳をあげられるだろうか?
相手を十分に赦すところまで精神が成熟し、悟れていないのなら、
思い出したことで愛する気持ちを失ってしまうのなら、
忘れたままのほうがいい。
そんな風に忘れていたほうがいいことは世の中にたくさんある。
何事も知るには時期、タイミングというものがあるし。
このブログで書いている、
過去生セラピーのこととか、ワークショップの体験談を読むとき、
小説などのフィクションや物語を読んでいる気持ちになって、
過去を知ることはとてもドラマチックで、退屈な日常に変化をもたらす
好奇心を満たしてくれる体験のようなものに思えるかもしれない。
でも、そういう気持ちでいるなら、
過去を知りたがるのはやめたほうがいい。
それが動機なら、たぶん、過去は何もあなたに告げないだろう。
大事なのは、未来に進んでいくこと。
いまという人生をしっかりと生きること。
より良い未来を生きていくために、
自分らしい人生を生きるための道標として、
過去と向き合って、何かを手放す必要がある人にのみ、
過去は、誰かのサポートをして、語り始めるだろう。
そのような場合にのみ、
過去生セラピーというのを生かすことが出来る。
ようは、情報ってのは、役に立つか、役に立たないか。
「それを知ってどうするの?」
「それを知ることで、あなたの人生に何がもたらされるの?」
前世なんて、そんなもん・・・なんですよ。
知るだけだったら、何の意味のないこと、知る必要もないこと・・・です。
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