2015/11/03

基礎講座とグループレッスンの違い

さて、
私は個人セッションで個人の方の相談に乗る以外に、
レイキとかのティーチャーとしてアチューンメント(霊授)をして、
ハンドヒーリングの指導をしたりもしてまして・・・

それ以外では、
生徒さんたちにサイコセラピーのテクニックや
「スピリチュアル(霊的)な知識」を教えたりするのが、
現在のライフワークだったりします。メインの仕事といってもいい。

単発の瞑想会やセミナーなどは以前よくやってましたが、
今は余裕がないのでほとんどやってません。
アロマテラピーやハーブ療法とかタロットとか占星学とか、
コラージュとか夢をかなえるワークショップとかとか、
そういう浮かれたフワフワっぽいのもやったりしたかしら。
準備が大変だったりするので今はちょっとっっっ



で、スピリチュリズム基礎講座という半年間の講座と
グループレッスン(一年間ごとに更新制)を開催していますが、
この2つの何が違うかというと、
スピリチュリズム基礎講座では、
基本的な知識と簡単かつ基礎的なエクササイズ・・・だけ。

結構知識の詰め込みなので、半年では無謀かなあと、
最近思ったりします。他所では一年間で教える内容だし。
けれども、そうすると料金を上げざるを得ない。
出来れば低価格に抑えておきたいし、
この初期の段階でモチベーション一年間保つのって、
難しいと思うので、半年がベストなのかなあ、と。


正直言って、
学びの本番は、グループレッスンから、といっても過言でないです。
基礎講座で教えたことが役に立つのは。

基礎講座で半年通って学んでくれたからといって、
それで教わったことをすぐに実地で使えるようにはならないんです。
習った知識を咀嚼して理解して、実生活(日常)で経験しながら、
「ああそういうことか・・・」とようやくその折々で、
知識として耳にしていたこと、学んだことを腑に落とすことになる。

基礎講座で教えたことが知識の土台にあってこそ、なんですね。


グループレッスンというのは、仲間との学び。
年齢も職業も背景も、霊的レベルも素養も異なる人同士が、
協調性を持って、共通の課題に取り組み、
助け合ったり、意見を交換したり、問題を話し合ったり、
仲良くするべく歩み寄ったり、交わること自体が大きな学びで・・・
互いに写し鏡になったり、共感したり、指摘しあったり、
相手の問題を自分の問題として置き換えて考えたり、
互いの感じ方や考え方の違いを感じたり、
出来る人と出来ない自分を比較したり、葛藤したり、
時に自らのエゴイズムを刺激されつつ、そこと向き合ったり、
傲慢さ、エゴイズム、ナルシズムに気付かせてもらったり・・・

また、他の人たちとは出来ない話が出来るという仲間意識とか
助け合うべき仲間としての兄弟姉妹愛を育んだり・・・など等。

一人で学んでいては気付けないこと、
出来ない経験が出来るのが大きいところで、
スピリチュアルやサイキカルな能力を磨くときには、
グループレッスンが最適であり、早道なんですね。
一人ではなく、グループで成長していくので。
お互いがお互いの先生であり生徒であり、
すべての人が教える側であり、教わる立場になる。

先生としての私は確かにいるけど、この場合、
私も参加者であり、仲間の一人で、
コーチやトレーナーとしてナビゲートはしても、
決してマスターではないんですね。
(お金はもらってますけど)
御題は出すけど、学びを見つけていくのは参加者自身。

そんな感じです。

このグループレッスンに至るには、事前知識が必要で、
その事前知識、基礎の土台が「基礎講座」に当たります。

ダイレクトにグループレッスンからスタートする方法もあるけど、
やはり難しい。その前に言葉だけでも聞いておかないと、だし。


とはいっても、基礎講座で学んだからには、
グループレッスンに参加しなければならない。
・・・なんてことはないです。

基礎講座は基礎講座として、
スピリチュアリズムの成り立ちや多次元のしくみとか、
古代から伝えられてきた霊的知識(真理の教え)とか、
基本的なエネルギーのトレーニング(氣を高める方法、
瞑想、呼吸法、霊的エクササイズ)とかも伝えますので、
基礎の基礎、入り口たる入門編としてそれで確立してるし、
障り程度よりはもう少し深くまで話しているから、
この後、同じような何か・・・別のことを学ぶにも役立つと思います。

何か他の知識を理解するときにもね。

だから、ここで十分って人もいるわけで、それはそれ。

そこから先を知りたいとか、
知ったからには・・・という人とか、
霊的成長をしたい、人間力を磨きたい、とか・・・
そんな人向けなのが、グループレッスンかも知れません。
霊能力やサイキックな力を磨きたいとか、
そういう人向けではないし、それが目的ではないのですが、
結果的にはそうなっていますね。

早い話が、互いに了承して運命共同体としての関係を築き、
お互いの、全員の学びに対して責任を持つことになるので、
まあ、確かに秘教的なイニシエーションではあるんです。
(目に見えない先生たちもいますし)
なので、その先を学ぶに許可がおりない(妨害が入る)、
進むことが出来ない人もいます。

正直、基礎講座のときから色々とお試しは始まっているんですけど。
その人の課題(問題)が表面化したりとかね。
私生活にさざなみが起こるというか、エゴイズムが刺激されることが、
たくさん起きてきますよ。心の弱いとこをつつかれてくるというか、
それが浮上してクローズアップれてくるんですね。


いずれにしても、グループレッスンは
サイキック能力よりスピリチュアルな能力を鍛錬する、
それが目的であり、指標であるともいえます。


お陰さまで、スタートしてから三年半、
メンバー変わらず続けてこられていますし、
皆の成長は目覚しいです。

生徒さんのほとんどが霊媒体質で憑依体質だったけど、
今はそれに振り回されることなく、
その個性を良い方向性に使っていけるようになった・・かな?



基礎講座は知識だけ教える・・・のがメインですけど、
グループレッスンでは、
かなり突っ込んだ指摘をすることも多いです。
日常の躾的なこと? 礼儀とかマナーに関するあたり。
性格や態度、考え方のクセに対するツッコミ、とか。
その服装はどうなの~?
もっと似合う服着ようよ、みたいなことも言う。
下手したらイジワルやイジメ?みたいなキッツイことも言いますよ。
その人にとっての痛いこと、いっぱいいっぱい言う。
吊るし上げって非難されても仕方ないかも知れない(笑)


基礎講座でも、多少はそういうこと言ったりします。
個人セッションとは違って、
やはりスピリチュアルな知識を教える、学ぶのは、
ちょっと意識を高く持ってもらう必要もあるし、
厳しい視点で関わる必要性も出てくるからです。
「お試し」がここではどうしても出てきちゃうんですよ。
お試しってイジワルな突っ込みっていうのかな。

高いお金を払って教わりに来ているほうとしては、
たまったもんじゃないかも知れません。
教わりに来ているのに、お金を出している側なのに、
問題指摘されたり、イジワル言われたりするんですから(笑)



こういうのって普通の習い事では考えられないし、
ありえないことですけれども。
まあ、あっちゃいけないんですけどね。



まあ言い訳になっちゃいますけど、
個人セッションとしてのスタンスありき、なんですよね。
一人ひとりの抱えている問題や障害、取り組むべきカルマのレッスン、
今の人生を生きることになった背景(ブループリント、来世計画)、
直すべき欠点や気付くべき事柄とかとか・・・

そういうのを考慮しながら、
指摘して矯正するのも、先生としての私の役目ですから。
(自分のことは棚上げだけど)

なので、先生としての私は、優しくないですよ。
とっても対応とか感じが悪いこと、多々あります。
冷たく突き放すこともあります。感情も出します。
(もとより、人として手本になるような人物ではありませんし)



一人ひとり、今いる段階も霊的レベルも時期が来てることも、
取り組むべき課題もカルマのレッスンも来世計画も違うから、
同じことでもこの人には厳しくて、この人には言わない・・・
なんて差別もある。スパルタも多々する。
やらせることも違ったりするし、教え方も違ったりする。
公平に皆同じにってのは無理。

そこはしょうがないんです。


来世で霊能者やる人と政治家になる人では、
今生での必要な経験とか磨いておくべきとこ、違うから。
(職業は例えです、あくまで)

スクールで生徒さん一人ひとりを見ていくことは、
子育てと同じかな・・・いやさ子育てよりはラクですけどね。

皆よく着いてくれてるなあ・・・って思いますよ。

私、かなーりいい加減な先生ですから(自爆)


とはいうものの、
グループレッスンでやってることはそんな特別なことではないんです。
怪しい儀式めいたこともしてないし、裸になって踊ったりもしない(笑)

エクササイズや呼吸法したり、皆でヒーリングをしたり、
誰かの家族のヒーリングをしたり、
何かの問題を話し合ったり、課題について考えたり、
リアルで起きている事件や過去の事件について考えたり、
感じたり、考えたり、身体を使うっていう、
三つの身体を鍛えることをするだけ。

宿題や個人的な御題も時に出したりする。

そういう何気ない、
特別でないことを継続的に地道に定期的、
あるいは毎日に行うことでしか、
身につかないことってあるものです。
そのような日々の積み重ねの中で、得た知識を使ったり、
教わったことを使ってみたりして、
知識を経験したことで智恵に替えていく、
スタートで学んだことが、「ああ、あれはこれのことなんだ」と、
体で知っていくことになる。
机上の空論が立体的に理解できる瞬間を経て、ですね。


グループレッスンで重要視しているのは・・・
大事なのは、人としてどうあるべきか、を常に考えてもらうこと。

正しく考えること、客観的に物事を見れるようになること。
大局的なものの見方が出来るようになること。
自分についてよく知識を持ち、
自分の考えのクセやエゴイズム(欲望)を知ること。
自分の感情をコントロールできるようになること。
慈悲と慈愛の心を育てていくこと。
他人のことを思いやれる人になること。
決して他人を変えようとは思わないこと。
常識的な感覚を身に付けること、
その上で日常を非日常的な感覚で生きられるようになること。
地に足をしっかりとつけ、何があっても動じず、
揺るがない自分を育てていくこと(自分の芯を創る)。
自己の中心にありながら外側にも意識を同時におくこと。
(内側で感じつつ、外側から自分を観察する習慣を身に付ける)
他人の問題を解決しようとする前に自分の問題を解決すること。
(世界の平和を望むなら、自分の心にまず平和をもたらすこと)
観察して分析する能力、意志力と判断力を磨くこと。
起こっていることをありのまま受け入れること。
考えを疑っても、心は信じること(心は嘘はつかない)。

ポリシーというかモットー、レッスンで心がけていることはそんな感じ。

そして、
何事も自分で経験するまでは信じてはいけない。
聞いたことだけで見てはいないことを鵜呑みにしてはいけない。
誰かの信者になってはいけない。
疑うことも大切で、ただ観察して経過を見ることもすること。
教えの中にある矛盾の中にこそ、真実がある
(その矛盾に気付けたときが真理に近づく第一歩)

また、私のことも信じてはいけない。
私に頼ってはいけない。信頼しても盲信してはならない。
私の教えていることと私という人物は切り離して考えること。
(何故なら私も一人の愚かな人間で過ちも犯すし、
エゴイズムやナルシズムに囚われて堕落する可能性もある)
というのは、最初に皆さんに言ってます。



さて、スピリチュアリズム基礎講座ですが、
テキストの改訂や内容の見直しの必要性も痛感してますが、
(しゃべりも最近へたくそになってきたような気がするから、
話し方、説明の仕方・・・講義の仕方も反省しないと)

死ぬまでに後、何回開催できて、
何人の生徒さんに教えることができるかしら。

グループレッスンは、最初の2年位はしんどいけど、
ある程度のレベルまでいけてるから、ラクなんです。
皆さんが優秀なんで手抜きさせてもらってます(笑)

けど、基礎講座は単純に講義して、話しているだけなのに、
すごく疲れるお仕事なんです。かなーりしんどいです。
全力投球っていうか、消耗するのです。

でも、もっとたくさんの人に教えたいなあ、とも思います。
身に付けてもらって、知ってもらいたい知識でもあります。
そして、自分自身を変えるきっかけにもしてもらいたいし、
自分自身や人生を立て直したり、生き方を改めてもらったり、
望む方向性に軌道修正するための術にして欲しいし、
霊的な事柄やカルマに対する正しい知識を持ってもらって、
早く霊的成長をしてネガティブループや輪廻転生の輪から、
抜け出していくことをしてもらいたいなあ・・・って、切に願います。


とはいうものの、こういうのは需要と供給なんで、
いつまで私のとこに「学びたい」って生徒さんが来てくれるかな・・・
そして教えることをいつまでさせてもらえるのかな・・って、ハイ。

私にとってはとても楽しく、面白く、
皆の変わって行く様を見るのは、悦びのあることです。


して、アストロロジィでの私のホロスコープ(ネイタルチャート)では、
私の太陽はナチュラルハウスの8ハウスに位置しているのですが、
これは、「後生の人々に遺産となるものを遺すこと」
がテーマであると暗喩しているのですね。

それが過去生から培い、
蓄えてきた経験と智恵を現代に伝えること。

たぶんそれなんだと、ライフワークなんだと実感しています。
(お金は。。。ないからなぁ・・・笑)

頑張って、ひとりでも多くの人に、
それが必要な人に、知識(叡智)のバトンを渡していきたいものです。
この人生が終えるまでの、限られた時間の中で。

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